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フェニキア・ギリシアと交易離散共同体
Phoenician or Greece and the Diaspora Trading Community

▼ギリシア人は根っからの海洋民族だという非常識▼
 「ギリシア民族は海洋民族であり、ローマ人は陸地民族である」という常識について、ジャン・ルージュ氏はギリシア人をそう仕向けたのは「ギリシア国土の性質に由来する経済的条件」であり、心ならずも船乗りになったにすぎない。かれらは「心の底では、ローマ人と同じくらい深く、陸地民族なのである」。そのことは、ヘシオドスやクセノフォンの農業への賞賛と航海への黙秘をみれば十分であるという(同著、酒井傳六訳『古代の船と船員』、p.11、法政大学出版局、1982(1975))。いずれにしても陸地民族だという結論はよいとしても、ギリシア人が陸地民族にどうして回帰していったのか、またローマ人が海洋民族にならなかったのはなぜかについては、ほとんど答えは用意されていない。
 ギリシア人は、好むと好まざるとにかかわりなく、海洋民族あるいは大航海者となることによってしか生きていくことができず、また地中海における経済覇権を築くこともできなかった。しかし、それを築くと、たちまち陸地民族に戻ったとみなしうる。それに対して、ローマ人は徹頭徹尾、海洋民族あるいは大航海者になることはなかった。先駆者によってすでに構築された海上交易システムを横取りすれば、経済覇権が築くことができたからである。ギリシアもローマも、その海上交易をおおむね外国人に依存していたことが、その現れである。それは近世のアメリカ人においても同じであった。かれらは覇権国になるために一時的に海洋民族になることがあっても、その地位に登ればいち早く危険に満ちた苦労の多い海の生業から足を洗うのである。
 人間は本来的に陸棲動物であり、敢えて海洋民族になるものはいない。それでも、古代のフェニキア人や中世のイタリア人、近世のイギリス人が、長期にわたり海洋民族たり続けたのは希有というべきであろう。それぞれの特殊性については別途検討すべき課題である。ここでは、フェニキア人について再考する。すでに、当サイトWebページ『海上交易の世界史』【1・3・1フェニキア―海上交易国の誕生―】においてフェニキアという海上交易国の歴史、また【1・4・1古代の海上交易の形態】において交易民族としての性格についてふれている。まずはそれらを参考にされたい。
▼海の遊牧民、山師となって、牧草(金、銀、銅、錫)を探す▼
 フェニキアに関する史料や文献はきわめて限られているにもかかわらず、多くの人々がかならず取り上げる。それほど魅力のある対象なのであろう。例えば、中丸明著『海の世界史』(講談社現代新書、1999)は、多くの人々が手近に読むことができる書物である。書名に違わず、様々な「海へん」の歴史を手際よくまとめてはいる。フェニキアは「第1章海の遊牧民」として、また「第2章地中海の興亡」において扱われている。
 「海の遊牧民」は、陸のベトウィンに対する海のベトウィンほどの意味のようであり、「牧草(金、銀、銅、錫)のありそうなところを求めて、どこまでもルートを開拓して」行った人々(中丸前同、p.44-45)、「シリア、レバノンといった、農耕には不適切な土地から這い出て……前7世紀には」、「赤ん坊の風呂桶のような、狭っ苦しい地中海から」「外の世界へ漕ぎだした」と捉えられている(中丸前同、p.41)。なお、古代オリエントにおいて、海上の交易人フェニキア人に対する陸上の交易人はアラム人であった。
 確かに、地中海の東の果てから西の果て、そしてヘラクレスの柱を越えて航海し、いわゆる植民地(市)を建設した。その一部として、遠くはスペインのカディスなどに、鉱物の採掘や獲得に関わる植民地も建設される。それを強調しようとして、旧約聖書「列王記」にみるソロモンとの紅海への共同事業を、「テュロスのヒラムによって、タルテッソスへの最初の航海が計画されたのは、前1000年頃」だったと作り替える。
 フェニキアの植民地(市)の基本的な性格は、ギリシアやローマとは違って、優れて交易港市であったことを見落としてはならない。それを脇に置いて、牧草(金、銀、銅、錫)との関わりのみで、フェニキア人の西アフリカ遠征やブリタニアへの航海などを特記するだけでは、かれらの海上交易人としての栄誉をおとしめることになる。かれらが長期にわたり海洋民族たりえたのは、まさに優れた海上交易人だったからであって、山師であったからではない。
▼ギリシア人は、海洋民族と呼ぶを憚る、腰抜けか?▼
 中丸明氏も、「古代ギリシア人には一般に、海洋民族といったイメージがある」ことが、気に入らないようである。ギリシア人が、フェニキアの軍船を中心とした「ペルシャ海軍を破ってエーゲ海の覇権を手にした」ことを認めながらも、「が、海洋民族としては、フェニキア人(カルタゴ人)のほうが先達である。ギリシア人よりはるかにスケールが大きかった」と、フェニキア人を持ち上げる(中丸前同、p.40-1)。また、ギリシアの大叙情詩人ピンダロス_(前518-438)が「人間の行きうる世界の限界はヘラクレスの柱」までだとしたことに関わって、ギリシア人は「海洋民族と呼ぶのが、憚れるほどの腰抜け」であり、「海よりも大地の阿母さんのほうが身近な存在だった。ギリシア人たちは、はじめから海洋民族であったわけではない」という(中丸前同、p.44-45)。
 これではギリシア人はまったく形無しである。こうしたフェニキア人との対比でのギリシア人の評価はおおむね正しいであろう。しかし、フェニキア人がそれほど過大に評価しうるものではない。フェニキアの最盛期は前1200年から前8世紀半ばまでで、それ以後衰退期に入り、オリエント列強の貢納国となって生き残りを図り、地中海の海上覇権はギリシア・ローマに奪われ、遂に前332年にはテュロスは徹底抗戦するが滅亡する。フェニキアは最盛期から衰退期に入る過程において、カルタゴを典型とするように多くの交易港市が建設され、さらに地中海以遠への航海が試みられた。それはフェニキアの強さではなく、むしろ弱さの表れであり、窮迫的な海外進出であった。
 中丸明氏は、フェニキア人とその生業を「海の遊牧民」といったお手軽なキーワードでもって括り、ギリシアとの対比でその海洋民族性を持ち上げることに終始している。これはフェニキアについてのお手軽な評価を促しかねない。なお、編集者上がりの物書きのようであるが、その比喩は「地中海は赤ん坊の風呂桶」もそうだが、猥雑であきれかえる。例えば、「地中海に生きる人々にとって、船は排泄のさいの紙」のようなものという(中丸前同、p.26)。普通は「船は飯の種」ではないのか。また、「地中海は古代の船乗りたちにとっては、『畳の上の水練』であった」という(中丸前同、p.28)。取り違えもはなはだしい。普通は「朝飯前の一仕事」あるいは「通い慣れた海の道」であろう。
▼フェニキアは航海術を秘匿して繁栄したという▼
 ここに、岡庭博著『海上商人の足跡―冒険商人やら海賊やら―』(日本海事広報協会、1983)という書物がある。その第1章(p.31-88)は「フェニキア人の海商活動―世界最古の海商民族―」とある。それは、日本人が書いたものとしては珍しく長文であり、フェニキア人が何たるかは一応教えてくれる。しかし、この書物は市販されていない。
 日本では、日本海運史あるいは日本海事史についてはかなりの蓄積があるが、世界海運史あるいは世界海事史については船舶史や海賊史などはともかく、本格的な業績に乏しい。そのため中丸明氏の「啓蒙書」のようなものが大手を振るうことになる。それは日本人の関心がないことによる。
 岡庭博氏は海運会社会長だの、大学教授だの、経済学博士だのの肩書きを持っていた、知る人ぞ知る故人である。かれが用いた参考資料は、C・アーネスト・フェイル著、佐々木誠治訳『世界海運業小史』(日本海運集会所、1957)や、ゲルハルト・ヘルム著、関楠生訳『フェニキア人―古代海洋民族の謎―』(河出書房新社、1976)などであり、特段の史実が紹介されているわけでなく、独自な見解が展開されているわけでもない。
 岡庭博氏は、カナン人と「海の民」が結合して海商民族としてのフェニキア人が生まれたというヘルム氏の説を受け入れ、もう1つ重要なことは「これによってフェニキヤ人が海商活動を展開し、自民族だけがもつ海洋技術を開発したということである。フェイルによればフェニキヤ人自身が航海技術を開発しながら、これを民族の秘密として自民族の間にだけ伝承したといっている(フェイル前同、p.24)。そして、その航海技術が鉱山の採掘の技術、工業技術、さらに商業技術と結びついて繁栄をもたらしている」とする(岡庭前同、p.39)。このことを幾度も強調する。
 フェニキア人は秘伝の航海術を身につけていたので、海商民族たりえたとするのは直接的な説明であり、ギリシア人と対比する必要もなく、わかりやすい。しかし、かれらがどのように航海術を秘密にしたかについては説明がない。なお、海商は海上交易と同じである。
▼航海術、中継加工交易、そして交易人の打算▼
 古代の船員たちは、フェニキア人であるなしにかかわらず、その先々の港で仕向地の航海情報を仕入れ、水先案内人を雇い、現地の船員を補ったことであろう。それに応じて、航海術を秘匿しようとしても、秘匿されようがなかったとみるべきである。
 そればかりでなく、フェニキア人にあっては地中海を自分たちの湖のように駆け回って交易し、地中海の全域に多数の交易港市を建設してきたのである。そのことは、航海術(さらに造船術)を囲い組んでいたのではなく、それらをむしろ地中海規模でさらけ出してきたといえる。そもそも航海術は、船員ともども特定の地域に囲い込んで秘匿できるような秘伝ではない。そのため、ギリシア人はフェニキア人から、ローマ人はギリシア人から航海術、さらに造船術を習得する。それにより、ギリシアの海上交易国への、またローマの海軍国へのキャッチ・アップはかなり短期間で行われた。
 フェニキア人は、優秀な航海術を保持していたことで「世界最古の海商民族」になったといえるが、かれらが長年にわたって活躍したのはそれを秘匿したからではない。それは必要条件にとどまり、その十分条件は岡庭博氏も認めているように中継加工交易国であったことにある。その一環として鉱物の採掘や獲得があった。この点について、フェニキア人は航海術が優れていたので海商活動に有利な立場にあり、「資源開発のための植民地は必ずしも必要ではなかった。交易基地だけでよかった」はずだとみている(岡庭前同、p.84)。
 また、フェニキアの長期にわたる繁栄には商人の打算が働いていたとして、次のように述べる。「フェニキア人としては貢納ぐらい額が知れている。それによって自国の海商活動が温存されるならば実質的利益は大きい……徹底抗戦をする力をもちながら貢納政策で妥協する。[その]間に相手の国は内部から崩壊する。ここに巧妙なフェニキア人の政策がある。いわば町人国家ともいうべき態度であろう」(岡庭前同、p.87)。これも十分条件として重視される。
 これらをひとまとめにしていえば、フェニキアの長期にわたる繁栄は航海術、中継加工交易、そして海上交易人の打算の三位一体で築かれた、となろう。
▼イスキア島ピテクサイにおけるフェニキア人の交易▼
 繁松泰成氏は、「ピテクーサイのフェニキア人―出土遺物の解釈をめぐって―」(浅香正監修『増補改訂版ローマと地中海世界の展開』、晃洋書房、2003)において、フェニキア人やギリシア人の植民とその生業を紹介している。ピテクサイは、ナポリの沖に浮かぶイスキア島にあり、ギリシア人(エウボイア人)によって建設されたイタリア最初の植民地として知られている。フェニキア人は前8世紀半ばには来住していたとされ、ギリシア人の植民も同時期の前775年頃であったが、フェニキア人や現地住民がいない地域であったとされる。
 フェニキア人の遺跡には銀や青銅の装飾品が発見され、また金属加工地区があった。「2つの連続する床面をもつ建造物からは、鉄鋼片や鉱滓などが出土し、床面には小さな鉄の破片による鉱染作用が認められた。塊鉄炉と見られる遺構が確認されたことから、これは鍛冶屋の作業場であったと考えられている」(繁松前同、p.233、訳文のママ)。
 ピテクサイのフェニキア人の由来について議論があり、かれらのすべてがレバント地方から直接に移住してきたとはみられていない。その一つの根拠として、「前8世紀にロドス[島、イアリュソス]のフェニキア人がピテクサイの同国人に、貴重な[大量の]軟膏の入ったアンフォラを送っていた可能性が高い」ことが上げられている(繁松前同、p.236)。なお、それ以外にピテクサイでは消費しきれない量のオリーブ油が、ギリシアのアッティカから取り込まれていた。フェニキア人はそれらを銀で支払った。オリーブ油や軟膏、さらにワインは西方に、すなわちイベリア半島南部に持ち込まれたとみられている。
 イベリア半島で、フェニキア人が交換によって、手に入れたものは銀であった。それは銀鉱石ではなく、現地で精錬された銀塊であって、ピテクサイにおいては加工のみが行われたとする。そして、「銀をピテクーサイヘと運び込み、加工して、その地を訪れるエウボイア人やアッティカ人などのギリシア人や、本国へと戻るフェニキア人と品物の交換を行った。つまり、ピテクーサイに銀を持ち帰ることによって、ここを起点として西地中海に限定された交易ルートが確立されるのである」と結論づける(繁松前同、p.240)。
▼植民市の逐次的な建設、植民市をリンクする交易▼
 この論文は古代の植民と交易について極めて示唆的であった。植民といえば、母国から直接に多数の人々が一挙に移住するものと想定されがちである。ところが、フェニキア人の植民はカルタゴのよう大規模な植民は、極めてまれであったのではないか(ギリシア人も同じ)。キュロスへの植民の例にみるように、まず少数の植民が先遣され、その結果を待って母市から少数の植民が順次行われる。そして、さらに、植民市として確立した子市から、さらに新しい孫市が開発され、それに向けて母市や子市から植民が行われたということであろう。そうすることで、フェニキア人は地中海の東の果てから西の果てまで、植民市を建設しえたといえる。
 さらに、フェニキア人は母市と植民市との交易に関しても、そのあいだで直接的な交易が行われ、地中海を横断する長期の航海が行われたと想定されがちである。現実はそうではなく、いまみた植民市の建設の流れに沿って交易路が築かれ、それぞれの交易路において別個の交易と航海が行われ、結果として、ある植民市の産物が母市に将来したとみられる。さらに、こうした母市と植民市の交易よりも、植民市相互間の交易、そして植民市と他国の交易地との交易の方が、むしろ量的には大きかったとみられる。そして、その交易はそれぞれの植民市の産物を交換することが多くなり、母市との関係は次第に薄れていったとみられる。
 前8世紀半ば、フェニキア人とギリシア人は地中海全域に鉱物を求めて争うかのように、植民地を建設している。かれらの進出の時期や地域、目的(なお、目的の順位には違いがある)についてかなりの共通性が認められ、当初かれらの間には友好関係があったという見方があり、繁松泰成氏も「ピテクーサイの場合、その建設直後からフェニキア人との共通する利益追求が認められ、エウボイア人は……フェニキア人の助言に従って都市を建設した」のではないかという(繁松前同、p.240)。蜜月は終わる。「前7世紀以降、シチリア島東部や南イタリアにおける多くのギリシア人の進出、そしてシチリア島西部とサルデーニヤにおけるフェニキア人の進出、カルタゴの発展などにより、その様相を大きく変え……ギリシア人とフェニキア人の対立関係というものが次第に現れてくる」という(繁松前同、p.242)。
▼フェニキアの交易ネットワークの構築とその開放▼
 フェニキア人と交易離散共同体[交易ディアスポラ]について触れる。前項をまとめてくれるかのように、フイリップ・D・カーティン氏は「共同体外に1つの居留地をつくった交易民は、徐々に多くの都市にその交易居留地を拡大し、次第に交易諸共同体を網羅する交易ネットワーク、すなわち交易離散共同体」を形成するという(同著、田村愛理他訳『異文化間交易の世界史』、p.31、NTT出版、2002)。
 当面することでは、「前800年ごろに、西地中海方面へのフェニキア交易離散共同体の幹線ルートが形成され始めた。レヴァント地方のイベリア産鉱物に対する需要(なかでも銀が最重要であった)に応えたものであったが、フェニキア人の交易品目は増大し、奴隷、陶器、ワインやオリーブのような食品が取扱品に加わった」とする(カーティン前同、p.122)。なお、カーティン氏の交易離散共同体[交易ディアスポラ]論に対する批判は、Webページ【1・4・1古代の海上交易の形態】を参照されたい。
 カーティン氏にまつまでもなく、海上交易における最古の典型的な交易離散共同体としての交易ネットワークは、フェニキア人が作り出したものである。そして、ギリシア人もまた交易目的の植民地を建設し、また交易居留地を設ける。カーティン氏は、ギリシア人の交易共同体が作られたとしているが、それに伴ってギリシア交易離散共同体やその交易ネットワークが形成されたとは、ここでは積極的に認めていない。それは当然といえよう。ギリシア人、さらにローマ人はみずからの交易を基本的に外国人に委ねていたからである。
 フェニキア交易離散共同体が築いた交易ネットワークは、当初フェニキア人が専用あるいは独占するものであったであろう。しかし、イスキア島ピテクサイにおけるフェニキア人とギリシア人の関係、その後における対立をみても明らかなように、交易ネットワークの支配をめぐって争いが起き、最大の海上交易需要を持つ覇権国が変転するものの、交易ネットワークには様々な国々の人々が次第に参入するようになる。当初、フェニキア交易離散共同体の交易ネットワークとして開発されたものも、いまや地中海のあらゆる国々の人々に開かれた交易ネットワークへと発展することになる。それが本来的な意味での交易ネットワークであろう。
▼ギリシア世界では交易離散共同体の意義が失われる▼
 カーティン氏は、そういう脈略には立たないで、「前5世紀までに、融合的な異文化間交易の方法がギリシア世界に現れた。ギリシア文化が東地中海の全海岸線に影響を与えたのである。文化的差異を超える交易は単純化された」。それに続けて、「前4世紀から3世紀に、ギリシア文化はエジプトだけでなく、西南アジア全域すなわちメソポタミア、さらに今日のイランに浸透し始めた」。「このような展開とともに、本書で使われている意味での交易離散共同体は、地中海商業の主要要素としての存在意義を失った。彼らは地中海文化の均質化(融合)に大きな役割を果たしたが、文化の一極化という事実は、彼らがもはやかつてのように必要とされなくなった」と結論づける(以上、カーティン前同、p.126-7)。なお、前5世紀以降に登場したとする融合的な交易の方法は、後述する。
 前段では、フェニキアなどの交易離散共同体の交易によって異文化は融合すると繰り返し述べきたにもかかわらず、前5世紀までの方法は融合的な方法ではなかったといわんばかりである。しかし、後段ではそれとは逆に交易離散共同体が果たしてきた役割を再確認し、その役割がギリシア時代になって(あるいはギリシア世界において)なくなり、さらに交易離散共同体そのものが必要とされなくなったとまでいう。これは納得しえない脈絡である。そうなったのは、ギリシアやローマが地中海の覇権国になったことで、地中海文化の均質化(融合)―その意味の検討は今後の課題である―が起きたことによる衝撃であろうか。
 カーティン氏は異文化があるから交易が起こり、それを媒介する集団として交易離散共同体が登場し、その活動によって異文化が融合する。それによって文化の差異がなくなれば、交易離散共同体の役割、さらにはその存在は終わるという論旨を展開してきた。しかし、現実の文化の融合、均質化あるいは一極化は、ギリシアやローマが地中海の覇権国として登場したことが決定的な要因となり、交易による影響などはわずかであった。その矛盾を取りつくろおうとして、前5世紀以後にギリシア世界になって融合的な交易の方法が登場したことにして、交易離散共同体を退場させたのではなかろうか。はたして、その役割がなくなったり、それが退場したといえるのであろうか。
▼一般的な船主や商人、代理人や仲立人の登場▼
 前5世紀以後、ギリシア世界に現れた融合的な交易の方法とは何か。それは「船主たちは誰でも利用できる有料運輸サービスを提供し始めた。そこで、旅商人からなる恒常的職業グループ(エンポロス)が現れた。前6世紀の初めにはプロクセノイ[代理人あるいは仲立人]と呼ばれる他のグループが、主要な港町で短期滞在の外国人商人たちの保証人や保護者として機能を果たし始めていた」(カーティン前同、p.126)。そして、「紀元前4世紀から紀元後3世紀ごろまで、地中海の海洋商業は、ほぼ持続的な技術的進歩の時代を過ごした。船舶の型や乗組員の規模の変化、ドック設備や倉庫、人工港といったインフラの改善などである。これらによって、地中海地域の商業文化の均一化が、さらに徹底的に推し進められ、融合的交易の開扉を可能にしたのである」とある(カーティン前同、p.127)。
 この融合的交易の方法に関するカーティン氏は、その交易の担い手を示すだけで、その意味合いを説明しない。いま、引用文を敷衍していえば、ギリシア世界の船主や商人たちは自由で独立した「一般的な船主や商人」として、帰属共同体との関わりのない取引をするようになり、それに当たって代理人あるいは仲立人を立てるようになった。そして、それに用いられる交易手段も均一化あるいは標準化したということであろう。近代海運や近代商業の先駆けといいたげである。どのように変貌を遂げたかは明らかにしていない。
 古代の覇権国は、いずれも大量な産物の輸入消費国(荷主国)であったが海運国(船主国)ではなく、その交易は外国人にほぼ全面的に依存してきた。その外国人は交易離散共同体を形成していた。ギリシアやローマが他の覇権国と異なるのは、極めて大量の穀物の輸入国になったことである。あるいは、海上交易において穀物という大宗貨物が発生したことである。その交易にあたって、覇権国は穀物の輸出国の交易離散共同体だけでなく、それ以外の交易離散共同体の船主や商人をも受け入れるようになり、ここに「一般的な船主や商人」(海運用語をもじっていえばcommon merchant-carrier)が形成されていった。ここで重要なことは、繰り返しになるが、それらによる交易がかれらの帰属共同体とは関わりのない交易となったことである。
▼ギリシア・ローマ、地中海世界の文化を均一化▼
そうしたことがカーティン氏にあっては融合的交易と受け取られたのであろう。「一般的な船主や商人」の交易が、海上交易においてかなりの比率を占めるようになったことは、明らかである。その限りで、交易離散共同体の役割―厳密には、その帰属共同体とギリシア・ローマとの文化融合の役割―はなくなった、あるいは果たさなくなったといえるかも知れない。
 かれは、地中海から交易離散共同体がなくなったとしているわけではないが、それにもかわらず「地中海商業の主要要素としての存在意義を失った」、「必要とされなくなった」というには、極めて重大な根拠がある。
 かれは、ギリシア・ローマの文化が地中海世界に「浸透」した、「受入れ」られたと安易にいうが、その実体はアレクサンドロスのペルシア遠征を典型とするように双方向的な融合などといったものではなく、覇権国あるいは支配者の一方的な文化の強制とそれへの迎合であった。そこで、したがってその過程において交易離散共同体が果たした文化融合という役割は取るに足りないものであったし、その後における覇権国の文化支配のもとにおいてはその役割はもまや必要とされなくなった。特に、未開の文化に帰属する交易離散共同体そのものが取るに足りないものになったといいたいのであろう。
 ギリシア・ローマが自らの文化を押しつけているもとで、交易離散共同体が無意味あるいは不必要になったとする論旨をあからさまには展開できないため、「融合的な異文化間交易の方法がギリシア世界に現れた」といった媒介項を用意せざるをえなくなったといえる。こうして、かれもまたオキシダント(西洋)によるオリエントあるいはアジア(東洋)支配を合理化し、正当化しているのである。
▼帰属集団としての交易離散共同体は永遠である▼
 しかし、ギリシアやローマなど覇権国において、様々な海上交易に携わる交易離散共同体がいなくなったわけではないし、その帰属共同体とギリシア・ローマとの交易もなくなったわけではない。「一般的な船主や商人」にあっても、交易離散共同体から離脱したわけでも、またそれを必要としなくなったわけでもない。現実に、前5世紀以後においてもピレウスやオスティアには、さまざま外国人居留民が定住し、それに便宜を図るシステムとしての交易離散共同体は存在し続け、その交易ネットワークもまた健在であった。
 交易離散共同体は、古代地中海ばかりかそれ以後の世界各地においてなくなることはなく、永遠だった。それはなぜか。異文化のもとで、その社会における少数民族が生活し、交易していくためには、民族的なあるいは地縁・血縁の帰属集団とその便宜提供のシステムが、不可欠であるからである。われわれが理解する交易離散共同体はさしあたって永遠ということになる。
(2004.02.15記)

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