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(1739-1775)
―主な内容とその特色― 
 この章(220-234ページ)は、イギリスがフランスとの絶えざる植民地戦争に優位を占め、パリ条約において覇権国家としての地位を獲得するものの、1775年アメリカの独立戦争に直面するまでの時期を扱っている。 18世紀半ば、イギリスの船腹の爆発的に増加する。それはいままでとは違って、平時の増加が戦時の減少を遙かに上回ったからである。そのなかで、商船の平均トン数は増加し始め、東インド会社船は18世紀末には1000トンクラスが建造される。複雑な3本マストの帆装戦が増加し、ステイスル、トライアングラー、スタンスル、ジブなどの補助セールが次々と装着される。
  ロンドンが常にイギリス最大の商業港であったが、北西海岸ではリバプール、北東海岸ではハル、スコットランドではグラスゴーが長足の進歩を遂げる。貨物輸送契約など海運取引は、ロンドンではボルチック取引所の前身であるコーヒー・ハウスで行われていた。
  アメリカの独立直前、イギリス海運にとって最大最良の市場はアメリカを一角とする三角交易であり、それに船腹の約半分が投入されていた。加速蓄積を果たした植民地のプランターたちは、荷主としてばかりでなく共有船主として登場してくる。
  奴隷船船長ニュートンは後に牧師、奴隷廃止論者となったことで有名であるが、かれの奴隷交易における取引の実態が紹介されている。その場合、鉄のバーが奴隷の価値尺度として利用されている。すでに、17世紀後半という時期から、クエーカー教徒は奴隷制に反対している。
  18世紀半ば、王立アフリカ会社の解散、レバント会社の特許廃止など、交易の保護独占体制は崩れつつあったが、東インド会社はむしろ現地政府としての権限を強化されている。その交易の商品の主力は、いまやインド・シルクと中国茶となっていた。東インド会社船の船長の温厚ぶりや士官の華麗な船室が紹介されている。
  18世紀半ば、艦長アンソンが行った世界周航は、私掠航海としての大成功を収めたが、その報いとしてか乗組員が壊血病によって大量で死亡したことで有名である。奴隷船にあっては、賃金奴隷の乗組員の死亡率は商品奴隷のそれよりも、ほぼ常に高かった。
  最後に、後年大きな問題となる船員周旋業は、船員職業がエリザベス時代のような輝きを失い、海軍によって大量に強制徴発されて船員不足が生じたことに誘発されて活動し始めたとする。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆船腹量の著増、平均トン数の増加◆
 前世紀、イングランドの船腹トン数は1686年になる前に5倍となったが、今世紀はそうはなら
 なかった。それでも、1686年から1776年のアメリカ独立宣言までに2倍弱、340,000トンから608,
 000トンに増加した。しかし、ある権威は後者の数値は沿岸船隊のほとんどが除かれており、そ
 れを含めれば1,125,600トンという高さ−3倍の増加となるという。ウィリアム三世とアン女王の
 [アウスブルグ同盟] 戦争のあいだの増加はわずかであったが、毎年、損失が続いた。1739-
 1748年(ジェンキンズの耳戦争)のあいだに、スペインとフランスの攻撃で3,000隻を失い、1,500
 隻とそれからえた捕獲品ではその損害の一部分を償うにとどまった。七年戦争[1756-63]の損
 失は不明であるが、捕獲船は1,855隻もあり、イギリス海運にとって幸運にも正味の利益となっ
 たという指摘がある。捕獲船のほとんどがフランス船であり、イギリス船隊にとってバランスの
 良い追加となった。そうだとしても、この時代の平時における船腹増加のペースが速かったの
 で、その増加量は戦争による損失をはるかに上回った。そして、イギリス船隊の爆発的な増加
 は、18世紀半ばに始まる。
  商船の平均トン数が増加し始める。東インド会社船は1690年代の700-800トンをピークにし、
 それ以後減少するが、1764年にはスペック号にみるように、700トンのレベルを再び超えるよう
 になる。また、1787年、最初の1,000トンのイングランド船クレス号が、東インド会社に使用される
 ようになる。
  バルト海交易の船のサイズも300-500トンから400-500トンに増え、また大西洋横断交易でも約
 200トンから350トンとなった。これらの交易も膨張し、カーゴ・スペースの低利用に伴う[積み付け
 不良の]危険も少なくなったため、規模の利益を取得出来るようになった。東インド会社船は多
 数配乗のままであった。それ以外の、特に大型船では、前世紀に比べ同じサイズであっても、
 大量の貨物を運ぶようになっていた。軍艦は猟犬グレーハウンドのように建造されて快速にな
 り、また操船しやすくなった。しかし、商船は箱のように建造され、出来る限り多く運ぶことを目
 指していた。1748年、ある解説者は「多くの船はいまでは地面に物を積むように」、すなわち平
 底にして目一杯、建造されていたという。1700年までは、船はその測量トン数以下の貨物しか
 運んでいなかったが、1775年なるとそれ以上運ぶようになる。
◆複雑な3本マスト帆装船の増加◆
 複雑な3本マスト帆装船が着実に増加してきた。それは出来る限り、風を捕らえて離さないよ
 うにするためにあった。特に重要な成果は、何週間も往航の船を港に閉じ込めてきた、南西風
 が吹きつのるイギリス海峡でも帆走できるようになったことである。この世紀の半ばになると、
 典型的な船は2、3枚のステイスルを掲げ、トライアングラー(三角帆)をマストのあいだあるいは
 バウスプリットとのあいだに張るようになった。スタンスル[補助横帆]がメンマスト、フォアマス
 ト、そして時にはミズンマストに掲げられるようになった。その使用は徐々に広がっていったし、
 ジブ[船首三角帆]が1720年代に採用されるようになった。1700年以後ボンネットはみられなくな
 り、その代わりに縮帆作業が行われるようになった。
  そうした改良にもかかわらず、ほとんどの船は200トン以下であり、アイルランド交易や海峡横
 断交易の船にあっては大方20-50トンであった。マストの少ない船はより少ない乗組員で運航す
 ることができた。2本マスト船と3本マスト船を分ける区分線は、18世紀第2四半期になって変わ
 る。1700年まではおおむね50-60トンで区分されていた。それ以下のサイズの船は2本マスト、そ
 れ以上のサイズの船は3本マストであった。1740年代になると区分線は100トン以上となり、また
 1760年代には140-150トンとなった。北海で主として用いられる大型のブリグ、また大型[横帆
 船]のスノーはおおむね外洋航海に使用された。それらはいずれも2本マスト船であり、セール
 の掲げ方は違ってはいたが、世紀末まで広く使われた船であった。
  帆装によって船を分類するやり方はその世紀後半から行われるようになった。例えば、バー
 クあるいはバルクという用語は、フォアマストとメンマスト、そしてその前後のミズンマストに横
 帆を張った、3本マスト船に適用されるようになった。他の船は、それぞれに特徴のある帆装を
 して、建造されようになる。ブリグやケッチ、小型のスクーナー、多種類の1本マスト船のホイ、
 ドッガー、バイランダーbilander[2本マストとされる]、そしてスループ、それらは特別の用途があ
 った。
◆著名なパブ=ザ・プロスペクト・ウィットビー◆
 北東海岸の造船業は引き続き成長する。18世紀初め、大型船の建造はテムズ川のシャドウ
 ェルや、ロザーハイズ、ブラックウォル、そして東アングリアの入り江に集中するが、その仕事
 量は小さかった。その世紀後半になると、捕獲船が需要をかなり満たすようになったため、イ
 プスウィッチなど東アングリアの造船業は衰退してしまった。
  しかし、北東海岸、特にウィットビーやスカーバラの造船業は、さらに発達し始める。北アメリ
 カ植民地が独立を宣言するころまでに、ニューカッスルからハルに至る北東海岸の町々は、イ
 ギリス船の最大の造船地帯となっていった。当時、船はニューカッスルからサウス・シールズに
 かけてのタイン川沿いや、ウィットビーやスカーバラと同じようなストックトン、サンダーランドで
 建造された。クック船長のエンデバー号は、1768年かれの遠征目的にかなっているとして選ば
 れたが、もとはといえばウィットビーで建造された369トンの石炭船エール・オブ・ペンブローク号
 であった。
  有名な[ロンドンの]イースト・エンド[ワッピング・ウォール]の酒場「ザ・プロスペクト・ウィットビ
 ー」[開業1520年、密輸入業者や泥棒の隠れ家だったという、ピープスやターナーも常連]は廃業
 船長が付けた名前である。かれはプロスペクト号と呼ばれるウィットビー建造の船を指揮して
 いた。この酒場の名前は、その窓から見える眺め―ロンドンの町に途切れることなく現れるウ
 ィットビーの石炭船の流れ―からと付けられたと言い伝えられている。
◆北東海岸、北西海岸の港の隆盛◆
 ロンドンはいまなおイングランド最大の港であり、ニューカッスルからの石炭のほとんどがロ
 ンドンに持ち込まれた。地中海や東インドとの交易を切り開いたロンドンは、その交易をほぼ
 維持していた。1776年前から、ほとんどの貨物は船の持ち主とは違う商人によって持ち込ま
 れ、商人たちは[他人の船を]用船するか、カーゴ・スペースを賃借するようになった。そうしたこ
 とはバルト海と交易するロンドンの木材商人には当てはまらない。しかし、かれらも船のスペー
 スを提供するやり方をロンドンの商業界に広げていった。共有船主もその船の貨物には関与
 しなくなった。木材は、量的には、外国との交易のなかで最大であり、その輸送コストは木材価
 格の3分の1を占めていた。
  ロンドンは、交易全体の半分を占め、優位を保っていたが、18世紀になると北東海岸と西海
 岸は交易全体の増加とともに発達し始める。リバプールに出入りする船のトン数は1710年の
 27,000トンから1760年には100,000トンに増加し、1739年にはリバプールで2番目のドックが30年
 前建設のドックに続いて開業する。ロンドンは従来通りであるが、リバプールや東アングリアの
 主な石炭港や穀物港は長足の進歩を遂げる。ハル、ニューカッスル、そしてブリストルも重要
 な港であった。ハルは、特に1730年以後、[サウス・ヨークシャー州]シェフィールドと[ミッドランド
 州]バーミンガムの産業が成長し、木材とスウェーデン鉄の輸入が増えたおかげで発達し、
 1774年ハルに最初のドックが建設されたとき、その海外交易はブリストルと同じ規模であった。
 合同法後、スコットランドの産業は植民地交易からえた利益でもって大いに育成され、発達し
 たが、その交易のほとんどはグラスゴーを経由して行われた。
  七年戦争は北西海岸のリバプールやグラスゴーといった石炭港の重要性を高めたが、それ
 はその港から出帆する船が攻撃されるとか、密輸で捕まるといったことが少なかったからであ
 る。相呼応して発達してきたコットンとリネンの産業とは、それら産業が輸出商品を提供するよ
 うになるとさらに発達する。そして、それら地域の商人が奴隷交易に熱意をもって参入し、さら
 にタバコや砂糖の独立輸送人としても成長していった。リバプール商人たちは船長にわずかと
 はいえ役得を認めており、また賃金はロンドンより低い北西海岸のなかで最も低かったとみら
 れる。七年戦争後、リバプールの事業はさらに強化され、その地方の川や運河の連なりに沿
 ってイングランド中部地方まで拡大していった。いまやロンドンに次ぐ2番目の港となり、それが
 200年ほど続くことになる。
  この時代の商いの洞察力は研ぎ澄まされていた。[1883年設立の]ボルチック商業海運取引
 所は、海運界ではボルチック取引所として知られているが、その所期の仕組みは輸送約款を
 提供して、商船による貨物の輸送を保障することにあった。その施設は17世紀のコーヒー・ハ
 ウスの一つであるバージニア・アンド・メリーランド・ハウスにおいて組織され、1744年にはその
 取り扱いの貨物のほとんどが、2つの地域から来ていたところから、バージニア・アンド・ボルチ
 ックという名前に変えられたという。
◆交易のインバランス、捕鯨の拡大◆
 1739-48年の[ジェンキンズの耳]戦争の影響もなく、イングランドの交易は18世紀前半、価
 額、トン数ともに2倍も増加した。トン数の増加は石炭と小麦の輸出によるものであった。織物
 が価額の70パーセントを占め、雑多な金属製品と金物類がそれに次いだ。輸入は150年間に10
 倍あるいは12倍ほど増え、年間合計は560,000トンになっていた。その半分はノルウェーとバル
 ト海からの木材であり、その貨物は合計価額の5パーセントにも満たなかったが、非常に多くの船
 と船員を使用した。この交易のバランスは悪く、北ヨーロッパにはわずか30,000トンの商品を輸
 出するにとどまっていた。他方、石炭を中心とした510,000トンもの輸出品が近隣のヨーロッパ大
 陸の港に送り出され、それらの港からわずか44,000トンの商品が輸入されていた。
  南ヨーロッパ向けの輸出は90,000トン、それからの輸入は39,000トンであり、このインバランス
 は一面ではアフリカや西インド諸島との交易、そして他面では北アメリカとの交易でもって帳消
 しにしていた。アフリカや西インド諸島、特に後者から70,000トンを輸入し、たった10,000トンを輸
 出するにとどまった。北アメリカについては、それぞれ88,000トン、20,000トンであった。
  植民者のアメリカ人は、すでに南太平洋において鯨を殺し、油を搾っていた。それはイギリス
 南海会社の事業であったが成功していない。政府の補助金が捕鯨者に支給されていた。鯨油
 の需要は急激に高まり、1749年以後、イングランド船が北極圏の「グリーンランド」捕鯨にます
 ます投入されていった。レイズが最初に名乗りを上げた。イギリス捕鯨業は18世紀末近くまで
 盛んであった。
  18世紀半ば、1世紀にわたる開拓後、アメリカ植民地は繁栄し、北アメリカからの木材のイギ
 リスへの輸入は、植民先駆者の予想通り、急速に増大していった。アメリカ独立戦争[1775-83]
 までに、北アメリカの植民地―ニューハンプシャ、メイン、ノバスコシア、セント・ローレンス川の
 砂洲にある植民地―は、イギリス船のマストの初期供給地であったが、その1776年後の供給
 停止によってイングランド造船所は恐慌をきたす。特に、ニューイングランドはイングランド船
 主にとって船舶の輸入あるいは供給地であった。航海条例の文言によれば、そうした船はイン
 グランドで建造された船とみなされた。その地方は木材が豊富であったので、ニューイングラン
 ドではイングランドより安く建造することが出来た。1730年ころ、イングランド船の6隻に1隻はア
 メリカ建造であり、1774年には3隻に1隻となった。これら植民地はイングランドではいまなお輸
 出産業の市場と受け取られていた。1750年になると、植民地の製鋼や製鉄、完成鉄製品の製
 造は禁止される。
◆イングランドのアメリカ交易◆
 そのころから、産業革命がイングランドで進行し、新しい産業が登場しつつあった。その最も
 重要な兆候は綿織物工業にあった。ある種の綿織物、18世紀前からイングランドでも間違いな
 く生産されていたが、毛織物業者を保護するため、[1700、1719年のキャラコ禁止法]そうした
 織物を着ることは違法となっていた。そうした規制は効果がなかった。この世紀半ばにかけ
 て、輸入インド・キャラコの量が減少すると、イングランド捺染業はコットンの捺染技術に習熟す
 るようになる。1774年、ある法律が「王国内ですべてを紡いだコットンを加工する新規工場」を
 承認している。しかし、その間も、毛織物は重要さを失わず、[ヨーク州を3つに分けた、一つの]
 西ライジングのウーステッドはその世紀半ばころには顕著に改良され、アメリカをその市場とし
 て成長していった。しかし、リネン工場を含む織物業が唯一の産業ではなかったが、大変成長
 した。金属加工業も同様であった。皮製品や、帽子、索類の製造も急速に成長した。
  最も急激に発達したのがアメリカと交易する海運業であった。1763年までにイギリスの一部
 であるイギリスの植民地としてセントビンセント島、ドミニカ島、セント・ルシア島、トバコ島が、そ
 して1775年までにプランテーション植民地として西インド諸島についで、北アメリカのジョージ
 ア、カロライナ、バージニア、そしてメリーランドが加わり、それら地方がイギリス船の最大の顧
 客となっていった。18世紀半ば以降、イングランド海運業の約半分が大西洋横断航海に従事
 するようになる。
  西インド諸島向けの船は、イングランドからその産地はともかく大量の牛肉、豚肉、バター、
 そしてアイルランドからチーズ、またおおむねハンブルグからワイン用大たるの板、オイルや砂
 糖用の小たるや大たるを運び、[西インド諸島から]砂糖や熱帯の木材を持ち帰っていた。その
 世紀半ば以降になると、ラム酒がイングランドに大量に持ち込まれるようになる。
  そのほとんどが[再]輸出に向けられるタバコの量はますます増加していったが、その圧搾は
 それを積む船倉に余裕が出来たため緩められた。大たるのホグスヘッドに詰める量は1660-
 1774年のあいだに2倍となり、またタバコは固く梱包され、水のように重くなった。運賃率は1トン
 当たり4-5ポンドであった。
  アメリカ独立前、輸入品の5分の4は大陸に再輸出されていたが、それ以後は直接輸送され
 るようになった。船の安定性を保つため、1730年以後、鉄がバージニアやメリーランドから輸
 出されるようになったが、その運賃率は1トン当たりわずか10シリングであった。他の輸出品は米、
 ピッチとタール、そして綿花であった。当時、綿花は少量ながら、すでに重要な輸出品となって
 いた。
  1750年、タバコの輸入額は5,000万ポンドを越えており、その4分の1はイギリス国内で吸われ
 ていた。タバコの密輸が盛んに行われ、国内喫煙分の3分の1は税金が払われていなかった。
 そうしたことはスコットランドではなかった。
  イングランド国内の[砂糖販売]代理人は、植民地の栽培業者(プランター)が共有船主になる
 なかで、次第に数隻あるいは小船隊の船主として振る舞うようになった。例えば、ある裕福な
 砂糖[販売]代理人には、1753年21隻に持ち分があった。ロンドンからの船は特定の栽培業者
 の貨物に優先権を認めるよう命令されていた。その見返りに栽培業者は特定の船長を指名す
 ることになっていた。奴隷交易人は奴隷を売った後、砂糖をイングランドに持ち帰っていたが、
 砂糖の市場は全くの自由市場であり、砂糖の収穫量が季節によって大幅に変動するため、そ
 の価格を操作しようと試みても、それは不可能であった。バージニアでは、増大する富がタバ
 コに関する株式所有者を増加させたが、それは市場価格の変動を中和させるのに役立った。
◆奴隷の価値尺度として鉄の棒を使用◆
 1750-52年のあいだに王立アフリカ会社は解散する。その後、イングランド商人の組織は西
 アフリカ海岸沿いの砦を、政府から補助金の援助を受け維持していた。1713年以後、年間40,
 000人から100,000人までの奴隷がアフリカから運ばれ、年間平均70,000人、その多くが西イン
 ド諸島に売られたが、北アメリカに売られる数がかなり多くなっていった。例えば、カロライナの
 プランテーションの所有者は1738年2,800人の奴隷を買い取っている。1714年北アメリカのイン
 グランド植民地人口は59,000人であった。1754年には298,000人まで増加し、その後も急激に
 増加するが、それはある計算では出生数が死亡数を上回った結果とされている。
  1750-54年、ジョン・ニュートン[1725-1807]は―後に牧師、そして[ウィリアム・]ウィルバーホー
 ス[1759-1833、政治家]を反奴隷キャンペーンに引き入れた奴隷廃止論者であるが―、もとは
 奴隷船の船長であった。かれは日記を書いていたが、当時、公表していなかった。その日記に
 はイングランドから西アフリカ経由で西インド諸島への3航海が含まれていた。奴隷交易に4年
 間従事した後、かれは「気楽で名誉な生活」をさせてくれた神に感謝している。かれも、他の人
 と同じように出帆し、ギニア海岸を下りながら、物々交換で、買い付けておいた商品―鉄器、織
 物、銃、弾薬、ビーズ玉、ケットル、サイダー、そして酒類―を売っている。
  奴隷との交換に用いる物品は、シエラレオネでは「バー」(棒鉄)、西アフリカ海岸の他の場所
 では「ピース」、「アッキー」、「パウン」、あるいは「コッパー」と呼ばれた。バーは、当初イングラン
 ドから持って来た鉄片であり、1710年ロンドンでは3シリング6ペンスであったが、アフリカで手渡さ
 れるとき5シリングとなった。多種多様な商品がバーで評価された。奴隷はある数のバーで買い
 付けられ、バーが必要となると他の商品と交換して用意されていた。銃1丁10バー、コットン1反
 8バー、ブランデー1ガロン3バーであった。バーの価格は時々また場所によって変化したし、また
 「現地バー」か「船載バー」かによって、価格が違う場合があった。多くの交易は、船と川や入り
 江を往復するボートのなかで行われ、この交易は通常6-8か月かかった。
  三角交易の第2の局面、中間航路はアフリカから西インド諸島または北アメリカに至る航路で
 あり、奴隷はそこでおおむねセリにかけて、プランテーションの持ち主に売られた。そのとき、
 船長は死なせずに陸揚げさせた、すべての奴隷の売り上げ価格の約4パーセントを「お礼」(船長
 謝礼金)として受け取った。三角交易はプランテーションの産物を積んで、イギリスへの帰国航
 路をもって終わる。
  プランテーションの持ち主がイングランドを訪れるとき、かれらは今日、アラブの外交官と同じ
 ように、奴隷を連れて来た[?!]。クエーカー教徒にとって奴隷制は悪であり、ジョージ・フォックス
 [1624-91、クエーカー派の創始者]は早々と1671年に奴隷制を非難している。その8年後、未来
 のジェームズ二世はアフリカと交易するイングランドの王立事業会社を開始しており、その数
 年前からイギリスの奴隷交易が始まっていた。1761年、イングランドのクエーカー派は、「ニグ
 ロの非キリスト教的な輸送に関与している」場合、教徒から排除すると決定している。2年後、
 かれらはその禁令を、この交易を手助けしたり、煽ったり、あるいはあらゆる形で激励したりす
 る人々に広げた。
◆東インド会社の行政府権限の強化◆
 奴隷交易の最中、レバント会社が独占としていた小アジアやシリアとの交易は、1753年開放
 された。この交易は過去と同じように続いており、イングランド人仲買人がアレッポ、スミルナ、
 そしてコンスタンチノープルにいた。船は、往航、復航とも、スペイン交易の中心地カディスに立
 ち寄っていた。荷役が迅速となって、カディスとの航海数は年間2航海から3航海に増えてい
 た。そして、海運の効率が改善されるにつれて、運賃率は下がっていった。120トンのクレス号
 のような、その航路に張り付られた典型的な交易船が、ロンドンに入港する隻数は1751-68年
 において2倍になった。
  その世紀半ば、マデイラ諸島のワインがイングランドで広く飲まれるようになった。マデイラ諸
 島はポルトガルの植民地の一つであるが、アメリカ向けの船がしばしば立ち寄るようになると、
 そのワインは西インド諸島や北アメリカの南部植民地に運ぶのにもってこいの貨物となった。
 ある船が、1754年から1766年にかけてイングランドの港に運んだ樽数をみると―カロライナ号
 150トンは必要品を整えるため、初回950ポンド、次回569ポンドの費用をかけている―、そのワイ
 ン交易からえた利益が低いことが解かる。
  1763年、七年戦争処理を含むパリ条約は、イギリスに東方における他のヨーロッパ諸国を圧
 倒する最高権力を付与する。フランスは、アメリカ独立戦争中の短期間、それら海域の覇権を
 争い、また[マダカスカル沖の]モーリシャス島は1810年までイギリスに占領されなかったとはい
 え、18世紀半ばころに保持していた強力な地位を再び獲得することはできなかった。インド支
 配を巡るイギリスとフランスとの抗争は、東インド会社を完全に変質させ、大きな町は単なる交
 易基地ではなくなった。この会社は、1764年にはベンガルのあからさまな支配者となった[1765
 年ベンガルの徴税権を獲得]。1744年には、会社は再び、現地の統治とそれに関する特別の
 権限を付与されていたが、それは1766年、さらに1773年に会社が再組織 [インド総督職の創
 設、それに伴い同社の行政権の制限] された後の、1780年になっても拡充され続けた[なお、
 1784年インド法成立、インドは同社支配から政府直轄支配となる]。
  この期間の東インドとの交易における輸入量は、年間わずか8,000トンであったが、それらの
 なかで最も価格の高い貨物はシルクであった。貴金属は別として、このルートにおける輸出貨
 物は無いに等しく、そのため往航の運賃率は安かった。復航貨物の運賃率は1トン30-35ポンド
 であったが、シルク、キャラコ、そしてインディゴといった「優良」商品の運賃率は硝石、砂糖、そ
 してペッパーといった「嵩高」あるいは「荒物」商品より高く、その一般原則はその商品が負担し
 うる程度に応じて決まった。1760年中国茶の輸入額は250万ポンドであった。
  東インド会社船は重武装するようになると、運賃率は戦時、他のルートに比べ、若干高くなっ
 た。この交易に携わる船長は多数の特権を持った職業であり、その地位につくためには過大
 な出費を必要とした。モンスーンの季節を避けるため、かれらはインド海岸を1月末前か、6月
 または7月内に離れるようにしていた。中国には、新茶の収穫期をはずさないよう、7月または8
 月に着くようにしていた。
  当時、アメリカ人が自らの独立戦争を戦っていたので、東インド会社は保障された交易独占
 権通りに、唯一の特許会社として振る舞えるようになった。北アメリカの植民者が常に抱いてき
 た不満の一つが、母国政府による東インド交易への直接参入の禁止であった。その不満の現
 れが、そのルートにおけるアメリカ人海賊の出没であった。かれらはマダカスカルを基地にして
 いた。
◆東インド会社船の船長・士官の優雅さ◆
 東インド会社船では快適かつ最新の生活をすることができた。1768-9年プラシー号を指揮し
 たウォデル船長について、その船の旅客40人の一人であるウィリアム・ヒッキーは、「かれは普
 段から落ち着いており、内気あるいは遠慮がちに見えた。また、大変温厚で公平な資質を持っ
 ており、乗組員は船長に恵まれたといえる」としている。ヒッキーは、かれと一緒にインドまで航
 海し、また一緒に帰国している。かれがいうには、船長が怒ったところを見たことがなく、「かれ
 の、ののしりや声高な言葉を聞いたことがない」。これら航海中、かれは特別のテーブルを与
 えられていた。
  その船の士官たちは粗野な言葉つかいをしていたが、仲間から好かれていた。船長と士官
 は非常に気があっていた。その船の三席士官ダグラスも紹介に値する。かれの服装は凝りま
 くっており、「ダグラス伯爵」という呼び名をもらって勤務していた。「かれは身の程以上の金を
 身の回りに使っていた。かれがどうした機会をとらえたか、だれもしかと確かめたわけではない
 が、どうして1シリングを、1シリングを手に入れているかは解かっていた」。かれも幸運を見逃さ
 なかったのだ。身の回り同様、かれの部屋は小奇麗で豪華であった。ヒッキーによれば、「そこ
 は明るい黄緑色に塗られ、金色のビーズで縁取られていた」という。ベッドとカーテンはマドラ
 ス・サラサで作られ、化粧台には手に入るあらゆる品が入っていた。製本された書籍が詰まっ
 た美しい文机と本棚、そしてすっきりしたマガホニー製の椅子3脚が、備え付けの家具を補完し
 ていた。ヒッキーがいっていることは、いくつかの書物にも残っている。
  東インド会社船の船長と士官たちは、最良に訓練された航海者だというものの、遠洋航海は
 いまなおぎこちない生業であった。[ジョン・]ハリソン[1693-1776]が1759年にクロノメータを発明
 し、[ジャームズ・]クック[1728-79]がそれを試用しているが、商船にはすぐには採用されなかっ
 た。多くの船長は、経度に関しては、いまなお完全に推測航法に頼っていた。コードランドとロ
 グは種々改良された。この推測航法はしばしば間違いを起こしたし、また陸地を視認できない
 海上では、船長は自分のいる位置がまったく解かっていない場合が多かった。
◆アンソンの世界周航、死と富の落差◆
 戦時になっても、多数の私掠船が海上で活動していた。ジェンキンズの耳戦争中に1,191枚、
 また七年戦争中に1,679枚の許可状が発行されていた。ジェンキンズの耳戦争中、最も特記す
 べきは艦長ジョージ・ウォーカーである。乗組員がわずか32人になっても、かれは敵をだまそう
 と、こけおどしとしてしつらえた「どくろ旗」を掲げ、また同じ目的で木製の大砲を艤装していた。
 かれは日々の慰めに、小さなオーケストラ―トランペットも吹けるホルン奏者2人、オーボエも
 弾けるフルート奏者2人、黒人のドラマー、ハープティスト、そしてバイオリン奏者各1人―を乗
 せていた。そのほか、乗組員にバイオリン奏者が2人いた。私有船4隻が船隊を組み、1747年
 に終了した巡航で、かれは220,000ポンド以上の値打ちのある捕獲船があったが、代理人や管
 理人にだまされたらしく、債務者監獄で死んでいる。
  艦長ジョージ・アンソン[1697-1762]の1740年から1744年にかけての世界一周航海は、儲け
 仕事ではなく、軍事的な探検であった。キャベンディッシュやウッズ・ロジャーズと同じように、か
 れも大型マニラ・ガリオン船であるヌエストラ・セニョラ・デ・コバドーナ号を拿捕し、大成功を収
 めている。その船は、1,313,843枚のスペインドル(8リアル銀貨)と35,682オンスの純銀という、信じら
 れないような捕獲品を積んでいた。それは1隻の船がイングランドに持ち帰った最大の分捕り
 品であったといわれている。生き残ったものは金持ちになって戻れたが、アンソンの指揮の
 下、3隻の船に乗って出発した961人のうち626人が、最初の12か月だけで死んでおり、そのほ
 とんどが壊血病であった。
◆奴隷船残酷物語―船員死亡率の高さ―◆
 アンソンの乗組員が、生野菜や果物が壊血病を治療すると、気付いていた節はない。船員
 たちは、前々から苦情を述べていたが、好きなものを食べる機会は奪われたままであった。こ
 のアンソンの事例が刺激となって、ジェームズ・リンド博士[1716-94、船内衛生の始祖]が一連
 の事例と観察から、壊血病は基本的に食事病であると確信するに至った。かれの『壊血病論』
 は1753年に刊行されているが、柑橘類のジュースが商船の基準食品となるには、その後約1
 世紀かかる。
  アンソンは300人の有能水夫と約束し、170人と契約したが、何人かは病気であった。さらに、
 300人の兵士と約束し、さらに259人のチェルシーの病弱な囚人を受け入れたが、そのなかに
 は70歳以上のものもいた。優良な男をうることは難しく、戦時中は特にそうなった。ジョン・ニュ
 ートン船長は、奴隷船の乗組員について、1752年ダヴィッド・ジェニングズ博士に手紙を出して
 いる。「われわれに供給される連中のほとんどが国家から拒否され、不用になった連中であ
 る。監獄や営倉は、われわれに大量の浮浪者や少年を分け与えてくれる。かれらは、親方や
 親たちに我慢し切れなくなった連中か、すでに早くから悪習に染まるか、あらゆる種類の良俗
 を身につけずに、堕落した連中であった」。かれは乗組員に手を焼いており、厳しい規律がな
 ければ、普通の水夫でも管理できないと断言していた。
  奴隷制廃止論者トーマス・クラークソン[1760-1846]は、1766年から1780年にかけて行われた
 9回の奴隷航海における死亡率の比較一覧表を発表している。その数値は正確であり、水夫
 203人のうち死亡は22人、11パーセント、奴隷2,362人のうち死亡は154人、6.5パーセントであった。い
 うまでもなく、奴隷は一度大西洋を横断するだけであるが、水夫は職業として危険に常にさらさ
 れていた。
  食事の悪さ、病気と残忍、そして海難の危険、さらに火事や災害は当たり前となっており、遠
 洋航海を続ける船では特にそうだった。索具からの墜落はしばしばあり、また海中転落もまま
 あった。
◆船員の不足と徴発、船員周旋業を誘発◆
 1753年、船員の賃金は月23シリングであり、それが平時の標準賃金率であった。船員は農業
 労働者よりましであった。その賃金は、食料の価格を含めれば、週10-12シリング稼ぐロンドンの
 賃金にほぼ近かった。しかし、船員は陸にいるあいだは自分の貯えでやりくりし、また海上に
 出れば週7日も働かねばならなかった。1747年、商船船員にかかる税金はかれらの医療と年
 金に関するものであったが、かれらが十分な便宜を受けたという証拠は何処にも見当たらな
 い。そのころまで、グリニッジ・ホスピタルは専ら海軍年金者が用いていたし、それ以後になっ
 ても、老齢あるいは失業中の商船船員は何にかにつけ救貧法に依存するほかなかった。な
 お、ウィットビーなどいくつかの港には私立救貧院があった。
  エリザベス時代に航海がまとっていた輝きは跡形もなくなり、18世紀半ばになると、船員が海
 上における高い地位に登る機会も少なくなった。士官の徒弟制はみられなくなり、徒弟は有能
 船員として雇われ出すようになった。あるリバプールの船大工の親方は15人の徒弟を海上に
 持っていたが、その徒弟たちは1か月15シリングから30シリングの稼ぎを親方に差し出していた。商
 船隊が大きくなるにつれ、船員は不足となったが、戦時は特に不足であった。七年戦争が終結
 するころには、船員の月額賃金は70シリングに達し、それは3年前に比べ3倍であった。
  航海条例は、イングランド船について乗組員はそのうち4分の3がイングランド人でなければ
 ならない、と規定していた。これらの条項が厳しく施行されていたならば、イングランド船は戦時
 に運航し続けることができたはずである。事実、これらの条項は時として留保され、外国人を
 雇うことを認めざるをえなかった。水夫の賃金を押さえる努力もみられた。こうした状況のなか
 から、船員周旋業crimpの活動が呼び起こされることとなる。かれらは船員を供給する代理人
 であり、その活動は19世紀最も活発となる。この時代を、ジョンソン博士が次のように述べてい
 る。「自分から刑務所に入るくらいの才覚があれば、だれも水夫などにはならない。船で生活す
 ることは、機会を投げうって、刑務所で生活することと同じである……刑務所に入れば部屋が
 あり、ましな食事が出され、普通、気のあった仲間がいた」。
  士官や準士官の賃金は戦時、一般の船員と同じように引き上げられたわけではなく、その格
 差は縮まるのが普通であった。他方、かれらは強制徴発隊の活動にわずらわされることはな
 かった。船長と主席士官はその対象外であったが、東海岸の石炭船では単なる乗組員の一部
 でしかなった。イギリス海峡や西海岸の港への入り口は、強制徴発隊の所属する港とともに、
 かれらが好んで潜む場所であった。艦長ウォーカーは徴発隊を避けようとして、海外で修理し
 ょうとした一人である。強制徴発は安上がりではなかった。七年戦争中、船員を徴発するため
 の平均費用は、国王勤務のために徴発した船員の年間賃金より多く−1988年価格で1人当た
 り900ポンドであった。
◆船長の高収入、職種別の船員賃金◆
 ニュートン船長の1752-3年の2回目の奴隷航海はちょうど1年かかったが、かれの利益の取
 り分は合わせて257ポンド3シリング11ペンスであった。このとき、東インド会社船の船長は1か月10
 ポンドであり、その他の船長は6ポンドであった。これら賃金率は前世紀より多くなっていた。しか
 し、東インド会社船の船長の取り前は、「役得」を含めれば約300ポンドとなり、ニュートン船長と
 同じか少し多くなる。東インド会社船の乗組員の1か月の賃金は、次のように上がっていた。主
 席士官5ポンド、次席士官4ポンド、三席士官3ポンド、四席士官2ポンド、五席士官30シリング、事務
 長2ポンド、船医3ポンド、掌帆長55シリング、砲手55シリング、大工70シリング、船医助手30シリング、そし
 て大工助手50シリングであった。
  海軍における平時の士官と兵士の定員は、1763年16,000人に引き上げられた。それは四半
 世紀前より2倍、前世紀前より4倍であった。商船と漁船の船員数は1688年推定50,000人か
 ら、七年戦争が終わった1756年には80,000人にまで増加したが、それら船員の多くは戦時中
 の国王勤務に―1688年30,000人、1756年60,000人が―徴発された人々であった。その結果、
 海軍の戦時の最高兵力は二次、三次オランダ戦争の35,000人から、七年戦争末には84,770
 人に増加していた。
  王室艦が、七年戦争を戦い抜くために追加した船員と少年は10,625人以下あるいは15パーセ
 ント強であったが、かれらは海洋協会から供給された。その協会は1756年に著名なジョナス・ハ
 ンウェーが設立したもので、それら志願者は貧困家庭の出身者であり、いままで海上生活をし
 たことがなかった。ハンウェーはわずかとはいえ、かれらに訓練を施すよう準備しており、それ
 以後、その努力はその協会がなくなるまで続けられた。

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