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第T部
イギリス海運の創成期
(前3000−後1400年)

(前3000-後300年)
―主な内容とその特色― 
 この章(3-17ページ)は、前3000年から後300年と区切られている。それは、イギリスが海峡を渡ってきた人々によって、いわば国づくりが始まる。その後、ローマ帝国が進攻してきて、地中海海商圏との接触が始まり、ローマ・ブリテン時代としてローマ帝国が支配され、それが衰退する時期にあたる。 まず、石器時代、イギリス海峡を渡ってきたのは農民であり、それに使った船がカヌーであったことから始める。イギリス海峡やイギリス周辺の海域は危険に満ちており、海路ではなく陸路、帆船ではなく漕ぎ舟が、むしろ有効だったはずと強調する。
  イギリスでは、エジプトよりも古くから板張りボートが作られ、フェニキア人と同じようにボートに石を載せて、イギリス海峡を横断していたと主張し、別段に遅れをとっていたわけでないといいたげである。
  しかし、それ以外のイギリスと地中海の結びつきは、日本と同じように後発国として、先進国のギリシャ、ローマ時代の神話や史実、その時代の航海者の言い伝え、それを記した地理書をあれこれと引用し、それらを用いてイギリスの同時代を説明するしかない。
  時代が下がり、マルセーユは前600年ごろギリシャの交易センターとして建設されるが、そのあいだでの交易を通じて、まさにようやくイギリスに帆装が広がったという。
  しかし、その後もイギリスはさしたることはなく、シーザーの進攻によって、地中海世界に知られるようになったといえるが、その『ガリア戦記』にはどのように描かれているか。それをまとめている。
  その際、シーザーの前に、地中海にはない堅牢な帆船が登場し、それを操るブルターニュ地方のウェネテイ族の勇敢さに戸惑っている様が、長く引用されている。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆石器時代のイギリスの人と船◆
 前3000年ごろ、イギリスには、フランスから農民が家畜を連れてやって来たが、そのときかれ
 らのボートがどのようなものであったかは解っていないが、それは晴天時に有史前の丸木舟風
 カヌーdugout canoe―長さ50フィート、幅5フィートぐらい―を使ったとみるのが、状況にかなってい
 る。
  石器時代、オノ、チョウナ、その他の道具を作るに用いる鋭利なフリントや岩石の交易が行
 われたが、それらの多くはボートづくりに欠かせない道具であった。当時の北アイルランドに起
 源を持つ道具がケント州のシッティングボーンで発見、湖水地方のオノがマン島で発掘、ウェ
 ルズ南部のプレスセリー岩石がはるか北アイルランドのアントリム[ネイ湖のほとり]まで伝播、
 ウェルズのオノが海峡を越えジャージー島[チャンネル諸島の一つ]で発見されている。そうした
 必需品をえるための航海は、そのほとんどが陸地を見ながら行われたので、丸木舟風のカヌ
 ーであっても、その目的を十分に果たしえたはずとする。
  前2000年ごろから、青銅−銅とスズ(錫)の合金−が、東地中海で製造されるようになった。
 そうした工業の結果として、交易は広がりをみせるようになった。銅とスズの鉱石がほぼ同じと
 ころで産出する地方は、ヨーロッパでは非常に限られていた[このスズ交易が、特に強調されて
 いる]。
  イギリスでは、銅は前1700年、青銅は前1500年以後用いられるようになった。それ以前に、
 スズはコーンウォル[イギリス最南部の半島]で発見され、開発されている。その輸送コストを減
 らすため、鉱脈や鉱山のできるだけ近くで溶解され、また地金はインゴットの形で取り引きされ
 るようになった。こうした新しい技法は、イベリアあるいはフランスからイギリスに伝えられたも
 のであった。
◆海の難所は陸路で回避◆
 クレタ島[エーゲ海の南部に位置するギリシャ最大の島]のクノッソスで印章が発掘され、その
 時代が明らかになったことで、ミノア住民が帆の扱いに長けていたことが解った。ミノア文明[前
 30世紀から15世紀にかけて、クレタ島に栄えた古代文明]とミケーネ文明[前15世紀から前12
 世紀にかけてギリシャ本土のミュケナイに栄えた古代文明]のあいだには、極めて密接な関係
 があったことは明白である。ミノア、さらにギリシャ(すぐにフェニキア人がとって変わる)といった
 地中海の水夫が、イベリア半島を回って、その途中、外洋航海しながら、イギリスに来帆してい
 る。それは前1500年以前からあるいは数千年にわたって行われてきた。
  前1500年までに、東地中海の水夫たちは太陽や星を見ながら航海する方法を知っていた
 し、また測鉛や測索がなくとも、測棒あるいは長いさおがあった。航海が、沖合あるいは沿岸
 航法によっていったん達成されてしまえば、フィニステレ岬[スペイン北部]のはるか北にあるウ
 ェサン島[フランス南部ブルターニュ地方の島]に直航しようとする船員にとって、数日間測深し
 なくても、水深100ファゾム[ひろ]を超えても、心配しなかった。しかし、チャンネル諸島そしてイギ
 リス海峡を回航する場合は、いつの時代も測深せざるをえない。
  前1500年ごろ、エジプトの舟は簡単な三角帆でもって、プント[アフリカのソマリアとされる]とい
 う土地まで行っている。その場合、その舟がかなり完成された艤装をしていたとは認めがた
 い。コーンウォルからフィニステレ岬まで行って帰ることは、優勢な西風が吹き終わってしまえ
 ば、帆走することができる。前1500年から前600年かけての青銅器時代を通じて、西ヨーロッパ
 の天候は現代に比べて穏やかであったといわれる。それでも、青銅器時代の航海者はもっぱ
 ら夏季に海外に行くよう努めていた。
  論者の多くは、初期青銅器時代に関してもっぱら帆走だけを取り上げようとする。それが真
 実かどうかは、ありうるかどうかではなく、ありえたかどうかだとする。その当時のものと見られ
 るボートらしい石刻が、ダブリン[アイルランドの首都]近郊や[フランス西部の]ブルターニュで見
 つかっているが、それらがボートだったとしても、帆船だったという証拠はないとして上で、イギ
 リスの海域では漕ぎ舟に注目すべきだという。
  中世の伝説によれば、聖サムソン[イスラエルの大力の士師]がウェルズからブルターニュに
 旅行した際、コーンウォル半島の先端を横切るに当たって、ボートを二輪馬車に乗り換えたと
 いう。それは目新しいやり方でもない。有史前のイギリスへにおける移民の分散から見て、青
 銅器時代、脆弱な舟に乗った航海者が危険な海岸の突端を避け、陸上交通に頼ったことはあ
 りふれたことがらであった。このコーンウォルの横断ルートの発着点はハルン湾とペンザンス
 であった[こうした横断路はいくつもあったという]。
  ……ポルトガルやガリシア[スペイン北西部]からの初期の旅行者は、ロアール川[フランス南
 部に発し、ビスケー湾に注ぐ川]の川筋にそって移動したとみられるが、 [ブルターニュにある]
 ラ岬を回るという冒険をする勇気のあるものはいなかった。初期の航海において、ブルターニ
 ュ、コーンウォルとペンブロークシャーといったところは、沿岸航法にとって大きな障害であった
 といえるとしている。青銅器時代、フランスを縦断するに当たって、河川という便利であるが危
 険を伴う交通路に沿って移動する方が、ビスケー湾を突っ切るよりも安全であったと考えられ
 る。
◆イギリス海峡を横断する板張り舟◆
 青銅器時代のイギリスの船員は丸木舟風のカヌーを操って、その与えられた業務をやり遂
 げていた。ソールスベリー丘原地帯[イギリス南部]に置かれているブルーストーン[青み帯びた
 泥質砂岩、ストーンヘンジのサークル岩などのこと]が、プレスセリー岩石を産出するペンブロ
 ークシャーの山から運ばれてきたのは、紀元前二千年であった。
  当時のイギリスには、車のついている乗り物はなかったので、そのほとんどの行程を水路を
 通じて運ぶしかなかった。それでも、ブリストル海峡[湾]まで来れば、ランズエンド岬を回らず、
 エイポン川を遡ったものとみられる。この輸送に関して、当時のフェニキア人がレバノン杉のい
 かだを漕いで、ソロモン王[紀元前10世紀の栄華を誇ったイスラエルの王]の宮殿に向かった、
 有名なルートであるティール[レバノンの港]からヤッファ[イスラエルの港]までのルートが思い起
 こされ、いまうえに見たイギリスの丸木舟風のカヌーの海路はそれより長い。
  また、フェニキア人が作ったレバノン杉の浮き舟とその航海の仕方は単純なものであった
 が、石器時代のイギリスの船員は3隻の丸木舟風のカヌーに乗せて、ブルーストーンを運ぶと
 いう手強い課題をこなしていたとする。それらの丸木舟は長さ35フィート、幅4フィート、深さ2フィートで
 あった。この丸木舟は当時において特別に大きいものではなかったし、それ以上のものも発見
 されている。ストーンヘンジには当時の職人のモニュメントとして、石柱が建っている。
  イギリスに金属精練の知識が伝わり、金、スズ、銅が発見されると、この国の内外をめぐる
 交易は海事活力を増進させ、イギリスの造船が目立って成長した。
  その証拠として、ハル[ハンバーサイド州]から7マイルほど遡ったところにあるノース・フェルビー
 の岸辺では、前1500年ごろのものとされるボートが発掘されており、それらは同時期の、エジ
 プトで出土したものより、さらに古いやり方で作られた板張りのボートであった。
ノース・フェルビー・ボート

 それらのなかでもっとも大きいものは、長さ54フィート、最大幅8.5フィートであった。そのなかの1隻
 のキールは、かなり大きな2枚の板に分かれ、それらはその両面に薄い板をあてがって、はめ
 つぎあるいはかさねつぎされていた。それら3枚の板に多くの横木が並べられ、ささえ木の穴に
 差し込まれていた。ささえ木は板の厚い部分に取り付けられており、船大工がチョウナで切り
 出していた。
  そうしたボートはハンバー川でもっぱら活躍していたが、帆を使用した形跡はない。それは前
 1500年より以前から使われ、ブリトン人が丸木舟ではなく、かなり精巧に作られた木造船に乗
 って、海に乗り出していたことを示す[ここにいう木造船は、グリニッジの国立海洋博物館に保
 存されている]。
  [それらの結論として、]前二千年の後期、すなわち前1200年から前1000年までのあいだに、
 船は大量の金属品を積んで、イギリス海峡を十分に横断できる大きさと強さとなっていた。さら
 に、そのころから、海運は専門の運送人によって行われるようになり、ドーバー海峡やデボン
 地方のサルコムの海中から大陸産のオノ、ノミ、短刀の刃、ヤリの穂先や、イギリス産のオノと
 いった物品がデンマークで出土している[少々説明が苦しいしし、地中海の海商にくらべ見劣り
 することは争えない]。
◆ギリシャ神話にみるイギリス海域◆
 ホーマー[ホメロス、前8世紀ごろのギリシャの詩人]は、ユリシーズ[オデッセイアのラテン名]
 の放浪記を前1200年以前のある期間を念頭において書いたといわれ、またその内容からみ
 て、ギリシャ人あるいはミノア人がそれ以前から帆船を用いて西ヨーロッパへ進出していたに
 違いないとされる。ホーマーは、ジブラルタル海峡とそのかなり北方の様子を伝聞していたよう
 である。その放浪記で、魔女キルケがユリシーズに、「流れの深い大洋河(オーケアノス)の涯
 ……、キンメリオイ族の郷土で、その城市のあるところとて、いつも靄気や雲霧に覆われて」[ホ
 メロス著、呉茂一訳『オデュッセイーア』上 第十一書、p.325、岩波文庫、1971]いると吹き込ん
 でいる。
  これはイギリス人から見れば外国の風景のように響くが、次の文言から見て、さらに北方の
 様子を指しているようには見えない。「炎々と輝る太陽がその光の矢を、彼らに注ぎかけること
 もなく、たとえば(朝日が)星いっぱいの大空へ昇るときにも、またふたたび地上に向けて、大空
 から(降りる)ときにも同様で、みじめたらしい人間どもには、おぞましい夜が一帯に広がるだけ
 である」[前同]。
  ホーマーの時代やそれ以前の船が、北極の夜に挑んだとはいえないので、この一節は多
 分、旅行者の話に触発されたものであって、琥珀がバルト海地域から地中海に移動した、長
 大な陸上ルートに沿って口伝えられ、変化し続けた話といえる。
  ホーマーが使ったの素材の中にはかなり古いものもあるが、前8世紀から当時までの物語が
 取り上げられている。それなりの証拠に基づく文言−例えば、「流れの深い大洋河の涯……」
 といった説明−は、当時流布されていた情報の断片に基づいて書かれたに違いない。前8世
 紀、ギリシャ人やフェニキア人は西ヨーロッパへ進出し、それより遅くない時期に、帆船を用い
 てジブラルタル海峡を越えたという証拠とみなしうる。
  ティールのフェニキア人たちが、いつカルタゴ[北アフリカのチュニス近くにあった古代都市国
 家]を建設したかどうかははっきりしないが、それをディド女王[ギリシャ神話]が建設したと言い
 伝えられる前814-813年より、少なくとも1世紀後であったと判定されている。アルジェ[アルジェ
 リアの首都の港]の沖に、ブレスト島が作られたのは8世紀以後とするのが、伝統的な説明とな
 っている。ウティカ[カルタゴ北西の古代都市]は、ジブラルタル海峡から東700マイル以上のとこ
 ろにあり、フェニキア人が建設したところであるが、そこで発掘された史料に7世紀以前のもの
 はなく、考古学者も文献史料からそのように類推している。
  ギリシャの歴史家ヘロドトス[前484?-425?]は前450年ごろ活躍したが、サモス島[ギリシャのス
 ポラデス諸島の一つ]の[船主]コライオスが高価な貨物を前650年ごろ、タルトスから運んだとい
 っている[同『歴史・中』4巻152、p.88、岩波文庫、1972]。この初期の金属交易のセンターは、グ
 ワダルキビル川あるいはウェルバ川の河口だったと考えられており、いずれも南スペインの大
 西洋岸にあるカディス湾に注いでいる。その施設は、現代のカディスかその近くにあり、カルタ
 ゴのガデス港より早い、6世紀半ばごろに繁栄したとみられている。
  ……前500年ごろには、ハンノ[カルタゴの王]とヒミルコ[カルタゴの提督]の遠征航海が登場
 するが、それらは相当、時代を経過した後で書かれた情報に基づいている。ハンノが、ギニア
 湾よりはるか南まで遠征したことになっているが、その詳細は語ってくれない。しかし、イギリス
 の初期の航海に関心を持つものにとって、ヒミルコがジブラルタル海峡よりはるか北方まで帆
 走したことは明らかなので、その航海は特に重視してよい。かれは、それを成し遂げた最初の
 人物として、名を残している。
  プリニウス[23-79、ローマの学者]のわずかな説明は別として、ヒミルコの航海に関する唯一
 の根拠はアウィエヌスという名の、紀元後4世紀に書きものをしたラテン[古代ローマ]のへぼ詩
 人に置かれている。かれの情報は、前4世紀から前2世紀のものと推定される。その著書『沿
 岸調査』のなかで、ヒミルコがどのようにして北方まで帆走し、ブルターニュ地方とみられるエス
 トリムニアという断崖の岬にたどり着いたかについて書いている。
  そこで、ヒミルコは金属交易業者に出会っており、かれらは皮張りのボートに乗って、2日間
 かけて、アイルランドまで行っていたことを知ったという。かれはコルニッシュ[コーンウォル]の
 スズについてまったく知らなかったにもかかわらず、その地域は風がなく、航海は危険を伴うと
 大変、強調している。
  それに従えば、そこは何週間も何か月も凪で、身動きできなくなってしまうところだという。ヒミ
 ルコ自身の航海は4か月以上かかったようであり、その間、ビスケー湾で異常な天候に出会っ
 たことになっている。ヒミルコなどの航海物語から確たる示唆はえられないが、フェニキア人が
 イギリスとのスズの直接交易を切り開いたことは明らかである。そこにみられた交易は、スペイ
 ンやブルターニュばかりでなく、イギリスをも含め、それらから産出されたスズを中継する形を
 とって行われていた。
◆ピュテアスの航海◆
 カルタゴの海上帝国は前550-200年に繁栄を極めたが、その期間のはじめに、カルタゴ人は
 大西洋からギリシャ人を締め出すのに成功している。前427年に生まれ前347年に死んだプラト
 ン[ギリシャの哲学者]が、神話の世界に属していたジブラルタル海峡にまったく関わりなく生き
 ていたとしても、それは不思議なことではない。
  しかし、マルセーユ出身のギリシャ人水夫ピュテアスは前320年ごろ西ヨーロッパに航海して
 いるが、イベリア半島を回ったことにはなっていない。その理由は、アリストテレス[前384-322、
 ギリシャの哲学者]が同じ時代を語っていながら、ピュテアスの航海に触れることなく、自分の
 弟子であるディカルカスがそれを回ったとしているからである。それら航海に関する詳細は、ス
 トラボン[前63?-後21?、ギリシャの地理学者・歴史家]の『地理誌』が出典となっている。かれ
 は、その書物を紀元1世紀になってから書き、ピュテアスはまったくのうそつきだとみなしてい
 る。
  ストラボンは、ピュテアスには真実がないとしながらも、ケントはフランスから帆走して数日の
 ところにあり、フランスのあるところから優勢な風を利用して出帆していたとい文言を引用す
 る。ただ、かれの主たる反論は、チューレ[ギリシャ・ローマ人が極北と考えた地域]と「凝結し
 た」海にあった。ピュテアスはある島のことを聞き伝えていたようである。そのチューレと呼ばれ
 るところは、イギリスから6日間、そして「凝結した」海からわずか1日の航海のところにあり、海
 と陸と空がない交ぜになっており、通り抜けることがまったくできないとされている。
  アイスランドに行ったり、またアイスランドからデンマーク海峡[グリーンランドとのあいだの海
 峡]を横断して、氷壁を見るところまで行った人であれば、ピュテアスが語っていることは理解で
 きるはずである。しかし、チューレはアイスランドではない。水夫にとって、ノルウェーは島のよ
 うに見えるので、敢えて海岸を探しはしなしであろう。また、ヒィヨルドに張り付いた氷[叢氷]が
 凝結した海であるといえなくはない。シェトランドやオークニー諸島[スコットランド北方の島]もま
 た、その可能性がある。正確な位置の確定はともかく、ピュテアスは他の方法で、さらに北方
 の生活のあれこれを学んだことになっている。
  これらのことはイギリス海運にとって迂遠のようにみえる。しかし、ギリシャ人とフェニキア人
 の遠征記の主な内容から、重要なことを2つ指摘することができる。第1は、北西ヨーロッパとい
 う海域に、ヒミルコが前6世紀までにほぼ間違いなく、そしてそれに続いてピュテアスが前4世紀
 までに確実に入ったということである。第2は、それら北西ヨーロッパの海で、交易や長期航海
 が繰り返し行われていたとしても、地中海の船員が同地域に住み込みながら行ったわけでは
 ないということである。
◆交易の中心マルセーユ◆
 こうした現在まで伝えられてきた古代文学からは、直ちにヒントがえられないとしても、ピュテ
 アス時代とそれ以後のギリシャの人々が、かれに続くかのようにイギリスに航海しようとしてい
 たことは明らかである。それに対して、マルセーユに出入する陸上ルートが前300年から前50
 年にかけて栄えたことについては、はっきりした証拠がある。
  その当時の北西ヨーロッパの海上交易業者−かれらは同じ種族であったとみられる−のほ
 とんどは、ブルターニュやアイルランドから出帆していた形跡がある。かれらは、イクテス(ある
 いはミクテス)と呼ばれたイングランド南部海岸沖の島に頻繁に出向いて取引しており、そのこ
 とを前256年ごろ死んだティマイオス[前356?-260?、ギリシャの歴史家]が書き残している。プリ
 マス水道にあるこの島には、セント・ミカエル山、あるいはバッテン山があり、干潮時には本土
 につながる。また、そこはコーンウォルの住民が鉱地から採掘し、「粉々に」砕いたスズの交易
 を行っていたところである。前5、6世紀ごろバスク地方のスタイルで制作された初期鉄器時代
 の金属細工や、前2、3世紀ごろイタリアで制作されたエトルリア[イタリア西部の古代国家]風の
 青銅小立像やギリシャ風の武装した青銅立像が、バッテン山から発掘されている。
  マルセーユは前600年ごろギリシャの交易センターとして建設され、そこからギリシャの影響
 が次第にフランスやイギリスに広がっていった。その影響はいわゆるラテン文明として浸透して
 いったが、イギリスへは鉄器時代の道筋を通じて広がった。そのころまでに、陸上のスズ交易
 はほぼ成熟していた。また、地中海の人々が採用していた帆が、それほど早期に採用あるい
 は個々に利用されていなくても(ジュリアス・シーザー時代における皮製の帆の使用から推定し
 て)、当時、すでに河川交通にも使用されていたはずである。順風の場合、帆ばかりでなく、交
 叉状のパドルを使っていたとみられる。また、地中海の人々から学んだかどうかはともかく、少
 なくともイギリス南部において前5、6世紀は帆の導入が最も盛んな時期であったといえる。
  サウス・フェルビーから南に9マイルにあり、リンカンシャ州[イングランド中央部]のブリグを流れ
 るアンコルム川の堰堤で発見されたボートは、前500年ごろのものとみられ、千年前からあった
 フェルビー・ボートの型式を保っており、帆を使用していた形跡はない。このイギリスの板張りボ
 ートは、大陸で発掘された板張りボートより、300年前のものである。これらボートは、大陸では
 アルス島[デンマーク・リレ海峡]のボートAls boatあるいは戦闘カヌーと呼ばれ、パドルで推進
 し、帆は使用しない。
  イギリスの海域で、帆の使用が文書にはっきりと現れるのは、スカンジナヴィアの海域での使
 用より、少なくとも750年前である。それ以前のイギリス諸島から広がる交易網についての考古
 学上の証拠から見て、北方海域で使われた帆は南方からもたらされたとみられる。それにも
 かかわらず、スカンジナヴィア人はボートの別の建造方法−よろい張りボート−を思いついて
 いる。それが北方海域で有効であることが証明されるのは、現在の通説の時期より、数世紀
 後になってからであった。
◆シーザーの西方見聞録◆
 イギリスにローマ人が侵入してくる、前55年ごろまではゴール[古代ケルト族が住んでいたフラ
 ンス、ベルギーなどの地方、後出のガリアはラテン語]の影響が極めて大きく、ワインはすでに
 交易の重要な品目となっていた。ブリテンのベルギー系の王子たちが、ローマ風のアンフォー
 ラにワインを満たして、墓場に入れていたし、そしてその時代、すでにいろいろな地方の舟が
 水路を行き交い、また海岸を航行していたことは明らかである。それらについて、ジュリアス・シ
 ーザー[前100-44、ローマの政治家]が証明してくれる。
  シーザーは、『ガリア戦記』のなかで、自らのスペイン遠征について書き残しているが、「状況
 は……われわれにとって、望ましいものではない」と書き、われわれは川にかかっているいくつ
 かの橋を修理することができないので、「中隊にボートを、自分がブリテンで一度見たものと同
 じように、多数造るよう命令した。その舟のキールとリブは薄い板材で作られ、それ以外の船
 体は皮張りの小枝細工となっていた」と書いている。
  この場面の言葉使いからみて、シーザーがイギリスにいるあいだに皮張りの舟に出くわし[シ
 ーザーはイギリス海峡を渡らなかったとされいる]、かれが思っていた以上に、そうした舟がイ
 ギリス海峡を横行していたことは明らかである。かれのキールに関する説明からみて、河川用
 のコラクルcoracle(網代舟)ではなく、渡海用の船について言及していたことほぼ確かであり、ま
 たそれ以外の文献からみても、そうした船の母港がケントよりはるか西方にあったものと推論
 しうる。
  プリニウスは、紀元1世紀に『博物誌』を書いたとされる。その頃までに、イングランドはローマ
 の地方統治の枠組みに組み込まれてしまっていたが、かれもまた、そのなかでイギリスのカラ
 (curragh)について解説している。プリニウスは、ティマイオスに次いで、スズが運びこまれたイ
 クテスで、そうした舟を見聞したという記録を残した書き手であるが、ティマイオスはそれだけで
 なく、イギリス人が皮を縫い付けたコリヤナギで作られた舟を、そこから出帆させていたとして
 いる[中野定雄他訳『プリニウスの博物誌T』第7巻207、雄山閣、1986]。プリニウスは、他のと
 ころで、同時代のイギリスの舟は皮張りの小枝細工で作られていたと断定している。
イギリスのカラ

 これらイギリスのプリニウス時代のものとみられるボートの金製モデルが、1896年[北]アイル
 ランドのデリー州ブロイターで発掘されている。このモデルは損傷がなく、マスト、8つの座席、
 それぞれの舷側に8つのオール受け、そして船尾左舷の舵オールを備えていた。その舟は、モ
 デルということもあって、横幅がかなり広く、その出来も良いわけではない。しかし、その当時の
 実際の舟は、最近までアイルランドの西海岸にみられた、長さが20フィートほどのアイルランドの
 コラクルと、それほど大きく異なっていない。
◆イギリスのライバル、ウェネテイ族◆
 シーザーは、ウェネテイ族[ブルターニュ半島に住んでいた部族]が造ったある木造船の図面
 を手に入れていたようである。そのウェネテイ族は、「これら海岸地方の全部族の中で、群を抜
 いて大きな権威を誇っている」。かれらは、自分たちの港とイギリスとのあいだを行きかう、大
 船隊を保有し、「航海の知識や体験において、他の部族をも凌駕している。それに、この烈しく
 荒れ狂う広大な海原に、港は数えるほどしかなく、これらの港をことごとくウェネテイ族が掌握し
 て、この海を利用する人々から港湾使用料をとりたてていた」と書いている[カエサル著、國原
 吉之介訳『ガリア戦記』第3巻8、p.103、講談社学術文庫、1994.5]。
  これは一つの驚きであるが、ウェネテイ族に反抗して、港湾使用料を素直に払わないでおれ
 た人々がいた。そうした力のある人々は、恐らくイギリスや北海沿岸の低地帯の人々であり、
 ウェネテイ族がブルターニュ海岸の最強の集団となってからも来ていたとみられる。ただ、イギ
 リス人だけがやがて代替の港を持つようになる。ブルターニュとコーンウォルとのあいだのライ
 バル意識は、千年、それ以後も続いたことは、よく知られている。
  シーザーが指摘したウェネテイ族の船は非常に精巧であったので、何世紀にわたってその良
 さを利用することができた。ウェネテイ族が海岸線を支配するようになると、シーザーは軍艦を
 ロアール川で建造し、また船員や水先人を雇い、そして漕ぎ手はアルプス以北のゴール人を
 徴発するようになった。しかし、かれらは知識が乏しく、かれらのシーマンシップからすれば、ウ
 ェネテイ族があらゆる点で優っていたとみられる。
ウェネテイ族の船

 シーザーはかれらの町を陸上から占領することを心掛けた。それにより、かれらの「城市の
 防衛を危なくさせようものなら、敵はあっさりと自分の安全に見切りをつけ、やがて多数の船を
 岸に着けると、船はいくらでもあったので、これに彼らの財産を移し、すぐ近くの城市へ逃げこ
 もり、そこでまたぞろ、同じように有利な場所から、防戦するのであった」[カエサル前出書、第3
 巻12、p.105]というの海上戦術を用いた。
  シーザーは海上ではいつも遅れを取っていた。ウェネテイ族は優れた技能と最良の船を持っ
 ていたのである。シーザーは次のように述べている。
 船底はわれわれの船よりも目立って平らで、浅瀬や干潮にぶつかっても、被害が
 少なくてすむようにできていた。舳先は異常に高く聳え、同じく船尾も高く、大波や強
 風にも順応できた。どんな烈しい衝動やあらあらしい取り扱いにも堪えられるよう
 に、船全体が樫の木で造られていた。横梁は、幅、厚みとも三十センチ[1フィート]の
 角材を使い、拇指ほどの鉄の大釘でとめてある。錨は纜の代わりに鉄の鎖でつな
 がれ、帆は生の獣皮か、柔らかくなめした皮であった。これは、亜麻の産出がなく、
 それを帆に利用することをしらないためか、あるいは−これが真相かもしれない−
 大西洋のあのような烈しい嵐や突風の攻撃に耐え、あのような船を操縦するには、
 ふつうの帆ではとうてい間に合わない考えたものであろう[カエサル前出書、第3巻
 13、p.107]。

 これらの船は地中海のコグの前身であったと思われる。また、イギリス海峡に適応した技術
 改良の、確かな前触れでもあった。そうした船は、多分、板と板を継ぎ合わせた「カラベル」建
 造[15、6世紀にスペイン、ポルトガルで使われた建造様式をいう]になっていたとみられる。た
 だ、そのやり方は、シーザーなど第三者によれば、ローマ人とゴール人とでは大きな違いがあ
 ったと指摘されている。
  それら帆船は、シーザーが建造した手漕ぎガレーや後世のバイキング船とは違って、一枚の
 横帆を張っており、軍艦ではなく、最初から漁船あるいは商船であった。戦闘の際、そうした船
 の利点は、シーザーが指摘するように、第1に堅牢かつ肉厚であるため、ラム[衝角]合戦に当
 たっても安全でいられること、第2に水面からそびえているので、ローマ人の飛び道具や引っ掛
 けカギが届かないこと、そして第3に潮流が渦巻く危険な海面でも、耐航性があることであっ
 た。ローマ人の船の唯一の利点は、以下に述べることを別にすれば、オールの使用に基づい
 たスピードと操船性にあり、特に凪のときに威力があった。
◆ガレーが帆船に勝つ法◆
 220隻のゴールの船が、シーザーの艦隊との戦闘に参加した。シーザーの船大工がかれら
 のガレーgalleyにタレット[回転砲塔]を立てるようになると(13世紀、ノルウェー人のロングシップ
 がコグcogと闘う際に設けた「砦」に近い)、ウェネテイ族の船の尾はさらに高くなり、トップヘビー
 になっていった。それにもかかわらず、シーザーは次のようやり方で、かれらに打ち勝ったとし
 ている。
 われわれがあらかじめの準備していて、役立ったものが、ただ一つあった。それ
は ちょうど破城鉤の形に以て[ママ]、先端を鋭く尖らせた鉤を、長い竿の先に差し込
み、 縛りつけたものであった。これを、帆柱に帆桁を縛っている揚げ索にひっかけ
てぴん と張り、そのまますばやく漕いで船を離すと、索はぷっつりと切れてしまった。
揚げ索 がきられると、当然帆桁はどさっと下に落ちる。ガリアの船が一番頼みにし
ていたの は、帆と帆操装置なので、帆桁をもぎとられると同時に、船のいっさいの操
縦はきか なくなってしまった[カエサル前出書、第3巻14、p.108]。

 ウェネテイ族は水夫であって、兵士ではなかった。船がべた凪で身動きできなったときに、シ
 ーザーはかれらをほぼ全滅させた。二、三のウェネテイの船が陸にたどり着いただけであっ
 た。16世紀後、フランシス・ドレイク[1540?-96、航海者・提督]は西ヨーロッパの天候に恵まれた
 人物であった。かれによって、地中海人のラム、かぎざお、接舷といった作戦も、遂に古いもの
 となった。 ガリア戦争に当たり、ウェネテイ族の船はローマ人との戦闘のため、洗いざらい狩
 り出されることになったが、ローマ人はそれらの船と人々を全滅させたと、シーザーは語ってい
 る。ウェネテイ族が携わった交易は、主としてイングランド南部とのあいだであった。それを示
 す証拠はないが、ブリトン人たちは戦争に当たってウェネテイ族を助けているとみられたため、
 かれらがシーザーの次の戦略目標となった。
  ケントとサセックスの人々がシーザーと海上で闘いたかったわけではない。かれらはいずれ
 も優れた海上戦闘員ではなかったし、ウェネテイ族の運命が気になっていただけである。その
 とき、ローマ人が計画した「ある種の商船」が注目される。それらの船は陸にいる敵を収容する
 ために建造されたものであった。それと全く同様なことが、千年以上も後[1066年]、征服王ウィ
 リアム[1027-87、在位1066-87]がイギリスに渡ってきたときに起きている。
◆カラベル風の建造、そして交易の広がり◆
 前54年になって、シーザーは再び800隻と5つの連隊、総勢およそ兵士27,000人、騎兵2,000
 人を引き連れ、イギリスに戻ってきた。ウェネテイ地方が打ち破られても、その交易が中断す
 ることはなかった。比較的裕福なイギリス人の商人が、その国の南部に現れるようになった。
 ローマ人の商船隊とは関わりのない、イギリスの3隻の船の一部分がロンドンに残存している。
 それらの船にゴールの影響がみられるが、イギリスのある地方のやり方で建造されている。
  紀元2世紀以後に現れたブラックフライアーズ[ドミニコ修道士の意味]と呼ばれる船は、長さ
 55フィート、ビーム幅22フィートであり、オーク材で建造され、がっしりした床材や比較的細いサイド・
 フレーム[肋材]が張られていた。フレームの外側には、幅広の外板あるいは縦長の板材は、カ
 ラベル様式で、釘で打ち付けられていた。それらの船の底は平らであったので、川のなかでも
 また引き潮の海底であっても直立することができた。釘は29インチ以上[原文のまま]のものも使
 用されていた。
ブラックフライアーズ

 船は一枚の横帆のみでも推進することができた。その内部の深さからみて、デッキが張ら
 れ、マスト後部の船倉の上部にはハッチがあったとみられる。その船は、最後の航海でケント
 州のメードストンで建材用の石を積み、メドウエイ川を下り、テムズ川を上ってきたが、衝突で
 沈んだとみられる。ある専門家は、その船はスカンジナヴィア、地中海とも異なった、ケルト地
 方の様式を持っている。それは地中海のコグの基礎となった様式だという。
  ガイ病院[ロンドン・ブリッジ駅の側]の敷地内で発掘されたニュー・ガイ・ハウスのボートは同
 年代のものであるが、小型・平底の川バージとみられており、カラベル様式かつオークで建造
 されている。その構造は、ブラックフライアーズと共通するところが多く、異なるところは少な
 い。
  3番目の船はカウンティ・ホール[ウエストミンスター橋のたもと]の敷地内で発掘されたが、同
 様に、オーク使用のカラベル様式で建造され、長さはおよそ60フィート、幅16フィートである。キール
 の中央線にそって、多数の5インチの木ピンや木釘が残っている。それらは本キールを保護する
 仮キールを止めるためのものであったとみられる。外板は、キールの近くになると厚さ3インチと
 なり、舷側では2インチほどに薄くなり、それぞれの板やキールに、ドロー・トング・ジョイント[かさ
 ねはぎ継ぎ]で固定されていた。極めて少量の金属が建造に用いられている。いくつかの結合
 部を強化するため、頭の大きな鉄釘が用いられている15。マストは直径10インチであった。その
 船は紀元300年ごろから使われはじめたとみられる。
  スズの交易の衰退とローマ権力の南東部への集中に伴い、その地方の港、そのなかもロン
 ドンが顕著に重要視されていった。
  ……ロンドンも、4世紀にわたるローマ支配時代、浮き沈みがあり、その交易も決して順調で
 あったわけではない。それにもかかわらず、よく知られた商品の交易について、考古学的なあ
 るいは文献上の史料がみられる。輸入品には支配階級の贅沢品も含まれていた。「ケルトの
 地」[脈絡から、フランス南西部]から「大理石のブレスレットやネックレス、琥珀、ガラスの器、そ
 して小さな陶器」、ストラボンが語るところによれば、考古学的な史料はゴールやドイツから小さ
 な白粘土の立神像や赤うわぐすりの陶器、イタリアから金属製水差し、枝付き大燭台、その他
 道具類、そして何はともあれオイルとワインが付け加わる。
  しかし、……その当時、地中海ではいたとしても、北西ヨーロッパにおいて2本マストの船があ
 ったという証拠は、どこにも見当たらない。また、船がイタリアからテムズ川に直接に来たという
 ことは明らかに間違っている。ストラボンはイタリアから直航していたと指摘していない。かれに
 従えば、通常の航路はラインの河口から始まり、セーヌ川、ロアール川、そしてガロンヌ川[フラ
 ンス南西部]の順であり、それが千年以上も続いたのである。
  イギリスの北部まで交易は広がっていた。サウス・シールズ(アルベイア)[タイン・アンド・ウェア
 州]は3、4世紀、はしけが上流まで運ぶ商品の積み替え港として栄えていた。カーライル[カンブ
 リア州]やコーブリッジ[タイン・アンド・ウェア州]もまた活躍した港である。カンブリア州のボウネ
 ス・オン・ソルウェイでは、ピクト人[ゲール系ケルト人]に対する最西端の防護壁の近くで、奉納
 船絵馬が発見されている。それは海上輸送による何らかの交易があったことを示唆するもの
 である。しかし、そうしたことから、当時、「あらゆる」種類の物品がローマ人の国境[ハドリアヌ
 スの城壁あるいはヘイドリアンズ・ウォール]を越えて、スコットランドに入り込んだというように
 読むのは、誤りである。
  これらイギリスの交易がどれくらいイギリス人の商人や船員によって行われたかは不明であ
 る。これらローマ時代の交易の大半が外国人の手で行われたであろう。ただ、造船はテムズ
 川の一つの産業となっており、また地元民による航海が西方海域で行われていたことは確か
 である。とはいえ、それらがピュテアスの時代にすでに行われていたとしても、ケルト時代の海
 で使われた皮ボートでは大西洋に乗り出すという冒険をする分けにはいかない。

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