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(1603-1649)
―主な内容とその特色― 
 この章(168-188ペ-ジ)は、17世紀前半の、1603年のジェームズ一世を初代とするスチュアート朝の始まりから、ピューリタン革命のもとで1649年チャールズ一世が死刑され、共和国政府が成立するまでの、政府の無策、国王の無関心にもかかわらず、帝国の種子が育ち始めた時期を扱っている。それだけに大部であり、興味をそそる内容となっている。 ここでは、まずオランダがバルト海の木材や、北海の漁業、北欧の穀物を基盤とした交易と輸送によって発展し、さまざまな型式の帆船を開発し、低コスト・低運賃でもって世界の運搬人となり、海事世界を席巻していく様子が、かなり詳しく記述されている。
  それまで先発国として支援してきたイギリスがオランダに追い越され、慚愧に耐えない時期となった。それを抜き返すには、二世紀を要することとなる。イギリスがなかでも後れをとったのは、アジアへの進出であった。オランダは先発国ポルトガルのスパイス独占を打ち砕き、盤石の地位を築く。
  ニューカッスル・アポン・タインは、この時代から国内外への石炭の積出港として急速に発展した。その石炭船はイギリス人船員の養成所として知られている。当時のロンドンへの石炭船1隻、1回あたりの輸送量が140トンだという。かなり大きな量であるが、戦前日本の機帆船の若松から大阪への石炭輸送量にほぼ近い数値となっていることは興味深い(拙編著『機帆船海運の研究−その歴史と構造−』第1章、Webページ【戦前の機帆船海運の研究】、参照)。
  15世紀から17世紀にかけて、大航海時代あるいは地球上の発見の時代とされるが、この著者はそうした用語を使わないが(新世界は使う)。この章の17世紀前半はその末期と当たるが、それにともなう交易は、大方の想像と違って、世界の交易規模に決定的なインパクトを与えてはいなかった。
  イングランド海運の発展の基盤は、オランダに類似して、漁業と石炭に置かれていたことに注意を向け、タラ輸送における先進ビジネスについて特記している。
  17世紀前半は、たとえば1620年メイフラワー号がプリマス湾に入植しているように、イギリスのアメリカ植民地の建設ラッシュとなる。その植民地に向けて、植民者の必需品としてヨーロッパ製品が持ち込まれ、逆にタバコや砂糖が一儲けできる商品として持ち帰られた。他方、東インド会社はそれと同じものを持ち込もうとしたが、東インド人はそれらを買おうとはしなかった。しかし、かれらから買おうとした商品は、非常の多種多様であった。
  ある船長の日記が紹介されているが、ネズミのばっこは船内生活にとって驚異であった。その船内で、シェークスピアの古典劇が船上で上演されたという。それは一つの驚きであるが、歌舞伎が和船の上で上演されたと思えば、それほど不思議ではない。なお、シェークスピアの著書には、海事シーンや海事用語が頻出する。
  東インド会社は、設立後、当座企業方式で運営されていたが、その利益率は約150パーセントから10数パーセントに低下していった。東インド会社船は、当時としては最新鋭の大型船であった。しかし、東インドに出掛けた船の60パーセントが帰国したにとどまる。17世紀第2四半期になり、東インド会社船は自社船方式から他社船方式すなわち用船方式に切り替えられる。
  東インド会社は、東南アジアでは先発者であったオランダとの紛争は避けられず、その勢力に圧倒され、その地域に食い込むことができなかった。しかし、ポルトガルの弱体化のもとで、インドに交易拠点を次々と建設していく。それはインド植民地支配へとつながる。
  17世紀前半は、帆装様式について改良がみられ、それ以後、長期にわたる基本様式となる。当時の各種交易における一定の輸送パターン、航海費用や用船費用の負担、利益の分配など、海運実務について具体的な紹介がある。近世の帆船船長の多くは、自前の食料を船内に持ち込み調理させていた。その持ち込み食料をみると、船長たちの食い意地が強く、かなりの博識であったことを知りうる。
  最後に、チューダー朝の反動としてか、初期のスチュアート朝の国王たちは自分の足下ばかりをみていたようである。そのあらわれとして自国保護主義への傾向が強まった。しかし、この時期、イングランドの海外への多額の投資や100人の1人のアメリカへの植民などは、その後、大きく育つ大英帝国の種子として、アメリカやインドにまかれていた。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆オランダ、バルク輸送船を開発◆
  エリザベス女王の後継者であるジェームズ一世やチャールズ一世[1600-49、在位1625-49]
 は、いずれも商人や船員の後ろ盾になる気がなかった。内乱[ピューリタン革命、1642-46、
 1648-52]が始まるころ、イングランドは誰にも負けない戦闘艦隊を持っていたが、ほとんどの
 王室船は鈍足であり、ムーアの海賊船やオランダの私掠船に対抗できなかった。そのことは
 商船の持ち主にとって一大事であった。これら国王の時代、オランダ人が優勢であった。
  [1579年の]ユトレヒト同盟の諸州、後のオランダ共和国は1609年スペインから独立国として
 認められるが[正確には、12年間の休戦条約が結ばれ]、それ以前からヨーロッパの大西洋岸
 において大きな実績を上げていた。エリザベス女王の死後、10年もすると、ヴェネチアがかっ
 てそうであったように、オランダは世界の海に席巻するようになる。海乞食が[ベルギーの]スベ
 ルデ川を閉鎖すると、経済活動の中心はアントワープからアムステルダムに移行し、金融や交
 易はゾイデル海[現オランダのアイセル湖]の海岸周辺が栄えるようになる。
  15世紀以降、オランダ人は何はともあれ、一貨をバラ積みする船を開発していた。それは大
 量の貨物を輸送するように作られ、遠方の海域でも活動できたし、漁業にも使える船であっ
 た。16世紀になると、バスは200トン以上の魚を積んで帰港することができた。しかし、積み荷が
 平均約100dに減少しても、バスはタラ漁業になくてはならぬものであった。漁期が終わると、
 バスは貨物船として使われた。
  15世紀末、オランダ人はタラを取るフーカーhoekerを開発していた。その船の中央には、ヒレ
 状にしたタラを塩水に漬け、新鮮にしておく魚倉である、「バンbun」があった。バンのないフーカ
 ーは、漁業に従事しないときは、貨物船として使われた。
  その以外のオランダ船として、1550年ごろ登場した全甲板張りのバスを手本にしたバイスカ
 ーヒルbuyscarveelや、1575年ごろから広く用いられ出したボイヤーboyerがある。初期のボイ
 ヤーは50-150トン、2本マストで、メンマストに横帆のメンスルとトップスル、そしてラテン風のミズ
 ンという、初期のケッチketch型の帆装をしていた。そして、乗組員を減らし、利益を上げられる
 よう、改良されていた。このボイヤーは穀物交易用として、また北海用として建造された。
  16世紀末には、ボイヤーのほとんどがフリーブートvlieboat[沿岸航行平底船]に取って代わら
 れる。それは、イギリス風になるとフライボートと呼ばれ、ビーム幅が広く、喫水が浅い船であ
 り、四角い船尾を高く上げていた。ラテン風のミズンには、横帆のトップスルが付け加わってい
 た。フリーブートはおおむね100トン以下であり、専ら沿岸交易に使用された。
  1600年ごろ、フリーブートはバルク交易の役割を、イングランド人にとって語源となったフライ
 トfluytに取って代わられる。このフライトを通じて、オランダの船の設計者は、特にイングランド
 の造船業に計り知れない影響を与えた。タラ用バスの長さとビーム幅の比率は4:1であった
 が、1610年のフライトの比率は6:1になっていた。こうした船の比率は、船首尾が垂直に近い平
 底の浮船よりは小さいとはいえ、貨物を最大限、積みうるような設計となっていた。しかし、この
 飾り気のない船首や全甲板張りのフライトが、船の端から端まで荷物を積んだわけではない。
 船尾は丸くなっており、その上に狭い船尾楼があった。横帆が、フォアマストに1枚、メンマスト
 に2枚掲げられていた。ラテン風のミズンには、横帆のミズン・トップスルを掲げ、バウスプリト
 の下にスプリットスルを付けていた。初期のフライトは約150トンぐらいであったが、そのトン数は
 急速に200トンと大きくなり、400トン以上も建造されるようになった。それらはいずれも快走してい
 た。
◆オランダの2本柱、木材と漁業◆
 17世紀、イングランド人は武装した商船に頼らざるをえなかった。それなくして、地中海にお
 いてオランダ船と競争し、また東インドにおける危険な交易に従事できなかった。その他の交
 易は安価で便利な「フライボート」に大幅に侵食されていった。アークエンジェル[ロシア白海の
 アルハンゲリスク]から[フランス・ガスコーニュの]ガロンヌ川までの交易には、200-500トンのオ
 ランダ船が従事していた。そのほとんどが非武装の貨物船として低船価で建造され、低費用で
 運航できるようになっていた。
  それらはワイン、塩、魚、穀物、木材、またピッチ、タール、麻、亜麻とった重量のある船用
 品、そして鉛、スズ、鉄、銅といった金属を運んでいた。ジブラルタル海峡以北の港巡りの交易
 もオランダ人がほとんど扱っていた。北海のニシンやタラ漁業、そして「グリーンランド」や[ノル
 ウェーの]スピッツベルゲン島の捕鯨業も同様であった。大型のオランダ船はガロンヌ川からレ
 バント、カナリア諸島、マディラ諸島、ギニアにかけて活動していた。
  オランダは、バルト海において衰退しつつあるハンザ同盟の地位を奪ったことで、イングラン
 ドとの競争に心配する必要がなくなり、バルト海の木材やその他造船用の資材をほぼ独占す
 るようになった。また、低い利息やイングランド船の3分の1の費用ですむ船を、1600年には1,
 000隻以上の商船、そしてある権威者によればその約3倍の漁船を傘下に置いていた。その漁
 船の多くはひじょうに小型であったが、1610年にはさらに3,000隻が追加された。17世紀半ばま
 で、イングランド人はバルク貨物をオランダ船に積んで、輸入していた。
  オランダの隆盛をもたらした2本柱は、バルト海の木材と北海の漁業であった。バルト海から
 低地帯諸国への穀物の船積みは14世紀から始まり、産業革命期まで衰退しなかった。17世紀
 前半、アムステルダムは、年間平均約150,000トンほどの穀物の貯蔵と輸出のために、巨大な
 穀倉を持っていた。西地中海は、そのころになっても穀物不足であり、1600年から1625年にか
 けてバルト海と西地中海との穀物交易は莫大な量になっていた。1618年が穀物輸出の頂点と
 なり、その量は220,000トンであった。その世紀の第2四半期、オランダの地中海への穀物の輸
 出は激減し、ポルトガル以南向けのわずかな契約が残るだけとなった。
  この穀物は漁業が大量に使用する塩と専ら交換されていた。1625-1650年間、フランスの塩
 がイベリア産の塩に取って代わるようになった。バルト海では、銀が商品の取引に使われてい
 た。こうした商品が、西から来るワインやタラと同じように、東から来る産品と交換されるように
 なると、ダンチヒ(現グダニスク)がアムステルダムの主要な交易パートナーとなる。1550-1650
 年、オランダ人が[デンマークとノルウェーとのあいだの]スカゲラク海峡を通過する量の約3分
 の2を扱うようになり、1,200隻のオランダ船が毎年バルト海で活動するようになった。他方、バ
 ルト海に入るイングランド船は、16世紀後半2倍になったが、1604-1624年には年平均わずか
 100隻程度になってしまう。
◆オランダ、アメリカ植民地に割り込む◆
 こうした海外活動が広がるにつれ、フェリペがイングランドを念頭においてアルマダを建造し
 ていたころ、すでにオランダの密輸業者はブラジル沖に現れ始める。最初のオランダの奴隷
 船が、トリニダッド沖に現れたのは1606年だったと記録されている。1621年には、オランダ西イ
 ンド会社が特許状を受け取り、1630年以後、オランダ人はスペイン人やポルトガル人の商品を
 旧世界で積んで輸送するだけでなく、新世界のスペインやポルトガルの植民地の運送人となっ
 ている。アムステルダムは、ログウッド[マメ科の木、染料となる]、コチニール、カカオの実、タ
 バコの葉をはじめ、ペルー産の銀、そしてブラジル産の砂糖と金の市場となり、同時にまた東
 方のシルク、グローブ、ペッパーの市場にもなった。1630-1640年、オランダ人はニュー・アムス
 テルダム(現ニュー・ヨーク)や、占領したクラサオ島、そして[リーワード諸島のオランダ領の]サ
 バ島やシン・ユースタティゥス島、[オランダ・フランス領の]サン・マルタン島といった新世界への
 奴隷の主たる供給者にもなっていた。かれらがスペイン人を痛めつけてくれたおかげで、イン
 グランド人、フランス人、スコットランド人、そしてデンマーク人は、ニューファンドランドからバル
 バドスにかけて一連の植民地を建設できるようになった。
  オランダ人は東洋のポルトガル帝国をほとんど壊した。かれらの力は、数の多さ、訓練の良
 さ、指揮の良さ、そして規律の良さによるものであった。1603年、オランダ人は極東に15回の
 遠征を行っているが、イングランドはわずか1回であった。ポルトガル人のスパイスの独占が崩
 れ、16世紀あるポルトガルの改革論者は「東洋における帝国は船のように沈みつつある。だれ
 かれもが浸水で沈みかかっていると叫んでいながら、だれも水を汲みだそうとはしなかった」と
 いっている。1616年喜望峰と命名し[意味不明、ポルトガル王ジョアン二世が命名との説もあ
 り]、それを書き留めたのはオランダ人であったし、組織だった遠征はキャプテン・クックが行っ
 たとはいえ、オーストラリアを発見したのもオランダ人であった[1606年オランダの船長ウィレ
 ム・ヤンス(ヤンスゾーン)はオーストラリア北東端のヨーク岬と岬西岸地域に到達]。
  オランダとイングランドとの関係はいまや変貌し、特に海洋については嫉妬、憤慨、そして敵
 対の関係となった。イングランドの海外に対する経済的な関心が深まるにつれ、国民としての
 誇りが強まっていった。オランダとの最初の戦争の主な原因となった、イングランド人の国旗に
 対する敬愛心は強烈なナショナリズムの現れであった。
◆ニューカッスル石炭の国内外交易◆
 [イーストチープの居酒屋の]女将クイックリーに、[騎士ジョン・]フォルスタッフが結婚を申し込
 んだとき、かれは「うちいるかの間で、丸テーブルにすわって、海送石炭の暖炉の前」にいたと
 いう[シェークスピア作、小田島雄志訳『ヘンリー四世』第2部 1597-98、p.51、白水ブックス、
 1983]。
  ニューカッスル・アポン・タインは、北西ヨーロッパとの交易に当たって好位置を占め、船積み
 石炭のほとんどは南に向かい、ロンドンに送られた。ニューカッスルの石炭の年間船積量は、
 16世紀後半、4倍も増加して140,000トン、そして1634年には400,000トン以上となった。その全数
 の5分の4がイングランドの海岸一帯に輸送され、その残りは外国船によって大陸に向かっ
 た。
  この石炭輸出には重税が課せられていた。それは[低コストの]外国船でなければ、石炭を運
 べないほどの高さであった。それにもかかわらず、当時のニューカッスルの商人は、石炭輸出
 交易の運営を外国人の「宿の主人」に任せ、すましていた。ハンザ同盟の船が石炭をフランダ
 ースに運び、またフランス人が50隻の船団を組んで来訪し、石炭をフランスに持ち帰っていた。
 1615年、400隻以上のイングランド船が石炭交易に従事しており、その半数がロンドンに石炭
 を供給していた。それらの船は次第に大きくなっていった。 1606年、1隻がロンドンに移入した
石炭は平均73トンであったが、1638年になると2倍に増え139
 トンとなった。
  ニューカッスルは鉛も輸出していた。ニューカッスルの冒険商人は低地帯諸国に羊毛を積み
 出していた。1618年、羊毛の輸出が禁止されたときには、その代わりに粗布を輸出している。
 その他の輸出品として、砥石、塩、ラムや羊、ウサギの皮があった。それら貨物は、ダンチヒ
 からルアーンにかけてのあらゆる港に持ち込まれたが、主に[北海に面したドイツの]エムデン
 とハンブルグ、エルビング、そして低地帯諸国の港であった。ノルウェーやバルト海からの輸入
 品は、ピッチ、タール、亜麻、麻、ロープ、木材、そしてライ麦であった。ライ麦以外の輸入品
 は、キール船や石炭船の建造ばかりでなく、鉱山でも用いられた。低地帯諸国から、ミョウバ
 ン、あかね(染料)、糸車、石鹸、ピン、針、フライパン、磁製ポット、ガラスが、再輸出品のジン
 ジャー、アニスの実、レーズン、プラム、いちじくなどとともに輸入された。フランスからポップ、
 スコットランドから魚が輸入された。
◆タラ輸送における先進ビジネス◆
 イングランドの交易は16世紀後半に変貌するが、それは過去に設立されたルートから外れた
 ところに、新旧商品の新しい市場を見出そうと努力してきた賜物であった。ロシア、アフリカ、ア
 メリカ、レバント、そして東インドとの新しい交易は、イングランドの外国との交易総量に大きな
 影響を及ぼすほどではなかったが、この国の通商や、巨大な交易会社の設立という、株式組
 織に新しい活力を与え、金融問題の解決に促進することとなった。
  イングランドの膨張は漁業と石炭交易の発達に負うており、それらは船舶や船員の大規模な
 使用者となった。1614年、イングランドの東海岸の港だけで、100隻の船がアイスランド漁業に
 従事していた。それ以外に、それよりあるかに小型で大量の船が北海で使われていた。そのこ
 ろ、デボン、コーンウォル、ドーセットから、ニューファンドランドの浅瀬のタラ漁業に200隻以上
 が加わっていたが、40年後には6倍に増加している。その世紀半ば、すでに多くの船がいた
 が、その初めの2倍になっていた。ウィリアム・マンソン卿[1569-1643、海軍軍人]は、当時の魚
 について、「魚ほど、間違いなく、この世のなかでこれほどかさばるものはないし、これほど安い
 ものもない。そのため、魚を積む船を数多く用意しなければならない。例えば、並みの商人が
 250トンの持ち船に魚を積んだとしても、その魚が1,600ポンド以上になることはない。そんな額で
 は、商人は高価で優良な商品を40個も買えない」。
  ニューファンドランドの干しタラは400年間続く交易品であった。この交易はすでに上手に運営
 されていた。その土台として用船契約が用意され、―それは共同経営、海上保険、融資に関し
 て―、手の込んだ自衛手段になっていた。それは、最大限の規制による最小限の損失という
 原則によって、投資家を保護するよう設計されていた。西海岸地方の小型漁船は、月16ポンド
 弱で用船することができた。ロンドンの大型船はその10倍以上の費用が掛かった。19世紀末
 になっても、塩という貨物が180トンのブリグ[型帆船]に積んで、ビスケー湾からニューファンドラ
 ンドに持ち込まれ、魚の貯蔵に使われていた。
  塩引きタラが、レグホーンや地中海の港向けの、同じような船に積まれ、そうした港からワイ
 ンやオイルをイングランドに持ち帰っていた。塩引きタラの輸送は汚れ仕事であった。塩引きタ
 ラは、商船船員にとっては、染み深い食事の一品であった。1920年代という後世の船員が、
 「金曜日の朝食はいつも、塩引き魚の煮ものだ。それは木曜日に食料庫から取り出され、デッ
 キに吊るされる。さわやかな海の風が、有害なガスを拭い去ってくれる。塩引き魚という言葉
 は、船酔いの感覚を呼び起こす」と書いている。
◆イングランドの初期植民地の建設◆
 ローリーは、エリザベス女王から与えられた特許状に従って、1602-3年北アメリカ海岸への
 遠征に出掛けている。そのとき、2種類のサッサフラスを持ち帰っている。それは、当時、フラン
 ス梅毒ばかりでなく、疫病の治療に効くと考えられていた。ローリーは、その後入牢するが、か
 れの特許権は国王[ジェームズ一世]に戻されている。
  1606年、新しい特許状が二重組織となっている珍しい株式会社に与えられている。その会社
 の一方はロンドン商人の組織であり、他方はプリマスとブリストル、エセクター商人の組織であ
 った。ロンドンの組織は、クリストファー・ニューポート[1565?-1617]を団長とする船団に投資し、
 その成果として新世界で最初のイングランド植民地を建設している。新しい植民が、[バージニ
 ア州]チェサピーク湾に着くと、ロアノークにイングランド人として最初の植民の7人が、インディ
 アンに混じって生きていると聞かされる。その7人は「男4人、少年2人、未婚の女1人」であっ
 た。その少女は、アメリカでイングランド人の両親から最初に生まれた子どもの、バージニア・
 デアとみられた。それ以上のことはまったく解かっておらず、インディアンの手にかかって死ん
 だとされる。
  ニューポートの船団は、スーザン・コンスタント号(120トン)、ゴッドスピード号(40トン)、そしてピン
 ネスのディスカバリー号で構成され、1607年船団長はチェサピーク湾に注いでいるジェームズ
 川を入植地として選んだ。そこは現在のジェームズタウンである。負けん気の強い船長ジョン・
 スミスは出来立ての入植地を消滅させまいと努力している。入植者のなかには役に立ちそうな
 「紳士」はほとんどいなかった。
  二重組織の株式会社[?]は1607年、1617年にバージニア会社に衣更えしている。3年後、入
 植者の一人がインディアンの王女ポカホンタスと結婚している。タバコは、バージニアでは当
 初、利益を上げながら、その量を増やしていった。こうしたことがこの入植地の結末ではない。
 1623年、枢密院は植民地の管理を手元に置く。直ちに、年間に1,000人ほどの無給使用人や
 年季奉公人がバージニアに到着するようになる。
  ちょうどそのころ[1620年]、用意周到な巡礼者団がメイフラワー号(180トン)に乗って北アメリカ
 に到着し、プリマス湾に自治植民地となる入植地を建設している。それと同時に、かれらはヨー
 ロッパの疫病をインディアンの地に持ち込んでいる[新旧世界における疫病伝播の非対称性に
 ついては、カムニール著、佐々木昭夫訳『疫病と世界史』、新潮社、1985参照]。ジェームズタ
 ウンに入植してから30年間に、北アメリカの海岸に沿ってマサチューセッツ、メリーランド、ロー
 ド・アイランドといった、小さな入植地が建設される。1620年代になると西インド諸島にも入植が
 はじまる。その初期の入植地が、1624年[セント・クストファー・ネビスの]セント・キッツ島に作ら
 れた。1632年には、さらにバルバドス、ネビス、モンセラートに作られる。
メイフラワー号時代の商船

 これら初期の入植地は、織物、毛皮商品、その他工場産品、塩、ビール、ワインを、イングラ
 ンドにほぼ全面的に依存していたし、西インド諸島にはイングランドやスコットランドから食糧が
 運び込まれた。労働力のほとんどは若い白人の年季奉公人であり、しかもアイルランド人が多
 かった。ロンドンの商人マウリス・トンプソンは、1626年60人のニグロをセント・キッツ島に持ち
 込んでいるが、イングランドの奴隷交易はまだ始まっていなかった。儲け頭はタバコであり、そ
 の他の物品は世紀半ばまでごくわずかであった。1635年、バージニアとメリーランドのタバコの
 収穫高は当時の大型船1隻で足りた。これら北アメリカの入植地が供給する、その他の商品の
 値段はバルト海ものより安くなりつつあった。
◆シェークスピア劇に、鞭打ち、ねずみ害◆
 船長ウィリアム・キーリングは、ジェームズ・ランカスターの持ち船で1615-17年に航海したレッ
 ド・ドラゴン号を指揮しているが、その交易で当人が直面した状況を日記に書き残している。
 [シェークスピア作]『ハムレット』1600-01と『リチャード二世』1595-96が、レッド・ドラゴン号の船
 上で演じられたという。そうだとすれば、そうした興行は海運の歴史のなかで特異なことといえ
 る。それから1972年まで、古典劇が乗組員の慰めに、再び船上で演じられたことがない。その
 ときは、低料金で『征服者への拝跪』と『アーネストの存在意義』が上演された。
  しかし、レッド・ドラゴン号の生活に、ビールやスキットル[9柱戯]はまったくなかった。1615年5
 月、船長キーリングは、生肉を一切れ盗んだとして、水夫に30鞭を命令している。かれが処罰
 した最初の男だといっている。この処罰は、処罰そのものの目的を示そうとしたものであり、そ
 の10月にある男を処罰せざるをえなくなるまで、処罰はなかった。そのとき、船長などが上陸
 中に他人を殴打した男に、ダッギングducking[ヤードから海中に釣り落とす]罰を加えている。
 同じ日、かれは小銃の弾丸7,000発と鉛400ポンドが盗まれ、ヤシ酒やパーム酒に化けたと記録
 している。かれが規律家ではなかったことは、こうした重要な窃盗が遠征に参加している船で
 発生したことを知ると、今後、小銃の弾丸を1発でも盗んだものは背中を裸にして鞭打ち40回と
 すると宣告していることをみても解かる。
  キーリングは、かれが仕えたランカスターと同じように、レモンを抗壊血病剤としての価値を
 承知していた。往航の[マダガスカル沖の]コロモ諸島で、300個のレモンを小さなナイフ2個と交
 換している。かれは62人の男を失っているが、壊血病で死んだのはわずか一人だけだった。
  すべての船がレッド・ドラゴン号のようにうまくいっていたわけではない。かれと同道した1隻は
 航海が始まるとすぐにビールがなくなったが、キーリングは少しづつ使っていた。2か月後、僚
 船のエキスペディション号は魚を食いつくしたが、キーリングは「300対のバックアロー」あるい
 は干しタラ600枚をけちけち使っていた。この僚船は帆布もなくなっている。その船長は「……
 主な原因は無数のねずみにあった。ねずみは航海中、住みついていた。セール、その他の船
 用品(個人の持ち物も同じ)があらかた食い荒らされた……その有害な騒がしさは全く信じられ
 ないものであったし、やつらは生き延びるため、われわれを食うつもりになっていた(眠っている
 とかじられた)し、数人の男が夜間に死ぬと朝になるまでに、かれらの足の指は完全に食いち
 ぎられ、他の体の部分もかじられていた……」と書いている。
◆初期東インド会社の経営組織◆
 東インド会社は、それが活動する場所がイングランドから離れ、またインド洋ではヨーロッパ
 から来ている外国船との、武装衝突が起きる危険性が十分あるといった理由から、いままでに
 ない独自の機構を整えていた。この会社は総裁と理事会を設置して経営の持続性を保ってい
 た。また、この会社が輸入した商品は自らが唯一の売り手となり、個人の交易を禁止する規則
 を持っていた。しかし、その規則は1635年まで施行されなかった。この会社に投資する場合、
 商人は相当量の金額を支出する必要があった。
  当時、それぞれの航海は個別のシンジケートとして運営され、それぞれの勘定はそれぞれの
 航海が終わったときに精算され、そして復航貨物が処分されると、直ちに利益は配分された。
 1601年から1612年にかけての航海の利益は155lであったが、その後の30年間にその3分の
 1以下までに落ち込み、1617-32年は特に12lと低かった。
  当初、東インド会社が使用した船は、ほとんどがレバント会社の商人から買い取った船であ
 った。その会社は大型で武装が良かった。膨大な資本が支出されたが、最初のシンジケートで
 は、船舶とその備品は45,000ポンド、そして往航貨物は27,000ポンドであった。その支出総額
 は、正味として、ウィロビーとチャンセラーが1553年に北西航路の発見航海に投資された額の
 約6倍であり、1988年価格でいえば約600万ポンドと見積もられる投資額であった。
  当時、交易用の船はテムズ川やアイルランドで建造されていた。1607年、会社は[ロンドン東
 部の]デプトフォードやブラックワルの造船所で、自社船を建造、修理し始める。その大型第1
 船はザ・トレイド・インクリーズ号、約1,000トンであったが、操船が難しかったことが解かってお
 り、処女航海の途上、ジャワ島で難破している。船は敵の攻撃をかわせるだけの大きさがなけ
 ればならないが、イングランド人による交易の規模は大型の船を満船できるほどには大きくな
 っていなかったし、しばらくは社名ほどのことはなかった。
  1615年、重役たちは「最低300トンから大きくて600、700トンくらいの船が最適である」といってお
 り、主に使用する船も300トンから350トンに設定されていた。この会社の船は当時のイングランド
 船として最良の部類に属しており、1601年から40年までに168隻(合計77,175トン)が東方に向か
 ったが、1640年までに帰国したのは104隻(合計54,314トン)であった。他の史料では、出発した
 船の60lが戻ったが、それは大型船がほとんどであった。また、帰国にしなかった船がすべて
 事故に遭ったわけではない。さらに、何隻かは東方に残って転戦しており、また何隻かは「現
 地」と他の領土の交易に従事するため、残っていたという。そうした分野は、後年、この会社で
 非常に利益を上げる分野となる。
  1629年、東インド会社は[自社船から]用船に切り替え、1654年にはブラックワルの造船所を
 売り払い、デプトフォードの造船所の一部を倉庫と修理ドックにして維持している。その結果、
 特定の人々は東インド会社船を建造するグループに移行し、それを会社に用船に出すように
 なる。
  1629年になると、ロンドン東インド会社は自社船から用船に切り替え、1654年にはブラックワ
 ルの造船所を売り払い、デプトフォードの造船所の一部を倉庫と修理ドックとして維持するよう
 になる。その結果、東インド会社の一部出資者は会社船を建造して、それを会社に用船に出
 すグループに移行する。
  18世紀末におけるそうした家族がボーラデァレス家である。かれらはデプトフォードで持ち船
 を建造し、[ロンドン南郊の]ストリーサムの地に不動産を所有していた。その近くには[サミュエ
 ル・]ジョンソン博士[1709-84、批評家、詩人]の友達である醸造家スレールの所有地があった
 (その所有地があるバルハムに建てられた家屋に、第二次世界大戦後、30年間、船員教育サ
 ービスが置かれていた)。東インド会社の主たる株主は船舶の共同所有者であった。その社屋
 はおおむねロンドン・シティのビショップ・ゲイト−リーデンホール・ストリートの区域にあった。そ
 の区域は、長年にわたってイギリス海運の根拠地であった。そうしたシステムが整えられると、
 どの船も6年間用船されることとなった。
◆東インド会社、インドに基地建設◆
 東インド会社のインドネシア島嶼からのペッパーやその他スパイスの交易は、オランダから
 猛烈な抵抗に出会い、1623年ジャワ島のバンタムにある足場の周辺から、1週間もたたないう
 ちに、イングランド人は追い出されている。その同じ年、イングランドのもぐり商人は、アンボイ
 ナ[現アンボン]で、オランダ人によって大虐殺されている。母国のスチュワート朝政府の弱点は
 救助できないことであった[アンボイナ事件という]。
  [イングランドにとって]無難にスタートし、将来においても最も重要な地域となったのは、インド
 海岸であった。1607年、最初の接近が行われたが、その後の1614年、ムガール皇帝の領地で
 あるボンベイ近郊のスラートに、交易拠点が設置される。それは、会社船2隻、その1隻である
 レッド・ドラゴン号を率いた船長トーマス・ベストがポルトガル船隊を打ち破り、投錨地に追い込
 んだ後に設置されている。その後、商館が海岸沿いの港に、次々と建設されていった。イギリ
 ス人船員が配乗された、インデイアン・マリンと呼ばれた10隻の船隊が、スラートを基地にして
 いた。他方、インドの東海岸では、1611年マスリパタム[インド南部、現マチリパトナム]に基地
 を設立し、また1639年マドラスに別の交易所を設置していた。しかし、この会社に偉大な日々
 が訪れるのは、[1660年の]王政復古以後になってからであった。
  東インド会社が、イングランドにおいて批判にさらされないことはなかった。16世紀最後の10
 年、銀が[メキシコ太平洋岸の]アカプルコから太平洋を横断してマニラに持ち込まれていた
 が、銀はアジアではヨーロッパ以上に際限なく不足していた。アジア人はヨーロッパのほとんど
 の商品を買おうとはしなかったが、金銀塊は欲しがった。最初の33年間、その会社は753,336
 ポンドの金銀塊を輸出し、物品はわずか351,236ポンドであった。東方と西方のバランスを取れ
 るような売買を確立することができなかった。
◆運航費用の構成とその記録◆
 1,000トンのポルトガル極東交易船は大型のイングランド船に再三にわたり捕獲されていた
 が、オランダ船は悠々としていた。
  当時、イングランド船は衛生が良く、金の掛からない配乗になっており、耐久力や利便性、効
 率性の面で優れていた。イングランド砲の威力は強力であり、その砲術はどの相手方より優秀
 であり、また船の艤装は操船性や帆走力を増すよう、常に改良されていた。フォアスルの面積
 にはいろいろなバリエーションがあるが、およそメンスルの3分の2くらいになり、トップスルもほ
 ぼ同じ比率であった。スプリットスルはフォア・トップスルと同じくらいに大きくなり、長いヤードに
 掲げられていた。当時の船の船尾は高々と建造されるようになったため、ミズンマストは小さく
 なったものの、横帆のミズン・トップスルが付く場合もあった。トップゲルン・スルはあまり使用さ
 れず、また縦帆のミズン・トップスルはさらに使用されていなかったが、スタンスルといった補助
 横帆はすでに用いられていた。リーフィング[・バウスプリット、取り外し式]は、当時少し用いら
 れていた。17世紀初頭の船員は、微風時、セールにボンネット[裾帆]を付けることを好んだ。
  多くの交易航海は、ニューファンドランドに行き、次いでスペインまたは地中海に向かい、そし
 てイングランドに帰るといった三角交易など、基準パターンに従って行われていた。アメリカや
 西インド諸島向けの運航者は、おおむね一巡航を1年で行う方式を採用していた。ブリストルか
 らバルバドスへ向かう場合は、1年に2航海にする場合もあった。レバントに向かう船は初秋に
 出帆し、翌年の真夏に帰っていた。ハルとオスロとは年間5航海、ロンドンと[ラトビアの]リガと
 は年間2航海、ロンドンとポルトガルとは年間3航海であった。ノルウェーとの交易は、結氷を配
 慮して5月から12月までに行われたが、この交易に従事する船は冬季、スペインを訪れてい
 た。多くの―例えば、オレンジ、レーズン、オイル、ワインの―交易には季節性があった。後世
 の中国からの茶交易にみられるように、帰国一番船に高値が付いたし、貨物の到着が遅れる
 とその品質が損なわれるという危険があった。石炭交易は季節の経過によって極端な影響を
 被ることはなかった。冬季、それはむしろ停滞した。17世紀のテムズ川は、現在より広くかつ浅
 かったし、凍結するときもあった。
  いくつかの運航記録が発掘されている。例えば、1630年代、200トンのアブラハム号の乗組員
 は28-30人で、そのうち「ハンズ」handsあるいは平船員は17-19人であった。船長の下に2人の
 士官のほか、掌帆長、砲手、大工が各1人とそれぞれの下に助手が1人、そしてコック、船医各
 1人がいた。
  同じ年代、250トンのダイヤモンド号の乗組員は40人、船価は1,150ポンドであり、後にナイトな
 るトーマス・ソームの船の持ち分は8分の1、船長ウィリアム・ピールの持ち分は16分の1となっ
 ていた。その船は、1634年に艤装を終えるが、船用品と修理に840ポンド、9か月間の食料(主と
 して牛肉、ビスケット、ビール、そしてチーズ)に340ポンド、そして新品の大砲とその他に247ポン
 ド掛かっている。
  その船は、1か月170ポンドで、地中海を1航海するという、期間用船契約で雇われている。船
 主たちは管理費用を支出し、用船者は港湾使用料の3分の2を支払っている。その船は11月
 出帆し、ヤーマスでタラあるいはニシンを積み、1月ヴェネチアで売り払い、3週間後アンコアに
 向け出帆し、そこでリスボン向けの小麦を積み、それを6月に売り払っている。リスボンでは、
 乗組員に3月分の賃金が支払われている。副契約に基づき、その船はアゾレス諸島に塩を運
 んで砂糖を買い、それを9月テムズ川に持ち帰っている。
  10か月強の用船によって、船主たちは1,757ポンドを受け取り、それに対して船長への支払い
 は706ポンドと決まった。それらに基づき、船主たちは378ポンド13シリングを分配しあっている−そ
 の利益率は14.5lであった。
  正確な評価は困難であるが、これら航海を見るかぎりでは、当時の遠洋航海が常に利益が
 上がっていたとはいいがたい。当時の船が効率良く走ったとはいえず、修理や取り替えに費用
 がかさんだとみられる。沿岸航行船はかなり安く建造、修理され、支払いも良かったとみられ
 る。
◆船長が持ち込む高級食品◆
  船長のリューク・フォックスやトーマス・ジェームズは、1631年ハドソン湾生まれであるが、似て
 非なる人物である。
  ジャームズは、多くの精巧な道具類のなかには、腕時計2個、豪華なコンパス6丁、クォドラン
 ト2個、そして「毎日、緯度を計測する際に用いるテーブルが含まれていた。[エドモンド・]ガンタ
 ー先生[1581-1626、天文学者]は、時刻を正確に計り、コンパスを整備しておけば、自分の針
 路を判断することができると指摘している」。それに加えて、「最良、特選の数学書で、物入れ
 は一杯となっていた」という。また、ジェームズは数学者ヘンリー・ゲリブランド[1597-1636]と提
 携して、ジェームズが月食時にいる経度を測定するため、同じ月食を15分間にわたって観察し
 続けている。
  他方、フォックスは[ジョセフ・]コンラッド[1857-1924、ポーランド生まれの海洋小説家、『台風』
 1902]の船長マクワアーのように、1960年代に入るまで良く見られたタイプの船長であった。か
 れは読書家や「測候」員のまねをする余裕はなかったが、非常に実務的な船員であり、自分の
 船の時報を確かめていたし、また経験船員を雇用していた。
  「わたしは特製の大ぶりの牛肉、強いビール、良質の小麦パン、良質のアイスランドのタラ、
 最高のバターとチーズ、賞美なサック酒とアクア・バイティ[強い酒]、エンドウ豆、オートミール、
 あら引き小麦粉、オイル、スパイス、砂糖、果物、そして米とともに、シロップ、ジュレップ、コン
 ディット(ジャム)といった『甘み飲料』(薬品)、『カールゲリー』(外科薬剤)、解毒剤、バルサム[鎮
 痛剤]、接着剤、軟膏、膏薬、オイル類、ほれ薬、グリセリン座薬、そして下剤を持っていた」と
 いう。
  一時、ジェームズタウンの「統治者」であった船長ジョン・スミスは、1627年刊行の自書『海の
 文法』のなかで、時代の知恵を炙り出している。かれはフォックスを上回っており、船用品につ
 いて、次のように推奨している。
  完全密閉された純正の小麦粉、米、干しブドウ、砂糖、干しすもも、シナモン、ジンジャー、ペ
 ッパー、クローブ、グリーン・ジンジャー、オイル、バター、オランダ・チーズあるいは古チーズ、
 ワイン・ビネガー、カナリア産サック酒、アクア・バイティ、最良のワイン、最良の水、壊血病用レ
 モン・ジュース、白ビスケット、オートミール、もも肉ベーコン、干し牛タン、包装ビネガー入り牛
 肉、煮立てた東海岸産のスウェートまたはバターで煮込んだ、切り込み包装マトンの足。外国
 人を楽しませるために、ママレード、サケット(果物ジャム)、アーモンド、ボンボン(砂糖漬けのジ
 ャム状の果物または根菜)、それに似たもの。(それに続けて)他の人がどういうかはともかく、
 わたしは争いが好きな男より、食べるのが好きな男を抱える。
  しかし、1588年以後のイングランド船隊においては殺害されたものより、必需品の欠乏が原
 因で多くの男たちを失っている。ある男が病気にあるいは死にそうになったときに、少量のシナ
 モンやジンジャー、砂糖を入れたバター炒めの米料理、少量の挽き肉あるいはロースト・ビー
 フ、数個の蒸したプラム、グリーン・ジンジャーの根、ホットケーキ、少量のシナモンやジンジャ
 ー、砂糖を調合した清水−あるいは、少量の干からびたジョン(固い干しタラ)より良いとはいえ
 ないが、オイルとマスタードを添えの塩引き魚、また魚の日にはバター、チーズ、オートミール
 のポタージュ、また肉の日には6シリングしたビールと一緒に出される塩引き牛肉や豚肉、エンド
 ウ豆といった食事を出すようにしている。
◆イギリス帝国の種子、投資と植民◆
 大方の人は注意すれば、ジョン・スミスが何をいっているか読み取れる。船員たちは、海運が
 成長しているあいだじゅう、病気に悩まれ、不運にさらされ続けた。1582-1629年間、イングラ
 ンドの合計トン数は70l以上も増えて115,000トンになり、200トン以上の隻数もわずか18隻から
 145隻以上に増加した。
  16世紀、ヨーロッパの多くの国において国家意識が高揚し、海洋戦略の重要性が十二分に
 認識されるようになったが、イングランドでは特にそうであった。無敵艦隊アルマダの撃退は、
 力がある敵であっても、有効な艦隊を差し向け、自由自在に動き回れば、[敵の]連隊は上陸で
 きないということを証明した。その発見はイギリスにとって非常に意義があった。16世紀のイン
 グランド人はスペインが侵略してくる恐れがあったので、海事力を増大させるべきだと考えてい
 た。17世紀になると、この意見はライバルとなったオランダのおかげで強まり、[軍事上だけで
 はなく]交易上の目的からも、海洋を掌握すべきという欲求になった[通商路維持・破壊という海
 洋戦略の登場]。
 イングランドでは、1604年軍艦として使用可能な船を海外に売却することが禁止された。1622
 年、北方交易人は、イングランド船には小麦以外の輸入品を積むよう、要求されるようになっ
 た。それは、1563年に通過したイングランドの沿岸交易から外国船を締め出すことにした、法
 律に基づいて行われた(この規制は短期間停止したことがあるが、300年にもわたって続けら
 れた)。1624年には、タバコは外国船に積んで輸入してはならないと命令されている。1625年、
 200トン以上の新造船に、補助金が支給されるようになった。1626年、フランスとの交易人は、
 「いくつかの条文に違反して」、外国船を雇っていると抗議が出されている。オランダとの抗争
 はイングランドをしていやおなく、1651年の航海条例の制定、そしてオランダとの戦争に駆り立
 てることとなった。
    17世紀前半、政府の無策、君主の無関心、そして海上戦闘による浪費にもかかわらず、
 イギリス帝国の種子は育っていったが、それを育てたのはコンキスタドーレス[16世紀のスペイ
 ンやポルトガルの南アメリカ征服者]ではなく、水夫や交易人、そして政治や宗教の対立者であ
 った。1649年までに、500万ポンドが海外冒険のためにつぎ込まれ、60,000人以上の人々ある
 いは人口の100人に1人が大英帝国を後してアメリカに向かった。約5,000人―イングランドの
 人口の500人に1人―が海外に投資していた。しかし、その主な推進力はトーマス・スミス卿とい
 った大商人が握っていた。かれは、東インド会社の創設時の総裁として、最初の20年間その
 職にあり、またバージニア資産会社でも最初の9年間、総裁であった。そうした推進力は、特許
 会社や私掠活動から幸運を掴んだ商人たちが、お互いに刺激しあった結果であった。1649
 年、イギリス帝国の種子はインドとアメリカで大きく開花する。

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