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(1850-1870)
―主な内容とその特色― 
 この章(287-305ページ)は、表題通り、19世紀後半、イギリスが「世界の工場」として繁栄し、その輸送手段として海運が汽船という革命交通手段を用いて伸張した時期を扱っている。 まず、1850、54年に前章で指摘されたイギリス海運の影の部分を是正する法律が制定される。その主要な規制は、海運局の設置、士官の資格証明、船員の雇用証明、船内食料表の表示、政府の船舶検査の実施、トン数測度法の改正などであった。著者が、船員教育関係者であったことから、当時設立された航海学校や海事団体が紹介されている。
  19世紀後半、汽船の発達を尻目に、遠距離交易においてなお経済性を持っていた帆船として、クリッパーが最後の花を咲かす。それはアメリカとオーストラリアのゴールド・ラッシュと茶交易において活躍する。その活躍が華々しかったため、「帆船の黄金時代」と呼ばれ、ヨーロッパではいまなおノスタルジアをかき立てている。アメリカ人はクリッパーの優秀な改良者であった。
  イギリスでも、著名なカティ・サーク号といった中ぶりのクリッパーを建造し、茶の帆船レースに挑んでいたが、主流は郵便補助金を命綱として成長し続ける汽船にあった。このイギリスの郵便汽船サービスは、世界帝国としてのイギリスを象徴するかのように、世界航路網を張り巡らす。
  何千年にもわたって、海上輸送手段たり続けた帆船も、1870年代に入ると終焉を迎え、汽船が勝利するときがきた。その勝利は、木船から鉄船、鋼船への切り替え、ほぼ無制限な船体の大型化、蒸気機関の改良、パドルからプロペラへの切り替えの結果であった。そして、それを促進したのが、石炭補給地の配置とスエズ運河の開通であった。しかし、遠洋大型帆船や沿海小型帆船はしぶとく生き残り、汽船にあっても補助帆装装置を取り外さなかった。
  P&O社がクリミア戦争などの連隊輸送に関わって高成長を遂げ、全世界に航路網を拡げ、またブルー・ファンネル社が積極的な汽船の投入や改良蒸気機関の採用によって、急速な立ち上がりを見せたことが特記されている。最後に、郵便汽船サービスが極東、なかでも日本にまで広がってくるが、その先着者はパシピック・メール汽船会社、二番手はP&O社であった。
  1870年頃、イギリスは世界の船腹の45パーセントを占め、その大きさはアメリカの4倍、フランスの5倍という、「世界の海運」の状態となっていた。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆1850年、1854年、大規模な船員関連法◆
 皮肉なことに、1850年、「商船における船長、士官、および船員の条件と規律の維持に関す
 る法律」を何としでも通そうとしていた政府は、他でもなく1848年に航海条例を廃止したレッセ・
 フェールの政府であった。議会は、広範で体系的な保護立法を制定することに反対しないとい
 う、態度を表明していた。
  1850年法は、商務省に海運局を設置し、この海運局に海運に雇用されている人々やイギリ
 ス船に商品や労務を供給している人々の福祉に関する責任をしっかり負わせた。船長と士官
 に対する試験の強制と資格証明書の発行が、初めて規定された。海運局には、無資格や無
 能力の場合、証明書を取り消す権限があった。
  この同じ法律は、公式の航海日誌(その船で起こったすべてを記録するもの)を保存すること
 を義務づけ、また商船船員の規律に関する条文を設け、また居住設備、食料、そして医薬品
 の基準を制定した。さらに、地方海運局が主要な地方港に設置され、船員の雇い入れや雇い
 止めや同法の運用について監督することとなった。船員は、船首や船体部に換気された9平方
 フィートのスペースが割り当てられた。このスペースは、1867年には12平方フィートに増加した。地
 方海運局に海運局職員が配置された。
  船長は、船員が解雇あるいは下船するとき、正式の「雇い止め証明書」を船員に支給するよ
 う求められた。そのシステムは逐次記入の雇い止め手帳discharge noteに発展し、実に100年
 にわたって利用された。船長が雇い止め手帳に書き込む「VG」と「G」は「秀」、「優」を意味した。
 「M」は「良」、「I」は「普通」であったが、それらは1894年に「DR」あるいは「特記事項なし」という言
 葉にまとめられるが、いずれにしても同じことを意味していた。同法は、船員周旋業に対抗す
 るため、帰国中の船が所定の錨地に到着し、所定の時間後になるまで、私人が乗船すること
 を違法とした。
  その年、議会に、船舶における配乗条文を廃止する提案が持ち込まれた。それは自由貿易
 主義に照らして、乗組員の4分の3をイギリス人とする条文は、もはや止めるべきだとするもの
 であった。
  そのころ、イギリス船腹は430万トン、そして船員は200,000人まで増加していた。毎年、140,
 000人の新しい船員が、海から立ち去った7,000人、病気で死んだ3,000人、そして溺死した300
 人の代替として、さらに若干の補充のため、必要であった。先の自由をえて、船主たちは1年も
 しないうちに、イギリス船における外国人船員の数を2倍に引き上げ、その総数は7,321人から
 13,230人に増加した。
  新しい国家の介入が起きた。1851年、汽船航海法はいままで船主が指名した汽船検査官を
 商務省が承認するやり方に代えて、商務省がそれを直接指名することにした。それ以後、船舶
 の安全に関連する責任は、主要な連合王国に配置された船舶検査事務所に通じて行われる
 ようになった。翌年、別の法律がトン数と輸送する旅客数に関する初期の規定を強化し、そし
 て旅客用の食事の基準を減らした。
  これらすべての初期の法律は、1854年の大規模な最初の海運法に統合、拡充され、その条
 文は548条にもなった。商務省にはいままで以上に権限を与えられた。その法は、船主に乗組
 員との雇い入れ契約書に、かれらがその航海に用意した食料の種類と量を、詳細に記入する
 よう強制した。さらに、その計量目盛りに関する規定を設け、乗組員が自分たちの「取り分」を
 確かめられるようにした。
◆全国の港に航海学校の配置◆
 1850年法と1854年法の一つの結果として、航海学校が設立される。政府の科学芸術省が用
 意した奨励金に助けられて、1862年までに17の学校が15の異なった港(そのうち3つはロンド
 ン)に作られる。世紀末までに、科学芸術省は教育省に統合され、またそれらの学校は1908年
 になると地方政府に移管される。その報いとして、それらの学校はおおむね詰め込み教育を、
 その後50年間続けることとなる。同じころ、1786年海洋協会が設けた最初に設けた古船とは
 別の、何隻かの古船が訓練船となった。特に、コンウェイ号とウースター号が士官訓練船とし
 て、マージー川とテムズ川に1859年と1862年に設立される。
  同じような状況のもとで、1857年商船勤務協会[MMSA]が、「イギリスの商船に勤務する船
 長、士官、その他船員の条件を改善し、またその利益を増進する」、そして「その会員に良い教
 育を施し、病気や死亡を防止し、そして訴訟の助言と援助を行う」組織として設立される。1世
 紀後の1985年に他の士官組織と合同し、現在のMMSAとなる。この組織は船長の「労働組合」
 である。
  1850年代、1860年代、海運の世界が洗練されつつあることを示す、多数の発達がみられた。
 1853年、海軍が常備兵制を導入したことによって、1815年以後なかった強制徴発も1857年を
 もって終止符が打たれる。また、マリヤット艦長が商船の信号コードを開発してから40年たち、
 商務省がほとんどの海事国が逐次採用することとになった、新しい信号コードを導入した年で
 もあった。1859年、王立海軍予備制度が設立され、1860年、海軍砲術学校(現在、王立)が開
 設された。
  1862年海運(改正)法は、海上における事故を防止する現行の一般規定を強化し、航海灯の
 掲揚に関する規則を定め、また試験と証明に関する規定を船舶機関士に広げた。これ以後、
 外国航路の汽船は1人以上の有資格の機関士を乗せなければならなくなった。1864年、枢密
 院はイギリスの商船のみに使用を認めるレッド・エンサインを指定した。1867年、『船長医療指
 針』初版が発行され、それに関わる準士官の仕事が改定、実行された。
◆19世後半の船首部の生活記録◆
 航海の仕事を健康的な職業に切り替える手段はまだなかった。海上での生活は拘束と制限
 のままであった。W.S.リンゼー[15章参照]は1860年代に海上の徒弟となり、420トンでの生活を
 書き残している。乗組員は21人であり、船長と、一等士官、二等士官、司厨長はキャビンで食
 事をしていた。司厨長は大工や、銅工、調理手とともに、必要となれば船員たちの仕事を手伝
 っていた。
  それ以外に、10人の船員と4人の徒弟がいた。後者の1人はおそらく年季を納めており、大工
 や銅工とともに「準士官室」で生活していた。そこは狭いスペースであるが、粗削りの柱や板で
 もって一時的に貨物から仕切られており、船尾のハッチの一角にあった。かれらの道具は、い
 ろいろな予備のロープやセールと一緒に置かれていた。調理手や、一般の船員と3人の徒弟
 たち―総勢14人―は、船首部の下で生活していた。そこは三角形をしており、船中央部から20
 フィートのところにあり、後側または最大幅は約21フィートであり、船首に向かって狭くなっていた。
 甲板からビームまでの高さは約5フィートであった。
  1850年法の規定にかかわらず、悪天候時は採光と換気はないに等しく、良天候時でも良いと
 いうわけではなかった。いつもじめじめしていた。乗組員はハンモックで寝ていた。船用チェスト
 の表面はテーブルや椅子代わりに使われ、チェストに座って食事をしていた。リンゼーは、常
 時「不快で息苦しい住処であり、悪天候となれば、水や汚物が甲板やチェスト、樽のあいだに
 あふれ、たえがたく嫌悪すべき、悪臭が立ちこめていた」と書いている。食料には質の悪い塩
 漬け豚肉がほとんどであって、牛肉は食事のときに使う木製のたるあるいはおけのように、ほ
 とんど固形となり、不快な匂いがしていた。茶色のビスケットや堅パンにはおおむねかびが生
 え、ウジ虫だらけであった。船首部はネズミであふれていた。
◆帆船クリッパーの黄金時代◆
 19世紀半ばの善良なイギリス人船員の多くは、北東海岸からロンドンやオランダ、フランスに
 石炭を運ぶブリグ船で働いていた。一往復の航海で、船長には8−9ポンド、士官には5-6ポン
 ド、調理手には5-5ポンド10シリング、有能船員には4-4ポンド10シリング支払われていた。賃金率は
 10年前より高くなっていた。4人の徒弟は、最初の年8ポンドからは始まり、徒弟期間が過ぎるま
 で、1年に1ポンドづつ引き上げられた。夏の期間、出来の良い石炭船は自国海岸を離れ、バル
 ト海やポルトガルあるいはスペインと交易していた。そのときの賃金率は、一往復の石炭航海
 と同じか、それより若干低くなった。そうした交易の際、有能船員は1860年代、1か月3ポンド10シ
 リングから3ポンド15シリング稼いでいた。
  そのころなると、汽船はホーン岬を当たり前のように回航するようになっていた。パシフィッ
 ク・メール汽船会社が1847年アメリカでアメリカ議会の援助をえて設立されているが、将来の見
 通しは不確かなものであった。それら汽船会社は、その年、カルフォルニアで金が発見された
 おかげで、倒産を免れる。
  このゴールド・ラッシュと、1851年オーストラリアでの金発見の最も劇的な結果は、遠洋汽船
 の発達ではなく、より効率的な帆船の採用という、かってみたことのない刺激をもたらしたこと
 であった。帆船はその後、次々と死に絶えていったが、1849年から1869年にかけて、栄光の20
 年間となる。その間、能率の良いセールが開発され、外洋クリッパーという最終到達点にたど
 り着く。汽船が遠距離交易に関して経済性を証明するまで、帆船は「黄金」時代となる。それ
 は、ごく最近に至るまで、何千人もの人々の心に、過去の栄光を愛でるノスタルジーを高揚さ
 せる時代となった。
  ドナルド・マッカイ[1803-1863]はクリッパーを改良し、それを建造して有名となった天才であ
 る。かれはノバ・スコシア生まれで、カルフォルニアのゴールド・ラッシュを当て込んで、1,783トン
 のフライング・クラウド号とその同形船を建造していた。ホーン岬を回る航海は困難かつ危険で
 あったが、マッカイは大型のイギリス船であれば30人が雇われるところを、わずか20人の乗組
 員でもって大型クリッパーを扱えるようにするため、船を操作するのに役立つ、多くの精巧な仕
 掛けを採用していた。大西洋とのかかわりをみると、マッカイはイギリス船主エノク・トレインの
 新会社ホワイト・ダイヤモンド・ライン社の郵便帆船を建造している。その船は、汽船を選好し、
 長い航海であっても快適な航行を提供していた、競争相手のキュナードの船と同じように、大
 型で広々としていた。
  1849年、90,000人の人々がアメリカの大西洋岸から出帆し、サンフランシスコに向かった。し
 かし、カルフォルニアには、砂金以外に貨物として積み込めるものはわずかであった。そこで、
 新しいクリッパーにとって太平洋を横断して中国にまで帆走し、そこでボストンやニューヨーク
 向け、航海条例廃止後はロンドン向けの茶を積み込むことが仕事となった。それはスピードが
 商いとなった。1850年、アメリカのクリッパーのオリエンタル号が香港に到着している。その船
 は、ロンドン向けの茶1,600トンを、40立方フィートを1トンとして、1トン当たり6ポンドで積むため用船さ
 れていた。他方、イギリス船は50立方フィートを1トンとして、1トン当たり3ポンド10シリングに下げても、
 船倉を埋めることができなかった。その船は、12月3日、97日という記録を作ってロンドンに到
 着し、新茶セールで高値を獲得している。
◆オーストラリアの黄金と移民ラッシュ◆
 オーストラリアの金の初荷が1852年イングランドに到着すると、それ以降、大量の移民が動
 き出し、われがちに大西洋を横断するようになる。羊毛商品は、タバコと同様、1世紀前から減
 少しつつあったが、オーストラリアの羊毛のおかげで、長距離輸送にかかわらず、粗末な羊毛
 商品であってもスペインやドイツと競争できるようになった。1850年代の移民ラッシュ時、毎年、
 羊毛を刈り取る季節にオーストラリアに向かい、そしてロンドンに戻るレースが続けられた。
  このとき、イギリスの船主は需要に積極的に答えている。ロンドンでは、東インド交易に携わ
 っていたダンカン・ダンバー、リチャード・アンド・ヘンリー・グリーン、そしてモネー・ウィグラムと
 いった主だった船主は汽船の脅威にさらされており、既存船の代替販路を探していたが、この
 新しいオーストラリア交易に転換するか、それとも他の販路を開発するかでであった。
  リバプールの人たちは、アメリカ大西洋郵便船隊を古船として買い、オーストラリアに移民を
 運んでいる。ホワイト・スター・ライン社の設立者ピルキントンとウィルソン、ジェームズ・ビーグリ
 ーと著名なジェームズ・ベイネスらが、かれらの指導者であった。かれらはボストンや[ノバ・スコ
 シアの]ニュー・ブランズウィックの造船所に新船を発注していた。1854年、ドナルド・マッカイは
 ベイネスのブラック・ボール・ライン社の郵便船として、ライティング号、チャンピオン・オブ・ザ・
 シー号、ジェームズ・ベイネス号、そしてドナルド・マッカイ号の4隻を手渡している。ライティング
 号はメルボルンからイングランドに63日で航海しており、この63日は帆走でかってない日数で
 あった。また、2,275トンのジェームズ・ベイネス号はマッカイの傑作と普通、考えられている。
  これら大型のリバプール船はすべて2,000トン以上であり、オーストラリア移民輸送を独占し
 た。これらの船はスピードがあったので、ベイネスは郵便長官とオーストラリアに68日で郵便物
 を輸送する契約をしている。ただ、遅延1日ごとに、罰金100ポンドであった。わずか10年のうち
 に長距離帆船は革新された。1845年、296トンのローゼンダール号はオーストラリア交易におけ
 る「華麗な第一級船」と考えられている。新しいリバプール船主たちの「ダッシュぶり」は、ブラッ
 クワル・フリゲート[主として東インド向けの帆船]を持つロンドンの「紳士」船主たちとはまったく
 対照的であった。ある後代のリバプール船主の見解によれば、新しいオーストラリア交易が
 100年間にわたる遠洋船の所有形式をこしらえたという。
  イギリスのニュージーランドとの最初の重要な接触は、その国がイギリス国王の領土に併合
 されることになった1840年以後である。それでも、グラスゴーの「アイルランド系」のヘンダーソン
 が1834年に農場を開拓し、またロンドンのガンにいたウィルズが交易を手がけていた。一時ウ
 ィルズの雇い人であった、ロバート・ショウとワルター・サヴィルが1858年に共同経営者となる
 と、開発は本格化する。その開発は、1861年[ニュージーランド南島の]オタゴ半島で金が発見
 されると加速される。ショウとサヴィルは、政府と1862年移民を輸送する契約を結んでいる。
 1858年から1882年まで、かれらの会社は延べ1,310隻の船で100,000人の旅客を新植民地に
 運んでいるが、かれらが使った船はそのほとんどが、オーストラリア交易よりかなり小型の1,
 200トン以下であった。
  そのころのオーストラリアやニュージーランドへの航海は帆船が適していた。汽船にとって適
 当な燃料補給基地はわずかであった。喜望峰からメルボルンへの横断は、大西洋を横断する
 距離の2倍以上もあった。しかし、特殊な南半球の風が常時西から吹いていた。帆船は[南大
 西洋上の]トリスタン・ダ・クーニャ断裂帯の西方500マイルの地点で来てほとんど直角に曲がり、
 快適な西風に乗って、総計8,000マイル先のメルボルンを目指し、「東に向かっていた」。このルー
 トは大圏航路に沿って南に向かえば、さらに短縮され、早く着くことができた。
◆帆船のスピード競争◆
 1852年、オーストラリアのゴールド・ラッシュが頂点に達する。そのとき、多くの船が乗組員不
 足でメルボルンに停泊しており、ある船は水夫に1か月30ポンド出すと宣伝したが、成功してい
 ない。悪名高いマルコ・ポーロ号の「悪漢」フォーブス船長は、毎航海、乗組員や円材を失い、
 気分を壊されたので、その対策として出帆するまで乗組員を監獄に投げ込んだという。フォー
 ブスのような船長ばかりではなかった。ウィリアム・シュチュワートは、ザ・ツウィード号やロホ・エ
 ーティブ号の船長としていたが、43年間、乗組員や円材を失ったことがない。
  ベイネスのライティング号に乗っていたアンソニー・エンライトは、本来ホテル経営者であった
 が、船長になった。かれは大量の輸出貨物、サロン旅客50人、移民370人、そして乗組員85
 人、それに加え、出帆時、羊70匹、豚70匹、飼鳥1,000羽を乗せ、輸送していた。当時の船は
 バンドを乗せる場合がよくあった。図書室もあった。ライティング号では、毎日、冊子が印刷さ
 れていた。
  これらの船はスピードが要求された。アンナドーレ号の船長によれば、1855年一度きりでは
 あるが、1日に381マイル、平均16ノットで航送したという。その10年後に建造されたサーモパイラー
 号はそのスピードを更新している。船長がスピードを追求して危険をおかし、船をおかしくする
 場合があった。16ノットや18ノットといったスピードが出ると、甲板はいつも海水に洗われることに
 なり、旅客は息をひそめているしかなかった。1869年のトーマス・ステファン号の航海日誌によ
 れば、嵐に打ち勝って前に進んでいた様子が良く解るが、それは徒労でしかなかった。
12月10日日曜日午前、激しい嵐、高い波、船は翻弄され、甲板は船首から船尾ま
で、完全に海水に浸かった。午前1時、メン・トップ・ギャラン・スティスルを降ろす。午
前7時、嵐は続き、航行速度16ノット。高波が襲い、右舷の救命ボートを持ち去り、主
甲板は完全に浸かり、ハッチ付近の小屋を洗い流す。午前9時30分、嵐は少し治ま
り、すべてのセールを大きく広げる。航行速度はなお16ノット。午後、高波は治まる
が、甲板は完全に浸かったままである。

 ライティング号を指揮していた、先の船長エンライトはこの船のすぐれたスピードを旅客に示
 すために作った回覧を、「この案内は、悪天候によって、皆様にご不便をかけたことへの、それ
 なりの償いとなることを期待しています」と締めくくっている。

◆郵便汽船の世界航路網◆
 大型の東インド会社船は別として、1,500トン以上の木造帆船が連合王国で建造された隻数
 は、たった2隻であった。アメリカ船やカナダ船を買うほうが安かった。しかし、北アメリカからの
 船は軟材で建造され、1、2航海すると水もれし、その質は最悪であった。1854年海運法は、道
 理にかなったトン数測度法を確立していた。トン数は船体の立方容積を基礎にして測られるこ
 ととなった。硬材船や混在船には、鉄の肋材がチークや樫材とともに張られるようになった。そ
 れは、新ルールで建造した場合、北アメリカの軟材船より有効であることが解った。そうした船
 は小型であった。
  1863年から1869年にかけ、イギリスの造船所はターピング号、セリカ号、アリエル号、サー・
 ランセロット号、ザ・ツウィード号、サーモパイラー号、そしてカティ・サーク号といった800トンクラ
 スの申し分のない船を建造するようになる。それらの船には乗組員が良く集まった。P&O社の
 士官は東インド会社船と同じような資質があった。また、それらは「帆船の栄光時代」の船であ
 り、1860年代や1870年代初期の大規模な茶の帆船レースの立て役者であった。
  1861年以後、イギリスはまたとない状況に大いに恵まれることになった。アメリカの南北戦争
 [1861-65]は、国際海運におけるかれらの指導的な地位を引きずり落してしまった。1865年ま
 でに、アメリカの船主は730,000トンの船腹を競争相手に売り渡し、イングランド交易における輸
 送量を100万トン強まで減少させた。アメリカの南北戦争の影響は一時的であったが、その戦争
 はアメリカ人のエネルギーをそぎ、アメリカの資本は国内あるいは西部・中西部の開発に転換
 していった。イギリスは、ヨーロッパでの競争相手であったアメリカに取って代わる機会をつか
 む。[1869年]スエズ運河を開通させ、またインド植民地やオーストラリア、ニュージーランド、そ
 してその後、アフリカとの交易を増大させた。それらはすべて、特にイギリス海運にとって、新し
 い機会を提供するものとなった。
  1853年、郵便補助を受けていた郵便汽船会社は合わせて91隻の船を保有していたが、その
 量はイギリス登録汽船270,000トンの半分以上に当たっていた。1851年、新しく設立されたアフリ
 カン汽船会社は10年間の郵便契約を結んでいる。その契約には、西アフリカ植民地に月サー
 ビスを維持するため、十分な補助金がついていた。その結果として新しいスクリュー付きの汽
 船5隻が配船された。
  翌年、P&O社はオーストラリア向けの最初の郵便サービスを開始している。シンガポールが
 中継地点として利用された。郵便はチュウサン号で輸送された。その船は鉄製の汽船で、スク
 リュー・プロペラを持っており、バーク型の帆装を施し、かなり航程をそれに依存していた。1856
 年、アラン社は郵便契約を結んだとき汽船に転換し、ケベック・サービスを行うことにしている。
 1857年、ユニオン-カッスル・ライン社の後身であるユニオン・スティーム社は、南アフリカとの
 毎月郵便サービスを請け負っている。1860年、イギリス政府は年間100万ポンドの郵便契約を
 行っていた。
◆鉄製汽船、無制限の大型化◆
 この郵便契約はイギリスの外洋汽船の発達に貢献した。1853年以後数年間、船舶の建造方
 法に一つの変化があり、それがイギリス海運を将来、発達させる最重要な一要因となった。そ
 の期間、鉄の採用が勢いづいた。鉄船の船体は木船に比べ際限もなく大きくなっていった。帆
 走による長期航海にあっては、鉄船が木船より早かった。しかし、汽船は重量に関わりなく、大
 量の貨物を輸送するようになった。それに伴い鉄船は極めて大型となった。木船のサイズに
 は、長さが300フィート以下という制限があり、2,000トンを超える船が数隻しか建造されなかった。
  1865年以後、500トン以上の横帆船はイギリスでは鉄船になった。このころから、イギリスの大
 型の鉄船では、鋼索による艤装が増加するようになる。しかし、その鋼索をピンと張るため「引
 き締めネジ」[ターンバックル]が用いられたが、1875年まで使い物にならなかった。鉄船が建造
 されるようになって、帆船のサイズの制限が自ずと明らかとなった。少数の5,000トンの帆船が―
 5本マストのバークやスクナー―が、帆船時代の真の最後に建造されたが、それ以上の大型
 船は操船不能ということが解った。
  そうした制限は汽船にはまったくなかった。ブルーネル最後の大型船であるグレート・イース
 タン号が1857年に進水した。その船は長さ680フィート、総トン数18,914トンであった。オーストラリ
 アに行き、石炭を補給せずに、帰国出来るほどの大きさがあった。グレート・イースタン号の前
 途は明るいかに見えたが、こうした船を必要とするほどには交易は拡大していなかったし、船
 自身もそうした交易に対しての経済的ではなかったからである。しかし、1862年、すなわちハー
 ランド・アンド・ウォルフ社が[北アイルランド]ベルファストのクイーンズランド島に1号ドックを建
 設した年、3,000トンから5,000トンの汽船の建造予約は売約済みとなっていた。当時、イギリスで
 建造される鉄製帆船と汽船の合計トン数は、木船の建造量とほぼ同じであった。
  汽船が勝利したとはいえなかったが、その勝利は間違いなかった。サイズの制限に加えて、
 最良の帆船であっても、その不安定性は免れなかった。[中国福建省の]福州からリバプール
 への航路を、ある帆船はある年は90日、翌年は120日もかかっていた。トンプソンのサーモパ
 イラー号は、10年間平均69日でイングランドからメルボルンに航海したと主張しているが、その
 数字は海峡を下る航海をした後、[コーンウォル州の]リザード岬からの日数であった。初期の
 汽船―1840年代のキュナード船の例では―のほとんどが10ノットを超えることがなかったとはい
 え、往航に暴風に巻き込まれることはなくなった。そうした状況にもかかわらず、マッカイは旅
 客に、ダニエル・ウェブスター号は11ノットの汽船であり、規則的な航海ができると売り込み、帆
 船は重要性を失いつつある場所への貨物輸送を委ねられていると言い訳がましくいったとい
 う。
  1864年の1年間に、イギリスにおいて建造された帆船は272,500トンであり、汽船は159,400トン
 であった。帆船隊のトン数のピークは純トンで1865年の490万トンであり、その年の汽船はわず
 か80万トンであった。バルク輸送では、帆船が1880年代半ばまで、競争力を保ち続けていた。
  小型の帆船は何千隻もが海岸周辺で活動していた。1850年代に写された写真を見ると、300
 隻の商帆船が逆風にあって、プリマスの水道に避難している。それらの船は沿岸船か短距離
 船で、船長が所有あるいは共同所有する船であり、またブリグ、ブリガンティン、バーガディン、
 スループ、小型のバークとスクナーであった。
  スクナーは、1880年になっても、他と区別されることなく使われた。1850年代、その用語には
 おおむねバーガディン、そして場合によってはブリガンティンが含まれており、後者はすべての
 マストに縦帆を艤装し、前マストに補助縦帆を付けた船を意味していた。1850年代、国内交易
 船の平均トン数はなお80トン、その乗組員はわずか4人であり、また外に使用される帆船の平
 均サイズもまだ350トンであったが、そのほとんどが150トンであった。19世紀半ばの数年間、貨
 物帆船のデザインは修正され、普通のクリッパーのデザインに合わせるかのように、細身にな
 っていった。
  当時、多くの船主は汽船と帆船とを並行して運航していた。トーマス・ハリソンとジェームズ・ハ
 リソンは、T&J.ハリソン社という会社を個人所有しており、かれらはそれらの並行運航にまった
 く疑問を持っていなかった。かれらは、1860年初めに汽船を採用し、1860年代、70年代汽船と
 帆船とを走らせていたが、1880年になって最終的に帆船を放棄している。
  ある歴史家は、小型補助機関付き全帆装帆船が凪でもスピードを維持することができるの
 に、長期事業として発達せず、さらにそうした船が経験に基づき、現代における燃料節約手段
 として喚起され、発達をみていないことに驚き、嘆いている。勿論、初期の汽船は完全に帆装
 していたが、機関を外してしまうこともあった。そして、補助帆装を備えた汽船もまた事実、それ
 に費用をかけるだけの値打ちがあったのである。
◆膨張機関の登場、復水器の採用◆
 蒸気機関の信頼性や経済性が高まったものの、船は大きくになるにつれて、帆装に伴って必
 要となる特別の要員や保守にかかる費用が非常に大きくなった。その費用は石炭の経済性が
 高まってもカバーしきれなかった。
  数年後、帆船が使っていた石炭駅が非常に増加し、汽船がそれを利用できるように改造され
 ていった。キュナード社は、最初の鉄船ペルシャ号を1855年に発注しているが、1860年代初め
 まで外輪蒸気船に信頼を寄せていた。そのペルシャ号は250人の旅客を収容できた。1856年、
 [大西洋を]9日で横断し、最速横断記録に与えられるブルー・リボン[大西洋横断の新記録を出
 した船に与えられる]を請求している。
  キュナード社の忠告とは関かりなく、スクリュー・プロペラはアフリカ・スティーム社の船をみる
 ように、どのような船でも有効であることが解ってきた。ジョン・ペンの10年間にわたるリグナ
 ム・バイト[グアヤクの樹]の利用は、プロペラ[軸]を水密性のある管に収めることを可能とした。
 それに加え、汽船の経済性は二段膨張機関や、表面復水器付き膨張機関の採用によって、さ
 らに高まっていった。
  サミュエル・ホールが1830年代船舶用の表面復水器を導入した。それは、汽船が海上にあっ
 ても、[海水ではなく]清水でもって、蒸気を作ることを可能とした。その利用により海水の浸入
 がなくなり、ボイラーの効率は著しく改善された。ただ、1860年頃までは復水器を広く行きわた
 らせるだけの、優秀な製造技術はいまだなかった。さらに、膨張機関の採用は燃料の消費量
 を減少させた。こうした革新機関は、ジョン・エルダーやチャールズ・ランドルフにより設計され、
 1856年インカ号とバルパライソ号という2隻の船に据え付けられた。それらは、パシフィック・ス
 ティーム・ナビゲーション社が南アメリカの石炭のない太平洋海岸で使用している船隊に追加さ
 れた。1861年、P&O社は新造船ムールタン号に膨張機関を据え付けている。
  ジョン・エルダーの発明は海上輸送の経済性に一つの革命をもたらしたが、その秘密は蒸気
 の使い方を改善したことにあった。最初、小さなシリンダーに[高圧の]蒸気を収容し、そこで一
 定のエネルギーを吐き出させ、その上で[低圧化した]蒸気を二番目のあるいは大きなシリンダ
 ーに移し、その際二番目のピストンを作動させ、蒸気の膨張を完全に終わらせるやり方であっ
 た。その結果、より多くの馬力が一定量の蒸気、したがって一定量の石炭からうることができ
 るようになった。エルダーの発明は長距離輸送の汽船の経済的な立場を確立させた。この膨
 張機関に、イギリス各地で、様々な改良が加えられた。
◆P&O社アジア席巻、ブルー・ファンネル誕生◆
 1845年から10年間、250万人の人々がイギリスの港から北アメリカに向かったが、それは10
 年前のヨーロッパ全体からの移民の3倍以上の数であった。そのころになると、大西洋横断の
 旅客輸送業務には誰でもが参入できる余地があった。汽船はそれ以外の交易にもすでに侵
 入しており、政府も汽船が郵便輸送を超えた領域に参入してくることを承知していた。
  P&O社は、早くも1844年地中海クルーズに「企画」し、小説家W.H.サッカリー[1811-63]に自由
 旅行を提供していた。それ以後、様々な機会において、同社はイギリス連隊を輸送するのに利
 用されていた。1854-6年のクリミア戦争中、T&J.ハリソン社のような他の会社も連隊輸送のた
 め用船されるが、P&O社の11隻より少なかった。P&O社は保有トン数の3分の1を用船に出し
 ていた。その後、この会社は急速に発達する。10年後には、地中海から東方に向けに55隻の
 外洋定期船を使用し、そのとき香港やシドニーにまで拡大し、さらに短期間のういちに横浜ま
 で延長している。さらに、そのころボンベイから中国への阿片貿易を独占するまでになってお
 り、その地位は20世紀になっても維持され、中国シルク市場の一手買い手となっていた。
  アルフレッド・ホルトは、リバプールの綿取引人かつ銀行家の子供で、鉄道技術者であった
 が、1851年、あまり知られていないランパート・アンド・ホルト社という海運会社を参加していた。
 そのころ、この会社は地中海に就航していた帆船を小型の汽船に取り替えていた。翌年、ホ
 ルトはインディア造船所の顧問技師になった。その造船所にかれの父親ジョージ・ホルトが
 1834年に出資していた。1853年、アルフレッド・ホルトは[カンブリア州の]クレーターのトーマス・
 エインズワースから、小型汽船の改造について助言を求められた。
  ジョージ・ホルトとアインズワースは汽船ダンバートン・ユース号を買っているが、その船はア
 ルフレッドが他の船とともに経営し、供給していた船であった。アルフレッドはスクリュー・プロペ
 ラと鉄船が有望だと見て、父親やエインズワースにクレーター号に資金を投入するよう説得し
 ている。その船は鉄鉱石や石炭交易用として建造されたが、クリミア戦争中、フランス政府に
 用船に出されていた。他方、かれはかれと兄弟が西インド交易に使っていた、大型船を手放し
 ている。
  1862年、かれはエルダーやランドルフより経済的な形式の膨張機関を採用し、それをクレー
 ター号に試験的に据え付けている。鉄船にスクリュー・プロペラとともに据え付けた膨張機関
 は、極東で使用されることになると踏んで、1865年オーシャン汽船会社を登記し、最初の船隊
 としてアガメノン号、アヤックス号、そしてアキレス号の3隻を発注している。このようにして、ホ
 ーマーが書いた英雄のようなブルー・ファンネル社が誕生する。1877年まで、ホルトは市井の
 技術者といって良く、汽船の燃料消費量をその後25年間に半減させる。
  この間も、優雅なクリッパーが建造されはしたが、すでに衰退同然の交易に限られる運命に
 あった。その年、[スコットランドの]グリーノックのロバート鉄工所ではアリエル号とサー・ランセ
 ロット号が建造されているが、その隣のゲートではホルトの新しい汽船が建造されていた。そ
 れらはいずれも2,280トンであり、[二機関]一軸の串形機関を積み、船の長さはビーム幅の8倍と
 なっていた。後者の比率は、リバプールのビビーに従えば、それまで妥当と考えられてきた比
 率より高い。
  アガメノン号、アヤックス号、そしてアキレス号といった船は石炭を、8,500マイルという南アフリ
 カからメルボルンまでより長い距離を運びことが出来た。かれらはボイラーの圧力を60立方フィ
 ートに引き上げ、また石炭消費量を時間馬力当たり2.25ポンドに引き下げた。快速ティ・クリッパ
 ーは、ホルトの新しい定期船の貨物の4分の1も運べず、しかも福州からロンドンまで90日かか
 っていた。ホルトの船は快適な旅行を65日で航海し、郵便契約がないのに利益を上げていた。
 1867年、P&O社は初めて損失に陥っている。そのころ、同社はホルトばかりでなく、過保護の
 フランス帝国郵便会社と競争しあっていた。
  1860年代、2本スクリューが小型船に据え付けられるようになり、スクリュー推進は1867年パ
 ドルに対して最終的な勝利を収める。その年、シティ・オブ・パリス号が、外輪蒸気船スコッティ
 ア号からブルー・リボンを引き継いでいる。その船は、1861年キュナード社が建造した、外輪蒸
 気船として最後の快速船であった。他方、シティ・オブ・パリス号は鋼材で建造された最初の汽
 船であった。それは木から鉄への変化に匹敵するような技術の前進であった。鋼は腐食や貝
 の付着に抵抗力があった。まだ、その価格は非常に高かったが、年々次第に低下していっ
 た。
◆郵便汽船サービス、極東に広がる◆
 1840年代、ヨーロッパ大陸は大変混乱していたので、競争相手に挑戦を仕掛けたり、また資
 本を増やすことは困難であった。大陸の諸国家には、目立った海軍はなかったし、膨張しよう
 とする帝国もなかった。したがって、イギリスは汽船に補助金を出してでも運輸通信を維持する
 といった政策を、ヨーロッパ大陸には適用する必要はなかった。1847年、ドイツ人の財政援助
 を受けて、あるアメリカ船がサザンプトン経由でブレーメン向かうサービスを開始したが、10年
 も保たなかった。
  根っからのアメリカ船主は汽船を嫌う傾向があり、1850年E.K.コリンズが大西洋に4隻の大型
 汽船を採用したことについて、議会から圧力がかかってきた。こうして、コリンズ・ラインが快速
 船を手掛けるようになったが、それはブルー・リボン、そして俗悪な装飾をめぐるの闘いの始ま
 りであった。しかし、その会社はその過程で途方もない損失を出し、議会が補助を打ち切った
 とき倒産してしまう。17年後、アメリカは[パシピック・メール汽船会社に]補助金を出し、太平洋
 を横断して日本向う、毎月郵便サービスを始める。3年後、P&O社の郵便サービスが横浜まで
 広がる。
  1851年、フランス政府は郵便契約に補助金を出すことを決定し、民間の郵船会社を国営の
 郵船会社に切り替えるが、大西洋における郵便船サービスを補助するまでに6年かかる。ハン
 ブルグ−アメリカ・ラインが1856年設立されるが、ドイツ人たちは自分たちの船をイギリスの造
 船所に回しており、1870年になるとイギリス船を買うまでになっている。そのころ、オランダはよ
 うやく、自国の遠洋汽船を建造し始める。
  1868年、蒸気プロペラ船はトン数の上で帆船より多く建造されるようになる。翌年、スエズ運
 河の開通より、帆船はさらに打撃を受ける。この運河は、東方に向かう汽船のルートを短縮す
 る。その短縮より、適当な間隔に、石炭補給駅を配置すれば良くなった。
  そのころ、ロンドンの造船事業は急激に少なくなり、グラスゴー、グリーノック、ニューカッス
 ル、サンダーランド、そしてリバプールといった、地元に石炭のある北方に移っていった。汽船
 のスピードやサイズは目立って大きくなっていったし、安全記録も帆船を上回り始めた。船内か
 らの測深も、帆船時代に比べ信頼できるようになる。かなりの清水を乗組員や旅客に供給でき
 るようになり、居室には家具が入れられ、サロンの調度も大幅に改良された。
  1870年ごろ、イギリスの造船所と船主は威勢が良かった。イギリスの商船隊は、汽船相当の
 トン数として世界の45パーセントを占め、その輸送能力はアメリカの外航船隊の4倍、フランス船
 隊の5倍、そしてドイツやイタリアの船隊の6倍となった。イギリスで建造中のトン数のうち4分の
 3が汽船であり、その5分の4が鉄で建造されていた。

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