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(1870−1890)
―主な内容とその特色― 
 この章(306-327ページ)は、イギリス帝国主義が絶頂期を迎えたものの、資本主義の成
熟 による大不況が起きた時期を取り扱っている。イギリス海運は、さらなる技術改良を取り
入れながら、世界の運搬人として、七つの海を雄飛する。まず、「世界の工場」そして「世界
の運搬人」となったイギリスについて誇らしげに概括する。そこで注目されるのは、イギリス
の貿易収支の赤字を海運収支の黒字で埋め合わせることで、その世界経済制覇が成り
立っていたとしていることである。19世紀末にかけて、イギリス船腹は世界船腹の60パーセント
を占め続けたが、世紀の変わり目からその地位は相対的に低下する。
  海運における産業革命は海底電線の敷設と無線電信の開設によって完結する。海運
産業は、汽船によって迅速性・定時性というハード面での革新を達成する。そして、この時
期、海底電線の敷設によって情報交換というソフト面での革新が達成される。それに伴っ
て、海上輸送は、交易取引および海運取引と切り離された、単なる輸送対象の場所移動と
いう生産活動に純化される。その意義は長きにわたる海運史のなかできわめて大きい。
  帆船が、その時期なっても、大量・嵩高・長距離輸送に利用されていたことが、史料が豊
富にあるせいか、長々と書かれているが、その意義は少量の多種多様な農産品や手工業
製品、軽工業製品の輸送に加えて、軽工業のみならず、わけても重化学工業向けの原燃料
資源が爆発的に増加したことにある。それは現代海運の前史である。
  そうした変化に対応して、適時・適地に一貨満載を目指す不定期船が登場し、それを所
有する一杯船主が群生し、一つの業態を確立する。そして、海運の膨張は新しい海運起業

 を輩出させる。その何人かが紹介されているが、かれらは根っからの資産家ばかりでは
なかった。
  各国の定期旅客船会社が入り乱れ、競争し合うようになる。すでに、1850年代から北大西
洋航路では最低運賃協定が結ばれていたが、東方交易の拡大と不況のもとで、1875年カ
ルカッタ航路に世界最初の定期船同盟というカルテルが結成される。19世紀末、冷凍貨物
の輸送、タンカーによるオイルの輸送、そして旅客船を中心にして電気照明などの電気応
用など、様々な設備改善が見られるようになる。
  汽船によって安全性は高まったものの、海難事故がなくなったわけではない。石炭商プ
リムゾルは、懸命な議会活動を行って、喫水線マークの強制表示を勝ち取る。それはいま
なお海事史に残る著名な運動となっている。そうした外からの運動ばかりではなく、船員自
らも労働運動に立ち上がる。1887年、ウィルソンを組合長とする全国合同水火夫組合が結
成される。それは新しい海運史の始まりであった。
注:[ ]のなかは、訳者の解説、注釈、文章のつなぎ・補足・案内文である。

◆イギリス、世界船腹の60パーセントを占める◆
 1887年、ヴィクトリア女王の―イギリス王戴冠−50年祭を祝った。首相ベンジャミン・ディズレ
 リーは[1804-81]は女王の宝冠にインドの宝石を付け加えた。イギリス海運は頂点に達してお
 り、世界交易の輸送人として特別の地位をえていた。それ以前にも、それ以後にも、唯一の国
 が世界経済を支配したことはない。
  新しい産業国家イギリスの象徴都市はマンチェスターと、バーミンガム、グラスゴーであった。
 綿製品の総量は第一次世界大戦になるまで増加し続けたが、それらがイギリスの輸出量に占
 める比率は、金属製品や機械製品の比率が増加するにつれ、減少した。イギリス経済は安価
 な布地、安価な鉄、機械、石炭を売り、そして外国からいろいろな基礎食料や多くの原材料を
 買うことができるかどうかにかかっていた。その交易のファンダメンタルは、単にイギリスに出
 入する貨物ばかりでなく、他の国々に出入する貨物をイギリス海運がどれくらい輸送する能力
 [貿易収支の赤字を海運収支の黒字で埋め合わせる能力] があるか、ないかにおかれてい
 た。当時の世界は、イギリスの輸送上の改良やイギリスの外国交易の波及に負っていたとい
 える。
  1887年以後、イギリス商船隊のトン数は増加し続け、75年間、第二次世界大戦が終わるま
 で、イギリスは世界の主要な海事国家たり続けるが、商品や旅客の輸送人としては、再び世界
 の外洋交易の60パーセントを輸送するといったことはなくなる。
  1870年、イギリス帝国の登録船腹は純トンで、帆船5,947,000トン、汽船1,202,000トンであったが、
 そのうちイギリスが所有するのは帆船450万トン、汽船110万トンであった。こうした勢力を整理す
 ると、汽船1トンは帆船3トンに相当するとされてきたが、それは汽船時代の比較的に初期に強調
 された推定であった。したがって、それら勢力は概算でしかない。それを基礎にしていえば、
 1870年、イギリス帝国の汽船相当トン数は3,184,000トンとなる。その他の主要な海事国―アメリ
 カ合衆国(唯一、外国交易用として登録された船のみを計上している)、フランス、ドイル、ノル
 ウェー、スウェーデン、デンマーク、イタリー、そしてオーストリア−ハンガリー―は帆船6,295,
 000トン、汽船554,000トンであり、同じ換算で2,652,000トンとなる。結合トン数のうち、イギリス帝国
 は54パーセントを所有していたこととなる。
  1880年、イギリス帝国の帆船船隊は5,498,000トンに減少し、汽船は2,949,000トンと2倍以上とな
 り、汽船相当で4,782,000トンとなった。その年、他の海事国は、合計にして、それぞれ6,380,000ト
 ン、1,037,000トン、3,164,000トンとなった。結合トン数のうち、イギリス帝国はいまや60パーセントを所
 有することとなった。
  同様な計算を1890年についてすると、イギリス帝国の帆船船隊は4,274,000トンに減少し、汽船
 は5,414,000トンに増加した。他の海事国の帆船は4,865,000トンまで減少し、汽船は2,293,000トンと
 2倍以上となり、イギリス帝国の結合トン数は63パーセントを占めるにいたる。
◆海底電線の敷設、交易・海運への衝撃◆
 それから10年過ぎると、イギリスのシェアは何と61パーセントとなり、そのピークが過ぎたことに
 なる。しかし、摘記すべきことは、当時のイギリスの船隊は世界のどの国よりも質が非常に優
 れており、また1890−1900年間における変動が考慮されていないことである。それにもかかわ
 らず、イギリスはおのれの波の頂点を越えたのである。商品の輸送はますます安くなる。その
 運賃低下を決定的に押し進めた要因は、汽船の広範な普及に加え、世界規模で海底電線が
 張り巡らされたことにある。
  海底電線ケーブル敷設に、ブルーネルのグレート・イースタン号が全面的に参画し、ヴィクトリ
 ア女王戴冠50年祭までに、敷設距離は100,000マイルに及んでいた。世界規模の電信網は売り
 買いの技法を変革し、交易の流れを平均化し、定常化した。それに伴って、船は必要とされ
 た、そのときどきに雇われるという、一生をたどることになった。
  当時のイギリスが、どのような根拠から、特別の地位をえたかはすでに示した通りである。植
 民地と東方との交易によって刺激された工業化がイギリスを首位に引き上げたが、それは自
 国にある動力資源、特に石炭を強固な基盤としていた。工業化、さらに農業や医学の進歩の
 結果として、植民地への移民の広がりに関わらず、連合帝国の人口は急速に増加した。19世
 紀前半に2倍強、19世紀後半に2倍弱増加した。これらの要因はあることに影響を及ぼした。
 連合帝国の人口が増加し、急激に都市市民になるにつれ、食料、タバコ、そして工業原材料
 への需要また増大していった。
  そうした輸入品の多くは、植民地や元植民地地域を発達させてきた移民が供給していた。こ
 れら輸入品は工業製品や石炭の輸出によって支払われた。1865-94年にかけ、アメリカへの
 移民は、イギリスだけで毎年平均119,000人を数え、さらにドイツは107,000人を送り込んでい
 た。
  これら―輸入、輸出、そして移民―すべてが、船舶、造船所、修理施設、そして発達した港を
 必要とした。これらの活動の結果として、産業と交易はいままで以上に発達していった。1889
 年、イギリスは外国人の勘定で、182,331トンの鉄船と鋼船を建造していた。
  イギリス帝国は、1850年から1910年のあいだに、領土450万平方マイル、人口16,000万人か
 ら、領土1,150万平方マイル、人口42,000万人に拡大させた。1884-89年に設立された特許会社
 ―北ボルネオ会社、王立ニジール会社、イギリス帝国東アフリカ会社、そしてイギリス西アフリ
 カ会社―は、国王が自ら広大な新しい領土を引き受けたことを契機にしてすべて廃止された。
 1884-99年間、400万平方マイルがイギリスの領土となり、その他多くの土地が「勢力範囲」に入
 った。
  当時、自分の国のために新しい植民地や勢力範囲を切り開いていたのは、イギリスだけで
 はない。フランスはヨーロッパでドイツに敗けた後、外にはけ口を求めていた。ドイツ人は1880
 年代外国に関心を持っており、ロシア、日本、イタリー、そしてアメリカが、それに追随してい
 た。これら外国権力が横領した領土は、イギリスの障壁として立ちふさがり、競争の種となっ
 た。1890年以後特にその障壁が強力となり、その種が育っていった。
  アメリカ船は強力な競争相手であったが、1870年のアメリカ汽船の合計トン数はイギリスの
 20パーセント弱、200,000トンに過ぎなかった。ただ、そのトン数は外航登録船のみである。アメリカ
 船は高度な運輸政策に依存しており、イギリスの鉄板や鋼板を買う必要がなかった。アメリカ
 の金属精練業はそれら金属板を安く生産していた。1890年、アメリカの外航船登録の汽船は
 1870年の数値より増加しなかった。
  1830年代、アメリカの海外交易の約90パーセントがアメリカ船によって輸送されていたが、1890
 年になるとその比率は9パーセントに落ち込んだ。1870年代、アメリカの軟材帆船は、イギリスの
 帆船がより大きな貨物容積を持ちまたより経済的な帆装プランを施していた。スピードは重要
 でなかったとはいえ、手強い競争者であったことに変わりはない。
◆無線電信の開設、船長の役割の変化◆
 船主と荷主の仲介者として活動する真正な船舶仲買人や、主要な外国や植民地にいる多く
 の仲買人あるいは代理人、大手荷主の事務所とのあいだは、すべて無線電信によって連絡す
 ることができるようになり、貨物の確保に関して船長が関与する度合はますます少なくなった。
 帆船の船長が入港しても、もはや貨物を確保する必要がなくなり、それを経済的に積み付け、
 旅客を楽しませることが仕事になっていった。ライトニング号の船長エンライトは特に旅客を喜
 ばせることが得意で、報酬として、年間1,000ポンドを要求し、受け取っていた。
  船内への注意深い積み付けは、その船の積み込み量を増加させたばかりか、クリッパーの
 スピードにも良い影響をもたらした。羊毛といった貨物を船倉に詰め込む際、十分注意を払う
 ことによって、カティ・サーク号963トンの船長ウッドゲットは積み込み量を4,289バレルから5,304バ
 レルに増加させている。メルメルス号1,651トンは10,000バレル、すなわち羊100万頭から刈り取った
 羊毛、130,000ポンド相当を運ぶよう指示されていた。それら貨物の運賃として、船主は5,000ポ
 ンド受け取っていた。
  帆船の終焉時、その運航を維持しようとして、帆船の船長は節約をこれ勤めざるをえず、そ
 の責任は汽船の船長よりはるかに重かった。軽風時には、その船に「幽霊のように潜んでい
 る」能力を引き出すことが、重要となった。また、強風時には、「悪漢」船長ウォターマンが行っ
 たように、鉄の神経でもって「疾走する」必要があった。あるいは、サー・ランセロット号の船長
 ロビンソンのように、その場所がはっきりしない暗礁や小島がある東方の海をもろともせず、
 直進する必要があった。
◆移民船二等旅客のサムスの証言◆
 船の補助機関として、帆装と機関を結び付ける試みは、他の領域でも失敗に終わる。オース
 トラリアへの移民交易でも試されていた。ヨセフ・サムスは、1874年、ロンドン・ブラックワルのモ
 ネー・ウィグラム・アンド・スン社が所有するノザーバーランド号に乗船し、航海収支書を残して
 いる。その船は2,170トンで、300馬力の蒸気機関を据え付け、帆走時、10.5ノットを出す力があっ
 た。セールは軽風時に張られ、スクリューは引き上げられ、また取り入れ式の煙突は下げら
 れ、何はともあれ8ノットで帆走した。
  この船は、悪天候時はともかく、帆走しているときは、特に快適であった。悪天候時は、海水
 が甲板を行き来し、船内まで入り込んだので、その船は「湿っぽく」なった。その船は外界を監
 視できず、また灯火も点けられず、ただ走るしかないような、低温の南太平洋であっても、蒸気
 機関が稼働していたので、旅客たちは暖かくしておれた。それ以後でも、帆船では暖を取るも
 のはなかった。
  悪天候時、船首部に入れられた200以上の三等旅客は閉じ込められ、不愉快な目にあって
 いた。そうしたときの旅客には非常用食品が配られ、自分たち用の「調理場」で食事を準備して
 いた。サムスは、76人の二等旅客と一緒に旅行していたが、居住区は船中央部にあり、サロ
 ンで食事をしていた。船尾部には85人の一等旅客がおり、かれによれば「闘鶏」ような生活をし
 ていたという。その航海の三等旅客は主として「下層階級」のドイツ人であった。二等旅客は主
 として「中間階級」のイギリス人であり、かれらにはママレードのようなかれらが好む贅沢品を、
 船から支給されていた。船首部には、従来通りの飼育場があり、牛2匹、豚数匹、カモ、ガチョ
 ウ、アヒル、そして羊などが、「ごちゃごちゃ」と積まれていた。
  サムスは、旅客仲間と同じように、2フィートと6フィート角の寝台で寝ていた。寝所は3段になって
 おり、その1段目は甲板上に置かれ、他の寝台はその上に置かれていた。かれは暑くなると甲
 板上に出て寝ていた。また、5回食事していた。甲板と甲板のあいだは禁煙であった。かれが
 使っていた喫煙室は、嵐でこなごなとなっている。それも災難の一つであった。士官たちは旅
 客同士の喧嘩に関わらなかった。退屈が一連のとんでもない「ばか騒ぎ」や悪ふざけを呼び起
 こした。その一方、素人芝居やその他の余興が催された。
  船は、旅客6人の「食卓仲間」を作り、基本食事を提供していたが、政府の助成金を受け取っ
 ている移民たちは、必要に応じ、ナイフ、フォーク、ティスプーン、テーブルスプーン、白ろうのプ
 レート、1パイントのコップ、吊るせるポット、肉を載せる皿、水飲みコップ、洗面器、洗濯用たわ
 し、粉袋、バス砥石、サンドペイパー2枚、目の粗いキャンバスの前掛け、ハンマーと釘1袋、
 (小さな穴を開ける)「手きり」、「海水用セッケン」、そして長いつりひもとバックルを持参するよう
 言い渡されていた。
  なお、「寝台」を1週間に2度、天日や空気にほすことが認められていた。それに加え半ガロンの
 砂が手渡されていた。それは、熱して寝所を乾かすのに用いられ、それが湿ればまた乾かして
 使われた。キャベツ入れの網袋も手渡されていたとみられ、それに洗濯した衣類を乾かすた
 め入れ、吊るしていた。初期の移民にあっては、水が不足していたため、船内での洗濯は禁止
 されていた。他の多くの船と同じように、ノザーバーランド号でもなんきん虫やネズミは繁殖して
 おり、サムスも例外ではなかった。
  1880年代、このノザーバーランド号はサヴィル社のショウが所有され、帆船に戻されている。
◆三段膨張機関、鋼管ボイラーの採用◆
 当時、さらなる前進が汽船に起きていた。その前進は、ジーメンス製の鋼管をボイラーの組
 み立てに使えるようになったことである。その採用によって、ほぼ1878年以後、ボイラーは高圧
 力でも容易かつ安全に動かすことができるようになった。主だった発達の流れは熱効率を引き
 上げ、したがって燃料消費量を少なくすることにあった。1862年以後のエルダー式ボイラーに
 みられた箱形は、高圧力に耐えうるよう設計された、円筒形の外形と炎管に取って代わられ
 た。この「スコッチ」ボイラーは、商船の最も普通のボイラーとなっていった。立方インチ当たり80
 ポンドという圧力は、膨張機関に使う場合、強力で信頼できる、適切な圧力であり、しかも帆船
 の最後の世代と取って代わりつつあった、長距離輸送の貨物汽船にとって理想的であった。
  1881年、アバディーンのジョージ・トンプソン社は、グラスゴーのロバート・ネイピア兄弟社か
 ら、オーストラリア移民交易に使う3,616総トンのある船を委託されている。その船はアレクサン
 ダー・カーク社製の三段膨張機関を据え付けていた。その汽船は、ジーメンス製鋼管ボイラー
 によって動かされており、それまで非実用的とみなされていた125ポンドという圧力の蒸気が、い
 まや高圧、中圧、そして低圧という三段階膨張のために使用されていた。そのアバディーン号
 は成功を収め、何千隻もの同形船が次の半世紀、建造されるようになった。その処女航海の
 燃料消費量は1時間馬力当たり1.25ポンド以下であることが解った。
  こうした動力機関の発達とともに、15,000トン以上の船の建造も経済的に可能な計画となっ
 た。こうした汽船の進水は大型帆船に引導を渡すことになった。汽船による帆船の駆逐はさら
 に約20年間も要した。20世紀に入ると、旅客船が航空機によって取って代わられる。造船業が
 ロンドンの棺桶船にとどめを刺すことになった。というのは、テムズ川は大型船の建造に適さな
 くなったからである。
  ダンバートンのウィリアム・デニー[1847-87、造船家]は、大型の商船の船体に鋼板の導入に
 当たって、最も貢献した人物であった。1879年、かれはニュージーランドのユニオン・スティー
 ム社から発注された、ロトマハナ号を鋼製の外板で建造している。2年後、キュナード社は鋼製
 の定期船セルビア号を船隊に投入している。この船は最初に船内照明を施した船として知ら
 れている。ロイアル・メール社のオリノコ号は、1886年グリーノックのケアード造船所で進水、建
 造されているが、三段膨張機関を据え付けた、トーマス初期の旅客定期船の1隻であった。ト
 ーマス・イズメイのホワイト・ラインズ社は、そうした船を2隻クライド川も浅瀬で建造し、1888年
 から大西洋交易に使っている。これらシティ・オブ・ニューヨーク号とシティ・オブ・パリ号はいず
 れも10,000トン以上あり、二軸スクリューを備え、19ノットのスピードを達成していた。三段膨張機
 関を据え付けた船は192ポンドの圧力を上げていた。
  蒸気機関とプロペラは、当時すでに確実な設備になっていたので補助帆装と索具は放棄さ
 れ、そして汽船の設計も帆船とは別のものになっていった。二軸スクリュー装置はどちらかの
 蒸気機関が故障しても、ばたばたしないでおれることを意味した。
◆不定期船とそれを所有する一杯船主◆
 繁栄が強まる時代に際して、トーマス・イズメイはリバプール−ニューヨーク間の輸送のうち
 利益が上がるのは、次第に増加しつつあった豪華客船と判断していた。帆船時代の慣行にし
 たがって、高い運賃を支払う旅客は船尾に居住していた。そうした慣行は乗組員にとっては好
 ましいものではなかった。旅客船の最良の居住区は船中央部にあることがようやく解り始め
 た。
  スエズ運河の開通、新世界とイギリスの対蹠地の急激な発達、そして船舶用機関の改良が、
 すべてイギリスの不定期船の急速な発達を促進した要因だった。不定期船の活動は、1870年
 から第一次世界大戦まで、年率7パーセントで増加した。それにウェールズのボイラー用石炭を使
 いたいという需要は強まった。1870年代以降、カーデフの船主は高い度合で不定期船を買い
 始め、石炭を持ち出し、黒海または大西洋の対岸から、穀物を持ち帰るようになった。この交
 易が、60年間、イギリスの不定期船活動の骨格となった。
  船を64に分けて販売し、資本を集める古くからの方法が、新しい株式資本の法制の規定に
 基づき、再び採用されることとなった。それによって、一杯船主の会社が設立される。それら会
 社の多くはおおむね共同管理の下の置かれた。一杯船主の効果は、衝突といった事件から生
 じる、海事訴訟の負担を減らすことにあった。特に、船価の安い船がそれの高い船に、法外な
 損害を押し付けることができた。
  カーデフのトーマス・ラドクリフ社は、64分割で資本を集めたが、他の船主と同じように、それ
 ぞれの船を一つの株式会社で財務管理することにしている。この会社は汽船から帆装を外し
 た最初の一社であり、必要であるが余分な船具を減らし、船の横揺れを減らした会社でもあっ
 た。
◆スコットランド人と海運起業家の時代◆
 海運起業家があふれ出た時代であった−ホルト、ランシマン、マッカイ、スワィア、ブース
 [1840-1916、社会改良家]等々、かれらは資本や取引の関係から家族になっていた。あるもの
 は東インド会社での勤務から東方を経験しており、その動向に注意を払っていた。その多くが
 スコットランド出身であった。貧乏人出もいた。
  後者の一人であるアルフレッド・ジョーンズは後にナイトに叙せられている。かれは、1859年
 14歳のときキャビン・ボーイとなり、アフリカン・スティーム社に雇われ、海上に出ている。1884
 年、エルダー・デンプスター社の筆頭共同出資者になり、かれは比較的小さな海運代理店であ
 ったその会社を、西アフリカ向け海運を初め、その交易や経済の多くの面を統制する、唯一の
 企業に変身させている。
  他の一人がドナルド・クリーエ[1825-1909、自由党下院議員]であるが、かれもナイトに叙せら
 れている。散髪屋の子供で、最初グリーノックで船舶事務員として雇われている。1860年代鉄
 製帆船を使って、カルカッタ交易に参入している。1872年には、汽船2隻を保有して、南アフリカ
 交易に転身し、郵便契約という援助を受けようになり、また連隊、政府貨物や身元保証付き移
 民を輸送するようになった。さらにカッスル・ライン社の設立者ともなる。かれのライバルである
 ユニオン社と同じように、1883年以後三段膨張機関を採用している。1900年には、ライバル会
 社と合併し、カッスル・ユニオン社となっている。
  クリーエは、一族と同じように道徳的とはいえない方法でもって、しこたま儲けていた。かれの
 自叙伝によれば、かれは「レッセ・フェイルの精神に強固に裏付けられて、個人的な利益を
 華々しく追求し」、さらに「法律に抜け道を見つけ、株式所有者の愚直さに依存し、提携によっ
 て力をつけ、そして王室との結び付きことによって、記念碑」を打ち立てたといっている。
 王室とスコットランド人とのあいだには、家族としての結び付きは存在しなかったが、それを確
 立したのがインチケープ・グループ、マッカイ一家、マッキノン一家であった。かれらはブリティッ
 シュ・インディア・スティーム・ナビゲーッション社とそれに関係する代理店を設立し、ボンベイ、
 カルカッタ、その他インドの港と交易していたが、アラビア海やオーストラリアにも広げていっ
 た。
  [ダヴィット・]リビングストン[1813-73、スコットランド人、宣教師、探検家]の遠征時、[リチャー
 ド・フランシス・]バートン[卿、1821-90、探検家、外交官、千一夜物語の訳者]と[ジョン・ハニン
 グ・]スピーク[1827−64、探検家]は、東アフリカの中央部における可能性について注意を促し
 ている。そして、1872年ブリティッシュ・インディア・スティーム・ナビゲーッション社と契約を結び、
 アデンとジブラルタル間の郵便サービスの開設を取り付けている。
  ブリティッシュ・インディア・スティーム・ナビゲーッション社の従業員の一員であったチャール
 ズ・カイザーは、ロンドンのデボン州倉庫で生まれた後、グラスゴーに行っていろいろな仕事を
 している。そして、フィンレー社のジョン・ムーアや造船業者アレクサンダー・ステファンといった
 地方事業家の援助を受け、1878年汽船クラン・アルペン号を進水させている。1916年、チャー
 ルズ卿が死んだとき、そのクラン・ライン社は6隻を保有し、1930年代にはその会社は貨物輸
 送のみを行う世界最大の船隊を保有していた。
◆東アジア交易をめぐる会社の勢揃い◆
 極東交易では、スエズ運河がそのルートに使える船のサイズを制限していたが、旅客の数は
 大西洋用に建造された定期船と遜色なかった。1872年、P&O社が約3,500トンの新造船4隻を
 用いて、スエズ運河経由、中国向けの継続輸送を提供している。このサイズ船の第一船として
 ヒマラヤ号が1853年就航し、そのルートに使われるようになった。スエズ運河の開通はP&O社
 に逆効果となった。そのルートの競争が激しくなるにつれ、旅客運賃、貨物運賃ともに低下し、
 後者は1トン当たり20ポンドから3ポンドになった。競争会社は、乗り換え方式を採用し、またホテ
 ルや陸上輸送を運営していたため、資本金を食い潰し、潰れてしまう。運河の運営が始まって
 最初の10年で、P&O社の年間運賃収入は700,000ポンドまで減少し、東方交易は世紀末まで船
 腹過剰となった。
  P&O社は、創設期の優勢を再び享受することはなくなったが、トーマス・サザーランドが徐々
 に東方交易において支配的な地位を回復させる。P&O社やその他の関連会社は、大西洋で
 運航している会社より革新的であったというわけではない。例えば、P&O社は、20世紀に入っ
 ても、二軸スクリューを自社船に採用することがなかった。
  また、1870年代中、それらの船は、ろうそくの明かりを専ら使用し続けていた。1878年になっ
 て、4,000トン以上もあるカイザー・イ・ハインド(エンプレス・オブ・インディア)号が建造されたとき、
 P&O社はようやく客室用電気ベル、冷房機械、そして振り子式オイル・ランプを採用して、豪華
 絢爛への最初のステップを踏んでいる。1880年代、旅客船の居住設備のさらなる改善が行わ
 れ、音楽室や喫煙室が設置された。1881年までに、P&O社は5,000トン以上の船を建造しなか
 った。3年後、電気灯がチュウサン号に導入され、またヴィクトリア在位とP&O社の50年祭の
 1887年には約6,500トンの汽船を4隻建造している。
  他の分野と同じように、海運も1870年と1890年とのあいだは、好況と不況とが交錯した。東
 方へのルートはあまねく広がり、交易量も急激に増加した。キュナード社、ホワイト・スター社、
 アンカー・ライン社、P&O社、ロイアル・メール社、ブリティッシュ・インディア社、そしてパシフィッ
 ク・スティーム社はパナマ地峡を横断する連絡鉄道を設立し、世界に広がるサービスを提供す
 る、華麗な定期旅客船を抱える会社となった。1875年、アルフレッド・ホルトのブルー・ファンネ
 ル・ライン社はスエズ運河経由で中国に向う船を14隻運航していた。それらは、往航55日、復
 航60日であった。
  10年して、ブルー・ファンネル・ライン社はそのルートを[サウジ・アラビアの]ジェッダや日本に
 広げ、寄港地の数を大幅に増やしている。ホルトは海運子会社を2社作っているが、その一つ
 は北スマトラのタバコを積み、もう一つはバンコックで米を積んでいた。ホルトのオーシャン・ス
 テームシップ社の、当初の出資者であったジョン・スワィアは事務所を開設し、ホルトの船を管
 理するエージェントを引き受けている。
  1872年、ジョン・スワィアは中国航海会社を設立し、小型汽船で長江を溯航し始めたのを皮
 切りに、オーストラリアにも交易を広げている。シンガポールにおけるブルー・ファンネル・ライン
 社のエージェントはウォルター・マンスフィールドであり、その会社は仕事をマレー半島や東イン
 ド全体に業務を広げていた。ブリティッシュ・インディア汽船航海会社とP&O社とが競り合って
 いたが、両社はインドのマッケンジーにいたマックノンなどを代理人にしていた。また、オーシャ
 ン・ステームシップ社、バターフィールド・アンド・スワィア社、そしてマンスフィールド社とは競り合
 いながら、極東で活躍していった。
  3年間、インドやセイロンからの茶が中国の茶より、イギリスで好まれるようになった。それを
 手掛けたのがリバプールのハリソンたちであった。T.ハリソンとJ.ハリソンは、ヨーロッパの海
 岸でワインやブランデーを商っていたが、さらにその仕事を[ルイジアナ州の]ニューオーリンズ
 や西インド諸島から中国、インド、そしてセイロンに広げていった。西インド諸島の労働力を補
 うため、「苦力」(cooly)を帆船に乗せ、カルカッタから運んで来ていた。
◆世界最初の定期船同盟の結成◆
 1850年という早い時期に、いくつかの汽船会社が最低運賃率を協定していた。1869年、北大
 西洋関係の全社が加わった汽船同盟conferenceが結成され、2年後同様の同盟が南アメリカ
 関係会社によって結成される。インドにおける猛烈な競争が、1875年カルカッタへの交易を統
 制する、最初の定期船同盟を設立させる。直ちに、その交易に従事している船社は共通運賃
 を設定し、荷主が同盟船を使用するよう仕向けるため、運賃延べ戻しdeferred rebateシステム
 を導入している。
  1870年代は海運にとって、運賃の低下、厳しい財務の逼迫、倒産など、苦しい時代であっ
 た。ジョン・サミュエル・スワィアはカルカッタ同盟の発足時、賛助会員であったが、1879年最初
 の中国同盟にあってはその首謀者となっていた。後者は、オーシャン・ステームシップシップ
 社、P&O社、かれらのライバルであるフランス郵船会社、そしてグラスゴーのグレン・ライン社、
 カッスル・ライン社が協定していた。それらの会社は、極東に快速でより現代的な船を投入して
 いた。1886年まで、同盟システムは海運の危機を防ぐ目的を担って、オーストラリアや南アフリ
 カにも普及していった。
  当時、汽船の貨物容積は大型帆船よりも小さかった。その証拠に、P&O社の2隻の新造汽
 船は純然かつ単純な貨物船であるといった記述が、当時みられた。地中海交易では、こうした
 タイプの船がすでに当たり前になっていた。その1隻の総トン数は3,052トンであったが、燃料を
 除き、4,800トンの貨物を輸送していた。
  1879年、グラスゴーのJ.& A.アレン社が所有するサーカシアン号が、初めてアメリカからイギ
 リスに、機械が冷却あるいは冷凍した牛肉貨物を持ち帰っている。それは電気の商業利用の
 あらわれであった。オーストラリアからの最初の委託貨物が、1880年ストラスレバン号に積ま
 れ、ロンドンに着いている。2年後、アルビオン・ライン社―同社は、その年ショウ・サヴィルと合
 併し、ショウ・サヴィル・アンド・アルビオン社となる―が、ニュージーランドの冷凍貨物を帆船ダ
 ネディン号に乗せ、持ち帰っている。ニュージーランド海運会社がニュージーランドの冷凍の
 魚、家禽類、そして猟鳥を、帆船マタウラ号に積んでいる。
  1884年、[アルゼンチン最南部リオ・デ・ラ・]プラタ川からの最初の冷凍牛肉がホウルダー兄
 弟の汽船ミーズ号に積まれ、着いている。1890年、南アフリカの生鮮果実の輸出が始まる。シ
 ョウ・サヴィル・アンド・アルビオン社は、イングランドとニュージーランドとを、汽船で直航する航
 路を維持するため補助金を受け、有利であったが、帆船だけの船隊を放棄することができな
 いでいた。その会社の最後の帆船ヒネモア号2,283トンは、1913年まで売却されなかった。
  電気の海上への到来は、船内火災を著しく減少させたし、居室や公室の電気照明に加え、
 電気ファンが使えるようになった。冷凍機の導入によって家畜を様々に利用できるようにした。
 それによって、旅客船に作られていた「飼育場」は必要でなくなったばかりか、長距離航海にお
 ける皮革や羊毛、角、そして骨付き肉をめぐるやっかいな問題はもはやなくなった。冷凍の費
 用はわずかであることは解っていたが、断熱材料を張る必要があったため、かなりのカーゴ・
 スペースを犠牲にしなければならなかった。
◆オイルの樽詰め輸送からタンカー輸送へ◆
 何隻かの兼用船を経験した後、1880年代、特別仕様の最初のタンク汽船あるいたタンカー
 が登場する。1886年、グリュックアフ号2,300トンがニューカッスル・アポン・タインで建造される。
 その船はオイルを2,600トン運ぶ能力があった。当初、オイルは40ガロン入りの樽―パラフィンの
 樽―に入れ、運ばれていた。しかし、それではカーゴ・スペースの3分の1が積み付けられず空
 所となるため、不経済であった。4ガロン入りの四角い容器が採用され、その容器は他の用途に
 も広く使用されたので評判が良かった。それを運ぶ汽船は第一次世界大戦まで建造され続け
 た。
  その一方、オイルを船殻に入れて運ぶことができれば、さらに経済的なことが解っていた。
 [テムズ川河口の]テムズヘイブンのようなオイル貯蔵所に、缶入りオイルを1,700トン荷下ろしす
 るのに4日間もかかったが、船倉に入れて運び、荷下ろしすればわずか6時間ですんだ。それ
 でも船倉輸送には問題があった。温度が上昇すると、それが原因でオイルが膨張し、その膨
 張を考慮に入れてタンカーを設計する必要があった。オイルの漏洩を防ぐには、タンクを注意
 深く鋲打ちし、詰め物する必要があった。そして、火災の危険はいつも付きまとった。それが動
 力機やボイラーを船尾に据え付け、ボイラーと油槽のあいだを二重壁で仕切らせることになっ
 た。
  タンカーは、長期的には旅客船より重要性を強めるが、短期的にはそれは特殊な貨物汽船
 でしかなかった。石炭を積むための給炭地が世界に広く設置されると、すぐさま貨物汽船は帆
 船を一挙に抜いてしまい、不定期船にあっても小麦や綿花といった季節貨物を運べるようにな
 リ、また定期船が無視していた港もサービスを提供するようになった。鉄鉱石や石炭、木材と
 いったバルク貨物を運んでいた、不定期汽船の船主にとって手の込んだ組織などは必要では
 なく、一杯船主でもやっていけた。
  船の用船業務は、1883年以前にあってもボルチック・コーヒー・ハウスで十分、組織的に行わ
 れていた。その年、ボルチック取引所が、不定期船の用船とバルク貨物の輸送に取り扱う、主
 要な世界センターとなる。不定期船の船主は、どこの港にいても、船長と電信ケーブルで連絡
 できるようになったので、自分の裁量を発揮できるようになった。贅沢といわれた商品も必要と
 考えられるようになり、生活水準もすべての国々で向上し、さらに貨物汽船のおかげで、今日
 につながる都市文明化が可能となった。
  汽船は帆船より、安全性、堪航性があることが解った。ある王立委員会は、1856年から1872
 年までイギリス船のあらゆる種類の損失を点検し、もはや不堪航性がその損失の主たる原因
 ではないと結論づけた。その王立委員会によれば、すべての損失原因の65パーセントは船員の
 泥酔、無知、あるいは不適性、30.5パーセントは天候の急変とその他不可抗力にあり、そしてわ
 ずか4.5パーセントが船の不堪航性と設備の貧困が寄与していたという。しかし、汽船は帆船より
 堪航性があったとはいえ、海上での人命損失を増加させた。事実、溺死や災害による死亡数
 は、1870年までの50年間に、2倍も増加した。過積載船あるいはいわゆる「棺桶」船を押さえつ
 けるため、強制喫水線を採用せよというキャンペーンが始まった。
  1872年から1884年にかけ、年間平均3,000人が溺死や災害で死亡していた。1865年、2,259
 人が病気で死んでいるが、その犯人はコレラ、赤痢、黄熱病、その他不特定の「熱病」であっ
 た。この数値には上陸後死んだものは含まれていない。外航船に従事していた多くの船員は、
 40歳にもなれば、病人であった。壊血病はいまなお船員に襲いかかっていたし、1873年以後
 の10年間は増加さえした。
  1870年、イギリス商船隊に勤務する船員数は、200,000人以上と見積もられている。1891年、
 5年毎のセンサスによれば173,000人、そのうちラスカルは21,000人、外国人は24,000人であっ
 た。後者の数値には休暇中の船員は含まれていない。それら数値に死亡率を付け加えるとす
 れば、1,000人当たりの溺死や災害による年間死亡率はおよそ11人、そしてすべての原因を入
 れれば23人となる。その率は、1世紀後の18倍以上であった。
◆プリムゾルの活躍、強制喫水線への道◆
 勿論、すべての船主が棺桶船を走らせていたわけではない。サミュエル・プリムゾル[1824−
 98]が棺桶船を広範に告発する声を上げていた時、キュナード社は30年間の北大西洋の横断
 において発生した災難で、だれ一人、命を失ったものはいないと主張していた。1873年、プリム
 ゾルは人々に影響を及ぼした『わが船員』を発行した。アバディーン・ホワイト・スター・ライン社
 は素晴らしい新造羊毛クリッパーに、かれに敬意を表してサミュエル・プリムゾル号と命名し、
 さらにかれの彫像を船首像に掲げた。タインサイドのジェームズ・ホールは、先頭になって、過
 積載船を法的に抑制しようとしていた。1870年、船員に呼び掛けるよう、プリムゾルを促したの
 が、ホールであった。
  プリムゾルは、石炭をロンドンに鉄道で輸送して金儲けし、1868年議会の急進党下院議員に
 なった。1870年、法律でもって、船舶の喪失を減少させるため、普通の言葉で書かれた決議案
 を提案している。それは、特に喫水線の強制とすべての船舶の検査を要求していた。1871年
 海運法は喫水を示す目盛りを、すべての船が船首と船尾に付けるよう求めた。また、1872年
 商務省法は、過積載または不当積み付けがある場合、出港停止命令を出せる法的権限を付
 与した。
  この法的規制の結果として、1870-1872年間、2,287人の船員が14日から3か月の期間、自分
 たちの船の不堪航性を通報したり、また商務省検査を要求したとして入獄させられている。『わ
 が船員』が効果を示し、1876年新しい海運法はすべてのイギリスの外航船船主に、満載喫水
 線を船のサイドに書き入れることを強制とした。しかし、不幸なことに、この規制は特別の効果
 を上げなかった。それは、喫水線を書き入れる場所を、船主またはその代理人が決めること
 を認めていたからである。
  1882年、ロイズ船級協会が、科学的な喫水線を確立する手助けとして、一連の浮力表を刊
 行している。1890年には、商務省の承認を受けて、二つの船級団体(1870年ロイズ船級協会は
 法人組織となり、また1890年グラスゴーでイギリス船舶検査船級協会が設立される)がイギリス
 船に喫水線を記入する仕事を引き受ける。甲板上の過積載の問題は、20世紀初めまで残っ
 た。
◆ウィルソン、水火夫合同全国組合の結成◆
 善良な船員は容易には手に入らなかった。1874年、不堪航性に関する王立委員会に提出さ
 れた証拠によれば、ランパート・アンド・ホルト社のランパートは汽船の様子について次のように
 いっている。「わが社やリバプールの多くの大型汽船の船主たちは、自分たちの船を川に入
 れ、24時間ほど錨地で停泊させ、乗組員の酔いがさめるのを待たねばならなかった」。大型帆
 船では、乗組員がサンフランシスコでしばしば脱走した。そのため、船長は船員斡旋業者か
 ら、「札付き」の乗組員を供給してもらうしかなかった。
  そうした乗組員は、士官でさえ、容易には管理できなかった。水夫は、食べられそうにない食
 品を投げ付け、「これを見な」という。それに答えて、士官は水夫の眉間に一発お見舞いし、
 「あれを見な」といっている。
  競争は多くの帆船船主に、乗組員の削減を強要した。例えば、1867年ソブラオン号は2,131ト
 ン、3本マストの全帆装帆船で、乗組員は69人であったが、同様の帆装のまま、その船の乗組
 員は1890年には59人となっている。そうした船で働くことは危険極まりなかった。ある船員によ
 れば、少年は使い捨てであったという。船長は、少年が海中に転落しても、回頭しようとしなか
 った。そうしたイギリス帆船における食事も決まって悪かった。
  多数の船員を改善しょうという政府の努力が、船員自らが自らを改善しようという努力を呼び
 起こした。1851年のペニー・ユニオン以後、その他の港で労働組合が結成され、また解散して
 いた。1879年、サンダーランドで、北インランド水夫・外航火夫友愛組合あるいはサンダーラン
 ド船員組合が結成される。そのころまでに、汽船の火夫は船員数の約半数になっていた。
  その組合員の一人にジェームズ・ハベロック・ウィルソン[1859-1929、自由党下院議員]がい
 た。若いとき、海上に出ていた後、サンフランシスコで船員周旋業者の手にかかった経験があ
 った。また、オーストラリア海岸で、船員組合と接触を持った。かれは結婚後、陸に上がり、レ
 ストランを始めるとともに、北方の港に組合支部を広げていった。1887年、イギリス・アイルラン
 ド水火夫全国合同組合を結成し、1889年には間違いなく誇張されているが、組合員65,000人、
 支部60港を擁していると主張していた。
  当時、イギリスの有能船員は月45-55シリング、火夫は50-60シリングで雇われていた。ほとんど
 の船員の労働時間は週84時間であり、船内居住設備は貧弱であった。船員ホームの数が増
 加したが、船員周旋業は活発であった。商務大臣であったヨセフ・チャンバレン[1830-1914]
 は、1880年水夫の「前渡し金証」を廃止したが、それは実際の役に立たなかった。サムスは、ノ
 ーザンバーランド号はその時代の他の多くの船と同じように、乗組員が死ぬと、水夫たちは「死
 んだ馬のように焼かれた」。かれらは働いて前渡し金を返しても、賃金を手にするためにもう一
 度働かねばならなかったという。
◆P&O社、1880年代に三直制を採用◆
 極東交易に携わるP&O社などの会社の士官は、すでに1世紀以上にもわたって、ラスカル乗
 組員とともに何事もなく働いていた。しかし、士官たちがかれら船員と直接、接触することはほ
 とんどなかった。その命令は、英語を少々話す、「インド人頭serang」あるいは準士官を通じて
 伝えられた。船主にとって、ラスカル人は極安の労働力であった。そうした船の多くの機関部の
 一般船員は、最初、「こすっからい奴seedy」と呼ばれた東アフリカの黒人であったが、ラスカル
 人が次第に多くなっていった。
  1875年、ある有力な定期船は、石炭繰出夫と火夫35人、それに加えインド人頭2人、潮見係2
 人、グリス係3人、ランプ係、インド人コック、そして小僧[といったラスカル人]を乗せていた。か
 れらを5人のイギリス機関部士官が監督していた。機関部士官の数は増加する傾向にあった。
 特に、P&O社の船は一般に良く統率されていた。その初期の2,000トン以下の船は一等航海
 士、二等航海士、三等航海士、四等航海士、五等航海士を乗せ、1870年代の4,000トンの船で
 は、それに加え員外二等航海士がいた。1880年代、1世紀後になって当たり前となる、三直制
 [週56時間制]がP&O社船では標準勤務体制となった。
  P&O社の船長は月25ポンドの賃金をえていたが、自分の勘定で交易して、何がしかを稼いで
 いた。しかし、東インド会社で働くことで「一財産をなしたネイボップ[インド成り金nabob]が出た
 時代は、とうに去っていた。黒海に従事する汽船の船長は月20ポンド、外航船の船長は月15ポ
 ンドの賃金であった。1日分の食料金として、船長が士官に3シリング、その他に1シリング9ペンスあて
 使うことを認められていた。
  十分な数の船員を船内に引き入れることは困難であった。それでも、当時、一般船員の訓練
 が隆盛を極めつつあった。そのなかには非行少年向けに設立された施設もあった。1856−
 1895年にかけ、19隻の訓練船が設立されたが、その内訳は治安判事の命令で送られて来た
 少年を入れる「矯正」船3隻、「業界設立」の訓練船11隻、そして被救護少年や救貧志願者用の
 訓練船5隻となっていた。年間10,000人以上の一般船員を必要としていたが、それらの訓練船
 は海上に同時に1,000人弱を供給するにとどまった。航海が性にあっていなかったため、そうし
 た船員の質は悪かった。
  サムスによれば、ノーザンバーランド号では士官が先頭になって縮帆する索具に取り付いて
 いた。ある水夫が規則に違反して、甲板のあいだで喫煙していたところを見つかり、それをや
 めさせようとした二等航海士と喧嘩沙汰を起こしていたという。それでもノーザンバーランド号
 の航海は順調であり、その配乗は良かった。その一般の乗組員は38人であり、それに以外に
 大工、パン焼き人、肉料理係、飼育係がおり、また士官とは別の、数人の士官候補生を乗せ
 ていた。その船の水夫は平均以上であったとみられる。
  海運の波の頂点に直面して、多くの船主は大変な個人的な幸運に恵まれ、その後1世紀に
 わたり、イギリス海運を統制する王朝を築いた。しかし、かれらが、自分たちの船に配乗された
 人々の訓練や福祉に使ったものは、ほんのわずかであった。かれらは新しくできた船員組合
 と、激しく渡り合うのである。

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