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(1581-1588)
―主な内容とその特色― 
 この章(129-148ページ)は、1581年の特許会社レパント会社の設立に始まり、1588年イングランドのスペイン無敵艦隊(この負けるまで無敵という用語はイングランドの造語といわれ、スペインではグラン・アルマダと呼ばれていた)の撃退に終わるまでの、数年を逐年で記述されている。 冒険あるいは私掠商人たちは、すでに見たようにかなり狭い人脈のなかでシンジケートを結んでいるが、さらにその生業を一族の家業とするまでになる。ホーキンズ一家は三代目、ドレイク一家は二代目が現れる。
  いままで、イングランドの冒険商人たちが切り開いてきた交易も、決して高収益で安定した事業ではなかった。そこで、ギルバートはいわばスペインに習って植民地建設に乗り出そうとするが、そうたやすいものではなかった。一世紀前から開発されていたニューファンドランドの漁業は、多国籍人によって組織的に運営されてきたが、それにギルバートは深く関与し、同地をイングランドの領有地と宣言するに至る。
  その当時の冒険商人たち心情が吐露された詩作(?!)が長文掲載されている。かれらの心の高ぶりが示されていておもしろい。
  エリザベス女王は何人かの寵臣を抱えていたが、その一人であるローリーは西方探検の特許状を与え、アメリカに冒険・私掠活動の基地を建設させようとする。こうして、イングランドもスペインやポルトガルに習って植民地を建設していく。その一環として、グレンビルはロアノーク島に植民地を建設するが、その維持は困難をきわめ、またローリーが企画した植民地がチェサピーク湾に建設される様子が記述されている。
  植民地建設なぞは地道な努力であって、手軽に利益が上がる事業はやはり私掠であり、今やそれは日常の活動となり、その最盛期となる。私掠活動の収支と利益の配分について、きわめて詳細な記録が残されているようである。それは単に共同事業の手仕舞い書類として作られたから残ったとはいえ、イングランド人が文書保存に優れた能力を持っていたから残った史料といえる。
  長年にわたるイングランドもスペインとの紛争状態に決着をつける時が来る。1588年のスペイン無敵艦隊の敗北とイングランドの寄せ集め艦隊の勝利について、海戦の経過や、提督の経歴、その戦法といった大方の説明以外に帆装や舶載砲の改良、乗組員の少数精鋭化について、また多数の乗組員の死亡が戦死でなく、病死や溺死が圧倒的であったことや、艦長の不正についてふれる。こうした記述に本書の独自性がある。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆レバント会社の設立◆
  1580年、ポルトガル王ヘンリ [エンリケ一世、1512-80、在位1578-80]が死ぬと、自分の妻を
 通じてある要求を突き付けていたスペインのフェリペ二世はヘンリの居城を差し押さえる。ここ
 に、スペインはイベリア半島を完全に掌握するとともに、シシリー島、ナポリ、サルディニア、ミ
 ラノ公国、そしてベルギーとオランダの領地、さらにアフリカにあるポルトガルの植民地、東イン
 ドの全部、そしてフェリペ二世の観点では、アメリカの全部を領有していた。こうした広大な帝
 国のスペインの統治は、ピーク時の権力が絶大であったので、イギリスの同じ規模での帝国の
 統治と同列に置くことはできない。フェリペ二世は、船積された銀だけでも、「王の半分の取り
 分」として、年間約200万ドカートあるいは500,000ポンドを受け取っていた。1580年以後、フェリ
 ペ二世は新しい探検やそれに関連する交易に参入しようとするイングランド人の要求に対し
 て、いままで以上に権力を振るえる立場に立った。
  商業上のきわめて重要な試みとして、1581年のレバント会社に対する特許状―その最初の
 期間は7年間―を上げることができる。バルト海では、デンマークが力をつけ、イングランドの
 北方航路における交易を再び制約するようになった。ロシアの川を下ってペルシャへ向かう航
 海に利益が上がるという見込みはなく、またセント・ニコラスからの帰り荷は不適当なものであ
 ったが、いまなお東方へのルートより重視されていた。
  エドワード・オズボーン卿は、1575年コンスタンチノープルに代理人を派遣しており、また1579
 年のイーストランド会社の設立に主要な役割を果たしていた。それに加え、新設のレバント会
 社の総裁になっている。その会社の有力者はリチャード・ステイパーやバーバリ交易商人であ
 った。かれらは毎年のように、「あらゆる種類の生地、高品質の染め上げと仕上げのカージー
 織り、スズ、鉛、そして黒ウサギの皮」といった、売れそうな商品を積んだ船を送り出していた。
 輸入品には、オイル、インディゴ(バーバリ交易では砂糖に次いで額が多く、細葉大青よりはる
 かに良い染料であった)、原生糸、スパイス、麻薬、小粒干しブドウ、クレタ島のワイン、綿布や
 綿糸、グログラム(生糸とモヘヤを素材にして作られる)、チャムブロッテ(ラクダの毛が素材の
 一つとなっている)、カーペット、ミョウバン、アニスの実、そして硫黄が含まれていた。
◆二代目、三代目の冒険商人◆
 マーチャント・ロイアル号とエドワード・ボナベンチュア号は、中規模の女王の軍艦に完全に匹
 敵する船であり、イングランド人商人にとって未知の規模と戦闘能力を持っていた。さらに、そ
 れらは1572年以後10年間におけるイングランドの商船の成長と軌を一にするものであり、その
 保有トン数は50,000トンから67,000トンに増加した。そうした船が1588年の[スペインの無敵艦隊]
 アルマダと戦闘することになる。
  ドレイクの世界一周に引き続いて、1582年にジョン・ホーキンズの義弟エドワード・フェントン
 が指揮する航海が行われている。この航海は東インドに足跡を印し、中国に踏み入ることを目
 指していた。フェントンは代理人を中国に残し、言葉を学ばせ、仲買人として使おうとしていた。
 レスターは2,200ポンドを投資していた。ドレイクはバークである持ち船のフランシス号とともに多
 額の金を投資していた。その他の後援者はロシア交易商人であった。2隻の大型船、ガレオン
 のレスター号とエドワード・ボナベンチュア号(後者はカンディアから戻っていた)は交易用などの
 商品を「深々と積み」、フランシス号やピンネスのエリザベス号とともに船隊を組んでいた。
  すでに死んだ人物からみれば孫、またジョンの弟ウィリアムの息子である三代目のウィリア
 ム・ホーキンズが副指揮者となっていた。世界一周に加わっていた二代目のジョン・ドレイクも
 加わっていた。フランシス・ドレイク、フェントン、そしてかれらに協力した船長たちが「学問の偉
 大な保護者」となる。オックスフォードのオール・ソールズ・カレッジの若手評議員であったリチャ
 ード・マドックスが、レスターの船の牧師に指名されている。女王は用心して投資していない。そ
 の船隊をまとめる力が欠けていたからである。かれらのあいだで口論が起きたため、ギニア海
 岸沖で時間をつぶしてしまい、その間、乗組員は熱病で死に、遂にかれらは何も積まずに、南
 アメリカから戻っている。
  その同じ年の年末、二代目のウィリアム・ホーキンズは、いまや60歳になっていたが、ジョン・
 ホーキンズの21歳という若い唯一の息子のリチャードを副船団長にして、ロンドンのプルムロ
 ーズ号(100トン)、バークのヘイスティング号(100トン)、そしてフランシス・ドレイク卿の持ち船2隻、
 いずれも100トン、そして80トンのピンネス1隻を引き連れと出帆している。この船隊はマゼラン海
 峡を通過するつもりでいたが、ベルデ岬諸島にあるサンチャゴ島まで帆走して来たところで、
 多数の乗組員に反乱を起こされる。そこから西インド諸島に帆走し、そこでホーキンズは慎重
 に交易し、利益を上げたようである。そして、マルガリタ島では海底の真珠をさらいし、次いで
 プエルト・リコを訪れ、その後1583年11月プリマスに帰っている。
◆ギルバートのアメリカ植民の失敗◆
 アメリカへの植民が公然と呼び掛けられても良い状況になりつつあった。ハンフリー・ギルバ
 ートは、1578年の特許状に基づいて、新しい探検と植民地の建設に取り付いていた。かれは
 いまや5隻の船を集めるまでになっており、その最大の船はウォルター・ローリーの異母兄弟が
 用意したものであった。
  1583年4月、クリストファー・カーライルはウォルシンガムの愛息子で、前年のロシア会社の交
 易シーズンにタイガー号の指揮者となっていたが、「アメリカ各地への将来の航海に関する簡
 単、簡潔な講話」というタイトルの宣伝文を刊行している。かれは、既存の大陸とアフリカとの交
 易は不安定で後退しており、またロシアとの交易について「ロシア会社では、どれくらいの利益
 が上がるかどうかにお構いなく、80,000ポンド以上のコストが費やされ、すでに維持困難になっ
 ている」と主張している。そうした状況は、航海の状態が年毎に変わり、大使の費用が大きく
 (会社が支払っていた)、デンマークとの競争が避けられず、デンマーク王から妨害される恐れ
 があり、またロシア皇帝の気分や取り引きの仕方に関わりがあった。スペインやポルトガルに
 向けて、年間2倍ほどの船隊が航海するようになったが、拿捕される危険性が常にあった。ア
 ルジェリアでは、船員は身の代金を要求された。
  カーライルは大西洋航路における急ぎ働きを推奨するとともに、アメリカの天然産品―魚、材
 木、なわ、毛皮、ワイン、ワックス、蜂蜜、オイル(オリーブが植えられている場合)、そして塩や
 その他鉱石―は、ロシア交易品よりはるかに利益が上がる投資となると、強調している。
 そのころ、イングランドでは国中で投機が起き、物価が引き上げられていた。この物価の上昇
 が、北アメリカの征服や植民について、いままでとは違った提案を促すこととなった。1578年、
 老リチャード・ハクルートは法律家で、同名の航海記収集家のいとこであるが、植民地の価値
 について新しい産業の基盤として役立ち、鉱石や未知の産品の供給地となると強調している。
 そして、植民地はイングランドの産業に新規の排他的な市場を提供することになると指摘して
 いる。
  アンソニー・パークハーストは、ジョン・ホーキンズと一緒に北アメリカに航海した人物である
 が、イングランド人への安い食料の提供に価値を見出している。植民地はスペインに対する基
 地となった。他方、イングランドのカトリック教徒は、国内の抑圧から逃れる手段として、植民地
 に関心があった。事実、1582年7月6日と1583年2月28日、ギルバートは北アメリカ本土の850
 万エーカーと沖合いの7つの島を、カトリック教徒に割り当てている。かれらはその約束された
 土地に自分たちでたどり着くつもりになっていた。こうした取り決めは、かなり前からすでに政
 府のメンバーによって提案されていたし、そうした方法によってカトリック教徒と縁が切れれば、
 これほど良い案はないと考えていた。こうした売りにあやかって、ギルバートはその遠征で一儲
 けしようとしていたのである。
  1582年11月、ギルバートは特許状に基づく商業特権を行使しようとして、「ハンフリー・ギルバ
 ート卿主宰冒険商人組合」といった商業組合が作っている。その本店はサザンプトンに置かれ
 ていた。強力な宣伝が行われたにもかかわらず、ロンドンやブリストルの商人はこのギルバー
 トの企画に冷淡であった。その結果、この遠征は資金不足となってしまった。
◆ニューファンドランドの多国籍人の漁業組織◆
 ギルバートは、1583年7月、かなりの量の交易商品と260人を乗せ、出帆している。その遠征
 旗船はデライト号(100トン)であり、僚船はスワロー号(40トン)、ゴールデン・ハインド号(40トン)、スク
 イレル号(10トン)、そしてバークのローリー号(200トン)であった。後者は何と2日後にプリマスに戻
 ってきている。最初に立ち寄った港は、ニューファンドランドのセント・ジョンズであった。
  当時、ニューファンドランドの漁業はすでに一世紀経っており、公認されてはいないが、無理
 のない国際組織が設立されていた。イングランド人、フランス人、バスク人、そしてポルトガル
 人がニューファンドランド沖で漁労していたが、老ハクルートはイングランド人が最も良い船を
 持っていたと信じており、「かれら以外の人々に規則を提示し、その湾における他の人々の擁
 護者になっていた。すなわち、かれらは漁船団長として、人々に例えば船にどれくらいの塩を
 積むべきかといった、様々な知識を授けていたし、また海賊やその他乱暴な侵入者が来た場
 合人々を守る慣行もいままで通り行われていた。かれらは海賊たちによって良い港からいつも
 追い立てられていた」といっている。
  勿論、イングランド人がいつも漁船団長であったわけではなく、船長たちが交代でその役目
 を果たしていた。漁業者たちは、ギルバートがその現場に着く前から、友好的かつ効果的な組
 織を持っていたようである。かれらは毎週新しい団長を選び、また団長と船長は紛争を裁決
 し、また各船の巡回方式を確立していた。陸上では、魚の日干しが秩序だって行われており、
 漁業者たちは赤紫色の野生バラが植え、またかれらが5月に着いたときにえんどう豆の植え、
 8月に取り入れる菜園を設けていた。ギルバートが着いたとき、セント・ジョンズの港には36隻
 が入っていたが、そのうち20隻はスペインまたはポルトガルの船であった。
  さて、スワロー号の乗組員のほとんどが海賊であった。その船は、すぐさま乗組員として雇わ
 れていた、かれら「陸揚げ人」に乗っ取られる。「かれらはテークル、セール、ケーブル、食料、
 そして装具一式をくまなく探し奪い去っていった。かれらから、気にいらないといって拷問され、
 (頭の周りにひもを巻きつけられて)鞭打たれるといったことはなかった」。
  前年8月、ヘンリ・アウトレッドは有力なサザンプトンの商人であり、ギルバートの冒険に資金
 を出していたが、自分の持ち船サザン・フォチューン号とジョン・ペロットの持ち船ポピンジェイ
 号を、ニューファンドランド沖で掠奪を目的にして出帆させている。それらの船は重武装してお
 り、3隻のポルトガル船を拿捕、掠奪している。ただ、セント・ジョンズに入っている漁船船隊は、
 ギルバートを両手をあげて歓迎していたわけではなかった。そのとき、ギルバートは反対されず
 に入港しているが、それはかれらが外交を配慮したからであり、さらにポルトガル人たちがか
 れに生魚、ワイン、ママレード、そして「崩れていないラスクやビスケット、未使用のオイル、そし
 て日干し珍味」を買うよう、勧めていたからである。
  ギルバートは、イングランドの王冠に基づき、ニューファンドランドの領有を正式に宣言してい
 る[1713年、ユトレヒト条約によって、正式に認められる]。その後、かれはスワロー号に病気の
 船員を満船して帰国させる一方、残りの船隊を引き連れ、大陸に向かっている。その道筋で、
 デライト号は浸水、沈没し、8人以上を失っているが、16人の生存者はボートに乗ってニューフ
 ァンドランドに戻っている。かれらは、えんどう豆とベリー[しょうが]を食べて生き延び、[フラン
 ス・ガスコーニュの]サン・ジャン・ド・リュズの捕鯨船に拾い上げられている。
  ゴールデン・ハインド号と、ギルバートが乗った小型のピンネスのスクイレル号が帰帆するこ
 ととなった。この2隻がアイルランドに近づいたところで、悪天候に巻き込まれ、ゴールデン・ハ
 インド号に乗船していた男たちはギルバートに大型の本船に移るよう主張した。しかし、かれは
 いまいる船に留まり、読書し、記録を取り、「われわれは陸の上と同じように、海の上でも天国
 の近くにいる」といっていた。それがかれの最後のシーンとなり、スクイレル号は嵐のなかに消
 えていった。
◆冒険商人たちの動機と性格◆
1583年11月、ギルバートとともに北アメリカの土地のカトリック教徒への分与に関与していた、
 ローマ・カトリック教徒のジョージ・ペックハム卿は「最新探検実話」というタイトルの冊子を刊行
 している。それにはフランシス・ドレイク卿、ジョン・ホーキンズ、マーティン・フロビシャー、アンソ
 ニー・パークハルト、そしてアーサー・ホーキンズの詩作も含まれていた。ここに引用するトーマ
 ス・チャーチヤードの文章は、ドレイクがそのまま真似ている
だれもが、善行で、金をつかみ、名声を高めようとする、
 心臓、技量、財布を自分の欲望のため、搾ぼろうとする、
 いくら名を上げても、その後には、何と渇きが残るだけだ、
 見よ、そこにあるのはかれを永遠に有名にした手段だけだ。
 だれかれもが、賞金や財産で、家柄や血統を良くしたがる、
 十分に注意し、骨を折って働けば、望みはすべてに繋がる
 だれかれもが、まず闇雲に、あれこれの交易に挑み掛かる、
 見よ、そこで国民も個人も、賞金稼ぎの企みに取り掛かる。
 その男は、美徳のために、あちらこちらと探検に立ち向かう、
 熱意に燃え、真面目に勤め、信仰をもって恐れに立ち向か
う、
 いずれにしても、神聖なる仕事に打ち震えるしかない、
 自分に与えられた手段で、公の目的を果たすしかない。
 まずは、どんな身分のものにも、この文書は開かれている、
 名声への道、熱意の証明、金の獲得の方法は示されている。

 これら一節一節は、国家の膨張に関わったエリザベス時代の人々の動機や性格を示してく
 れていて、興味深い。アーサー・ホーキンズは書いている。
友よ、取引所に行けば、男が話し掛けてくるにちがいない
 しかじかの品物を、その男は売りつけてくるにちがいない
 とはいえ、必要なものがあっても、見つかるのはまれだ、
 手っ取り早く金に換えて、利益にならないことはまれだ
 自分が見逃していても、相手はしっかり見つめている
 そこにめぼしいものがある−買う積もりになっている。
 良いブドウが供給されれば自分のワインを作れるはずである、
 スペインのおいしい果物、イチジク、新鮮なオレンジがある、
 斑点のあるロシア毛皮を送ってくるのは、東方のからの住民、
 松やに、ピッチ、もみ板を扱う、ダンチッヒやデンマークの住民。
 ここでは、鉱石が並べられ、火が消えることがない
 物欲しげな心は高ぶり、欲望が留まるところがない−
 約束を取り結ばれれば、それが着手となる、
 他の土地の、あらゆる品物が、手元に入る−
 そしてお手ごろの値段では無理でも、手に入れられる−
 つまらないものが、非常に多いので、苦労させられる。
 どんなことでも、イングランド人は耳を貸してくれる
 それも取り引きだ。神は聞いたことを守ってくれる。
 信心深いので、スピードが出るよう、船をしつらえる
 自分たちの清い心を、必要に応じて、キリストに伝える。
 なぜ支払う必要があるのか。運賃は、値段に含まれている、
 神に仕えるほど、大きな儲けになることが、解かっている。

◆寵臣ローリーの探検事業◆
 北ヨーロッパの冒険商人による毛織物交易は、ある強固な方法を見出しながら続けられてい
 たが、当時、苦境に陥ったある資本家は、利益を上げるには私掠しかないと考えている。1584
 年、事実、プリマスでは、掠奪品は外国貿易より多額であった。
  ウォルター・ローリーは、1583年の遠征に金銭面で関わりがあったが、ギルバートの死後、ア
 メリカ植民計画の発起人なっている。この計画は紳士階級に向け呼び掛けられていた。このこ
 ろ、ローリーはエリザベス宮廷の主立った寵臣になっており―1585年ナイトに叙せられている
 ―、女王に西方に膨張し、探検する決意を促す目的で、人々に大きな影響を与えた「西方計画
 に関する論文」の取りまとめを、自分の息子に任せるよう、ハクルートを説得している。その論
 文のおかげで、女王は1584年にローリーに特許状を授けている。それはギルバートに与えら
 れたものとほとんど同じものであったが、ニューファンドランド漁業は除かれていた。
  すでに述べたように、ギルバートはディに1580年北緯50度以北の土地に関する権利を譲って
 いたが、ディは1583年になると、その譲られた権利をハンフリー[・ギルバート]の弟であるアドリ
 アン・ギルバートと、デボン州のギルバート家の隣人ジョン・デーヴィス[1550-1605、バック・スタ
 フ発明者の一人]に譲ろうとしていた。すでに、1584年ローリーに与えられていた広範な特許状
 は、ジョン・デーヴィスの北西航路のさらなる探検と輝かしい航海を引き出すことになる[詳述さ
 れているが、省略]。他方、ローリー自身はさらに南方の熱帯に植民することに熱中していた。
  1584年は、オラニア公オレンジが暗殺された年であるが、スペインとイングランドの古くから
 の友好関係も明らかに終わりを告げた。イングランドの関心はローリーの北アメリカへの野心
 をできる限り達成することにあった。それらに関する記録は少ない。しかし、1584年ローリーは
 イングランド西部のバーク2隻を送り出している。それらは、フィリップ・アマダス[1550-1618]とア
 ーサー・バーローに指揮され、アゾレス諸島のポルトガル人シモン・フェルナンデスを水先案内
 人としていた。フェルナンデスは1578年のギルバートの遠征に従事し、1580年小型のスクイレ
 ル号をニュー・イングランドにまで引き連れて行っていた。新しい遠征は、より南方のコースを
 取って、北大西洋を横断し、プエルト・リコに上陸したとみられる。
  当面の目標は、北アメリカ本土に根拠地を建設して、私掠活動を容易にすることにあった。
 そうすれば、スペインの西インド諸島やそこから出てくる船隊を攻撃しやすくなった。また、遠征
 のリーダーたちは北カロライナ海岸について、魚や、狩猟動物、値の高い材木が見つかったと
 いった、色よい報告を持ち帰っていた。トーマス・ハリオット[1560-1621、数学者]は、ローリーに
 航海に出るよう吹き込んだ学者であるが、この航海に携わっており、かれは2人の西インド人
 マンテオとワンチスを連れ帰っている。かれらはハリオットにアルゴンキン[アメリカインディアン
 の一種族]語を教え、逆にハリオットはかれらにイングランド語を教えている。
◆ドレイク、スペインと真っ向勝負◆
 1585年、ドレイクは西インド諸島に行くこととにしていたが、その道すがらビゴを掠奪し、その
 後サント・ドミンゴとカルタヘナに押し入っている。
  1585年夏、ドレイクはサント・ドミンゴ沖に現れたことは、エリザベスのスペインに対する開戦
 布告であり、スペイン船隊を拿捕することは、ドレイクにとって企画した主要部分ではないが、
 その一部であった。かれは自分の船隊として25隻を集めていたが、そのなかには女王の船エ
 リザベス・ボナベンチュア号(600トン)とエイド号(250トン)が含まれていた。それ以外は私有船であ
 り、最大の船はガレオンのレスター号(400トン)であり、1582年のフェントンの旗船であった。ロン
 ドンの分遣隊にはプリムローズ号を含まれていた。そうした船以外は西部諸州の船であった。
  ドレイクの旗がエリザベス・ボナベンチュア号に掲げられた。また、旗船の船長はトーマス・フ
 ェンナー[?-1590?]であり、そのころの最も大胆かつ練達の士官であった。マーティン・フロビシ
 ャーは副船団長であり、その旗はプリムローズ号に掲げていた。フランシス・コーリーは、女王
 のいとこでレスターの義弟であるが、レスター号の副船長となっていた。ウィリアム卿の息子の
 エドワード・ウィンター船長はエイド号を指揮し、クリストファー・カーライルは陸戦隊を率いる大
 隊長であった。
  船団長の最も若い弟トーマス・ドレイクはフランシス卿のトーマス・ドレイク号を指揮していた。
 トム・ムーンは老人の一人で、海賊時代のドレイクの忠実な仲間であったが、ドレイクの別の持
 ち船フランシス号を指揮していた。世界一周航海のとき、かれが仕込んだ一味であるジョージ・
 フォルテスクはバークのボナー号を指揮し、ジョン・マーティンはベンジャミン号に乗り、ハクル
 ートが優秀な数学者かつ技術者と書いているエドワード・ケアレスはホープ号に乗り、そしてリ
 チャード・ハクルートがガリオトgalliot[小型ガレー]のデューク号の船長として初指揮を取ってい
 た。総兵力は、兵士、水夫、フランス人、ポルトガル人、そして1人のカステリア人を含む2,300
 人であった。その何人かは強制徴発された船員であった。
◆グレンビル、アメリカ植民地建設◆
 リチャード・グレンビルは、ウォルター・ローリーのいとこであるが、ローリーに代わって、ラル
 フ・レーン[1530?-1603]が同道し、またシモン・フェルナンデスとフィリップ・アマダスを引き連れ、
 最初の恒久的なアメリカ植民地の設営に取り掛かっている。
  ローリーは、女王から、かれが新たに発見したアメリカの領土を、女王に敬意を表して「バー
 ジニア」と名づけて良いといわれていた。かれの提議に受け、女王は持ち船のタイガー号(160ト
 ン)を提供し、またロンドン搭から400ポンドに相当の弾薬を持ち出すことを認めていた。フランシ
 ス・ウォルシンガム卿はグレンビルの航海における有力な投資家の一人であり、またローリー
 自身も少なくともロエバック号(140トン)に投資していた。その船は、その年の初めに海上に出て
 いた掠奪物を探す船隊の補強であった。ブリルの持ち船ウォータハウンド号は、この航海に使
 うために拿捕し、改名した船である。その船の船長や水先案内人はフランス人であり、航海中
 に不幸に見回れたとみられる。
  7隻が4月に出帆している。グレンビルはフェルナンデスを船長にしてタイガー号、ジョン・クラ
 ークはロエバック号、ジョージ・レイモンドはクリスファの持ち船ライオン号(100トン)、トーマス・キ
 ャベンデッシュはエリザベス号(50トン)、そしてアーサー・バローがドロシー号(50トン)に、それぞれ
 乗船していた。他の2隻はピンネスであったとみられる。この船隊は全体で600人を乗せていた
 が、300、400人は植民であった。
  スペイン人たちはすでにフロリダに植民地を建設しており、東北アメリカ海岸に他の国民が
 立ち入ることを拒み、1565年ホーキンズがそこを立ち去った後、フランスの植民地を破壊して
 いた。グレンビルはプエルト・リコ沖の小島に停泊し、嵐で失ったピンネスの代船を建造してい
 る。その後、タイガー号とエリザベス号に乗ったグレンビルとキャベンデッシュはこの海域を離
 れ、2隻一組の船を捕獲したり、スペイン人と交渉にして塩を積んだり、その他の交易をしたり
 して、その後5隻が5月29日にイスパニオラ島[ドミニカ]のプエルト・ラ・プラタのスペイン人と交
 易するため出帆している。
  タイガー号はアメリカ海岸に沿って航海しながら、海水に濡れたりまたつぶれたりした、小麦
 や肉、米、ビスケットなどに代わる食品を補給している。それによって植民地は大きな被害を
 受けることになった。かれらは植民地を、[アメリカ・ノース・カロライナ州の]ハタラス岬から40マイ
 ル、ジブラルタル海峡と同じ緯度の北緯36度40分のロアノーク島に建設することを決める。
  ラルフ・レーンは、新鮮な食糧をうるため帰国するというグレンビルの計画に従い、人々から
 離れて行動していた。バミューダ諸島沖で、グレンビルは300、400トンのサンタ・マリア号と金、
 銀、真珠、砂糖、ショウガ、生皮、コチニール、そして象牙といった高価な積み荷を捕獲してい
 る。かれは10月捕獲品を持って帰国し、遠征全体に支出された費用以上の私掠の利益を上
 げている。
 [1586年]7月19日、フロビシャーはプリムローズ号に乗って、安住できなくなったレーンとその
 植民を、ロアノークから連れ帰っている。その植民地には砂糖きびとバナナの木がプエルト・リ
 コから持ち込まれていた。トーマス・ハリオットは、亜麻、麻、木製品、その他輸出品(細長い香
 りのする材木である原産サッサフラス[クスノキ科]の樹液を含む。それは梅毒からくる痛みを
 和らげるのに役立つと考えられていた)は、アメリカで生産されていると報告していた。しかし、
 それ以上の物品を供給しつづけても、また植民地を作っても成功するとは限らなかった。レー
 ンはイングランドに初めてタバコを持ち帰っている[通説では、1585年にドレイクが持ち帰ったと
 される]。同様に、ローリーは喫煙の習慣を持ち込み、またヨーロッパのトマトを、初めてコーク
 近くの所有地に植えている。
  結局、レーンはフロビシャーと別れたことが、不幸の分かれ目となった。その直後に補給船
 が到着したのである。それは、グレンビルが[デボンの]ビディフォードで準備していた、大きな
 遠征の前触れとなった。この遠征は、2隻の大型船と4、5隻の小型船で構成され、その総兵力
 は400人を数え、5月初めに出帆していった。これらの船は往路から捕獲品をえながら、補給船
 が出発した2週間後に、ロアノークに着いている。かれが、レーンと植民が立ち去ったことが解
 かると、グレンビルは急場しのぎとして15-18人の男たちを、2年分の補給品とともに残してい
 る。かれは、ドレイクの直ぐ後に帰国しているが、その航海でかなりの捕獲品をえたものの、34
 人を病気で失っている。
  ドレイクが7月に帰国する前の週、トーマス・キャベンデッシュがプリマスから出帆している。こ
 の冒険の準備は、3回目の世界一周を達成するためのものであったが、適切なものであり、キ
 ャベンデッシュの持ち船120トンのデザイア号と、さらに40トンと60トンの船が含まれていた。その構
 成員は123人であり、2年間の食料を積み込んでいた。
◆ローリーのバージニアへの執念◆
 1586年8月、ジョン・ホーキンズは東インドから帰帆中のカラックや西インドから帰帆中の財宝
 船を掠奪するため、海に乗り出している。ところが10月、約16隻の船隊はポルトガルやスペイ
 ンの船隊を捕らえそこない、帰国してきている。その1隻のスペイン船は250万ポンド相当の金
 やその他商品をヨーロッパに持ち帰えろうとしていた。当時の厳しい経済問題は、スペインの
 金銀の延べ棒がインフレーションを引き起こし、いままで以上の費用をかけなければ、海上で
 船を使えなくなっていた。水夫の賃金は、ヘンリ八世治世最後の戦争の際には、1か月5シリング
 から6シリング8ペンスに引き上げられていたが、さらに1か月10シリングに引き上げざるをえなかっ
 た。
  1587年、ローリーは「バージニアと名づけた土地の建設に執念を燃やし」、新しい植民団を送
 り込むことにした。それは男100人、女17人で構成され、ジョン・ホワイトを統領にし、また船団
 長としてライオン号を指揮させ、そしてシモン・フェルナンデスを船長にしていた。それ以外にフ
 ライボートflyboat[運河用快速船]とピンネスを各1隻持っていた。その計画は、グレンビルが帰
 国するまでは、ロアノーク島にいるレーンたちの集団に続けて、かれらのところよりかなり北側
 に、ホワイト2番目の植民地を建設することにあった。そこは[バージニア州の]チェサピーク湾
 に、ローリーが建設した町の一つとなった。
  しかし、グレンビルが帰国すると、かれが残してきた小集団を補強すべきだということになっ
 たが、いざ当地に着いてみると、かれらの1人の骨以外に痕跡がなかった。ところが、110人以
 上の移住者たちはそれぞれ500エーカーの土地を約束され、ロアノーク島を離れていた。8月
 18日にはバージニア・デアという洗礼名を持つ孫娘が白人として、新世界で生まれていた。
 ホワイトは、「収穫できそうな、あらゆる穀物(とうもろこし)や、大豆、カボチャ、タバコ」を積み、
 フライボートに乗って早急に補給品を集めるため、イングランドに戻ってきたが、その仕事はか
 れには手におえなくなっていた。そこで、ロアノークの植民地の運命は決まった。ローリーや後
 援者たちはすでに約30,000ポンド出しており、その見返りは私掠活動からしかえられなかった。
 植民地の開拓は金が掛かりすぎることが見えてきた。
  そのなかにあって、私掠活動は最も手っ取り早く稼げる手段であった。1587年7月、アルバ
 ロ・フロレスがスペインに向けハバナから、100隻の船を引き連れ出帆しているが、それらの船
 が積まれていたものは1,900万ポンド相当の銀板や、宝石、産物であったと見られている。この
 船隊は安全にヨーロッパに着いている。そのころ、ホワイトはロアノーク島から戻っているが、
 世間はドレイクのカディス攻撃で沸き返っていた。1587年はスコットランドのメアリー女王が処
 刑された年である。フェリペ二世は老いてやけになり、イングランドの船隊を攻撃することを決
 定し、ケントを襲うつもりになった。エリザベスはドレイクに準備を中断するよう発令している。
◆私掠活動の収支と利益の配分◆
 ドレイクは、[1587年]4月2日、23隻を指揮し、出帆した。そのなかには、女王が所有するの4
 隻のガレオンと2隻のピンネスが含まれ、またその冒険資金は共同出資の方式で調達されて
 いた。カディスの港で、ドレイクは37隻の船を破壊したといっているが、スペイン人は24隻だとし
 ている。真実の数字はともかく、集結していたアルマダ艦隊に被害を与えたことは明らかであ
 る。その後、かれはアゾレス諸島沖で、大型カラックのサン・フェリペ号を拿捕している。その船
 はインド洋から帰途中で、114,000ポンドの豪華な貨物を積んでいた。それはドレイクが遠征に
 掛けた費用の2倍以上の額であった。その航海におけるドレイクの捕獲金額は140,000ポンド
 (1988年価格で1,100万ポンド)に及んだ。そのうち、女王に40,000ポンド、ロンドンの商人に40,000
 ポンド、ドレイクに17,000ポンドが配分され、その残りがその他の冒険投資家に分けられた。そ
 れぞれの額から費用が差し引いたとしても、それぞれの利益は余りあるものがあった。
  そのころ、エリザベス二世時代の自動車生産と同じように、エリザベス一世時代の私掠は、
 経済的に十分成り立つ事業になっていた。グレンビルの西インドにおける稼ぎ高は、1585年航
 海のサンタ・マリア号を含め50,000ポンドであったが、戦利品の配分は税関に現金2,500ポンド、
 船団長には手厚く(10分の1の)5,000ポンド、乗組員への分け前に14,000ポンド、そして船用品に
 14,000ポンドとなっている。海上で6か月間、7隻の船を維持するために3-4,000ポンド掛かり、ピ
 ンネスを1隻失っただけだったので、船舶への投資額2,000ポンドに対する損失額は200ポンドに
 止まった。用船した船は修理する必要があり、また予知しない費用が掛かったとはいえ、500ポ
 ンドを超えることがなかった。また、ラルフ・レーンから任された連中の賃金や消耗品のために3
 -5,000ポンドかかっているが、投資総額は7-10,000ポンド台におさまっている。
  冒険商人、船主や船用品業者たちは、一つのシンジケートを結んでいたとみられるので、そ
 の利益は間違いなく20,000ポンドまたは20パーセントほどであった。この種遠征の指揮者は最も価
 値ある分捕り品を隠匿して、全体の利益を小さくしながら、自分の取り前を大きくし、後援者の
 それを小さくしようとしていた。この分析は、勿論、最も利益の上がった遠征についてであって、
 すべての遠征がこれと同じような利益を上げていたわけではない。
  その種の金額が、特許交易について、書き残されている。例えば、1587年のロシア会社は
 13,530ポンド13シリング40ペンスに相当する商品を輸入したと公称されているが、真実の価値はそ
 の2倍であったとされる。1588年のモロッコからの輸入は36,573ポンドと公称されているが、20年
 間に3倍以上も増加したとされている。1589年、エドワード・ホルムデン、後の食料品会社の支
 配人は、ヴェネチアやザンテ[現在のザキントス]から公称8,069ポンドの商品を輸入していたが、
 それは同地域からの全輸入額の約半分に相当するといっている。
   伝統的な大陸との短距離の海上交易も繁盛し、年間100万ポンドもあった。それに対して、長
 距離の海上交易額は年間100,000ポンドを超えることはなかった。それは、グレンビルの捕獲高
 の2倍に当たるが、ドレイクがサン・フェリペ号からえた商品の値打ちより若干、少ない。
◆スペインのアルマダ艦隊を破る◆
 イングランド国内では、ドレイクが1587年に出帆する前から、スペインが攻撃してくるものと予
 想していた。10月9日、イングランドの港に入っている船の出帆を禁止する命令が発せられた。
 これによって、グレンビルは7、8隻の船をロアノーク島に送り出せなくなった。当局は、それら
 の船を防衛に必要上、国内に留まるよう、布告していた。それにもかかわらず、1588年4月、2
 隻の小型船、30トンのバークのブレイブ号と25トンのピンネスのロエ号が、グレンビルから植民地
 を訪れるよう指令され、[デボンの]ビディフォードを離れている。しかし、ブレイブ号の船長アー
 サー・フォシイは私掠あるいは海賊をするつもりになり、その与えられた指令を2隻とも投げ捨
 てしまった。1588年には、それ以外の私掠もみられた。ロアノーク島には1隻も入港せず、グレ
 ンビルやローリーも他のことに熱中していた。
  エリザベス一世の治世は1588年に終わるが[?、在位は1603年まで]、そのとき29隻の軍艦が
 新造され、他の王室船も仕様が変更されている。高い上甲板や細工物は削られ、新しいデザ
 インに従って高さを低められた。そのデザインはピーター・ピットやマッソー・ベイカーといった先
 進造船業者が用意したものであった。スペインのアルマダ艦隊を率いたメディナ・シドニア公
 [1550-1635]とかれの部下の士官は、これらイングランドのガレオンの帆走性能に直面し驚い
 ている。また、イングランドの武装の性能を予想した準備をしていなかったという。
  エリザベス一世の治世、イングランドの鉄製の武器工業は先端を走っており、8つの工場が
 安価で信頼性のあることで有名な大砲を生産していた。それらは、スペインの重い大砲とは違
 って、船用の砲車に乗せられ、点火しやすいようになっていたので、イングランド人は最も優秀
 な砲手となっていた。至近距離での片舷斉射という重圧や、特に風上に向かっての切り上がり
 に際して、イングランド人はスペイン人より優れていたし、また様々な海戦における戦術を記録
 するまでになっていた。
   勿論、すべてが完全であったわけではなく、多くのごまかしもあった。ウィリアム・ウィンター卿
 の持ち船エドワード号はその全体を、またそのメアリー・フォチューン号は要部を政府の材木を
 使って建造していた。女王や廷臣たちは王室船をしつらえるために、約2倍の費用を支払って
 いた。それら王室船は、現在も、普通の商船と見分けがすぐにつき、主要なヨーロッパの軍艦
 が19世紀半ばまで引き継がれてきたタイプの船であった。
  艦長たちは、賄賂を取って乗組員を軍務から解放したり、武器や賃金を隠し込んだりしてい
 た。事務長は、船用品を盗んだり、不正な仕入れをしていた。コックは食料品を売り、掌帆長
 は艤装品や索具をくすねていた。船用品の積み込みの回数は限られていた。1588年の夏のよ
 うに嵐が吹くと、海上に長期間留まらざるをえず、船は補給品を使い尽くした。それでも、イン
 グランドの水夫はスペイン人よりましな食事をしていた。
  ホーキンズは、マーティン・フロビシャーなどとともに、アルマダ艦隊との連勝を理由に、[ノッ
 ティンガム伯チャールズ・]ハワード[1558-1624、海軍長官、陸海軍総司令官]からナイトの称号
 を与えられた。かれらは乗組員の数を減らすことでもって、艦隊の戦闘採算を向上させてい
 る。ホーキンズの軍艦は積トン2トン当たり1人であった。商船では8トンまたは積トン13トン当たり1
 人以下であった。1582年までの軍艦は積トン1.5トン当たり1人であった。
  ポルトガルとスペインの商船隊は総計250,000トンといわれ、イングランドの4倍に相当する。そ
 れにもかかわらず、128隻のアルマダ艦隊に対して、イングランドは197隻でもって向かってい
 る。それはイングランド船の1隻1隻のトン数が非常に小さかった。スペイン側についた兵力は
 約30,000人で、それはイングランド人の約2倍であった。
◆短期間の海戦、多数の病死と溺死◆
 アルマダ艦隊の一部が、1588年7月29日シリー諸島沖に姿を現し、ポートランド[・ビル岬]沖
 で8月2日戦闘が起きた。双方の艦隊は、8月5日サセックス・ダウンズ沖で無風に巻き込まれ、
 翌日カレーの沖合に錨泊することとなった。メディナ・シドニアの艦隊は、敵とあい見えるという
 危険な位置に立たされた。その艦隊がセールを上げたとき、そこは風下で、しかもカレーまで
 数マイルしか余裕がなかった。ドレイクは、8月8日[カレーの近くの]グラバリーヌ沖で、提督に昇
 進していた。イングランド艦隊はメディナ・シドニアの旗艦サン・マルティン号を攻撃した。西から
 風を受け、南に広がるダンケルクとオーステンドのあいだの浅瀬で、メディナ・シドニアは何とか
 戦力を集結し、北方への帆走を続けた。この乾坤一擲の勝負に、イングランド人たちは自らの
 勝利を信じてもおらず、また戦い抜けるだけの弾薬がないとみられていたにもかかわらず、勝
 利したのである。スコットランド海岸の沖合いで、イングランドは攻撃を仕掛けるが、士気を失
 ったアルマダ艦隊は北大西洋の暴風に巻き込まれ、うろうろするだけであった。
  リスボンを出発したときにいた30,000人のうち、スペインに帰り着いたのはたった10,000人
 で、そのほとんどが長生きしなかった。戦闘で死んだのは1,500人弱であり、半分以上が病弱
 死、餓死、そして病気、また6,000人が海難で死に、1,000人がアイルランドで殺害されたことに
 なっている。一方、イングランド人は、戦闘で100人弱が死んだにとどまる。そのかたわら、6,
 000人ないしは7,000人が病気で死んでいた51。フェリペは自分の艦隊のうち、被害の大きい船
 を含めれば、その半分を失ったことになる。その喪失のほとんどは海上での危険[海難]による
 ものであった。イングランドは1隻も失わず、何隻かが小さな損傷があっただけである。
 この戦争に、女王は160,000ポンドを支出し、バーリー伯が集めた300,000ポンドが詰まった戦時
 金庫は空になっていた。他方、フェリペにかかった費用は約300万ポンドであり、戦争が1604年
 まで続いていたため、スペインの戦力は致命傷を被ることとなった。

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