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(1649-1689)
―主な内容とその特色― 
 この章(189-203ページ)は、17世紀後半の1649年の共和国政府(コモンウェルス)に始
 まり、1660年の王政復古、1685年の名誉革命という激動を経て、1689年の共同統治者
ウィリアム三世とメアリー二世の即位までを扱っている。前章通り、長い期間を扱ってい
るが、それほど大部ではない。 共和国政府下の1651年、いままでの法令を集成して航
海条例が制定される。それはオランダ海運の発展を阻止し、自国海運を保護しようとする
ものであったが、その効果は限定的であったためか、多くはふれない。
  航海条例制定の翌年から、三度にわたるオランダ戦争はアルマダ艦隊を敗北させた
 のと同じ要素で勝利したとする。しかし、これら戦争をもってしても海事国の雌雄を決す
ることにはならず、交易勢力も交易地図も大きくは塗り替えられなかった。
  この章の題は「オランダの敗退」となっているが、オランダの成長が止まったことからい
 えば、「オランダの後退」といったところであろう。この時期もオランダの海運勢力は他国
 を圧倒していた。その優位は低船価・低船費、スペイン植民地との交易、東南アジアへ
 の浸透であった。その点に関するウィリアム・ペティのコメントはよく知られている。 
  戦後も、ヨーロッパ大陸では戦争が続いたため、イングランドはヨーロッパ、アメリカ、イ
 ンドなどのすべての交易路に、航路の拡大と船腹の投入に励み、漁夫の利をえながら、
 オランダに肉薄していった。1655年イングランドはオランダ軍を破り、ジャマイカを占領す
 る。カリブ海におけるスペインの制海権が弱まると、バッカニアと呼ばれる海賊がばっこ
 し始めるが、それはイングランドやフランスの現地統治者から暗黙の支持を受けていた
 ことはよく知られている。
  1660年代、新世界のプランテーションからタバコや砂糖の交易が目立って大きくなり、
それは次代の三角貿易として発展し、本格化する。
  東インド会社は、17世紀半ば、本格的な株式会社方式を採用し、再建される。しかし、
東南アジアに依拠するオランダを追い詰めることはできない。相変わらず、インドを基盤
として綿織物や、硝石、インディゴなどを積取っていたが、積下ろす商品は少なかった。そ
れでも、東インド会社船がイングランドの輸入に占める地位はきわめて大きかった。
  コッカー、バルタルプ、そしてバーローという船員の航海記が紹介されている。そのう
 ち、バーローについてはeBook『帆船の社会史』第5章に、それなりに詳しく紹介している。
 それに続けて、船長や船員の収入が「運賃は賃金の産みの親」という理念に基づいて支
 払われていたことを知らせてくれる。
  最後に、大型商船の共同所有船主たちの経営方法、船主と船長の関係、そして船長の
 職務について、若干の説明がある。この17世紀後半、海運取引が王立取引所のみでな
 く、コーヒーハウスにおいて、新聞広告を通じて行われるようになった。この時期、用船契
 約は期間用船だけではなく、船腹用船、数量輸送契約といった広がりをみせた。さらに、
 海上保険も広く利用されるようになったことが紹介されている。
  こうした展開のもとで、イングランドの海運業は人口の30分の1に当たる50,000人が従
 事する一大産業となり、またロンドンのいまに見る繁栄に大きく貢献したことが特記され
 ている。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆航海条例の集成、その効果◆
  1649年チャールズ一世に死刑が執行される。2年後、共和制政府[1649-60]が航海条例を制
 定したことで、1652-4年の第一次オランダ戦争が起きる。この条例は、いままでの政策とほと
 んど同じであり、それを包括したものであった。この基本法令のほとんどが、向こう約200年間
 有効となる。
  1651年航海条例は、イングランドへの輸入品はその原産地から直接持ち込まれるか、ある
 いはイングランド船もしくは最初または初回に船積みされた国の船によって持ち込まれなけれ
 ばならない、またヨーロッパ以外の国々からの商品はイングランド船によってイングランドに持
 ち込まれなければならないと命令していた。
  1660年、チャールズ二世の王政復古直後、さらに詳細な法律が通過した。沿岸交易は完全
 にイングランド船に留保され、イングランド船であるためには船長および乗組員の4分の3がイ
 ングランド人でなければならない。地中海やバルト海の産物、またトルコやロシアの産物はそ
 のすべてが、イングランド船あるいは原産国の船または最初に船積みされた国の船によって、
 輸入されなければならない。イングランド船によって輸入される外国商品は、原産国のあるい
 は通常最初に船積みされた場所から持ち込まなければならない。
  ヨーロッパ以外の各地からの輸入品は、イングランド船、ウェルズ船、あるいはアイルランド
 船、あるいはその原産国に属する船によって運ばなければならない。ヨーロッパ以外のイング
 ランド領地で産出するタバコ、砂糖、インディゴ、ジンジャー、フャステック[クワ科、淡黄色染料
 に使用]、その他染料材はイングランド、アイルランド、その他のイングランド領地に、専ら輸出
 しなければならない。植民地への輸出はイングランド船、ウェルズ船、アイルランド船、あるい
 は植民地の船によらなければならない。
  1662年の新しい法律は、外国人所有の船と同様、戦利品でない外国建造船の使用を制限す
 ることを目指すとともに、大型船に対する補助金を大型船の定義を変更した上で復活させてい
 る。1674年には、ある植民地から他の植民地に輸送する商品に、課税することにしている。
◆オランダの優位とその活躍◆
 オランダは自らの優位を享受し続けてはいたが、そのいくつかの交易は衰退しつつあった。
 1650年以後、バルト海から穀物を輸送するオランダ船の平均サイズは、ポーランド産のライ麦
 の交易が減少し、また西南ヨーロッパの食糧の自給力が上がったため、減少していった。しか
 し、1666年になっても、アムステルダム株式取引所に上場されていた資本金の3分の2はバル
 ト海交易に関係していたと評価されている。
  オランダからの輸入木材の関税は低く、また多くの省力工場が造船所として使われた。イン
 グランドではフライボートに1,300ポンドかかったが、オランダでは800ポンドで建造されていた。こ
 の価格の違いはそれ以前に比べれば小さくなっており、イングランド船は頑丈に建造されるよ
 うになった。1676年、イングランドの250トンの商船は1トン当たり7ポンド2シリング6ペンスかかったが、
 オランダで建造された200トンのフライトは4ポンド10シリングであった。オランダ人は年間700-800
 隻をバルト海に送り出し、また1,000隻以上のニシン船を使用していたが、そのうち600隻は大
 型であった。しかし、これら大型船も半世紀前に比べて、特に大きいわけではなかった。捕鯨
 においても、オランダ人はすでに主役になっていた。
  大西洋では、かれらはスペインの交易を荒らしまわっていた。オランダの提督マートン・トロン
 プ[1598-1653]は、1639年北方に乗り出してきたスペインのアルマダ艦隊を打ち砕き、それにと
 どめをさした。かれらはスペインの植民地と活発に交易を広げていた。東方との交易に当たっ
 て、かれらは1652年喜望峰に恒久的な植民地[南アフリカで最初のケープ植民地、現南アフリ
 カ共和国]を建設しており、かれらの占有地や勢力範囲はペルシャからマレー半島にまで大き
 く広がり、そして日本との交易も始めていた。セイロンでは、真珠採取やシナモンの取引がオラ
 ンダ人の手で広く行われていた。
  世界の海はオランダで建造された船によって切り開かれていったが、それらの多くはオラン
 ダ以外の様々な国民によって所有されていた。それらの国々が戦争しだすと、オランダ人は無
 害なリューベック人やジェノバ人になりすました。スコットランド人は、かれらがオランダで建造
 された船を使っていることを理由にして、イングランドとの交易から締め出されたと抗議してい
 る。ウィリアム・ペティ卿[1623-87、イギリス近代経済学の始祖]は、船員をやめてオランダで研
 究生活に入り、当時における著名な政治経済学者となった人物であるが、三度にわたるオラ
 ンダとの戦争が終わった1670年代、「オランダ人の海運は安価で嵩だかの商品を運べるよう
 に、マストを短くして帆走している。それらの商品の需要は天候に大きく左右される」と書いてい
 る[大内兵衛ほか訳『租税貢納論』、岩波文庫、1952]。また、かれは安く建造した船は安く運べ
 ることになる有利さを指摘しているが、その指摘は時代が下ったバルク・キャリアにみる通りで
 ある。
◆イングランド、オランダ戦争に勝つ◆
 イングランドは17世紀後半における三度にわたるオランダとの戦争に勝利した。この勝利
 は、強固で操船し易い船のもとでの、大砲、砲術、そしてシーマンシップの良さによるものであ
 った。それらは1588年のアルマダ艦隊を敗退させた要素と同じであった。ロバート・ブレイク
 [1599-1657]は、共和制期、騎士に指名され、提督ではなく海軍大将になったが、かれは厳し
 い規律を定め、高い給与を支払い、また捕獲の分け前を良くした。車付きの砲架に乗った鉄
 製大砲は、船内に安全に据え付けられたばかりか、同時に点火して「片舷一斉射撃」すること
 ができた。その砲火は、船が縦隊になって戦闘している場合、最も有効であった。
  1652-4年の第一次オランダ戦争では、イングランドによって捕獲された戦利品は1,000隻から
 1,700隻までの数であった。1664-7年の第二次戦争は約500万ポンドのコストがかかったが、捕
 獲船は500隻であった。1672-4年の第三次戦争も500隻であったと評価さている。他方、1655-
 60年におけるスペインとの戦争[?]では400隻以上を捕獲している。この戦争での船の喪失は
 少なかったが、1,000隻から1,500隻に及ぶイングランド船が捕獲または破壊されていた。オラ
 ンダに対して、イングランドが三度の戦争で失った隻数は、わずか約500隻であった。これらの
 数値は、1652年から1674年までの22年間、それぞれの年末においてイングランドが数百隻の
 良船を抱えていたことからみて信頼できる。事実、それらのほとんどの期間、捕獲した外国船
 が、イングランド人が保有する船の合計トン数の3分の1以上になることはなかった。1675年に
 なると、その半分を数えるまでになる。
  そうした戦争が終わると、イングランドは大量の船舶を保有するようなるが、それは捕獲船だ
 けでなく、ある望ましい均衡によるものであった。1669年、ヨシア・チャイルド卿[1630-99、東イ
 ンド会社総裁、重商主義の著書]が書いているように、イングランド人はバルク交易から完全に
 排除されていたので、「イングランド船を建造する必要がはたしてあるのか、最後のオランダ戦
 争でえた(この交易向きの)フライボートを適当な価格でもって補充できるのではないか」という
 状況にあった。さらに、「航海条例は17年あるいは18年間有効であり続けたが、その間、1隻の
 イングランド船もその交易のために建造されたことがない」と書いている。
◆イングランド海運、オランダを侵食◆
 そうした状況に関わらず、それら戦争によって交易は大きく変化しなかった。イングランドの
 交易は内乱によって妨害される。1646年以後回復するが、1649年になると再び低迷する。そ
 れはチャールズ一世の処刑後、反共和制派の私掠船の増加と士官の減少に基づいていた。
 その後の回復も第一次オランダ戦争とスペインとの戦争によって水を差されることとなる。王
 政復古後、海外から大量の船舶の買い付けが行われていた。1662年法が通過すると、イング
 ランドの造船業が急速に復活する。しかし、そうしたことも再び、その後のオランダ戦争によっ
 て頓挫する。
  イングランドの好機は、1672-4年の第三次オランダ戦争後に来る。イングランドには平和が
 訪れるが、それ以外のヨーロッパ諸国は戦争[フランス・オランダ戦争]を続けていた。イングラ
 ンドは、先進海事国に対して唯一の中立国であったおかげで、1674年から78年にかけて戦時
 国に物資を供給して交易を広げるとともに、オランダが行っていたバルト海とイベリア半島との
 交易、特に塩の交易を横取りした。イングランドからポルトガルに小麦を積んで航海するように
 なった多くの船は、その帰り荷として塩を積み、リガ[ラトビア]やペテルブルグに運び、さらに麻
 や亜麻、鉄をイングランドに持ち帰るようになった。
  17世紀の最後の10年間に、アイスランドの漁業は衰退し、沿岸交易も成長が止まってしまっ
 た。ニューカッスルからの石炭の船積み量は、1598年から1634年にかけて約2倍も増加した
 が、1634年から1698年にかけてはそのわずか3分の1、409,000トンから560,000トンの増加にとど
 まった。ただ、王政復古後、その交易から外国船をほぼ完全に追い払う。
  大型船が急激に増加した。ロンドンの船はとりわけ、オランダ人がしたように、あるものは巨
 木を交易しようとしてノルウェーやバルト海に向かい、他のものはタバコや砂糖を求めて北アメ
 リカや西インド諸島に向かった。こうした海運の事態は目を見張らせる変化であった。1664年、
 ロンドンから26隻がノルウェーへ、そして22隻がバルト海に出帆している。1686年には、それら
 は111隻と65隻に増加している。それら同じ年、西インド諸島には45隻から133隻が、また北ア
 メリカには43隻から111隻へと増加している。
   海運の成長は、造船資材に関する需要を、少なからず高めた。それによって、イングランド
 のカシ材やニレ材はすぐに不足するようになり、その代替としてモミ、マツ、エゾマツを輸入せ
 ざるをえなくなった。また、1666年のロンドンの大火や他の都市の成長に基づいて、建材用の
 木材の需要も増加した。バルト海からの材木や同種の輸入品の増加は、イングランド産業界
 の繁栄を呼び起こした。それは、毛織物製品の輸出の増加ばかりでなく、東インド会社船が持
 ち帰った織物や、アメリカの植民地から輸入したタバコや砂糖の再輸出によるものであった。
 東方会社は18世紀初めに消滅していたが、バルト海との交易がなくなったわけではなかった。
 1673年から1700年にかけて、年間200隻から300隻がバルト海からイングランド向かっており、
 その世紀末、それらの船の半数はイングランド船であった。
◆植民地の2つのタイプ、バッカニア海賊の登場◆
 新世界の植民地の発達には、そのころまでに、2つのタイプがあった。
 ペンシルバニア以北の植民地は、自給自足程度の規模の、小さな農業と林業を営んでおり、
 輸出するにはサイズが小さかった。さらに以北にあるハドソン湾会社[北方海航路への執着が
 残るなかで、ヘンリー・ハドソン?-1611は1609年ニュー・ヨーク湾、翌年ハドソン湾に入っている]
 は、1670年以後、毛皮を輸入するため、株式会社として運営されていた。さらに、北方のカナ
 ダへのフランスの影響拡大を阻止していたこともあって、宮廷に評判が良かった。事実、2人の
 フランス人がカナダの開発に関わっていた。当時、イングランド人は北アメリカ大陸におけるオ
 ランダ支配を打ち砕くとともに、カナダにおける交易について、2つの点で、フランス人より優位
 に立っていた。その一つはイングランドからの距離が短く、その二つは海域の制海権を持って
 いるということであった。しかし、ハドソン湾会社の仕事は小さなもので、その政治的地位も不
 安定であった。また、その会社はどの年も、年間に同時代サイズの船を2、3隻以上、大西洋を
 横断させることができなかった。
  ペンシルバニア以南の植民地はプランテーションとなり、そのほとんどが単一の特産農作物
 の輸出に依存するようになった。1670年の平和条約[マドリッド条約]のもとで、スペイン政府は
 遂にイングランドが支配している地域を認知するようになる。ヴァージニアやメリーランドはすで
 にタバコ輸出に依存していた。この軽い貨物はオランダのフライボートに積んで運ぶのに適し
 ていた。
  1655年、イングランドがさらに南方のジャマイカを占領すると、バッカニアbuccaneer海賊の全
 盛期が始まる。大アンチル諸島の島々は、野生の豚や角のある牛を供給していた。それら動
 物は、スペイン人の農場や農園から逃げ出したものを飼育したものであった。ブーカニアある
 いはバッカニア(燻製した肉であるブーカンから出た言葉)たちは、当初、それら動物を狩猟し、
 燻製した肉や毛皮を船に売ることで生活していたが、海賊に転じたのである。かれらの根拠地
 は[ジャマイカ・キングストンの外港]ポート・ロイヤルや[ベネズエラの]トルトゥガ島にあり、かれ
 らの後ろ盾はジャマイカのイングランドの統治者やセント・ドミンゴのフランスの統治者であっ
 た。
  ヘンリー・モーガン[1636-88]のもとで、ポート・ロイヤルの海賊たちはパナマ地峡にあるプエ
 ルト・ベロ(ポルトベロ)を略奪し、1668年にはその守備隊を虐殺している。翌年、かれらは[ベネ
 ズエラの]マラカイボを荒らし、1670年には[コロンビアの]サンタ・マルタ、リオ・デ・ラ・ハチャ、パ
 ナマ、その他スペインの植民地を焼き払っている。モーガンは、海賊活動から身を引いたとこ
 ろで逮捕され、ロンドンに送致されている。しかし、1、2年後にナイトに叙せられ、ジャマイカの
 副総督として赴任している。砂糖プランテーションを持つような植民地には、略奪あるいは密輸
 といった儲けの大きい不正な交易でえた、スペイン銀が投じられていた。1660年ごろ、イングラ
 ンドの新世界からのタバコや砂糖の交易が目だって大きくなっていった。
◆新しい帆装タイプの登場◆
 船も交易とともに発達する。1640年以前、イングランド船にあって350トンを超える船は、ごくわ
 ずかであった。1640年代、600-700トンの船が何隻か建造されるが、そのほとんどは東方で使
 用されるか、あるいはレバント向けに用いられた。また、4本目のマストであるボナベンチュア・
 ミズンを持った大型の軍艦が登場するが、短命な様式で終わる。ほとんどの軍艦が3本マスト
 であった。大型艦の多くは2層甲板であり、3層甲板、重装備、多配乗の艦もまれにみられた。
 そうした艦は戦時になっても海軍の主要な予備艦のままだった。
  型式の種別はトン数とはあまり関わりがないが、50トン以下の船にはいくつかの型式がみられ
 る。小型船は、フランスやフランダースとの交易、またイングランド海岸回りに用いられたが、
 その2本マストの型式は様々であった。17世紀半ば、取り付け式の縦帆は初期のガフスルへと
 発達し、またスクーナーschooner式帆装の兆候が現れる。当時、スループsloopやケッチといっ
 た用語が用いられているが、それらの船は19世紀になってはじめて必要となる。
  17世紀末、ブリガンチンbrigantineが出現する。それは当時ブリグと類語であった。1本マスト
 のイングランドのホイも大きくなり、25トンから80トンまで様々であった。その帆装は三角のヘッド
 スルを持った縦帆のメンスルの形式に修正されるが、バウスプリットはおおむね備えていなか
 った。そのホイは、短距離の海上交易に利用され続け、19世紀半ばまで沿岸船やはしけとして
 活躍する。他の1本マストの船として、ドッガーやシャロップshallopを上げることができる。
◆東インド会社のインドへの進出◆
 東インド会社の活動は、イングランドの交易の性格をかなり変化させた。スパイスなど東方の
 贅沢品は、従来通り地中海からイングランドに持ち込まれてはしたが、すでに喜望峰経由で入
 手した後、それら商品を地中海諸国に供給するまでになっていた。
  イングランド国王の不在期間[共和制期]、東方との交易は、実質的に、すべての人に開か
 れてしまった。ただ、1657年東インド会社はより恒久的な基盤のうえに再建され、払込資本は
 返済しない資金として取り扱われることとなった。
  チャールズ二世の復位によって、その会社に新しく特許状が付与されると、すぐに一つの交
 易会社としてだけでなく、政治的、司法的な権力を振るうようになる。その世紀の最後の10年
 間に用船されたベーカリイ・カッスル号、ベドフォード号、タヴィストック号、ストレートサム号、ホ
 ーランド号、ヨシア号、マーシャ号、フリゲートのザ・ラッセル号、ウェンワース号、ビューフォート
 号、マッシングバード号といった船名は、どういった地方で投資された船であるかをはっきり示
 してくれる。それら地方の貴族階級も海運を格好の投資先とみなすようになった。
  このとき以降、この会社は許可状がなくても金銀の延べ棒を持ち出すことが認められたこと
 で、交易は格段に増加するようになる。また、1650年カルカッタ近郊のフーグリ、1662年ボンベ
 イ、そして1686年カルカッタというように、次々とインドの足場が設立されていった。ジャワ島の
 バンタンでは、オランダとの紛争が続き、1682年イングランド人は撤退を余儀なくされ、それに
 代えてベンクーレン[スマトラ島南部、現ベンクル]を開いた。
  そのころ、スパイスは母国向け貨物としての優越性を失っており、その貨物の価額の70パーセ
 ントから80パーセントは綿織物となっていた。ペルシャやベンガルからのシルク、[パキスタンの]ラ
 ホールからのインディゴは価値ある貨物となり、また東インドやマラバールからのペッパーと、
 ベンガルからの硝石や砂糖が大宗貨物となっていった。ベーカリイ・カッスル号は、1681年イン
 グランドに向け出帆したとき、「その積荷から、マドラス地方から出発した最も豪華な船といわ
 れ」、その金額は80,000ポンド(1988年価格で500万ポンド以上)の値打ちであった。しかし、その
 積みトンの半分以上が硝石であったが、それが全体に占めるの価額はごくわずかであった。
  インドへの輸出品はわずかしかなかった。毛織物、鉄製品、銅製品、ビールはさておき、鉛と
 鉄は通常、底荷として運ばれたが、その多くがおおむね母国に持ち帰えられた。1680年代、東
 インド会社はイングランドの輸入価額の約14パーセントを持ち帰り、また年間に配当金として20パ
 ーセントを支払っていた。
◆エドワード・コッカーの航海記録◆
  エドワード・コッカーは、かれらの当時における海上生活について、われわれに記録を残して
 くれた一人である。かれは1633年ドーバーで生まれ、1694年[ノース・ヨークシャの]スカーバラで
 死んでいる。かれは14歳のとき船員となり、しばらくオランダ船で働き、オランダのために戦っ
 ていた。1650年ごろ、イングランド人に捕まり、オランダ船から下船させられ、ディールに上陸し
 ている。かれはオランダ人になりすまし、徴発を避けながら、実家まで帰っている。2、3年後、
 クリストファ号の士官となり、月43シリングという高給をえて船出している。
  塩干しニシンを積んだ船は、船長の泥酔のせいで、ガーンジー島の近くのフランス海岸に乗
 り上げている。フランスの戦艦からボートに乗るよう、命令されている。「そうすることなり、船
 長、わたし、そしてその他乗組員が乗り込んだが、そのときすでにみぐるみ剥がされていた」。
 かれらはフランスに向かっており、また当時、イングランドはフランスと平和を保っていたが、フ
 ランス人はクリストファ号を乗り込んできて、積荷のクローヴ[丁子]や乗組員の衣服を盗んでい
 た。
  1655年に結婚してから2年後、コッカーは干しブドウやマスカテル酒を積んだ船に乗っていた
 が、チュニスから来たトルコ人に捕まっている。チュニスで働かされ、夜はポルト・ファリオ城に
 押し込められ、仲間と鎖でつながれ、ナンキン虫やシラミのえじきになっている。ようやく助け出
 されるが、かれの困難は終わりがなく、1658年実家にたどり着くまでそれは続く。
  この航海は、わたしがトルコ人の奴隷にされたとき、イングランドを発ってから1年半たってい
 た。かれらはわたしをスペインの囚人として扱っていた。わたしは、貧乏な妻のいる家まで、自
 分の衣服を背負って帰ってきたものの、惨めな一文なしであった。それでも、艱難辛苦の後、
 健康な人々に会えたことは、うれしかった。息子のロバートは奴隷にされているあいだに死ん
 でいたが、エリザベスが生まれていた[?!]。多くの人々に同情され、幸せであった。当時、妻は
 店を出していたが、それだけでは暮らしは成り立たなかった。
  翌年、コッカーは再び主席士官として、ニューファンドランドに行って「哀れな水夫たち」を受け
 取るため、出帆している。そのとき、15ポンド借りて、「書籍、道具、衣服、そして冒険商品を取り
 揃えた」。その船はタラを仕入れ、地中海に向け出帆しているが、その地中海でコッカーは自
 分の勘定で仕入れた魚を売り、「100ポンド当たり11シリングという安値のレイズンを買った……」、
 「われわれは無事にロンドンに帰ってきた。その航海は7、8か月かかった。わたしは1か月3ポン
 ド10シリングの賃金のほか、冒険商品の儲けもあって、その航海は大変利益があった。神は、わ
 たしの努力ばかりでなく、多くの困難を乗り越えたことを賞賛したもうた。50、60ポンドほど稼い
 だ。すぐさま借金を返済し、次の航海に備え貯えた」。
◆ジョン・バルタルプの航海記録◆
 ジョン・バルタルプは、当時の航海の模様を、物語風の詩歌にしている。かれの詩は、1669-
 71年アルジェリア向けの遠征について書かれているが、そのときかれが乗った船は約685トンの
 セント・ダヴィット号であり、その船は地中海船隊の一部であった。かれの経験の多くは当時に
 おける通常の商船乗りの経験といえるものであり、またその後の3世紀にわたって変わらない
 ものであった。スペインでは、陸に上がった船員はたった1日の休暇で、「3か月間の一時金」を
 使い果たし、ポケットから取り出すものがなくなると、スペイン人に上着をはがされたという。
 レグホーンへの道すがら:
ここにレグホーンの淑女の馬鹿っ話しがある−
 彼女たちは赤んぼを産むと誓ったものがいる
 赤んぼを産まないで稼ごうとしているものもいる
 それでも何かをつかみ取ろうともがいている。

  メッシーナでは、物売り船が、日曜日を除き毎日、船にやって来る。提督は物売りを認めようと
 しない:
 かれらはあらゆるものを積んで持って来た
 かれらからシルクのストッキング、ブランディ、ワインを買う、
 キャベツ少々、ナッツ少々、イチジク少々、
 シラクサ・ワイン少々、卵少々。

  かれらはどんなものとでも交換するつもりでいた。ナポリでも同じであり、すべてが安かった―
 「羊肉1クォーター1シリング」。そうした港はご機嫌だが、海はいろいろ違っていた。
 食料不足のため、われわれは気が遠くなった
 わが牛肉、豚肉はまったく足りなくなった−
 その不足のため、体重は間違いなく半分しかない。
 わが固パンは真っ黒、うじ虫のなかに埋まっている−
 それらが出される新鮮な食品はすべてとなっている。

◆エドワード・バーローの航海記録◆
 1659年は、エドワード・コッカーが家に帰り、自分の努力を祝福した年であるが、別の職業水
 夫であるエドワード・バーローが見習い士官になって、海に出た年でもある。1642年生まれの
 かれの出身地は海港ではなく、マンチェスター近くのプレスウィッチであったが、かれに続く何
 千人もの少年と同じように、かれもまた冒険に強い憧れを持っていた。かれは読み書きを学び
 終えると、自分の日記のなかで、「近所の人たちは、自分たちの煙突の煙や母親のミルクの味
 から離れて、1日の旅を冒険しようとはしない」と軽蔑している。かれはチャールズ二世が[1660
 年亡命先のオランダから]イングランドに戻る船旅に参加している。
  かれは、その後、次のような典型的で公平な論評を加えている。「船ばかりでなく、われわれ
 哀れな水夫も無風あるいは晴天でありさえすれば、自分たちの命が危険な目にさらされること
 はない」。かれらは常に火災と水漏れの危険のもとに置かれていた。「縷々述べてきているよう
 に、われわれとは違って、イングランドにある家庭において生活している人々は、何と幸福なこ
 とに自分の望む時刻に好きな場所を歩き回って、世界を楽しみそしていいものを飲み食いする
 といった、すべてのことを意のままに行っている。それに対して、われわれはあらゆる種類の
 悲惨と窮地に苦しめられているが、そのおかげで外国の侵略者や敵対者から、家庭の安全が
 何とか保たれているのだ」。
  そうはいうものの、かれはめでたく雇止めになった後、進んで新しい服を着込み、女たちのま
 えを意気揚々と歩き、自分の冒険談を吹いている。そして、コッカーと同じように、かれも海上
 に留まり、長生きしているが、かれの職歴は東インド会社船を指揮して終え、61歳で廃業して
 いる。
  バーローが乗った1隻である270トンのカディス・マーチャント号は、1675年に約1,200ポンドで建
 造され、24門の大砲が積まれていた。その年、その船は石炭をニューカッスルからロンドンに
 運び、オランダとフランスとが戦争に入ると、海軍本部から「シー・ブリーフSea Brief」あるいは
 安全通行証をえている。その際、リガに行くまえに、ニューカッスルでコペンハーゲン向けの大
 量の石炭を積んでいる。その船は、そもそもリガに行ってアムステルダム向けの貨物を積むた
 め、用船されていた。
  アムステルダムからハンブルグに行き、カディスとマラガ向けの貨物を積んでいるが、そのと
 きムーア人海賊の危険が強まっているとして、さらに4門が追加された。平和条約はかれらの
 規範の埒外にあった。その船は、アムステルダムを出港し、5か月後、マラガに入港するまえ
 にハンバー川に入り、またディールやプリマスに立ち寄っている。夏のあいだ、カディスとマラガ
 に留まり、オイルとワインの季節を待っている。その船は、出帆して1年もたたないうちにハンブ
 ルグで用船解除となり、船主はその航海は小額の損失をこうむっている。
 カディス・マーチャント号は、冬のあいだハンブルグに停泊し、1677年3月ロンドンに向け出帆
 し、その後ノルウェーに行ってポルトガル向けの木材を積んでいる。塩を積荷にして、再びノル
 ウェーに戻ることになるが、その途上、船長は北海で悪天候にはばまれ、ハルで越冬すること
 にしている。そのため、この航海は1678年3月になって終了する。その後、木材を積荷にして、
 テムズ川に戻っているが、そのとき6月になっていた。
  その年の夏、ヨーロッパは平和となり、オランダとの競争が再開する。カディス・マーチャント
 号は、修理後、船腹用船契約tonnage charterをして南に向かい、1トン6ポンド10シリングで、トルコ
 やギリシャの商品を積むこととなった。カディスで船団を組んで、マホン[スペイン・メノルカ島]、
 レグホーン、メッシーナ、そしてスミルナに向かっている。3か月後、スミルナから船団に加わっ
 て、アテネ、ザント、メッシーナ、アリカンテ、そしてカディス経由で、帰国することとなった。ロン
 ドンに1679年12月帰着しているが、出帆して15か月たっていた。
  翌年の春、その船は船主の指示で、ジャマイカに行っている。それは新規の取引であり、貨
 物と旅客を運んでいる。69人の旅客はそれぞれ5-6ポンド払っている。そのうち12人は自由市
 民であったが、残りは年季奉公人であり、渡航費用を返すため、4年間勤める予定になってい
 た。年季奉公人をいやすために、一人の牧師が月30シリングで雇われている。その船は、イング
 ランドがトルコと戦争していたこともあって、道々、船団を組んで帆走していた。ジャマイカから
 砂糖、綿花、生皮を貨物として持ち帰り、イングランドに1681年2月に着いている。なお、カディ
 ス・マーチャント号の利益が特別に大きかったわけではない。
◆船長のなりわいと私的交易の稼ぎ◆
 カディス・マーチャント号の乗組員は通常21人であった。1672年、バルト海と交易していたファ
 ルコン号の乗組員は17人で、船長、士官、掌帆長、砲手、船医、そして11人の男たちと少年で
 あった。平時、砲手はなしですまされた。そうした船がドック入りすると乗組員は雇い止めとな
 り、船長ほか、おおむね1人が船を見張ることとなった。
  船長であることは、小型船はともかく、やりがいがあり、儲けの大きい専門職であった。船長
 や商店主の息子が船長になりたがった。1660年代、東インドやレバントの交易に携わる船長
 は、月に10ポンド手にしていた。他の船長は6ポンドであったが、地方で雇用されている場合は、
 それより少なかった。すべての船長そして多くの船員は、それ以外に、追加の稼ぎがあった。
 それは主として自分の勘定で交易してえた金であった。それ以外に、船長は海外で用船契約
 を結ぶような場合、また衣服や酒類といった船長「ボンド」(手持ち品)を乗組員に売りつける場
 合、何がしかの金を手にしていた。東インド会社では、用船契約トン数の5パーセントが私的交易
 に使えることになっていたが、その特典は主に船長をうるおすだけだった。他方、船長と乗組
 員は貨物に損害が生じた場合、賠償しなければならなかった。
  バーローは、主席士官として月80シリング、次席士官として月55シリング、手にしていた。1630年
 代から、大工の賃金は月40シリング、有能船員は20-24シリングとなっているが、戦時になるとその
 約2倍となり、また世紀が進むに従い、高くなっていった。ある船の13歳の少年は月8シリングであ
 り、通常、入港中の監視人になった。
  賃金などはおおむね航海終了後に支払われたが、東インド会社の船員はいち早く1663年か
 ら前渡し金として2か月分を受け取るようになった。賃金の「サブス」あるいは前渡し金は航海
 の途中でも支払われ、地中海交易では当たり前になっていた。船が喪失した場合、法律は賃
 金などを生き残った船員に支払え、とは要求していなかった。「運賃は賃金の産みの親」という
 ことが主張され、第二次世界大戦に入ってかなり後になっても、多くの会社では船が沈んだ日
 以後、賃金の支払いは中止されていた。
  1660年代―小型船ではさらに後年―になっても、読み書きできない船長がいたし、論理的な
 理解力がない場合もあったとはいえ、船長や士官とその他船員とは航海知識のあるかないか
 によって区別された。バーローが最初に船員となったとき、かれの賃金は見たこともない船長
 に取り上げられているが、それはかれが7年間その船長の技能見習いとなり、航海術について
 手ほどきを受けるよう手配されていたからである。
  航海者の道具は、そのころも、推測航法に用いるコンパスとログ、さらに太陽や星を計測し
 て緯度を決めクロスタフやコードラントであった。バーローの航海知識に磨きをかけ、また沿岸
 の危険な海面知り尽くすため、船長になれば持つことになるラターや水先案内書を携えてい
 た。17世紀半ば、多くの船長は簡単な航海暦である「ワゴナーwaggoner」[水路誌の呼称でもあ
 る]を持っていた。
  ハクルートから1世紀たった1673年、しっかりした航海教育の必要性について議論された結
 果、[ロンドン・スピトルフィールズの]クライスト・ホスピタルに学校が設立され、40人の少年に数
 学と航海術を教えることとなった。しかし、ほとんどの船の士官には、影響が及ばなかった。
◆海運取引と保険の拡大◆
 船長たちには巨大な期待が寄せられていた。船長という職は船主と親せき関係を結ぶに等
 しかった。ある船の経営の方向づけを国内で決定するような場合、通常、[管理船主は]その船
 の最大シェアを持つ船主の同意を求められた。その同意のなかには船長の指名とともに、不
 調になった場合の船の処置を含んでいた。船主たちは乗組員を雇い、貨物を探し、運賃を集
 金し、そして修理を手配していた。長期航海の場合、それが終わってから、船主たちは配当金
 がいくらなるかを聞かされることになった。
  船長は、貨物を受け取るとき、船主あるいは用船者によって指名された同乗管理人
 traveling factor、事務長cape merchant、あるいは代理人の命令に従うよう、指示されることが
 あった。そうした名前は17世紀末には「貨物上乗人supercargo」(積荷監督)という用語に置き換
 えられた。しかし、バルト海では、船長は航海と同じように積荷についても、終始、責任があっ
 た。その地方の交易は決まりきった交易になっていたので、船積みにあらかじめ責任を持つス
 ーパーカーゴはなしですまされてきた。地中海では、船長はおおむね、事実上、管理船主とな
 っており、その責任は航海期間が長くなるほど大きくなった。
  仲立業などのサービスも開業され始めた。ロンドンの多くの商業取引は1日に3時間だけ開か
 れる王立取引所や、王立取引所の背後の通りで行われた。サミュエル・ピープス[1633-1703、
 海軍省高官、暗号を使った日記で有名、臼田昭『ピープスの秘められた日記』、岩波新書、
 1982参照]は、用船や保険のため、しばしば王立取引所に出掛けている。旧取引所は1666年
 のロンドン大火で焼け落ちる。その建物はすぐには再建されなかったが、その取引業務は居
 酒屋やコーヒーハウスなどで直ちに始められた。その結果、取引所そのものの重要さが薄れ、
 個別の業務にしたがって集会所が設けられるようになった。イングランドでは、内乱後、新聞に
 広告を出すことが出来るようになった。
  管理船主が、どうしてもしなければならない重要な決定は、それぞれの目的に即して用船契
 約を結ぶことである。用船契約は、個別の航海毎に結ばれるのがほとんどであったが、運航者
 が航海の成功度合いを積み込み量の多寡で計るようになったため、期間用船契約time
 charterは船腹用船契約tonnage charterや、ワインや砂糖、オイル、その他貨物をより多く積
 むことを求める協定[数量輸送契約]に置き換えられていった。1650年以後、期間用船はまれ
 にタバコ交易に使われるだけになり、また1680年以後、砂糖の輸入に当たってまれに用いら
 れた。現代の基準からいえば論外であるが、荷役時間は大変制限されていた。所定の時間以
 内に船積みが終わらない場合、用船者は船主に1日単位で滞船料demurrageを支払わねばな
 らなかった。1660年以後、乗組員の雇用や支払いは船主の負担となり、用船者は関係がなく
 なっていった。
  代理人のネットワークが海外にも次第に広がっていった。管理船主は、用船契約がない場
 合、貨物を獲得してくれそうな仲買人や代理人がいるところに、次第に自分の船を持って行く
 ようになった。
  船主は何らかの損害を生じても、保険が広く行きわたるようになっていた。保険料の平時レ
 ートは[保険金の]3パーセントかそれ以下であり、戦時危険レートは6-14パーセントであったが、時に
 は35パーセント以上にも高騰することがまれにみられた。戦時になると、10回に1回よりは少ない
 としても、つねに拿捕される危険があった。17世紀中に、海賊は事実上、征討されていたの
 で、保険料に良い影響を及ぼしていた。
  海運業は、1580年以後急速に成長するが、わけても1660年から1689年にかけて、初期の取
 るに足りない産業から、イングランドの急速に発達する産業の一つにのし上がっていった。
 1582年から1686年までの約1世紀のあいだに、トン数は5倍以上、67,000トンから少なくとも340,
 000トンに増加した。その間、人口は間違いないところ、2倍ほど増加した。海運業は一つの産業
 として、いまや農業、織物業、そして建設業に次ぐ産業となった。イングランドの輸出と再輸出
 の価額は3倍となり、海運業はロンドンの繁栄に貢献するようになった。1689年には、人口150
 万人のうち50,000人あるいは30分の1の人々が海運業に従事していたが、次の世代になるとそ
 の産業の発達のペースはスローダウンする。

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