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日本の新羅や渤海との交易の形態

▼京師交易と太宰府交易、その差
異▼
 8-9世紀において、東アジア交易の担
い手となった新羅人商人は、興味をそ
そるテーマであ る。それに直接答えて
くれる文献にいまのところ行き当たらな
い。
 李成市著『東アジアの王権と交易』
(青木書店、2002)は、それに一定の回
答を与えてくれるかにみえる。しかし、
その「主 題は、8世紀以降の日本と新
羅や渤海との交流の性格を再検討す
ることにある。古代東アジア の王権間
でなされた交易の分析を通して、私た
ちがこれまで見過ごしてきた古代国家
相互の 交流がもつ独自の姿を少しで
も明らかにしたい」(李前同、p.17)。そし
て、次のような通説を批 判することに
ある。

 「新羅と日本との関係は、752年(天平勝宝4)の大仏開眼供養会の際に、王子金泰廉の来日はあったものの、しっくりいかない状況が続いていた。あくまで朝貢を求める日本と、対等の独立国としての外交を求める新羅との駆引きの結果である。しかしここで大事なのは、これ以降の新羅使が貿易使節としての性格を強くしていくことであろう」。
 当面の752年新羅使について、それが将来した「金および、東南アジア・インド・アラビア産の香料や薬物が多数含まれていることが注目される。前者は大仏塗金用の金の調達に苦労した日本が、冷却関係を度外視して新羅との交易に努めた現実をよく示しているし、後者からは新羅の貿易が中継貿易としての性格をもち、市場としての日本に大きな魅力があったことがわかる」という。
 そして、その後の新羅使について、その「入京を拒否して太宰府から帰国させる場合でも、皇族や貴族が新羅のもたらした貿易品を購入することは認めている。彼此の利害の一致したところに、冷却した国家間関係とは別に、太宰府における大規模な貿易活動が生まれたのである」(以上、渡辺晃宏著『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』、p.293-4、講談社、2001)。
 それに対して、李成市は「760年以前における国家間の交易は、王権間における相互の緊張関係の中でなしえた交易であり、政治的メッセージをともなって外交上の交渉の中でおこなわれた交易であった。それゆえに、760年以降は、新羅側に対日本外交への積極的な必要がみいだされなくなるために、全く新たなレベルの交易が始まる」(李前同、p.183)。そして、日本の新羅との交易は8世紀にあっては京師交易であったが、9世紀から太宰府交易という新しい性格を持つようになった。なお、日本の渤海との交易は8世紀から10世紀初頭まで一貫して京師交易であった。
 「京師(平城京・平安京)における交易とは、王権が直接管理し、王権の権威のもとで再分配されるような、王権が直接に介在する極めて政治性の強い交易なのである。一方、太宰府における交易とは……9世紀以降とくに顕著になる新たな形態の交易であって、そこでは中央政府の監督のもとで、太宰府が管理する交易であり」(李前同、p.171)、新羅人商人が「主体的担い手とした交易活動であった」(李前同、p.173)。
 したがって、新羅人商人のあり方を直接に扱ったものではない。日本史に立ち入るつもりはないが、新羅人商人の交易の具体的な形態を知るためには、それなりに有効であろう。
▼新羅毛氈の布記と買新羅物解▼
 まず、京師交易の典型であるかのように、752年新羅使の交易を取り上げる。
 正倉院には唐ばかりでなく、新羅・渤海産あるいは経由の宝物が多くあることは周知の通りである。そのなかに、新羅特産の毛氈(もうせん、法会の座具)があり、その2床それぞれに布記が付いている。その布記は荷札あるいは送り状とされ、その売り主の名前と、彼がそれと交換したい品目(絹糸や真綿)が記入されており、その1つには交換された真綿の量が異筆で記入されている。毛氈は新羅貴族の家産工房で生産されたものであって、752年新羅使が持ち込んだものである。
正倉院宝物花氈(かせん)第1号
文様をはめ込んだ毛氈で、
山羊等の毛をフェルト状に縮絨させたもの
 他方、「買新羅物解」という、8世紀の文書がある(重文、公益財団法人前田育徳会蔵)。それは、Webページ【2・2・4 東アジア世界宋代までの海上交易】において若干取り上げているが、752(天平勝宝4)年6月中旬から7 月上旬にかけて、朝廷が五位以上の貴族に対して、どういった新羅文物を購入したいかを、大 蔵省か内蔵寮に上請させた文書だとされる。それに記載されている新羅文物が、その時期、 日本に持ち込まれたとされてきた。
  買新羅物解は30枚ほどあるとされる。李成市氏の説明では、「念物として、まず新羅の文物を列挙したのちに[その逆もある]、代価として支払うべき絹製品の種類、[とその]分量および提出年月日、提出者名が、各々明記されている」となっている(李前同、p.49)。ある例を示せば、「鼓吹司正外従五位下大石 合八種 直綿四百斤 鏡五面 麝香 個子 金青 雑香 朱沙同黄 蘇芳 右件念物具録(如件以解) 天平勝(寶四年六月)」となっている(綿1斤=224グラム=1屯、小制)。
 これら新羅毛氈布記と買新羅物解は対応した史料であって、752年に来日した新羅使の交易に関わる文書である。
 8世紀前半、東アジアは唐を覇権国として、日本、新羅、渤海は三すくみで対立しあってきた。その世紀半ば、日本は国威を東アジアに示そうと躍起となり、新羅は渤海対策を腐心していた。そうした情勢のもとで、752年日本と新羅とは使節を交換しあうこととなる。
 日本は、同年1月に、12年ぶりに山口人麻呂を大使とした、遣新羅使を派遣する。その目的は、大仏造営を述べ立て、新羅王の来朝を求め、金を輸出させることにあったとされる。その招請に答えて、新羅使が10年ぶりに来日することとなる。それは7隻700人という大使節団(その構成は不明)となり、金をはじめとした、大量の新羅や唐の文物を持ち込んだとされる。なお、日本にとって752年は非常に劇的な年であり、新羅使の他、同年4月には藤原清河らの遣唐使船が出帆し、4月9日には大仏開眼供養会が執り行われ、9月24日にはこれまた13年ぶりに渤海使が来日する。
 こうした大規模な使節となったことについて、李成市氏は「日本側の強い働きかけにはじまり……新羅側の応答があったから」であり、「交易が持っている平和と友好の意思表示という一面を見逃すべきでない」と述べる(李前同、p.126)。それをさらに具体的いえば、日本の貴族が念じてやまない新羅をはじめ唐の文物を、新羅の貴族たちが交易に回したからであろう。なお、大仏開眼供養会は4月9日執り行われるが、彼らを参加させなかったとされる。また、この年の使節交換にもかかわらず、その後も日本と新羅の冷却関係は解消することはなかった。
▼日本と新羅の貴族間の委託交易書面▼
 このように、李成市氏は日本に残された752年新羅使に関わる2つの交易文書について説明するが、はたして万全な説明といえるであろうか。
 新羅毛氈布記は、毛氈を代物(代価)として、日本産品の念物(入手したい品)を購ってもらいたいとあり、その条件は念物の品目のみで、その量目は問われていない。他方、上で見た買新羅物解の例では、直綿400斤を代物として、鏡五面以下の合せ8種の念物を購ってもらいたいとあり、その条件は代物の絹製品の量目を限度として、様々な文物を手に入れたいということで、文物それぞれの量目は問われていない。またすべての品目を入手できると期待していたとは思えない。
 実際の取引は、それら書面を手渡した人に委ねられ、その結果については記入した条件以外について、これら書面を作成した人は苦情を述べないという内容になっている。それらは一応同じ形式の委託交易書面といえる。ただ、その委託条件について後者は念物の選択の幅があるように見える。こうした委託交易という形態は、この時代の海上交易あるいは遠隔地交易において、かなり広く行われていたかに見える。後述の約1世紀後の宮田麻呂事件でも利用されている。
 752年新羅使が持ち込んだ交易品は新羅毛氈だけではなく、個別の日本貴族が入手を希望する品目数は3種から46種までとまちまちであるが、極めて多種多様である。それに対して、代物となる日本産品は綿、絹、糸、あしぎぬという4種の絹製品に限定されており、新羅毛氈の布記が示す日本産品と一致する。なお、交換に差し出す絹製品の量目は、おおむね記載されていた。
 そこで問題は、李成市氏は新羅使が日本に持ち込んだ品々を、新羅貴族の委託品(正確には委託購入代物)として論述しているが、そうとは限らず、新羅商人の品々も含まれていたのではないか。また、新羅使のなかに商人がいたのか、いなかったのかについては、李成市氏は口を閉ざしている。しかし、その使節団が700人という多数であり、また後述の渤海使の構成でも明かのように、かなりの商人が乗り込んでいたと見られる。
 それにしたがえば、新羅使とともに日本に持ち込まれた品々は新羅貴族のわれわれのいう委託品ばかりでなく、来日しない新羅商人の委託品、そして乗船している新羅商人の交易品も含まれていたこととなる。さらに委託人が誰を受託人として委託品を手渡したかである。それは、さしあたっては新羅使の官人であるが、乗船する商人をも受託人としたことであろう。さらに、日本の場合、大蔵省か内蔵寮かを受託人としているが、委託人は単に五位以上の貴族ばかりとはいえず、彼らは五位以下の官人や富裕な人々からも委託を受けていたに違いない。
 このように、2つの文書を委託交易書面と捉えるかいなか、また新羅商人の乗船をどう見るかによって、論旨は大変異を遂げることとなる。
▼752年新羅使の日程とその交易▼
 752年新羅使は、次のような日程で平城京に入京し、帰還しているという(李前同、p.86)。
閏3月23日 金泰廉ら700人が筑紫に来航
? 瀬戸内海より難波津に至り、入京
6月14日 拝朝
6月15日 買新羅物解の提出[開始?]
6月17日 朝堂にて饗宴
6月22日 大安寺・東大寺に礼仏
7月8日 買新羅物解の提出[終了?]
7月24日 難波館に帰還
 ここで示されていることは、買新羅物解が6月14日拝朝後の6月15日から7月8日にかけて提出されたということだけである。李成市氏は、「『買新羅物解』にみられる新羅文物の購入請求は、新羅側が売却の意図をもって新羅文物を日本に搬入して、初めてとりうる行為とならざるをえない」と説明する(李前同、p.84)。少々回りくどい説明となっているが、要するに新羅貴族の文物のリストあるいは現物を見て、日本貴族が欲しい新羅文物を申請したのだとする。
 新羅文物(唐の文物を含む、以下同じ)の搬入と、リストあるいは現物の開示は、6月14日拝朝前に行われたであろう。買新羅物解の整理と新羅文物リストとの突き合わせがいつ行われたか、そしてそれにもとづいて交換業務がいつどのように行われたか、さらに新羅文物や日本産品の搬出入がどのように行われたかは、まったく分からない。
 それらのうち、日本産品の難波館への搬入と新羅文物との交換は、新羅使が7月24日難波館に帰還後、彼らが難波から帰帆するまでに終了したことであろう。新羅文物の提出者へ交付は、彼らの帰帆後になったであろう。それにつけても、新羅使は極めて多様な文物を持ち込んでいるが、日本は代物として極めて少種な産品しか提供していない。また、6月14日拝朝前の新羅文物の開示から、短期間に買新羅物解の提出が終わっていることは、日本貴族の新羅文物渇望の強さを示すものとして注目される。
▼752年新羅使による交易の性格▼
 こうして実施された752年新羅使による交易の性格について、李成市氏はその「交易は、賓礼という国家的儀礼のプロセスに組み込まれていた。交易は決して自由取引ではなく、政治的に徹底的に管理されていた」とし(李前同、p.124)、次のような意味合いを繰り返す。
 「これまで詳さにみてきたように、752年に新羅使節と平城京の特定の支配層の人々との間でおこなわれた交易は、賓礼の過程のなかで国家機関の管理下におかれてはじめて実現した交易であって、その性格は単なる商業目的とはみなしがたいものであった。
 このような交易は、新羅側からみれば大量の文物をもたらすこと自体が新羅国家の保全に関わる、優れて政治的な意図に基づくものであった。一方、日本側からすれば、天皇への貢物とともに新羅がもたらした文物を五位以上の貴族に再分配することは、新羅使節への賓礼と相侯って天皇の権威をたかめ国内の支配体制を強化するという、政治的な効果が期待できたのである。これに加えて、762年以降の渤海と日本の外交関係に対しても経済的性格が強調されてきたが、渤海側の対日本通交の背景や日本側の対応を検討することを通じ、それらの性格についても8世紀における新羅と日本の外交関係と同様に、やはり政治性を濃厚に帯びていた」(李前同、p.160-1)。
 李成市氏は、752年交易は「新羅使節と平城京の特定の支配層の人々との間でおこなわれた交易」とする。それでありがら「天皇への貢物とともに新羅がもたらした文物を、五位以上の貴族に再分配する」などという。しかし、「新羅がもたらした文物」は委託品と交換されるのであって、下賜されるわけではないので、再配分されたなどとはいえない。それは、日本と新羅の貴族間の委託品と正しく捉えず、交易の政治性を強調しようとするあまり、「再分配」という用語を一人歩きさせてしまっている。
 このように、752年交易は私物の交易を含んでいた。朝廷は「政治的な効果を高め」ようとして、それを官物の交換という典型的な官交易―後述の渤海使と同じように―のなかに取り込んで行ったといえる。そう捉えれば李成市氏のくどい解釈も少しはうなずけよう。
 この752年新羅使は、新羅の意図はともかく、日本が大仏開眼供養という国を挙げての大祭事を通じて、国際的にも国威を顕示するために仕組まれ、特別に招請された使節である。そのため空前絶後の大規模な委託交易となった。そうした特異さは、新羅毛氈布記や買新羅物解といった文書を用いた交易が、それ以前も以後もみられないことでも明らかである。
 したがって、752年新羅使を京師交易の典型とするわけにはいかないであろう。そうした限定を、李成市氏が752年新羅使とその京師交易に付けないことは、理解に苦しむ。いずれにしても、これ以後新羅使との交易らしい交易はなくなるので、752年の交易は日本と新羅との京師交易の最後のあだ花であったといえる。
▼渤海使、軍事使節から交易使節へ▼
 それに対して渤海使との交易はどのようなものであったか。新羅使は、676年の朝鮮統一後から8世紀半ばにかけて40余次にわたって派遣してくるが、それ以後は極端に減少する。それに取って代わるかのように、渤海使は727年から10世紀初めにかけて、その派遣回数を増やし続け、35回に及ぶ。なお、渤海は唐や日本と長期にわたって交流したが、新羅とは外交しなかったという。
 8世紀半ばまでの渤海使は、唐や新羅との対立に手当てした36人ほどの軍事使節であったが、762年唐から郡王でなく国王の称号が与えられることで唐との関係が好転すると、9世紀にかけて交易使節としての性格が強くなる。それに応じて、使節は8世紀後半180-300人規模となり、9世紀以降は105人規模による定期的な「商旅」となる。
 日本側が渤海使を「商旅」とみなしながらも「賓客」として受け入れ、渤海側も「蕃属国として、従属的な姿勢で日本との外交を継続し[て]、大規模な交易を推進したのか」について、通説は疑問を持たないと李成市氏は批判する(李前同、p.138)。
 渤海は、建国以来、新羅に接するところで狩猟と交易を生業としている靺鞨諸部族を統制、管理することに腐心してきた。8世紀半ばになり、彼らを統合することに成功する。しかし、その統合を維持するためには、彼らの唐などへの交易活動を取り込みながらも、彼らにも交易の道を用意する必要があった。例えば、841年の渤海使105人の構成を見ると、使頭1人、嗣使1人、判官2人、録事3人、訳語2人、史生2人、天文生1人、大首領65人、梢工28人となっている。
 そのなかで、圧倒的な多数を占める首領(大首領)は、「渤海が包摂した靺鞨諸部族の首長にほかならず、渤海はかれらを制度的に組織して、対日本外交へ恒常的に参加させていた」という。しかも、「首領たちは遣使に加わって来日すれば、日本側から回賜(返礼品)として絹製品が与えられた」。回賜総量絹40疋、あしぎぬ475疋、絲420絢、綿2040屯のうち、首領たちへの回賜量はあしぎぬ325疋、綿1300屯という多さであった。そこで知りたいことはむしろ、首領たちが貢納品以外に、どのような産品をどれくらい持ち込んだかである。それが相当量であったであろう。
 これら渤海使は、「平安京に入るや客館である鴻臚館に安置され、蕃客として賓礼の過程で、日本側の官僚機構を媒介に交易をおこなった」のである。9世紀末ではあるが、872(貞観15)年5月に加賀に来着した渤海使節の例によると、同15日に入京し、入朝の儀を鴻臚館で行った後、次のような行動をとったことが伝えられている(以上、李前同、p.140)。
20日 内蔵寮と渤海使節の間で貨物を交易
21日 京師人(平安京の居住者)に渤海使節との交易を許可
22日 諸市人と渤海使節との間で私的な交易を許可
 靺鞨諸部族の首領たちが持ち込んだ大量の品々は官交易ばかりでなく、公認された上で、官人を含む京師人や地方人とのあいだで私交易されている。それを日本は京師交易の一環として受け入れていたのである。
新羅商人の頻繁な来航、私交易の公認▼
 それでは、その後の日本の新羅との交易はどうなったか。李成市氏は9世紀に入って新羅商人の交易が顕著になったとする。その初見記事は、814(弘仁5)年10月の新羅商人長門漂着であるとして、次のような年表を示す。また、8世紀末から9世紀前半の北部九州を中心とした遺跡から、唐代後半および北宋前半期の中国初期貿易陶磁器が発見されているが、それらは唐商人の来航の初見記事の842年に先立っており、それらは新羅商人が持ち込んだ商品であると注目する。
814年 新羅商人31人、長門国豊浦郡に漂着
818年 新羅人張春ら14人、太宰府に来たり驢馬4頭を献上
820年 新羅人季長行ら、やぎ2・白羊4匹などを献上
824年 新羅人張宝高、太宰府を訪れる
835年 この頃、壱岐に新羅商人がしばしば訪れる
838年 壱岐に新羅商人が絶えず往来する
840年 張宝高の使者が「万物」を献上
 こうした状況の下で、日本の政府は矢継ぎ早に対応せざるをえなくなる。827(天長5)年正月2日、太政官が国司に官符「応に[まさに]交関を禁ずべき事」(『類聚三代格』巻18)を下し、蕃客との私交易の禁止を犯すものには国司といえども重罪とする。831(天長8)年には、太政官が太宰府に官符「応に新羅人の交関物を検領すべき事」を下している。それは次のよう内容であった。
 「すなわち、人々が資産を尽くし高値で争って外国の貨物を購入しているが、これを取り締まらなければ弊害はつきない。そこで太宰府に厳しく取り締まらせて、たやすく取引をさせないようにし、新羅商人が来着したら、まず政府の需要に適するものを選び出して中央に送り、不必要なものは太宰府官が点検して一般人民に交易させるが、ただしその際の取引は估価(公定価格)にしたがうこととし、違犯者は厳罰に処する」(『類聚三代格』巻18)(以上、李前同、p.162-3)。
 それ以外では、840(承和7)年12月張宝高の使者が万物を献上した際、太政官が太宰府に発した官符(『続日本後紀』巻10、承和8年2月戊辰条)は、他国の臣(!!)の貢ぎ物は返却し、その他の貨物は公定価格を守れば、ほしいままに民間と交易させてよい指示している。また、842(承和9)年8月15日、太宰大弐藤原衛が新羅人の入国禁止を求めた際、太政官が下した官符「応に入境せる新羅人を放還すべき事」(『類聚三代格』巻18)は、新羅商人と地方民との私交易が終われば、それ以上の滞在を許さず、すぐさま帰国させよとしている。
 こうした日本の対応について、李成市氏は「少なくとも8世紀から9世紀初頭においては、全く想定されていなかった新たな事態」、すなわち「新羅人や渤海人の頻繁な来航と彼らと民間との接触を公認したうえで、それを前提にして現地の責任者である太宰府や国司に交易を取り締まるよう対応策を講ぜざるをえなくなった事態を反映している」という(李前同、p.165-6)。
 すなわち、9世紀に入ると、新羅使でない新羅商人の北九州への絶えざる登場と、舶来品の国民的な需要の拡大を受けて、太宰府や国司の管理のもとで、政府による先買い後に私交易することが公認されてきたのである。その場合、公定価格での取引が求められ、また外来商人は交易後の速やかに帰国させ、居留させないようにしたのである。
  なお、Webページ【2・2・4 東アジア世界、宋代までの海上交易】で取り上げている、前筑前守文室宮田麻呂事件は9世紀半ば太宰府における交易管理の実態が露わにしたが、すでにみた買新羅物解と同じように、代物を差し出した上で舶来品の購入を委託する形式が見られることである。その場合、それは自らの太宰府にはなく、新羅商人に出されている。これは地位利用の密貿易である。
▼新羅商人との私交易の始期とその契機▼
 李成市氏は、こうした9世紀に入って顕在化する太宰府交易は、「さらに8世紀にさかのぼってあったはずであると推定され、それを裏づけるのが『買新羅物解』にみられる752年の交易であると、多くの論者によって主張されてきた」と批判し、それが「いつ頃、何を契機にして始まるのだろうか」を問う(李前同、p.170-2)。
 その始期に関わって、8世紀という段階から新羅商人が交易を行っていたという根拠として、『続日本紀』巻29・神護景雲2にある、768年10月24日左右大臣以下の貴顕たち9人に、「新羅の交関物を買うが為」に、太宰府の良質な綿(85000屯)を下賜した史料が挙げられてきたという。この綿85000屯は、841年の渤海使105人に回賜した綿2040屯の、実に42倍当たる膨大な物である。新羅商人の大船団が来航したのであろうか。貴顕たちが容易に手を出せる量ではない。
 それについて、李成市氏は「この年(768年)に新羅使節が来日した記録はなく、それゆえ新羅使節以外の者がもたらした交関物(交易品)の実在を前提とした出来事」が起き、大量の綿の支払先が「新羅の公的使節でないのならば、残るは新羅商人でなければならない」とし、この交易は「当事者は平城京の一部の特権層ではあるが、それ以前の王権間の交易とは異なる、新たな形式・方法による交易がおこなわれていた」ことを認めざるをえないという(李前同、p.175)。
 この奇妙な史料について、いま述べた以上の追求はみられない。この史料から明らかなことは、日本政府がそれ以前から、太宰府に大量の綿を集積して、それを新羅商人との交易の代物としていた。そして、日本政府が新羅との交易相手として、新羅使をあきらめ新羅商人に切り替えていたことである。
 朝廷が、貴顕たちに新羅文物を入手させたいのであれば、自らが買い付けた上で、貴顕たちに下賜(再配分)すれば事は足りる。そうではなく、わざわざ綿を下賜して買い付けさせるという面倒なことをするのは、なぜか。それは、代物の大量さから見て、いまだ伝統的な朝廷交易を払拭することができないため、朝廷は新羅商人を交易相手にして直接、買い手になることをきらい、貴顕たちを名義人にして交易しようとしたのではないか。あるいは、貴顕たちを名義人とした代物を手渡し、委託交易の買付を新羅商人に委託したのではないかである。そのうち後者が最もらしい。
 そうだとすれば、綿を下賜したという史料は、そうした擬制的な交易のための、ダミーの書類といえる。この見せかけの下賜を解消するために、貴顕たちが新羅商人から買い付けた文物を朝廷に献納あるいは返納するとした、もう一通のダミーの書類があったに違いない。768年新羅商人との交易は、新羅商人の絶えざる来航と日本の朝廷・貴族のあくことのない舶来品嗜好によって、朝廷交易を換骨奪胎した形態になっていたのである。そうした意味合いで、768年交易は新たな形態になったといえなくはない。
 李成市氏は、「新たな形式の交易がなされたと推定される768年と、王権間の交易がなされた752年と……の16年の間に……京師交易から太宰府交易への画期を見いだすことができる」(李前同、p.175)。その間を「単なる16年間と軽視することはできない……東アジアにおいて劇的な国際環境の変化があった……768年の交易は9世紀の太宰府交易の先駆形態とみなせるとしても、それを16年前に安易にさかのぼらせ、752年の交易に投影させて解釈してはならない」と強調する(李前同、p.176)。
 その契機としては、759年の日渤軍事同盟にもとづき、藤原仲麻呂は新羅征討を計画するが、762年に唐・渤海関係の改善により、渤海が新羅征討に意志を失ったことで霧散し、仲麻呂も失脚する。他方、新羅では760年代から80年代にかけて反乱が続き、王権が不安定となった。これに符合して、新羅の日本への遺使は779年を最後として、また唐への朝貢も778年以後行われなくなったことを上げる。
▼新羅商人の山東半島への進出▼
 そうした日本と新羅とが国交断絶状態になっていたにもかかわらず、新羅商人は絶え間なくやって来る。その私交易を日本は公認する。そこで残るは新羅商人がいかにして誕生したかである。李成市氏は、ここにおいても「従来、何の根拠もなく、ただ単に8世紀の前半より、新羅において交易にたずさわる商人層の輩出と、彼らの活動を推測してきた」ことを批判する。
 そのうえで、すでにみた760年代から80年代、「新羅は王都における激しい権力争いによって求心力を急速に失い……地方に対する統制が弛緩しはじめた頃に、かつて国家の対外活動に従わせるために王権の下に組織されていた、海民の自律的な活動がはじまったり、このような動きに呼応する集団が輩出した」のではないかとみる(李前同、p.178)。この政治混乱を受けて、8世紀末には新羅から日本へ大量の難民が、日本海沿岸に着岸するようになる。
 9世紀に入ると、毎年のように飢饉に襲われるようになる。新羅の地方反乱は、海賊の拠点として注目されてきた朝鮮半島の南西海岸でも起きており、「この地方の海賊の実態が、沿岸部や島嶼地方に居住する海上生活者(海民)であったとすれば……海民の動向にも大きな影響を及ぼしたのではないかと考えられる」(李前同、p.178-9)。
 唐では、755年の安史の乱を契機にして内地にも置かれるようになった節度使が、地方勢力として盤踞するようになる。そのなかでも、平盧沺青節度使の李氏一族は819年まで3代・半世紀にわたって、円仁が新羅商人に依存して旅行した、山東半島を支配していたという。 その支配は東シナ海沿岸部の海上活動を促進させた。
 李成市氏は、そうした情勢のなかで新羅商人が活躍の場が与えられたと見ているが、それ以前にその場がすでに与えられていたのではないか。それは、732年渤海が山東半島登州を攻め、唐と新羅使の海路を制圧する。唐は水軍を貧弱であったため、それを新羅に依存せざるをえなかった。翌年には、唐は新羅をして、渤海の南境を攻撃させる。こうした軍事協力のなかで、新羅商人が山東半島に進出し、居留するようになったと見られる。
 山東半島における新羅商人の成功者が、「海島人」の張宝高であった。張宝高については、Webページ【2・2・4東アジア世界、宋代までの海上交易】【「円仁・入唐求法巡礼行記」を読む】で取り上げている。彼は、828年山東半島から新羅に帰り、興徳王から清海鎮大使に任じ られ、自ら申し出て奴隷売買の取り締まり―それが海賊退治か―をしていたという。
 山東半島に居留する新羅商人は、例えば張宝高が徐州軍中小将、その配下の張詠が軍事押衙というように、様々な唐の軍事官職を持っているが、それは実職ではなく虚職であった。それは商人が節度使に賄賂を送り、それから唐の朝廷へ奏請してもらうことでえられる地位であった。「地方分権的な勢力をもつ節度使体制のもとで従来、国家によって管理されていた対外交易が、節度使の管理のもとに移行し、節度使の財源確保のために、商人層に対して対外交易の資格をあたえることによって、対外交易の担い手を増大させるにいたった」という(李前同、p.181)。
▼若干のまとめ▼
 李成市氏の主たる結論は、日本の新羅との交易は752年新羅使までは京師交易であったが、その後16年間において、東アジアの緊張緩和と唐や新羅の地方政治の弛緩のもとで新羅商人が台頭し、768年新羅商人との交易を境にしてその交易を受け入れることに転換し、9世紀からは彼らとの私交易をも公認する太宰府交易という、新しい性格の管理交易に移行したということなのであろう。それはつまるところ、752年新羅使には新羅商人は介在していない、したがって彼らの中継交易などはなかったとする見解である。
 この見解は通説を批判してえられた結論ではある。そこに至った脈略に即して再検討したところ、752年新羅使の交易は委託交易でもあったので、新羅商人が介在していたことは否定しきれず、現実に彼らが担ったであろう中継交易品が持ち込まれていた。しかし、その交易は京師交易として「政治性」が塗り込まれていた。そして、752年以後新羅使の来日が期待できないため、その早い機会から太宰府において新羅商人を受け入れる体制を整えていた。その1つの現れが768年の新羅商人との交易であったが、それはなお京師交易の「政治性」を残存させた受け入れであった。
 したがって、新羅商人との交易はすくなくとも752年新羅使を起点として始まっていたとすべきであり、768年交易がその始まりではない。太宰府交易を新羅商人との交易として捉える限りでは、「768年の交易は9世紀の太宰府交易の先駆形態」とみなしえないことになる。それはむしろ、太宰府で行われたものの、政府が交易品を買い占めるという、朝廷交易という形態での最後の交易といえよう。
 しかし、日本は新羅商人の絶えざる来航と、舶来品の国民的な需要の高まりに対応できなくなり、9世紀には入ると新羅商人と相対する私交易をも公認する。太宰府交易は、日本人の私交易を公認した交易として捉える限りでは、9世紀に入って新たに形成された形態とすべきであって、そこに「先駆形態」などありようがない。先駆形態があるとすれば密貿易であって、それは8世紀の早い時期から行われていたことであろう。
 なお、太宰府交易は、京師交易にあった交易品の独り占めや交易の全面的管理といった性格は大きく失われているとはいえ、私交易がまったく自由に行われうるわけではなく、管理交易―政府の先買い、鴻臚館での取引、公定価格の設定など―として「政治性」はぬぐいさられてはいない。
 李成市氏は、著書の末尾で「ただ留意したいのは、750年代まで継続した政治的交渉に付随していた交易活動の延長に760年代の新たな段階の交易がおこなわれたことであって、かつての政治的な意味あいの強い交易も、それが通例化するなかで交易のシステム化をもたらし、国際的緊張が後方に退いた後も、とどまることなく交易の論理だけが自己運動していったのであろう」といっている(李前同、p.184)。これでは通説を支持したことになりかねない。その批判者にも、通説は奥深くインプットされ、頭をもたげてくる。
 新羅であれ渤海であれ、日本のそれらとの交易は760年代を境にして、私交易としての性格を明らかに強めた。ただ、前者は日本との外交関係に関わりで新羅商人との私交易として展開されたが、後者は従来通りの、私交易を組み入れた朝貢使―それは日本にとっては外来者の受け入れやすい形態、渤海にとっては交易管理が容易な形態―として続いた。
 こうした二重の交易形態を取ってまでして海上交易を続けるのは、日本の舶来品に対する欲望が強いにかかわらず、それを自らが積極的に海外に出向いて入手しようとはしない。そして、舶来品の産出国―唐や南海諸国―がそれを日本に直接持ち込んでこないとき、日本がそのギャップを埋めるには第三者の交易人すなわち中継交易人に依存するしかなかった。その役割を果たしたのが新羅商人、さらに渤海使であった。この時代の東アジアにおける交易は、覇権国の唐と小帝国を演じようとする日本の狭間で、彼らは活躍することで成り立っていた。
 この日本の海上交易を自立させることなく、自らを閉ざしながら物欲しげな管理交易は、基本的には明治時代にはいるまで続くこととなる。
(2005/05/30記)

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