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(1815-1850)
―主な内容とその特色― 
 この章(263-285ページ)は、産業革命真ただなかの19世後半の35年間を扱っている。その時代区分は不分明であるが、終期は1849年の航海条例の廃止であろう。すでにこの時期、イギリス海運の光と影は鮮明になり、ヨーロッパでは資本主義が浸透し、社会矛盾が露わになりつつあった。 いつの時代も、戦争が終われば海運不況になり、船員は解雇や賃下げの憂き目にあう。それに対して石炭船船員はストライキに訴える。一方では船員の稼ぎをかすめ取る周旋業者がばっこする。他方ではキリスト教会の船員慈善団体が「哀れな水夫」を守ろうとする。
 アメリカ海運の成長は著しく、大西洋横断航路に定期帆船を就航させ、イギリスを圧倒する。そして、帆船の補助動力として蒸気機関を使ったのもアメリカ人であった。それにイギリスがどう猛追したかについて詳述されている。それはアメリカと違って、鉄製汽船を旅客・郵便輸送に、沿岸、近海、遠洋へと、着実に投入していった。その隘路は石炭補給地の不足であった。
  東インド会社は、1833年その残されていた中国交易の独占権もなくなり、解散するが、その時の模様が示されている。すでにこの時期、阿片交易は最盛期に入っており、1840[-42]年阿片戦争が起きる。そこに登場したのが逃げ足の早いクリッパーであった。東インド会社の解散の意義は自由交易の確立にあるとされるが、阿片という稼ぎ口を新規参入者に差し出し、株主や経営者は巨大な会社資産を分け合ったかに見える。
  汽船は、その迅速かつ定時の運航が可能になる特性から、郵便船がうってつけであったことから、政府はそれに郵便補助金を支給する。それはイギリスを世界最大の海事国家に押し上げる。それが汽船経営にとって不可欠の要素となった。それを活用した新興船主が、現在に至る大会社に成長する。
  1830年代、汽船が汽走だけで、十分に大西洋を横断することができるようになる。しかし、石炭が貨物スペースを大幅に食い込んでいた。汽船の運航採算はおおむね赤字となっていたが、その赤字は郵便補助金によって埋め合わされた。汽船の登場によって、船員の長い歴史のなかで、機関士や火夫という新しい職種が登場する。当然のように伝統船員と新種船員はそりが合わない。
  19世紀半ば、鉄製汽船が建造されるが、1000トン以上の大型船はいまだ少数であった。その時期になっても、汽船は帆装をやめようとはしなかったし、ブリクやスノーに加え、スクーナーが快速帆船として登場し、活躍し続ける。この時期、海難が顕著に増加し、年間の船舶喪失率が5パーセントとなる。それに関して調査委員会が設置され、イギリス海運の恥をさらすような致命的な欠陥が指摘される。しかし、そのための是正措置は、直ちには実行されなかった。
  1849年、航海条例は最終的に廃止される。その廃止のかなり前から、航海条例は実質的には空洞化し、事実上、自由交易体制になっていた。国際互恵主義に立てば、イギリス海運はそれに応じた分相応の地位を、すでに失っていたとも述べている。それでも、鉄船、蒸気機関、石炭、そして綿製品という産業革命の賜物にあずかって、イギリス海運はなお高成長を続けるのである。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆キリスト教会の船員慈善運動◆
 ナポレオン戦争後の20年間、海運産業は不況に陥ったが、イギリスの登録船腹は減少せ
 ず、パリ平和条約締結時260万トンを上回っていた。戦争は前世紀も、1世紀後にも起きたが、
 その終了は不況をもたらし、運賃率は急落し、船員賃金は低下した。タイン川やウェア川の船
 員は、賃金引き上げと戦前の配乗規模に戻すことを要求して、ストライキを行った。戦争中に
 その雇用が踏み切られた外国人船員たちは残り、自国の「石炭船」船員たちは解雇されたま
 まであった。このストライキは、リーダーが6か月投獄され、挫折する。この国では、全体として
 数千人の船員が失業し、かれらは悲嘆にくれていた。
  そうした悲惨に加え、多くの現役船員の劣悪な労働条件が、ある種の社会関心を呼び起こし
 た。特に、「掌帆長」スミスとして知られるバプティスト聖職者のジョージ・チャールズ・スミスや、
 アングリカン[英国国教会]聖職者のリチャード・マークスの活動を促した。マークスは[1805年]ト
 ラファルガー海戦を闘った海軍士官であった。スミスはアメリカのスクーナーで徒弟をし、また
 王立海軍に強制徴発されている。
  船員周旋は前世紀が最盛期であったが、かれら業者は長期航海に船員を当て込むため
 の、不可欠な一つのシステムとなっていた。かれらは通常、簡易宿泊所の経営者であり、乗組
 員を準備するのが上手であり、また「前渡金証advance note」や、合意した期間、海上で働い
 た後に支払われる、賃金を割り引いた上で、[乗船前に船員に]現金を手渡していた。船員周
 旋業者やその取り巻きが、賃金を使い果たした船員にわずかな金品のものを恵み、助けた上
 で、出帆間近の船に引き入れることが多かった。かれらを荷馬車に乗せて、船に連れ込むこと
 もまれではなく、かれらは働けないほど泥酔していた。
  マークスとスミスは水夫を良く知っており、「哀れな水夫」がしばしば船員周旋業者や売春宿
 の主人のえじきになることに深い関心を寄せていた。かれらの水夫の利益になる活動は福音
 運動として始められ、19世紀末にかけてイギリス水夫協会や船員伝道会といった団体の設立
 を導く。1818年、スミスはネルソン艦隊の1隻であるスループのスピーディ号を[イーストエンド
 の]ワッピング・ステアーズに繋留し、水夫のための浮かぶ教会に改造している。その後―リバ
 プール、グラスゴー、ハル、ブリストル、その他の港に―、同様な施設が数多く設立される。
◆アメリカ海運の一時的な進出◆
  ナポレオン戦争後の数年間、海運における牽引車はアメリカであった。アメリカの大西洋側
 の諸州は繁栄を続けていたし、その発達は捕鯨と戦争の賜物であった。そこで注目すべき
 は、1618年から1810年のあいだに、船舶の改良に関連する特許に対してあらゆる種類の投資
 が行われたが、記録に値する改良がなかったことである。この説明はおおげさだとしても、ナ
 ポレオン戦争中、イギリスの大陸封鎖を破るための努力の一環として―それは、ある人によれ
 ばフランスのラガーlugger[ラグスルを付けた3本マストの小船]、他の人によればバミューダの
 スループに刺激を受けて―、アメリカ人が船の設計を大幅に改良した。それはいままでイギリ
 スになかった設計であった。大西洋交易に従事するイギリス船はいまなお平均250トンのままで
 あった。
  1815-40年、アメリカ人はその交易に一連の郵便船を建造しているが、そのサイズは着実に
 500トンから1,000トンに増加していった。これら船舶は安価に建造されていた。それらは、豊富に
 供給されるアメリカの針葉樹が使われ、しかも船の長さと幅の比率がイギリスの東インド会社
 船の4:1に対して5.5:1となっていた。それによって、かれらはセールをむやみに広げ、競争相手
 を追い抜いていた。
  アメリカ船のなかで最も有名なのはブラック・ボール・ライン社の船である。その会社は、1816
 年ニューヨークとイングランドとの4昼夜サービスを始めた。それは規則だったスケジュールに
 従って動く定期船の始まりとなった。満船あるいは空船、好天気あるいは悪天気に関わりなく、
 1隻のブラック・ボール・ライン社の郵便船がニューヨークからリバプールに向け、毎月、月初め
 に出帆していった。
  これは新しい海運の始まりであった。規則だったスケジュールを組み、このサービスに耐える
 だけの信頼性のある定期船に発明したのは、アメリカ人であった。初期の船は大西洋を年間
 に6回横断することを要求されていなかったが、1825年になるとブラック・ボール・ライン社は平
 均横断日数、東航23日、西航40日という記録を、9年間以上も達成している。イギリス船は6年
 間停滞した。ブラック・ボール・ライン社は、他社―レッド・スター社、スワロー・テイル社、そして
 ブラック・エックス社―に、いち早く追従される。かれらはすべてアメリカ人であった。こうして大
 西洋横断の郵便と旅客サービスのほとんどはアメリカ人の手に落ちていった。
  イギリス船は後退し、手ごわい競争相手は他の領域にも手を広げていった。船足があり小型
 のアメリカのブリグやスクーナーは、地中海の果物交易や極東の阿片交易に適していた。アメ
 リカ船は極東からボストン、そしてそのボストンからヨーロッパに航海していながら、直航する東
 インド会社船より安い運賃で運んでいることが解かった。
◆蒸気機関、郵便船や旅客船から採用◆
 それは一瞬のひらめきに終わったとはいえ、大西洋の横断に当たり、帆船の補助機関として
 蒸気力を使ったのもアメリカ人であった。29日かかっていた航路のうち、蒸気力を使ったのは
 たった85時間だった。その船はサバンナ号であった。ニューヨークで建造された木造船であ
 り、取り外しの効く外輪を備えていた。1819年、大西洋を横断する際、わずかな時間、蒸気力
 を使っただけであったが、航海を続けるため、アイルランドのキンセールで石炭を補給しなけ
 ればならなかった。その船を予約していたロシア皇帝アレクサンドル一世[1777-1825、在位
 1801-25]が買うのあきらめたため、その船はアメリカに戻り、蒸気機関を取り外している。その
 後、アメリカ人は外洋航海用の蒸気船を建造しなくなり、イギリス人がその分野のリーダーの
 地位を確立する。
  1819年以後、イギリス人の蒸気力の使用は、河口を越えて大きく広がる。外輪蒸気船テムズ
 号のグラスゴーからロンドンへの1815年の航海は、すでに見た通りである。1816年、エリス号、
 元マーガリー号は、時化の海を、ニューヘブンから出帆し、イギリス海峡を横断した最初の郵
 便汽船となった。1818年建造のロブ・ロイ号は、グリーノックとベルファスト間の定期汽船サー
 ビスを行い、その船がドーバー−カレー間に移動する1821年まで維持されていた。
  1819年、スマック船隊を所有していたベルファストのラングトリー氏はリバプールと定期的に
 交易していたが、スクーナー帆装付きの外輪蒸気船ワーテルロー号を10,000ポンドの費用を投
 じて、船隊に追加している。その船にはベルファストとリバプールのあいだを、毎週2往復航海
 するスケジュールが組まれていた。
  良材にはプレミアムが付いていたので、鉄がますます使用されるようになった。1818年スコッ
 トランド建造のバルカン号は完全な鉄製であった。その3年後、船名と同じ名を持つ鉄工所で
 建造された、アーロン・マンビー号が海峡を横断した最初の鉄製汽船となった。その船がパリ
 に入港したとき、鉄は浮かばないことは良く知られていたので、それを見た多くの人々はその
 船は偽物に違いないと考えた。
  1818年、イギリス人であるジョン・アレンがトリエステ−ヴェネチア間の定期汽船サービスを開
 設している。また、1821-2年、イギリス蒸気軍艦ライジング・スター号が東から西に向けて大西
 洋を横断しているが、そのほとんどは帆走であった。その船は、さらに[チリの]バルパライソま
 で航海したことで、この船が太平洋に入った最初の汽船となった。
  1825年、イギリス建造の汽船エンタープライス号はインドに汽走と帆走を交えて航海している
 が、全航海日数113日のうち汽走は64日であった。その時代の外洋航海用の汽船と同じよう
 に、この船も海水を蒸発せざるをえなかったし、当時の蒸気機関と同じように、その機関効率
 は極めて悪かった。蒸気ボイラーの正常な安全圧力は5ポンド/平方インチであり、石炭消費量は
 10ポンド/馬力時であった。
  この効率の悪さはさておき、蒸気機関は新しい短距離サービスをあちらこちらに作り出し、旅
 客になじまれていった。さらに、タグtugに取り入れられ、港の内外で、外洋航海船を機敏に補
 助するようになった。汽船の不利な点は、沿岸あるいは短距離交易であっても、石炭がすぐに
 手に入るところがほんのわずかしかなかったことである。郵便船も汽船に転換し、また多くの
 新会社が設立され、激しい競争に入っていった。1825年、45の汽船会社がロンドンにのみ登
 録されていた。ベルファストとグラスゴー間には、汽船を運航する2つの汽船会社が競争しあっ
 ていた。一等旅客の運賃は2シリングであったが、甲板上の旅客は無料で輸送していた。
◆汽船、帆船を次第に圧倒◆
 遊覧船がテムズ川に就航されていたが、その航路は河口から出て、沿岸リゾート地にまで広
 がっていった。それに刺激されて、1824年非常に活躍し、長命となった会社の一つであるゼネ
 ラル・スチーム・ナビゲーション社が設立される。この会社はP&O社に吸収される。1824-28
 年、この会社は12隻の木造郵便船を購入している。また、同じ年に、非常に活躍し、長命となっ
 たザ・シティ・オブ・ダブリン・スチーム・パケット社が設立され、リバプール−ダブリン間の輸送
 について1人当たり6ペンスまで運賃を下げ、他の2社を相手に競争している。このパケット会社
 は、郵便長官が1826年に始めた政府郵便汽船サービスとも闘っている。政府郵便汽船サービ
 スは、その会社と真っ向から対抗するために始められたものであったが、その会社は1850年
 アイルランドへの女王陛下の郵便物の郵送に関する独占許可証をえたことで勝利を収める。
  汽船の絶大な優位は風力からの自立であり、信頼できるスケジュールの確立となった。旅客
 や郵便物の郵送にとって、その有利さは決定的なものであった。しかし、この有利さを高めよう
 とすると、ますます費用がかさむ構造になっていた。運賃を稼ぐスペースと石炭の積み込み量
 の大きさとは、お互いを犠牲にすることでしか、大きくなりえないという関係にあった。また、そ
 の有利さは短距離航路であっても、適当な間隔に石炭補給地があるかないかにかかってい
 た。汽船は、通常の貨物輸送交易では不経済であったし、バルク貨物の長距離輸送において
 はその後50年間、経済的になることはなかった。
  汽船は専ら工業国家の産物であったので、イギリスだけが外洋汽船を発達させる努力を続
 けた。石炭生産量は、1790年760万トンになっていたが、1816年には約1,600万トン、1854年には
 5,400万トンに増加した。鉄の生産量は、1796年120,000トンであったが、1854年には250万トンとな
 り、その増加につれ、価格は低下した。
  イギリスの汽船を運航する沿岸会社は、そのサービスを拡大していった。帆船航海にあって
 は、海峡を下るのに何時間かかるかが、常に予測不可能な事柄の一つとなっていた。ゼネラ
 ル・スチーム・ナビゲーション社はその経営が優れ、資金力があったおかげで、設立後わずか2
 年もしないうちに、ロンドンとポルトガル間の交易に汽船を投入するまでになった。2年後、ダブ
 リン・スチーム・パケット社はダブリン−ボルドー間の汽船サービスを開始している。汽船でもっ
 て意志疎通を図ろうという試みは、イギリスとインドの政府から強力な支援が与えられることと
 なり、沿岸汽船が急速に発達する。
  様々な改良は蒸気機関だけでなく、船体そのものにもあった。船首はまっすぐに下げられ、
 船尾は切り株でなくなり、中央部は長方形となった。
  外輪蒸気船ケープ・ブレトン号が大西洋を東から西に横断し、1833年ロイアル・ウィリアム号
 が出帆する2週間前にノバ・スコシアに着いているが、その船が横断中、蒸気機関を使ったか
 どうかは解かっていない。ロイアル・ウィリアム号は商船として蒸気機関を使って、2回目の大西
 洋横断をする手はずになっていた。ノバ・スコシアのハリファックスの船主サミュエル・キュナー
 ド[1787-1865]の指示を受け、ロイアル・ウィリアム号は西から東に向けて、ボイラーの塩掻き
 落としの時間以外、完全に蒸気力で横断している。その作業は4日おきに発生していた。ケベ
 ック地方からワイト島までの横断を17日で達成しており、それはブラック・ボール社の帆船がか
 かった平均日数より6日短い。
◆東インド会社の終焉、阿片交易◆
 同じ1833年、東インド会社の独占権は完全になくなった。その最後の[中国交易の]許可状は
 1813年に更新されたが、そのときすでに会社はわずかなものになっていた。その会社はイング
 ランドと中国との交易について排他的な権限を行使してきたが、その扉は他のやり手の会社
 に開かれていた。イギリス人、アメリカ人、そしてインド人はいずれもインドから中国に、中国の
 政府の意向に逆らって、阿片を持ち込むことに携わっていた。そして、中国の軍艦や極東の海
 賊から逃れるため、かれらはスマートな小型クリッパーclipperを運航していた。その船のほとん
 どはフーグリ川で建造され、東インド会社にかって勤務した士官によっておおむね指揮されて
 いた。当時、阿片クリッパーの主要な運航業者であったウィリアム・ジャーディンは、東インド会
 社の中国交易独占との闘いの先頭に立っていた。1832年マセソンと提携し、1834年にはかれ
 らはロンドンに、東インド会社の独占が終わった後の、最初の中国貨物を持ち帰っている。
  すべての中国交易は広東の黄埔を通じて行うことになっていたが、中国人たちは阿片交易
 に対する支配力を強めようとして、不法承知でさらに下流の伶付島経由で、阿片を輸入するよ
 うになった。伶付島には、多数の廃船が麻薬を積んで繋留されていた。1840年の阿片戦争
 後、中国人は譲歩を迫られることになる。[1842年]香港が自由港となり、1843年上海が外国貿
 易に開かれる。次の17年目に、長江(揚子江)は漢口まで開かれることとなった。1858年の日本
 との通商条約によって、東方貿易はその全地域に広がることになった。
  1833年法は、東インド会社に残されていた独占権を廃止した法律であるが、その株主たちに
 年間63,000ポンド(1988年価格で220万ポンド)の恩給を、少なくとも40年間支給することにした。し
 かし、その時期が終わる前の1858年、会社の債権・債務は新任の国務長官に移管され、1873
 年には株主たちは解約され、翌年会社は解散となった。
  東インド会社は約250年間栄え、広大なインド大陸をイギリス国王に捧げた。1825年、その26
 隻の常雇船(その20隻は1,200トンクラス)と臨時船11隻が会社を代表して出帆していったが、同
 じ年他の170隻、平均530トンが東方に向かっていた。1833年法が通過したころ、多数の優秀な
 船が旅客船として建造されており、500トン以下の船はまれになっていた。
◆郵便船会社から郵便補助金方式に転換◆
 東インド会社の帆船船隊が姿を消すと、政府から補助を受けた汽船船隊が次第に増加し、
 1833年のロイアル・ウィリアム号のように、蒸気力によって大西洋を横断し始める。政府は汽船
 に郵便郵送に補助金を付与するようになった。それがイギリスを世界最大の海事国家としての
 地位に押し上げる。P&O社、キュナード、ロイアル・メール社、パシフィック・スチーム社、その
 他家族名を持つ会社は、いずれも事務所を構えており、また郵便補助金をえて生き延びてい
 た。その補助金はすべての経費を政府に負担させようとするものではなく、新規の海運会社が
 郵便船サービスを行う場合、政府が支給しようとするものであった。それはレッセ・フェールで
 は全くない。しかし、レッセ・フェールの提案者は「欠乏」に耐えよという意味ではないとも述べて
 いた。
  そうした郵便船サービスも放棄し、郵便郵送を入札に委ねるよう、イギリス政府への説得キャ
 ンペーンを指導した人物として、ジェームズ・マックィーンがいた。かれの主張はイギリスでは10
 年間奇異にみられたが、イギリスの外洋汽船海運の出発から100年間唱えられ続けた。この
 新しい主張も、当時のイギリス海運界あるいはそれに従事する人々にとっては、他人事であっ
 た。
  ジェームズ・マックィーンは1778年生まれで、19歳のとき、グラナダの砂糖栽培地の経営者に
 なっていた。1821年、すなわち郵便局がホリーランドから最初の郵便船を出帆させた年にグラ
 スゴーに居を定め、畏怖される著名な帝国臣民となった。1837年、かれは女王陛下の政府―
 その時、ビクトリア女王[1819-1901、在位1837-1901]が戴冠している―に、イングランドとカリ
 ブ海との郵便汽船サービスに関する最初の計画を提案している。まず、現行のサービスを厳し
 く批判し、それを国の恥と酷評している。そして、非常に野心的な「イングランドと東方世界、西
 方の世界、そして広東・シドニー以西の太平洋との郵便通信に関する一般計画」について、最
 初の論争を仕掛けている。さらに、「郵便物を運ぶ汽船は、海洋における郵便馬車でなければ
 ならない」と断言している。
  当時の[従来の会社方式の]郵便船サービスは、海軍本部が接収することになっており、すで
 に政府はその事業拡大を抑制する手はずになっていた。1834年に、ロッテルダムおよびハンブ
 ルグ向けサービスについて、ゼネラル・スチーム・ナビゲーション社と最初の郵送契約を結んで
 いる。それに続け、東インド会社のボンベイとスエズ間の郵便汽船サービス、またP&O社のイ
 ギリスからアレクサンドリア間の着手に対して補助金を約束している。
◆著名な新興汽船会社の創設史◆
 アンダーソンは蒸気機関に信頼を寄せ、1837年会社は「新造で、強力な、大型の、しかも華
 麗に、艤装された汽船」でもって、ロンドンからファルマス経由、ポルト、リスボン、ジブラルタ
 ル、そしてマラガへの、2週間サービスを行うと宣伝するようになる。当時、何隻かの汽船が地
 中海で運航されていたが、リスボン行きのファルマス郵便船はいまなお帆船であった。それら
 帆船は3週間かかっていたが、アンダーソンの汽船はその航海を4分の1以下で行うことができ
 た。かれはファルマス郵便船より安いサービスを提供できると主張していた。そして、マックィー
 ンの宣伝を政府がすでに受け入れつつあったので、かれの勝利の日は間近であった。
  アンダーソンは、1837年8月、女王の郵便物を[イギリスとポルトガルの]ビゴからジブラルタル
 にかけてのイベリア半島の港とあいだを、1週間でもって郵送する契約を結んでいる。それに伴
 う報酬は年間29,600ポンドであった。それが運航損失を起こし、銀行破産の状態にあった、か
 れの会社を救うこととなる。かれが契約したこのサービスは無条件の成功を呼んだ。[初代]イ
 ンド総督の[ウィリアム・キャベンデッシュ・]ベンティンク伯[1774-1839]の議会工作が行われる
 と、政府はアレクサンドリアからインドにかけての郵便物を定期郵送しようとする新規参入者を
 探し始める。それに答え、ウィルコックスとアンダーソンが、34,200ポンドで新規参入者となる。
  こうしたサービスの拡張とともに、その会社は資本金100万ポンドの勅許法人となり、東インド
 会社が独占を失って7年後の1840年には、ペニシュラ・アンド・オリエンタル・スチーム・ナビゲー
 ション・カンパニーあるいはP&O社となる。このP&O社は、2年以内にカルカッタとスエズ間の
 補完サービスを開始することを公約していたが、その航路の郵便サービスを1854年まで東イン
 ド会社からもぎ取ることができなかった。
  再度、イギリス政府が与えた郵便契約に注目すると、そのおかげで1839年にはキュナード社
 とロイアル・メール社、翌年パシフィック・スチーム・ナビゲーション・カンパニー・オブ・リバプール
 社といった汽船会社が設立されている。事実、1840年―その年、ローランド・ヒル[卿、1795-
 1879、郵便事業改革者]のペニー郵便制が開設されている―は、マックィーンの大計画が大方
 達成されたかにみえた年である。西インド、北アメリカ、南アメリカ太平洋岸、そして女王陛下
 の帝国の東方地域との郵便物は私企業によって郵送されるという、郵便契約が始まったから
 である。
  イギリス政府の補助金はわずかな額であった。その額は、運航費に対する比率としてみれ
 ば、20パーセントに相当した。P&O社の場合、1840-95年においては40パーセントであり、その後低
 下し、第一次世界大戦前には11パーセントとなった。「王立郵便汽船」であるという公然たる権威
 がついて回ったし、港ではいつも特別扱いされた。強力な大企業が補助金制度の受益者とな
 ることは世の習いである。1853年になると、議会のある調査委員会は「不可能とみなされてい
 た海が、正確かつ規則的に横断されるようになり、交易と文化が普及し、また植民地と母国の
 政府とは固く結ばれ、そして一定のサイズと馬力を備えた汽船が政府の援助がなくても、何年
 間にもわたり確実に建造されるようになった」と、解説するようになっている。
◆グレート・ウェスタン号とロイアル・ウィリアム号の競争◆
 すべてが未来に繋がりがある。それまでのあいだ、天才技術者、グレート・ウェスタン鉄道会
 社の主任技師であるイサムバード・キングダム・ブルーネル[1806-59、土木造船技術者]が、
 1837年1,320トンの外輪蒸気船グレート・ウェスタン号の建造を決意した。かれの目的はロンドン
 やブリストルから、大西洋を横断する航路を開設することにあった。同じ目的を持った会社が
 ロンドンに設立される。蒸気機関製造者が破産したとき、その会社はアイルランドの海峡汽船
 シリウス号703トンを用船し、大西洋を横断させている。出し抜けであった。あるリバプールの会
 社が予告もなく、前出とは別のロイアル・ウィリアム号―1833年西から東に横断した船ではな
 く、小型の海峡郵便汽船であった―を用船し、ニューヨークに向けにすばやく出港させている。
  1838年3月28日ロンドンを離れた、シリウス号はコークで94人の旅客を乗せ、同4月4日に出
 帆している。グレート・ウェスタン号はブリストルから4日後に出帆している。シリウス号はニュー
 ヨークにわずか15トンの石炭を残し、4月23日に到着し、またグレート・ウェスタン号は200トンの石
 炭を残し、数日後に到着している。ロイアル・ウィリアム号は、6月までは帆走せず、石炭を過
 積みしていたため、外輪のはみ出し部分が水に浸かり、旅客はブルワーク[舷側]に寄りかかっ
 て手を海水で洗えるといった、二重の便宜を楽しむことができた。このことで汽船が北大西洋
 ルートでも使えることが解かった。
  その年末、サミュエル・キュナードは、ロイアル・ウィリアム号の後を追って出発した、新造船
 のリバプール号に乗ってイングランドまで横断している。ジョージ・バーンズとダビッド・マッキー
 バーとともに、キュナードはブリティッシュ・アンド・ノース・アメリカン・メール・パケット社を設立し
 ていた。その会社はキュナード・ライン社へと発展する。グレート・ウェスタン号の船主の怒りを
 尻目に、キュナードは北アメリカルートの郵便契約を手に入れる。1840年、かれの持ち船ブリタ
 ニア号をリバプールからハリファックスとボストンに向け、4隻船隊のうちの一番船として出帆さ
 せている。それら4隻はいずれも約1,100トンであり、新しい事業のために特別に建造されてい
 た。わずか5年前までは、定期大西洋横断汽船サービスなどは、月への航海同様、不可能と
 みなされていた。
◆石炭と積み荷がせめぎあう汽船◆
 1830年代になると、船主は資本金に対して一定の利益が出るよう要求するのが、当たり前と
 なった。それ以前の利益は「良」あるいは「否」のどちらかしかなった―例えば、西インドへの事
 業では利益が500-1,000ポンドあれば「良」とされたが、ロンドンへの石炭航海では50-100ポンド
 が「良」とされた。1830年代になると、当初の船舶に支出した固定資本に対する見返り率とし
 て、10または15パーセントが公正な報酬という見方が、強調されるようになった。経済学はまだ若
 い学問であり、初期汽船航海の採算の取り方は問題に満ちていた。
  汽船は2隻の帆船の航海を成し遂げることが出来るが、1トン当たりの建造コストは汽船の方
 が3倍だった−キュナードの汽船は1トン当たり45ポンド、アメリカの郵便帆船は15ポンドであっ
 た。さらに、石炭に金がかかり、石炭はスペースを食った。ブリタニア号は、重量トン数865トンの
 うち640トンを石炭に割き、225トンが貨物に残されていた。全容積のほぼ半分は機関部が占めて
 いた。最初のキュナードの汽船は、帆船と比較した場合運航赤字が2,550ポンドを出し、その赤
 字は2,300ポンドの郵便補助金でバランスさせていたことになっている。
  この発達段階では、汽船は貨物船としては帆船と競争できないが、労働と石炭のコストは次
 第に減少すると考えられていた。初期の外洋汽船では、セールは不可欠として取り付けられて
 いたが、それが取り払われると何人かの船員が解雇された。また、蒸気機関が改良され、石
 炭が節約されると、貨物スペースが増加していった。1848年、1,400トンの定期船は10ノットを維持
 するため、1日60トンの石炭を燃やしていた。1948年、その3倍のトン数の不定期船が1日26トン
 の石炭で、同じスピードを維持していた。1840年代に入ると、政府は支出削減を勧告されたも
 のの、郵便補助金を年間40万ポンド支給している。旅客たちは時間を節約出来るようになっ
 た。最良のアメリカ向け郵便船は平均して西航40日、東航23日であった。グレート・ウェスタン
 号は15日でニューヨークに着き、14日で戻ってきている。
  船員の新しい職種である一等機関士は比較的権威のある地位を占めてきた。かれの賃金
 は航海士より高く、また火夫も有能船員より高かった。早くも1847年、P&O社の汽船ヒンドスタ
 ン号の一等機関士は、二等航海士に「過度に無礼な言葉」をはいたとして罰金を取られてい
 る。その直後、一等航海士を自分の部下であるかのように、わずか3、4フィートまで近づいて、激
 しくののしっている。「忌々しい士官め、おれこそ頭だ」。その船の航海日誌によれば、一等航
 海士は、機関長が空になった石炭袋を積み上げようとしていたので、一等機関士に前方のトッ
 プスルのシートを吊り上げる空所を残しておいて欲しいと、ていねいに申し入れたことになって
 いる。水と油は混ざらないという、一つの見本である。1、2年後、P&O社の航海士たちは「ラス
 カル」あるいはインド人船員を好んでいるという報告が出されている。かれらはヨーロッパ人よ
 り「はるかに勇壮に」船を支えているが、ヨーロッパ人はお互いに「不平と悪口を言い合って」い
 るだけだという。この説明はさらに強調されてよい。
◆19世紀後半のイギリス船腹の構成◆
 1836年、イギリス船は25,864隻280万トンであったが、その数値は1816年に比べかなり多くなっ
 ている。この総数の5分の1は植民地所属であった。1835年初刊の商船船員一般登録簿にお
 ける船員数は170,637人であった。25,864隻のうちわずか100隻が1,000トン以上であり、8,000隻
 が50トン以下であった。1851年、隻数は34,244隻、トン数は430万トン、船員数は240,928人となっ
 ていた。
  2,000隻、合計トン数300,000トンという多数の船が、イギリスの北アメリカ木材交易だけに従事
 していた。約1,000隻がロンドンに石炭を運び、他の石炭船はイギリスの海岸線を回航したり、
 大陸まで横断したり、さらに遠方まで出掛けていた。石炭交易は他の交易以上に比べ、大量
 のイギリス船腹を使用していた。石炭船の平均サイズは、18世紀半ばの200トンから19世紀半
 ばには300トンに増加している。また、往復する速度も早くなり、ニューカッスルからロンドンまで
 の航海数は8、9回にまで増加した。
  海外向けの石炭がバラストとして船積みされる量が増加しつつあった。その理由は、それに
 よって船主が、イギリスの外洋貨物船の身近なライバルであるオランダ船よりも往航運賃を下
 げ、そしてバルク貨物をより安く持ち帰ることを可能にしたからであった。1850年の石炭輸出額
 は4,600万ポンドとなっていた。船が石炭を海外に輸送し、アルゼンチンの皮革や、チリの硝酸
 塩、太平洋の島々のグアノを持ち帰ることは、極めて当然の成り行きであった。それらは、す
 べて帆船時代からの仕事だったが、汽船が使う石炭が積み荷に付け加わった。
  全装3本マスト船と2本マストのブリグやスノー―それらのトン数が同じ場合、後者もいまでは
 前者と同じくらいのキャンバスを張っていた―に加え、スクーナーが1830年代以降、イギリスに
 おいてしばしば登場するようになる。これらイギリスの一連の快速帆船は、アメリカの帆船では
 なく、18世紀のカッターから派生したものと考えられる。しかし、スクーナーの船首尾の索具
 は、アメリカで最初に採用されたものであった。スクーナーはブリグよりも安価に建造、帆装さ
 れ、より少ない乗組員で足りた。
  19世紀半ば、240隻のスクーナーが地中海の果物輸送に従事し、他のスクーナーはアゾレス
 諸島、大西洋を横断して西インド諸島やニューファンドランド、そして喜望峰を回って銅鉱石を
 求めてチリに向かっていた。スクーナーには標準船といったものはなく、2本マストあれば、3本
 マストもあった。スクーナーは、多くの沿岸をめぐる交易にかかわり、第一次世界大戦後も生き
 残った。初期の汽船はおおむねスクーナー帆装を兼備しており、グレート・ブリテン号は世界最
 初の6本マスト船であった。
◆東インド会社船や移民船の船内模様◆
 有能船員の平均賃金は、19世紀半ば、帆船50シリングであるが、郵便船では84シリング支払わ
 れ、また火夫は84シリングと多かった。優良な外洋船の船長は年間280-400ポンドを稼ぎ、航海
 士は月6-15ポンドであった。
  東インド会社の往航船は、ノース・フリートにあった東インド会社のブイに繋留していた。掌帆
 長はパイプをくわえながら、夕食していた。「この船のギャレーには1ダース以上の人がいて、ビ
 ーフステーキを調理するため、汗をかきながらフライパンと格闘していた。他の連中は、妻や
 仲間を乗船させ、ステーキをむさぼり食っていた。かれらの妻たちは、その船が(テムズ川)を
 下るあいだ、調理していた。甲板の端に、一団の沖仲仕(ドッカー)が集まり、ビールを大たるか
 らテーブル・ビンに移し、がぶがぶと飲んでいた。かれらは[ビール漬けとなって]1か月に1度と
 て夕食を取ったことがない。このシーンは大変グロテスクであり、[ウィリアム・]ホーガス[1697-
 1764、社会風刺画家]の筆を借りるに値する」。
  東インド会社勤務に見出される気楽なスタイルは,テムズ川の河口にあるロワー・ホープに
 錨泊していたバッキンガムシャ号が東方向けの「鉄、水銀、そして紺色布の包み」を積んでか
 ら、まるまる1か月も停泊していたことをみても解かる。その錨地で、乗組員に2か月の賃金を
 支払われるのが慣行となっており、また[出帆前の]「2時間を、接舷した船[物売り舟]で金を使
 ったり、妻や友達に別れを告げたりするために、使うことが許されていた」。
 そして、そこでは人間性に反するシーンがみられつつあった。船員周旋業者や盗
人たちは大量の酒を用意していた。かれらは、自由に飲ませた上で盗んだり、また
泥酔すると酒などの請求書を作成する。哀れな水夫は疑いを決してはさまない。水
夫ほど、ちょろいものはない。自分の金をあぶく銭のように考え、大切にしないし、海
上では金は使いようがないと、あきらめている。航海が終わると、大金を手にする
 が、不満たらしく使う。
  いま上にみた2時間は胸が悪くなるような仕方で過ごされる。酒で熱くなった男と
女がおり、これ以上ない毒つきが飛び交い、あるものは喧嘩し、他のものは別れに
悲嘆していた。実に、そのシーンは浮かぶ地獄以外に比較するものがない。

 大西洋を横断する移民船の乗組員も大同小異であるが、東インド会社船とは違って家庭を
 長く離れることがない。その移民―かれらを書いたものを引用すれば、「無知で、病気がちで、
 虫のいる農夫」―の状態も、東方に向かう船に乗る旅客と同じように良くなかった。1840年代、
 郵便帆船の片道航海の運賃は3ポンド10シリングであった。アイルランドからは、それより少なか
 った。移民は300人から500人が、一挙に「長さ150フィートの船の中甲板に入れられた。移民1人
 に与えられるスペースは16立方フィートであり、甲板間の高さはわずか6フィートであった。寝台は三
 段の木棚であり、通路は個人の持ち物や食品であふれていた。船が用意していたのは水だけ
 だった。甲板上に調理場があり、移民が調理することが認められていた。アイルランドの移民
 は、食料としてジャガイモの袋を積んでいた。換気はハッチが開いていれば少しはあるが、悪
 天候になるとハッチ当て木された。昇降口が開いていると、そこから蒸気が立ち上り、豚小屋
 のような悪臭がした」と、同時代人が説明してくれる。
 ◆海難の多発、その原因の探求◆
 アメリカ船のシーマンシップの評判は極めて高かったが、その乗組員の相当数はイギリス人
 であった。イギリス船におけるシーマンシップの水準は低下しつつあった。18世紀、東インド会
 社は98年間に91隻の船を喪失させていた。19世紀の最初の18年間に、その会社は33隻の船
 を喪失している。1817年には362隻、1818年には409隻が乗り揚げあるいは難破している。
  それら3年間に、年間平均763人の船員がいなくなっている。1830-5年間には894人に増加し
 た。船主で海運史家のW.S.リンゼーによれば、1830年代、船主はそのごまかしが露見しないこ
 とをいいことにして、実際の価格以上の保険を掛け、保険金を受け取っていた。かれの『メトロ
 ポリタン・マガジン』のなかで、マリヤット船長は、海上保険システムは「儲けのための殺人装
 置」であると断言している。また、19世紀の第二四半期、暴風雨、航海術不良、海賊、火災、そ
 の他災害による年間平均の船舶喪失率は5パーセントと評価された。
  レッセ・フェールが浸透していたとはいえ、政府は他の分野と同じように、次第に海運に介入
 を強めるようになる。1817年法は登録トン数1.5トンに対して、乗組員を含め1人以上の乗船を禁
 止し、また旅客用の船倉の高さを5.5フィートにすると定めた。1835年、移民船の船長は「十分な
 量に医薬品」を積み込むよう言い渡され、また1850年代には、その量を法律が定めるようにな
 り、そして最低基準に従って調理した食事を支給し、そして乗船者が100人以上の場合、船医
 を乗船させることが求められるようになった。
  1835年、王立人文協会の年次夕食会で、ヘイランド船長は、「セキスタントやクロノメーターの
 使用法が全く解かっていない」とか、測深に当たって最適の道具を使おうとしないとかいった、
 船長が原因となっている大量の人命喪失について言及している。その原因を調査するよう嘆
 願された政府は、翌年、下院にある特別委員会を設け、「海難の増加の原因を、商船の建造、
 設備、そして航海術を改良しなくても、年間の人命と財産の喪失を大幅に減少させることがで
 きないかという観点から調査する」ことにした。
  驚くべきほどの包括的で公正な姿勢で、委員会はその報告書のなかで、主要な海難原因と
 して不完全な建造、不適切な設備、未修理の状態、誤った積みつけと過積載、トン数は小さく
 容積は大きくなる船を作るよう、船主に仕向けるトン数測度システムが原因となった不当な設
 計、船長や士官の無能力、士官やその他乗組員の泥酔、建造への無配慮や設備の軽視、安
 全の無視に船主を陥らせる海上保険、港の欠陥、そして海図の不備といった10点を指摘し
 た。そして、委員会は安全規則の制定を指摘したが、いまなお制定されていない。
  「棺桶」船―極幅狭で極深の船―は建造され続け、1836年になって船の深さは最初のトン数
 測度時に限って測度の対象とすることとなった。この「新測度法」は「旧測度法」に取って替えら
 れ、その実務は船の深さのあり方に有益な効果をもたらした。1798年から、ロイズ船級協会の
 船級システムは建造年と建造地を根拠にしてきたが、それは6-12年後売船された船を2級船
 に移したため、安手の船を建造させてしまうシステムとなった。
  特別委員会は、船長のあいだで航海術をめぐる競争がなくなったのは、ナポレオン戦争中、
 海軍の護送艦が航海責任を持ち、船団を組んで帆走したことに関わりがあると想像している。
 アン女王治世から続いているある法律は、船長に一定の数の徒弟を引き連れるよう要求して
 いたが、ほとんど無視され続け、若者が専門訓練を施されることがなくなった。アメリカ人の船
 長はイギリス人より良く教育されていたということになっている。良い教授と士官試験が利益を
 配当してくれることは明白であった。
  ジョージ・コールマンは、元東インド会社の士官で、航海術と天文学の教師であったが、上記
 委員会に証拠を提出した一人であった。その書類には、東インド会社では士官は試験を受け
 ていたので、その船の水準は他の船より高いものとなっていたと書かれている。最良の会社
 は、自分たちの士官たちはコールマンや著名なジャネット・テイラーが教授する学級に出席し、
 その成果として試験を合格していたと主張している。かれらは航海学校やかれら以外の人々
 が使用える教科書を書いている。サンダーランドでは、船主と船長が自前の試験を実施してい
 た。ロンドンでは、[シティの]ミンシング小路にいたダニエルという船主は、自分たちの士官たち
 は試験に合格しており、20年以上も船を1隻も喪失させていないと主張していた。
  特別委員会は、1836年報告書で、包括的な改善策を提案するとともに、「連合王国における
 海事問題を担当し、監督し、そして規制する海運局」の設置を勧告している。その直接的な成
 果が1839年法であった。それはイギリスから北アメリカに向かう船の甲板積み貨物を禁止し
 た。当面、他の課題は私企業に委ねられることとなった。ただ、1839年、海難扶助協会の設立
 が目立った。
◆イギリス人船員の質の低下◆
 4年後の1843年、議会は海難を調査する他の特別委員会を設置せざるをえなくなった。その
 年の1月、240隻が遭難し、500人の人命が、わずか3日間で失われたからであった。同じ年、
 海外におけるイギリス船とその船員の悪評について警告されていた外務省は、すべてのイギリ
 ス領事に回状を出し、イギリス人の船長の資質について一連の質問に答えるよう求めた。
  リガの領事は、「私見では、イギリスの商船は現在、他のどの国の船よりも劣悪な条件のもと
 にあると、残念ながらいわざるをえない。外国の船長はイギリス人より、おおむね尊敬される階
 級に属している」と答えている。また、ダンチヒの領事は、「全体として良いところはない、―そ
 れを告げることに躊躇するが―面倒を起こし、思いやりがないのは、どう贔屓目にみても、イギ
 リス人の商船船員以外にいない」と説明している。
  オデッサの領事は、「船長のなかには恥ずべきことに教養がなく、この港で行われているごく
 普通の取り引きにおいて、船主の利益を代表する資格がなかった」と報告している。パラグア
 イの領事は、「荷主はスウェーデン、デンマーク、サルジニア、ハンブルグ、そしてオーストリア
 といった商船に確約を与えている。それらの船はブラジルとの交易を急速に拡大しつつある」と
 述べている。ペルナンブコの領事は、イギリス船にあって非道や、飢餓、そして侮蔑な言動、そ
 して欠員状態について、乗組員が不満をいわなかった船はわずか1隻だけだった。そして、か
 れは乗組員の言い分10件のうち9件を支持するしかなかったと報告して来ている。
  1843年の特別特別委員会は1836年特別委員会の観点を支持し、旅客を輸送するすべての
 汽船に対する政府の監督を勧告として付け加えている。また、灯台、灯船、ビーコン、その他
 様々な航海完全補助施設について勧告としている。1844年法は、乗組員に支給する、ライム・
 ジュースを含む、食料の量を定めている。それによって、壊血病が終止符を打たれたわけでは
 ない。1851年法は、ライム・ジュースの代替品として、くえん酸の結晶を認めていたからである。
 さらに、ある法が1867年通過するまで、壊血病が衰退する兆しはみられなかった。
  1844年法は、乗組員との同意書、賃金の本来の支払方法、医療品の供給、脱船の処罰、そ
 してトン数毎の徒弟の強制配乗に関する規定を定めた。ただ、徒弟の強制配乗は1849年に廃
 止されている。1845年、商務省が2階級の船長と士官の任意試験を実施するようになる。2年
 後、ある委員会が設置され、さらに商船における労働条件を調査することになった。
  商船船員が、グリニジ・ホスピタルに拠出金を支払わなくてもよくになったのは、1834年であっ
 た。この施設は、かれらが少なくとも一生の半分を王立海軍で過ごしたものに限って、その便
 宜が利用できる施設であった。それ以後、それに代わって、かれらは商船船員基金に病院な
 どの施設のために、1か月1シリングを支払うこととなった。この負担金は、その制度が解散する
 1851年まで続けられる。この基金の年金は4年後になって確立し、無能力あるいは「すりへっ
 た」船員に年に3ポンド8シリング、また3人の子どもを持つ寡婦に5ポンド10シリング支給されることと
 なった。グリニジ・ホスピタルは1869年に閉鎖され、1873年王立海軍カレッジに転換する。その
 ホスピタルはトラストとして現存し続けており、その基金は老齢船員やその寡婦への援助金、
 孤児養育援護金、そして[ロンドン・チェルシー・]ホルブルックにあるロイアル・ホスピタル学校
 における船員の子孫の教育費に使われている。
◆航海条例の廃止、その功罪◆
 1848年権力を握ったホィッグ党政府は自由貿易に関して強力な意欲を持っており、沿岸輸送
 は別として、1849年、航海条例の残りかすを一切、取り去ろうとした。当時の多くの船主はこう
 した変化に反対であったが、5年後、沿岸輸送もすべての国民に開かれることとなった。
  航海条例は、イギリス船腹の空前の成長を促進したが、その廃止が成長の要因になると強
 調するものもいた。ただ、1世紀半後とでは状況は大きく異なるが、19世紀における船腹の成
 長が自由貿易によるものか、また海運に干渉しない政府によるものかの議論を呼び起こした。
 事実は複雑である。航海条例は1849年法に先立つ四半世紀前から、明らかに溶解しつつあっ
 た。1824年から1849年にかけて、ウィリアム・ハスキソン[1770-1830、政治家、財政家]は互恵
 主義政策を主張していた。その主張は、同様の方式を採用することに同意した国々と、交易に
 関する優先権とともに制限をも認め合う、一連の条約を結ぼうというものであった。
  1830年、アメリカ船がアメリカ製品をイギリスのすべての領土に直接持ち込み、またイギリス
 領土から外国に輸出することに[両国は]合意する。アメリカ船は、連合王国からインドに交易
 することは、すでに認められていた。南アメリカにあっては、ナポレオン戦争に続けて、スペイン
 とポルトガルの植民地が反逆[・独立]する。それら植民地は自分たちの産品をイギリスに持ち
 込むことを認められており、それら産品が西インド諸島の産品と競合する場合、イギリスの西
 インド領は船腹選択に関する制限を緩和されていた。1845年頃イギリスの交易の半分が航海
 条例の埒外にあった。
  その間、航海条例の規定から逃れようとする動きが、多くみられた。密輸はありふれていた。
 コーヒー、材木、そしてシルクの輸入が、航海条例の適用が曖昧であったことから、それから
 逃れる手始めとなっていた。南アメリカのコーヒーが南アフリカ経由で、またスカンディナビアの
 材木が北アメリカ経由で連合王国にきていたし、そしてインデアン・シルクがアメリカ船でイギリ
 スに運ばれてきた。
  ナポレオン戦争後、航海条例がイギリス企業を束縛しているという主張が、まれにみられた。
 それら戦争後に起きた長期不況のなかで、イギリス船腹は12パーセント減少したが、それは他の
 ヨーロッパが被った減少に比べれば、その半分であった。ハスキッソンが互恵主義を主張して
 いた時期、交易はかなり自由に行われていた。イギリスの港に年間に入港する船腹は急速に
 増加したが、それは外国産品の増加より多くはなかった。大方の見方とは違い、航海条例を
 完全に廃止した時には、すでにイギリス海運はその分相応の地位さえ失っていた。1861年、イ
 ギリス船腹は1848年より50パーセントも増加していたが、アメリカ船腹はその同じ期間約2倍とな
 り、ノルウェーの成長もまた注目され、ヨーロッパにおけるイギリスの最も危険なライバルとなっ
 た。
◆イギリスの優位=鉄船、蒸気機関、石炭◆
 イギリスの造船所はその主たる競争者のように、木造帆船を安価に建造できなくなってい
 た。かれらはオランダのように安価に建造できなかった。オランダの造船所は低利で資金を借
 り入れしていた。さらに、アメリカ、スカンディナビアとドイツのようには、安くは建造できなかっ
 た。イギリスの造船所が使用する原材料のほとんどが、それら国々から輸入するしかなかった
 からである。イギリスの造船所は、木船が鉄船に取って代わられるまで、航海条例の保護を求
 めていたといわれている。オランダを痛めつける目的を持った、この条例がバルト海の木材価
 格を引き上げ、全体として交易の成長を制約したと明らかである。
  そうした主張の強まりにかかわりなく、イギリス船腹は鉄船の造船、蒸気機関の発達、そして
 石炭の豊富さのおかげで、全世界の国々に比べ優位に立つことになった。イギリス船腹の成
 長はクリミア戦争[1853-56]、アメリカの南北戦争[1861-65]、そしてオーストラリアのゴールド・
 ラッシュによる需要が複合したものであった。初期の段階における貢献は、政府との郵便契約
 の締結にあった。
  1750-1850年、イギリスの人口は650万人から1,800万人に増加したが、その増加は急激であ
 った。中世以降、そうであったように、織物がいまなおイギリスの太宗輸出品であったが、綿製
 品が羊毛製品より重要になっていた。18世紀末、額の面では、羊毛製品は輸出額の半分を占
 め、綿製品は4分の1であった。1850年になると、綿製品は65パーセント、羊毛製品は20パーセントと
 なり、その他は工業製品―特に鉄鋼製品―と石炭が占めた。綿花の輸入は50年間に5,400万
 ポンドから77,500万ポンドまで増加した。羊毛の輸入は同期間700万ポンドから7,400万ポンドまで
 増加した。綿糸の価格は世紀が変わるとともに10分の1に低下した。
  シドニー・スミス[1771-1845、国教会聖職者]は「アングロサクソン人種を突き動かしてきた最
 大の課題は、キャラコを製造することにあった」と指摘している。イギリスは「世界の工場」、「綿
 紡の王国」の統治者となった。
  1世紀のあいだに、交易は12倍も激増した。綿花が、タバコ、砂糖、材木とともに、大西洋を
 横断して来た。穀物は、量の上では、輸入額のわずか平均9パーセントであったが、バルト海から
 来ていた。長距離輸送と事業の拡大は多数の船腹を必要とした。同時に、海外の領地も急速
 に発達し、何千人ものヨーロッパ人が新世界に移民していったが、1825年から1834年にかけ
 年間平均32,000人、1835年から1844年にかけは、その2倍の72,000人に増加した。イギリスの
 大洋横断汽船の登場に伴って、イギリスの大西洋横断シェアは急激に増加していった。

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