ホームページへ

目次に戻る

大航海時代の東南アジア人船員
ボルブドール遺跡のアウトリガーを持つ帆船
8世紀後半から9世紀前半(筆者撮影)

▼アンソニー・リード著『大航海時代の東南アジア』▼
 世界海運史といえば、世の習いのように、まずはヨーロッパ海運史―それもイギリスのそれ にとどまってきた。そうしたこともあり、アジア・アフリカ海運史が研究、出版されることを願って きた。確かに、個別的・地域的な交易史はそれなりに見られるようになり、あと一歩の感がある。
  そうしたなかにあっても、世界船員史なぞは最初から夢のまた夢と投げていたし、期待もして いない。それでありながら、心残りがあり、関連するような文献が出版されると、何か獲物はな いかと覗き見している次第である。
  アンソニー・リード著、平野秀秋・田中優子訳『大航海時代の東南アジア』1巻(法政大学 出版局、4200円)が、1997年に出版されたが、その2巻(5700円)を心待ちしていたところ、よう やく2002年春に出版された。その巻「第1章交易全盛期−1400-1650」には東南アジア・ジャン ク船の全盛期、航海、乗組員の編成といった小項目が含まれている。

 東南アジアの交易全盛時代−すなわち、ポルトガル、オランダ、イギリスがアジア海上交易 市場に登場する前後−における東南アジア海域の交換のパターンは、よく知られているよう に、「東南アジアは、インドから布を、アメリカ大陸と日本から銀を、銅貨、絹、陶磁器、その他の手工業製品を中国から輸入し、その代価に胡椒、香辛料、香木、樹脂、漆、鼈甲、真珠、鹿皮、砂糖を、ヴェトナムとカンボジヤ経由で輸出するというパターンだった」(p.30)。
 これまた、よく知られているように、ヨーロッパ勢力は主として胡椒、香辛料を求めて乗り込んでくるが、それと交換するにたる商品はもちあわせず、いまうえでみた広大な地域にまたがる成熟した海上交易市場に割り込んで利益をあげ、それを元手にするしかなかった。それは第三者による中継交易あるいは出稼ぎ交易である。それを可能にした手段は、いうまでもなく武力であった。
 こうした東南アジアの海上交易市場には、そのバックグランドとして豊かな資源や独自の文化、社会があった。それらがどのようなものであったか、それらがどうのように形成されたか、そしてそれらがヨーロッパ勢力の浸入のもとで、どのように変化するかについて、それら全領域にかかわる史料や文献をまさに渉猟し、分析、集成したものが、本書である。
▼東南アジアの小型船・プラフ、大型船・ジャンク▼
 この海上交易を担った「独特なタイプの船は時に東アジアの船と言われ、時にオーストロネシアまたはマレー・ポリネシアの船とされ、時に単なるプラフ(prahu)と呼ばれ……その特徴は、竜骨(キール)があること、鉄釘や肋材を使わず竜骨と板が木の合わせ釘で互いにつなぎ合わされて作られた船体であること、同じようにとがった船首と船尾があること、2つのオールのような船尾の舵があること、そして方形の大きな帆があること、などである。……これは非常に実用的な小さな船で……何千ものこのような船が4トンから40トンまでの荷物なら何でも積み、交易全盛期にはその前後にわたって何世紀ものあいだ、東南アジアの海を往復していたのである」(p.48、リード著2巻の引用ページ、以下同じ)。
 われわれは、なにごとにつけ、ともすれば「大きいことはいいことだ」とばかりに目を奪われるが、それが決してメジャーというわけではないことが多い。東南アジア交易全盛時代、さらには多分、現代においても、いまうえに示された小船や、現代のピニシ船、そして少し視野を広げればアラビアのダウ(近代日本でいえば、鉄道や汽船ではなく、機帆船)が、日常的ながら大量・大宗的な輸送を担っているのである。
 それはさておき、「15世紀、16世紀の主要交易ルートを支配していたのはこの船ではなく、もっと大きな2、3本のマストをもった船だった。が、その多くはやはり同じような『東南アジア的』特徴(船体、二重舵、竜骨が合わせ釘で合わせられている)を持ち、東南アジア人の所有者のために長距離の積荷を運んでいた。これらは……英語の『ジャンク(junk)』と同じ言葉で表現されている」(p.48)。なかでも、名前通りの中国人所有のジャンクは、200-800トンであったとされる。これら大型船が、東南アジアにどれくらいいたかは定かではないようである。1513年、ジャワ島のジャパラ王がポルトガル領のマラッカと戦ったとき、500トン級のジャンク35隻を雇ったとかといった断片的な史料が残るにとどまるようである。
 それら東南アジアの大型船は、16世紀のポルトガル、オランダ、イギリスなどヨーロッパ人が持つ「たった3つの……1つめは優れた火器、とりわけ船上におけるそれである。2つめは城塞、それによって彼らは事実上、難攻不落となった。そして3つめはアジア人の協力者」(p.367)という利点でもって蹴散らされていった。これは武力の勝利であり、そのあとに交易の勝利が続くのであって、それと別の歴史があるわけではない。現代にいう経済の自由とかは、この時代からの勝利者が、常に勝利者でいたいがための自由でしかない。
▼東南アジア船の航海▼
 その時代の、当然のこととして、「東南アジア(と中国)の水先案内人は可能な限り海岸線をたどってゆく。そして彼らを導いてくれる方位と潮流に関する広大な知識に頼って航海している」(p.57)。なかでも、フィリピン人、ジャワ人、マレー人の水先案内人は優秀であったらしく、16世紀初頭「ジャワ人水先案内人の大きな地図は、喜望峰、ポルトガル、ブラジル、紅海、ペルシャ海、香料諸島、そして中国人と琉球人がたどる方位と航路、その海岸線の背後地域、互いの王国の境界線など含んでいた」(p.60)という。東南アジア(と中国)の水先案内人は、ひとつの広大な海上交易地域となっていたインド洋やシナ海を熟知していた。
 本書は、そのタイトルに大航海時代と記されているが、原書名は"Anthony Reid:Southeast Asia in the Age of Commerce 1450-1680"である。訳者は、その時代が読者にすぐ認知されるように、訳書名をつけたという(「訳者あとがき」)。
 いままでのわずかな紹介からでも、ヨーロッパ人たちは、東南アジア船員たちが蓄積していた航海知識を利用し、すでに成熟していた海上交易地域にただ割り込んできたにすぎないのである。ヨーロッパにとっての大航海時代は大西洋にはあったかもしれないが、東南アジアはすでに大航海時代そのものであったのである。かれらは、ただ大型で性能のよい帆船を利用して、東南アジアの海を疾走し、しかも武力でもって海上交易市場を分割、独占しあいながら、南アジアの商人船主たちを駆逐したにすぎない。それに伴って、東南アジア人たちの航海知識や航海術も衰退せざるをえなかった。
 いま、わたし好みで訳書名を付けるなら、『大交易時代の東南アジア』のほうが、それ何かということになっていいのではないか。
▼東南アジア船の乗組員の編成▼
] さて、東南アジア船員についてであるが、「乗組員の編成」(p.62-69)という小項目になると、著者自身によるものか、訳者のせいなのか判らないが、突然のように混乱した記述になってくる。ここでは、原書に当たれないので、独断で補正しながら、紹介しよう(なお、@、A、Bは引用者が便宜につけた区分)。
@ 商人船主船長と船内規律
 「これらの資料は、大きな東南アジア・ジャンク船における規律が、当時のヨーロッパ船と同じくらいきちんとしたもので、近代のインドネシアのプラフ船の家庭的雰囲気にほとんど似ていなかったことを明らかにした。船員ひとりの怠慢、あるいは水先案内人の怠慢でさえ、海洋法に明記されたむち打ちの刑で罰せられた。
 当時のインドや中国の習慣と同様、船上における卓越した権威は船員ではなく、船主または、やはり船主〔nakhoda〕と呼ばれる船主の代理人であった。その権威は明らかに、陸地におけるラージヤ〔王〕の権威に相当するものであり、乗組員をしのぐ権威をもった他の航海士たち−操舵手、甲板長(jurubatu 錨や測鉛線の係をしている)、甲板士官(tukang)−は、あたかも王の命令を公布する宮廷の官僚たちのようであった。船主の権威に対する抵抗は、死によって罰せられ、これらの航海士たちの命令に対する反抗には、3か4か7のむち打ちが、甲板長によって執行された。
 水先案内人(malim イスラム教の教師の意味でも使われる)は、すべての安全がその肩にかかっているのだが、この権威構造の外におり、航海が物理的にも精神的にも傷を負わないようにする責任を負っていて、イスラム教の導師である博学のイマームに相当する存在なのである。中級船員は海と陸とで船主に仕え守り、ジャンク船が常に敵を撃退できるよう、その態勢を確保する役割を担っていた」(p.63-64)。
 まず、船内規律は当時、海上、陸上を問わず、世界ではほぼ同じように、むち打ちの刑が行われていたことになる。さて、「船上における卓越した権威は船員ではなく」というが、この「船員」は船長の誤訳であろう。次に、「やはり船主〔nakhoda〕と呼ばれる船主の代理人」は、幅のある言葉であるが、通常は船長を意味しよう。これでは矛盾することになるので、前段の「船員ではなく」となったのであろう。
 それはさておき、他の個所で、船主〔nakhoda〕という用語に「ナホーダ[船荷監督]」なる訳語も当てられて、ナホーダあるいは商人は寺院に金を借りに行ったとか(p.146)、大商人が皇帝の息子のナホーダとして雇われたとか(p.155)、ナホーダは旅商人キウイたちのリーダーであるとか(p.163)、キアイ・ナホーダは「船長閣下」と同じような呼ばれ方になっているとか(p.232)、ナホーダたちが決めた海上の事柄をスルタンは法典にしたとか(p.264)、などと書かれあるいは訳されている。
 それらをみて、まずナホーダは船主かつ商人であり、しかも乗船して、船員に卓越した権威を払ったものとみられる。こうした人物は、通常、商人船主船長と呼ばれ、交易業と海運業が未分離のもとでの、世界共通のかたちを示している。ただ、この時代の東南アジアでは、原初的なかたちばかりでなく、商人船主と船長、あるいは商人と船主船長に分離しつつあったようである。
 しかし、ここでは、船主とはいえ商人の性格が非常に強いようにみえる。また、あとでみるように、船主でない単なる商人も乗船していたが、商人は乗船せず、その代理人を乗船させる場合があった。その特異な例が、大商人が皇帝の息子のナホーダとして雇われた例である。その場合、船荷監督という訳語は間違いとはいえないが、supercargoに相当する上乗り、貨物上乗人、あるいはスーパー・カーゴという言葉が通常、使われる。しかし、船荷監督とか貨物上乗人とかは、時代が下るほど、単なる雇われ人になってくるが、この時代の東南アジアでは、それなりの商人であったとみられる。したがって、こうした多様な性格を持った海上交易船のcommander 指揮者が、広くnakhoda ナホーダと呼ばれていたに違いない。
  なお、ナホーダの解説は、Webページ【「イフン・バットゥータの大旅行記」を読む】を参照された い。
 A 船員の職種と乗組員の数
  前文に続けて次文が続くが、当然、その間の史料が当然違っているためもあるが、船員の職種は統一されていない。
 「東南アジアのジャンク船は中国ジャンク船のように、同様の積載量のヨーロッパ船よりも乗組員の数が多かった。1512年にニナ・チェトゥによって提供された2隻のジャンク船は約200トンの積載量だったが、それぞれ80人以上の乗組員がおり、マレーあるいはジャワの場合、その構成はペグー(モン)人の水先案内人とその助手、船長(tukang agung)と2-4人の助手(tukang tengah)、6人の甲板長、4人の操舵手、3-6人の小舟係、4人の帆の監督者、そして4人の中級船員である。残りの船員はある事例では45人、別の事例では65人で、awak perahu(船乗り)と書かれたり、特定の働き方を表わす言葉で書かれたりしたが、そのほとんどは奴隷であったと思われる。海洋法とピレスの記述で、奴隷が乗組員全員の中で大きな要素を占めていたことが確認できる」(p.64)。
 まず、船員の職種についてであるが、ここでは船主と船長とが分離しており、水先案内人は当然、雇わなくてもすみそうであるが、そうなってはいない。前文では、「乗組員をしのぐ権威をもった他の航海士たち」と甲板士官とは、別の用語が当てられているようであるが、これでは混乱は避けられない。前者の「航海士たち」とは、前後の脈絡からみて、上級船員あるいは役付船員とするのが適当であろう。また、次文の船長助手はヨーロッパ風のmaster's mate に相当するの言葉であるとみられ、航海士あるいは甲板士官に相当しよう。
 通常、帆の監督者は掌帆手、小舟係は(漕)艇手、甲板長は水夫長や掌帆長という訳語が当てられる。そして、それが6人というのは、いくら大型船といっても多すぎるが、通常、水夫という訳語が当てられる多数の「awak perahu(船乗り)」をギャングごとに率いる小頭ほどの職掌であればありえよう。前文、次文において、中級船員は、職掌からみて武芸を職とする護衛あるいは衛兵、警備員といえる乗組員であり、ヨーロッパ帆船は艦砲を備えていたので砲手が乗船していた。
 最後に、「awak perahu(船乗り)……は奴隷であった」についてであるが、そのことが「大きな要素」と一般化かできるどうかは疑問である。1巻第4章(p.179)は一般に奴隷になっている事例として、(1)相続された場合、(2)自分を含め、身売りされた場合、(3)捕虜になった場合、(4)刑罰による場合、(5)借金が不弁済となった場合を挙げている。これらのうち、どのケースが多いかは述べられていないが、商船の乗組員の場合、(5)の脱船や逃亡されてもあきらめのつく、軽微な債務奴隷が多かったとみられる。古今東西、船員の前借したうえでの乗船や、借金の立替をしてもらっての乗船はあたりまえであった。
 ついで、乗組員の数であるが、200トン級の80人はヨーロッパ船に比べ、多くも少なくもない。例えば、1670年イギリス東インド会社のエキスペリメント号250トンが、乗組員60人で、ロンドンを東南アジアに向け出帆している。
B 乗船する女性
 こうした本来の乗組員以外に、次のような乗船者がいた。
 「そのころのヨーロッパ人、アラビア人、インド人、中国人の習慣と非常に異なって、女性はしばしば東南アジア・ジャンク船の乗客となっていた。最初のオランダ人の遠征隊がひとりの女性も乗せずに遠くまで航行したことにあきれ、バンテンのジャワ人はとりあえず幾人かの女性をオランダ船に連れて行った。
 東南アジアと中国のジャンク船の作り方では、たくさんの小さな船室が船倉と甲板の両方にあり、ヨーロッパ船よりプライバシーが確保されていた。より確保されていると言っても、充分ではなかったが。船主の船室がある船尾をじろじろ眺めることは、彼の地位に対する攻撃とみなされた。『もし船主が妻か妾を連れて来ていたら、それが深刻な事態になるからである』。
 ヨーロッパ船が船上での男色に恐ろしい罰を与えたのに対して、マレーとジャワの貨物運搬船では、不倫や私通がもっとも重い刑罰をもたらしたのである。海洋法に規定された妻と妾の異なる分類から、ふつうの船員でさえ、時には航海に女性を連れて来ることがわかるが、自由階級と奴隷のいずれの女性も、乗客として−おそらく交易商人として−航海したのである」(p.64)。
 船主やの妻あるいは妾が、アジアに限らず、当時のヨーロッパ船でも同乗していた。しかし、女性が古今東西、商業、特に小売の担い手であるとはいえ、長期航海となることに加え、文化があまりに異なる地域への航海となるため、ヨーロッパ船に女性交易商人が乗船することはなかったと思われる。
C 乗組員への報酬
 「乗組員への報酬について言えば、東南アジアのジャンク船は構造として中国ジャンク船に似ている。インド人乗組員が特定のサラリー(船主と水先案内人と書記だけに払われたものを山分けするのだが)を受け取るのに対して、東南アジアと中国の船員は基本的に、報酬は交易品の商いで得た。
 ニナ・チェトゥの2隻のジャンク船を注意深く計算してみると、それぞれの乗組員のクラスごとに米と金銭での手当が現われてくるが、これは単に食い扶持であるように思える−とくに奴隷の場合は。自由乗組員にとってのより実際的な手当は、彼らの交易品を置くための船の中でのスペースであった−上級航海士[この訳語は、上級船員あるいは役付船員が適当といえる、[
 ]は引用者注、以下同じ]それぞれ1ベタク(船艙 petak)で、奴隷ではない水夫には半ベタクが支給されたのである」(p.65)。
 まず、インド人乗組員は「船主と水先案内人と書記だけに払われたもの」が山分けされたサラリーをもらうというが、その場合の船主は海上交易人たちのリーダーとしての商人船主船長ということになるし、山分けとは言葉のあやであって、実質的には賃金である。次に、東南アジアと中国の船員については、脈絡がとらえにくいが、食費は、古今東西、船主負担であり、職種によって格差があった。当時の東南アジア人船乗組員の基本的な報酬は、ベタクすなわちカーゴ・スペースの割り当てにおかれていたが、それとともに「乗組員のクラスごとに……金銭での手当」、すなわち低額の固定給が支給されるようになっていたととえられる。
 そのベタクの具体的な事例は、時代はかなり下るが、「18世紀の中国ジャンク船では、上級船員と船員たちはもっと少なく、それぞれ900キログラムと420キログラムしかもらっていなかった。マレーのコヤン分配はおそらく、交易品を貯蔵するとともに船員が(たぶん妻とともに)寝たり食べたりするスペース全部を意味している」(p.68)とある。
 中世ヨーロッパでは、交易業と海運業が未分離であり、航海や交易の成否が不安定であったので、船員はその与えられたカーゴ・スペースに、自分の才覚と勘定で荷物を積み、売り払って収入としていた。近世に入っても、賃金の支給とともに、あわせて利用されるようになったが、東南アジアではカーゴ・スペースの支給がなお支配的であったようである。近世日本でも、小遣い稼ぎほどの帆待ちという仕組みがあった。
D 海上交易実務−スペース・チャーター
 乗組員の編成という項目には、船員にかかわりがない海上交易実務について述べられている。いままでのコメントの傍証になるので、なりゆきながら、紹介しておこう。ただ、ここでも、論旨がとらえにくい。
 それを整理していえば、商人は「慣例として、あらかじめ同意の上で他の商人に属する船の中にひとつか、それ以上のベタクを借りていたことが、はっきりしていた。……フクム・キウイ(hukumu kiwi)すなわち移動商人……と船主の間の信用関係には……4つの異なるタイプがあり、船主が所有者としての利益を提示する」(p.65)。この「船主が提示する所有者としての利益」とは、いうまでもなく、カーゴ・スペースの使用料(通常、スペース・チャーター料あるいは用船料という)である。その上で、このキウイすなわち移動商人は船内規律については船主にしたがうが、船主はキウイの代表から「その旅における商売の結果を左右する事柄について相談を受けた[協議したのではないか]」。
 港に着くと、まず船主が、自分が責任を負っている商品を売ることができ、4日後にキウイたちが自分たちの商品を売り始め、その2日後に船員たちが売ることができた。キウイたちは船主より安値をつけることも、船主に無断で奴隷を買うことも禁じられていた」(p.66)という。海商未分離のもとでの、商人船主船長と貨物持ち込み商人、さらには乗組員との関係が、どのようなものであったかを知りうる。
 具体的には、「キウイは疑いもなく、船艙を大量の積み荷でいっぱいにしていた。1713年に中国ジャンク船がオランダ人の役人に調べられた事例では、16人の旅商人が220トンの胡椒を共有していて、その中の8人は各々3トン、その他の8人は平均で各々24トン所有していたという。[旅商人でではなく、商人船主であろう]最大級の交易者は積み荷の約3分の1、つまり66トンを運搬していた」(p.68)という。
E 海上交易実務−冒険金銭貸借
 次のような3つの商業上の取り決めがあったという。
 「もっとも一般的なのは……商人あるいは仲買人は船で旅をすることによって、彼ら独自の商品を取引きし、遭難の危険に堪え、船艙〔ベタク〕を借りることで、彼が扱う商品の価格の歩合を支払う……。『マラッカに帰ってきたら、マラッカでジャンクに載せたものの2割を支払うというものである』」(p.66)し、また輸送距離によっても支払額が変わるという取り決めである。これは、いま上でみた船主に支払うカーゴ・スペースの使用料が固定された額ではなく、商人の取引き高や輸送距離によって変動する額として、支払われる場合を示していよう。
 「もうひとつのタイプは、コメンダ(委任 commenda)という方法で、商人はあとに残り、船主に取引きを委任された商品あるいは資金が積まれる、という方法……『もし私がマラッカ商人であれば、ジャンク船の船主にマラッカの時価で100クルサード分の商品を渡し、[ジャワからの]帰還に際しては、危険は自分の負担なので、〔船主は〕140クルサードだけを払い、その他のものは与えない』」(p.66-67)という取り決めである。これは商品の委託売買であり、船主が商人からそれを利益率40%で受け入れた例である。
  このコメンダの例は、Webページ【トメ・ピレス『東方諸国記』を読む】からの引用とみられるの で、それを参照されたい。
 さらに、「同じコメンダという方法は……『裕福な商人はいつも家にいて、……投機として旅をする者たちにまとまった金を渡す。……乗船者たちはその金の責任を負い、もし旅がすみやかに終われば契約に応じて商人に支払う。……しかしもし船が失われたら、商人はすべての金を失う』」(p.67)。これは、裕福な商人と乗船する商人とのあいだでかわされた、冒険的あるいは投機的な金銭貸借である。そうした取引は、当時の東南アジアでは、その「主な商品が奴隷であったため、危険も利益もより大きかった」とされ、「船主はしばしばその価値が倍になることを期待できた」し、裕福な商人および乗船する商人は40-50%の利益を分け合ったという。
▼おわりに▼
 いままで紹介した以外に、本書は、類書に比べ、海運、船員に関する多くの記述が含まれ、かつそれがまとまっており、精読して整理すれば、当時の実情を相当なところまで肉薄することができそうで、誠にありがたい大著といえる。
 本書を読んでのひとつの感想は、いくどか述べたように、船員職業にかかわる仕組みは、時期のずれはあるものもの、古今東西、基本的に同一あるいは類似していることであった。世の中の仕組みの類似性とその時期や地域の差、その差による変異を解明するのが、歴史書なのだということであった。
  なお、ヨーロッパ船員については、e-Book拙著『帆船の社会史―イギリス船員の証言―』、高 文堂出版社、1983を参照されたい。
(2002.07.05記、2006.02.01補正)


ホームページへ

目次に戻る

先頭に戻る

inserted by FC2 system