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(1498-1552)
―主な内容とその特色― 
 この章(79-95ページ)の始期・終期のメルクマールは判然としないが、カボットの遠征前後からチャンセラーの遠征前後までのようであり、絶対主義王権チューダー朝を築いたヘンリ七世、八世の時代、いわばイギリスの大航海時代への本格参入を扱っているといえる。 大航海時代に立遅れたイングランドにとって、お雇外国人カボットたちの遠征の成功は自慢の種である。アメリカ本土を発見したのは、コロンブスではなく、カボットたちであったから、なおさらである。
  イングランドの商人たちは、国王から特許状をもらい、ポルトガルやスペインの商人と共同経営の冒険事業に乗り出し、またイングランドに奉公していたカボットはスペイン人と組むようになる。こうした冒険商人たちのしたたかな経営戦略が詳述される。
  この時期、一方では先発国ポルトガルやスペインの銀山開発と奴隷交易という資源略奪が、他方ではその上前を暴力ではねようとする後発国イギリスやフランスの海賊と私掠が最盛期に入る。大航海時代といえば聞こえはいいが、暴力と略奪の地理上の発見時代といえる。それらはただの史実として触れられる。
  16世紀半ばに、イングランドでも海軍が念頭に置かれるようなる、水先案内協会が設立される、航海者の職業用具が豊富になる、ガレオンが登場し、16世紀末までに遠隔地交易の支配的船型となる史実が取り出される。
  ポルトガルやスペインが手に入れた金銀やスパイス交易の利益が大きくなると、地中海交易に替わるヨーロッパ交易が立ち上がり、商業革命が進行していく。その一環として、イングランドではロンドンの地位が上昇する。それは遠隔地交易ではなく、近回りの交易の結果であった。
  こうした近回りの交易、さらには石炭輸送や漁業(その抄訳はおおむね省略している)への着目は特筆に値する。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆J・カボットのアメリカ本土発見◆
  1493年、ローマ教皇大勅許は、アゾレス諸島とヴェルデ岬諸島の西100リーグ[1リーグ、約3マ
 イル]に架空の境界線を引き、その線を超えた陸地はスペインが探検する地域とすることを定め
 た。1494年、スペインとポルトガルのあいだで調印された―1506年ローマ教皇によって勅許さ
 れた―トルデシリアス条約によって、そのあいだの境界線はさらに西方に270リーグ動かされ
 た。それによって、ポルトガルはインドばかりでなく南大西洋へのほとんどの航路を保障される
 ことになり、事実、1500年のブラジル大陸の発見につながった1。それらは、異教徒に対する伝
 道は教皇のみの事業としていた。しかし、ヘンリ七世がそれら措置をどの程度知っていたかは
 明らかでない。
  1490年ごろ、ブリストルの商人はすでに発見された大西洋の島々の様子を、スペイン人やポ
 ルトガル人と同じように知っていた。かれらはマディラ諸島ばかりでなく、カナリア諸島とはほぼ
 間違いなく、さらにアゾレス諸島とは多分、取り引きしていた。
  ジョン・カボットはジェノバ生まれであって、その後ヴェネチア市民となっており、息子のセバス
 チャンは1481年ごろそこで生まれている。1493年、ジョン・カボットは、コロンブスが[西]インド諸
 島から帰ってきた直後には、ヴァレンシアにいたとみられる。そして、そのかれが新世界の発
 見のニュースをヘンリ七世の宮廷に持ち込んだことはほぼ確かである。かれは、近東[バルカ
 ン諸国]に住みまたメッカに訪れたことがあり、スパイス貿易が詳しく書かれているマルコ・ポー
 ロの書物を読んでいたので、中国に到着したというコロンブスの主張に疑問を抱いていたに違
 いない。大ロバート・ソーンといった―ブリストル人と話し合い、またかれらのニューファンドラン
 ドの発見を学んだとみられる。かれは、ブリストルからの遠征が新しい交易のルートとなり、ま
 たイングランドが自分の新たな根拠地になればいいと思っていたに違いない。
  1496年、コロンブスの[1492年10月]西インド諸島発見3年後になって、カボットとその息子たち
 ルドフィコ、セバスチャン、そしてサンチョは、かれらのイングランドの仲間の支援により、ヘン
 リ七世から特許状を受け取っている。それは東方、西方、北方の「異教徒や不信心者の領土
 あるいは領域」を探索することにあった。なお、純利益の5分の1は国王に手渡されることになっ
 ていた。
  ヘンリ七世は、その経験のある他国民による探検を進んで許可したが、イングランド人たち
 は競争相手のヨーロッパ人と直ちに争うとはしなかった。しかし、かれらも想像に違わず、誰彼
 にとっても十分に大きくなった、ケーキの一切れをあずかろうとしていた。ポルトガル人やスペ
 イン人は私掠にさらされたため、かれらが主張する縄張りのなかでイングランド人には交易さ
 せないと宣言していた。こうした宣言は当時としては珍しいものであった。
  最もおいしいケーキの一切れは東方に眠っているとみられていた。船が北方、西方、そして
 南方へ向かうようになっても、東方は主要な目的地として広く認められていた。しかし、一方で
 は植民地が東方への道筋に置かれた足場となり、他方ではそれ自身が母国に利益をもたら
 すことが分かると、植民が可能かどうかに関心が集まるようになった。
  1496年の計画は放棄されたが、1497年ジョン・カボット他、18人ないしは20人がアメリカ本土
 を発見した最初のヨーロッパ人として記録されるべく、出発した。アメリカ発見の先駆者はヴァ
 イキングであったし―ニューファンドランドに行き着く―、ケルト人も同じであった。また、ブリス
 トルの船員たちが1496年の数年前に、アメリカ本土に行き着いていたことはほぼ間違いない
 [その意味、不明]。そのころになっても、コロンブスは本土に行き着いていなかったし、さらにバ
 スコ・ダ・ガマの遠征船隊の1隻が、[1499年7月に]テガス川[ホルトガル・リスボンを流れるテー
 ジョ川]に帰着して2年後になっても、行き着いていなかった。
  カボットとその一行―大ロバート・ソーンとハフ・エリオットといったブリストルの商人も含まれ
 ていた―は、マッソー号に乗って出帆した。海上52日後、ケープ・ブレトン島[カナダ東南部のノ
 バ・スコシア地方]とみられるところに到着し、その正式な領有を国王の名前において宣言して
 いる。かれらはノバ・スコシアに沿い、約900マイルを走ったところで北に変針し、2つの小さな島と
 ニューファンドランド発見している。そこで住民を見なかったが、その形跡はあった。かれらは、
 そこが北東アジアだと考えていた。8月6日、ブリストルに帰着していた。ジョン・カボットは、約10
 日間、ロンドンの人気者となった。国王は、「楽しい時間であった」といって10ポンドを与え、年金
 20ポンドを認め、そして次の航海は10隻にしてよいと約束した。
  翌年、国王は1隻、ブリストルとロンドンの商人は4隻以上を準備した。何が起きたかはっきり
 しないが、ジョン・カボットは戻ってこなかったし、スパイスもなかった。ダ・ガマの航海が証明し
 てみせたような、投資資本に対する60倍の見返りもなかったし、その後、イングランドでは大西
 洋を横断してジパンゴやアジアを発見しようという話しは取りやめとなった。
  1501年、ヘンリ七世は探検特許状を、アゾレス諸島の郷士として処遇されたヨアブ・フェルナ
 ンデス、フランシスコ・フェルナンデス、そしてヨアブ・ゴンサルベス[といったブリストル在住のポ
 ルトガル人商人]、さらにブリストルの商人であるリチャード・ウェルデ、トーマス・アッセハルトそ
 してジョン・トーマスに与えている。
  新しいシンジケートは1501年、1502年にブリストルから出帆し、まずアゾレス諸島のラブラドー
 ル[土地をまだ持てない植民者]あるいは地主の土地として知られるグリーンランド、そして1566
 年ごろハンフリー・ギルバート卿[1539?-83、北アメリカに最初のイギリス植民地建設]がグリー
 ンランドと異なるとして命名したという、現在[カナダ東部]のラブラドール半島に向かっている。
 それらのある航海では、3人のエスキモーがロンドンに連れて来られている。そのとき、国王は
 デービス海峡が行き止まりでいないことが解かり、喜んでいる。それはニューファンドランドを
 回ってアジアに行ける北西航路を保障するものにみえた。
  同じ年、後にロンドン市長になる大ロバート・ソーンと、ハフ・エリオットがカボットの特許状の
 下で、アメリカに向け出帆している。それはともかく、この2つのシンジケートは帆走の季節が終
 わるまでしか活動できないことになっていた。1502年12月、国王はヨアブ・ゴンサルベス、フラン
 シスコ・フェルナンデス、トーマス・アッセハルト、そしてハフ・エリオット、ないしはかれらの相続
 人または代理人に、新しい特許状を発行していたからである。その特許状は、ポルトガル王や
 同族の王子たちが最初に発見した陸地や、イングランドが支持し、有効に占有したという主張
 を最初に宣言した王子たちの領地に進入することを禁じていた。
◆S・カボットやソーン父子の活躍◆
 ニューファンドランド冒険会社は、3年間毎年連続して、大西洋を横断し、北方ばかりでなく南
 方を探検する航海を仕立ている。かれらは「青色キツツキ」あるいはオームを持ち帰っている。
 そのころになると、イングランドの商人や宮廷は、イングランド人船員がスペイン人に雇われて
 いたこともあって、スペイン人の新しい発見に関する各種情報に不足することはなくなってい
 た。1504年イザベル女王が死んでから、イングランド人がスペインの旗を掲げて帆走し、正当
 な信仰を装おったため、メキシコや西インド諸島への道筋を切り開きやすくなった。
  そうした航海が金銭的に成功しないとなると、新たな資本がすぐに投じられることはない。
 1509年になるまでに、セバスチャン・カボット(1476?-1557)は2隻を使って、北西探検に向かう
 新規の航海に出掛け、ハドソン海峡を通り北東航路を発見し、その名を上げている。かれがイ
 ングランドに帰ってきたとき、いない間にヘンリ七世が死に、後継者のヘンリ八世[1491-1547、
 在位1509-47]の関心が他のところに移っていることを知らされる。
  ヘンリ八世は、探検や海洋に無関心であったわけではなく、海運を輸入の源泉と防衛の手段
 として評価していたが、かれの目は身近なことに絞られていた。1512年から、かれは船をあれ
 これと徴発するのではく、それぞれの目的に応じた船を用船するようになる。その船隊は、少
 なくともイングランドに限っていえば、中世最後の海上戦闘に従軍することとなる。それは、か
 れのフランスとの戦争の一環として[ブルターニュ半島先端の]ブレストの沖で戦われた。リージ
 ェント号とコルドリアー号とは組み打ち合い、接舷し合って戦い、何百人が殺され、両船とも火
 災で喪失した。その直後、ヘンリ八世は自分の船に重砲を据えるようになり、海上戦略のあり
 方を変化させ、巧みな帆走が効果的な砲撃[当時、発案の片舷斉射]にとって不可欠となってい
 った。イングランド人は、実務で鍛えられた船員ばかりであって、机上の学問をしたというような
 記録はない。この巧みな帆走と効果的な砲撃が結合して、イングランドの海上覇権が打ち立て
 られていくこととなる。
  そうしたなかで、セバスチャン・カボットは新しい国王から支援がえられなくなり、1512年スペイ
 ンにくら替えして奉仕するようになり、その国で36年以上も生活することになる。しかし、かれは
 イングランドと接触することを放棄したわけではなかった。かれは危険な仕事を続けた。スペイ
 ン人たちは、かれを雇ってもスペインの利益に危害を及ぼすことなかったので、かれを進んで
 雇うようになった。
  カボットがいなくなっても、イングランドは北西航路を見出そうと、最後の努力をしていた。
 1517年、その遠征はトーマス・モア卿[1478-1535、政治家、人文主義者、ヘンリ八世により刑
 死]の義理の兄弟であるジョン・ラステルと、宇宙論に関心のあるロンドンの印刷業者の指揮の
 下で実行された。しかし残念なことに、[アイルランド南部の]コークさえを超えることもできなか
 った。
  その期間を通じて、大ロバート・ソーンとその共同出資者、その後継者となる小ロバート・ソー
 ンとその兄弟ニコラスはアンダルシア地方の港ばかりでなく、カナリア諸島や西インド諸島とも
 交易し、スペインとの業務上の結びつきを広げていた。かれらはセビリアに滞在し、スペイン船
 に持ち分の範囲で、商品を船積みしていた。かれらはカボットと接触している。ソーンの仲買人
 トーマス・チソンは西インド諸島に滞在したイングランド人といわれている。
  1519年、[フェルディナンド・]マゼラン[1480?-1521、ポルトガル人]の遠征が出発した。マゼラ
 ンの船には、ブリストル人が砲手として乗船していた。その出帆後、スペイン[後出、商務院に
 1508年に配置された重要な役職]の主席水先案内人になっていたセバスチャン・カボットがイン
 グランドに戻ってきて、[トーマス・]ウルジー[1475?-1530、枢機卿、政治家]やヘンリ八世と折衝
 し、大西洋を横断する新しい遠征を指揮することになった。それはスペインおよび神聖ローマ
 帝国の王であり、イングランドとの同盟者であったカール五世[1500-58、在位1519-56、スペイ
 ン・カルロス一世在位1516-56]の知識に基づいて行われた。
  しかし、カボットが取った行動からみて、かれはカール五世のことなど全く知らなかった様子
 である。かれの計画について、ロンドンの商人は危険極まりないと考えていた。カボットは、ヴ
 ェネチアに「巨富をうるためにたどった航跡を提示する。巨富は必ずある。すでに、そのありか
 は解かっている」といった約束をして、ヴェネチア人を共同出資者として引き入れようとした。そ
 の折衝が進められているさなか、マゼラン遠征の生き残りの船が1522年9月マゼラン海峡経
 由の南西航路のニュースを持って帰港してきた。それにより、カボットは折衝をあきらめるのが
 賢明と考えるようになった。さらに、スペイン人の雇い人でもあった、かれの行動が反逆だとみ
 なす恐れがあった。それ以上に、マゼラン遠征の結果は別の好機を生むとみなされたからで
 ある。
◆ブラジル・ウッド、ニグロ奴隷の交易◆
 ヘンリ八世はスペインと平和を保つよう努力していたし、少なくとも1536年離婚したキャサリー
 ン・オブ・アラゴンが死ぬまで、それを続けていた。スペインとの交易は発達しており、1530年ヘ
 ンリ八世は自国民がセント・ジョージといった会社あるいは組合を作って、スペインと取り引き
 することを許可していた。ポルトガルとの交易もまた発達しつつあった。
  1530年から32年にかけて、ウィリアム・ホーキンズ[?-1554?]がブラジルに向かった航海に風
 変わりなところはどこにもない。ホーキンズは前世紀最後の10年の生まれの商人であり、西海
 岸産の毛織物やスズを輸出していた。イングランドに帰るとき、かれの船は魚、ワイン、そして
 塩をはじめ、時々、オイル、砂糖、石鹸、コショウといった商品を運んでいた。新しい商品として
 ブラジル・ウッドがあった。それはポルトガルで積み替えられた。それは使い勝手の良い赤色
 染料の原料であり、ポルトガルの南アメリカ領地で豊富にあり、その植民地にその名前が付け
 られることになったのである。
  リチャード・ハクルート[1522?-1616、地理学者、聖職者、イギリス同時代の航海誌を編纂]に
 よれば、「老」ホーキンズ―息子のジョン・ホーキンズ[卿、1532-95、奴隷商人、海軍艦政本部
 長]の方が広く知られている―は3度、ブラジルにプリマスのポール号250トンという持ち船で出掛
 けている。最初の航海、かれは現在のリベリアのセス川に立ち寄り、そこからブラジルに向か
 い、ブラジル・ウッドを含む、様々な特産商品を取り引きしている。次の航海では、[ヨーロッパ
 に行って]文明の楽しみを目撃したいという住民の首領の人質として、プリマスのマーティン・コ
 ックラムという男が残されている。その首領は帰りの航海で死んだが、コックラムはその船が3
 回目の航海で、ブラジルに着いたとき解放されている。
  その後何年も、様々な遠征が行われたようである。1540年、ポール号は8か月間出掛け、1ハ
 ンドレッドウエイトの象や、92トンのブラジル・ウッドを持ち帰っている。同じ1540年、ジョン・フィリップ
 スはポーツマスから新世界に、ロンドンのバーバラ号に乗って出帆している。その航海の往路
 の途中、小型のスペイン船2隻を拿捕し、また[ドミニコ共和国の首都]サント・ドミンゴでは、生
 皮や砂糖を積んだ別の船を捕まえている。かれは、水漏れするバーバラ号の代わりに、後者
 の船を使って帰ったといっている。サザンプトンでは、ロバート・レネガとトーマス・ボレーがブラ
 ジル・ウッド交易に従事していた。1542年、ロバート・ソーンの弟ニコルスがブラジル・ウッドを積
 み荷の一つに加え、持ち船の1隻をサザンプトンから地中海に送り出している。
  そのころ、スペイン人やポルトガル人は、すでに奴隷貿易に好都合が良く、儲けの大きい領
 地を発見しており、かれらの海外領地の交易を自身たちの船だけに限るべく、固い決意をもっ
 て最大限の努力を払っていた。スペインにとって奴隷制度は目新しいものではなく、すでに14
 世紀カナリア諸島に遠征したとき住民を駆り集め、砂糖プランテーションで働かせたときに始ま
 る。西インド諸島へのニグロ奴隷の輸入は、1517年カール五世によって正式に許可されたも
 のであった。かれはその権利を親交国に与えていたが、そのときはじめてアシエントAsient[ス
 ペイン領への奴隷供給権、イギリスは1713年に獲得]という免許状を出している。それが、ヨー
 ロッパにおける様々な戦争の賞与として、2か国に出されていた。1500年の1年間に、10,000人
 のニグロが輸入された。16世紀末までに、西インド諸島に向けに約900,000人、メキシコや南ア
 メリカにはそれ以上が船積みされた。その輸送された40lが中間航路において死亡したとい
 われている。
  1540年当時、イングランド人は奴隷貿易に参入していなかったが、翌年、ポルトガル人がブ
 ラジルに軍艦を送り込み、自らの利益を守ろうとしている。イングランドの商業上の発達は、そ
 のころ、あらゆる地帯で挫折しかかっていた。
◆イングランド人の私掠と海賊◆
 しかし、イングランドの海運と交易が持つ意義は、決して低いものではなかった。「イングラン
 ド海軍の維持」に関する議会法が1540年に通過している。その前文は海運を維持すべき理由
 を詳細に述べている。第1に、船は交易と外交にとって「有利、不可欠、必要、便利」なものであ
 る。第2に、それらは戦時、防衛と攻撃の手段であり、国の安全を保つことに役立っている。第
 3に、それらは船員やその家族ばかりでなく、船や船員に物品を供給している人々の生計を成
 り立たせている。また、当時の海運は不況に悩んでおり、その結果「海岸に沿った町や村、そ
 の住民は破綻、衰退していた」という。さらに、この法律は海運の再建を援助するため特典を
 用意し、イングランド船の運賃が外国海運より安くなるようにしている。
  この法律の効果はほとんどなく、真面目に努力するより、海賊の方が利益になることが解か
 っていた。海賊に対する最初の包括的な法律が1535年に通過している。それは海軍法廷に、
 海賊行為について死刑を宣告し、かれらから聖職者の癒しを奪う権限を与えたものであった。
 しかし、その法律から10年もたたないうちに―ヘンリ八世のフランスとの最後の戦争があった
 1544-6年―、いろいろな形の海賊行為が私掠を装って、再びはびこるようになった。それは私
 掠許可状の発給によって合法化されたものであった。当時の私掠許可状は、前世紀のそれに
 比べ、複雑になっていた。それはいまや、交戦状態になったときに、持ち船が軍艦として使役さ
 れることを条件にして、船主に支給される手形となっていた。
  確かに、私掠は商業上、非常に可能性のある大ビジネスであった。他のビジネスが駄目にな
 っても、例えばホーキンズの家族にみるように、私掠を準備したり、それを支援する仕事があ
 った。そうした家族は、ラ・ロシュルのユグノー[16-18世紀のカルヴィン派新教徒]の私掠者と密
 接な関係を結んでいた。かれらの個々の行為の倫理観には第三者にとってよく理解できない
 ものがある。
  サザンプトンではロバート・レネガが、ウィリアム・ホーキンズがプリマスで行っていたのと、同
 じ役割を果たしていた。かれも、同じように、中世の交易障壁を乗り越え、持ち船を海外に送り
 出していた。また、戦争が近づくと、ブラジル交易を止め、フランスに対する私掠許可状を手に
 入れ、スペイン国王の人民は攻撃しないという念書を入れた後で、私掠に乗り出していた。レ
 ネガとその息子ジョンは、そうした決まりを守ろうとはしなかった。1545年、かれらは帆船4隻と
 ピンネス1隻でもって、[セントビンセントおよびグレナディン諸島の]セント・ビンセント島沖で、西
 インド諸島で二番目に大きいのイスパニオラ島[ドニミカ共和国/ハイチ]からスペインに帰る宝
 船を拿捕している。その掠奪品は―後のフランシス・ドレイクの前兆のような―西インド諸島を
 象徴するようなスペインの富であふれていた。それは、南イングランドの船員にとって忘れがた
 いものとされ、金、真珠をはじめとした宝船の積み荷は目もくらむばかりで、総額29315ドゥカート
 であった。
  この事件を契機にして、イングランドとスペインは戦争することとなった。レネガは、スペイン
 人から報復として掠奪品を押収したに過ぎないと主張したが、スペイン人はかれをなる手の海
 賊だと宣告し、海上にいるイングランド人の商人と船員を全員、逮捕すべく取り掛かった。イン
 グランドの船や商人が解放されるまでに数か月かかった。その間、スペイン人はレネガが、イ
 ングランド宮廷において賞賛に値する仕事をしただけだと、ほざいていると非難している。私掠
 者たちは、政治状況の成り行きによって元気づけられもし、押さえつけられもしていた。
  なお、当時、フランスの私掠者たちはすでにカリブ海で活躍しており、フランス船はポルトガル
 船の後を追って、西インドの海を浸透していた。
◆ヘンリ八世編成の雑多な海軍◆
 ポルトガル人の東方交易は、国王が運営する独占公社である、リスボンのインド商務院
 [1503年セビリアに設立された交易と植民地の統制機関]の管理のもとで行われていた。ポルト
 ガル人は1510年ゴアを占領し、1513年モルッカ諸島に到着している。この新しい交易のエキス
 は、[インド南西部の]マラバル海岸で、主として取り引きされたコショウであった。それは比較
 的少数の船による交易であった。なお、その関連で、自称中国人商人の一行が台風にあって
 吹き流され、1543年偶然、日本を発見している。
  ヨーロッパ内の主な交易システムも急速に発達し、より多くの船や船員を必要とすることとな
 った。1540年代、すでにペルーからのスペイン人たちの掠奪品はヨーロッパに到着しており、
 銀鉱山もメキシコで始まっていたし、輸入されたニグロ奴隷によって栽培される、砂糖プランテ
 ーションを基礎にした、スペインの植民地社会がカリブ海に設立されつつあった。1543年、アメ
 リカと交易していたセビリアの商館のほとんどは、コンスラード[王権に承認された規則を持つ
 組織であり、セビリアの組織は奴隷貿易の独占権を持っていた]と呼ばれた強力な商人ギルド
 に統合されていた。なお、このギルドは政府の厳しい統制のもとに置かれていた。
  1545年、ヘンリ八世はフランスと闘うため、艦隊を召集した。この艦隊は軍艦56隻(マリー・ロ
 ーズ号はその1隻)と、用船のガレー25隻、私掠船60隻、商船40隻−合計181隻が含まれてい
 た。また、それらのトン数は12,455トンを数え、1,000トンのヘンリ・グレース・ア・デュ号あるいはグ
 レート・ハリー号が含まれていた。その船は、イングランドでそのときまでに建造された最も大
 型船であったが、スコットランドのジェームズ五世は1512年にそれより大型のグレート・ミッシェ
 ル号を艤装していた。
  グレート・ハリー号は3層のデッキ、4本のマストを備えていた。そのマストの数にはバウ・スプ
 リットやスプリットスル・ヤードは含まれていない。メンマストの高さは75フィートであった。その他
 の船も最新の装備であふれており、大きさは40トンから450トン、乗組員は32人から300人と様々
 であった。
  船員の多くは、軍隊勤務するよう徴発された商船船員たちであり、月に6シリング8ペンス(1エンジェ
 ル、古金貨)が支払われた。その戦争で、船員たちは疫病にかかった。当時、イタリアのような
 検疫規則はなく、その必要も認められていなかった。最終の点呼名簿によると、最初の10日間
 で召集された12,000人のうち、健康であったものは3分の2に止まった。国王は艦隊を解散せざ
 るをえなくなり、かれが1547年死ぬ直前に、戦争は終わった。
  しかしヘンリ八世には得るものがあった。海軍が創設されていたが、1546年の海軍委員会の
 設置によって、国王は海軍を編成する手段を獲得した。かれの父と同じように、大型の商船が
 建造されると、1トン当たり4-5シリングの下賜金を支給し、また船舶の定期的な検査やセンサスを
 始めている。
  さらに、海岸や入り江の浮標や灯標を改善する動きもみられた。その起源となった[ロンドン
 南西部のデットフォド・ストランドに]トリニティ・ハウスが1514年勅許され、他に2つトリニティ・ハ
 ウスがハルとニューカッスル・アポン・タインに設立されている。しかし、そうした協会は1547年
 に再組織されて、はじめて成果を上げるようになる。その協会は、灯台や浮標(ブイ)、標識(ビ
 ーコン)の点検ばかりでなく、新たな仕事として、水先案内人の試験の実施と、免状の発行、そ
 の取り締まり、そして商船で働く士官と水夫たちの紛争の処理が付け加わった。それはシーマ
 ンシップの水準を引き上げ、船員の無知による海難を減らすことが目指されていた。
◆航海者の豊富な職業用具、ガレオン登場◆
 それより20年前[1521年]、ピエル・ガルシの『大水路誌』が翻訳され、イングランド版が出回っ
 ていた。それは15世紀の水先案内書より進んでおり、詳細な記述、現代に通じる岬の側面図、
 潮位の測定や月の相に関する情報、北極星によって時刻が解かるグラフ、そしてオレロン法
 の写しが含まれていた。イングランド版は少なくとも6刷りされ、再版毎に追補されていった。
 1536年に修理され、その後遭難したマリー・ローズ号から、コンパス1組や腕時計といえる日時
 計といった細工物が見つかっている。当時の船長がどういったものを持ち歩いたかを示す資
 料として、[デボン州の]バーンスタプルのミッシェル号の船長ジョン・アーバラが1533年に残して
 くれた財産目録がある。
  そのなかには、10シリング相当のコンパス2つ、バレストーbalestowあるいはクロス・スタフ1個、
 コードランド1個、天然磁石1個と26シリング8ペンス相当のランニング・グラス(砂時計)1個、ラター
 (水先案内書)1冊(これは、イングランドに加えカスティリャについて、18か月分をまとめたもので
 あった)、40シリングのポルトガル発行の「リポータリーreportery」(多分、船員のマニュアル)1冊、
 そして6シリング8ペンスかかったガラスに入った地図1枚であった。かれはレバント[地中海東沿岸
 諸国]地方の方向指示盤または海図、リュート、そして福音書を持っていた。
  水先案内人は航海の度毎に雇用され、航海技能を持ち合わせていることが期待された。ロ
 ンドン[東部ドック地区]のラトクリフに住んでいたリチャード・ホールは、1539年、一つの記録を
 残している。かれは[スペイン南部の]マラガに向けの航海に、船長として乗り組んだが、船主
 はかれが「当該航路のある方向指示盤にプリッキングすれば」、5シリング以上の給与を約束して
 いる。それは船のコースを選び出し、それを海図にマークすることであった。
  当時、海上での砲撃術が最重要な事項になった。マリー・ローズ号は1509年建造され、1545
 年に転覆しているが、アッパー・デッキの下に砲門を空けた、イングランドで最初の船であっ
 た。オランダ人がバスといった商船を発達させているあいだに、イングランド人は軍艦を発達さ
 せ、交易に使う船との区別を大きくした。1540年代、クリンカー様式で外板を張った船は、それ
 では重い大砲を積むことができなくなったため、あらゆる種類の軍艦にはもはや使われなくな
 った。小型船を除き、クリンカー建造方式は商船についてもすたれてしまった。
  そのころ、カラックは改良され、16世紀の第2四半期スペインでは、ガレオンgalleonと呼ばれ
 るようになった。数年もしないうちに、それはポルトガル、ジェノバ、ヴェネチア、そしてイングラ
 ンドの海軍に普及していった。軍艦は、通常、ラテンスルを持ったボナベンチュア・マスト、続い
 て、フォアマスト、メンマスト、そしてミズンの4本マストであった。そうした船のフォアマストには、
 コース[大横帆]またはボトムスル[下帆]とともに、トップスルが付いていた。また、ミズンにはラ
 テン・トップスルが付いていた。さらに、スプリットスルも付いていた。
  こうしたタイプの軍艦は1588年までに支配的になっていったが、イングランドで発達した他の
 様式のガレオンは時代遅れになってしまった。ガレオンは、16世紀末までに遠隔地交易の航
 路を支配するようになった。船は操船しやすいく、耐航性が高まったので、そうした改良を最大
 限生かせるような、適切な操舵を求められた。オーク材がそうした船の造船に好んで用いられ
 るようになった。いま一つの改良は甲板のビームを補強するため、ピラー[支柱]が立てられた
 ことである。
  マリー・ローズ号に乗っていた発見探検者は、16世紀のある船員とその生活についていろい
 ろ学んでいる。船員は、皮革またはキャンバスの靴、毛糸の靴下、だぶだぶした半ズボン、袖
 のない皮革のチョッキ、そして編んだ毛糸の帽子を身につけていた。また、木製のクシと刺繍
 のある皮の財布を持っており、わらぶとんと船員用のチェストを持ち歩いていた。かれは、ダイ
 ス、ドミノ、スゴロクなどで賭け事をしていた。ヴァイオリン、テーバー・パイプあるいはショーム
 [オーボエの前身]を楽しんでいたし、乗船中の水夫のなかにはボースンの呼ぶ笛を持ってい
 た。それは第二次世界大戦まで、水夫長の助手が使っていた。
  かれら船員は皮製のビンから自分の飲み物を注いで飲み、港の近くいるあいだは生の豚
 肉、牛肉、マトン、あるいは鹿肉を食していた。正式の食料は7日のうち、4日は1ポンドのビスケ
 ットと1ポンドの肉、そして3日は肉の代わりに、干し魚とチーズであった。かれは機会があるた
 びに、魚つりして塩引き食品を補給していた。大量のビールを飲んでいたし、豆、プラム、ハー
 ブ、スパイスを常食していた。
  理髪師-外科医の器具のなかには、木製の軟膏つぼ、陶磁器の薬細口ビン、薬剤用のフラ
 スコ、かみそり、白ろうの放血ボール、尿道洗浄器、保温なべ、小さな木炭火鉢、そして木製の
 木づちが含まれていた。男たちは、戦争で負傷すると、ジョン・ホーキンズと同じように、かれら
 の叫び声が仲間の士気を鈍らせないよう、船倉に寝かされた。
◆ロンドン=アントワープ基軸の成立◆
 私掠船は個々の戦闘を効率よくやり遂げるようになり、またイングランドの船や船員の戦闘
 力はスペインを急速に上回るようになった。イングランド船はスペイン船よりまだまだ小型であ
 ったが、設計がよく、取り扱いやすく、風に向かって帆走できた。その成果は次の50年間、イン
 グランドの戦力が顕著に向上し、また交易の野望が膨張したことで立証される。しかし、1550
 年まではわずかであり、イングランドの商船隊の規模は小規模のままであった。
  当時のイングランド基準からいって、多額の資金が海運に投じられていたとはいえ、危険な
 遠洋航海に投資するまでの余剰な資本は少なかった。偉大な探検航海物語が繰り返し語られ
 ているが、ほとんどの商船は専ら近回りの、決まりきった航海に従事し、ありふれた商品を輸
 送していた。その重要さを確認する必要がある。1500年以後、大西洋に新しい海運市場が
 徐々に成長し、イベリアからフランダース、次いでブリュージュ、そして1550年にはアントワープ
 へと北上していったが、アントワープは広くヨーロッパの交易と信用のセンターであった。
  東方のスパイスの託送品が1501年アントワープのポルトガル商館に着いている。その後、ア
 ントワープは急速に北西ヨーロッパのスパイスの主要な流通センターとなっていった。スパイス
 やアメリカの銀はポルトガルやスペインを経由した上で指定業者、主としてイタリアやドイツの
 銀行の手元に流れ込み、それに伴ってヨーロッパ全体の交易の拡大が加速された。他方、そ
 れはイタリアの都市国家を弱体化させ、毎年イングランドや低地帯諸国に向かうガレー船隊の
 利益を少なくした。この組織的な帆走は1532年をもって打ち切られた。他の効果は、イングラ
 ンド、特にロンドンの地位が新たな重要性を増したことであった。
  ロンドンはイングランド随一の商業都市となっていた。ロンドンはヴェネチアと比べようもない
 が、[イタリアの]ベローナやチューリッヒに匹敵する都市となり、16世紀前半、毛織物輸出が爆
 発的に増加して沸き返ることとなる。その結果、ロンドンの商人の力は強化され、ロンドン−ア
 ントワープの基軸が成立していった。当時、イングランドの羊毛の輸出は5,000袋にまで減少し
 ていたが、ロンドンの毛織物輸出は約3倍も増え、1500年の約49,000反弱から1550年には約
 133,000反弱となった。1550年までに、ロンドンは毛織物輸出の90l、また一世紀前の2倍の比
 率を手中に収めようになった。
  [海上保険は、古代ローマにさかのぼり、また14世紀、冒険貸借から発展したとされる。イギ
 リスでは、17世紀にエリザベス1世時代のロンドンで定着したという。その先駆けであるかのよ
 うに、]海上保険や代理店の利用が増え、それらが当たり前となった。例えば、1548年、トーマ
 ス・キャバルチャンティ、ジョン・ギラルデ、そしてかれらのロンドンの会社は毛織物を積んでサ
 ザンプトンから[イタリア・シチリア島の]メッシーナに向かう船に保険を掛けているが、その保険
 業者は、その書面について「その航海計画は確実、堅固であり、ロンドン[・シティ]のロンバード
 通りで、いままで作成されたあるいは今後作成されるもののなかで、最善のものである」といっ
 て満足している。この書面には、9人の保険引受人が署名しており、それぞれ異なった金額が
 書かれている。
  バルト海諸都市の著名なハンザ商人の船は、いまやハルや東アングリア地方の港に現われ
 るのはまれになり、他の国の船と同じように、ロンドンに急激に集まるようになった。そのため、
 東海岸から大型船が消えてしまった。ニューカッスル・アポン・タインからの石炭の平均的な積
 み込み量は、1465年から1552年にかけて半減した。ニューカッスルの大型船は、1465年少なく
 とも250-300トンの船が2隻あったが、1544年にはいまや160トンになっていた。ベリックからテム
 ズ川までの地域に所有されていた240隻以上の平均的なサイズはたった40トンとなり、その多く
 は海外との取り引きしていなかった。1537年から1542年にかけ、イングランド船が年間100隻、
 アントワープや[オランダ南部の]ベルヘン・オプ・ゾームに従うようになったゼーランドの錨地に
 入り、その使用料を支払っている。ハルの船の数は増加したのが、その錨地に入った数は2隻
 だけであった。
  当時さらに長期にわたる沿岸交易や漁業の相対的な重要さは、それに使用された船がおお
 むね小型であったとはいえ、見過してはならない。北海では、タラ漁業だけが200隻以上の船を
 いつも使用していた。その半分はシニック諸港から、他の半分は東海岸から来ていた。

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