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中世イタリアの商人群像
―神に祈り、儲けに生きる―
Medieval European Merchants
- Pray to God and Live for Profit -

目次
1 フィレンツェの大市民ジョヴァンニ・ヴィッラーニ
2 プラートの成り上がり商人ダティーニ
3 ジェノヴァの一大家門のロメッリーニ家
4 ヴェネツィアの2人の典型的な商人

1 フィレンツェの大市民ジョヴァンニ・ヴィッラーニ

ジョヴァンニ・ヴィッラーニ
フィレンツェ新市場の
ロッジアにある彫像

▼はじめに▼
 ジョヴァンニ・ヴィッラーニ(1280?-1348)はフィレンツェの商人、『フィレンツェ年代記』の作者、そしてフィレンツェ支配層に属する大市民(ポポロ・グロッソ)である。その年代記には作者の事績も含まれている。それらを軽妙な筆致で紹介しているのが、清水廣一郎著『中世イタリア商人の世界 ルネサンス前夜の年代記』(平凡社ライブラリー、1993(1982))である。
  この年代記は、1844-45年刊ドラゴマンニ注釈版によれば、A5判4冊、本文2280ページ余という大冊で、その内容は旧約聖書から作者の死までのフィレンツェの歴史である。それを、彼は1322年ごろから書き始めたとされ、その死後、三男の弟マッテオが書き継ぐこととなる。
 ここでは、ヴィッラーニの大商人あるいは大市民としての事績により注目して、清水廣一郎氏の記述に最大限に従いながら、それを読み下せるよう、若干の補正・追加しながら紹介する。引用・参照個所の主なページを示す。
▼イタリア商人、十字軍にあやかる▼
 イタリア商人がアルプスを越えて北西ヨーロッパに進出するようになったのは、十字軍に際して騎士や諸侯に用立てた貸付金を取り立てるためだったといわれている。イタリア商人たちは第1回十字軍の計画に参与した訳ではないが、十字軍の成功を見て取るとただちに、ジェノヴァ、ピサ、ヴェネツィアはそれぞれ強力な船隊を仕立てて援肋に向かった。その結果、彼らは十字軍が占領した諸地域で多くの戦利品や商業的特権を獲得しただけでなく、北西ヨーロッパ出身の十字軍士たちと密接な関係を結ぶに至った(p.44)。
 かつての十字軍士に対する債権の回収のためアルプスの北へ赴いたイタリア商人たちは、スムーズな取立てができないために、どうしても外国に長期間滞在することになった。現金の取立てをするのは容易でなかったし、それを輸送するのはさらに困難だった。結局、彼らは自分たちの債権を商品に替えることになった。こうして、フランドル特産の上質毛織物やイングランドの羊毛がイタリア商人の扱う重要な商品となった。このような取引きの場が、有名なシャンパーニュの市であった(p.45)。
▼後発都市国家フィレンツェの台頭▼
 フィレンツェは、他の北・中部イタリアの主要都市に較べれば、はるかに後進都市であった。すでに12世紀の前半に都市国家として自らを確立していたヴェネツィア、ジェノヴァ、ロンバルディアの諸都市、トスカーナではフランスから北イタリアを経てローマに通じる「フランス街道」に沿ったピサ、ルッカ、シエナなどに較べれば、その発展はきわめて立ち遅れていた(p.241)。
 フィレンツェの商業活動は、13世紀の後半から教皇庁および南イタリアに進出したアンジュー家(フランスの名家)と結びつくことによって急速に発展し、14世紀に入るとバルディ、ペルッツィ、アッチャイウォーリなどの大商人を先頭にして、ヨーロッパ全土にその活動範囲を拡大した。彼らは、各地に駐在員を派遣して、相互の密接な連絡のもとに大規模な商業活動を営んでいた(p.243)。
 とくに教皇庁の御用金融業者としての活動や、当時のヨーロッパにおける最重要商品であったフランドル産毛織物の輸入、販売、再加工などが重要な意義を持った。後者は、やがて14世紀における毛織物工業の発展に連なり、長期にわたってフィレンツェの繁栄を維持するのに貢献することになる(以上、p.22-3)。
 こうして、イタリア商人は債権の回収、商品の売込み、滞在や輸出の許可などを求めて、西ヨーロッパ各地の聖俗諸侯の宮廷を訪れるようになった。
15世紀のフィレンツェ俯瞰図
フィレンツェ歴史地形学博物館蔵

▼イタリア商人の聖俗諸侯への貸し付け▼
 イタリア商人は、古代から伝統を持つ地中海商業圏のなかできたえられてきたので、当時のヨーロッパの水準では抜群の事務的・管理的能力を持ち合わせていた。この点に着目した教皇庁は、十字軍の費用調達のために徴収した10分の1税その他の教会の収入を集め、それを指定の場所に送金する業務を彼らに委任したのである。すでにヨーロッパ各地に根を下ろしつつあったイタリア商人は、現金を輸送する危険を冒さないでも、各地の代理人に支払いの指図をすることによって、かなりの金額を送金[決済、ではないか、引用者補注]することが可能になっていた(以上、p.46)。
 王侯への貸付けは、貴金属や宝石などを担保に取る形で行なわれる場合もあったが、将来の財政収入を担保とする場合が一般的であった。彼らは、王侯に代わって支払いを行ない、王侯に代わってその収入を受け取った。つまり、財務官のような働きをしたのである。その結果、イタリア商人の資金と、君侯の宮廷財政の資金とは、次第に区別がつかなくなっていった。
 イタリア商人は、12世紀以来、都市国家(コムーネ)を運営し、とくに13世紀半ばフィレンツェのフローリン貨やヴェネツィアのドゥカート貨などの金貨を発行していた。それらを国際貿易の基軸通貨としての地位を維持することにも成功する。そうしたイタリア商人の力量は王侯の財政政策の決定にあたってとくに役立つものであった(以上、p.48)。
 北西ヨーロッパへのイタリア商人の進出は、14世紀の初頭に最高潮に達していた。そして、イタリア半島の政治的支配権がドイツ側から、急速にフランスおよび教皇側に移動した。フィレンツェはこれに乗じて、先行のシエナ、ルッカ、北イタリアの都市などを抜き去った(p.51)。
▼出自と読み書きそろばん、そして見習い▼
 フィレンツェの商人たちにとって、1300年はまさに急速な成長期にあたっていた。その時、ジョヴァンニ・ヴィッラーニはおよそ20歳。見習いとしての修業も終え、すでに一人前の商人としての活動を始めていた。彼は間もなく、国際的な商業の舞台に乗り出そうとしており、そのための十分な条件が整っていた。
 なお、1301年秋には、ジョット・ディ・ボンドーネ(1267?-1337)がパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画「マギの礼拝」に描いた、ハレー彗星が出現している。ジョヴァンニ・ヴィッラーニも記録にとどめているが、それが彼にどのような運命を占うことになったのであろうか。
 彼の父ヴィッラーノ・ストルドは、当時のフィレンツェ政界の大立物チェルキ一族に連なる会社のメンバーであった。彼は、1298年にはロンドンに滞在して、エドワード1世(在位272-1307)から貸付金の利子3817ポンドを受け取っている。その社会的地位は、彼が1300年10月から12月まで都市国家の閣僚ともいうべきプリオーレ[市区の代表として選ばれ、最高評議会の代表委員あるいは政務委員となる、引用者補注]を務めたことからも知られる。このように、親の代から有力な商人の子弟として、ヴィッラーニは順調にその道を歩み出すことができたである(p.23)。
 商人の子弟は一般に6歳くらいから読み書きを習い始め、4-5年にわたる勉強をする。それから2年ほど算術の学校に通ってから、12-14歳で見習いとして実業の道に入るというのが普通だったらしい。もちろん、算術学校へ通うことのできる者の数はきわめて限られていたと思われる(p.37)。
 しかし、当時のヨーロッパの水準においては、イタリア商人のこのような能力はまさに圧倒的な力を持っていた。この時代、フィレンツェ商人がヨーロッパの各地を結ぶ大商業網を築き上げることができたのも、簿記、通信、手形などの経営的・管理的技術に負うところが大きかった。彼らはこのような技術を武器に、いまだ農村的思考態度が支配的であった世界の人びとを相手に、思うままに利益をあげていた(p.43)。
 ジョヴァンニ・ヴィッラーニも、1302年から07年にかけて、おそらくフィレンツェ、フランドル、パリのあいだを移動しながら商売を行なっていたのであろう。この時代に、彼は国際的商業・金融業のあらゆるテクニックを教え込まれ、身につけたのであった(p.86)。
▼定住商人への移行、商社と支店網▼
 13世紀後半という時期は、遠隔地商人たちの存在形態に大きな転換が生じた時代でもあった。それまで「遍歴商人」として君侯の宮廷や教会を回り歩き、シャンパーニュの市でお互いに取引を行なっていた商人たちは各地の主要都市に定住し、それを拠点として商業活動を営むようになった。いわば「定住商人」の時代がやって来たのである。
 もちろん、ただ定住しているだけでは、遠くへだたった地域間の価格差から最大の利潤をえるという、彼らの活動が行なえたはずがない。彼らが定住したのは、聖俗諸侯に対する金融が重要な業務となったためでもあるが、もう1つには定住したままでも遠方の情報を入手し、それに従って商品やかねを移動させることのできる条件が生まれていたためである。聖俗諸侯への金融も、このような条件があって初めて可能となった。
 外国に定住した商人たちは、フィレンツェの商人の「代理店」や「支店」として、本国とつねに情報を交換しながら商売を行なっていた。フィレンツェの商人は、いわば巨大な支店網を築きつつあった。14世紀に生じたシャンパーニュの市の没落も、地中海からジブラルタル海峡をへて北海へ至る航路が成立したことのほかに、金融の中心地としての機能がフィレンツェを先頭するイタリア商人の支店網によって奪われたことに大きな原因があった。
 フィレンツェのバルディ家やペルッツィ家の支店網は、のちのメディチやフツガーの場合よりも、さらに広い地域をカヴァーしていた。1331年から43年までのペルッツィ商社の従業員は133人で、フィレンツェの本店の他にイタリアではピサ、ナポリ、ヴェネツィア、シチリア、バルレッタなど、西ヨーロッパではロンドン、パリ、ブルージュ、アヴィニョン、地中海地域ではチュニス、キプロス、ロードス、それにマヨルカなどに駐在していた。1310-45年におけるバルディ商社の従業員は346人であった。
 これら駐在員は、会社の出資者(正社員)ではなかった。彼らは定額の給与を受け取り、とくに成果が上ったときにはボーナスをもらう従業員であった。14世紀後半のプラートのダティーニ家[後述する]や、15世紀のメディチ家などになると、各支店もそれぞれ会社となり、しかも資本金の50パーセントは本店の正社員が出すという形がとられるようになる(以上、p.64-6)。
バルディ家礼拝堂
ジョット:聖フランシスコの嘆き、1325

ペルッツィ家の礼拝堂
ジョット:聖ヨハネの昇天、1320
サンタクローチェ教会
2つの家の礼拝堂は祭壇右側に並んでいる 
▼ペルッツィ商社の正社員となる▼
 1300年5月にフィレンツェでバルディとならぶ有力な商社ペルッツィの新会社が設立された。出資者(正社員)は21人で、ペルッツィ家から2人、その他10人、資本金は総額12万4000リラ[・ア・フィオリーニ]であった。ジョヴァンニ・ヴィッラーニはこの会社に参加し、1000リラを出資して社員の末尾に名を連ねた。社員たちには出資した金額に従って利益および損失を分配されることになる。
 フィレンツェの本店から、従業員の仕事を監督したり、君侯への貸付のような重要な商談をまとめたりするため、時に正社員が派遣されることがあった。ジョヴァンニ・ヴィッラーニも、このような任務を帯びてフランドルやパリにやって来ていたのである(以上、p.66-8)。
 1301年7月、ヴィッラーニはローマ近郊のアナーニに住まって、ペルッツィ商社を代表として教皇庁の高位聖職者に貸付を行っている。他方、ペルッツィ商社などフィレンツェの商人たちはフランス王権にも深く食い入っていた。1303年、フィリップ4世(フィリップ・ル・ベル、在位1285-1314)がアナーニにおいて、教皇ボニファティウス8世(在位1294-1303)を捕縛する。このアナーニ事件の際、フランス軍に融資を行っている。
 フランスはフランドルと争っていたが、1304年リール近郊のモン・サン・ペヴェルにおいて打ち破り、ガン近郊のクルトレーでの敗北の雪辱を遂げる。その戦後処理に、ジョヴァンニ・ヴィッラーニは1306年春フランドル伯の財務官を引き受けていたシエナの商人に両替証書によって金銭を貸し付け、また同年末フィリップ4世の代理としてフランドル伯から支払われた賠償金を受け取っている(以上、p.67、71-3)。
▼商社を設立、プリオーレに就任▼
 ペルッツィ商社は代表者の死亡によって清算され、1308年11月には新会社が設立されるが、ジョヴァンニ・ヴィッラーニはその新会社のメンバーとはならず、その代わりに次弟のフィリッポ・ヴィッラーニがなる(p.89)。
 ペルッツィ商社を離れたヴィッラーニは、やがてヴァンニ・ブオナッコルシの会社に入って活動するようになる。この会社は14世紀の初頭にはきわめて小規模なものであった。この会社ではジョヴァンニ・ヴィッラーニの大伯父が共同経営者となっており、すでに2世代も前からヴィッラーニ家とブオナッコルシ家とのつながりが存在した。
 1314年、会社の代表にヴィッラーニの姉妹と結婚しているヴァンニ・ブオナッコルシが就任すると、とりわけ南イタリアでの商業・金融活動に力を注ぐようになり、急速に発展するようになる。とくにイタリア南部のプーリアからの穀物の輸出や、重要な教皇領のあるベネヴェントからローマへの送金業務を中心とし、毛織物、家畜、金属、オリーブ油、明礬など多様な商品を取り扱っていた(以上、p.92)。
 ブオナッコルシ商社の発展にとって決定的な一歩が1324年に踏み出される。この年、ヴァンニ・ブオナッコルシがナポリへ赴き、ナポリ支店の代表者の1人をアヴィニョンに移し、支店を開設する。アヴィニョンは、当時(1309-77年の教皇の幽囚により)教皇座の存在する都市として、国際的金融業の中心であった。アヴィニョンに支店を持つということは、イタリア半島内での商業・金融業活動にとどまらず、国際的金融業の第1線に進出することにほかならなかった。この重大な決定は、おそらくジョヴァンニ・ヴィッラーニによって立案され、推進されたものであろう(p.93)。
 ブオナッコルシ商社も、1325年5月1日新会社として再発足する。それはブオナッコルシ、ヴィッラーニ、アルドブランディーノの3家の共同事業として計画され、8人の正社員(出資者)を擁し、「フランス(フランドル産)毛織物、両替、羊毛、その他の商品の取扱い」を行なうという広範な業務を予定していた。そして、社主であるヴァンニ・ブオナッコルシとジョヴアンニ・ヴィッラーニが代表権を持ち、資本金、社員の数、営業や管理の方針などを自由に決定することが認められていた(p.94)。
 このころがヴィッラーニにとってもっとも得意の時代だったと思われる。彼は、1316年12月-17年2月、1321年12月-22年2月、1328年8月-10月と、3度にわたってプリオーレに就任し、フィレンツェの上層市民としての社会的・政治的地位を確立していた(p.95)。
▼勤務の異なる兄弟の利益共有協定▼
 ヴィッラーニ一家は、長男のジョヴァンニと三男のマッテオがブオナッコルシに、次男のフィリッポと四男のフランチェスコがペルッツィに、という具合に2手に分かれて勤務していた。
 1322年5月1日、ヴィッラーニ家の4人の兄弟は、父の出席の下に一種の私的協定を結んだ。その目的は、兄弟たちのあげた利益を共有にしようということであった。このような兄弟の経済的共同体はフラテルナと呼ばれ、分割相続が慣行であったランゴバルド時代以来、領主・土地所有者層においてごく普通のことであった(以上、p.95-6)。
 この協定はきわめて興味深いものがある。何よりも、複数の会社から得られる利益を兄弟で共同化しようという試みは、ユニークなものであるといわざるを得ない。われわれは、家の結合という伝統的理念の強さに驚くほかはない。彼らは自分のえた利益を自分の会社に投資してもよいし、他の方法で利益を計ってもかまわない。自分の、ひいては兄弟団の利益になればそれでよいのである。つまり、それらの会社は排他的な競争関係にあるのではなく、家によって横断的に結びつけられていると理解されていた。
 コンメンダ、ソキエタス、コンパニーアなどと呼ばれる会社(組合)組織は、一般に家を基礎とする団体から出発したと考えられている。その始源的形態は、すでにユダヤやイスラムの商人のあいだで発達していた。たとえば、遠方での交易にでかけるときには、家族のものが資金を出し合い、協力して商売を行なった。その利益や損失は、出資分に応じて家族間で配分される仕組みであった。この方法をとれば、1人で商売するのと違って、資本を増やすことも、失敗したときに損害を分散することも容易であった。だが、この団体はあくまでも家族を基盤とし、その枠を越えることはなかった。
 しかし、個人の能力や資本を最大限に集中するために、非血縁者を多数抱き込むようになったのは、中世イタリア商人の発案になるものであるとされる。その結果、外部の政治的・社会的変化に適応することが容易であり、さらに資本の動員力に富む会社組織が発展した。つまり、会社は疑似家族的な利益共同体であったといえるだろう(以上、p.97)。
▼兄弟協定の破綻、10年の紛争▼
 1330年から40年までブオナッコルシ商社が比較的安定していたのに対して、ペルッツィ商社は他の諸会社と同じく経営的に困難な状況にあった。このことが、ヴィッラーニ兄弟を分裂させることになったのである。そして、当然のことながら、後者は1322年の協定の実行を要求し、前者はできるかぎりそれを遅らせようと努めたらしい。父親をも巻き込んだ財産争いの様相を帯びるに至ったのである。1335年には商業裁判所に持ち込まれ、兄弟間の紛争は延々と10年以上にわたって続くことになる(p.103)。
 1340-41年になっても、兄弟たちは問題解決のための調査員選定をめぐって激しく争っていた。このあいだに、兄弟の属したペルッツィ商社、ブオナッコルシ商社ともに経営困難に陥り、やがては倒産するに至り、事態はきわめて暗い影を帯びるようになった。
 このエピソードは、商人・年代記作者ジョヴァンニ・ヴィッラーニの生涯における汚点だろうか。考えてみれば、自己の利益をあくまでも追求しようとする厳しい態度と現実的な行動様式、圧倒的に優れた商業技術と法的手段に訴えることをためらわないメンタリティなどこそ、「ロンバルディア人」を成功に導いた原動力だったはずである。つまり、この一連の事件は単なるエピソードではなく、彼らの思考様式の本質に触れたものだったのである(p.105)。
▼6人の嫡出子と2人の非嫡出子▼
 ジョヴァンニ・ヴィッラーニは2度結婚して6人の嫡出子と、現地妻か女奴隷かとのあいだで2人の非嫡出子をもうけている。
 黒海は、この時代のイタリア商人の東方貿易における重要な地域であった。クリミア半島のカッファ(現テドシア)やドン河口のタナ(現アゾフ)には、彼らの大きな居留地が存在した。この他域では奴隷貿易がさかんであった。スラブ人、トルコ人、ギリシア人、アルメニア人、それにタルタル人と呼ばれていたモンゴン系の多数の奴隷が、奴隷貿易の最大の中心地であったアレキサンドリアへ、あるいはジェノヴァ、ヴェネツィアへ運ばれていた。
 1348-49年の黒死病蔓延の結果、人口が激減する。1363年にフィレンツェ政府は奴隷の輸入を、異教徒に限るという条件をつけてではあるが、全面的に自由化している。また、1366年7月から1397年3月までフィレンツェ市内で売買された奴隷は357人である。そのうち実に274人がタルタル人、また女性が329人であった。
 ルネサンス期においても、上層市民のあいだでは家内奴隷、とくに女奴隷を持つ習慣が広く普及していた。1414年から23年までの10年間にヴェネツィアの市場で売買された奴隷の数は1万人以上にのぼるといわれている(以上、p.121-3)。
奴隷アトランテ
髭の奴隷
目覚めた奴隷
若い奴隷
ミケランジェロ:奴隷像、1520-34、アカデミア美術館蔵
▼14世紀前半フィレンツェの経済および財政▼
 1339年、大商人の破産が起きる直前におけるフィレンツェの経済および財政について、ジョヴァンニ・ヴィッラーニは次のように述べている。
 「フィレンツェの財政収入は、年間およそ30万フローリン[リラ・ア・フィオリーノ]に達したが、これは1つの王国に匹敵する額であった。ナポリのロベルト王も、シチリア王も、またアラゴン王もこれほどの収入をもっていなかった。市門で商品や食料に課される関税だけで9万200フローリン、ぶどう酒小売税が5万8300フローリン、コンタード[農村領域、引用者補注]の直接税が3万100フローリン、塩税が1万4450フローリン等、15歳から70歳の武器をとり得る男子の数は2万500人、豪族としてとくに都市国家に誓約を行なっているものは1500人、騎士75人。老若男女合わせて人口は9万人、その他に常時1500人の外国人がいる。聖職者はまた別である。この時代、コンタードとディストレット[獲得地域、引用者補注]には8万人の男たちがいた。
 教区司祭が洗礼を授ける子供は(聖ジョヴァンニ洗礼堂での洗礼の際に、男児ならば黒い玉、女児ならば白い玉を用いて数を数える)毎年5500人から6000人で、そのうち男の子が300人から500人多い。読み書きを習っている子供は、男女合わせて8000人から6000人、6つの学校で算術を習っている男の子は1000人から1200人である。4つの大学校〔高等学校〕で文法と論理学を学んでいるものは、550人から600人である。
 毛織物組合の店は200以上あり、7万から8万反を生産していたが、これは120万フローリンに相当する額であった。この仕事から、織元のもうけは別にしても、その3分の1以上がこの地に残り、3万人以上の人がそれで生活した。フランスおよびアルプスのかなたの織物を扱うカリマラ組合の店は20で、30万フローリンに相当する1万反の織物を毎年輸入していた。両替商の店は80だった。鋳造される金貨は35万から40万フローリンにのぼった。4デナーロの小額貨幣は、毎年およそ2万リブラも鋳造された」(p.248-9)。
▼「14世紀の危機」、領主経済の危機▼
 14世紀は中世最大の不況期とされ、13世紀末からシエナ、ルッカ、ピストイアなど、さらにフィレンツェの商人たちのなかにも、破産するものが現われる。特に、1308年から12年にかけてはフランス王フィリップ4世の政策によって、イタリア商人は王国内でさまざまな圧迫を受け、危機的な状況にあった(p.91)。
 14世紀のヨーロッパは、百年戦争の勃発(1339年)と黒死病(1348-49年)による人口の急減に象徴される困難な時代であった。経済的な不振はすでに世紀初頭にその兆候を見せており、1315-26年ごろから悪循環が始まっていた。
 それが一気に深刻な事態になったのは、1340年代のことであった。飢饉、疫病、戦争などの災害は、農民の生活を破壊し、農村を荒廃させてしまった。そして、労働人口の減少による生産力の低下は、領主収入をいちじるしく減少させ、その結果、領主層の没落と交代といった現象をもたらした(以上、p.145)。
 ヨーロッパ全土に及ぶ聖俗領主の経済に密着して、大きな利益をあげてきたイタリアの商人・金融業者が北西ヨーロッパの「領主経済の危機」によって大きな打撃を受ける。とくに重大であったのは、イタリア商人たちが教皇庁とともに最大の活躍の場としていた、フランスとイングランドにおいてきわめて困難な立場におかれたことにある。
 この両国とも、他国にさきがけて国王が権力をその手に集中する「集権的」国家を目指して歩んでいた。1339年に始まる百年戦争自体、ヨーロッパではじめて出現したこの2つの集権的国家のぶつかり合いにほかならなかった。集権的国家の形成には、それにふさわしい行政的能力や資金の動員力などを必要とするが、14世紀初頭においてこれを提供しえたのはおそらくイタリア商人だけだった(以上、p.146)。
 1339年5月6日、エドワード3世(在位1327-77)はアントワープで勅令を発し、国王の債務に関する支払いの停止を命令した。これは決して全面的な支払い停止ではなく、主として軍費を賄っていたバルディとペルッツィは、その対象から慎重に除外されていた。しかし、その反響はきわめて大きかった。特権商人たちの立っている足場がいかにもろいものであるか、この命令はまさにそれを端的に示した(p.148)。
 なお、1346年におけるイングランド王に対する債権は、イタリア最大のバルディ商社が90万フィオリーノ、またペルッツィ商社が60万フィオリーノであったとされる。
▼王侯への過度の貸付け、商社の破産▼
 1340年11月、豪商バルディ家は何軒かの豪族と手を結び、フィレンツェ政府に対するクーデターを企てる。しかし、この計画は事前に洩れてしまい、多数の市民が一味の館を焼打ちにし、バルディ家の主要メンバー16人が都市から追放されるという事態となった。
 1341年9月ごろから小規模な破産が頻発し、それまで大商人からの前借りによって商品や原料を入手していた小商人・手工業者は前借りを受けることができず、店を閉じるものが続出した。もはや、事態は一刻の猶予も許さないものとなっていた(以上、p.153)。
 1342年6月ブオナッコルシ、1343年ペルッツィ、1346年バルディが破産する。ジョヴァンニ・ヴィッラーニは、これら「キリスト教世界の支柱」であった有力な商人が相次いで倒産に追い込まれた理由として、@エドワード3世への過度の貸付け、Aシチリア王(アンジュー家)への過度の貸付けを上げ、次のように述べている。
 「われわれの都市フィレンツェがこれほどの破滅と敗北を蒙ったことは、これまでに例がなかった。儲けの欲望にかられて国王や君主の手に委ねた財貨がすべて失われてしまったことを、読者よ、考えてみられるがよい。おお、呪われた貪欲な牝狼よ。盲目にして狂気の市民たちを支配している儲けの悪徳よ。彼らは、君主たちから儲けを得ようとし、自分たちのかねや他人から預かったかねを彼らに貸し付けたのであった」(以上、p.168-9)。
▼フィレンツェ内政混乱のもとでの「夜逃げ」▼
 1330年代、フィレンツェは勢力を拡大しようして、ピストイアとアレッツォを制圧するが、ピサ、ルッカ、シエナを攻略できない。1341年10月に、フィレンツェ軍がピサ軍によって、ルッカの城外で大敗を喫する。この敗北はフィレンツェ市民にとって大きな衝撃となった。ヴェローナを本拠とするスカーラ家との長期にわたる戦争の後に、今度はピサと戦わねばならなくなったフィレンツェにとって、もはや独力でこの戦争を続けることは困難であると思われた。
 フィレンツェの都市政府は、これまで密接な関係を維持してきたナポリ王ロベルト(在位1309-43)に、まず救援を求める。ところが、ロベルト王は自分の甥を司令官として1千人の騎士と12隻のガレー船を派遣するという、かねての約束を反故にしてしまう。
 そこで、フィレンツェ市民は軍事指揮官として、ロベルト王の武将アテネ公ゴーティエ・ドゥ・ブリアンを招き入れる。それとは別に、神聖ローマ皇帝ルードヴィヒ・デル・バイエル(皇帝在位1314-47)にも接触していた(以上、p.171)。
 ルードヴィヒ・デル・バイエルの軍勢がフィレンツェに到着し、都市政府と交渉を開始したのは5月9日であった。まったく偶然にも、アテネ公がこの都市に到着したのも、同じ5月9日だった。それから20日余りのあいだ、都市国家はドイツ皇帝に援助を求めるか、ナポリ王に援助を求めるかの選択を迫られる。
 フィレンツェ人は、結局、伝統的な政策を放棄することなく、アテネ公を選択した。その後、フィレンツェはアテネ公により支配されることになるが、10か月後、市民の反乱により、自治政府が復活する。
 フィレンツェの内政が混乱するさなかの、1342年の5月末から6月初めにかけて、ブオナッコルシの支店のある各地から社員たちが忽然と姿を消す。ナポリ王国では6月7日早朝、フィレンツェの商人(後段の記述では、ブオナッコルシ商社のメンバーだけ)が突然いなくなる。ナポリ王国の国民が彼らに預けていた預金は、推測しがたいほどの額であった。要するに、彼らは「夜逃げ」を敢行したのである(以上、p.174-5)。
 敏腕なブオナッコルシ商社のメンバーがなんらかの危険を察知して「逃亡」を敢行した。その結果として、フィレンツェ商人に対する信用は一気に失われ、おそらくは、取付けも起きる。その後も、ナポリ側の追及がとくにブオナッコルシ商社に対して厳しかったことは、このためであった。ブオナッコルシ商社が取付け騒ぎの犠牲となったのではなく、むしろその原因となるような行動をとった可能性が高い。
 そこで、清水廣一郎氏はジョヴァンニ・ヴィッラーニという商人兼年代記作者は一筋縄ではいかない人物なのである。フィレンツェ商人の過大な貸付けと、都市政府の失政によってナポリ王国での信用が失われたことが、破産の原因であったとする説明は、そのまま素直に受けとれない。そこには、自己責任を他に転嫁しようとする、したたかな人間をみるべきではないだろうか、という(以上、p.177)。
▼ブオナッコルシ商社の清算、そして黒死病▼
 ヴィッラーニはプリオーレのほか、市壁の建設や貨幣の鋳造、飢饉の際における食料の配分などを司る役職を歴任し、外交交渉の場にも出ることがあった。若い時には外国で商売に専念し、経験を積んで帰国してからは、商売とともに政治面でも活躍するというのが、上層市民がたどるコースであった。
 ヴィッラーニの場合も、まさにこの道を順調に歩んできた。しかし、このコースから脱落してしまう。1331年まで、彼は市壁建設事業の会計を担当していたが、任期満了時の監査で公金横領の疑いをかけられたからであった。それはえん罪であった。いったい、どのような事情で彼がこの汚名を着ることになったのか、今日となっては知るすべもない(p.179)。
 ブオナッコルシ商社のメンバーがナポリ王国から逃亡して10日もたつと、債務の支払いを求める訴えが、ぞくぞくとフィレンツェの商業裁判所に提出される。それに対して、商業裁判所はきわめてスピーディな審理を行ない、支払い命令が出す。これから長期にわたるブオナッコルシの破産手続が始まるが、配当金支払いの協定ができ上ったのは1349年の3月のことであった(p.181)。
 1346年には債権者団体の要求によってヴィッラーニは投獄されている。この時期においても、彼はブオナッコルシ商社を代表して債権者たちと交渉していたらしい。
 ブオナッコルシ商社の破産後、「不況」は一段と深刻になり、フィレンツェ経済はまさに「危機」の様相を呈するようになった。すでにみたように、フィレンツェを代表する商社であったペルッツィとアッチャイウォーリは1343年に、バルディは1346年に次々と破産する。
 これらの大商人の破産は、中小商人や手工業者の連鎖的な倒産をひきおこし、市民をパニックにおとしいれた。今や、債権者が債務者であり、債務者が債権者であった。市民相互の利害関係が極端に複雑になってしまったので、破産の手続も円滑に進行しなくなった(以上、p.183)。
 このような混乱がフィレンツェを支配しているなかで、1348
フィレンツェのペスト
ルイージ・サバテッリ(1772-1850)画
年、あのボッカチオの『デカメロン』に描かれている「黒死病」が襲来する。ヨーロッパの人口のおよそ4分の1から3分の1、フィレンツェの都市人口の半分の生命を奪った。その災厄の犠牲者のなかに、ジョヴァンニ・ヴィッラーニも入ることとなる(p.184)。
(2007/03/08 記)
(次のページにつづく)


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