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第U部
イギリス海運の発展期
(1400-1890)

(1400-1498)
―主な内容とその特色― 
 この章(57-78ページ)は15世紀を扱っている。世紀半ば、百年戦争が終結し、イングランドは島国として生きる道を選ぶ。羊毛に変わって毛織物が輸出の主力となり、エンクロージャが始まる。王権をめぐる争いは続くが、世紀末、強力なチューダー王朝が築かれる。なお、1498年はコロンブスが第3回目の航海を出発、またヴァスゴ・ダ・ガマ がカリカットに到着した年である。 まず、この世紀以後400年の歴史を刻むことになるカラックやキャラベルが登場し、舵柄の改良、重砲の搭載といった艤装の改良が見られ、それを含む様々な形式の帆船が入り乱れるが、その多くが大型化し、2ないしは3本マストとなった。
  海運や船舶の発達のもとで、乗組員が増加すると、そこに一定の構成や職務が定まり、各地に船員ギルドが結成される。すでに、雇うものと雇われるものとが区別されつつあったが、後者の取り前は賃金一本になっておらず、共同出資者のような分配形式が続いていたという。
  15世紀は、現在まで受け継がれてきた主要な航海用具が発達し、イギリスではこれまたそれらを地中海から取り入れ、「後発国の利益」を享受しながら、航海の範囲を拡張しており、またそのおかげで水先案内人がその責任を問われることが少なくなったという。
  ステイプル商人の羊毛取引と輸送の実態が、かなり詳しく述べられおり、興味をそそる。ステイプル商人のライバルとしての、権力と癒着した政商的でモラルを無視するとされる、一匹狼の冒険商人が登場し、低地帯諸国に毛織物を輸出しだす。かれらは、その輸出を仕切ってきたハンザ商人と対立するが、それを克服することは容易でない。
  そのなかで、彼我の海賊と私掠が始まる。
  イングランド人の交易は、毛織物の輸出とワインの輸入を軸にして、スペインそしてイタリアなどにも広がり、しかもその量が多くなるにつれて、有力な商人や船主が育ち、地中海世界に拠点を築くまでになる。その様子が、具体的に示される。しかし、イタリア人商人に肉薄しえない。この時期、ロンドンに次いでブリストルが、アイルランドやアイスランドの交易を開拓し、有力港として登場してくる。
  すでに、15世紀始めに、ポルトガル、スペインはいわゆる「大航海時代」に突入していたが、ハンディキャップを大きく開けられていたイングランドはジョン・カボットを雇い、探検航海に乗り出すことなる。なお、このポルトガルやスペインの探検航海については、周知とばかりに、省略されて言う。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆カラックやキャラベルの登場◆
  地中海様式と大西洋様式との合作である3本マスト全装横帆船が世界を切り開き、400年以
 上の期間、商人や政府の役に立つという革新をもたらす。この新しいタイプの船は、多分15世
 紀第一四半期に登場したとみられる。
  当時、地中海や大西洋の造船所はコグの船の骨組みを、外板を張り終えてからフレームを
 差し込むというクリンカー方式では建造されておらず、それとは逆にフレームを立てた後で、外
 板を平張りしていくというカラベル方式で建造されていた。それによって船は堅牢となり、それ
 が大きくなるほど、材木は少なくてすみ、クリンカー方式で建造される船より大型になっていっ
 た。
  新しい船殻の採用により、造船工はまず2本、すぐに3本のマストを立てるようになった。横帆
 のメンスルに加えて、東地中海の船員が何世紀にわたって使用してきたタイプの、ラテンスル
 あるいはトライアングラー・セール[いずれも三角帆]を張るようになった。このセールは、メンマ
 スト後方の小さなミズンマストに掲げられ、操舵の手助けとなり、風上に向かって、船が切り上
 がるのに役立った。他の2本マストの例では、その1本がメンマスト前方のフォアマストとして取
 り付けられた。それらいずれのマストにも横帆が張られた。それらはあまり効果がなかった。
  他方、3本のマストの船は、多様な用途をかなえた。その当時の駆動力は、主としてメンマス
 トの横帆のメンスルから発生していた。それにボンネットを張ることで、わずかばかりの追加力
 がえられた。フォアマストには小さな横帆が付けられた。ミズンマストにはラテンスルが張られ
 た。すべてのマストはステイ[支索]やシュラウド[横静索]によって保持されていた。そうした形式
 の船はカラックと呼ばれた。このカラックは船体の幅が広がり、深さが増した船であった。デッ
 キ上の長さは幅の3倍あったが、キール上の長さは2倍となっていた。カラックは、15世紀一
 杯、サイズを増加し続けた。
15世紀の三本マストのカラック

 イングランド国王に用船された船はカラックばかりではなかったが、その平均サイズは1410
 年から1450年にかけて80トンから120トンに増加した。さらに、そのサイズはスプリットスル[斜桁
 帆]をバウスプリットの下部に、逆にトップスルをメンマストのメンスルの上部に付け加えなが
 ら、1470年までにさらに増加していった。トップスルは船を海面から持ち上げ、またスプリットス
 ルは船を押し下げる向きがあったが、いずれも駆動力を追加した。他のセールは大きくなる傾
 向があった。
  カラックやその類似船の形状は、遠洋船に適していたとはいえ、15世紀に入ってもイギリス人
 水夫が唯一あるいは主に使用するタイプではなかった。船のタイプとして、約40種以上の名前
 が残っているが、混乱を極め、同じ名前が全く異なった船を示すために用いられた。
  15世紀半ば、キャラベルcaravelあるいはカラベルcarvelと呼ばれる船が、ポルトガルを経
 て、イングランド海域に持ち込まれてきた。そうした船は一様ではないが、通常ラテン風の艤装
 をしており、その初期はバリンジャーより小型で細身であった。この形式は海上作戦の際の伝
 令船や偵察船、あるいは海賊の襲撃船に適していた。それは約30トンほどの船として、その後
 何世紀にもわたって使われることになる、ピンネースに改良された。このピンネースは、海峡の
 あいだやスペインとの交易に使われた10トンから40トンまでの単甲板船であった、スピネス
 spinaceの仲間であった。他の変身としては、キャラベルは15世紀後半、3本マストで150-200トン
 の幅広の船に発達していったといわれている。キャラベルという名称は建造方法を少なくとも
 説明するものとなっている。
 [その他、在来型のバリンジャー、バージ、キールのほか、アイリッシュ海を帆走し、魚を市場
 に持っていいくハシケとして用いられた、スピネスより小型のピカードpicard、イギリス海峡横断
 交易に大いに用いられた20トンから50トンまでのクレイヤーcrayer、湖沼地方やテムズ川の河口
 の船であった長さ22.5フィート幅4.5フィートウェリーwherry[手こぎ川舟]、チチスター[ウエスト・サセッ
 クス州]スマックsmack[小型帆船]、さらにオランダ生まれの40トンから100トンのドッガーdogger[北
 海タラ漁の2本マスト帆船]やホイhoy[1本マストの小型地回り帆船]が紹介されている]。
◆舵柄の改良、重砲の搭載◆
 続く数百年間のある時期に−その時期は全く解からない−、舵柄(チラー)にホィップスタッフ
 が付けられたことで、操船の仕方が改善された。大型船では、舵を動かす舵柄は船尾にある
 穴に差し込まれており、甲板上にいる舵手から見えなかった。そこに意志疎通の問題が生じ
 た。それを解決するため、重いポールの下端を舵柄の前方の端に固縛し、それを甲板の上ま
 で開けられた穴から突き出すこととした。このポールあるいはウィップスタッフは、グリスが塗ら
 れた皮のワッシャーかグラメット[索環]のなかで回転するようになっていた。この改良は16世紀
 末までに普及していき、舵手は甲板の上に立って、ホィップスタッフの先端を一方から他方へ
 動かせるようになった。ただ、舵柄はそれとは反対側に動いた。そうした場所をえたことで、舵
 手は再びセールの様子を見たり、指示が聞けるようになった。
  船の形式は様々であった。船とそのサイズは経済的な圧力や国防上の必要に応じて変化す
 るものである。15世紀末、中世のカラックやガレーは海事世界の巨人たり続けたが、オランダ
 はそのころニシン用バス[平底横帆船]を300隻という船団を建造していた。1415年、最初に作
 られた船のサイズは40トンから160トンまでの範囲であった7。イギリスの造船所は外国の構想や
 艤装部品を借用するが精一杯であったが、世界の海を征服した多くの国々にも十分採用して
 もらえるような船を、最終的には建造するようになる。
  15世紀前半までは、イギリスの商人たちはバルト海から船積みしていたが、ロンドン、ニュー
 カッスル、そしてサザンプトンの市民が、1470年代になると低地帯諸国に、自分たちの船を送
 り出していたという記録がある。船舶の安全確保や様々なコスト節約の必要から、船のサイズ
 は15世紀初期から次第に大きくなっていったが、小型で快速の船も、特にアングロ・カスティリ
 アン交易において、残る世紀、イギリス海峡が安全になったこともあって実力を盛り返した。
  15世紀後半、多くの商船は2本マストの船になっていた。マーガレット・セリー号の積トンは60-
 70トンにとどまるが、3本マストであった。それはジョン・ハワード卿[1430?-85]が仕えたエドワード
 四世[1442-83、在位1461-83]の治世初期に建造した「新型のカラベル」であった。船首や船尾
 にある「カッスル」は船から切り離せないものとなり、特に船首楼は2倍以上の高さになった。メ
 ンマストに頑丈な戦闘望楼が設けられ、また船の中央部から後方にかけ、精巧な索具によっ
 て保持されていた。それをより強化するため、初期の船に比べ多くのフォアステー[前方支索]
 やバックステー[後方支索]が張られた。そのころ、船のギャレーが常設されるようになり、また
 舶載重砲を据え付けるため、船を強化するように建造方式が改められた。舶載重砲は急速に
 改善され、ヨーロッパの船員を世界の港において有利な立場をさせた。
  14世紀末、未来のヘンリ四世[1367-1413、在位1399-1413]のために、ある船に特別のキャ
 ビンが設けられたことがある。同じのものが、1445年コンポステラに航海した、2,100人の巡礼
 者のために作られたことがある。しかし、15世紀末になると、商船はおおむね二、三の恒久的
 なキャビンを少なくとも設備するようになった。それらは士官や商人、またはその代理人に割り
 当てられた。普通の水夫は自分のベッドとして、持ち運べる麦わらの詰まったふとんを備え付
 ける必要があった。それは20世紀初期の船員が「ロバの朝飯」と呼んだものと同じであった。そ
 れを船倉のなかやハッチ[倉口]の下に置くことは禁止され、さらに水夫は船中央部に居住する
 ことは全くできなかった。かれらは間違いなく船首楼の下で生活していた。それ以後も同じであ
 った。上陸に当たって、水夫たちはチェスト[物入れ]やベッドを置いて行かされた。それはかれ
 らの帰船を確保するためにあった。
◆冒険商人の登場◆
 [15世紀末に、チューダー朝が生まれ、それ以後イギリス海運は発展期に入ることになる
 が、]その変わり目は突然来るのではなく、在来の交易が新規な交易とともに維持される。それ
 は後世、蒸気が帆装を駆逐したときにも見られた。新しい押しの強い商人がイングランドに生
 まれた。この階層はチューダー朝によって育まれたが、そのチューダー朝は商人が収める税
 金を必要としていた。その王朝は、時として、軍隊の海外遠征や海上での戦闘に当たって、商
 人たちの船、さらにその乗組員を必要としていた。商人、船主、船員たちは、フランスの侵略に
 当たり、1413年のときと同じように王朝が国王の艦隊を編成し、「虚勢」を張るための商船の挑
 発に不平を鳴らし、1421年に50,000ポンドになっていた税金の支払いを免れようとした。しかし、
 王朝はすべての税金を取りそこなったわけではないし、海運業もその見返りとして、ことがうま
 く運べば当初の出費をすぐに、おおむね1年以内に償っていたし、船のほとんどが安全に帰港
 していたので、リスクをかけるだけの値打ちがあった。
  ブリストルの新参者のウィリアム・カニングス[1399?-1474]は、同年代のやり手の一人である
 が、1460年代3,800ポンド(1988年価格ではおよそ150万ポンド)相当の船隊を所有していた。かれ
 は、「商人王」と呼ばれたエドワード四世に一時に2,670トンほど輸送サービスを提供したことを墓
 石に刻み、誇りにしている。かれとその家族が、かれの墓石のあるブリストルの聖メアリー・レ
 ドクリフ教会を建造した後、どうなったかについて不幸なことに全くわからない。
  ヘンリ七世[1457-1509、在位1485-1509]は船主たちを努めて激励していた。かれの航海法
 を見ると、リチャード二世[1367-1400、在位1377-99]の治世において最初に採用された政策に
 立ち返っている。その1485年法は、イングランドやアイルランド、ウェルズ以外の船によるガス
 コーニュからのワインの輸入を禁止し、4年後にはその禁止範囲を青色染料にまで広げてい
 る。さらに、イングランド船が使える限り、イングランド商人は外国船を使ってはならないとし
 た。そうした規制はほとんど効果を上げなかったが、ヘンリ七世は通商条約を締結するととも
 に、市場調査に強い関心を示し、140トン以上の船を建造する地域に補助金を出している。
◆乗組員構成、船員のギルドと取り前◆
  オレロン法は、イングランドで海事事件を審理する海軍裁判所や様々な地方裁判所におい
 て、海事法の判例として受け入れられていた。それは乗組員の三つのランク−船長、水路人
 lodesman(水先人あるいは航海者)、そして一般の船員−の権利と職務を定めていた。勿論、
 それ以外にも乗船者はいた。マーガレット・セリー号は、15世紀の商船としてありふれたクラス
 の典型的な船であるが、船長以外の乗組員として事務長、掌帆長、料理人、給仕が、それぞ
 れ一人づつ乗り組んでいた。1485年、セリー一家の一人は「掌帆長とその助手」に2シリング支払
 ったと書き残し、また船長の助手が乗る場合がままみられたとしている。水路人もまた助手を
 抱えていた。
  あるブリストルの船の操舵手が、他の船の船長に昇進している。かれは自らを鍛えて、完全
 な水先人あるいは指揮者になった。当時、キャプテンがいたとしても―遠征の際、よくみられた
 ―、かれは決して船長ではなく、保全、管理、企画といった事項の全般的な指揮を担当する役
 職者であった。ハワードのカラベル艦隊に所属していたピンネースは「料理長」と、食事や飲み
 物を管理する司厨手を乗せていた。それ以外に一般の船員と一匹の猫がいれば十分であっ
 た。猫はねずみ取りであった。
  15世紀末まで、イングランドの商船の典型的な乗組員構成―船長、航海士、掌帆長、それら
 の助手、事務長、料理人、司厨手、おおむね徒弟または給仕、そしてその他の「平船員」―の
 違いは、名称を含め、ほとんどなかった。この構成は帆船末期の小型船まで続いた。乗組員
 は、100トンまたはそれ以上の船では20人から30人を数えたが、漕ぎ手が必要となると、トン数
 に関わりなく、多人数となった。
  少なくとも5つの船員ギルドが、15世紀までに、リン、ヨーク、ハル、ブリストル、そしてニューカ
 ッスル・アポン・タインといった地方に設立されていた。そのうち2つだけが、シーマンシップの水
 準を維持する工夫13や訓練システムを盛り込んだ規約を持っていた。しかし、それも時がたつ
 につれて、役立たなくなった。徒弟の規定は多種多様であった。ロンドンで設立されたシティの
 同業組合は20世紀まで続いたが、年季奉公の徒弟はその時には海運会社の一従業員になっ
 ていた。15世紀の船員ギルドは主として友愛組織の機能を持ち、またナポレオン戦争[1796-
 1815]後、教会組織によって運営されることになる、船員の陸上代理人や船員のための慈善を
 始めていた。
  例えば、ブリストルにあったギルドあるいは友愛団体は1445年に設立されているが、それに
 当たり「船員という職業は冒険に満ちているとはいえ、航海中は毎日のように、いらだち、苦し
 み、落ち込み、悲しくなるが、心から祈り、真面目に働けば、心地よい満足がえられる」といって
 いる。そのギルドは親方船長master marinerの寄付によって維持されていた。かれらは港に帰
 るたびに、持ち分の積荷について1トン当たり4ペンスを納めていた。この金は司祭と12人の貧
 困水夫を維持するのに使われた。かれらは、「海上を進みそして働く」商人や船員のために、
 毎日祈る義務があった。
  雇うものと雇われるものは、お互いに利益から分け前を受け取り、またマネージメントに関与
 していたにもかかわらず、そのあいだの違いは次第にはっきりしてきた。雇われたものの取り
 前は、次の3つの基本システムが結びつくか、あるいはない交ぜになったものであった。第1は
 利益の配分であり、それはオレロン法より1500年以上も前のロードスや地中海の海法に由来
 していた。第2は賃金であり、それは通常、航海毎、時には月毎、距離別に支払われた。第3は
 一定比率の貨物スペースを使ってえた利益であった。
  セリー号では、賃金の大部分は母国に持って帰る商品を買う資金が必要であったので、往
 路の航海が終わったところで支払われた。その残りはイングランドに帰着したときに支払われ
 た。ハワード号やセリー号の帳簿によれば、塩漬け肉、塩引きあるいは燻製の魚、そしてパン
 とビールが海上における、また種々の卵、バター、生野菜、ブドウ、イチジク、そして旬の贅沢
 品が入港中の主な食料として支給されたことになっている。航海の期間は、船が陸から離れな
 いようにしていたので、通常は短かった。1486年、マーガレット・セリー号がロンドンからボルド
 ーへ航海したとき、プリマスやラ・ロシェル、[その沖合いの]レ島、[ボルドーより河口の]ブレイ
 で新鮮な食品を積み込んでいる。海上での私生活は、前世紀に入るまで、全くなかった。船の
 ビスケットは周知の物である。15世紀末になると、サザプトンではパン屋がその供給を独占し
 ているという苦情がみられたが、マーガレット・セリー号は欲しいところでパンをえていた。
◆航海用具の発達と航海の拡張◆
 1458年、フラ・マウロ[?-1459、ヴェネチア人、修道士、世界地図作成]が作成した地図のまえ
 がきに従えば、バルト海の船員たちは海図はおろかコンパスも持たずに、アイスランドにまで
 航海したとされているが、ヘンリ四世の治世、王室船の事務長であったジョン・スターリングの
 報告によれば、帆縫い針とコンパスについての指摘がある。しかし、コンパスのない時代にイ
 ギリスからアイスランドへ直行したとか、あるいはビスケー湾を横断したとかいった記録はな
 い。コンパスが徐々に普及していくためには、大洋航海術と海図の作成とが十分に発達してい
 る必要があった。地中海の人々は、コンパスの助けを借りて、14世紀のうちに海図を完成させ
 ていたが、それに比べ、北方の海については1世紀後になっても出来上がっていなかった。コ
 ンパスの使用は南方から北方に広がったことは明らかであるが、『イングランドの政策の書』
 [1436-37作、著者不祥、イングランドの制海権の重要性を強調している]の著者は、ブリストル
 とその近隣の水夫が1423年ごろ「縫い針と磁石」だけでアイスランドにまで航海していたと、非
 常に明快に述べている。事実、きちっと書かれた方位図はチョーサーの時代に使われており、
 かれが「船乗りたちはそれが32分割されている」と語っていることでも解かる。
  「オランダ人のログ」は、目標物を船外に投げて、船のスピードを測定する道具である。その
 目標物は、20世紀初めという後になっても、料理場の火床から取られた灰が使われていた。オ
 ランダ人のログは、砂時計あるいは半時間時計と一緒に用いて、航続距離を測ることができ
 た。また、個々の間切りあるいは変針に伴う距離や期間を計算できたので、その航法は推論
 あるいは推測航法となっていた。1480年ごろ、記録が残っているイギリスの大洋航行船はいず
 れも測深用の鉛とロープ、砂時計やコンパスを持っており、また推測航法は神業のレベルまで
 達していた。
  次に、アストロラーベ、コードラントquadrant、クロス・スタフcross-staffが航海者の必需品とな
 った。それらは、いずれもセキスタントsextantの前身であり、天体の地平線からの標高を計測
 するのに用いられた。それらの使用によって緯度を測定できるようになったが、商船船員たち
 は誰かれもそれらをすぐさま所持しようとしたわけではない。ヴァスコ・ダ・ガマ[1469?-1524、ポ
 ルトガルに雇われたジェノバの航海者]でさえ、新入り航海者のアストラーベを借りて太陽を観
 測していただけではなく、上陸してもそうしていた。知識をえた船員であれば、天の赤道上にあ
 る天体が同じ角度になる際の地方時が1時間の違えば、それは観測者の地球表面上の位置
 が経度で15度の違いがあることが分かっていた。しかし、海上で十分に使用に耐える時計は
 18世紀になるまで出現しなかった。15世紀から18世紀までのあいだは、推測航法でもって満足
 するほかなかった。
  イギリスにおいて、最初のものとみられる水先案内書pilot bookあるいはラターrutterという水
 路案内書は15世紀半ば以後の日付となっている。……イギリス海岸の様子について詳しく知
 ろうとする読者には、さらに干満、潮流、海鳴りばかりでなく、有名な浅瀬や岩場を避けるため
 に必要となる、多くの特徴のある岬や構造物の方角に関する知識を授けている。……月の潮
 の干満に関する影響は知られていたし、高潮について経験に基づく案内書もあった。
 それぞれの地域毎に、水先案内人や水路案内人がいて、責任を持って、進路を決めており、
 大法官法廷や海事裁判所に告訴されることは全くなかった。
  水先案内書に加え、海図が役に立つようになってきた。トラバース表[方位表]が1390年から
 ジェノバの出版人から発行されるようになり、コンパス上の32方位について針路上の距離が解
 かるようになっていた。海図が発達するにつれて、航路のネットワークが描けるようになり、水
 先案内人がどの針路をとればよいか、また代替針路をどう探せばよいかに役立った。それは
 現代の平行定規やコンパス・ローズ[海図羅針図]の用法と同じである。
  15世紀のもう一つ重要なことは、船舶の改良と悪天候のなかでも正確に航海する手段の発
 達によって、帆走のシーズンが次第に広がったことである。その結果はあまり注目されていな
 いが、海洋探検や世界ワイドの交易にとって重要な意味を持っていたはずである。
  1466年のスコットランド議会法は10月28日から2月2日までの帆走を禁止していた。スコットラ
 ンドの力のある船長が年間にノルウェーに2回、ボルドーに1回、そしてダンチッヒに1回航海し
 ているが、バルト海に2回往復としたものはいない。しかし、1444年ロンドン在住のヴェネチア
 の商人が、2隻のガレーの積荷―細葉大青162俵、コショウ10俵、白檀8俵、干ブドウ40大樽、
 ナツメヤシ70俵、そしてタタール地方のシルク48反―を受け取っているが、それらの商品が陸
 揚げされたのは12月29日であった。帆走する季節はいまなお限定されていたとはいえ、船が
 冬季に入った海上で、逆風であっても帆走できるようになった。そうした状況は生き残れる機
 会が極めて多くなったことを示そう。
◆ステイプル商人の取引と輸送◆
 イギリスの外国交易の規模はいまなお小さかった。その15世紀半ばの価格はおよそ300万ポ
 ンドと推定され、輸出、輸入がそれぞれ半分づつである。その交易の50パーセントが自国の商人
 の手で行われた。ハンザ商館の手で行われた比率はおよそ10パーセントから20パーセントに上昇
 し、他方イタリア人などその他外国人の比率は40パーセントから30パーセントに減少したとみられ
 る。イギリスの1人当たりの交易額は現在の50分の1以下であり、現在の品目が違うが、15世
 紀の輸入品は自国で生産できない品目であった。
  15世紀前半、羊毛の輸出は年間約14,000袋、約80,000ポンドから約10,000袋、約50,000ポンド
 に減少し、世紀末まで、そのレベルで推移したといわれている。同時期、ブロード・クロスの輸
 出は約40,000反、約75,000ポンドから約50,000反、約90,000ポンドに増加したが、世紀末までそ
 の増加を維持することができず、再び約40,000反に落ち込んでしまった。
  イタリア向けの羊毛や低品質の羊毛は別として、カレー向けの羊毛はステイプル商人によっ
 て輸出され続けた。かれらは300人以上もいたが、そのほとんどはロンドンの商人であった。そ
 れにもかかわらず、羊毛はボストン、イプスウィッチ、ハル、ときにはサンドウィッチから、船積
 みされていた。
  輸出される羊毛はサルプラーズという粗い麻布地に詰め込まれた。その多くは2包入りであっ
 た。また、キャンバスがカバーとして使用された。大量のキャンバスや荷造りひもがカレーに貯
 まった。麻布袋を計量、シールした後、商人は関税やその他費用を支払うことになっていた。
 勿論、信用取引が認められていた。その上で、麻布袋が役人の指示のもとで船に積み込まれ
 た。すべての商人が、損失リスクを軽くするため、自分の羊毛を数隻の船に積み込んだ。通
 常、5人から11人の商人がそれぞれの船と委託輸送契約を結んでいた。
  1478年7月、ロンドンから出帆した羊毛船隊は38隻であったが、1,160.5袋、12クローブ(1クロー
 ブ、8ポンド)の羊毛、268,227枚の羊毛皮または羊皮を運んでいた。別の羊毛大船隊が翌年春
 に出帆している。3年後の1481年11月、ロンドンとカレーで活躍していた[商人]リチャード・セリ
 ーは11,500枚の羊皮を、ロンドンのメアリー号、[ケント州の]ラインハムのクリストファ号、メイド
 ストンのトーマス号、ロンドンのメアリー・グレース号、ハルのミッシェル号、そしてニューハイズ
 のトーマス号という6隻に分割し、委託輸送契約をしていた。
  セリーの船積み貨物には、夏冬用の毛皮も含まれていたが、それ以外は[イングランド中央
 部の]コッツウォルズ産の羊毛であった。その羊毛は1袋当たり、品質により3ポンドから9ポンド
 の利益が上がることになっていた。当時、羊毛1袋の平均価格6-7ポンドに対して、平均利益は
 2-3ポンドであった。ロンドンからカレーまでの運賃は麻布袋当たり6シリング8ペンスであった。それ
 に船長謝礼金primage 1ペニーが追加された。現在、運賃に1パーセントが追加されて、船の持ち主
 かその用船者に支払われているが、当時は、貨物の積み込みと保管に当たる船長と乗組員
 に、荷送り人が慣例の手当を用意していた。船が出帆する前に「検査人」が乗船し、積荷と関
 税納付書あるいは船積書類と比較した上で、積み込み書類をマークし、事務長に手渡してい
 た。それに際して、検査人は船の国籍によって変わるが、一定の料金を受け取っていた。時に
 は、商人からチップ(一杯のワイン)を受け取るまで、船を遅らせることもあった。
  カレーに着くと、羊毛1袋当たり4ペンス、毛皮100枚当たり2ペンスの港湾使用料を納めることに
 なる。その後で、羊毛は陸揚げされ、倉庫に入れられた。そこで、ステイプルの職員が関税納
 付書の明細と比較し、再計量し、羊毛の品質を検査する。1417年、あるイングランドの商人は
 関税納付書が整っており、また、イングランドで計量してからカレーで再計量されるまで羊毛に
 触れてもいないのに、関税納付書に書かれている以上のものを密輸したとして告訴されたと、
 不満をあらわにしている。ある著者は羊毛が濡れたのではないかと想像している。
  密輸について、別の説明もある。1450年ごろの密輸は、カレーのステイプルの衰退がその原
 因の一つではないかという。イングランド政府の羊毛を金や銀で買い取らせるという強制が、
 羊毛交易の減少の主な原因であった。その将来は、いまやステイプル商人ではなく、ライバル
 の冒険商人の肩にかかっていた。
◆イングランド冒険商人とハンザの対立◆
 1404年から1408年にかけて、法的に認知された一連の特権とある種の法人資格が、イング
 ランドの外国交易商人の3つの会社に与えられた。そのうち2つ会社はほとんど活動しなかった
 が、ノルウェーとバルト海と交易する商人を受け入れていた。3つ目の会社は、低地帯諸国と
 交易する商人を受け入れて活躍し、冒険商人組合の原型とみなされている。ロンドンの反物商
 あるいは織物の生地を扱う商人が、その組合をおおむね牛耳っていた。また、反物商のホー
 ルには輸出業者が集まり、船団を組んでいた。
  冒険商人は、いまやイングランド産の最も重要な輸出品となった、毛織物を専ら扱っていた。
 エドワード三世の時代、カレーのステイプルの取り引き高は68,000ポンドに達していたが、1449
 年には12,000ポンド以下に減少した。15世紀第3四半期、経済の衰退が続き、毛織物の輸出も
 また世紀末までにブームを終えたが、冒険商人によって取り組まれてきた低地帯諸国、特にア
 ントワープ経由の交易は、イングランド人の手で行われる最も重要な交易にのし上がった。イ
 ングランド毛織物の見返りとして、かれらはリネン、デルフト産陶器、そしてランプ、銅製やか
 ん、飲用ガラス器、コショウ挽き、はさみのといった安価で雑多な消費財を引き受けていた。
  記録によれば、ロンドンもまたそれ以外の消費財、たらい、食器類、シチュウ鍋や短剣、そし
 てバケツ、ビン、ふいごといった皮製品を輸出していた。また、イングランドの商人は海外から
 魚―ニシン、ウナギ、コッド、リング[後2者、タラ]、そしてサバ―や野菜を購入していた。1420
 年、ロンドンに持ち込まれた貨物のなかには、リネン180エル[1エル=45インチ]、タマネギ250バレル、
 ニンニク275束、キャベツ300個、タマネギの種20袋が含まれていた。
  ブリュージュやイープル[ベルギー西部]の織物業は、200年以上もイングランドの羊毛をえて
 栄えてきたが、世紀末になると、イングランドの毛織物の輸入によって次第に廃業に追い込ま
 れていった。
  北方やライン川背後圏との交易は、そのほとんどがハンザ商人の手におかれたままであっ
 た。かれらは毛織物をイングランド産に次第に転換していった。かれらは、取り引きするリンや
 ハル、ボストンといった港毎に小さな集団に分かれ、バルト海の毛織物交易を手中に収めよう
 と衝突しあっていた。15世紀初頭、ダンチッヒ在住のイングランド商人たちは虐待、監禁につい
 て異議を唱えている。また、1402年、ベルゲン[ノルウェー西南部]在住のあるイングランド商人
 はハンザの海賊によって追い立てられている。15世紀を通じて、イングランドはバルト海から締
 め出されていたので、ノルウェーとの交易量はごくわずかであった。東海岸の町々の市政報告
 は非常に間接的ではあるが、15世紀バルト海と交易している、しかもロンドン商人とは様子の
 異なる商人グループについてかなり詳しく説明してくれる。しかし、そうした報告は1470年代に
 なるとなくなる。
  そのころのイングランド王はハンザ商人の手助けを必要としていたのである。1430年、ヘンリ
 六世[1421-71、在位1422-61、70-71]は人民がベルゲン以外のスカンジナヴィアの港に出向く
 ことを禁じていた。その禁止令は名目的なものになっていたとはいえ、1507年まで有効であっ
 た。……エドワード四世もそれを行っているが、[エドワード4世が]1471年に王位を奪いかえす
 際、ハンザ同盟の援助をえている。1474年、イングランドとハンザ同盟とのユトリヒト条約は、
 当事国の商人に対してあらゆる交易特権を付与するとともに、少なくとも100年間も実行される
 ことのなかった、無関税または同等の関税の取りたての開始について合意している。現在、ロ
 ンドンのキャノン・ストリート駅であるスティールヤードという場所が、ハンザ同盟にリースされて
 いた。なお、そこで使われたさおばかりのおもりが同じ敷地に飾られている。
  [冒険商人との対立の例をあげれば、]魚や肉の貯蔵に使う塩が増加するに伴って、ハンザ
 商人はその交易範囲を中央フランス[ナントの西方]のブールヌフ湾にも広げた。それによっ
 て、かれらの船がイングランド人が縄張りと考えている海域まで帆走してくるようになった。
 1449年5月、デボン出身のロバート・ウィニントンはブルターニュの船を捕獲しようと、イングラン
 ドの私掠船とともに警戒していたところ、ブールヌフの製塩所に向かうフランダースやオラン
 ダ、ハンザ同盟の100隻ほどの船隊に遭遇した。「海軍本部に出頭した」ウィニングトンの証言
 によれば、「かれらに帆をたたむ(自首する)よう、イングランド王の名において命じたが、かれら
 はイングランド王の名においてわたしを罵った」という。これに激怒したかれは、手強い相手で
 はあったが、その船隊を丸ごと捕獲している。その後、フランダースとオランダの船をワイト島
 で解放するが、ハンザ同盟の船は戦利品として分配している。イングランドの商人は捕獲の費
 用を後々まで負担させられた。そのおかげでハンザ同盟の塩船隊は1458年に起きた攻撃にさ
 れることとなった。
◆海賊と私掠、取締まりの困難◆
 海賊はいつも単純明快であった。1422年、[リチャード・]ウォーリック伯[1382-1439、百年戦争
 に功労]は、リュベックに向かうジェノバ商人の船隊に海賊を仕掛け、それを掠奪して約10,000
 ポンドを獲得している。1477年、ロンドンの商人バーソローミュ・コッパーはアイルランドで、サン
 チャゴ・デ・コンポステラに向かう巡礼者300人を、320トンのロンドン籍の持ち船メアリー号に乗
 せたが、その直後、3隻に乗って帆走してきた800人ほどのアイルランド人海賊に捕まってい
 る。
  私掠問題は私掠状の発給条件の報復行為をめぐって複雑となった。ウィニングトンの塩船隊
 捕獲より数年前、ジョン・ハムシャーとヘンリ・メイという紳士が、29人の商人や船員とともにハ
 ミル籍のクレメント号に乗っていたところ、20隻のブルターニュ船隊に攻撃された。ブルターニ
 ュ人たちは2,000マルクほどの値打ちのものを手に入れた。そのなかには、船の舵、セール、ボ
 ンネット、ケーブル、錨、ひも、ロープ、材木、ろうそく、そして食料が含まれていたが、それは
 ハムシャーたちがかつて奪ったものであった。また、ブルターニュ人たちはクレメント号の数人
 の乗組員をシャツか「裸のまま」で放り出し、かれらの運命を悪天候のなか、航行不能となった
 船に託した。ジョン・ハムシャーとヘンリ・メイは、2年間、ブルターニュ公の裁判所に訴えられな
 いまま過ごし、ウィニングトンの遠征の2年前になって、自分たちの損害や損失を償うため、ブ
 ルターニュ人に対する私掠状を請求、その発給をえている。
  15世紀初め、[フランシス・]ドレイク卿[1540?-96、提督]の出身地であるプールのハリー・ペイ
 とダートマスのジョン・ホリーは、その名をフランスにいる国王の敵やジェノバやカスティリア[旧
 スペイン]の商人たちに恐れられていた。ヘンリ六世の治世、中央政府が瓦解したため、その
 問題はさらに悪くなった。フォイなどから出撃して来る勇敢な連中が平和な商人の脅威になっ
 た。これら海賊は、例えば、コーンウォルのコーテニーズ、トレヴェリアンズなどといった在郷紳
 士階級から強力な支援を受けていた。かれらは、一方では盗んできた財物の買い取り手とし
 て、他方では海賊を審問する行政官として立ち現れていた。
  これに関して国家は全く力がなかった。1406年、海上保安はトン税や入港税を免除され(それ
 はワイン税やその他物品に関する関税から埋め合わされた)、そして羊毛補助金の一部を受
 け取る商人や船主に委ねられた。しかし、それも全く効果がないことが解かった。1442年に実
 施された海峡の交易を守る他のプランも短命であった。1474年、ステイプル団体は2,600ポンド
 以上もの費用を回収できなかった。その金は羊毛のカレーへの安全輸送を確保するために支
 出したものであったが、国王はそれを海上保安のために使用しなかった。
  国王が、海域を清掃しようとして、懲罰のための遠征を実施する場合もあった。そのお得意
 のやり方は、首謀者を裏切るように仕向け、首謀者以外の乗組員全員を許してしまうことであ
 った。その世紀の終わりには、最も厄介な略奪者であっても、軍隊に勤務すれば許されること
 となった。ヘンリ七世の治世になるまで、真の王立海軍Royal Navyは形をなしていなかった。
 1490年以後になると、安全確保について、私的な取り引きがみられるようになった。例えば、ロ
 ンドンなど、イングランドの多数の商人たちは、フランシス・カテアンに200ポンドを出して、自分
 たちの船の北海横断を支援し、さらにジェノバのカラックと男150人を連れ帰るよう申し入れた
 が、カテアンを納得させられなかった。そのため、話は立ち消えとなった。
◆イングランド交易の拡大◆
 海賊や私掠にも関わらず、あちこちの交易は生き長らえていた。15世紀前半、ボルドーから
 のワイン交易はほとんど変わりはなかったが、輸入量は14世紀よりも減少し、年間約12,000トン
 になった。その後さらに減少し、1449年再び戦争が起きると約5,000トンになり、1460年代、若干
 回復したものの、世紀末になってようやく10,000トンに戻っただけだった。1453年、ガスコーニュ
 地方がフランスの側についたことで、イングランドに留まっていたガスコーニュの企業は致命的
 な打撃を受けた。また、15世紀半ばの紛争期、外国人、特にブルターニュ人、さらにスペイン
 人はワイン交易をほとんど放棄してしまった。この地方からの減少は、すでにイギリスに輸入さ
 れていたギリシャやイベリアからのワインを、15世紀後半にかけてますます増加させた。戦争
 中、商船乗組員の数は約2倍となり、ボルドーからのロンドンまでの運賃は上がり続け、トン当
 たり約23シリングとなった。1320年は8シリングであった。
  他方、イングランドとカスティリアとの交易は、15世紀急激に増加した。イングランドは、少なく
 とも、20以上の色合いを持った12タイプの毛織物を用意し、その見返りにスペイン人は羊毛、
 オイルと染料、さらに鉄鉱石、ワイン、レザー、そして様々な食料品を供給していた。スペイン
 商人によって、1483-4年イングランドに持ち込まれた商品の価額は、約14,000ポンドであった。
 かれらはほぼ同額の商品をイングランドから持ち帰っていた。当時、その交易に5隻が従事し
 ていたが、そのうち2隻はイングランド船であった。
  1438-9年、ヴェネチアのガレー船団はロンドンに、アーモンド、干しブドウ、ナツメヤシ、イチ
 ジク、オレンジ、ザクロ、レーズン、砂糖、シナモン、生のショウガ、その他薬剤や香辛料、甘口
 ワイン、そして1,000ハンドレッドウエイト以上のコショウを運んできた。そのうち2隻が、帰り荷として、
 イングランドの毛織物の全輸出量の10パーセントを積み込むことになっていた。かれらがクレタ島
 から運んで来るマルムジー・ワイン[強い甘口白ワイン]は大変人気があった。イングランド北部
 に住む人々は、国王が邪魔な兄弟を閉じ込めた大たるに、そのワインが入れられて来ると思
 っていた。
  ジェノバのカラックは原鉱石、特に毛織物業用のミョウバン、その他地中海や東方の物産を
 運んできた。フローレンス[フィレンツェ、イタリア中部の都市]のガレーもその交易に参入してお
 り、その船はいずれも北上する際、セビリアやカディスに立ち寄っていた。いろいろなイングラ
 ンドの港に商品が荷揚げされていたが、ロンドンはイタリア商人の拠点となっており、15世紀半
 ばには50または60か所の居留地があった。1440年代、ロンドンと交易していたルッカ[イタリア
 北西部の都市]人のフェリス・ダ・ファナーノ・アンド・カンパニーという商会は豪華なダマスカス絨
 毯、ベルベット、そして金襴を輸入していた。当時、銀行業務はイタリア人に独占されており、
 信用取引はいたるところで行われていたし、またイタリア人は為替手形を開発していた。
  『イングランドの政策の書』の著者は、儲けの大きい交易がより一層、イングランド人の手で
 行われるよう期待している。そのかなりの部分が場当たりの取り引きとなっていた。1465年、ロ
 ンドンに入港して来た船の約30パーセントがイングランド船であったが、その比率は1519年には
 約40パーセントに上昇した。これと同様の話しがサザンプトンでも語られている。地中海の船が圧
 倒的であった港でも、イングランド船の入港が次第に多くなり、外国船を上回るようになった。
 それと同じころ、サザンプトンやブリストルに出入りするイングランド船が交易規模を徐々に拡
 大させていった。
◆有力船主の地中海への進出◆
 [この時期、イングランドとポルトガル、スペインの王家は姻戚関係を結ぶ]。そうしたことがス
 テップとなり、イングランド人は地中海との交易をためらいながら広げていった。ジェノバ人が
 直接交易の企てを阻止しようとしたにもかかわらず、イングランド船はすでには1412年[地中海
 のスペインの島の]イビサやジェノバに入港していた。
  1446年、ブリストルのロバート・スターミーは、コグ・アン号に羊毛40袋とスズ100塊を積み、モ
 ロッコ海峡経由でピサに入港し、それらをフローレンスで売るという許可状をえている。その船
 の乗組員は37人であり、聖地パレスチナのジョッパ(ヤッファの旧名)に向かう巡礼160人を乗
 せていた。ピサでは、コショウ、ショウガ、その他異国の産物を帰り荷として積んだが、ギリシャ
 沖で嵐にあい遭難している。
  スターミーは、それに臆せず、11年後、持ち船キャサリン・スターミー号に許可状をえている。
 その船は、前年、コンポステラ向けの巡礼、レバント向けの毛織物6,000反(約40,000ポンド相
 当)、羊毛600麻布袋(7,000ポンド強相当)、純正なスズ、鉛、小麦、そしてかれがこの機会に運
 びたかったものを船積みしていた。当時、海上輸送に伴うリスクや航海の成功による利益の大
 きさは、いずれもはっきり解かっていた。1457年6月、スターミーは出帆前夜、遺書を作り、自
 分の船が帰港した場合、遺産を2倍にすることにした。その事業について、ジェノバ人はスター
 ミーとその船はいずれも帰港しそうにないと判定しており、ロンドンのジェノバ人社会は喪失に
 対して6,000ポンドの保険金を掛けていた。
  コグ・アン号の不幸な航海の3年後、ハルのジョン・ターバナーは当時最大規模の商船を建造
 し、かれが外国人に課せられている税金を支払うことを条件にして、外国人の積荷を含む羊
 毛、スズ、羊皮などの商品を積み込めるという許可状をえている。20年後、エドワード四世―
 1478年、さらに1482年、自分の大型船に羊毛と毛織物を積み、南方に送り込んでいる―は、
 自由に交易しあえるいくつかの通商条約を結び、イングランド人の船主がより遠方の航海に乗
 り出すよう奨励している。リチャード三世の治世、イングランド商人は作戦を広げ、ピサにイン
 グランド領事を配置するよう申し入れている。また、1490年、ヘンリ七世はフローレンス人との
 結びつきのなかで、イングランドの羊毛ステイプルを設立するよう指示している。
  エドワード四世とヘンリ七世の治世を通じて、イングランド船が地中海、さらに遠方のコンスタ
 チノープル、キオス島(エーゲ海のギリシャの島)、カンディア(クレタ島イラクリオンの旧名)に乗
 り込んでいったという話しはいたるところにある。予想利益がリスクを補って余りあるものとなっ
 た。船主は当初、商人とは違って、資産と影響力のある市民であった。
◆海運新興地ブリストル◆
 ロンドンに次いで、ブリストルはヨークとともに、イングランドの最も著名な都市となった。ウィ
 リアム・カニングスは、エドワード四世から貨物2,670トンを一挙に輸送するよう下命された船主
 であるが、海上に800人、陸上に100人を雇用していた。かれはロバート・スターミーと同様、市
 会議員であり、また5度、ブリストルの市長になった。かれの10隻には400トン、500トン、900トンと
 いう積みトンの船が含まれたが、後者は当時における平均をはるかに上回っていた。1467年、
 かれが市長在職中、ブリストル冒険商人協会という団体が私的な航海条例を制定することを
 目的にして設立されている。そのなかには、会員は非会員の商品を運賃積してはならず、また
 外国港ではブリストル船に可能な限り優先権が与えられるという条文が含まれていた。
  カニングスは例外というわけではない。ブリストル人でもある[ヘリフォート・アンド・ウースター
 州の]ウースターのウィリアムは、カニングス死後、約60年間の模様を書き残している。トーマ
 ス・ストレンジが約12隻、ジョン・ゴズマンがそれ以上の船を所有し、ブリストルの交易の約半分
 を取り扱っていた。しかし、アイルランドとの交易はほとんだがアイルランド人の手によって行
 われていたなどといたという。
  イングランドやアイルランドの船員たちはアイスランドやグリーンランドの海域に不案内では
 なかったが、そのあいだの結びつきは14世紀後半までアイスランドとノルウェーとの関係と同じ
 ように弱いものになっていた。しかし、15世紀初めになると、イングランドの東海岸の港とアイル
 ランドとの直接取引きが再開される。それはバルト海やベルゲンからイングランド船を締め出す
 というハンザ同盟の政策の反動でもあった。イングランドの小麦やビール、毛織物はアイルラン
 ドで歓迎されていた。イングランドが干し魚に支払う価額は市場の動向に次第に左右されるよう
 になった。
  イングランドのアイスランドをめぐる商業上の優位は、海外におけるハンザ同盟との競争や
 自国の交易許可状の乱発によって、15世紀後半から後退していった。1480年代になると敵対
 関係は厳しくなり、ブリストルの船員は新しい牧場を求めて、北大西洋を這い回らせられてい
 た。ウースターのウィリアムの親戚であったジョン・ジョイは、1480年共同事業として、ブリストル
 から「ブラシル島」[ポルトガル領アゾレス諸島のサンミゲル島]を探査するため、2隻の船を出
 発させている。それは単なる冒険ではなかった。それが商業上は失敗だったとしても、地理上
 は失敗とはいえなかった。
  1490年代、ジョン・カボット[1450?-98、イギリスに帰化したヴェネチア人の航海者]と若い息子
 セバスチャン[1476?-1557]がブリストルにやってきたのは、当然の成り行きであって、決して偶
 然ではない。……かれは、―[探検航海]が「人わざでなく、神わざだ」という―興奮を巻き起こ
 すことなると気づいていた。カボットはいまなおブリストル人の誇りであるという[カボットの探
検航海は、次の章で詳しく触れられる]。
  ニューファンドランド海域の魚は別として、1497年の[カボットの]北アメリカ発見は珍しい鳥や
 野生の猫以外に、注目を浴びるものがなかった。ヘンリ七世や商人は現実的な人々であった
 ので、野生の猫にも熱狂しなかった。15世紀、イングランド人はバルト海に侵入しようと試みた
 が、ほとんど失敗に終わった。かれらはスペインとの交易を広げ、地中海にもわずかながらも
 進出した。そして、北アメリカを取り込んだ。しかし、イングランドの海事力の影響力は、北海と
 イギリス海峡の対岸に及んでいるだけであった。その地域における資本の回収は早く、またリ
 スクの程度も低かった。

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