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(1588-1603)
―主な内容とその特色― 
 この章(149-167ページ)は、スペイン勢力の後退によって私掠活動はさらなる拡大をみせ、またヨーロッパの海事勢力に大きな変化が始まり、1600年のイングランド東インド会社の設立(オランダは1602年)と処女航海の成功、1603年のエリザベス女王が死亡するまでの時期を扱っている。 ハクルートの海外交易の指南書やデーヴィスの航海マニュアルが果たした功績に注目している。アルマダ艦隊の敗北によって、私掠活動はさらなる拡大をみせるが、いつも利益が上がるわけではなくなってきた。ドレイクといえども、私掠航海に失敗しようものなら、女王から悪口をいわれる始末であるし、グレンビルも落命するし、ローリーは女王の寵愛を失う。
  1590年代、大型船の建造ブームとなり、そのなかでチェーン・ポンプの採用、調理室の配置換え、索具取り扱いの改善、船板防臭の強化、錨用テークルの改良、さらにはハンモックの採用といった改良がみられた。それらは、一見さほどでもないかにみえるが、船員たちの船内生活や労働負担の改善にとってきわめて有意義であった。
  1593年ホーキンズの世界周航が企画される。その際の人集め、規律の維持、指揮者の要件についてまとめられている。ホーキンズはチリにおいて拘禁される。長期航海になると、壊血病が船団を襲いかかるようになる。その予防のために、すでにレモン・ジュースが最良とわかっていた。それが学習され、その後、大方の船に普及するには、200年もかかった。
  1595年、ローリーの凋落に加え、ホーキンズやドレイクといった冒険・私掠の大立て者たちが相次いで死亡する。かれらは「海の英雄」として闘ってきたが、その死に方は大方の船員たちと同じように船内での病死であった。宜なるかな。
  イングランドの男たちは私掠に明け暮れるが、オランダ人たちもそれに負けまいと私掠を拡げ、さらにその海外遠征はすさまじく、ヨーロッパ海事勢力に変動が起きる。イングランドは1600年東インド会社を設立する。その処女航海について、その船団や指揮者の構成、交易貨物の品目、東南アジアでの取引、そして全体としての成功が記述されている。そこで注目されるのは、同地の統治者や先着のオランダ人から丁重にもてなされていることである。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆交易の指南書、航海の奥義書◆
 1589年は、2代目のウィリアム・ホーキンズが死に、ジョン・ホーキンズ卿が海軍の会計検査
 官という責務を離れ、1年間の休暇を与えられた年であるが、小リチャード・ハクルートが『イン
 グランド国民の主要な航海、貿易、発見の記録』を刊行した年でもある。それは精根を傾けた
 仕事であった。女王の親密な相談相手であったハクルートの講演や出版、助言は、海外膨張
 を促進させる政治的な役割を果たした。
  スペイン人はいまなお航海のリーダーとしての地位を占め続けていた。かれらはインドに向
 かう船を指揮する人々に指示し、検査していた。ハクルートは航海単科大学または航海総合
 大学が必要だと主張していたし、またドレイクは講師のサラリーの半分を負担してよいと申し出
 ていた。軍艦建造法や船舶機関術の分野は別として、そうした学校は設立されず、第二次世
 界大戦後になってイギリス商船隊と大学とが、初めて相互に関係を持つようになった。
  ハクルートは他の目標についても成功を収めている。その著書のなかで、仲買人や商人が
 海外に出掛ける際に注意すべき事項に関して、多数の文章を印刷している。かれと同名のい
 とこが書いた『コンスタンチノープルでの仲買人のための覚え書き』はその一つであり、それは
 鳥獣や花木の見分け方、それらの特性や使い方の正しい方法についてふれている。
  大リチャード・ハクルートは、「そうした注意を祖先が払っていなければ、われわれの生活は
 野蛮のままであったはずである。われわれは、自分の生活が粗野だといわれる、もとになって
 いたものは別として、小麦もライ麦も、エンドウ豆もインゲン豆も、大麦もカラス麦も、ナシもリン
 ゴも、ワインもその他多くの利益の上がる出来の良い樹木も、雄牛も雌牛も、羊も豚も、雄馬
 も雌馬も、オンドリもメンドリも、その他多くの食べられるものを持っていなかったからである。
 われわれが使っている、これら何千ものものは、この島の最初の住民が知らないものばかりで
 あった」と書いている。かれは見本を取り寄せ、見知らぬ商品の輸入を最終的に決定してい
 る。
  同じ1589年、『マーチャント・アビゾ』(商人通牒)が仲買人たちの指南書として書かれている。
 それは、仲買人たちに「神を不愉快にするもの、体を傷つけるもの、魂に滅ぼすもの、そして命
 を縮めるもの、すなわちワイン、金目のもの、そして女に、貪欲であってはならない」と勧告して
 いる。そうした16世紀の健全な哲学を見ると、敬けんな精神は物質的な成功に優るという考え
 が強かったことが解かる。この指南書は、手紙の書き方(簡潔に書けという)、船荷証券bill of
 lading、為替手形、そして保証の仕方を含んでいる。初歩として、仲買人が旅行中に入港した
 船は悪い場所に停泊させられることになるといっているが、それは適切な指摘である。
  リチャード・ホーキンズが南アメリカに向かっていたころ、ジョン・デーヴィスは1594年刊行の
 『ザ・シーマンズ・シークレット』(船乗りの奥義)を刊行していた。この実務書に、次のように書か
 れている。この本は「帆走術、地平術、論理学という三種のものを学ぶことにある。帆走術とは
 大きな地球を回る方法、また地平術とは潮の干満がすぐに分かる潮汐表の扱い方を習得する
 ことにある。また、太陽の傾きを知るために新たに計算された結果と、今後改定されそうにな
 い、その他多くの必要不可欠な規則と取扱法を含んでいる」。すでにバック・スタフは大幅に改
 良されていたので、デーヴィスがイングランドで2番目の航海術のマニュアルを提供したことに
 なる。
  最初のマニュアルはウィリマム・ボーンの『ザ・レジメント・オブ・ザ・シー』(海の訓練)であり、そ
 れは1577年マルティン・コルテス[1533-89、メキシコ征服者のスペイン人エルナン・コルテスの
 子?] 著、リチャード・エデンの訳本の付録として公刊されていた。デーヴィスの目的は水夫のた
 めの実務書を作り、広範な航海術を修得するときに必要となる科学的な知識を持たせることに
 あった。デーヴィスはこの点に関し、イングランド人は他の国民により劣っていると主張してい
 る。かれの本は1594年から1647年にかけて8回も改定されている。
◆私掠に勝る儲けなし◆
  イングランドの輸出は16世紀末にかけて若干、回復したが、商業そのものでなく商業の掠奪
 が、一時期、主な手段となり、それを通じてイングランド人は資本を蓄積するようになった。ア
 ルマダ艦隊の来襲後、3年間、少なくとも236隻ものイングランド船が私掠活動を行っていたし、
 商船のほとんどがそれに転換していた。少なくとも299隻の船を、400,000ポンドの商品とともに、
 捕獲している。年間の捕獲額は100,000ポンドを超えており、戦前のイベリアとの交易額とほぼ
 等しかった。私掠による収入は、イングランドの全輸入額の約10-15lであった。ジョン・ワット
 卿や、トーマス・ミドルトン卿[1580?-1627、劇作家?] 、ポール・ベイニングといった、ロンドンの
 商人が資本を蓄積しつつあった。かれらは、後述の東インド会社の設立やイングランドの初期
 植民地の建設にほとんど関わりはない。
  すべての私掠遠征が、いつも財宝を積んだポルトガルのカラックを捕獲できたわけではな
 い。271回の遠征を分析すると、1589年から1591年にかけての平均利益は、投資された固定
 資本の60lをまかなう程度であった。ある1、2年に限れば、捕獲品の金額はエリザベス時代
 の国民収入の4lという大きさであった。他方、戦争は船舶、特許交易、そして船員の命を犠
 牲にし、多くの経済的な成果を霧散させた。社会的費用は個々の企業家の勘定のなかにはほ
 とんど入っていなかった。
  私掠船に乗っている船員の生活は、不潔で、猛々しく、もの不足であった。[悲喜劇『フィラス
 ター』1609の合作者である、フランシス・]ボーモント[1584-1616、劇作家]や[ギレス・]フレッチャ
 ー[1585?-1623、詩人]が書いているように、酔っ払い水夫は「乞食たまりや粗末な便所のよう
 に悪臭を放つ」といわれ、すでに嘲笑の的になっていた。それにもかかわらず、私掠は多くの
 船員に評判が良く、大変粗野な愛国心を呼び起こし、敬神と貪欲とがない交ぜになっていた。
  大小、数え切れないほどの遠征がイングランドから出発していった。無名の人々や地方の紳
 士は、ロンドンの商人や地方の有力者、そして女王に促されて、だれかれもが私掠冒険に投
 資していた。1589年、枢密院は敵に武器弾薬や補給品を輸送した船舶の没収を正当化する
 布告を公式に発行している。そして、イギリス海峡を通過するすべての船舶は、海軍卿発行の
 通行証を提示しなければ停船させられることになった。7月、[ジョン・]ノリス[卿、1547?-97、軍
 人、エリザベスに仕える]とドレイクはテガス川の河口で、バルト海からの商品を積んだ約60隻
 のハンザ同盟の船隊を拿捕している。それは、アルマダ艦隊の攻撃に対するしっぺ返しとして
 の効果はまったくなかったが、ハンザ同盟都市にとって人材や資本の面で大変な負担となっ
 た。ドレイクは150門の大砲を持ち帰る一方、捕獲品を30,000ポンドで売っている。その次の2年
 間、少なくとも100,000ポンド相当の砂糖をイングランドの私掠船が掠奪しており、その結果ロン
 ドンの砂糖の値段は西インド諸島より安くなった。この掠奪された砂糖は、新しい食習慣を生
 み出した。
◆ポンプ、調理室、テークルの改良◆
 骨太の大型の船は、ロシアやトルコ、レバント地方の交易のための船として建造されていた。
 1600年には1,000人以上の水夫を雇用するまでに膨張していたが、1590年代は大型船の建造
 ブームであった。ローリーはイングランドの造船に大きな発達があったと特記している。
  かれが目撃した他の改良として、ホーキンズが実用化したチェーン・ホンプchain pumpがあ
 る。それは「普通の使い方で、水揚げ量は2倍となった」という。1590年、ホーキンズは旗船メア
 リー・ローズ号の調理室を、「食料を最良に貯蔵するとともに、南方航路に向かう航海中、乗組
 員の健康を保つ」ため、船倉から上甲板に移している。それまで、約50個のレンガで作られた
 かまどは、火災の危険を減らすため濡れた、船倉の底荷ballastの上に置くのが普通のやり方
 であった。その結果、底荷は押さえつけられ、使い物にならなくなることもあった。しかし、そうし
 た改良はホーキンズだけの孤立した取り組みであり、調理室あるいはギャレーは18世紀にな
 っても船倉に置かれていた。そのころ、ハンフリー・コールが特許測程器を発明しているが、そ
 れは通常の測程索を取って代わるというものではなかった。
  他の改良は、例えばトップマストをどう上手く引き上げるかといった方法や、板と板のあいだ
 にピッチやまいはだあるいは麻を詰め込め、重ね板で船を覆うといったシステムは、すぐさま
 採用されている。錨の上げ下げに使うテークルが改良されたため、錨の重量は増加し、また錨
 索の長さも船の大きさに沿えるようになった。ローリーのアーク・ロイアル号800トンは、船首に同
 じ重さの1トンの錨3個と、1.1トンの予備の錨1個を持っていた。その錨索の太さは直径15インチと17
 インチのものがあり、その長さは100ファゾムであった。衛生設備は未発達であった。そのなかには
 通常、手すりに引っかける、悪天候の場合水夫たちがしぶしぶ使う、危険な止まり木のような
 空箱も含まれていた。
  最も発達した航洋船は、高水準のシーマン・シップと組み合わされるにつれ、中世におけるイ
 ングランド船の拡充と結びつき、冒険商人がその船を雇っても十分やってゆけるだけの、競争
 力のある運賃を提供できるようになった。
◆ドレイクの不首尾、グレンビルの落命◆
 1590年は、多数の捕獲物があったにもかかわらず、海外伸長のなかった年となった。7月、フ
 ロビシャーはアゾレス諸島に軍隊を引き連れ、またドイレクはスペイン海岸を襲ったが、海上
 封鎖というイングランド人の計画は果たされず、またスペイン船の出港も阻止できなかった。ド
 イレクは、1590年、海上から帰国してきて、バースレーにいいニュースはなく、「神の無謬の言
 葉通りになったしまった。聖霊によれば、パウロは草木、アポロは水をつかさどるが、神はお恵
 みを下さる。御身を恐れず申せば、航海の計画や、食料の積み込み、船内のしつらえをよろし
 く整え、そして完全無比な乗組員を乗せていた。そうしたことを、神に愛でていただけるものと
 考え、満足しながら、何ごとにつけ最善を尽くした積もりでいた」と書き送っている。エリザベス
 には何の感慨もなく、「神などいはしない。この馬鹿は兵士として出発し、牧師になって帰ってき
 た」とのたまわった。
  その年、ドレイク、ホーキンズなどが、チャタム・チェストChatham Chestを開設している。それ
 は、傷病船員や老齢船員を救済する基金であり、最初はうまく機能したがしばらくすると腐敗
 のいけにえとなった。そうした一国レベルの保険としての最初の試みを財政的に維持するた
 め、イングランド船に従事する有能船員は賃金から6ペンス控除されることとなっていた[詳細は、
 eBook『帆船の社会史』第14章参照]。2年後、ホーキンズは自らの費用でもって「極貧」の船員
 と造船工を入れる救貧院を設立している。その施設は長生きした設立者にちなんで、サー・ジ
 ョン・ホーキンズ・ホスピタルと呼ばれた。
  [第10章より。1590年以後、ジョン・ホーキンズ卿の提案に基づいて、船員たちはチャタム基
 金に月6ペンスを納入させられていた(1625年に作成された金庫は現在もロンドンの海事博物館
 にある)。しかし、船員が支払った金が戻ってきたところを見たものは、誰もいない。その金庫
 には5つの鍵が付いていた。それらはそれぞれ異なった鍵であり、5人の職階の違う議会関係
 者が持っていたはずである。それにもかかわらず、ジェームズ一世の下で終始、堕落していた
 海軍会計監理官ロバート・マンスル卿は、チャタム基金を自分の小出し金庫とみなしていた。 
  1636年、ヘンリー・マービン卿は海軍省に対して、王室船に勤務する水夫はそのほとんどが
 裸足のままであり、「足にぼろを巻いているものさえ稀である」と抗議している。かれは衣服の
 欠乏について、かれらは「どうしようもない病気に取り付かれるため、虚弱という理由で、われ
 われが行き合う船から連行する数よりも、多くの男たちを解雇せざるをえないことがしばしばで
 ある」と書いている。]
  1591年、ジョン・ワットのシンジケートと提携した、ローリーの私掠が再び始まった。そのシン
 ジケートが持ち帰った捕獲物は公称31,380ポンドであり、その14,740ポンドが投資家に分配され
 た(費用は2,500ポンド弱であった)。その結果について、そのときローリー自身は「わずかな見返
 りだ。かれらに魚と取らせても、それ以上稼げたはずだ」といっている。
  グレンビルは2度目の指揮者となって、約15隻の派遣船団を率い、スペインの財宝船を途中
 で奪うため、アゾレス諸島沖に向かっている。53隻のスペイン船が自分たちの財宝船を護衛し
 ながら近づいてきた。イングランド船は退却したが、グレンビルは逃げ遅れ、船団から離れてし
 まった。かれは臆せず、乗船のリベンジ号をスペイン船の戦列に突入させた。この英雄物語は
 よく語られ、有名な詩歌になっている[ロバート・ルイス・スティーブンソン著『青年男女のため
 に』1881、アルフレッド・テニソン作「リベンジ号」など]。15隻のスペインのガレオンと5,000人の
 兵力との、15時間にわたる接舷戦の後、190人乗り組みのリベンジ号は捕獲され、数日後、縛
 られたグレンビルはスペインの旗船のなかで命を落としている。リベンジ号は、スペインとの全
 戦間期に失われた、唯一の王室船となった。
◆ローリー、女王の寵愛を失う◆
 グレンビルの最後の戦闘より2週間前の10月26日、ハクルートの家族と結婚していたトーマ
 ス・キャベンディッシュは、かれの世界一周のときと同じように成功することを期待しながら、ジ
 ョン・デーヴィスを副船団長にして、再びプリマスを出帆し、南太平洋に向かっている。かれの
 船団は、ガレオンのレスター号、デザイア号(世界一周したことのある船)、ブラック・ピンネス
 号、そしてデーヴィスとアドリアン・ギルバート所有のバークのダンテ号で構成され、その兵力は
 総計400人を数えた。かれはマゼラン海峡経由で東インドに[再び]立ち戻り、そして北西航路
 の西側の入り口を見つけるため、北太平洋をもう一度探検する積もりであった。
  しかし、船団は数週間、無風帯に閉じ込められ、新鮮な食品にありつけなかったため、壊血
 病が蔓延りはじめた。1592年4月、マゼラン海峡に入ったが、人を飢えと寒さで死なせていた。
 その後、デザイア号を除く、すべての船とキャベンディッシュは行方不明になってしまった。デザ
 イア号に乗船していたデーヴィスは、[チリ南部の]パタゴニア地方のポート・デザイアで集めた
 柔らかい草で、壊血病を処理している。また、かれは[1981年]紛争の種となったフォークランド
 諸島を発見している。その島々はリチャード・ホーキンズが再発見している。デザイア号に出帆
 した76人のうち、たった18人が生き残って帰帆しているが、その船がアイリッシュ海に近くまで
 来て、ケーブル[索具]仕事をできたのは5人だけになっていた。その船は1593年6月11日、[ア
 イルランド南部の]バントリー湾に乗り揚げている。
  1591年のジェームズ・ランカスターの航海も、同じように失敗に終わっている。これまた東イン
 ドを目指したが、悲惨な最期を遂げている。エドモンド・ベイカーによる物語には、次のような内
 容を示すサブ・タイトルが付いている。
 この物語は、帆を高く掲げた3隻の船―旗船ペンロープ号、前衛船マーチャント・
 ロイアル号、そして後衛船エドワード・ボナベンチャ号―が、ブオーナ・スペランザ
 岬を回り、モザンビーク近くのクィターニュ、アフリカの臀部にあるコロモ諸島と[タ
 ンザニアの]サンジバル島、そしてインド[最南端]のコモリン岬、[インドネシアの]ス
 マトラ島から2リーグ以内にあるニクバー島やゴメス・ポロ島、ポロ・ピナオム島、そ
してマラッカの本土を経て、東インドに向かった航海は、1591年、ジョージ・レイモン
ド君がはじめ、ジェームズ・ランカスター君がやり終え、そしてイプスウィッチ出身の
 当該航海の士官エドモンド・ベイカーの申し出により、リチャード・ホーキンズが書
き残したものである。

 生き残った人々は西インド諸島から、フランス船に乗って、1594年5月ヨーロッパに上陸した
 後、帰国している。ランカスターは、有用な知識を多数貯えた。それが、数年後、東インド会社
 にとって、非常に価値あるものだということが解かる。当面、イングランドへの東方産品の輸入
 はレバント会社を通じて行われ、またその会社の独占は、1592年、東地中海の全域からインド
 に至る陸路までに拡大された。
  1592年、ローリーはエリザベスの寵愛を失う。かれのエリザベス・スロックモートンとの結婚と
 息子の出産は、女王にとって裏切りであったので、かれらはロンドン搭に幽閉される。かれは、
 自分が投資した私掠航海でえた分け前の利益の一部を差し出し、解き放ってもらっているが、
 その後宮廷で優遇されなくなってしまう。
  ローリーが自分の釈放に役立った私掠航海―それは前年失敗した冒険とは別の航海―は、
 ジョン・バラ卿が信じられないような財宝を積んだ、ポルトガルのカラックであるマドーレ・デ・ディ
 オス号を拿捕した航海が、その一つである。その船は現役の大型船であったが、拿捕後、行
 方不明となった。その戦利品は約500,000ポンドの値打ちがあったが、投資家にはわずか140,
 000ポンドが残されるに留まった。女王の持ち分は約10l程度であったにもかかわらず、彼女
 は最終的に出資者分の約半額を受け取っていた。この拿捕に刺激され、また利益によって償
 われると考えて、ジョン卿の息子リチャード・ホーキンズが南海への航海を企画している。かれ
 は父親のようなリーダーにはならなかったが、非常に知力のある人物で、先取り勘定や後始末
 勘定を心得ていた。
◆宿屋や飲み屋を回って人集め◆
 ホーキンズは、1593年6月12日、プリマスからデインティ号に乗って出帆している。その船は
 エリザベス女王が命名した船であり、リプテンス号という元の名が気に入らかった。かれととも
 にホーク号とファンシー号が同道している。164人の乗組員を集めるため、かれは宿屋や飲み
 屋を探し回っている。
 あるものは休暇を取っていたので、それを捨てようとはしなかった。あるものは酔
っ払っていたので、自分の足で歩くこともでず、船に連れ込まれるとは知る由もなか
った。他のものは時間を稼げばいいとばかりに、病気になった振りをしていた。他
のものは宿の主人に借りがあったので、身の代金を払い、物入れ、短剣、シャツ、
カード、そして道具類を返してもらってくれとせがんだ。さらに、他のものは前渡し金
imprest(賃金の前払い)をもらった後、行方を暗まし、みだらな生活をしてみぐるみ
剥がされていた。こうしたスキャンダルは、わが船員の日常となっている。

 ホーキンズの友達と治安判事は、乗組員をかき集めるため、2日間、かれのために費やして
 いる。
  海上において規律を維持する目的で、ホーキンズはすべての船に「仕置き人」を置き、他人
 の悪口から守ると宣言している。「仕置き人は、悪口をいったものを捕まえ、平手一発とむち一
 振りを加えるものとする。また、それを朝夕の祈とう時に見つかれば、仕置き人は艦長あるい
 は船長の指示により、3発強打して良い。なお、仕置き人には、処罰を継続して、他人を危険に
 陥れるような自由は与えられてはいない」としていた。そうした処罰はありえないが、のろいは3
 日もすれば、多分なくなるはずである。
  ホーキンズは、夜間当直時の服装として、2人に1着のクロークまたは「ラグ・ガウン」(毛皮の
 ガウン)を用意しているが、それらクロークは雨水や小便がしみこんでいたので、消火にも用い
 られた。かれは船内の火事の恐ろしさが良く解かっていた。
  ホーキンズによれば、イングランド人はオランダ人などから、海上における正しい規律の重要
 性を学ぶと、その学んだことをすぐさま取り入れ、追いついたという。スペイン人はイングランド
 人の方法を模倣しようとしたが、自分たちの水夫の面倒をみきれず―かれらはほとんどが「ア
 レマイネス人、フレミングス人などの外国人」[ゲルマンの一部族のアレマン人、フランダース人
 をいう]であった―、かれらを専制支配するしかなかったという。
  イングランド船におけるトラブルの一つは、その船の指揮が未経験の友達や親戚に委ねられ
 ていたことである。最良の指揮者とは、ホーキンズの考えによれば、「鋭いウィット、優れた海
 上実務、航海の知識、そして指揮の経験」を持っている人物であった。かれは人事管理につい
 て、次のように解説している。
 船長や頭領は骨折って働くべきだとか、士官と仲良くしろとかいう積もりはない。
 そんなことをすれば、自分に不可能を強いることになり、自分の権威を縮小した
 り、乱用したりするはめになる。また、ばかばかしいことに、尊敬してくれているあ
 るいは信頼している士官を失うことになる。わたしの意見は雇用の際、かれらが
よりよい教育を受け、またよりよく陶冶されているかどうかを、見極めることであ
る。
  絶対的な権威をもって、部下の士官を指揮することが、最も有効といえる。気立
て のいいことが人を操る力であり、指揮者への尊敬と思慕の念となる。

 かれは、緊急事態を除き、命令は士官を通じて出すべきであり、またそれをなるべき文書にし
 て与え、公表するまで内密にしておくべきである、という。
◆ホーキンズの壊血病予防、チリでの拘禁◆
 このホーキンズの航海では、壊血病は船が赤道から4度に入ったところで船内に発生した。
 わたしが海に親しんできた20年間、この病気で死んだ男は10,000人になると踏
 んでいる。この病気に最も効果があるものは、すっぱいオレンジとレモンである。
 わたしが他のもの(自分用の特別の食品)と一緒に積んできた水は、スティーブン
 ズ博士の水と呼ばれている。それを作った博士の評判があまり良くなかったの
で、
 少ししか積まなかったため、すぐになくなったが、それを飲んでいた人たちは健康
 であった。

 ホーキンズがサントスに着いたとき、ラテン[・アメリカ]の統治者に親書を書き、スペイン語を
 いくらか話せる船長に持たせている。船長は深紅色のベルベット1反とその他贈り物を持参し
 て上陸している。かれは、東インドに向かおうとしたが、逆風にあって、サントスに入港せざるを
 えなかったと告げている。統治者は交易を拒否したが、完全武装した16人が休戦旗を掲げて
 上陸し、「かねてから探し求めていた」オレンジとレモン200-300個、そして数個のメンドリを探
 すことを認めた。その後、かれは海水を蒸留して、清水を作ったという。 ホーキンズは、現在
 セント・アンナ島と呼ばれている島に立ち寄っているが、そこで大量の薬草のすべりひゆ[利尿・
 解毒剤]を見付け、それをオイルとビネガーとともにサラダにし、壊血病の治療剤として使って
 いる。それにもかかわらず、乗組員の半数を失い、ホーク号を燃やしている。その後、300トンの
 ポルトガル船を捕まえ、食品を奪った後、釈放している。かれは嵐にあい、ファンシー号を見捨
 てる。そうした放棄はスペインでは処罰されたという。
  ホーキンズは、太平洋に入ってしばらくしてから牛肉を配りはじめたが、それはピクルスで防
 腐してあって、イングランドを出帆したときと同じように、良い状態であった―それは値段が高
 く、格別の出費となっていた―。[ペルーの]リマでは、かれは[スペイン人]船長ドン・ベルトラム・
 デ・カストロの家で、同じように防腐した、しかも4年たっても腐っていない、豚肉を食べている。
  チリ沖の島で気分を一新した後、ジュアン・フェルナンデスおよびホーキンズとその部下はバ
 ルパライソを私掠している。スペイン人を監禁、100人を監視下に置いた。そこはバルサム樹
 [鎮痛剤となる]のあじろで作られ、ホーキンズをすぐに呼び出せるところにあったが、イングラ
 ンド人の監視はいいかげんなものだったと告白している。それに関して、ホーキンズは敵より、
 地ワインの方が恐ろしかった。なぜなら、かれらはすぐさま酔っ払ってしまい、餌食になるから
 であった。
  ホーキンズにとって不幸なことに、太平洋海岸のスペイン人はすでにドレイクとキャベンディッ
 シュの攻撃を受けていたので警戒態勢に入っており、反撃態勢は整っていた。財宝船の港と
 パナマとのあいだの地域の気候が悪かったわけではなかったが、ホーキンズの敵対者には広
 大な帆走エリアがあり、デインティ号より軽快なスパーを備えていることが解かった。そこで、ち
 ょっとした微風でも、かれらに捕まりそうになった。6隻の船がホーキンズを探索するため出発
 し、[ペルーの]カヤオから南に向かったところ、[チリ中部の]カニェテ沖で発見している。そのと
 き、ホーキンズは逃げ出したが、1あるいは2週間後の1594年5月、かれと部下75人は1,300人
 [ものスペイン人]に取り囲まれ、[チリ北部の]アタカメス湾に連れ込まれている。デインティ号が
 拿捕されたとき、その船は沈没寸前であった。ホーキンズ自身は6人の負傷者とともに身動き
 できない状態で捨て置かれた。かれの20人弱の部下はまだ生存していた。かれの部下の反抗
 がホーキンズを危険な海面に追いやったのであるが、戦闘が始まると、かれらは3日間、圧倒
 的な優劣の差をもろともせず闘った。ホーキンズは1602年まで、スペインによって拘禁されて
 いた。
◆ローリーの凋落、ホーキンズ、ドイレクの病死◆
 1595年初春、ウォルター・ローリー卿はいまなお女王の不興を買っていたが、西方の国への
 別の遠征を組織することで、昔の地位を回復しようとしている。前年、船長ジャコブ・ワイドンを
 有用な情報を集めるため送り出していたが、自分自身も黄金の国エル・ドラド[スペイン人がア
 マゾン河畔にあると想像した黄金郷]が支配する伝説の町マノアを発見するため出掛けてい
 る。かれはダドリーが出発してから、ほんの10日後にトリニダッド島に到着している。そして、引
 き続き、現代のガイナアのマノアに向かっている。そこからいくつかの鉱石のサンプルを持ち
 帰っている。かれはプエルト・デ・ロス・イスパニオラのスペイン人にリネンを売り、ヴァージニア
 に行くつもりでいたが、悪天候にはばまれている。
  ローリーは、ペルーがスペイン人に役立っているのと同じように、ガイナアがイングランド人に
 とって富をもたらすと期待していた。そうしたことから、かれは「巨大にして、豊かで、美しいガイ
 ナア帝国の発見」という企画書に、乗りに乗ってペンを走らせている。「ガイナアは一つの国で
 ある。それは処女地であり、いまだ掠奪されておらず、手付かずのままである。土地の表面は
 開墾されていないし、土地の養分も失われていない。墓は金のためにあばかれていない。鉱
 山は大槌で壊されていない。偶像は寺院に掲げられたままである」と主張している。しかし、処
 女の女王は興味を示さなかった。また、かれが持ってきた情報は、かれが期待するほどの関
 心を呼ばなかった。かれの言動の多くはねつ造されており、またかれの勧告は幻想にすぎな
 いとみなされた。翌年は、ドレイクとホーキンズの失敗があり、熱狂を起すものは何一つとして
 なかった。
  女王がしつらえた6隻―ディファイアンス号、ガーランド号、ホープ号、ボナベンチュア号、アド
 ベンチュア号、そしてフォアサイト号―と、あちこちから集められた21隻が、ドレイクとホーキン
 ズに率いられて、1595年8月28日プリマスから西インドに向け出帆している。乗組員は2,500人
 であった。ハフ・プラットは、その後ジェームズ一世からナイトを授けられるが、ドレイクに船団
 の食料について助言している。
  当時の遠征では、水夫用に、干し魚、ベーコン、チーズ、バター、乾燥エンドウ豆、ビール、ビ
 ネガー、オイル、パン、そして大量のビスケットを持って行くのが普通であった。プラットの助言
 に従い、ドレイクは「イタリア人がマカロニという名で呼んでいる、安く、新鮮で、長持ちする食
 料」を積んでいた。それは新鮮な食料がなくなったときに有効と考えられていた。また、かれは
 スパイスや花のエキスを、本来のオイル状ではかびが生えるので、粉末にして持っていくよう勧
 告している。それは香り付けのシロップやジュレップ[甘み飲料]、砂糖漬けに用いられた。
  こうした事前の注意にも関わらず、ジョン・ホーキンズは10月6日[プエルト・リコ東方の]バージ
 ン諸島で病気になり、6日間寝込んだ後、プエルト・リコのサン・ファンで死んでいる。かれは10,
 000ポンドの財産があるといっている。
  船団はクラサオ島まで来て攻撃をかけたが、病気は広がる一方であった。クリスマスから2日
 後、船団はノンブレ・デ・ディオス川に着き、大晦日にその港を焼き払っている。その港で、1596
 年1月15日、ドレイクは旗船ガーランド号に自分のキャビンを作っている。かれは2週間ほどぐ
 ずっていたが、赤痢の症状となり、1月28日「時計が朝4時を指したところで、わがフランシス・ド
 レイク卿は命を終えた。かれは激しい下痢に襲われ、それは昼夜を問わず続いた」。その日、
 ドレイクは海に葬られ、船団はプエルト・ベロを攻撃する。
 2月6日の点呼簿によれば、最初の2,500人のうち2,000人が生存しているが、その多くは病人で
 あったとされている。船が沈めば、その乗組員は残った船に移され、その欠員を補強してい
 た。5月、かれらは帰国しているが、水夫の多くがプリマスに着いた後、死んでいる。
◆東インド会社の設立、オランダの急進出◆
 アルマダ後の10年間は沸き上がる10年間ではなかった。私掠は多くの男たちを海に引き入
 れたが、かれらも食い扶持をうるために、また捕獲金を期待して、進んで乗船していた。かれら
 にいつも雇い口があったわけでない。事実、1597年、「放蕩無頼が兵士や海兵の振りをさせな
 い」ため、一つの法律が通過している。小粒の略奪者は西インド諸島におけるスペインの握力
 を弱め、商船隊を強化することに役立っていた。エリザベス時代の政治家は、船と船員を、商
 業上の富と力の鍵とみなしていた。スペインとの長期の戦争のあいだに、イングランドが拿捕し
 た船は1,000隻を十分越え、それによって自分たちの船隊を強化していた。
  イングランドは、イベリアに向かうハンザ船を定期的に拘留していた。それに対して、ドイツは
 国内からイングランド交易人を追放した。その報復として、1597年、イングランドはハンザ同盟
 の拠点であった[ロンドンの]スティルヤードを閉鎖した。しかし、東方会社のメンバーはバルト
 海の交易を続けており、ダンチヒや[ポーランドの]エルブロング、[ロシアの]ケーニビスベルグ
 の商人たちと、船用品を補給するため、染料や毛織物と交換していた。ポーランドの穀物の西
 ヨーロッパへの輸出は、ほとんどがデンマーク船に積まれ、その地域を豊かにしていた。
 バーバリ会社の特許期限が切れ、モロッコ交易は開放され、1597年イングランド商人はこの地
 域と、個別あるいは共同で取り引していた。
  イングランドの交易はますますイングランド人の手で行われるようになった。一方におけるイ
 ングランドとオランダの上昇、他方におけるスペインとポルトガルの相対的な衰退は、いずれも
 地中海における木材の顕著な不足、したがって造船の衰退という単一の要因に基づいてい
 た。イングランドとデンマークとは、船用の木材や資材を経済的に確保できる、ヨーロッパの北
 西海域という格好の位置を占めていた。
  1597年、ハワードはカディスを掠奪する遠征を仕組んでいる。フェリペ王のアルマダ艦隊は
 1596年、1597年、さらに1598年と、イングランドとではなくむしろフランダースと対戦していた。
 オランダの海上商業は、バルト海からのタラ漁業と穀物交易に支えられ、イングランドより発達
 し、優位に立っていた。かれらはもぐり商人を西インド諸島に送り込み、1599年カリブから塩を
 輸入していた。それは、[ベネズエラの]マルガリータ島とクマナとのあいだのアラヤ半島の最西
 端にある巨大な露天の塩田から積み出されていた。その前年から、エッセクス伯の示唆を受
 け、著名な航海者であったジョン・デーヴィスはオランダに奉公し、オランダの2回目の東インド
 への航海における主席水先案内人として雇われている。かれは1600年6月にイングランドに戻
 って来ているが、その後、次に述べるランカスターの遠征の水先案内を行っている。
  1599年9月、1,000人以上のロンドンの商人が30,000ポンドを用意し、「今年中に東インド諸島
 とその他の島や国に向かい、当地で交易する航海を仕立てる」ことにしている。リチャード・ステ
 ィパーはそれに加わった有力者である。1599年12月31日、「手付かずのすべての土地」に関す
 る勅許状が下付された。それは、東インド会社の誕生を印し、イングランド人の世界レベルで
 の際限のない交易への参入となった。もぐり商人には罰金が加えられた。その一方、東インド
 会社は「東インド諸島と交易したい」というアウトサイダーに許可証を発行すること、そしてかれ
 らも王立海軍を必要とする場合は別として、「500人の海兵が乗り組む6隻の良船と6隻のピン
 ネス」という海上戦力でもって、自社の船舶を護衛することが認められていた。その会社は当
 初の公表以上の資本金でもって出発した。72,000ポンドについて、一株50ポンドとして、シェアの
 予約を取ることとなった。1600年、この幸先の良い船出を記念して、エリザベスはジョン・マイル
 デンホールを、コンスタンチノープルから陸路を通って[インドの]ムガール帝国に使節として送
 り出している。
◆ランカスター、東インド航海に出発 ◆
 翌年は、事後報告で「最初の東インドへの航海が、紀元1600年、(いまやナイトとなった)船長
 ジェームズ・ランカスターがロンドンの商人のために率いる、ドラゴン号、ヘクター号、アッセショ
 ン号、そしてスザン号という、意気軒昂な4隻の船によって行われることとなった」と書かれた年
 として始まった。
  この遠征は1601年2月13日、500人を引き連れ、ウルウイッチから出帆している。船団長ジェ
 ームズ・ランカスターはドラゴン号に乗船、デーヴィスはかれの主席水先案内人であった。ドラ
 ゴン号はカンバーランド伯から3,700ポンドで買い取られた船で、それまでマリス・スカージ号とい
 った。その船は600トン、乗組員202人の第一級の軍艦であった。ジョン・ミドルトンは副船団長と
 して、ヘクター号(300トン)に108人とともに乗船した。ウィリアム・ブランドが指揮するアッセション
 号は260トンで、乗組員82人であった。スザン号(240トン)はジョン・ヘイワードのもとで、乗組員88
 人であった。これら3隻はいずれも生え抜きのレバント交易船であった。食料は130トンであっ
 た。
  「これらの船には人員のほか、20か月分の食料と武器弾薬であふれかえり、また7,000ポンド
 相当の商品や20,000ポンド相当のスペイン硬貨が積み込まれた。その他船倉の余りも、海兵に
 融資した金や航海前に支給された給料でもって買い付けられた貨物、会社関係者の貨物、そ
 して必需品などで埋め尽くされていた」。鉄製品、スズ、鉛、幅広服地、デボンシャ産カージー
 織、そして金が大口輸送貨物であった。
  ランカスターの説明によれば、東インド内において自由に交易するとともに、最も採算が良い
 ところで往航の貨物をペッパーやスパイスと交換してよいという許可を取っていた。かれは、少
 量の麝香、竜涎香、ワックス、樟脳、阿片、絹、そして貴石を買うよう心掛けている。
  7か月かかって、南アフリカ[ケープ・タウン]のテーブル湾にたどり着いていた。それは通常よ
 り長い時間かかっており、赤道の北側の無風帯で、多くの時間を費やしたせいであった。小型
 船では100人以上の男たちが壊血病で死んでいるが、ランカスターのドラゴン号は無事であっ
 た。かれは一人一人に毎朝3匙分のレモン・ジュースを与えるとともに、正午になるまでは乗組
 員に硬い食事を出すことを禁じていた。レモン・ジュースはハフ・プラットが用意したものであっ
 た。
  船団は、病人を陸上で治療するため、テーブル湾に錨泊している。再帆する前、1,000匹の羊
 と42匹の雄牛を住民からえて、食料として積み込んでいる。長さ8インチの鉄棒1本と羊1匹、鉄棒
 2本と雄牛1匹とを交換している。インド洋のいくつかの島で水を補給しているが、その一つの
 島で13人が汚れた水を飲んで死んでいる。かれらが、北スマトラのアチン[現バンダ・アチュ]に
 着いたとき、すでにロンドン出てから1年経っていた。
  アチンの王に、ランカスターはエリザベス女王からの親書と贈り物を差し出し、随時入域、関
 税なしの交易、救難、裁判権、不逮捕特権、そして信仰の自由を認める協定に署名をもらって
 いる。商人たちはペッパーを買おうと試みたが、そこにはあるはずがなかった。
  ランカスターはマラッカ海峡を巡航し、900トンのポルトガルのカラックを拿捕している。その船
 は[インドの]ベンガル地方からマラッカに向かう600人の旅客と金目の貨物を載せいていた。イ
 ングランド人は、キャラコやピンタード(彩色布)[バティック]が入った箱950箱を自分たちの船に
 移し替えた後、カラックを釈放し、航海を続け、アチンに戻っている。ペッパーをわずかしか積
 んでいなかった船もキャラコを積んで満船となり、帰国している。他の1隻は、他のスマトラ島で
 えたペッパーとグローブだけで満船となり、これまた帰帆している。
  レッド・ドラゴン号とヘクター号はカラックの残り貨物を積んで、ジャワ島のバンタン[現在のバ
 ンテン]に向け、東走している。そこは、オランダ人が1596年にポルトガル人を追い出したところ
 であった。ランカスターはバンタンの住民やオランダ人に温かく迎えられ、バンタンの支配者か
 らイングランド人は当地で誰にも邪魔されずに交易できると告げられている。中国の商人は、
 マレーシアやインドネシアの各地と同じように、すでにバンタンでも基礎を固めていた。
  5週間もすると、ロンドンから持って来た商品を、276袋のペッパーと交換し、他の2隻も満船と
 なっている。5年間、ロンドンのハンザ同盟のスティルヤードは閉鎖されている間に、ランカスタ
 ーは、バンタンに交易基地を設立するため、さらに、3人の商人と男たち8人を残している。ピン
 ネスに数人の商人と男たちを乗せ、マラッカで商館を作ろうと送り出している。かれの2隻の船
 は、1603年2月21日出帆し、9月11日テムズ川に到着している。
  ランカスターの4隻の船は、100万ポンド以上に相当するペッパーを持ち帰り、それらに投資し
 た商人に95lの利益をもたらした。こうしたイングランドの明らかな東方交易の成功によって、
 ランカスターは叙任され、東インド会社の理事になった後、退職している

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