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続 中世イタリアの商人群像
(Sequel) Medieval European Merchants
- Pray to God and Live for Profit -

2 プラートの成り上がり商人ダティーニ
フランチェスコ・ディマルコ・ダティ
ーニ
プラートのコムーネ広場にある彫像

2-1 はじめに
▼商業活動を記録した膨大な文書▼
 トスカーナ地方の小都市プラートに実在した商人フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニ(1335?-1410)の生活を描き出したのが、イリス・オリーゴ著、篠田綾子訳、徳橋 曜監修『プラートの商人 中世イタリアの日常生活』(白水社、1997)である。ダティーニは、プラートの貧民に7万フィオリーノもの救済基金を遺しただけなく、他に類を見ない中世の商業活動の記録を完全なかたちで残していた。
 1870年、プラートのパラッツオ・ダティーニの階段下の穴蔵から発見された書類は、500冊ほどの帳簿と会計簿、約300通の共同経営の契約書、保険証券と船荷証券、為替手形と小切手、とりわけ約14万通にのぼる通信、そのうち1万1000通は私的な手紙で、残りは彼の商業活動のさまざまな面に属する503冊のファイルであった(p.8)。
 それらのうち、本来的な商業書類の分析は別途研究されており、著者イリス・オリーゴが関心を寄せたのは個人的な会計簿と帳面、そして大量の通信であった。そうした制限にもかかわらず、いま上で紹介したヴィッラーニと比べれば、1世紀遅れの14世紀半ばから世紀末まで活躍し、また大商人とはいえない普通の遠隔地商人の職業生活を知ることができる。ここでも、すでにみた同じ要領で紹介する。
▼フィレンツェに服属するプラート▼
 プラートとは牧草地という意味で、フィレンツェの北西わずか15キロメートルのところにあり、画家親子フィリッポ・リッピ(1406-69)、フィリッピーノ・リッピ(1457-1504)のゆかりの地である。そのコムーネ広場には、長衣をまとい、丸い帽子をかぶり、為替手形を持ったダティーニの像がある。
 13世紀後半頃から、自治都市(コムーネ)は勢力争いをはじめ、強力なコムーネが近隣の弱小コムーネを併呑するようになる。トスカーナではフィレンツェが台頭し、プラートは1350年に征服され、小規模な領域国家となって、フィレンツェ政府に従うことになる。
 しかし、プラートの市民は従来のコムーネの自治体制を維持することを認められた。したがって、プラート市民としての自覚を保ちえたが、同時にフィレンツェの領域の住民という立場でもあり、しかもフィレンツェ人からみれば「他処者」であった。
 プラート市民であるダティーニは、フィレンツェの絹織物商組合(ポル・サンタ・マリア組合)などに加入しているが、それはプラートがフィレンツェの支配下にあったからとされる。しかし、彼がフィレンツェで好意的に受け入れられたわけではない(以上、p.495、主に徳橋 曜氏の解説による)。
 なお、著者によれば、プラートは1351年ナポリ王ロベルトの後を継いだ孫の女王が、フィレンツェに1万7500フィオリーノというはした金で売り払われることになっている(p.68)。
プラトーにあるダティーニ邸
ダティーニ邸に収蔵された文書
▼中世からルネサンス期への過渡期▼
 ダティーニが活躍した時代は、中世からルネサンス期への過渡期と位置づけられている。同業組合(アルテ)の協調体制が少数の大企業家の支配に道を譲り、都市政府(コムーネ)の支配が一握りの富裕な商人と銀行家に取って替わられようとしていた。
 そこでは、大部分の者はまだ教会の規範と同業組合の規則にしたがって生活をととのえていたが、少数の者はすでに自分たちの大胆不敵なたくらみを隠す隠れ蓑としてのみ、それらの規則を利用していた。中世の有無を言わさぬ正統性はルネサンスの懐疑的な好奇心に道を譲り、目的を達成するためには自らの企業心と順応性と俊敏さに頼るほかない男たちがいた。すなわち、商人である(p.18-9)。
 ダティーニはルネサンス期の商人に属しており、彼の成功は単に野心的な男の成り上がりの記録以上の意味を持つ。野心、抜け目なさ、頑固さ、心配性、強欲とともに、その事業の範囲と多様性、組織力、国際的な視野、そして混乱の時代の変化へのすばやい対応において、彼は今日のビジネスマンの先駆者といえる(p.20)。

2-2 アヴィニョン時代―一人前になる―
▼15歳にして、アヴィニョンへ旅たつ▼
 ダティーニは1335年に生まれたとされる。彼の父親は貧しい旅籠を営み、彼に市場で牛の肉を切らせて売らせてもいた。1348年の黒死病の大流行で、両親と2人の兄弟を失い、彼ともう一人の弟が残る。徒弟の後、アヴィニョン帰りのトスカーナ商人たちから繁栄の都の噂を聞き、15歳の誕生日を迎えて間もなく、彼はささやかな土地を150フィオリーノで売り払い、おそらく何人かのフィレンツェの商人について―というのも、大旦那の「影のもとに」旅するのが、貧しい旅人のえられる唯一の保護だった―勇躍、アヴィニョンへと出発する(p.32)。
 当時のアヴィニョンには、1309年以来の「アヴィニョンの幽囚」により教皇庁が置かれており、ヨーロッパでも最も重要な商都の1つだった。南北ヨーロッパを結ぶ大動脈ローヌ河に沿うこの都は、当時
の2大商業国、イタリアとフランドルのあいだの貿易の中心地になっていた。 トスカーナの商人たちは、ピサから船でプロヴァンスの海岸に上陸し、ローヌ河をさかのぼって、フランドルとイングランド産の羊毛や厚地の毛織物を買いに来ていた。一方、彼らの売るものはカリマラ組合(毛織物取引組合、これ以外に、毛織物製造組合がある)が扱う上質の毛織物、ルッカの絹や紋織りの生地、ペルージャとアレッツォのベール、フィレンツェの彩色パネル、金銀器、などであった(p.32-3)。
 アヴィニョンには、イタリア各地の大小の商人たちが600家族ほどいて、がっちりした小さな居住区に住みついていた。彼らのうち、少数のロンバルディアかビエモンテの出身のほかは、大部分がトスカーナ人であった(p.35)。
1704年頃のアヴィニョン
上部に教皇庁、壊れた橋が見える
アムステルダム印刷
▼アヴィニョンで、多種多様な商品を商う▼
 多分、すでに当地に根を下ろしていたフィレンツェの商社で、見習いとして働いたであろう。彼は、後見人に金の無心なぞせず、1358年に弟を呼び寄せるまでになっていた。その年、彼は短期間プラートに帰って、別の土地を売り、小資本を手にアヴィニョンに戻っている(p.37)。
 1361年までには、彼は商人としての地歩を固めた。最初は主として甲冑、そして武器の材料を扱った。1376年には、塩の商売をはじめた。最初は確かに利潤が上がらなかった。「それでもわたしは、どんなに恐ろしくても航海をやめない水夫のように、このまま続けるだろう」。同年、すでに50の公認の両替商がいるのに、両替商の看板をかかげる(p.40-1)。さらに、酒屋と生地屋も開業し、1382年には4000フィオリーノにもなるサフランを入手している。
 1380年には、2人の幹部社員に2000フィオリーノを預けてナポリに派遣しているが、高価な商品はニースへ、粗末な商品はマルセイユかアルルへ、「そして、もしガレー船のうまい便がつかまえられたら、保険をかけずに送るよう」連絡している。ガレー船は手漕ぎではあるが快速であったので、確実な輸送が期待されたかにみえる。
 アヴィニョンのフランチェスコの商社は、しだいに多種多様な商品を扱うようになる。武具のほかの主な商品は羊毛、《グラーナ》とよばれる赤い染料、皮革(カタルーニャから輸入する鞍やラバの馬具を含む)、小麦、油、ワイン、蜂蜜、フランスのリネン、イタリア各地からの家庭用品、ジェノヴァの白リネン、クレモナのファスチアン織り〔短いケバをたてた綾織綿布〕、ルッカの深紅のゼンダーディ(一種のタフタ)、そしてフィレンツェからは銀のベルトに金の結婚指輪、白と青の未染色の毛織物、縫い糸と絹のカーテンとカーテン・リング、テーブルクロスと一種のナプキンと大きなバスタオル。嫁入り道具の美しい色塗りの長持と丈夫な旅行用長びつ、それに小さな宝石箱もフィレンツェから輸入した(p.44)。それ以外には宗教画にうま味があったという(p.45)。
▼共同経営を採用して、事業を拡大▼
 1363年、他のプラート人からアヴィニョンのピアッツァ・ディ・カヴァリュリ(騎士の広場)に最初の店を買い、顧客の信用でえた300フィオリーノを加えて、941金フィオリーノを支払った。そして、その階上に住まいをもうけた。
 ダティーニは、最初の段階がおそらくいちばん困難だっただろうが、共同経営を採用することで事業を拡大し、いち早く大きな利益を上げる。すなわち、1363年7月13日に彼と共同経営者の1人ニッコロ・ディ・ベルナルドは、それぞれ800フィオリーノと400フィオリーノを事業につぎ込み、1365年の1月1日までに、それぞれ200フィオリーノの利益を上げる。
 1367年には、自分と同じトスカーナ人トーロ・ディ・ベルトと手を組んだ。それぞれが2500金フィオリーノの資本を投下して、いまや3軒の店を持った。さらに、同時に、別のトスカーナ人トゥッチョ・ランベルトゥッチとも共同事業をはじめ、これが非常に当たったので、彼らがつぎ込んだ800フィオリーノが8年もたたぬうちに1万フィオリーノにもなる。フランチェスコの共同経営者はほぼトスカーナ人であった。
 そこで強調すべきことは、ダティーニの商社はどれ1つとして、アヴィニョンにおける国際的な大商社に伍するところまではいかなかったことである。例えば、アスティのマラバイラ、アルベルティ旧社と新社、フィレンツェのソデリーニ、ルッカのグイニージ、ピストイアのアンドレア・ディ・ティーチといった大商社は教皇の銀行家および御用商人であった。
 それに比べれば、ダティーニはアヴィニョンのマイナーな商人の1人に過ぎなかった。彼の商社はいずれも2人か3人の社員からなり、多種多様な物品を輸入していたとはいえ、どれも比較的小規模であった(以上、p.40-1)。
▼血筋のよいフィレンツェの娘と結婚▼
 フランチェスコ・ディ・マルコは35歳までに実力者になっていた。彼は、華美な都の快楽をどれも敢えて拒もうとはしない男だった。「肉体の快楽をすべて知っている男」というのが、後年、友人で公証人のセル〔聖職者、公証人にたいする敬称〕・ラーポ・マッツェイが評した言葉である。また、「女を囲い、もっぱらヤマウズラを食べ、絵と金を崇め、〈造り主〉と自分自身のことを忘れている男」とも呼んでいる(p.47)。
 1376年、41歳になったダティーニは遂に、マルゲリータ・ディ・ドメニコ・バンディーニという、16歳のフィレンツェ人の娘と結婚する。花嫁は嫁資を持ってこなかったが、若さと器量とよい血筋を持ってきた。彼女の母方の家は、商人階級より上に位置するフィレンツェの、少数の貴族に属していた。そのときも、彼はプラートの人々から帰郷を期待されていたが、彼にとってはとんでもないことであった(p.55)。
 彼は成り上がり者であって、頼るべき親族も持たないまま、自らの才覚だけで身代を築き、富裕な商人として、プラートの上層市民に仲間入りした。彼には、アヴィニョンに居留しているあいだに生れた庶出の娘以外に、子供はいなかった。
 それゆえに、当時の上層・中層市民が重視した親族の結合が、ダティーニの商社には終生、欠けていた。また、同時代のフィレンツェ商人たちにあった一族や子孫の繁栄への執着はみられず、プラートの公職には就いているものの都市の政治にはあまり関心がなかった。彼の帰属意識は、プラートよりもむしろアヴィニョンにあったのではないか(p.499、徳橋 曜氏の解説)。
▼教皇軍と戦闘、教皇のローマ帰還▼
 1370年代、教皇庁は一つの国家として領域拡大を目指し、フィレンツェと対立関係に入っていた。フィレンツェ人は〈戦時8人委員会〉なる臨時政府を創設して宣戦(後に8聖人戦争と呼ばれる)、1375年には周辺の都市とともに教皇軍に、一時勝利を収める。
 1376年3月31目、教皇[グレゴリイス11世、在位1370-78、引用者補注]はフィレンツェの全市に聖務禁止令を布告して、その市民を異端者として扱うと宣言したばかりか、すべてのキリスト教国の支配者にフィレンツェ商人を追放し、その財産を没収せよと命じた。アヴィニョンにあるフィレンツェ人の裕福な居住区は解散させられ、多数の者がジェノヴァに難を逃れる(p.60)。
 しかし、フランチェスコは追放ならずにすむ。それは禁止令をフィレンツェ人だけに適用し、プラートの市民を除外した。しかも、プラートを教会の支配のもとに置こうとしていたからであった。多くのフィレンツ商人は、アヴィニョンにあるすべての商品と事業の管理を、フランチェスコに託したという。それに対して、彼はイタリアにいる友人たちの説得に耳をかさず、居残り続けた。
 1381年、教皇が多少折れて、フィレンツェ商人にアヴィニョンに戻って、5年間商売することを許したが、彼はそのころまでに事業をたたむ気になっていた。1377年アヴィニョン幽囚が終わり、翌年教皇がローマ帰還すると贅沢品の交易の流れが一部、イタリアの方へと変わったからであった(p.61)。
▼帰郷を決意、家族はアルプス越え▼
 そうした流れのなかで、ダティーニは帰郷を決意する。1382年12月8日、フランチェスコ・ディ・マルコはアヴィニョンの支店を信用のおける従業員に託し、またアヴィニョンの事業を新しく共同経営としたうえで、故国へと出発する。家族の荷物はアルル経由ピサ行きの海路で送ったが、彼自身と妻と召使たちは11人のグループで、アルプスを越えて旅をした(p.62)
 この旅でフランチェスコは危険に遭遇せずにすんだ。ひと月とちょっとかかった。シストロンからモン・ジュネーブル峠を通ってアルプス越えに3日半、ミラノまで5日、そこで1週間休む。それからクレモナとボローニャを通ってプラートまで2週間、こうして1383年1月10日に無事プラートに到着した。
 フランチェスコ・ディ・マルコは、33年間の外国暮らしの後、48歳になってようやく帰郷する。だが、いちばん首を長くして待っていた人びとにとって、彼の帰りはほとんど遅きに過ぎた(p.63)。

2-3 故郷プラートで、織物業と羊毛の輸入
▼プラートにおける経営と社会的地位▼
 プラートは、12世紀から今日まで、毛織物業とともに盛衰してきた。14世紀のプラートは、市壁内に約1万2000人、周辺の領域の48の村と集落に約1万人が住んでいたようである。当時の標準からみればかなりの都会であったとはいえ、それは小さい世界だった(p.72)。
 プラートの市民は彼に概して冷たかったが、評議員に選ばれ、また数年後には〈正義の旗手〉にも任命されている。町全体の繁栄が織物業にかかわっていた。ダティーニは当然のようにそれに関わる。ピサに支店を開いて、海外から羊毛や染料を輸入する道を確保する。そして、1383年、彼は正式に毛織物組合に加入し、後見人で毛織物商人の一族と、いくつかの共同経営の契約を結んで、織物商や染色業に乗り出す(p.80)。
プラートの今

 プラートに本店として農園つきの商館を建て、フィレンツェ、ピサ、ジェノヴァ、バルセロナ、バレンシア、それからバレアレス諸島のマヨルカとイビサに支店を開設する。それらを共同経営者か幹部社員(ファットーレ)に経営させたが、じっさいは彼の疲れを知らぬペンによって管理されていた(p.8)。
 外国から織物業に必要な商品を中心に、大きな荷物が続々と届きはじめる。それは織物業にとって必要なスペインやプロヴァンス、イングランドの上質羊毛ばかりではなかった。フランスとドイツからのリネン、各種の皮革、ミョウバン、石鹸、虫瘤〔黒インキ、絵の具の原料〕、フランドルのアカネ、ロンバルディアのホソバタイセイ〔細葉大軍、青色染料〕、ピサからの水牛の皮と羊の皮、コルドバからの上質の白い皮革など。
 町の人々の目を引いたのは、自家用の珍しい食べ物や酒だった。ピサ、サルデーニャ、シチリア産のチーズ、カタルーニャからのマグロ、オレンジ、ナツメヤシの樽。それから、砂糖、コショウ、その他もろもろの香辛料―ニッケイ、チョウジ、ショウガ、サフランなどである。また時には、新しい庭のための珍しい異国の動物の檻の荷があけられて、人の目を驚かせたにちがいない。「猿1匹、檻にはいったヤマアラシ1匹、クジャク(雄と雌)2羽、カモメ1羽」(以上、p.80)。
▼イングランドの羊毛を、商社から輸入▼
 地元の羊毛は質が悪かった。そのため、上質な布はスペイン、アフリカ、ミノルカ産の羊毛か、イングランド産の羊毛で織られざるをえなかった。しかし、この外国の素材を輸入し、それによる製品を外国の市場でさばくことができたのは、国際的な商人だけだった。彼らは比較的安く、しかも迅速な輸送手段を持っていた。フランチェスコがプラートの毛織物組合に加入したことが、町の産業に新しい活力を与えたのもこのためで、プラートの市民は今日に至るまでそのことを感謝している(p.83)。
 最も上等で最も高価なのはイングランドの羊毛であった。ダティーニは、大先輩格の商社―バルディ、ペルッツィ、フレスコバルディなどとちがって、イングランドに支店を開かなかったし、羊毛の買付に自分の部下を送りもしなかった。もっぱら、すでにロンドンに店をかまえているトスカーナの商社―特にグイニージ、マンニーニ、アルベルティ、ディーニ、カッチーニ―に頼った。彼らが送るバイヤーが、イングランド中を馬で駆け回って、修道院や個々の農民から集めたり、地方の羊毛商人から買っていた(p.84)。
 1397年のたった1年のあいだに、ジェノヴァ支店だけでイングランド産の羊毛が3万8749リッブラ到着している。また、1402年、イングランドで買った量は1万1566リッブラであったが、すぐにフィレンツェの毛織物商人に売られていた。
 なお、ダティーニがイングランドの羊毛を輸入していた時期は、イングランドからの羊毛の輸出が減少し、一方でイングランド製の生地の輸出が大いに伸びた時期に当たっていた。イングランドの生地は質がいいだけでなく、安かった。さらに、イングランドの生地の輸出税はたった2パーセントであったが、羊毛の輸出税は約33パーセントと高かった(p.87)。
▼イングランド産羊毛の海上輸送▼
 イングランドの法律では、ヨーロッパ市場向けの羊毛は全部、まずカレーに送らなければならなかった。ただ、ネーデルランドに直行する北部産の羊毛と、イタリア向けだけは例外だった。それでも、イタリア商人のなかにはカレーで、イングランド産羊毛を買い付け続ける者もいた。そこから、ブルッヘ(ブリュージュ)の外港であるスライス(スリエイス)経由で船積みするか、陸路フランスからアルプスを越えて運ぶかであった。
 しかし、ダティーニの記録で見ると、彼が取引していた会社はどれも陸上ルートを取っていない。羊毛は全部船で運んでいる。これがしだいに通例になりつつあった。年に2回のヴェネツィアの大ガレー船隊は、たいていスライスからまっすぐイタリアに向かい、嵐にあった時だけサンドウィッチかダートマスにちょっと寄るだけで、他の場合はロンドンかサウサンプトンからモロッコ海峡(ジブラルタル海峡)へと直行した。
 地中海では、ジェノヴァの船はたいてい主要港に立ち寄りながら、カタルーニャとプロヴァンスの海岸を回り、ピサとヴェネツィア行きの船はイビサとマヨルカにも寄港した。その積み荷のうち、いくらかの生地とコーンウォルの錫はスペインかマヨルカで下ろされたが、羊毛は全部まっすぐイタリアへ―その大部分はトスカーナの市場へ送られた。
 関税の帳簿に載っている船のうち、テムズ河港から出るものはおおかたイングランド人の船長(イタリア商人に雇われた)だったが、ヴェネツィア人やジェノヴァ人の船長も少数混じり、一方サウサンプトンからの船はジェノヴァ人の船長を戴くジェノヴァ船だった。ダティーニ文書に出てくる船長は、ほとんどヴェネツィア人かジェノヴァ人だが、時にカタルーニャ人が混じり、イングランド人も1人いる。
 マンニーニ兄弟商会の1392年8月6日付けのロンドンからの手紙にはこうある。「われわれが、ニッコロ・ディ・ドゥカおよびフランチェスコ・ジョヴァンニーノといっしょに、この国で建造された船を1隻雇ったことをご報告します。そのうちの3分の1がわれわれの用船分です。よい船ですよ。持主はこの国の最も立派な騎士の1人で、サー・トマス・ディ・プレージ(デュプレシス)という人です。船の指揮はイングランド人の船長がとりますが、この男は勇敢な海の男です。それにこの船には、武器と石弓を携えた50人の有能な男たちが乗り込みます」(以上、p.88)。
▼西地中海からの羊毛の海上輸送▼
 ダティーニが西地中海から輸入していた羊毛〈ラーナ・ディ・ガルボ〉と〈ラーナ・ディ・ミノルカ〉を運ぶ船は短い航海だったが、海上の危険に見舞われた。スペインでの主な収集地はカタルーニャのサン・マッテオの町で、羊毛はそこからペニスコラという小さな港に運ばれた。バレアレス諸島ではパルマ・ディ・マヨルカ(当時は単にマヨルカ)である。
 船はたいていカタルーニャの海岸を回ってバルセロナまで行き、その後何隻かはプロヴァンスの諸港(ニース、マルセイユ、エグモルト)に寄ってから、ジェノヴァへ向かう。ジェノヴァからは、海路でピサか、ルッカ経由で陸路フィレンツェとプラートへ送られた。他の船はボルト・ピザーノ〔ピサの外港〕へ直行した。
 その後、仕上がった生地は、スペインと北アフリカの市場へ、同じルートを逆にたどって送り返された。ただし、始終あることだったが、ピサがフィレンツェの貿易にたいして門戸を閉ざしたり、ミラノのヴィスコンティに雇われた傭兵隊がトスカーナ地方を荒らしている時は別である。その場合、フィレンツェからの荷は、アペニン山脈を越えてボローニャとフェラーラヘ、それから川を使ってヴァネツッィアヘ、それからアドリア海を南下して、はるばるイタリアのつま先を回ってマヨルカへ送る方が安全で安上がりだった(以上、p.89)。
▼羊毛の注文から完成品の販売まで▼
 バレアレス諸島の羊毛の注文から、完成品の販売までの全行程は3年半もの時間がかかっている。それは商人が克服しなければならない困難の幾分かを示している。
 第1段階:マヨルカからプラートの工房までの羊毛の航海に14か月かかった。第2段階:羊毛を生地に仕立てるのに6か月を要した。第3段階:生地を売るべく、陸路を取ってヴェネツィア船に乗せて、目的地のパルマ・ディ・マヨルカへの旅はわずか7週間ですんだ。そして、最後の段階:販売は不景気、ペストの流行、色が好まれず、売れない。そこで、すべての生地がバレンシアに送られるが、そこでも売れ残りがでて、完売したのは羊毛が注文されてから3年半もたった、1398年の春であった(p.90-1)。
 第1段階を詳しくみれば、1394年11月15日、フィレンツェのフランチェスコの会社から、パルマ・ディ・マヨルカの支店に注文が出された。翌年5月、羊の毛が刈られる時、代理人がミノルカへ派遣され、29袋のミノルカ産羊毛と毛皮を買い、スペイン船をチャーターする。
 その船は嵐のために7月の終わりにやっとミノルカへ着いた。それからカタルーニャのペニスコラ港へ行き、カタルーニャの海岸沿いにバルセロナまで行った。そこで公海を渡ってボルト・ピザーノへたどり着いた。バルセロナまでは、その航海の最も危険な部分と考えられたので、2隻の船に護衛された。しかし、バルセロナからボルト・ピザーノまでは単独航海だったので、防衛のために12人の石弓兵を乗船させる必要があった。
 バルセロナからボルト・ピザーノまでは7週間(1395年9月2日から10月22日まで)。毛皮はボルト・ピザーノからピサまでラバの背で運ばれたが、羊毛の袋は海と川を使って送られた。ピサで、羊毛は39梱に包み直され、そのうち21梱はフィレンツェの顧客に、18梱はプラートのフランチェスコの商館に送られたが、そこに到着したのは、1396年1月14日のことであった。
▼自分にとって、プラートはあまりにも小さい▼
 あれやこれやの後、フランチェスコと共同経営者が最後に手にした見返りは、いったいどれほどだったのだろう。すべての経費―素材の買付、梱包、輸送、通行税、保険、関税、製造、販売―を差し引くと、8.92パーセントにしかならない。まったく、それほどの大きな長い努力にしては、なんと小さな見返りだろう!
 そのうえに予測できない危険―難破、海賊、追いはぎ、不正直な代理人、港の閉鎖、悪疫、荷の損傷―などを考えれば、なるほど中世の毛織物商人が高値をつけるのも当然と思わざるをえない(p.91)。
 ダティーニは、他の企業に比べて織物業の利益が小さく、時間がかかることに気がついたために、それ以上その分野に関わることをやめたのは、大いに考えられることである。また、それ以前から、プラートが自分にとってあまりにも小さいと感じはじめる。トスカーナへの帰郷の4年後、1386年までに、心を決めていた。プラートにりっぱな家を建てて妻を置き、自分はフィレンツェでも商売を始めようとする(p.92-3)。

2-4 転換期のフィレンツェに進出
▼チョンピの一揆、時代は変わる▼
 ダティーニは、フィレンツェが新しい歩みをはじめていたとき、そこで商売することとなった。
 記ヴィッラーニの項でみたように、1340年代伝統的な大商社が次々と倒産し、「14世紀の危機」に直面した。そして、中下層市民(ポポロ・ミヌート)の不満は、遂に1378年毛織物職工「チョンピの一揆」として爆発する。1382年には反革命が起きる。その後40年間、フィレンツェは少数の反動的な寡頭政治家たちが支配する都市となるが、そのはじまりに当たっていた(p.96-7)。
 さらに、フランチェスコの時代、マルコ・ポーロのようなパイオニアも出なかったし、バルディやペルッツィといった国際的な商人もいなかった。イタリア商業の「叙事詩時代」は終わっていた。極東と黒海地方、小アジアとアフリカとスペイン
チョンピの一揆
ヴェッキオ宮殿の前で指導者が叫んでいる
ジョセフ・ロレンツォ・ガッテッリ(1829-1884)画、
トリエステ歴史市民博物館蔵
の海岸への通商路は、だいぶ以前に開かれて確立していた。交通が以前よりずっと安全になったため、商人はみずから武装した隊商を組んで商品を運ぶ必要がなくなり、輸送を業者に委託することができた。また、為替手形の発明によって、現金を実際に輸送することなく、遠く離れた土地での買い付けができるようになった(p.98)。
 1382年フィレンツェに移るや商館を開き、義兄をはじめ4人のフィレンツェの人々と、あいついで共同経営会社を作る。1388年になって、絹織物商組合(ポル・サンタ・マリア組合)に参加する。その組合に入れば絹織物の製造販売だけでなく、あらゆる織物の製造、販売、輸出を手がけることができた。同時にポンテ・ヴェッキオにつながるポル・サンタ・マリア通りに小売店を開く。その店は、「フィレンツェの一番りっぱな通りの一番りっぱな商館」といわれ、あらゆる商品を扱っていた(p.105)。
▼何でも手がけるのが大商人、国際的な商人▼
 商人としてのフランチェスコのきわだった特徴は多様な活動にある。最初、アヴィニョンで武器と織物を商った後、プラートで毛織物業者(ラナイウオロ)になり、今度はフィレンツェで再び小売店主となった。次に、輸出入業をおこして成功し、他の多くの合名会社の形態をとる商社の筆頭出資者になる。彼の扱った品目は羊毛、織物、ベール生地、小麦、金属、皮革、香料、絵画、それに宝石だった。
 1404年には、彼はまた別の組合に参加した。輸入毛織物の仕上げ・販売を業務とする商人の組合〈アルテ・ディ・カリマラ〉である。また、しばらくのあいだ、プラートの食肉とワインにかける市の取引税の取立てを請け負ったこともある。保険業もあり、ついには友人全部の反対を押し切って、銀行を設立した。
 そのように多様な事業に手を出すのは、まったく彼の時代の特性でもあった。当時は、大商人と小商人との基本的な差は、卸しか小売りかの差でも、商品の量でもなく、むしろ違う2種類の人間の差といってよかった。
 地方の商人は、まだ生活様式、企業欲のなさ、けちけち精神など、職人に似ており、ごく親しい顧客とだけ取引し、組合の規則を厳重に守り、なるべくリスクをおかさないかわりに、大きな儲けも期待できない。一方、国際的な商人の方は―アルベルティのような大商社のトップの出資者であろうと、ダティーニのような小さな商社の出資者であろうと―いまだに、彼らの先駆者だった遍歴商人の企業欲と冒険心を残していた。
 常に大きなリスクをおかす用意があるが、それをできるだけ広い範囲に分散して危険を減らそうとする。外国語や外国の慣習を覚え、外国の市場の要求に合わせる。商人であるとともに銀行家であり、卸しもやれば小売りもやるのであった(以上、p.107-8)。
▼14世紀後半の地中海貿易▼
 14世紀後半の地中海貿易には、いくつかの主要な流れを認めることができる。
 第1の、そしていちばん太い流れは、極東および東地中海地方から、イタリア、南フランス、スペインに至り、またその逆を行く流れである。ヴェネツィア、ジェノヴァ、トスカーナ、それにカタルーニャの船乗りや商人が、コンスタンティノープル、キプロス島のファマグスタ、アンティオキア、アレクサンドリアなどの港から(ここに挙げたのは主要港のいくつかだけだ)、レヴァント地方の産物を持ち帰り、代わりに羊毛、織物、甲冑、木材を輸出した。
 次に、地中海と北西ヨーロッパを結ぶ大商業路があり、それによってレヴァントとイタリアの多くの製品が、イングランドとフランドルの市場に達した。一方、これらの諸国はイングランドとフランドルの羊毛と生地、フランスのリネンとつづれ織り、それからバルト海地方の毛皮や金属まで、地中海に送り出した。
 最後に、2つのより細い商業路があって、先のものより重要性は少ないが、ダティーニの時代には非常に活発であった。1つはイタリアとバルカン地方を結ぶもの、もう1つはイタリア、スペインと北アフリカ、バルバリア地方を結ぶものである。
 バルカンと黒海からの船は―羊毛、生地、オリーブ油、ワイン、塩と引き替えに―毛皮、金属、牛、蝋、ビャクダン、ミョウバン、それからクリミア地方と〈ロマニア〉(旧ユーゴスラヴィア、アルバニア、ダルマツィア、ブルガリアのほとんど全域をさす)の奴隷を、イタリアに運んできた。また、イタリア商人はカタルーニャ、マヨルカ、北アフリカの港で、スペインとアフリカ産の羊毛と毛皮や、スペイン産ワイン、果実、皮革、陶器などを買い付け、代わりにトスカーナ製の毛織物と絹織物、多くの贅沢品を売った(p.110)。
 フィレンツェの商業組合の紋章
(ダティーニが加盟した組合)
絹織物商組合
 カリマラ組合
 両替商組合
毛織物商組合の紋章
ガラス張りのテラコッタ、1487
ドゥオーモ付属美術館蔵
フィレンツェ毛織物商組合会館
現ダンテ・アリギエーリ協会
1308

▼ヴィスコンティ公の脅威、ジェノヴァに避難▼
 ダティーニは、ピサとジェノヴァに支店を置き、それらを自社の取扱商品の積み卸し港としてきた。ピサの会社の帳簿は、南フランス、スペイン、バレアレス、アフリカとの取引を主に記録し、またフランドルとイングランドとの取引も記載している。ジェノヴァの帳簿はスペイン、アフリカ、バルカン諸国との貿易が主である。また、ジェノヴァ港は、政治的理由でポルト・ピザーノがフィレンツェ商業にたいして閉鎖されるたびに、トスカーナ製品の輸出に使われた。
 トスカーナ地方の平和は、ロンバルディアから北部および中部イタリアに支配を広げようとする、ミラノの支配者ジャン・ガレアッツオ・ヴィスコンティ[1351-1402、1395年神聖ローマ皇帝から公爵の称号を与えられ、初代のミラノ公となる、引用者補注]の野望によって、たえまなく脅かされていた。商人たちは、船隊に武装した護衛をつけたり、迂回路を取って商品を運んだりしなければならなかった(p.111)。
 フランチェスコはピサが利用できなくなることにこりごりしたらしく、トスカーナからジェノヴァに商売の一部を移すことを決心する。1392年の初め、彼はジェノヴァの会社取引先と共同経営会社を作る。それを使って、西地中海向け―ことにバルカン地方や黒海から―のダティーニの商品は、ジェノヴァを通ってマヨルカ、バルセロナ、バレンシアなどに送られることになった。このジェノヴァの会社は1400年パートナーが死んだので清算される(p.117)。

2-5 コンパニーア形式の共同経営
▼手紙による指示、定期・専門の飛脚を利用▼
 彼は、その都度自分の指示がなければ、粉の袋を動かすことも、ぶどうを摘むことも、ボタンや砂糖菓子を買うことも許さなかったので、毎日、妻や幹部社員、小作人、石工、商人、画家などに際限もなく手紙を書いたが、そのうえに毎週、各支店の支配人にも書いた。彼はこれらの長い信書を「まったく聖書のようなもの」と称していたが、それは商売上の指示と家父長風の訓戒・叱責との奇妙な混交だった(p.129)。
 トスカーナの交易のごく早い時期から、多くの大商社は自前の飛脚を使っていた。13世紀に、〈カリマラ組合〉は1日に2人の使いをフィレンツェからシャンパーニュの大市に出していたし、14世紀にヴェネツィア共和国がヴェネツィアとブルッヘ(ブリュージュ)のあいだで行なっていた定期的な郵便業務は、たった7日しかかからなかった。
 小さな商社は、こうした郵便や、大商社の袋にいれてもらうか、または大きな商業都市に必ずいた専門の飛脚を使った。飛脚たちはいつも待機していて、どこにでも出かけたが、めったに専属にならなかった(p.130)。
 フランチェスコの送った飛脚の所要日数は、フィレンツェからジェノヴァまで3日かかり、フィレンツェからヴェネツィアまではふつう6日かかった。だが、彼の同時代人のボナッコルソ・ピッティ〔1354-1430、フィレンツェの商人〕は、馬でフィレンツェからパドヴァまで2日ちよっとで行ったこともあり、ある時などはオルレアン公の密使として、アスティ〔イタリア北西部の町〕からパリまでたったの9日で行ったと自慢している。
 もちろんイングランドへの手紙は、英仏海峡の港でしばしば風待ち潮待ちをしなければならなかったし、マヨルカとスペイン向けはその上海賊の危険もあった。それでも、フランチェスコのファイルを一見したところ、おびただしい手紙が安全かつ迅速に目的地に届いたようである。それらの手紙と各支店の記録や帳簿―彼は幹部社員たちに全部保存するように命じていたから―を通じて、彼の会社の形成や成長をたどることができる(p.132)。
▼コンパニーア形式による共同経営▼
 中世の商業は、ほとんど共同経営の形を取っていたが、有力な海上商業共和国の商社はたいてい〈コンメンダ〉というタイプであった。それは、一往復の航海ごとに結ばれる提携で、その間契約した片方の商人は故国を動かず資本だけを供給し、片方は海外に赴いて事業を行なう。利益は前者が3、後者が1の割合で取り、損失については前者が出資額だけの有限責任を負うのに対し、後者は無限責任を負った。
 それに対して、トスカーナの商社は〈コンパニーア〉だった。こちらは共同経営者の双方が資本と経営を受け持ち、第3者に対するどちらの借金にも責任を持つ。こうした商社の構造、方式、またそれらが獲得するようになった大きな信用は、その起源を知ることによって最もよく理解できるだろう。
 〈コンパニーア〉はもともと、父と息子、数人の兄弟といった小規模の家族、つまり同じ家に住み、同じパンを分け(共同経営者〈コンパーニョ〉は同じパンを分け合うという意味)、共通の利害関係を持ち、それゆえに相互の行動に無制限の責任を持つ、ことを当然とみなす者の共同経営を意味していた。もちろん共同経営者は給料をもらわなかった。
 その商社の繁栄は、ひとえに彼らの腕と活動にかかっていた。〈コンパニーア〉の安定度は、会社がその名を負っている家族の安定度に見合い、その信用の少なくとも一部はその家族の持つ不動産にかかっていた。そのうちに、こうした商社は、やがて家族外にもそのメンバーの範囲を広げていき、(それでも会社自体はもともとの家族に属するメンバーによって動かされているのが普通だったが)、血縁でない者で構成されるようになった。
 ダティーニの商社はこの最後の部類だったが、まだ古い家族的経営の特徴を残していた。彼の手紙には、共同経営者間の関係が家族のように緊密で、本当の兄弟のような絆に結ばれているべきであるというのが、いかに根強い伝統的観念だったかが随所に現れている(p.133)。
▼コンパニーア契約の内容、分配、期間▼
 多くの商社では、上席の共同経営者―〈頭〉(カーポ)、また時には血縁でなくても、〈父〉(パードレ)と呼ばれた―は引き続き、大家族の家長と同じ地位を占めていた。商社の方針を決定するのも彼であり、彼の勇気と知恵がその財産を大きく左右する。
 ところがダティーニは、自分の商社でそれ以上に権限を拡張している。彼の交わした契約は少ししか残っていないが、常に自分の権威と権力を増す工夫がなされている。こういう契約は、新しい商社が設立される時、かならず公証人によって作成されたが、その内容は似たりよったりである。
 (1) 各共同経営者は、それぞれが持ち寄った資本または奉仕[あるいは、奉公、引用者補注]の割合にしたがって、利潤と損失を分配する。通常、商社の資本―イル・コルポ・デッラ・コンパニーアと呼ばれる―は各共同経営者の拠出によって構成され、商社が解散するときは、その割合によって配当金を受ける。
 しかしそれに加えて、各メンバーは余分の金額を積むこともでき、それは〈外資本〉または〈上積み資本〉と呼ばれ、たいてい7ないし8パーセントの固定利子がついた。また、商社のメンバー以外の人も同様の金を預けることができた。この後者の金は、バルディやペルッツィといった大商社ではしばしば膨大な額に上ったが、ダティーニの商社はどれもそんな規模ではなかった。
 1367年にアヴィニョンのトーロ・ディ・ベルトと結んだ最初の契約では、2人の共同経営者は2500フィオリーノずつを持ち寄り、利潤と損失を平等に分け合う。そして、「当該の商社に(固定した)給料はなしで雇われる」ことにそれぞれが同意している。しかし、もっと後につくった商社では―その契約は、1382年ダティーニがアヴィニョンを発つ前に、彼が後事を託した2人の男と交わされた―全資本はダティーニが出し、他の3人の共同経営者は単に実務の面で貢献する。全利潤の半分はダティーニのものになり、残りは他の3人の共同経営者で分けられることになっている。
 (2) 会社継続の期間は通常2ないし3年で、その期間中は資本は凍結される。もしその間に個人の目的のために資本を引き出したいときは、20パーセントの罰金を払わなければならない。この短い期間は一般的な慣行だった。多くの商社は2年しか持続せず、12年を超えるものはなかった。したがって、バルディやぺルッツィのように70年以上も続いたものは、期限を超えるたびに更新されていたという方が正しいだろう。
 メンバーが自分の分担金を引き上げたり、―もし会社が更新されるとき―それを再供出すると決めたりするのは、会社の解散時に限られていた。しかし、1392年にダティーニがストルド・ディ・ロレンツオとマンノ・グルビッツォとのあいだで、ピサの商社の契約を結んだときには、以下のように記された。
 すなわち、いちばん若い共同経営者のマンノだけが会社が設定されている2年間フルに拘束され、ずっとピサにとどまって会社のために働く。一方、フランチェスコだけが好きなときに会社を解散したり、他の2人のどちらかを解雇することができるというものであった。
 (3) 会社の経営陣は誰も、他の会社または組合に属したり、自分の会社以外のために取引を行なってはならない。この規則は(市の条例にも記されているが)、かなり小さな会社でも慣例になっていた。
 これは、ダティーニ文書に入っている他の例、すなわちプラートの2人のつや出し工のあいだの契約にも書かれている。その1人、ベット・ディ・ジョヴァンニは市のラッパ手でもあったのだが、契約条項によれば、彼は「プラートの市当局にラッパをもって奉仕してもいい」が、それは収入の半分をつや出し業に投入するという条件でなら、ということであった(以上、p.135-7)。
▼ダティーニ、メディチ式の持株会社を先取り▼
 しかし、ここでもダティーニは自己流の規則を作っている。というのも、彼自身いくつかのちがう商社の出資メンバーで、その各社の経営を牛耳っていたからである。〈コンパニーア〉は他の都市の多くの支店を統括する1つの本店を持つのが慣行だったのに、フランチェスコはプラートの本店に加えて、取引のある各所に別々の会社をつくっていた。
 しかも、そのそれぞれの会社でちがう共同経営者と組んでいながら、彼だけが掛け持ちで経営を支配していた。つまるところ、ダティーニは常に自分の商社の支配を一手に握っていて、他の共同経営者は投票権のない株主以上のものではなかったということである。このやり方は、商業の歴史に重要な一歩をしるすことになった。すなわちその論理的帰結は、メディチ家の持株会社だったのである(p.137)。
 フランチェスコの各会社は、その後のメディチのそれのように、個々に独立した企業が別の会社と取引する場合、おたがいに手数料や利子を取るのが通例だった。唯一の共通項はフランチェスコである。それでもしかし、多くの支店は互いのことを「われわれの」ピサ、バレンシア、マヨルカの店と呼び、できるだけ互いの事業を支援した。
 たとえば、プラートのフランチェスコ・ディ・マルコ=ニコロ・ディ・ピエロ染色商社が、フィレンツェのフランチェスコ・ディ・マルコ=ストルド・ディ・ロレンツォ社にヴェネツィアで売るための生地を送るとすると、その生地はその商社のヴェネツィアでの取引請負人ビンド・ディ・ゲラルド・ピアチーティに委託される。
 ビンドはそれを売るかわりに、アンドレア・コンタリーニ〔コンタリーニ一家はヴェネツィアの有力家門だった〕の持っていた真珠(74個の玉の108連)と交換し、保険をかけた上で、カタルーニャで売るためにバレンシアのフランチェスコ・ディ・マルコ=ルカ・デル・セーラ社に転送する。
 売買が完了すると、フィレンツェの店はプラートの商社にしかるべき額を振り込む。このように、フランチェスコの3つの商社と1人の取引請負人が1つの売買に関わったのである。
 最後に、フランチェスコは、自分の支店を置いていない重要な商業都市には、手数料で仕事をする取引請負人(コンミッソ)を持っていた。かれらは、ヴェネツィアの場合のように彼の指示を実行する代理人であったり、ブルッヘ、パリ、ロンドンのように、すでにそこで商売をしているイタリアの商社であったりした(p.138)。
▼幹部社員、公証人、会計係、見習い▼
 商社は給料を払う、幹部社員、公証人、会計または出納係、見習いなどといった、社員を雇っていた。
 この階梯の最下段は無学な〈ガルツォーネ〉(小僧や丁稚、使い走り)である。階梯の下から2段目にくるのは、書記と会計または出納係で、〈ファットーレ・スクリヴァーノ〉(書記)、〈コンタービレ〉(会計)、〈キアヴァイオ〉(鍵係)などと呼ばれた。帳簿をつけ、金庫や小銭の箱の鍵を持っているものである。
 ヴェネツィアとジェノヴァの商社同様、大部分のフィレンツェの商社もすでに複式簿記を使っていた。ダティーニは自分の各会社でもこれを使うことを主張した(p.140)。
 商社の公証人もまた重要だった。証書や契約書を作成するのは彼らの役目で、時には、裁判所で商社を代表して申し立てをする弁護士の役をつとめたからである。しかし、ダティーニはどの公証人にも決まった給料は払わず、その場その場で最良の男を利用した(p.142)。
 最後に社員のトップにくるのが〈ファットーレ〉(幹部社員)である。ダティーニの指示を実行し、しばしば国外の支店の支店長になった。彼らは給料をもらうかわりに、利益の分け前にはあずからない。国外にいる有能な支店長は、おおむね年に100から200フィオリーノのよい給料をもらっていた。彼らは、しばしば代理人として全権を委任されていたが、商社の社員にとどまり、共同経営者ではなかった。
 ダティーニのところを含め、商社によっては外国暮らしの危険や不便のために、支店長はかなりのボーナス〈グラティフィカ〉をもらっていた上、ダティーニの支店長のうち数人は―たぶん地域の商取引の経験を買われたのだろうが―急速に共同経営者に昇格している(p.142)。
 バルディ社の帳簿によると、14世紀初頭のガルツォーネの給料は年額5から7フィオリーノを超えることはめったになく、一部分食べ物や衣類で支払われることもあり、しかも不規則なことが多かった。
 だが、幹部社員または会計係をめざす若い社員は、規則的な、少しばかり高い給料を受け取っていた。たとえば、ダティーニ文書には若いプラート人との契約が残っているが、アヴィニョンでの3年間、最初の年は15、2年目は20、3年目は25フィオリーノ、プラス経費全部となっている。また、1年に12フィオリーノ支払われていた、若い会計係もいる。そのどちらの場合も、給料は本人にではなく、父親か母親に支払われていたのがこの時代の特徴である。
 こういう部下の数は、当然その商館の規模と繁盛度によって変わるが、ダティーニの商社の場合はどれもあまり多くの部下を雇ってはいなかったらしい。アヴィニョンを発つ少し前に、「家に」18人いると彼は書いているが、これにはたぶん雇人のほかに召使も含まれているだろう(p.140)。
 なお、ダティーニの無名の同時代人は、「商人には3つのことが大切だ。分別と経験と金である」と書いている(p.145)。

2-6 スペインにおける貿易環境
▼イタリア商人の非常に危うい立場▼
スペインにおけるイタリア商人の立場は非常に危ういものだった。フランチェスコが新しい商社を開いた都市は、アラゴン王国のなかでも、トスカーナの商人が商売を許されている数少ない都市に限られていた。
 前代の商人たちに与えられていたアラゴン王の許可は、数度にわたって破棄されてしまい、ピサとジェノヴァの商人は特権が許されていたが、他のすべてのイタリア商人は(フィレンツェ、ヴェネツィア、ルッカ、シエナ、ピエモンテ、その他、すでに約束したジェノヴァとピサの者を除く)、バルセロナ、バレンシア、トルトーサ、ペルピニャン、およびマヨルカとイビサの島にのみ、「居住し、羊毛貿易に従事する」ことを許されるが、これらの地方以外ではだめだった。
 こうした制限は、1402年、アラゴン王が発布した勅令のなかで何度も繰り返されており、その写しがダティーニ文書のなかにある。彼らが買い付けることができるのはスペインとマヨルカの商人からだけで、他のイタリア商人から買うことはできなかったし、商品を積むことができるのもスペイン船だけだった。
 さらに、すでに刈り取った羊毛だけしか買い付けられず、つまり〈ボルドローニ〉と呼ばれるものだけで、刈り取り前のものは許されない。他のスペインの都市で投資することも禁じられた。いってみれば、フィレンツェ商人はユダヤ人のように、ただ忍の一字でのイベリア半島での貿易を続けていたのである。
 他方、カタルーニャの商人と船長たちは、北西アフリカの貿易を長いあいだ独占してきたが、いまや長年のジェノヴァとヴェネツィア間の紛争をフルに利用して、レヴァント地方でもイタリアの海上商業共和国の手強い競争者となりつつあった。さらに、百年戦争のあいだイングランドの羊毛輸出が減少した結果、スペインと北アフリカの羊毛に対するイタリアの需要は非常な勢いで増加していた。
 ビジネスの技術においても、カタルーニャの商人はイタリアの好敵手となり、非常によく似た契約方法を使っていたし、バルセロナ銀行はおそらくヨーロッパで最初の公立銀行となった(p.154-5)。
▼バルセロナやマヨルカにおける貿易▼
 ダティーニは、西地中海にあってはマヨルカ(イビサ島に出張所)、バルセロナ、そしてバレンシア(サン・マッテオに出張所)に商館を置いていた。それらの都市は、すでに貿易港として栄えていた。
 バルセロナの住民は約3万5000人(同時代のフィレンツェの約半分)で、バレンシアとパルマ・ディ・マヨルカはもう少し少なかった。この時代、アラゴン・カタルーニャ王国は、これら2つの国とバレンシア、バレアレス諸島、ルーシヨンの小王国以外にも、サルデーニャ、シチリア、アテネ公国の領有を通じて、地中海の大部分に勢力を伸ばしていた。
 バルセロナの〈カサ・ディ・コントラタシオン〉(通商院)―1382年に建てられた壮麗な回廊で、ボローニャの〈ロッジア・ディ・メルカンティ〉(商工会議所)のように、商人たちが集まって売買や契約を行なっていた―では、ダティーニのトスカーナ人の共同経営者たちがムーア人やスペイン人の商人、ヴェネツィアやジェノヴァのライヴァル、その他ベルギー、フランス、ユダヤ、レヴァント、ギリシアの人々と押し合いへし合いしていた(p.153-4)。
 当時、マヨルカの貿易は主にユダヤ人とムーア人の手に握られており、彼らはその島ではイタリア人と平和に商売していたが、それでも同時に、ムーア人とイタリア人の船は公海上で互いの船を沈め、互いの積み荷を奪い合っていた。地中海貿易においてバレアレス諸島が占めた重要性は、その産物―おそらく〈ラーナ・ディ・ミノリカ〉(ミノルカ羊毛)とイビサの塩を除いて―のせいというよりは、その位置によるものだったろう。
 すでに見たように、マヨルカはスペインとアフリカの商品を集めてイタリアへ送ったり、逆にイタリア、バルカン、レヴァント地方の商品をスペイン、イングランド、フランドルへ送るための中心地であった。イビサは、ヴェネツィアの大商船隊が年2回フランドルへ遠征する際の寄港地だったし、他方ジエノヴァの商船はマヨルカとカタルーニャ沿岸の諸港の間を定期的に運航しており、カタルーニャの船もレヴァントからの帰途そこに立ち寄った。
旧商品取引所
旧海事裁判所
スペイン・マヨルカ島パルマ
 こうして、これらの小さな島の港は、あらゆる地中海種族の貿易商人たちで賑わっていた上に、島の武装商船に乗る1万2000人もの地元の水夫と、奴隷の大下層社会―ベルベル人、エチオピア人、タタール人、ギリシア人など―を抱えていた。(p.155-6)。
▼旅客、食料持ち込みで、船に乗る▼
 これらの商人たちは、年々、海と陸とを問わず旅の危険に晒されていた。アペニン山脈やアルプスを越えたり、心もとない小さな船に揺られて地中海を渡った。彼らは一般に商品を携行していたから、たいてい〈コッカ〉または〈ナーヴェ〉と呼ばれる舷側の低い、幅の広い帆船で航海していた。これらは、帆のほかにオールも使う細長い軍用ガレー船よりは安定していたが、速度は遅かった。
 こうしたコッカは、あまり荷を積み過ぎて商品も人間も危険になることがあった。たとえば、1400年の秋にマヨルカからヴェネツィアに向かう船は、「大人、子供あわせて29人」を運ぶということだったが、報告者は「その船に29人も乗せて航海しょうとするのはたいへん危険だ」と断言している。
 フランチェスコへの報告者であるイビサの幹部社員は、それはみな「ヴェネツィアのやつら」のせいだといっている。「やつらは、なにかといえばサン・マルコの旗を掲げ、最小限50人は乗せなくちゃと思っているんです」。
 船の書類の上では、商人は巡礼と同列に扱われていた。というのも、海洋法は乗船する人間の旅の目的には関心がなかったので、1種類の旅行者しか認めていなかったからだ。水夫でない者は商人か巡礼で、つまり「自分自身か持ち物に対して船賃を払う者」だった。
 特に1400年、キリスト教国の人々の過半数が〈贖罪〉を求めてローマに殺到した時には、巡礼と商品という混合貨物のいくつかの記録が見られる。そのなかには、「巡礼と塩の荷を積んで」マヨルカからガエタへ航海するジェノヴァの船も混じっている。商人と巡礼を区別するのは、その者が借り切った場所の大きさだけだった。「10クインタル未満の重さの物は商品ではない。また20ペザンテ以下の料金を払う者は商人ではない」とされた(p.164-5)。
 「海上で必要とされる全品目」という記録によれば、多くの旅人は商品に加えて、自分用の食料と料理用の鍋を携行したものらしい。そのリストには、旅行者の数と旅の日数は特定されていないが、「油壷大3、鉢6、丸桶2、土鍋2、錫のカップ2、グラス12、ナイフ6」とあり、
 食料の方は「ビスケットを作るための白いパン250斤、去勢羊1頭、塩漬けの腿肉2片、鳥数つがい、卵50個、塩1リッブラ、砂糖4リッブラ、油の小瓶1本、強い酢2瓶、甘いオレンジ100個、香料半リッブラ、さやつきカッシア肉桂(シナ肉桂)1リッブラ、トレゲア(果実入り砂糖菓子)、バラ水1リッブラ」、
 それから量は定かでないが「玉ねぎ、にんにく、サフラン、コショウ、丁子、ショウガ」とある。さらに、旅人の元気づけに赤ワイン2樽と「上等のコルシカ酒」2瓶がならび、蝋燭2リッブラと「健胃剤としてのコンフェッテイ(砂糖菓子)」で終わっている(p.165-6)。
▼賃積みか、用船かで、商品を輸送する▼
 14世紀には、商社が自前の船を持つことはあまりなかった。船の所有者から一定期間チャーターした船で商品を送るか、少量の委託貨物の場合は他の荷もいっしょに運ぶ船に積んで、運送料を払うかだった。
 商人またはその部下が商品を携行する場合は、荷主は航海日誌に登録するだけのことも多かったが、ダティーニ商社の場合は当時の慣習通りたいてい商品だけが送られ、船荷証券と、時には別に、量と価格を記し売却法を指示した手紙がつけられた。一般に用船契約には、用船料は半分出港前に払い、残りは荷渡し後一定期間内に支払うべきことが、明記されていた。ペゴロッティ[14世紀フィレンツェのバルディ商会の幹部社員で、1340年ごろ『商業実務』を書き残す]は常にこう勧めている。
 「商人は、一部であろうと全部であろうと、船長の面前で料金を払ったり、または船長に金を貸したりせぬよう自戒せねばならない」。しかし、こうもつけくわえる。「もしできればこれを避けるように。……ただし、船を使う必要度に応じて行動せよ」。この勧告からわかるのは、商船の需要が供給を上回っていたこと、急を要する時にはとにかく船積みするために、法外な要求にも屈しなければならなかったことである。
 用船契約書には、たいてい船主が積み荷について全面的に責任を負うか〈荷渡し保証〉、あるいは、その商品は「神、海、および人間(海賊など)による危険および不運を含めて」送られ、船主は責任を負わないか、を明記した項目があった。
 定期的な商船隊は、時には戦闘用ガレー船の護衛をつけて、年に数回、ジェノヴァとヴェネツィアから、これらの都市の政府の監督としばしば援助のもとに、地中海および黒海の主要港に向けて出港した。
 フランチェスコのような慎重な商人は、万一難破や海賊の難にあった場合、少なくとも一部は助かるように、数船に分けて商品を積んだ。とはいえこうした船隊は、単に海賊の仕事を楽にするだけの場合もあったようである。1393年、フランチェスコは妻宛てに、何隻かの船は捕まるかもしれないと書いている(p.170-1)。
 たとえば、ニースかマルセイユで3隻のガレー船をチャーターした場合の料金は、1か月1300フィオリーノであった。船が拿捕された場合、身の代金は商人と船主との間で平等に分担された。ガレー船は、甲板の左右に29ずつの漕ぎ手用ベンチを備え〔1つのベンチに3人の漕ぎ手が座り、各人が1本ずつオールを持つ〕、弩手を乗せることになっていた。
 典型的な通知状である。「神と救済の名において。本状の持参人は、サン・ジュリアーノ号なる船の船長[パドローネ、船主でもある]、ピエトロ・ディ・サッロ・ダルリンガーナです。くだんの船で、テルミノ[テルミニ(シチリア島のパレルモ近郊の港で、穀物市場があった。現テルミニ・イメレーセ)]で船積みした小麦105サルマ[1サルマは約270リットル]をあなたに送ります。これは、こちらでも最高の良い小麦です。くだんの船長は、あなたにこの小麦を引き渡して、8日以内に陸揚げし、用船料として1サルマにつき5ターリ12と2分の1グラーノ[ともにシチリア・ナポリの貨幣単位]を受け取ることになっています」(以上、p.464)。
▼フィレンツェに銀行開設、3種の金融業▼
ダティーニは、もう1人のプラート人バルトロメオ・カンビオーニと組んで、フィレンツェに銀行を開設し、翌年の春―1399年3月11日―フィレンツェの金融業者の組合・両替商組合〈アルテ・デル・カンピオ〉に加入した。生涯のこの段階で、彼が踏み出したこの一歩は、それまでの活動の結果としてしごく当然だった。中世後期を通じて、商人の副業[本業、ではないのか、引用者補注]と金融業は密接に繋がっていた。
 金融業者は大まかにいって3つの階層に分けられる。しばしば〈ロンバルディ〉と呼ばれる小金貸しまたは質屋。彼らは質種とひきかえに、高い利息で金をたいていは少額を貧しい者に貸した。次に両替商。彼らは文字通りの両替のほかに、地金や宝石も扱い、各都市でお墨付きの地位をえていた。通貨の規正や偽金の発見に大きな責任を持っていたからである。
 最後に、大国際商人兼銀行家。フランチェスコもすでにこれに属していた。彼らの事業の本質はその多様性にある。両替商組合の組合員として、宝飾品、宝石、時には美術品も商い、商品ばかりでなく為替手形も扱った(p.183)。
▼黒死病など疫病の恐怖、そして死▼
 フランチェスコは60歳になるまでに、すでに6回も恐ろしい〈モリーア(悪疫)〉の大流行を経験していた。最初は1348年、これは彼の両親を奪った。アヴィニョンで2回、帰国後すぐプラートで3回。そして最後に、老齢に達した1399年にまたも脅威が迫っていた(p.402)。
 長年、尿砂[尿路結石症、引用者補注]と腎臓を患っていたフランチェスコは病気が重くなったので、セル・ラーポを病床に呼び、2人の公証人、5人のフランチェスコ派の修道士、2人の彼の幹部社員の立ち会いで、遺言状の最終版を作成させた。彼の死はその約2週間後、1410年8月16日のことだった。享年、実に75歳(p.441)。
 彼の遺産は10万フィオリーノ以上にのぼった。遺言状の最終版では、遺留分を除いて、約7万フィオリーノが、彼自身がプラートに設立した財団・フランチェスコ・ディ・マルコの貧民救済基金の家に寄せられることになった(p.443)。また、フランチェスコは、生前あれほど気前よく寄進して飾り立てた、パラッツオ・ダティーニの近くにあるサン・フランチェスコ教会に埋葬されることとなった。
 フランチェスコの墓は主祭壇のすぐ下の床にあり、彼の横たわった姿の回りに、プラートの市民は今でもすり切れた碑銘を読むことができる。「フィレンツェノ市民ニシテ先見ノ明アル商人、思慮深ク尊敬スベキ人、プラートノマルコ・ダティーニノ息子フランチェスコノ遺骸ココニ眠ル。彼ハ主ノ年1410年8月16日ニ歿セリ。ソノ魂ガ平安ノウチニ憩ワンコトヲ」(p.447-8)。
ダティーニの墓碑

2-7 あとがき
 前出のフィレンツェのヴィッラーニ、そしてプラートのダティーニは、国際的大商人として成功を収めたトスカーナの商人である。彼らの商いは多角的(いわばコングロマリット、複合企業)ではあるが、ヴィッラーニの商いは、特にローマ教皇をはじめ西ヨーロッパへの聖俗王侯に取り入る金融業としての性格が強い。それに対して、ダティーニの商いは、遠隔地交易業としての性格が強い。
 しかし、ダティーニはヴェネツィアやジェノヴァの商人とは違って、自ら海外に出向いて取引するとか、船舶を所有するとかいったことをしない、単なる定住商人として登場している。そのため、彼は遠隔地交易に当たって、支店と共同経営、代理店のネットワークを利用して取引し、その商品の輸送はもっぱら海運業を利用することとなっている。
 14世紀、イタリア半島をめぐる海上輸送はヴェネツィアとジェノヴァが優位に立っており、後発のトスカーナの商人はそれに依存するしかなかった。その状況がダティーニの文書から読みとることができる。現代につながる定期船運航、船荷証券、輸送契約(用船契約)、海上保険といった海運実務が十分に制度化され、利用されていたことが示されている。
(2007/03/08 記)
(次のページにつづく)


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