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(1689-1739)
―主な内容とその特色― 
 この章(204-219ページ)は、17世紀末から18世紀半ばまでの、イングランドの敵がスペインやオランダではなく、いまやルイ一四世のフランスとなり、1689年のフランスとのアウグスブルグ同盟戦争から、スペイン継承戦争を経て、スペインとのジェンキンズの耳の戦いが始まる1739年までの時期を扱っている。 この時期、国内では大地主と大商人の支配体制が確立し、議会制政治が定着していった。そのなかで、有名な南海泡沫会社事件が起きるが、それはかれら支配者たちのバブルとその破綻を示したものであった。
  イングランドは、スペインが後退すると奴隷交易に争って参入する。その交易は海上での奴隷の死亡率が低ければ、その儲けはきわめて大きいものとなった。奴隷船の母港は、ロンドンからブリストル、リバプールに広がっていった。アフリカからアメリカへの奴隷交易の規模は、300年間で約1,500万人といわれているが、そのうちイングランドは約200万人を交易したとされ、また18世紀前半、年間平均70,000人であったという。最初から悪とみなされていながら、やめられるわけがなった奴隷交易は、イギリス人にとって「負の遺産」であるためか、多くをふれない。
  18世紀前半、アメリカからの奴隷労働によって産出される砂糖やタバコ、そしてアジアからのコーヒーや茶、シルクやコットンの輸入が増加する。特に前者においては三角貿易として発展するが、後者は相変わらず片荷貿易から抜け出すことができない。それら植民地などからの産品の輸入とヨーロッパへの再輸出、さらに石炭や穀物の輸出の増加のなかで、航海条例の効果は促進され、イングランド海運業は大いに発展する。また、それら産品は、18世紀後半において「商業革命」や「生活革命」を呼び起こす手段となっていく。
  フランスとの抗争は、イギリスの優位のうちに推移するが、それに反発するかのようにフランスの私掠船が西インド諸島ばかりでなく、イギリス海峡でも活躍するようになる。それに対抗して、イギリスの私掠船も活動を続ける。それら私掠船船長の航海記録が何人か紹介されている。そのうち、ロジャーズ船長が詳細である。
  船舶の共有方式は、中世から世界的規模で発達してきた制度であるが、この時期イギリス海運が急成長したせいか、広汎に採用されるようになったらしく、その実例が紹介されている。当時のロンドンの企業家は、何らかの形で海運取引に関わりがあったとみられ、ロンドンのロイズ・コーヒー・ハウスで船舶と貨物の保険の取引が行われるようになる。海運業の信頼度を示すかのように、海上保険料率も低位安定していった。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆王立アフリカ会社、奴隷交易開始◆
  ジャガイモ、トウモロコシ、キャッサバ、そしてトマトといった新しい食物が、アメリカからヨーロ
 ッパやアフリカに持ち込まれた。マホガニーといった新材料も同じであった。それらを必要とし
 た人々に繁栄をもたらした。他方、ヨーロッパからアメリカへの馬の移住は、現地の在来種を
 ほぼ完全に絶滅させた。伝染病、天然痘、はしかが伝播していった。それと同じように、梅毒
 はコロンブスが連れてきたタイノー族のインディアン[過去、バハマ諸島やハイチに居住]たちに
 よって持ち込まれた。それは西洋ではいままでなかった。
  この偉大な新しい交易のなかには、必需品でないものばかりでなく、危険極まりないものもあ
 った。東方からの薬品やスパイスはすべての病気を治すことはもとより、すべての食品を防腐
 したりできたわけではない。茶は、イングランドの出来の悪いビールより体に良いというわけで
 はないと、ジョナス・ハンウェー[1712-86、商人、船員福祉に努力]と主張している。茶の買い入
 れ金の一部は、中国の人々にアヘンを強要することで、まかなわれた。ラム酒やサック酒に
 人々はおぼれ、砂糖は虫歯を広め、タバコはうむことのない殺人者となった。
  それら必需品でない産品を手に入れようとして、数千人もの船員が早死にしていったが、そ
 の早死は、かれらの職業に通常ふりかかる危険ばかりではなく、新しい発見の結果でもある海
 賊や戦争に基づいていた。奴隷交易の恐怖はすべてを圧倒するが、それはいまなおわれわれ
 の重要な[負の?!]遺産となっている。
  イングランド人は、1680年以後積極的に関与したことになっているが,約200万人の奴隷が
 大西洋を横断して輸送されたと評価されている[D.P.マニックス著、土田とも訳『黒い積荷』、平
 凡社、1976などにある、数値のようである]。当時、マサチューセッツの植民地では奴隷制が禁
 止されており、ある当局者によれば「奴隷交易にのめり込まなかった人々のほとんどは、それ
 が原則として悪だと感じていた」という。しかし、その交易は適法という空気がみなぎっていた。
 奴隷はほとんどが、西アフリカ海岸の王たちの監督下にある、黒人商人や売人頭caboceerあ
 るいは酋長が売っていた。王たち自身も奴隷交易者であった。奴隷も資本であるが、資本は
 浪費されはしなかった。有名なアメリカへの「中間航路」の途中において、奴隷が水夫より若
 干、多く死んでいるが、その数は奴隷の数に応じて大量となった。奴隷が死ぬと、2ポンド10シリン
 グから3ポンド10シリングの損失となった。この額は男性奴隷の当時の通例の購入価格であり、西
 インドでは18ポンドで売られていた。水夫が死ねば賃金は水に流れた。
  チャールズ2世の弟であり、後のジェームズ2世(在位1685-88)となるヨーク伯は、奴隷交易
 が悪であるとは考えていなかった。1660年、アフリカと交易してきたイングランド王立冒険会社
 という会社は彼に敬意を表し、自らの特権を証明するため、奴隷にDY(Duke of Yokeの略)とい
 う文字の焼き印を押すこととなった。その会社は、年間に最低3000人を供給する契約を、砂
 糖・タバコ植民地に結んでいた。
  国王は、イングランド王立冒険会社に投資しており、その会社を宣伝するため、「ギニー」とい
 う新しいコインまで発行する。このコインはギニア海岸から輸入された金で鋳造されていた。イ
 ングランドがオランダ戦争に勝っても、奴隷交易のほとんどがオランダ人の手に委ねられたま
 まであったため、国王や取り巻きなどの投資家は投資金を失っている。
  それにもかかわらず、1672年王立アフリカ会社が設立され、様々なことが持ち上がる。1680-
 88年間、王立アフリカ会社は約250回の奴隷航海を企画し、60,783人を船積みしたとされてい
 る。そのうち、46,396人あるいは4人に3人が、その航海で生き残った。当初から、その会社は
 イングランド人のもぐり商人と争わなければならなかった。1680-1700年間、300,000人の奴隷、
 新世界での価格でいえば300万ポンド以上が、その会社ともぐり商人を含むイングランド船に積
 み込まれたと評価されている。18世紀初めまでのイングランド人の奴隷交易は、その全体の
 10パーセントにも及んでおらず、それ以外は専らスペイン人、ポルトガル人、オランダ人、そしてフ
 ランス人が輸送していた。
◆年間7万人、200万人の奴隷交易◆
  ナザニエル・ユーリング船長[1682-1743]とトーマス・フィリップ船長は当時のイングランド人の
 奴隷交易について記録を残している[それ以外にも多くの記録がある。前掲『黒い積荷』参照]。
 後者は1693年の日記のなかで、「[プエルトリコの]セント・トーマスからバルバドスまでの航路に
 2か月11日かかった。哀れな乗組員とニグロに病気が広がり、死亡率が高まった。まず14人、
 最終的に320人を葬り、総額6,560スターリング・ポンドの損失となった。黒人同様、船員たちは、ほ
 とんどがジステンバーにかかり、白濁の下痢をしていた。それは猛烈で頑固であり、それを止
 める薬などまったくなかった。それに乗組員がかかろうものなら、その男を死んだものとみな
 し、またその男も仕方ないとあきらめた」と書いている。フィリップ船長はニグロの実売価格を
 書き残しており、そのバルバドスへの交易が大儲けであったことが解かる。
  1698年、奴隷交易はすべてのイングランド商人に開け放たれることとなったが、その場合10
 パーセントの貨物税を王立アフリカ会社の取り分として支払う必要があった。スペイン継承戦争が
 1701年から1713年にかけて人々を振り回したが、それはスペインとフランスの勢力を弱め、イ
 ングランドのヨーロッパにおける影響力を強めることとなった。この戦争を終わりに結ばれた平
 和条約であるユトレヒト条約によって、イングランドはガンビアからコンゴに至るギニア海岸の
 統制権([ニューファンドランドやノバ・スコシア、ハドソン湾地方といった]カナダについても同
 じ)、そして同時に不名誉な「アシェント」[スペイン領への奴隷供給権]あるいはスペインとの契
 約を獲得した。後者は、南海会社が年間4,800人の奴隷をスペインの植民地に供給する権利
 を承認するものであり、その権利は1739年になって放棄されている。
  ロンドンには王立アフリカ会社の本社があったので、17世紀末まで奴隷船が出帆する主要港
 であった。リバプールは、奴隷交易が開放されると、ブリストルがすぐにさまロンドンを引き離
 し、勢いを強めだした。また、フランスの私掠船が戦間期の1689年から1713年にかけて猛威を
 振るったが、それに災いされなかった。そして、発達途上の織物業と容易に結びつき、特に
 1700年以後、チェシャー州の岩塩鉱床が開発されことで、その時期それら便宜をえたリバプー
 ルは多くの点で優位に立った。
  1713年以後、イングランドの奴隷交易はブームとなり、すぐに年間平均70,000人を数えるまで
 になり、そのほとんどは1人30ポンドで、主要な市場となったジャマイカを中心とした西インド諸
 島に売られた。そこからアメリカ本土に送られる奴隷も少なくなかった。後者の交易はアメリカ
 本土船が取り扱うようになった。
  ごく最近まで、人の輸送は海運業の重要な役割であったが、特に18世紀、19世紀のイギリス
 海運にあっては特にそうであった。黒人奴隷や大身たちだけが新世界に運ばれた人たちでは
 ない。18世紀になるまでは、年季奉公人[渡航費を代弁してもらい、数年間隷属労働を行う労
 働者、17・18世紀の白人移民の3分の2が相当したとされる]がイングランドから運ばれていた。
 その多くはセリ売りに掛けられた。1685年の[チャールズ二世の庶子] モンマス公[1649-85]の
 反乱後、何百人もの反乱者が奴隷におとしめられ、アメリカや西インド諸島に売られた。国王
 は、お気に入りの廷臣たちに、反逆者を百人あるいは二百人と与え、処分していた。こうした
 罪人の輸送は18世紀末になっても続いたし、オーストリアには [1787年に] 最初の罪人が送ら
 れた。年季奉公人は奴隷より安い場合が多く、主人と同じ言葉を話すという良さがあった。そ
 れに加え、同じ文化基盤を持っていたので、白人奴隷は黒人奴隷と違った扱いとなった。
◆奴隷は砂糖買い付けのための貨物◆
 奴隷、象牙、金、そしてレッドウッド(染料となる)が、銃、銅製品、酒類、そして織物と引き換え
 に、西アフリカから持ち出された。年季奉公人や奴隷に加えて、織物、ワイン、鉄製品、その他
 工業製品が、アイルランドで西インド諸島向けに積まれた様々な食品や日用品とともに、アメリ
 カに運ばれた。こうした貨物の往航運賃はあまり高くなかった[綿花や綿織物はまだ登場しない
 が、三角貿易はすでに始まっている]。
  西インド諸島―バルバドス、リワード諸島、そしてジャマイカ―からイングランドへの帰り荷は
 砂糖であったが、それは奴隷を買い付けて奴隷船を満船にするために、必要不可欠の貨物で
 あった。それらの船に積まれた帰り荷は、工場製品や食料品とともにイングランドに直接、持
 ち帰られた。農作物の量は年によって変化するため、その交易は投機となった。サトウキビは
 夏に刈り取られ、その一部が黒砂糖あるいは未精製の砂糖に加工され、輸出されていた。18
 世紀半ばまでに、サトウキビを原料した糖蜜から作るラム酒が、主として北アメリカの植民地に
 送り込まれた。船積みは、ハリケーンを避けて、1月から2月にかけて行われた。スペイン船や
 コルセイア海賊船に襲われる危険性があったので、300トン以上の船が使われるようになり、運
 賃率は平時1トン3-4ポンドであり、戦時はその3倍に跳ね上がった。1720年代から、賃金の一部
 が植民地にいるあいだに乗組員に支払われる慣行になったが、植民地の貨幣価格がしばし
 ば下落する場合もあったので、そうした慣行は船主にとって有利になった。
  タバコはバージニアとメリーランドから来た。1635年の農作物の総輸出量は300トン以下であっ
 たが、1735年になると年に70-80,000トンまで増大した。年々、タバコはますます圧搾されるよう
 になった。船の「トン数」が輸送トン数ではなく、容積トン数で表現されるようになる。それはタバ
 コをより多く運べるようになったことを意味した。それに伴い、運賃は次第に1トン当たり5ポンドか
 ら7ポンドまで上がった。戦時には3倍になった。この交易には150-250トンの船が好まれた。そう
 した船は秋にイングランドから出帆し、春にイングランドに向け[現地を]出帆していた。18世紀
 初めころには、毎年200隻が船積みしていた。
  1707年の合同法により、いままで外国として扱われてきたスコットランドがイングランドと合同
 すると、[イングランド、ウェールズ、スコットランドによるグレート・ブリテン連合王国となり、スコ
 ットランドの船にも]航海条例が適用されるようになる。また、それに伴い、スコットランドのイギ
 リスの北アメリカ植民地との交易は一挙に増大していった。その世紀の半ばまでに、輸入タバ
 コの半分はグラスゴーなどスコットランドの港に持ち込まれるようになった。南西部のプリマス、
 エセクター、ビディフォード、カウズ、その他の港に持ち込まれたタバコは、大陸に再輸出され
 た。
  1700年以後、[サウス・カロライナ州の]チャールストン周辺の特産品である米が、北アメリカ
 からの重要な輸出品となり、またその世紀半ばまでにイングランドの量的に主要な輸入品の一
 つとなった。さらに以北の本土植民地から、ピッチ、タール、松やに、そして船までが、イギリス
 に輸出され始めた。イングランド船で海軍倉庫品を輸入する場合、補助金が支給された。植民
 者たちはかなり前から、それが可能な土地では航海条例を破りつつあり、母国の強制に反対
 する雰囲気が育ちつつあった。1726年法は、ペンシルバニアが魚の貯蔵用の塩を、イギリス
 人が所有しかつイギリス人が乗り組んでいる船に積むことを条件して、ヨーロッパから直接輸
 入することを許可している。それはイングランドの政策の主旨を植民者に適用するものとして
 説明された。植民者たちは成長しつつあるイギリス工業製品の買い手として期待されていた
 し、また本土の商品と競合しない製品を生産する工場を建設するよう奨励されていた。
◆東インド会社の製品輸入の弁護◆
 翌1688年、イギリスの交易の停滞とイギリスの商船隊の減少が明らかとなったが、18世紀半
 ばまでには何とか回復する。海軍勤務への商船船員の強制徴発がとんでもない結果をもたら
 した。何年にわたって、50,000人ほどの総労働力[総船員数]のなかから実に30,000人が、王立
 海軍勤務を強要されていた。1689年から1697年までの、アウグスブルグ同盟戦争当初の艦船
 の喪失は著しく、その戦間期4,000隻以上に及んだ。1686-1702年のあいだに、イングランドの
 トン数は20,000トン減少し、合計で323,000トンになったとみられている。その後の1701-1712年戦
 争[フランスとのアン女王戦争]で、それ以前に喪失した船を拿捕船によって埋め合わせてい
 る。しかし、船を集めて船団を組む必要があったため、大変な輸送の遅延が生じ、交易に有害
 な結果が生じていた。
  1680年以後、東インド会社はもぐり商人との競争にさらされるようになるが、その一部は海賊
 そのものであった。1698年から1708年にかけて、その会社の独占は一時的に停止となってい
 る。競争が避けられなくなった会社は、利益は二の次にして防衛するしかなくなり、当時使用し
 ていた700-800トンという大型船を400-600トンという船に取り替えている。こうした混乱した時代
 にもかかわらず、イングランドの交易は初めて中国にまで広がり、当初150-200トンの船を中国
 海域で専ら使用している。それ以前から、大量のコーヒーがアラビアの紅海にある[イエメンの]
 モカから会社船で輸入されていたが、1736年になると茶がコーヒーより評判が良くなった。しか
 し、高関税は密輸を蔓延らせ、東インド会社の交易の助けにもならなかった。シルクや陶磁器
 が中国から輸入されていたが、最も価値のある東方の商品はベンガル湾の純正なシルクとコ
 ットン製品であり、それらは裕福な人々の高価なファッションであった。それら貨物の運賃率は
 1トン当たり20ポンドであった。
  当時における保護貿易論者の主張の要点は、原料を輸入し、その加工品を輸出することが
 できれば、自国に雇用を作り出すことになるので、わが国にとって望ましいということであった。
 この観点から見ると、東インド会社の交易はそれにまったく当てはまらない。しかし、その会社
 は強力な弁明者を抱えていた。1690年に『新交易論』を刊行したヨシア・チャイルド卿と、『エッ
 セイ』(1697)や『論説』(1699)を持つチャールズ・ダベナント博士[1656-1714、経済学者、輸出入
 総督]は、その会社の独占を支持する論陣を張っているが、かれらはいずれも、それが会社の
 利益になるならば「自由」貿易を認めてよいともいっている。ダベナントは国際的な労働配分に
 ついても論じている。
  会社理事たちは、政治工作のため多くの金品を投じ、長期にわたる折衝の末、1708年「東イ
 ンドと交易するイングランド商人の合同会社」が設立され[名誉革命のあおりで、1698年会社は
 新旧会社に分裂していた]、1726年まで議会法によって特権が保障されることとなった。その
 期間はその後延長される。その会社の交易は次第に増加するが、18世紀の最初の3分の1ま
 での増加はほんのわずかであった。
◆航海条例の・保護貿易の効果◆
 イングランドとウェールズの人口は、17世紀後半減少したが、1700年には約550万人であっ
 た。当時の人口1人当たりの国民所得は、現代の低開発国の2倍弱と見積もられている。交易
 は、純所得の伸びよりはるかに急速に膨張した。純国民生産額の約10パーセントが輸出され、同
 額の輸入とバランスし、純国民生産額は500万ポンドとなっていた。イングランドの羊毛商品の
 半分、また工業製品の4分の1が輸出され、同額の工業製品が輸入されていた。
  当時の戦争にかかる費用は、歳入に負担をかけていた。航海条例による保護装置は経済
 社会に高い交通障壁を張った。それによって自国産業は外から遮られることになった。同じこ
 ろの植民者は産業の発展に期待していた。植民地への商品の供給に伴い、海運が最も重要
 な投資先の一つとなった。航海条例はリバプール、ブリストル、ロンドン、[カンブリア州の]ホワ
 イトヘブン、そして1707年以後、グラスゴー―イギリスのなかで最も急激に発達した町―を念頭
 においていたが、それらの町はすべて、新しい植民地から利益を上げ、雇用機会を増やしてい
 た。
  奴隷を使用して砂糖きびやタバコの葉を栽培するプランターの意見が交易政策に決定的に
 影響を及ぼすようになった。それらの交易から巨額の資本が蓄積された。イングランドの年間
 輸出額は1660年代の410万ポンドから1700年には640万ポンドに増加した。その増加の半分以
 上は再輸出の増加に基づいていた。それは主としてヨーロッパ向けであった。輸出総額のう
 ち、羊毛製品がそれまで約85パーセントを占めていたが、このころになると50パーセント以下まで低
 下した。再輸出は、いまでは輸出総額の約3分の1になり、主としてタバコ、リネンとキャラコ、そ
 して砂糖であり、それ以外に若干のコーヒーとスパイスであった。1700年になると、イングランド
 商人はこの国の海外交易をほぼ完全に掌中に納めるようになった。
◆北方海域の三角貿易―石炭・小麦の輸出―◆
 勿論、イギリスの大宗貨物は、いまなおヨーロッパ大陸との交易が占め、沿岸経由で輸送さ
 れた。イギリスの商品はいまなお毛織物交易が優勢であったが、その主要な販売先はすでに
 数世紀前から、ハンブルグからビスケー湾にかけての港と、アイルランドの港に依存していた。
 量的には、石炭交易が他を圧していた。1685年の約120,000トンから、18世紀半ばには328,000ト
 ンに増加した。イングランドの石炭船はいまでは1,500隻以上の数となり、外国人の手にいった
 ん落ちていた石炭交易は取り戻され、また沿岸経由だけでなく、ホワイトヘブンや[その近くの]
 ワーキントンからアイルランドへの交易も加わり、石炭輸送は遂にイングランド人の手で行わ
 れるようになった。その量が膨大であったので、それがこの国の合計輸送トン数に占める比率
 は常に高かった。1700年以後の交易の持続的な成長の下で、石炭船の所有者は北部に移っ
 て行き、またその建造は主として[ノース・ヨークシャ州の]ウィットビーやスカーバラで行われる
 ようになった。
  当時の三角交易は、ニューカスルからオランダに石炭を積み出し、オランダからノルウェーま
 でバラストだけで航海し、そしてノルウェーから木材を持ち帰っていた。当時、イングランドから
 [北方に向かった]5隻のうち3隻がバルト海に入ったが、バラストだけの空荷であった。その海
 域から重い木材を貨物にしていたからである。木材は、ノルウェーに加え、バルト海の東岸や
 白海からも輸入された。それらの地域から、麻や亜麻がいまでは少量の鉄とともに運ばれて
 来るようになったが、鉄の輸入は従来通り主としてスウェーデンからであった。
  18世紀前半、イギリスの輸出のなかで、石炭に次いで量的に大きな貨物は小麦であった。そ
 れは、主にスペインとポルトガルに送られた。イギリス船に船積みされると、輸出補助金が支
 払われた。それは、この交易からオランダ船を排除するのに役立った。小麦の輸出量は、世
 紀末の約120,000クォーターから、1720年にはほぼ4倍に増加し、30年後までその増加は続いた。
 この小麦に加え、南ウェールズから少量の石炭、コーンウォルから塩干しマイワシ、ヤーマス
 から赤ニシン、そして色々な港から種々雑多な銅製品や鉄製品が、イベリアに輸出されてい
 た。小型船はオレンジやレモンを持ち帰っていた。1689年以後、ワイン積み出し港の要塞化が
 [ポルトガルの]オポルトにならって流行するようになった。1703年のメスエン条約後、税関はポ
 ルトガル船に優先権が与えている。ポート[・ワイン]が流行の飲み物となり、他方クラレット[ボ
 ルドー産の赤ワイン]とサック酒は減少していった。
◆フランスとの抗争、私掠戦争の大展開◆
 地中海との交易や地中海内の交易は、トルコにおけるフランスとの競争にもかかわらず増大
 し続けたが、1693年巨額の被害をポルトガルの南方でフランス船から受けていた。1719年、ト
 リエステが自由港を宣言すると新しい輸送が発達し、またイタリアからのや生糸や絹糸の輸入
 が増加していった。イングランド船が、地中海内の交易を2、3年も続け、帰国しないというやり
 方は、すでに当たり前になっていた。リスボンからの運賃は平時1トン当たり2ポンドであったが、
 地中海からの運賃は通常5ポンド-5ポンド10シリングというの水準が続いた。しかし、他の運賃率と
 同様、戦時は3倍となった。
  フランスとの交易は戦時には禁止され、平時にその交易に対する税金は1713年以後一挙に
 高くなった。その結果、海峡をめぐる密輸が蔓延りだした。フランスは、イギリスの宿敵のライ
 バルであったオランダに取って代わっていたが、1692年[ラ・オーグ海戦で、イギリス・オランダ
 連合艦隊に破れ]海上覇権を確立することに失敗すると、私掠を支援するようになる。要塞化
 した港はともかく、海峡は護送されないイングランド船にとって、非常に危険な地域となった。フ
 ランスの私掠船は西インド諸島でも活動していた。この海域―1690年から1720年にまでの期
 間は、フランスのコルセイア海賊の古典期となる―に、バッカニア海賊が復活する。さらに、自
 らの不適切な取り扱いで、船員が海賊行為に走るようになったことも、合法的な交易者にとっ
 ての脅威であった。1715年、戦後の失業が海賊に拍車をかけた。
  戦時中、交易は無風状態となった。そこで、イングランド大型船の船主は、支払いが遅れるの
 は我慢して持ち船を御用船に差し出すか、またそれに向くならば持ち船を私掠行為に使うかで
 あった。私掠者であるウッズ・ロジャーズ船長[1679-1732、バハマ総督]は、当時の事情につい
 て、ベストセラーとなった記録『世界巡航記』で、次のように説明している。
われわれの多くは主席士官の経験があった。敵に被った損害を取り戻すため、
世界を回って私掠行為の機会を探してきた。われわれの2隻の船に乗り組んだ
水夫の数は333人であった。その約3分の1が外国人であり、色々な国から来てい
た。女王の臣下の何人かは、いかけ屋、仕立て屋、干し草作り、行商人、バイオ
リンひきなどであり、1人のニグロと10人の少年がいた。こうした混成集団ではあ
ったが、われわれは期待通り配乗に恵まれ、かれらはすぐさま銃の使い方を学
び、船酔いしないようになった。かれらに規律を教え、たたき込めると確信した。

◆私掠船船長ロジャーズの航海記録◆
 1708年、アン女王[1665-1714、在位1702-1714、死後、スチュアート朝が終わり、ジョージ一世
 の即位によりハノーバー朝が始まる]の政府は、敵から受けた被害を償うことが期待される場
 合に限って、私掠行為を認可した。しかし、私掠船は従来の慣行であった捕獲物の価格の50
 分の1を、国王に差し出す必要がなくなった。ブリストル市にある大きな団体は、1708-1711年
 のウッズ・ロジャーズ船長の航海に投資していたとみられる。そのなかには、市長になったこと
 のあるジョン・ホーキンズも、その一人として含まれていた。その航海は、すでに1世紀以上前
 から行われていた、イギリス海運の南太平洋への進出を助けることが目的となっていた。
  ホーン岬を回り、ウッズ・ロジャーズはチリ海岸沖のファン・ヘルナンデス諸島に立ち寄り、乗
 組員に生野菜や清水をあてがい元気づけている。そこで、アレクサンダー・セルカーク[1676-
 1721]を救助している。かれは、南太平洋で活動していた他のイングランド人船長によって、
 1703年無人島に置き去りにされていた。このセルカークの物語はダニエル・デフォー[1659?-
 1731]の『ロビンソン・クルソー』[1719]の素材となった。
  太平洋に入るすべての水夫の夢は、トーマス・キャベンディッシュを見習うことにあった。かれ
 は、1587年、毎年[メキシコの]アカプルコからマニラに向け、財宝を満載したガレオン船である
 「マニラの船」の1隻を捕獲していた。ウッズ・ロジャーズとその仲間は、1709年末にノストラ・セ
 ニョラ・デ・ラ・インカーナシオン・ディセンガニオ号を捕獲し、大穴を当てている。その海戦の
 際、ウッズ・ロジャーズは左の頬を撃ち抜かれている。かれは、冷静に「弾丸は、上あごのほと
 んどと、何本かの歯を打ち砕いた。その歯の一部が、倒れ込んだ甲板の上に落ちていた」と書
 いている。仲間のなかで傷ついたのは1人だけだったので、かれは運が悪かった。
  かれは、320トン30門のデューク号と260トン26門のデュケス号に、14,000ポンドかけて艤装してい
 た。それに対して、かれの利益は最終的に800,000ポンド29、1988年価格で約4,300万ポンドとな
 った。かれが開いた南太平洋への扉は、その後再び閉じられることはなかった。そして、1711
 年南海会社がその海域における交易を発達させるため設立され、2年後アシェントが授けられ
 ている。
   ジョージ・シェルホック船長は、ウッズ・ロジャーズの書物を検討し、かれの航跡をたどって人
 物であるが、1719-22年にかけて世界一周している。かれの2番船の船長はウッズ・ロジャーズ
 のかつての三席士官であった。かれらの後継者といえるシェルホックの乗組員は戦利品の分
 け前を大いにあずかっている。最後の戦利品は、シェルホックを含むわずか33人でもって分け
 あっている。すでに83人以上が死ぬか、脱走するか、あるいは逮捕されかしていなくなってい
 た。1720年、シェルホックはペルー沖で、1隻を捕獲している。その船はグアノ交易に従事して
 いた―グアノは[ペルー]沖合いの島で積まれるグアナウのふんであり、天然肥料として使われ
 た。
  シェルホックは、私掠行為のやり口について、興味深く、光を当てている。最初に、かれは、
 当時、オーストリアがスペインと戦争していたので、オーストリアの旗を立て、乗組員のなかに
 フレミング人を加え、出帆している。その年末、イングランドが参戦するとフレミング人は解雇さ
 れ、船はイングランドの船名と国旗に取り替えられた。1719年に起きたポルトガル船に関わる
 事件によって、かれは海賊の容疑をかけられることになった。その年末、かれはチリ沖で抜け
 目なくフランス国旗を掲げて、海賊を働いたと考えられる。
  ナザニエル・ユーリング船長の私掠暦は、かれの海上経歴のほんの一部にすぎない。水夫
 の息子であるかれは後に小売店主となるものの、14歳のとき6か月間ロンドンで過ごし、航海
 術の原理を学んでいる。まず、かれは石炭交易に船員を始めるが、すぐに「ガレー船」に転船
 し、アイルランドやバルバドスに航海している。その航海でフランス船に捕まり、ペンザンスに
 追い上げられ、ロンドンに歩いて帰っている。
  次いで、130トンに乗船し、マラガ、そして再びバルバドスに出帆している。その船はニューファ
 ンドランド向けのラム酒と糖蜜を積んでいた。ニューファンドランドからはバージニアにタラを持
 って行き、タバコを積むことになっていた。しかし、その船はチェサピーク湾で火災にあってい
 る。次いで、ユーリングはスループ[1本マストの帆船]で航海するが、天然痘にかかったため上
 陸し、生活の資を失うだけに終わっている。そのとき1699年であり、かれは17歳に過ぎなかっ
 た。天然痘が治り、イングランドに向かう船に乗り込もうと努力している。レバントに向かう船に
 乗船し、その船をディールで下船し、海軍に入っている。
  コペンハーゲンで交戦した後、ユーリングは商船に次席士官として乗り組み、奴隷を求めて、
 ギアナ海岸に向け出帆している。奴隷はネビス島で売られ、その売り上げで、砂糖を持ち帰え
 っている。1702年帰国途上、スペイン継承戦争[1701-14]が始まっていたため、かれは足を陸
 につける前に海軍に強制徴発され、そのときカディスとビゴ湾で戦闘に遭遇している。
◆郵便船サービスと航海学校の開設◆
 当時の海外との通信の方法は、船長の郵便かばんを使うのが、慣行であった。郵便かばん
 は、郵便物を集めるため、その船の出帆が決めるまで、港の良く知られた居酒屋のフックに掛
 けられた。定期的で予測できる郵便システム、特に公共郵便を実施することを条件として、
 1702年西インド諸島との郵便船(パケット・)サービスが開設されたが、この仕組みは戦後数年
 間しか維持できなかった。
  親戚のクロディスリー・ショベル卿[1650-1707、提督]の助けを受け、ユーリングはいまでは船
 長に指名され、郵便船の勤務についた。西インド諸島に向かう郵便船はファルマスから出帆し
 ていた。ファルマスはイギリス海峡から十分に離れており、南西風が吹きつのったとしても、船
 はそれに影響されずスピードを上げることができた。5年後、ユーリングはフランスに再び捕ま
 っているが、9か月監禁された後、フランス人戦犯との交換で仮釈放され、帰国を認められてい
 る。
  1709年、かれは150トン16門の船を指揮し、ニュー・イングランドやアンティグアに向け出帆した
 が、三度フランスに捕まり、このときは船を身の代金にして許されている。かれの船主はその
 船に400ポンドかけていた。奴隷交易がさらに拡大したこともあって、かれは私掠船の指揮を任
 され、西インド諸島や地中海で様々な事業に加わっている。
  世界をスペインとポルトガルとで分割した教皇の教書から約200年目、そしてアルマダ艦隊の
 敗北から約100年目の1670年、イングランドとスペインは遂に条約を結ぶが、それは当時それ
 ぞれの国が所有する領地についてそれぞれの国の権利を認めるというものであった。その所
 有地の範囲について争いは残ったが、この条約は正式に中央アメリカにあるイングランドの植
 民地を認知し、マガホニーの輸出を発達させる。
  スペイン継承戦争後、ユーリングは中央アメリカ―さらに、ベリーズやホンデュラス―からイン
 グランド向けのログウッド交易を開発している。この交易によって、イングランドの家具は、マガ
 ホニー時代への突入を画することになる。ジャマイカ周辺からの運賃は1トン5ポンドであった。ユ
 ーリングは1721年海上生活から引退し、その後何の不足もなく22年間過ごし、61歳死んでい
 る。
  スペイン継承戦争期、1,622枚の私掠許可状が発行され、1,343隻の私掠船が従事していた。
 それらがえた全体としての「獲物」は壮観といえず、ウッズ・ロジャーズのような力と富に恵まれ
 たものは少数であった。ウッズ・ロジャーズが指揮する2隻の武装は整えられ、その時代の東イ
 ンド会社船より徹底した配乗がなされていた。かれはデューク号320トンに117人を乗り組ませて
 いた。それに対して、東インド会社の450トンのコルチェスター号は1703年89人であった。この船
 は、船長以下、士官5人、士官候補生3人、掌帆長と助手2人、砲手と助手3人、大工と助手4
 人、料理人、銅工、まいはだ工と助手1人、スチュワード、船長付きスチュワードと補助2人、事
 務長、指物師、仕立人2人、船医と助手2人、そして51人の男と少年、そのうち数人が操舵手で
 あった。
  東インド会社船やレバント会社船を除き、1700年になるまでは三席士官はまったく乗船して
 いなかった。しかし、船のトン数に比較して乗組員数は減少していったにもかかわらず、航海
 技能を磨かせようと、そこそこのトン数の船は三席士官を乗船させるのが普通になっていた。
 他方、事務長はほとんどの船でいなくなり、また船医は大西洋横断交易でもまれになっていっ
 た。東インド会社船を除き、砲手は平時、乗らなくなり始めた。
  戦時の有能船員の賃金は1か月4ポンドに引き上げられていたが、長期航海の基準賃金は1
 ポンドから27シリングであった。ニューカッスル-ロンドン間の石炭船では、季節によって違いがあ
 るが、1航海30-35シリングが支払われた。また、ノルウェーとの木材交易は、1往復で3ポンド5シリン
 グであった。漁業、私掠、一部の沿岸交易にあっては、乗組員には「配当」方式で支払われた。
 船主は利益の3分の1を取るのが慣行となっており、残る3分の2が乗組員に所定の配分率に
 従って分けられた。1696年以後、船員はグリニッジ・ホスピタルを維持するため、1か月6ペンス
 の課徴金を支払わされた。1729年、商船勤務における船員の規律と管理を改善するため、あ
 る法律が通過し、船員と船主との契約は書面によると規定した。それは「雇い入れ」として知ら
 れる実務の始まりである。
  1720年には、ナザニエル・ユーリングが世話を焼いたような航海学校が数校、ロンドンや地
 方港にあったが、そのなかには1701年[エッセクス州]ロチェスターに設立されたジョセフ・ウィリ
 アムソン卿の数理学校、1715年[現、ロンドン旧新聞街の]フリート通りに設立されたニールの数
 理学校、そして1716年グリニッジに設立された王立ホスピタル学校がある。航海器具メーカー
 が自社の器具を使って教えていていた。
◆船舶の共有方式、船長はおおむね船主◆
 主席士官から船長に昇進すると、その収入は3倍となり、いままでとは違った社会階層に身
 を置くこととなり、さらに商人になる道を選ぶことも可能となった。沿岸交易や短距離の海洋交
 易は、50トンかそれ以下の船で行われたが、それらの船長は通常、共有船主であった。それ以
 外の共有者は親戚、友達、そして知人であった。かれらは、こうした方法でもって危険を分散し
 ていた。船体保険は貨物保険より遅れ、18世紀初めより発達した。遠洋航海では、多額資本
 が必要であった。その所有権は商人仲間や裕福な人々と提携している商人の手に置かれてい
 た。かれらの利害は海外では商館や代理店が代表していた。船を持つことは、すでに企業家
 にとって当たり前のことになりつつあった。かれらの主要な関心は、「トルコ商人」または「ロシア
 商人」、あるいは多角商人になることであった。
  1690年から1720年までは特別の期間であった。後者の1720年は南太平洋のバブルがはじ
 け、南海会社が崩壊した年であるが、株式会社という事業組織は普及しなかった。通常、船舶
 を所有する方式は、現在の普通の共有の仕方とはかなり大きく異なっていた。船舶所有の持
 ち分は、通常、均一の部分あるいはシェア―8、16、32、あるいは64―に分割された。こうした
 方式は国際的で太古からあり、投資家はいくつでもシェアを持つことができた。
  1686年、例外的に巨大な海運投資家であるヘンリー・ジョンソン卿は、ほとんどの東インド会
 社船を含む38隻の共有船主であり、かれの合計保有持ち分は32分の88であった。80トンのディ
 リジャンス号は、1728年公開セリで14人の所有者によって525ポンドで買われたが、そのうちダ
 ニエル・ディクソンが筆頭持ち分の16分の5を持ち、その残りを他の人々が持っていた。これは
 かなり小型の船の場合ではあるが、船長には持ち分はなかった。それぞれの船が個別の投資
 対象となっていたが、主宰者はそれらの船を「解約」している。それは、かれが胴元として委任
 されたわずかな部分をもって、自らの掛け金を守ろうとしたからである。一定の資本が、少なく
 とも何隻が帰国し、相当な利益を上げてくれることを期待して、多数の船に広く投じられた。
◆ロイズ・コーヒー・ハウスでの取引◆
 ロンドンの王立取引所やブリストルのトルジーは、1700年までは海運サービスに適切な市場
 を提供してきた。さらに、船舶仲買人は、他の仲買人や仲介人とは区別されるようになってき
 た。船の売買はロンドンのシップ・アンド・カッスルという場所で実施されていた。その場所は、
 その機能を示そうとして、1654年カッスル・タバーンから、そうした名前に変えている。1692年、
 ロイズ・コーヒー・ハウスは船舶と貨物の保険を手配するセンターとなるが、[シティの]ロンバー
 ド通りに移転し、また海運業界紙ロイズ・リストは1734年創刊されている。1720年代になると、
 補償予定の損害は保険によってカバー出来るようになり、また保険料率は安定し、運営が良
 いことを示す水準である、5パーセントにまで低下していた。その料率は1世紀前の通常レートの
 半分であった。他方、1720年の南海会社の崩壊が示すように、不注意な投機は不安定とスラ
 ンプを引き起こした。
  ロンドンは東インド会社船や、西インド会社船、レバント向け仕様の船の建造地として抜きん
 でてはいたが、ロンドンや東アングリアの造船業は衰退し、北東海岸が台頭しはじめた。その
 なかでも、アムブロス・コーリーの巨大な鉄工場は、ロンドンの艤装工場として良く知られていた
 が、1682年に[タイン・アンド・ウェア州の]サンダーランドに移動している。
  1694年、450トンの商船の建造に対して補助金が支給されているが、それは海軍の御用船とし
 て直ちに使用できるように艤装されていた。オランダ船の船体は商船の形状として非常に適し
 ていたので、イングランドの造船所もその形状を徐々に商船に採用するようになり、乗組員を
 減らすことに役立てられた。それによって操船性能はむしろ向上した。1人の輸送トン数は、
 1686年から1736年にかけ9トンから10トンあるいは11トン以上に増加した。北方の海域に入ろうと
 する船にあっても、海域で競争が続きまた安全になったこともあって、1人当たりの船の容積は
 20トンが普通になっていった。舵輪が初めて出現したのは、18世紀初頭であった。大型船をい
 かに誘導するかという懸案の問題は、次第に重くなった舵を備えることで、最終的に解決され
 る。

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