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続々 中世イタリアの商人群像
(Double Sequel) Medieval European Merchants
- Pray to God and Live for Profit

3 ジェノヴァの一大家門のロメッリーニ家
▼はじめに▼
 亀長洋子著『中世ジェノヴァ商人の「家」』(刀水書房、2001)は、15世紀初めすなわち中世後期のジェノヴァのロメッリーニという家に注目しているが、すでにみたイタリア商人のような個人の歴史としては扱われてはいない。
 それは公証人登記簿(公証人の控えとされる文書)を分析して、個別の商業活動において、どのような「家」としての人的結合があるかを研究することにある。
 そのため、ロメッリーニという家の商業活動そのものを直接に扱うことになっていないが、中世後期におけるジェノヴァの商人とその海上交易について様々な知識を提供してくれる。
▼ロメッリーニ「家」の出自とその上昇▼
 12-13世紀ジェノヴァという都市が発展を遂げるなかで、有力者層は大規模で結束を強い「家」といえるアルベルゴ(疑似家族集団とされる)という形態をとって登場する。それは大きな親族とその配偶者の集まりであって、それを基盤にして商業活動
が展開されていた。それは12世紀半ばから形成されたとみられ、15-16世紀にはドーリア、スピーノラ、グリマルディ、フィエスキといった四大家門の他、5大、10中、そして多数の小のアルベルゴがあった。
 その一つとして分析されているロメッリーニ「家」は四大家門に次ぐアルベルゴであった。12世紀末にジェノヴァ史に登場し、その家系は貴族を起源として持ち、故地はリグーリアではなくロンバルディアにあった。始祖ヴァサッロ・デ・ルメッロ(活動時期1177-98)がジェノヴァに定住してから、ジェノヴァ貴族としての「家」の歴史は始まる(以上、p.141-2)。
 12世紀、始祖ヴァサッロは2回、外国人コンソラート[コンソリ、有力者から選出された執政官、[
 ]は引用者補注、以下同じ]の職に就任している。つづく13世紀には、この「家」の人物数人が、ポデスタ(代官)[ポデスタ制とは、門閥間の争いを克服できないとき、友好都市から1人の人物を招聘して、市政府の長とするシステム]制施行時に、しばしばコンスル職[コンパーニャの代表]にとってかわったオット・ノービリ(8人貴族)の地位を獲得しているが、政治・経済面での顕著な行動はみられない。
 ロメッリーニ「家」が大きく飛躍するのは、14世紀に入ってからである。公職への就任については、オット・ノービリに代わりドージェ(元首)と共に、国政を支える要職である長老会の議員を延べ10人輩出しているほか、外交官や会計官等、数々の公職に、この「家」の人物は数多く就任した。
 また、14世紀前半には、この「家」は教皇派やナポリ王ロベール・ダンジュー[在位1309-1343]に味方し、特権や王国での称号・官職を獲得している。都市内でも、商業発展に伴いポポラーニ[庶民身分]の社会的地位が上昇した結果、1339年にシモン・ポッカネグラ[?-1363、彼を扱ったヴェルディ作曲の歌劇がある]が初代ドージェ[在位1339-44、56-63]となり、反貴族政策が次々と施行されたさいも、ロメッリーニ「家」構成員の何人かは貴族であるにもかかわらず、特例として登用されている(p.142)。
 彼らの商業面での活躍もめざましく、東方貿易のほか、ロンドン、ブリュージュ等での遠隔地商業に従事し、大きな利益をあげていた。ポルトガル王に貸付を行った痕跡も見られる。多額の公債を所有する「家」構成員の存在も顕著である。14世紀に台頭したポポラーニ勢力との提携、商業展開、そして外交での活躍によって、14世紀に社会的地位の上昇をみた「家」といえる。
▼14世紀、社会的地位が上昇した「家」▼
 15世紀に入っても、ロメッリーニ「家」の地位は下がっていない。都市政治においてリーダーシップをとるほどの顕著な動きを示した人物はいないが、官職就任の面では引き続き長老会議員に頻繁に就任しているほか、財務局のような新たな政府の部局の、そしてサン・ジョルジョ銀行運営委員のような要職に就任する人物も現れており、外交官も輩出している。
 そうしたことから、この「家」も中世末には、四大アルベルゴに次ぐ有力なアルベルゴであったと、その家格が位置づけられる(p.143)。
 15世紀の商業活動については、以下の分析とは関係のない事績として、1つはアンジュロ・ジョヴァンニ・ロメッリーニの活躍がある。この人物は、コンスタンティノープル近郊のジェノヴァ人居留地ペラの最後のポデスタであり、[1204年の第4回十字軍による]コンスタンティノープル陥落直後に彼が残した書簡の転写等により、ジェノヴァ史以外の史家にも知られた人物である。彼については、若き日の船長(patronus)としての活動から、リヴィエラやアラゴンとの外交での活躍、財産争いといった私的領域まで、詳細な事実関係が判明している。
 もう1つは、15世紀にポルトガルで活躍したロメッリーニ「家」の存在である。15世紀前半、この地での最初のロメッリーニ「家」人物であるバルトロメオが現地人商人と提携し、リスボンに定住する。その後、彼はローマとの両替業務でも活躍する。続けて1440年には、15世紀のポルトガルの貿易や資金流通において重要な役割を占めることになるマルコ・ロメッリーニも現れる。
 ロメッリーニ「家」の人物は次々とリスボンに居住し、国王から特権を獲得する者も現れる。ロメッリーニの分枝はさらに広がり、マディラ諸島で砂糖・ワイン・はちみつ等の貿易に従事し、ポルトガルのみならず、フランドル、ジェノヴァ、ヴェネツィアへの輸出に携わったほか、インド洋への航海に資金援助したこともあった(p.143-4)。
 その他、ロメッリーニ「家」の人々はキオスのマオーナ(個人に植民権を分割貸与するというジェノヴァの独特の植民形態)への関与、西リヴィエラのサヴォナの家門との提携、シチリアにおける材木の取引、コルシカのマオーナの独占、エルバにおける鉄鉱石の採鉱、そしてモナコ近郊のヴェンティミリアの受封など、ときの権力にすり寄る政商・開発起業家としても活躍している。
▼ナポレオーネとその子供たちの史料▼
 こうして、長らくジェノヴァ史に痕跡を残すこととなった、この「家」の発展の礎ともなった14世紀後半から15世紀前半の時期は、始祖から数えて第6世代にあたるナポレオーネ・ロメッリーニ(Napoleone Lomellini、活動時期1350-99)と、第7世代にあたる彼の子供達の時代である。
 ナポレオーネ・ロメッリーニについては詳細不明である。トリノの条約締結時の代表使節に名を連ねたこと、長老会の議員を務めていること(1355年、80年)、会計官として活躍したことなど、活発な公的活動を行っている。そこで不明なのは商業活動である。長老会議事録は、彼に対してさりげなく「大富豪にして大商人であり、多くの商品を提供するのに習熟してきており、[現に]提供している」という肩書きを与えている(p.145)。
 彼には兄弟3人、姉妹1人がいた。2度結婚しており、正・非嫡出子20人の子供があった。子供達も、会計官、外交使節、サン・ジョルジョ銀行運営委員等の要職に数多く就任しており、何人かは長老会議員にまで出世している。ナポ
ナポレオーネ・ロメッリーニとその家族
地中海論集19、一橋大学地中海研究会、2008
レオーネとその子供達は、フランスのジェノヴァ支配を支持していたという事実がある。当時の政権との結びつきも、彼らの勢力伸長と維持に貢献したといえる(p.146)。
 ナポレオーネとその子供達の事績については、様々な史料が利用されているが、中心史料は公証人ジュリアーノ・カネッラの公証人登記簿である。その公証人が関与したナポレオーネの子孫の文書は850余を超えるという。その時代は1408年から21年に及ぶ。公証人ジュリアーノ・カネッラは、ナポレオーネの息子の1人であるカルロの住まいに仕事場を構えていた時期があり、まさにロメッリーニ「家」お抱えの公証人といえる人物である。
 そのうち分析対象となっているのは357である。その内容は、特定の種類の契約に文書が偏ることはなく、仲裁裁決文書、代理人任命文書、商品売買請負文書など多岐にわたる。
 これらの文書は、すべてジェノヴァで作成された文書であるという。それゆえ、ジェノヴァ人が海外で築いている人的結合の分析には制約がある(p.147-8)。
▼地元の有力者との取引、地中海を越えた交易▼
 ナポレオーネの子供達が関与した契約文書に、彼ら97人が登場する総回数は784回である。それは、ナポレオーネの子孫とその配偶者が契約者である回数は601回、その他ロメッリーニ「家」人物が183回となっている。そのうち、同一人が10回以上関与している人物が17人いるが、その合計回数は588回、全体の75パーセントを占める。そのうち9人が息子、その他8人が孫かその配偶者である。また、上位5位は息子で、その回数は341回、43パーセントである。
 それに対する契約のいわば相手方が登場する総回数は1208回である。そのうち、同一「家」が10回以上関与している「家」は30「家」であり、その合計回数は458回、全体の38パーセントを占める。その上位5位はヴィヴァルディ、スピーノラ、ドーリア、グリマルディ、デ・マリーニ「家」である。そのうち3「家」がジェノヴァの四大家門である。ヴィヴァルディ「家」も12世紀からジェノヴァ史に登場する名門であり、その他もいくつかの中小貴族が結集してできた融合型アルベルゴであるという[以上、p.159-66によるが、引用者が補足分析をしている]。
 ナポレオーネ・ロメッリーニの子供達の活動領域として、様々な地名が現れる。@カッファ、キオス、ペラ、キプロス、ロードス、アレクサンドリアといった黒海・東地中海方面や、Aフランドル(ブリュージュ、エクルス[スルイス]、ミッデルブルグ)、イングランド(サウサンプトン、サンドウィッチ)、ラ・ロシェルといった大西洋・北海方面、B内陸商業のなかで現れるパリ、またセビーリヤ、カタルーニャ、アラゴン、カディス、マヨルカ、マルセイユといった西地中海方面、Cのちにジェノヴァの植民地となるコルシカ、ジェノヴァの競争相手であったサヴォナに加え、アルベンガ、タッジアといったリグーリアの地名、Dシチリア、エルバ、サルデーニャ、フィレンツェ、ピサ、ナポリ、カラーブリア、アマルフィ、ヴェネツィア、ミラノといったイタリア諸都市・諸地域などである。
 ナポレオーネ・ロメッリーニの息子達は、ジェノヴァ商人らしく、東西地中海交易から黒海・北海・大西洋交易、また地域間交易といった、極めて広範な領域で活躍していた(p.171-2)。
▼商品売買やコンメンダにみる地縁血縁▼
 ナポレオーネ・ロメッリーニの子供達が登場する商品売買請負の定型契約文書は、中心史料中に35文書(表では36文書)存在する。
 そのうち、ロメッリーニ「家」の人物が同時に登場する文書は、わずか1文書にすぎない。それ以外に、彼らと委託=請負関係を結んでいるのは、他家である。複数の文書や複数年に登場する人物が9人ほどいる。このように、ナポレオーネ・ロメッリーニの子供達の商品売買の委託=請負関係においては、「家」が優先される関係ではなく、この事業はジェノヴァ人達の間で特定の継続した顧客をもちつつ進展した(p.175)。
 これら文書に載っている港は、いま上でみた通りである。それら積載地あるいは寄港地にいる人物達の多くは、ジェノヴァ人もしくはジェノヴァ系の姓を持つ人々であった。そのなかでも、タリーゴ「家」の人物が17回も登場している。タリーゴ「家」は有力家門でないことを考慮に入れると、大きな値といえる。そのタリーゴ「家」はナポレオーネ・ロメッリーニの子供達と姻族関係があった。
 商品売買請負文書において、ロメッリーニ「家」は「家」全体は無論のこと、ナポレオーネの息子達にしぼっても、強い人的結合を示していない。ここで顕著なのは他家や姻族との結合である。彼らは、特定のジェノヴァ人と継続的な関係を結び、また積載地・寄港地では、特定の地域を広域的に担当する他家人物や姻族のジェノヴァ人を用い、時には彼らと共に双方の兄弟ぐるみで事業を行っていた(p.180-1)。
 コンメンダ契約の数は中世後期になると減少する。ジュリアーノ・カネッラの公証人登記簿におけるナポレオーネ・ロメッリーニの子供達のコンメンダ契約文書は21文書である。そのなかにあって、ロメッリーニ「家」内、なかでも特に、ナポレオーネ・ロメッリーニの息子達もしくは孫達同士が共同で投資を行っているケースが多く、彼らの結合の強さが窺われる。
 コンメンダ契約の行為者として、ナポレオーネの系統とはかなり離れたところに位置する、他系統のロメッリーニ「家」人物がしばしば現れる。これらコンメンダは、「家」内の資産家と「家」内の他系統の資産家の子息の間で結ばれた提携となっている。この契約形態においては、「家」構成員という枠組みが持つ信用性がこの時代にも有効であったとも考えられ、兄弟達の共同投資を軸に「家」内の他系統の有力者の子息を行為者に用い、兄弟間の強固な結合と前時代の名残である「家」のゆるやかな結合の併存という構図が明らかになった(p.181-3)。
▼船の持ち分は短期的な利用権の保有?!▼
 ジェノヴァの船は、ヴェネツィアとは違ってガレー船はほとんどみられず、帆船が商船の中心であった。また、その保有や建造は有力な「家」など、私的な集団によって成されたとされてきた。それでは、「家」が保有していたといえるほど、「家」構成員中心に船舶が保有される傾向があったか、また他家の人物がどの程度共同で保有していたかを問う。
 中世後期のジェノヴァでは、大型船の保有権は24に等分され、個々の持ち分はカラット(複数形carati)という単位で表された。「船の保有者」あるいは部分保有者とは、ある航海における艤装された船舶の短期的な利用権の共同保有を指していた[保有権と利用権の混同がみられる]。
 公証人文書では、1つの船の24の持ち分保有者の全てが判明するのは、稀である。多くの場合、個別の持ち分の売買等、分割済みの資産として、持ち分が文書に現れる[このことは「家」全体で船を共有することを排除しない]。
 ナポレオーネ・ロメッリーニの子供達の船の持ち分のある文書は17文書である。それら文書に、共同保有者がナポレオーネ・ロメツリーの息子または孫らだけで、すなわち「家」全体で船を共有するという傾向は、この「家」ではみられない[それは前出補注からいえば当然の結果である]。それに引き替え、ナポレオーネの子供もしくは孫が同一の船について持ち分保有者として現れる事例は多く、船舶の利用傾向でもやはりナポレオーネの子孫中心であったと考えられる。
 ナポレオーネの子孫以外では、ある程度持ち分保有者がわかる文書においては、そこに現れる他家はほぼ全員がジェノヴァの有力な「家」の出身である。ただ、持ち分数がすべてわかる文書では有力な「家」出身ではない人もいる。いずれの文書でも、有力な「家」がある程度の持ち分を保有しており、そうでない「家」の持ち分は船長の分[ここでは船長は船の保有者]と合わせても半分前後だったと思われる。
 先行研究は、曖昧に「家」を前提として船の保有を考えていたり、多様性をただ指摘するに留まっていたが、ここでは「家」全体という枠組みはゆるやかな結合でしかなく、ナポレオーネの子供達や孫という枠組みや、継続的な事業仲間という枠組みのなかで、同じ船の持ち分を保有するという形態が顕著となるのみであった(以上、p.189-196)。
▼身近の船長を指名、その継続▼
 ジェノヴァの公証人文書では、船舶はその船名ではなく、その時点における船長の名によって特定されるのが一般的である。船長は、船の保有者を意味するのではなく、同じ船でも航海ごとに変わりうる性格をもち、船長として船を指揮する人物である。
 ナポレオーネ・ロメツリーの子供達が契約当事者として現れている文書の中に散見される船長名は延べ71回である。そこで、彼らが、どういう人物が船長をつとめる船を利用しているか、同じ船長を何度、利用しているかを問うことにする。
 まず、ロメッリーニ「家」出身の船長がおり、いずれも息子で3人、延べ4回指名されている。したがって、ロメッリーニ「家」全体の結合を感じさせない[「家」出身の船長が乗る船が持ち分船か否かを知りたいものである]。他家の船長は、有力な「家」出身者の比率が低い。これは、船長という職の地位の低さを示すものといえる。また、他家出身の船長との継続的関係については、概して1回限りのつきあいの船長が多いが、複数の時期にわたり船長を務めている人物もいる。
 そこで注目に値するのはナトーノ「家」の船長である。この「家」はサヴォナにあり、3人の人物(ピエトロ、ニッコロ、バッティスタ)が船長を務めている。この3人の誰かがある特定の船の船長を務めるようにしており、この「家」と船とは密接なつながりをもっていたと考えられる。
 また、ナトーノ「家」の人物がナポレオーネ・ロメッリーニの子供達の文書に数多く登場していることからみて、ロメッリーニ一族が船長職を「家」の職業としている彼らを重用していたとみられる。また、彼らがサヴォナ人であったこととも、大いに関係がある。
 全体の傾向から、特定の船長を継続的に利用することは少ないし、ロメッリーニ「家」全体というまとまりでの人的結合はみられないし、ナポレオーネの子孫による事業提携の事例がわずかに存在するだけである。
 また、船長という高位ではない職において、「家」内の他系統の人を積極的に用いるような方向を、ナポレオーネの子供達はもっていなかった。彼らが選んだのは、ナトーノ「家」にみられるように専門性が強く、要地出身であるという、よりよい商業利益をもたらしうる人々であった(以上、p.197-200)。
▼若干の批判と再分析(1)▼
 ここ取り上げられた14年間に及ぶ公証人登記簿は公証人の控えとされる文書であるので(p.49)、14年間の文書があらかたファイルされているかのように受け取れる。それにもかかわらず、分析対象となっているのは357にとどまり、そのうち商品売買請負契約が35文書、コンメンダ契約文書が21文書、そして船の持ち分文書が17文書にすぎない。なお、13世紀初頭12年間のストレイアポルコ=ネピテッラ「家」の公証人登記簿には、2091件の文書(うち、コンメンダ契約は132文書)が収められている。
 これら商業文書は、著者も指摘しているように(p.174)、それが履行されれば廃棄されることになっている。その通りに実行されていれば、いまみたような文書の少なさは納得がいく。その場合残された文書の意義が問われる。
 したがって、公証人登記簿の取り扱いについては、相当程度の留保が必要と考えられる。そうした留保は、著者にあっては、ロメッリーニ「家」の人的結合を析出することにあるので、特段の必要を認めていないようである。総じていえば、公証人登記簿という文書にも、大いなる欠落があるということであろう。
 ここでは、以下、そうした疑問を念頭におきながら、若干の批判と再分析を試みる。
 まず、ナポレオーネの子孫とその配偶者の契約文書の全体概要の分析において、ナポレオーネ「家」と他家人物の登場回数だけを集計するにとどまり、契約の当事者と相手方のクロス集計が行われていない。そのため、ナポレオーネ「家」内の人物同士の契約文書はなかったことになってしまい、またナポレオーネ「家」と他家人物との結合を知ることもできない。
 そうした状況でありながら、15世紀初めナポレオーネ「家」は圧倒的な回数において、主としてジェノヴァにおける少数の有力な「家」を相手方として契約を締結しており、したがってジェノヴァの交易における有力な「家」の独占がかなり進んでいたことを知りうる。
 商品売買請負契約の文書数の少なさが気になる。ここではロメッリーニ「家」の人物が同時に登場する文書が1文書あるという。そのことは、ナポレオーネ「家」内の人物同士で商品売買請負は
行われてはいたが、公証人を関与させることはなかったことをむしろ示しているといえる。
 コンメンダ契約は、商品売買請負契約とは違って、ナポレオーネ・ロメッリーニの息子達もしくは孫達同士が共同で投資を行っているケースが多く、彼らの結合の強さが窺われるとされる。それらの契約の性格の違いによる結果といえようが、「家」内の人物が多数いて17年間も経過しているとき、例数が少なすぎる。その契約を締結した「家」内の人々の血縁関係を確認して、公証人関与の可否を検討する必要がある。
サヴォナ旧港にあるレオン・パンコルドーの塔
14世紀
▼若干の批判と再分析(2)▼
 次に、船の保有とは船の所有を指すのではなく、短期的な利用権の共同保有を指すという。これを文面通り取れば、海上交易人は自らの商品を海上輸送しようとするとき、その船の部分所有者とならなければ、その船を利用できないということになる。それは海上交易人にとって大きな制約となるので、15世紀のジェノヴァにおいてそうした状況があったとは想像しがたい。
 ただ、ジェノヴァの船は航海のたびごとに、その持ち分が売り買いされ、共同保有者の構成が変更されていたことは、大いにありえよう。
 著者は、「ナポレオーネの子孫が保有している[正確には1人当たりの]持ち分数はそれぞれ3カラット、2と2分の1カラットと多くない。1つの船に持ち分が集中しないのは、リスク等を考慮してのことだろう」という(p.191)。その指摘は中途半端である。著者が掲げている表には、ナポレオーネの子孫1人当たり持ち分数が5、6、10カラット、さらに彼ら一族が同一船に保有する総持ち分数が5、6、7、9カラットとなっている例がみられる。それらのことは、ロメッリーニ「家」が17文書うち7文書において、主要なあるいは筆頭の持ち分保有者となっていることを示す。
 ナポレオーネの子孫の文書にみる船長名は延べ71回である。この数は、他の文書に比べればかなり多く、ロメッリーニ「家」は年間に平均約5人の船長を指名していたことになる。しかし、これはロメッリーニ「家」の人物の多さ、したがって交易規模の大きさからみて、多いのか少ないのか。
 また、船長名は延べ71回(船長の実数は50人)のうち、同一人が複数回指名されている船長を取り出すと、5回が1人、4回が1人、3回が4人、2回が6人いる。それらの合計は12人33回である。したがって、1回限りの船長は38人にとどまる。なお、ナトーノ「家」の船長は延べ11回と多い。このように、かなり多くの船長が継続指名されており、利用する船のほぼ半数に及んでいる。
 この時代、船長が伝統的に船の部分保有者である場合が多かったことは、著者においても十分に承知している(p.190など)。それにもかかわらず、船長がどの程度船の部分保有者となっていたかを確認しないまま、船長の節において、船長はその船の保有者ではなく、航海ごとに変わりうるとする。
 それと同時に、船は船長の名によって特定されるという。これは、当時の帆船による輸送が船長の技量に大きく依存するとき、もっともな「なぞらえ」である。そのことをもって、船長がその船の保有者でないということにはならない。むしろ、逆に、船長がその船の保有者であることが海上輸送の担保となっており、その一体性において船が船長の名によって特定されていたといえる。
 当時、一部の船長が単なる専門職として船の保有者に雇われるようになっていたが、なお多くの船長は伝統的に船の部分保有者である場合が多かった。それと同時に、ナトーノ「家」にみるように自立した船主業も生まれていた。そうした船主業を家業とする船主船長や、船の部分保有者である船長が、ナポレオーネの子孫たちによって継続指名されたといえる。
 最後に、こうした分析から総じて、ナポレオーネの子孫たちは海上輸送に当たって、中世後期という時点で、「家」グループの持ち分保有船、ナトーノ「家」の船など常時指名している継続用船、そしてその都度、利用することを決める随時用船という、船腹の確保と費用の負担の観点からみて合理的な構成でもって、船を利用したかのようにみえる。
▼あとがき▼
 この著書は、一次史料を分析した研究書であり、目くるめく業績といえる。それだけに、もう少し丁寧な分析が行われていれば、さらに多くの新鮮な知見をものすることができたといえる。それはさておき、ジェノヴァの海上交易について、きわめて貴重な情報を教授されたことに、まずもって厚く感謝したい。
 なお、世界遺産であるジェノヴァのストラーダ・ヌオーヴァ(現在のガリバルディ通り)にある邸宅の一つとして、下図のパラッツォ・ポデスタがある。それは、ニコロージョ・ロメッリーニ(通称パラッツォ・ポデスタ)によって1559年から1565年にかけて建てられた邸宅だという。
ニコロージョ・ロメッリーニ邸
1559-65
(2007/03/28記)


4 ヴェネツィアの2人の典型的な商人
4-1 12世紀後半の商人船主ロマーノ・マイラーノ
▼はじめに▼
 塩野七生氏は、『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の1000年』(p.159-63、中央公論社、1980)という歴史小説において、12世紀後半、第4回十字軍前に活躍したヴェネツィア商人の一典型とされる、ロマーノ・マイラーノという人物を紹介している。
 彼は遍歴する商人船主として、海上貸付と共同出資(同氏の用語では、海上融資と限定合資会社)を繰り返しながら、一生を送ったことが示されている。その活動範囲は、コンスタンティノープルを拠点とした、シリア・エジプト交易である。また、木材を交易品としていることが注目される。
 ただ、その訳語あるいは用語が適当とはいえないとか、その内容には解せないあるいは断定された部分がある。それを要約や補正するとむしろ誤解が生じるので、短文であることでもあり、換骨奪胎しないで、そのまま引用する(以上、引用者記)。
▼海上融資と限定合資を活用して開業▼
 マイラーノという姓からして、ヴェネツィアの上流階級には属していない。また、彼の妻が結婚の時に持ってきた持参金の額から見ても、有産階級の人間でないことがわかる。おそらく、商売の資金も、ほとんど持っていなかったのであろう。
 生年は、はっきりしない。だが、死亡の年から逆算して、彼がオリエント貿易に乗りだしたのは、25歳前後のことであったろうと思われる[生年は1130年とみられる。引用者注、以下同じ]。
 1155年、ロマーノ・マイラーノ[Romano Mairano、1130?-1207]は海上融資で得た資金をもとに、商品の購入資金と輸送代金を合資する限定合資会社に加わって、ヴェネツィアからコンスタンティノープルまでの航海に出る。彼のまかされた商品は木材だ。無事にコンスタンティノープルに着いた若者は木材を売り、それで得た収益の中から、海上融資の借金と限定合資会社への支払いを済ませる。
 ところが、彼は、ヴェネツィアへは帰らない。当時の彼の多くの同僚がそうであったように、コンスタンティノープルを根拠地にして、小アジア沿岸のスミルナ、パレスティーナのアッコン、エジブトのアレキサンドリアの間を往復して、商売に精を出す。資金の調達は、これまた同僚たちと同じように、海上融資と限定合資会社を活用してであった。
 しかし、彼は、商人兼旅行者、つまり行商人ばかりしていたわけではない。1156年には、スミルナからアレキサンドリアまでの航海の船長(カピタン)まで引き受けている[開業の翌年に船長になったというのはどういうことなのか。開業が1155年・25歳前後ではなかったのではないか]。もちろん、同業者の流儀に従って、彼もまた船長を勤めるだけでなく、例の2つの融資で得た資金で商品を購入し、それをアレキサンドリアで売りさばいたのであった。
 商人兼旅行者または船乗り。これが、1200年代を通じて支配的となる、ヴェネツィアをはじめとするイタリアの海洋都市国家の商人の姿であった[同氏のいう商人兼旅行者または船乗りは、商人船主船長というべきであって、それは1200年代以前がむしろ支配的であった]。
 マイラーノがヴェネツィアへ帰ったのは、彼が母国を後にオリエントへ向ってから9年目の、1164年になってからである。その年、彼の妻が死んだ。
 ところが、彼は、そのすぐ翌年には、もうオリエントへ向って航海に出ている。彼が主な出資者となった船の船長をしながら、自分の商品を積みこんで、ヴェネツィアからコンスタンティノープル、そしてアレキサンドリアへ向う航路であった。しかし、商人のキャリア10年ともなれば、もうそれだけでは済まない。商人としての信用が増せば、海上融資も受けやすくなったであろう。彼は事業を拡げる。別の目的地へ向う商船の共同出資者の1人になり、その地で売るにふさわしい商品を預け、売ってもらうことにしたのだった。その船の船長も、彼と同じような商人であったにちがいなく、おそらく、彼の商品もマイラーノが船長をする船に積みこまれていたにちがいない。
▼コンスタンティノープルで焼き討ちにあう▼
 だが、3年後の1168年、ヴェネツィア共和国とビザンチン帝国の間の雲行きがあやしくなり、元首[ヴィターレ・ミキエレ2世、在位1156年−1172)]は全ヴェネツィア商人にコンスタンティノープルでの商いを禁止した。マイラーノも、他の多くの同業者と同じように、ヴェネツィアへもどるしかない。ついでにというわけではないだろうが、その年彼は再婚する。しかし、2年後にコンスタンティノープルでの商いが再開されるやいなや、自分の手持ちの金に新妻の持参金を加え、それに前記の2つの融資で得た資金をもとにして船と商品を購入し、コンスタンティノープルへ発ってしまった。
 この時期から1204年までの間のヴェネツィアとビザンチンの関係は、実は1年ごとに変るほど微妙な関係に陥っていた。ただ、ヴェネツィア政府も、自国の商業を保護するために苦労したけれど、商人のほうも命がけであったのだ。その最も極端な例は、マイラーノが勇躍オリエントへ向った、翌年に起ったのである。
 1171年、コンスタンティノープルでのヴェネツィア商人の我が家同然の活躍に、店子に店を取られた大家の思いでいたコンスタンティノープルの住民たちは皇帝の扇動に火を点けられて、ヴェネツィア人排斥の暴動を起したのである。居留地は襲われ、倉庫は焼打ちされ、運悪くその時コンスタンティノープルにいたヴェネツィア人の多くは、暴行を加えられたうえ、皇帝の命で捕われの身にされてしまった。
 港に停泊中のヴェネツィア商船も、襲ってきた暴徒によって火が点けられる。せめて商品だけでも守ろうと、水でぬれた布で甲板の上のそれをおおったが、とうていそんなことでは守りきれるものではない。マイラーノの船も、その1つであった。それでも彼は、他の多くの同僚よりは運が良かった。生命からがらにしても、まずアッコンへ逃げ、そこからヴェネツィアへ向う船に乗って、母国へ逃げ帰ることができたからである。しかし、この事件で彼が受けた損害は大きく、借金をすべて返済しつくすのに、なんと12年もかかるのである。ヴェネツィア商人全体の被害は、それこそ計り知れない額にのぼったことであろう。
▼シリア、パレスティーナ、エジプト交易に専念▼
 だが、40歳は越えていたはずのマイラーノの意気は、母国ヴェネツィアの意気が落ちなかったように、この不幸でも少しもくじけなかった。コンスタンティノープルが使用できなくなった代りとして、アレキサンドリア航路に重点を切り換えたヴェネツィア政府の方針に従って、彼もアレキサンドリアを根拠地にしょうと決心する。
 資本金は、元首セバスティアーノ・ヅィアニ[在位1172-78年]の息子で、元首に選ばれた父親に代って一家の財産を管理することになったピエトロが、出資してくれることになった。もしかしたら、これはコンスタンティノープルでの事件で打撃を受けた中小の商人たちを立ち直らせるために、この時期に大金持たちが行った救済対策かもしれない。ヅィアニ一家は当時のヴェネツィアでは一番の金持としても評判であった[ヴェネツィアには心優しい大商人がいたものである]。
 マイラーノは、こうして再び、オリエントへ向って旅立った。彼がまかされた商品は木材で、行き先はエジプトのアレキサンドリアである。すでに旧知のアレキサンドリアで、彼は持っていった木材を売り払い、それで胡椒を買い求め、ヅィアニが貸してくれた金を、アレキサンドリアにいるヅィアニの代理人に、金でなく胡椒で支払いを済ませた。
 しかし、彼は母国へはもどらなかった。胡椒をヴェネツィアへ帰る商人に売って得た金で、北アフリカ沿岸とパレスティーナ間の交易をはじめる。もちろん、資金は海上融資や限定合資会社を活用して増やしてであった。北アフリカ航路は、彼が出資して船を新造し、彼と同じく商人兼船乗りである他人に船長になってもらい、商品を売りさばいてもらうという、ヴェネツィア商人にはなじみ深い方式をとる。そして、彼自身はシリア、パレスティーナ、エジプト航路の船の船長になり、他人のもふくめた商いをするのである。こうして、母国に帰らないまま、20年近くの歳月が流れた。この間に、コンスタンティノープルで受けた損害を、すべて帳消しにしている。
 1190年、海軍力と外交術を併用したヴェネツィア政府の忍耐強い政治によって、ヴェネツィア共和国とビザンチン帝国の関係が改善きれ、20年ぶりにヴェネツィア商人はコンスタンティノープルで商売ができるようになった。しかし、ロマーノ・マイラーノは、この同じ年、第一線からの引退を決意する。60歳近い年齢のためであろう。それまでは、立派に船長を勤めていたのだが。
▼60歳で引退して、20年目に母国へ帰る▼
 引退して母国へ帰ったその年、2度目の妻を失った。彼の事業は、息子に引き継がれる。彼が死んだのは、10年後の1201年であった。国を挙げての大事業、第4次十字軍遠征に、ヴェネツィア中が一致団結するほんの1年前のことである。ロマーノ・マイラーノは、ヴェネツィアが東地中海の女王と呼ばれるようになる時代を知らないで、死んだ商人なのであった。

4-2 貴族出自の商人アンドレア・バルバリーゴ
▼はじめに▼
 塩野七生氏は、さらにロマーノ・マイラーノとは対照的な、15世紀半ば最盛期のヴェネツィアで活躍した貴族出自の、また定住商人であるアンドレア・パルバリーゴ[Andrea Barbarigo、1400?-49]という人物を紹介している(塩野前同、p.211-4)。ここでも、ロマーノ・マイラーノの項で述べた注釈が当てはまる。
 塩野七生氏は、ヴェネツィアにあっては一文無しでも海上交易に参入できたかのように強調しており、その例として「ヴェネツィア政府の中小商人保護育成の政策なしには、アンドレア・バルバリーゴのような男は存在しなかったであろうという。
 そうではなく、 パルバリーゴ家はアンドレアの死後、15世紀末にはマルコとアゴスティーノという兄弟が元首(ド―ジェ)になるなど、ヴェネツィアの名門中の名門の一族に属している。また、現在も大運河に沿って、少なくも5棟のパルバリーゴという名のある邸宅のある一門にいたのである。さらに、以下の紹介が示すように、彼が都市支配層に属していたことに事業成功の鍵があったことや、彼らの都市支配を維持するために交易政策が行われていたことを知りうる(以上、引用者記)。
▼ムーダ船団長の父に罰金刑、一家破産▼
 バルバリーゴの姓が示すように、彼はヴェネツィアの貴族階級に属する。しかし、商人としての彼のキャリアは、ほとんど無一文からはじめられた。生年はわからないが、情況から、1418年には18歳であったと考えられる。
 前年、定期航路の[ムーダ]船団長をしていた父親が、アレキサンドリア航路の帰途に航海規則に違反したという罪で、10000ドュカートもの莫大な罰金を言い渡され、それで彼の一家は破産という事態が起きた。アンドレアの商人としてのキャリアは、翌1418年、母親からゆずられた200ドュカートの資金をもとにしてはじめられる。国債など、絶対に買わされる危険のない資産であった。
 まず、最初に彼が手がけたのは、没落貴族の子弟のための職として国が斡旋していた職の1つ、ガレー商船の専門戦闘員であった石弓手になることであった。これにつくと、まず航海術を学べる。と同時に、乗組員全員は商品を携帯することが認められていたから、それをオリエントで売ってその代金で商品を求め、それをまたヴェネツィアへ持ち帰って売るという、いわば商売の技術も学べることになる。
 [中略]こうして航海をくり返すうちに、若者たちは船乗りとしても武人としても、また商人としても成長していくのである。普通ならば、これを終えた段階で、父親の事業の海外駐在員のような仕事をはじめる。と同時に、他人の海外駐在員の仕事も引き受けもする。この場合の手数料は、売りの場合が2パーセント、買いの場合だと1パーセントであった。
 しかし、アンドレア・バルバリーゴは、そのような恵まれた情況になかった。彼は、石弓手として航海の経験を積んで後に、国が没落貴族の子弟救済用にと考えたもう1つの職である、海上裁判所の判事になる。だが、ここは、法律を学ぶには最適の場所でもあった。
▼ヴェネツィアに落ち着き、持参金までも投資▼
 1431年、彼が31歳になった時、資本金は1600ドュカートに増えている。それに借りた金を加えて、交易に投資した。この時期、バルバリーゴがヴェネツィアにいたのか、海外にいたのかはわからない。しかし、私は、海外に、しかも多くの国をまわって、海外駐在員[塩野氏にあっては、駐在員と代理人の区別が曖昧であって、駐在員とは現地居留者ほどの意味のようである]をしていたのではないかと想像する。でなければ、後にあれほど見事に、20人もの各地の代理人を使いこなせるはずがない。
 39歳になった年に結婚した。バルバリーゴ家の者であるから、相手もヴェネツィアの貴族、カッベッロ家の娘である。花嫁の持参金は4000ドュカートであった。これもすべて、商売に投資する。あまり投資しすぎて、10ドュカートが必要になった時に、指輪を質に入れなければならないほどであった。
 どうもヴェネツィアの商人には、妻の持参金もなにもかも投資するくせがあったらしい。ロマーノ・マイラーノのように結婚するやいなや、妻の持参金を持って海外へ出て行ったきり、20年も帰らないという不心得者もいたが、アンドレア・バルバリーゴは、ヴェネツィアに落ちつこうと決心する。決心するというよりも、マイラーノの時代から200年過ぎた時代のヴェネツィアの商人には本国に留ったまま、海外貿易の第一線で活躍できる状況ができあがっていたと言うべきであろう。
バルバリーゴ邸
16世紀建造、19世紀末の写真
 それからの10年間、彼はヴェネツィアを動いていない。普通の貴族の義務である政治や軍事にたずさわるために本国へもどるのが、男の成熟の年齢とされる40歳前後であるから、バルバリーゴもいろいろな屈折はあっても、だいたい同じようなコースを通ったのである。ただ、彼がどの程度政治に関与したかは知られていない。商売に積極的であったのははっきりしている。彼の簿記が全て残されているからだ。
▼定住商人の心得、ひとえに情報収集▼
 それによると、パレスティーナ、シリア、スペイン、フランドル、イギリス等にいる20人近くの駐在員と代理人の契約を結んで、海外での業務を担当させていた。オリエントへは、西欧の各地から輸入した毛織物を輸出し、エジプトからは香味料、シリアからは綿、コンスタンティノープルから金細工、黒海のターナ[現アゾフ]からは奴隷を輸入し、それをまた西欧へ[再]輸出していた。代金の支払いや受領は、銀行を通して為替手形で行う。手形を操作して、資本をより有効に利用することも知っていた。
 商品の輸送は、もっぱら定期航路のガレー商船を活用したので、これほどの商いをしながら、1隻も自分の船を所有していない。彼は、毎日リアルトヘ通うだけで、海外貿易に従事していたのである。
 彼のように仕事する者は、さまざまなことを知っていなければならなかったが、とくに次の事柄には、1日として注意をおこたることは許されなかった。
 1 政府、といっても実際には元老院が決めるのだが、その政府の決める各船団の寄港地と積み荷の種類と量についての情報。
 2 エジプトのスルタンとビザンチン帝国皇帝の[それらは力を失っており、オスマン・トルコの]、ヴェネツィア商人に対する、まるで猫の眼のように変る待遇の最新情報。
 3 海賊の横行とか、敵対国の態度に左右される航海の安全度を的確に予知し、安全だが輸送料の高いガレー商船にするか、絶対安全とはいえないが輸送料は安い帆船にするかを、商品の程度によって、そのたびに決めること。
 4 各地でのその年の産出高、質、値の動き等を、確実に、またより早く知っておく必要。
 5 各地の政情に通じておくこと。これは、争いでも起りそうな時は、あらかじめ買いこんでおくためである。
 これらの情報を得る源は、アンドレア・バルバリーゴにとっては、彼と同じ階級に属する元老院議員たちであり、各地の駐在員からの報告であり、リアルトで交換する、仲間たちとの話であった。
▼商業書簡をもって、代理人に指示▼
 それらをもとにしてくだされた決定は、速達で、海外各地に散る駐在員へ送られる。速達とは、1つの船で送られるのでなく、寄港地ごとに船を乗り継いで送られる便のことである。それでも重要な取引となると、バルバリーゴは指令の手紙を7通同文のものを書き、パレスティーナのアッコンへ送るのに、3通はクレタ経由、3通はアレキサンドリア経由で送りだすほどであった。残りの1通は、もちろん手許に残される。
 電話もテレックスもなかった時代だから、中世の商人たちは実によく手紙を書いた。駐在員といっても、親族関係にある者もまったくの他人もいたが、いずれの場合もなにも彼1人に雇われているわけではない。契約によって、手数料を取って、他の何人もの商人の仕事を代行しているのである。バルバリーゴのような立場の商人にとっては、当然、取引の指令はなるべく早く、駐在員の手に渡る必要があった。
 アンドレア・バルバリーゴのこの10年間は、なかなかに実り多いものであったらしい。1443年には、家を購入している。そして、1449年に死んだ時には、15000ドュカートを残していた。大金持とは言えないが、国債を貿わされる層には確実に属している。
(2007/05/20記)


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