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北欧のゲートウェイ・ハンブルク、その交易

▼はじめに▼
 日本人にとって、世界遺産であるリューベックという都市に比べ、ドイツ第二の都市を誇るハンブルクは、第2次世界大戦で壊滅させられたこともあって、なじみのある観光都市ではない。また、近世以来ドイツ最大の港であり続けていること、そして「新大陸」に向けて500万人もの(新)移民(1835-1934年、ブレーメンとともに、1000万人)を送り出した港であることなどは知る由もない。それだけに海上交易都市としてのハンブルクの歴史を整理する意義は少なくない。
▼アドルフ3世、新市街を建設して交易▼
 ハンブルクは、ユトランド半島の根元、西側の北海に面しており、その東側にはバルト海に面してリューベックがある。また、ハンブルクは北海の河口からエルベ川を100キロメートル遡ったところに位置している。エルベ川は、全長1,091キロメートルであるが、そのうち727キロメートルはドイツ国内にあり、可航できる。その先は源流のあるチェコに行き着く。
 ハンブルクは、808年カール大帝(在位468-814)によって城塞が築かれ、811年大聖堂を建設したことに始まる。北欧の使徒と呼ばれる聖アンスガル(801-865)が派遣され、司教座が置かれる。ヴァイキングの教化に成功せず、845年その一派のデーン人によって、ハンブルクは徹底的に破壊される。それでもハンブルグはデーン人やスラヴ人の襲撃に耐え抜く。
 12世紀、ハンブルクはホルシュタイン伯にもなったシャウエンブルク家の領地として発展しはじめる。ホルシュタイン伯アドルフ3世(在位1164-1203)は、司教の旧市街に対して、その北側に新市街を建設する。彼は単なる領主ではなく、商人として振る舞い、週市と年3回の大市を開き、ノイシュタット(新市街)の周辺に商人や船乗りを住まわせる。これがハンブルクの交易都市としての始まりとなる。
 1189年5月7日、神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世(赤髭王・バルバロッサ、在位1152-90)から、第3回十字軍への貢献を見返りに交易特権が与えられる。それは、ノイシュタットの商人に対して、ハンブルク・北海間のエルベ川の通行自由・非課税権を与えるものであった。ハンブルクはこの日を開港記念日としているという。
 さらに、1190-91年には、ザクセン大公ハインリヒ(獅子王、在位1139-95?)はそれが支配するハンブルクより上流のエルベ川における非課税権を、ノイシュタットに付与する。さらに、1216年には、ハンブルク全域の商人に対して、ザクセン公アルブレヒト1世(在位1212-60)が上流域での租税・関税特権を与える。これらにより、北海からの海上交易に加え、エルベ川を利用したドイツ内陸に至る交易基盤が築かれる。
 ハンブルクは、1201年からデンマークのヴァルデマー2世(在位1202-41)の支配を受けるが、1227年アドルフ4世(在位1224-38)がデンマークに勝利したことで、その支配からのがれる。1228年、大司教がホルシュタイン伯に旧市街を譲渡する。その後、ハンブルクという町は伯からほぼすべての諸権利を買い取り、領邦君主からの事実上の独立を果たす。新旧の市街地は統合され、市会が成立する。1297年にはホルシュタイン伯に自治権を認められる。「都市の空気は自由にする」時代の到来である。
▼リューベックの外港としての交易▼
 ハンブルクは、1241年リューベック、1249年ブレーメンと攻守条約を結び、都市間の輸送の安全を確保する。さらに、1304年には安全確保のために、護衛団を組織することを決定している。その構成員はリューベック32人、ハンブルク8人であり、その数は力関係を示すものとなっていた。14世紀半ばまで、ハンブルクの商人が直接バルト海に出向くことは少なかった。リューベックはハンブルクを外港としていたが、西ヨーロッパとの交易はハンブルクに出入りする船に依存せざるをえなかった。
 リューベックをはじめとするドイツの商人たちは、フランドルにおける商権を維持する必要に迫られていた。1358年、リューベックの提唱によってハンザ総会が開かれ、ハンザ同盟が誕生する。
アルスター・ハーフェン(現在ニコライ運河)

 1334年から、ハンブルクでは、現在、ウィルヘムスブルグやシュパーランドといった地域のエルベ川の治水工事が行われ、運河を造って流水を誘導し、湿地帯に堤防を設け、その河岸を護岸して、小さな船着き場が掘り込まれた。そして、現在、倉庫街という観光ゾーンとなっている旧市街地にアルスター・ハーフェン(現在ニコライ運河)、その出口にビンネン・ハーフェンと呼ばれる船溜まりが設けられた。それらは厳重な城壁で守られていた。この港湾工事には、1420年リューベックが経済協力したという(エルベ川の工事やハンブルク港の古地図については、高見玄一郎著『港の世界史』、朝日新聞社、1989に詳しい)。
 1369年、ハンブルクから各地に輸出された主な商品は、ビール、麻・亜麻織物、毛織物、蜜蝋、毛皮製品、ニシン、鉄、ライ麦、銅、豚・豚肉、木材、オスムント鉄(スウェーデンの湖沼鉄を「農夫炉」と呼ばれる竪型炉によって造られた粗鉄塊)、深鉢、蜂蜜、バター、燕麦、小麦、亜麻、ホップ、コルドバ革などである。このうち、ビールは、「ハンザの醸造所」とされたハンブルクの主な輸出品であり、主たる顧客はオランダであった。なお、内陸部から商品を含め、ハンブルクに輸入された主な商品については不明である。
 リューベックに限って、ハンブルクの交易をみてみると、1368年リューベックに向かった商品の額は14万リューベック・マルクであった。そのうち、毛織物が10万マルクと圧倒的である。それに次いで、小間物、樽、イングランド産毛織物、油、米穀、ワインなどであった。逆にハンブルクに向かった商品の額は3.7万リューベック・マルクで、その品目はバター、蜜蝋、ニシン、銅、小間物、亜麻、毛皮、オスムント鉄などであった。
 ここで注目すべきはリューベック向け商品のなかにビールが含まれていない。「リューベックはニシンを、リューネブルクはそれを漬ける塩を。そこで生じた喉の渇きは、麦芽からできたハンブルクの飲み物が消してくれる」という詩が、今日まで伝わっているというが、それはハンブルクや北海に限ってのことであって、バルト海の人びとにはリューベックのビールが供給されていた。それでも、15世紀になるとエーアソン海峡経由で、ハンブルク・ビールが輸出されるようになった。
 1418年のハンブルクの主な輸出品は、それ以前に比べビールや麻・亜麻織物が減ったとみられ、他方毛皮製品や蜜蝋、銅・真鍮製品は増加したとされる。ここでは、輸入品がわかっており、毛織物、南方産(イベリア半島か)果実、油などがあり、乾物用の樽には南方諸産品が詰め込まれていたという。これら商品のうち、毛織物は毛皮や蜜蝋、銅の見返りにリューベックやバルト海方面へ送られ、真鍮製品はドイツ内陸部から供給されたとされる。
 ハンブルクの取次業者29人のドイツ内陸部との取引先は、リューベックが22人と圧倒的に多く、リューネブルク6人、ザルツヴェーデル、ブラウンシュヴァイク各4人、シュトラールズント、ブレーメン、シュターデ各3人、マクデブルク2人となっている。取引先の累計数47か所だけからみると、ハンブルクの取次業者はリューベックをはじめとした、バルト海を主たる取引先としたうえで、内陸部のハンザ都市をとおおむね1か所を、取引先として選択していたかとみえる。
 14-15世紀、ハンザ盛期のハンブルクは何はともあれ、リューベックを主たる取引先とすることで、北海とバルト海との幹線交易を中継するハンザの都市として、そして内陸部との支線交易の商品集散地として、バルト海、北海・大西洋、そして内陸部という3つの交易軸のゲートウェイあるいはハブ・センターを担っていた。
▼15世紀ハンザの衰退をよそに成長▼
 1399年ハンザ同盟は共同で海賊掃討を決定する。ハンブルクは船隊を派遣して、ユトランド半島西側にあるヘルゴラント島沖で、ヴィタリエン・ブリューダーという海賊団の頭で、14世紀末に北海・バルト海を荒らしまわっていたシュテルテベッカーを捕縛する。彼は1401年にハンブルクのグラスブローク通りで斬首される。この海賊は、救援物資を送り届けるなど義侠としての誉れ高く、いまもバルト海の人びとに愛されている。
 14、15世紀に入っても、デンマークのハンブルクへの介入は続くが、カルマル同盟時代、1459年シャウエンブルク家のアドルフ8世(在位1440-59)が嫡子をもたずに死ぬと、ホルシュタイン伯の跡目はその甥であるデンマーク王クリスチャン1世(在位1448-81)に渡ってしまう。彼はハンブルクを、名目的でなく実質的に支配しようと試みる。これに対してハンブルクは巧みな外交で都市の独立を維持することに努める。
 デンマークが、最終的にハンブルクの独立を認めるのは、1768年になってからのことであった。その間、ハンブルクは1410年、1510年、1618年、神聖ローマ皇帝から三度、帝国自由都市の特権を与えられている。
 15世紀半ばなると、バルト海交易を仕切ってきたハンザ同盟も、オランダ、イングランド、そしてスウェーデンなどが台頭してくると、ハンザ都市による交易独占は掘り崩され、その勢力は次第に弱まってくる。新興勢力が大型船を用いてエーアソン海峡を経由することで、バルト海の仕向け地に商品を直接送り込むようになると、ハンブルクを外港としてきたリューベックは衰退を余儀なくされる。
 それに対して、ハンブルクはこの時期、急速な経済成長を見せることとなる。それは、スペインやポルトガル、さらにイングランドやオランダとあいだで、大きな交易関係が築かれることとなったからであった。
 16世紀ハンブルクも宗教改革の波に洗われる。1527-29年プロテスタント改革が導入され、ハンブルクはルター派都市となった。1618年ヨーロッパ全土を巻き込む三十年戦争という国際戦争が勃発する。それはハンザ同盟の崩壊を促した。ハンブルクにも大きな経済的打撃となったが、中立を保ったことで直接的な損害を免れ、都市の平和を守ることができた。その時役に立ったのが、アルスター湖を内外に分断して、都市を取り囲んだ稜堡であったという。
 1567年、ハンブルクはアントウェルペンから移ってきたイングランド人を受け入れ、協定を結ぶ。これにより大陸向け毛織物輸出の拠点となる。1585年、アントウェルペンがスペインに陥落されると、そこを追われたネーデルラント商人が進出してくる。また、スペインによる異端審問を避けて、イベリア半島を抜け出してきたユダヤ商人(セファルディム商人)が、ハンブルクに居住し始める。17世紀前半、ハンブルクにはネーデルラント商人425家族が登録され、市民権を買い取っていた。1652年には400人以上が確認された。さらに、1685年ナントの勅令が廃止されると、フランスからカルヴァン派の市民がここに流入してきた。
 ハンブルクはアムステルダムと並ぶ宗教難民のアジールとなる。この移民によって、ハンブルクは都市人口を増大させただけではなく、彼らの交易の取引先、ネットワーク、そして交易のノウハウをわがものとした。これにより、ハンブルクはハンザ都市からがヨーロッパ都市、世界都市へと変貌したとされる。
1630年ハンブルグ

▼16-18世紀におけるバルト海との交易▼
 1369年(正確には15か月間)の記録では、ハンブルクを出港した隻数は598隻であった。このうち、コッゲ船とみなしうるのは46隻のみで、ほとんどが小さな船であり、しかも船主はその名前からホラント・フリースラントが出身地であったという。また、1418年の記録では出港隻数は、フランドル・ゾイテルゼー向けが含まれていないため536隻と少ないが、ここでも船主はおおむねホラント・フリースラントであった。彼らは小舟を所有する農民で、年に一度くらいハンブルクに農産物を持ち込み、帰り荷としてビールなどの商品を持ち帰る人びとであったとみられている。
 ハンブルク港を母港とする船舶に関する情報はまことに乏しい。ある資料では、1418年が53隻であったが、1665年は219隻、1674年は309隻、1765年は134隻となっている。また、外国の港の記録では、例えば1580年アントウェルペン港でドイツ船が80隻記録され、そのうちの67隻がハンブルクのボイエ(Boier)型(詳細不明)であり、それらの平均の積載量は45ラスト(1ラスト=2トン)であったという。当時としては大型のハンブルクの船は、北海ではドイツ最多となっていたとみられている。
 16世紀、北海とバルト海との交易はハンブルク─リューベック経由の中継交易としてではなく、エーアソン海峡経由の直接交易として行われる。しかも、それはオランダが大宗交易品となった穀物交易を一手に支配するかたちで行われた。ハンブルクも生き残るためには、自らもバルト海との直接交易に参入するしかなかった。
 ハンブルクの船は、16世紀前半いままでになく直接交易に参入するようになり、1530年代毎年150隻以上のハンブルク船がエーアソン海峡を通過したとされる。しかし、エーアソン海峡通行税台帳によると、16世半ばから98年間において、行き帰りに海峡を通過したハンブルク船は10年値で、最多は1560-69年間で1,199隻、最少は1631-40年で18隻という開きがあり、平均524隻である。年間で多い年50隻、平均25隻ほどが参入していたにとどまることとなる。なお、海峡通過総隻数は38万隻にも及んでおり、その60パーセントがオランダ船であった。
 そうしたハンブルク船のなかには、ロンドン・アントウェルペンの交易軸の一貫としてバルト海にまで進出し、ダンツィヒからロンドンやアントウェルペンの間で、穀物の輸送に従事する船もあった。また、大西洋産の塩のバルト海向け輸送に従事する船まで現れたという。
 17世半ばから120年間において、ハンブルクを発港地としてエーアソン海峡を通過した船は10年値で、1761-70年間が最多で1,236隻、1701-10年(1700-21年大北方戦争)が最少で17隻、平均415隻である。18世紀第3四半期には1,000隻台に急増している。ハンブルクが最多であった1761-70年間、エーアソン海峡を通過した船は、総数30,445隻であった。このうちハンブルクを発港地とする船は4パーセントと少なく、ポルトガル発の船よりも少ない。ハンブルクという都市あるいは港が、北海からバルト海への海上交易に占める地位は極めて低かったことになる。
 それらハンブルクを発港地とする415隻のなかには、ハンブルクを船籍とする船も当然含まれるが、当面の資料では明らかではない。明らかにされている船籍のうち、最も多いのはオランダ船139隻、次いでイングランド船43隻(時代が下がるごとに増加する)、デンマーク35隻、スウェーデン20隻、ノルウェー2隻、それら小計は239隻となる。
 その残余である175隻のなかには、ハンブルクなどハンザ同盟に属したブレーメン、リューベック、ロストク、ヴィスマル、ストラーズンド、そしてバルト海のポンメルン、ダンツィヒ、エルビング、東プロイセン、さらにフランスやポルトガルの都市の船が含まれることになる。したがって、ハンブルク船が何隻になるかは容易に推定しえないが、先にみたようにハンブルク船の総数が17世紀にくらべ半減して、1765年には134隻でなっていたとする時、18世紀半ばにバルト海に就航したハンブルク船の隻数はせいぜい25隻ということになる。これまたハンブルク船はバルト海では小さな船籍でしかなかったのである。
 それはそれとして、16-18世紀、ハンブルクにはバルト海交易に就航する船が、その規模はわずかであったが、オランダ船を中心にして多くの船籍の船が寄港して、バルト海向けの貨物を積み取っていたことを知りうる。
▼マーチャント・アドヴェンチャラーズの指定港▼
 北海・バルト海交易の東向きの主たる商品は一貫して毛織物であった。この毛織物はフランドルそしてイングランドから持ち込まれたものであった。ドイツ商人のイングランドとの交易は非常に古く、彼らは10世紀末以来ロンドン市民と同じ扱いを受けるという恩典を与えられ、他の外国人商人より有利となっていた。ドイツ商人のなかではケルンの商人が優勢であり、ハンブルクやリューベックの商人の役割は低かった。彼らは1281年ハンザ同盟として、ロンドン商館(スティールヤード、1598年に閉鎖される)を設置して、羊毛や毛織物を買い付けていた。
 イングランドの羊毛や毛織物の輸出は、イタリア人やフランス人、ドイツ人に委ねられていたが、次第にイングランド人商人の扱い量が増えてくる。その結果、15世紀第三四半期ごろ広幅毛織物輸出の扱い量は、イングランド人60、ドイツ人25、その他15パーセントという構成までになった。その主な販路は北海・バルト海の都市であったが、ドイツにあっては低地地方という先進地域に隣接するライン・マース川地方ではなく、後背地にドイツ、ハンガリー、ポーランドといった広大な後進地域をかかえるエルベ・ヴェーゼル川地方がターゲットとなった。
 ハンブルクが、イングランドの毛織物交易特権団体である冒険商人組合(マーチャント・アドヴェンチャラーズ)の輸出相手港として指定されたのは、1569年から1579年までと1611年から1808年にかけてであった。これにより、ハンブルクはイングランド産の未仕上げ毛織物の仕上げと販売を担うこととなった。その結果、ハンブルクは、毛織物のロンドン→ハンブルク→大陸内部という交易軸の結節点となり、またイングランドの大陸部における交易拠点となった。
 ハンブルクが、マーチャント・アドヴェンチャラーズの指定港となった1569年の5月に23隻のマーチャント・アドヴェンチャラーズの船と、3隻のハンザの船、2隻のイタリアの船からなる毛織物輸送船団が、また9月にはハンザの船を含む少なくとも25隻からなる船団が、ハンブルクに入港した。それら船団に積み込まれていた毛織物の量は6-7万クロス、金額にして310万リューベック・マルクに達していたという。
 さらに、翌年、ハンブルクの都市参事会はグレニンガー通りの一群の建物を買い上げて、それらを無償でマーチャント・アドヴェンチャラーズに提供する。イングランド人の館と呼ばれた、それらの建物に1620年商人111人、家族や使用人を含めて228人が居住していた。
 イングランドとハンブルクとのあいだで取引された商品は多様である。1611年1月から1612年2月にかけて、ハンブルクの関税台帳から抽出されたものとしては、ハンブルクからイングランドに向けて繊維品(麻、綿、絹織物、ボンバジン(ドレスに使用される綾織物)、ベルベット)、大麻、羊毛、毛皮・皮革、金属・金物(銅、真鍮、水銀、薄板、各種ワイヤー)、染料・色止め(明礬、あかね、インディゴ、ブラジルスオウ)、木材・木工品、ニュルンベルク産金物、ナイフ、ガラス、ホルシュタイン産小麦、チーズ、胡椒が抽出されている。
 逆のイングランドからハンブルク向けでは、毛織物、毛皮・皮革、鉛、石炭、ビール、酢、各種海外産品(ゴム、胡椒、ナツメグ、生姜など)が取引された。これら商品のうち、イングランドの毛織物の多くはハンブルクから大陸内部に送られたし、ハンブルクからの輸出品には大陸内部から移入された繊維品や金属などが数多く含まれていた。
▼人口の増加、取引所の開設、護衛船の配置▼
 ハンブルクの推定人口は、1500年14,000人から1550年29,000人に増加し、リューベックを上回るまでになった(リューベックは24,000人)。ドイツ最多のケルンは4.6万人であった。さらに、17世紀に入ると、1600年4.0万人となる。人口は増加したとはいえ、他の交易都市、例えばロンドンは20万人、アムステルダム5.4万人、ブリュッセル5.0万人、コペンハーゲン4.0万人に比べればその規模はかなり小さく、その後も同じであった。
 1558年ハンブルクに、ドイツ初の取引所がトロスト橋の近くに建設された。当初は屋根も壁もなく、舗装された区画を柵で囲んだだけの広場であった。その付近には、市庁舎や下級裁判所、荷揚げに使うクレーンなどがあった。取引所は、イングランド産毛織物を取引することで始まったが、数年のうちにネーデルラント商人やその他の外来商人も集まるようになる。1583年建物となるが、1842年焼失、再建された取引所は1912年現在の市庁舎に接合される。
 1619年にはハンブルク銀行が創設される。その創設費の多くをオランダ人が拠出したが、それに次ぐのはポルトガル人であったという。なお、1609年にアムステルダム銀行が創設されており、オランダ人の関与が知れる。
 中世のハンブルクはビールの町であった。しかし、近世、17世紀後半になると、スペイン・ポルトガル、オランダ、イングランド、そしてフランスを経由して持ち込まれる「新大陸」からの、コーヒーや紅茶、砂糖、タバコなどの植民地物産が溢れることとなる。1620年代にはいくつかの新聞が刊行されるようになる。なかでも1665年に刊行が始まった「北のメルクリウス」紙が有力紙であった。1677年にはコーヒー・ハウスが誕生、社交と情報交換の場が提供される(ドイツ最初のコーヒー・ハウスは1673年ブレーメンで開業される)。
 ハンブルクは、ヨーロッパ諸国がひっきりなしに戦争をくり返すなかで、ハンブルクは1618年から1868年まで、すなわち三十年戦争の開始から北ドイツ連邦の成立期までの、実に250年もの間政治的中立を貫いた都市である。中立国であることで、ハンブルク船は重用され、あらゆる国ぐにに寄港することができたし、中立港はあらゆる国ぐにの船に利用された。しかし、ハンブルク船が交戦国などから、攻撃あるいは拿捕されないわけではなかったし、またトルコ人やアルジェルア人海賊によるに襲撃もあった。
 ハンブルクは、フランスのルイ14世(在位1643-1715)の対外戦争が広がる1668/69年に、2隻の強力なフリゲート艦を護衛船として建造している。レオポルドゥス・プリムス号とハンブルク紋章号である。これらはドイツ最初の軍艦であり、それぞれ54門の大砲と100人の水夫、50人の水兵を乗せていた。その効果はすぐにあらわれた。1674年カディスへ向けての処女航海で遭遇した、3隻のトルコの海賊船は巨大な護衛船を前にして逃走した。また、1678年グーリンランドからの帰路にあった捕鯨船を、フランスの私掠船がエルベ川河口で襲撃してきたが、護衛船によりあえなく沈められたという。1624年には、外国に捕虜となった船員を身請けするために、特別な金庫が設けられたことがあった。
▼ハンブルクの大陸内部との交易▼
 ヨーロッパにおける平坦な大地に拡がる河川や運河を交通路とした交易や輸送は、ダムが河川から流水を取り上げてしまった日本とは比較ならないほど、現在においても活況を呈している。ハンブルクは、古い時代からエルベ川を利用した内陸交易を行っており、バルト海交易とは異質な交易が築かれていた。
 ブランデンブルク辺境伯領やマグデブルク大司教領、マイセン辺境伯領といったエルベ川上流の商人に交付された1262/63年関税一覧には、上流に向かった商品として、ビール、ワイン、大麦、カラス麦、馬,牛、豚、鉛、フランドル産毛織物、大青、また下流に向かった商品として、ライ麦、小麦、銅、鉛、鉄、亜麻・麻織物、ピッチ、灰、蜜蝋が挙げられている。そのなかでも、ライ麦など穀物はハンザ同盟の衰退期には海上交易の大宗商品になる。ハンブルクは、穀倉地帯のブランデンブルク辺境伯領などから取り込んでいたため、15世紀中頃からシュターペル(商品集散権)が設定される。
 ハンブルクと取引関係のある都市としてまずリューベックが挙げられるが、エルベ川上流部の都市ではボイツェンベルク、リューネブルク、マグデブルク、ブラウンシュヴァイク、ハノーバー、ベルリン、ザルツヴェーデルであったという。中世後期から近世になると、ハンブルクはフランクフルトやニュルンベルク、アウクスブルク、ライプツィヒなどの都市との関係が深まってくる。そのなかでも、ヨーロッパの東西、南北の交易軸の十字路に位置する、ライプツィヒとの関係が特に強まる。それは、17世紀中頃、シュレージェンなどドイツ中東部一帯で麻織物工業が発展して、ライプツィヒやブレスラウがそれら商品の集散地となったことにある。
 プロイセン王国においては,1669年にシュプレー川とオーデル川を結ぶフリードリヒ・ウィルヘルム運河が開通して、ブレスラウやシュレージェンからハンブルクへの水路による連絡が可能となる。そこで、ライプツィヒからハンブルクに向けて大宗商品となったのが、シュレージェン産の亜麻・麻織物であった。ライプツィヒにはハンブルクの商人が移住するようになる。彼らは、毛織物や絹物、魚油、蜜蝋、毛皮、装身具などの、主に販売に携わったばかりでなく、工場や鉱山の経営や銅の販売に参画し、市長や参事会員に登り、また貴族にも列されていた。イングランドの毛織物商人も訪れていた。
 このような状況にもかかわらず、17世紀におけるエルベ川交易に関する統計資料は乏しい。そのなかにあって、17世紀後半のピルナの川船船主であったゴットフリート・クレーディッツが控訴審裁判所の係争に関わったことで、ピルナ・ハンブルク間を往復したときの会計書類が残されている。
 この川船の商品別の運賃収入高(4年間4往復の合計)から、積載されていた商品の種別とその多寡を知りうる。ピルナからハンブルクへの下りで、運賃収入が最も多かった商品は板・木材製品で3,360ターラー(大型銀貨をいう)であった。次いで、粉引き用石臼1,904、亜麻・麻織物618、紙430、小麦・豆類321ターラーなどである。それ以外では錫、鉄鋼、鹿の角、地元産ワインなどであった。なお、下り商品として小麦など穀類が少ないのは、多分この川船が穀類向きでないからであろう。
 逆に、ピルナからハンブルクへの上りで、最も多かった商品は魚・魚油が2,905ターラーであり、そして砂糖・シロップ266、油261、ワイン・発泡ワイン(ゼクト)261ターラーであった。それ以外では蜂蜜、タバコ、白墨、塩、皮革・ロシア皮、松脂などであった。この川船には、この時代ハンブルクからイングランドむけの主力商品となった亜麻・麻織物が積み込まれているが、その見返り品の毛織物は貨物となっていない。この船主は毛織物荷主との取引がなかったのであろうか。それとも毛織物は高価格商品のため陸送されていたのであろうか。
 主な下り商品は、内陸部にある特産地で生産された、嵩高あるいは重量のある、低価格商品がほとんどである。また、おおむね加工品となっているが、麻織物や紙、木材製品を除けば、その加工度は低い。
 それに対して、上り商品は食品や嗜好品が多く、それは高価格からの低価格にまたがっている。それらは、ハンブルクが植民地物産、南ヨーロッパ産品、北海産品など、多様で異質な地域から取り込んだ商品となっている。ワインにはスペイン産、塩はフランス産(ベイ塩)が含まれ、ロシア革はリューベック経由であった。
 なお、この川船は上り下りとも、高価格商品はときどき少量が積まれるにとどまり、運賃収入の柱となっていない。それがエルベ川の川船の特徴かどうかは不明である。
▼エルベ川を往来する川船の商い▼
 この川船は、4年間4往復のいずれについても、下りで22種類、上りで20種類といった、かなりの数の商品を積む雑貨混載船であったことがわかる。運賃収入は、1671-4年4往復の合計で、下りは6,940ターラー、上りは4,562ターラーであった。それに応じてか、関税は下りが上りよりも、多く徴収されたことになっている。この限りで、この川船はピルナからハンブルクへの下る商品を積む込むことが、主な運航目的となっていたかとみえる。
 下流部に向かった商品は、一部が途中の寄港地で積み下ろされるが、ほとんどはハンブルクまで運ばれ、数週間の滞在期間をかけて、商品同士の交換(例えば、紙はイチジクや干し葡萄、穀類はニシン、亜麻はタバコ)のかたちで、その一部は現金でもって取引されたという。上流部に向かった商品のなかでは、ニシンなど魚やその油はデッサウ、ライプツィヒ、マイセン、さらにプラハにまでに向けられた。
 この川船が、ピルナ・ハンブルク間の航行に要した日数は、1672年の例ではピルナからハンブルク手前のラウエンブルクまでの下りで27日、ハンブルクからピルナまでの上りで38日を要している。そして、ハンブルクにおける貨物の積み下ろしと積み込み、そして商品の売買期間を含めると、およそ3か月ほどであったとみられる。その間、川船は少なくとも主な税関13か所(注)で、行き帰り、関税を徴収されていた。そのうち、マグデブルクには渡船事務局、内国消費税事務局、水車代官所という3つの役所があり、最低のクムローゼンに比べ、20-50倍の関税を取り立てていた。
 この川船の運賃は、下りに比べ上りのほうが高かった。上りに際して、トルガウからドレスデンまでの乗組員を2人増員したり、またマイセンより下流のショイスリッツからドレスデンまでは曳き手に船を曳かせる必要があった。そのため、川船船主は収入を増やそうとして、運賃の低い下りで自己勘定の貨物を運び(貨物の全部か一部かは不明)、運賃の高い上りでは他から委託された商品を心掛けて運んだという。
 この川船船主は、往復4回の航行を通じて、上りの平均でピルナなどにおいて16,358ターラーの販売額となった下り商品を、ハンブルクで仕入れている。それはハンブルクで、下り商品との交換やその現金売り(4,317ターラー)で仕入れた商品であった。これに対する運賃収入はこれまた上りの平均とみられるが、1671年の場合2,915ターラーとなっている。この運賃が平均商品額に占める比率は17.8パーセントとなり、かなり低いかにみえる。
 関税は船主が払うことになっている。1671年の運賃収支をみると、運賃収入は2,915ターラーに対して、人件費や修理代などの運航費が588ターラーあるが、関税支払いは実に2,006ターラーとなっており、船主の粗利あるいは純益はわずか321ターラーである。運賃収入のうち5分の3が関税として奪われている。多数の税関とその関税の高さはドイツの宿痾(しゅくあ)とされてきた。
 なお、近世18世紀以降のハンブルクの河川交易については、不分明である。
(注)
 主な税関は、ピルナ、ドレスデン、マイセン、トルガウ、ヴィッテンベルク、デッサウ、マグデブルク、ザンダウ、クムローゼン、デーミッツ、ボイツェンブルク、ラウエンブルク、ハンブルクにあった。
▼植民地物産の北欧向けの集散地▼
 ハンブルクにとって、16世紀に入るとバルト海との海上交易は、もはや伝統的な交易に過ぎなくなり、ヨーロッパ世界の中心となったオランダとの交易が最重要となる。それに応じて、ハンブルクは外国人商人を受け入れるだけではなく、その商人も交易先に進んで移住するようになる。アムステルダムには、オランダ国内外から商人が移住してきたが、17世紀第四四半期にあってはハンブルク人の移住が最多であったという。
 1603年ハンブルクに入港した船は、オランダ944隻、イングランド61隻、ポルトガル44隻、フランス22隻だったという。これに連続する資料に欠けるが、それから150年後の1751年には、それらは300、160、28、241隻となっているという。18世紀におけるオランダ船の著しい後退と、イングランド船とフランス船の大幅な増加があり、交易相手方が激変したことがわかる。
 ハンブルクの輸入額(このデータには、遺憾なことに、オランダが含まれていない)についてみると、1678年551万マルク、1713年543マルクであったが、1751年には実に3,414万マルクにまで著増する。この著増は、主としてイングランドからの植民地物産の再輸出が、18世紀半ばを境にして一挙に押し出されたからであった。それは、アメリカや東インドからの輸入の増加とそれらの国内消費が飽和するなかで押し出されたものであった。その結果として、ハンブルクからエーアソン海峡経由でのバルト海向けの植民地物産の輸送量は、10年値で、1741-50年の75万ポンドから1750-60年の151万ポンドに倍増している。
 1678年の輸入元構成は、イングランド30、スペイン30、フランス16、ロシア10、ポルトガル10、地中海3パーセントの順であった。1751年になると、フランス40、イングランド37、ロシア10、ポルトガル5、スペイン3、地中海5パーセントの順に、大きく変わっている。この変化はいま上でみた入港隻数の変化に対応しているが、それ以外ではイベリア半島の後退が見て取れる。
 こうした輸入元の変化は輸入品の変化でもあった。その品目構成の変化を示す資料は見当たらない。18世紀までのハンブルクとイングランドの交易は、主要商品が麻織物と毛織物との伝統的な取引を基本としていたが、それに植民地物産の再輸出先に組み入れられた。
 イングランドはハンブルクに、1696-1700年の年平均で毛織物36万ポンド、再輸出品16万ポンドであったが、1776-80年になると30万ポントと73万ポントへと、圧倒的な額で逆転している。フランスにおいても同様であって、従来のワインやブランデーに植民地物産が取って代わる。それはイングランドやフランスのヨーロッパ大陸への主たる仕向け地が、アムステルダムからハンブルクに転移したことでもあった。
 ハンブルクは、主な植民地物産であるコーヒーと砂糖については、ボルドーからの輸入が最も多く、他を圧倒していた。しかし、18世紀末になるとロンドンが追い越し、それにリスボンおよびカディスが続くまでになる。タバコについては、ロンドンとリスボンが分け合っていたが、次第にロンドンのシェアが高まる。インディゴについては、ボルドーが最も多かったが、18世紀末になるとロンドンとカディスが分け合うようになる。
 フランスはコーヒーと砂糖の主な再輸出先を、オランダからハンブルクなどのハンザ都市に切り替えて、再輸出量の約半分を送り込んでいた。そのため多数のハンブルク商人はボルドーに居留して交易を行っていた。しかし、そのボルドーは18世紀に西インド諸島との交易で黄金時代を迎えたが、フランス革命期ジロンド派の本拠地であったことでジャコバン派の報復を受け、そのあおりでロンドンに抜かれたといえる。
 ボルドーは、1789年750隻を出港させるが、そのうちハンザ都市向けが170隻、オランダ向けが145隻であった。ハンザ都市向けの隻数構成は、1787年においてハンブルク78、ブレーメン19、リューベック2パーセントであったとされる(実数不明)。ボルドー在住の外国人商人数は、18世紀初頭まではオランダ人が多かったが、1777年の課税名簿によると総数111人の出身地は、ドイツ52人(大多数はハンブルク人)、イギリス諸島(同じく、アイルランド人)33人、オランダ17人、スイス5人、北欧4人となった。
 なお、18世紀ハンブルクのボルドーとの結びつきは強くなるが、その強さは1716年のフランス王との通商条約による特典に加え、オランダ人は委託販売、ハンザ商人は買取り制という商取引の違いにあったとされる。
▼おわりに▼
 13-15世紀、ハンブルクはリューベックの外港あるいは「リューベックにとっての北海港」として出発し、ハンザ同盟にも参加するが、リューベックがバルト海交易を仕切っているもとでは、ゲートウェイとしの限界から逃れることはできなかった。15-16世紀、エーアソン海峡の航行がオランダなどの新興勢力によって切り開かれると、自らも海運力を興起させてバルト海交易に参入するが、新興勢力に及ぶところではなかった。
 17-18世紀、ハンブルクはバルト海交易の伝統的な地域商品に加え、植民地物産という世界商品をイングランドやフランスから大量に受け入れ、それらを主に後背地の内陸部に、一部を北海・バルト海に向けて再輸出する。そして、後背地から受け入れた商品をこれまた再輸出するという、北ヨーロッパの中継交易地あるいは「世界に向けたドイツの門」としての役割を果たす。
 何はともあれ、ハンブルクは、中世から近世にかけて、地理的な便宜や中立国としてのプレゼンス、そして特に近世、イングランドの指定港となれたことで、北ヨーロッパにおける中継交易に便宜を提供することになり、アムステルダムと並ぶ交易都市の地位を保ったといえる。

【補遺】 ブレーメンの港
 現在においても自由ハンザ都市を名乗る3つの大きな都市の1つあるブレーメンは、ハンブルクに次いでドイツ第2の港であるが、音楽隊以外はおよそ関心に乏しく、資料に欠ける。ハンブルクの対比でいえば、ブレーメンは北海から60キロメートル上流にあるが、ヴェーザー川の砂の堆積との戦いがハンディキャップとなっていたかにみえる。
 ブレーメンはハンブルクと同じように、北海の潮位差8-10メートルという大きさや、川の砂の堆積に悩まれてきた。1399年、フェルデン司教ディートリヒ・フォン・ニームはその年代記に、ヴェーザー川は春の洪水が引いた後、石の多い砂質の土壌を残して行くと書いているという。
 ブレーメンも、787年カール大帝が司教座を設けたことに始まる。845年、ハンブルク教区がデーン人によって破壊されたことから、これを統合して大司教座となる。大司教アーダルベルト・フォン・ブレーメン(在位1043-72)のもとで、最初の繁栄を迎える。フリードリヒ1世は、1186年にブレーメンを帝国都市としたが、帝国直轄とはしなかった。965年には、神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世(在位962-973)から市場の関税、裁判権、通貨の発行などの特権を与えられる。しかし、大司教の権力は圧倒的であった。14世紀になって、ようやく、その支配を脱する。1358年になってハンザ同盟に加盟する。それ以後、急速に経済力、政治力をつける。1646年帝国自由都市になる。
 13世紀、現在散歩道となっているシュラハテが、洪水防止用堤防として設営されると、ヴェーザー川下流に砂が堆積することとなり、船がブレーメンに近づけなくなった。1619-23年、船員ギルドの提案により、オランダ人建築家の指導を受け、ブレーメンから20キロメートル下流のフェーゲザックに人工港が設けられる。そこから、積み荷を艀や荷馬車に積み替えて、ブレーメンまで持ち込むこととなった。それでも大きな帆船は北海に近い河口部の、現在オーヴェルゲンネにあるブラーケで荷役しなければならなかった。
 このブラーケが、オルデンブルク家と土地の帰属をめぐる争いとなったため、ブレーメンは1827年ハノーバー王国からブラーケの対岸を買い取って、現在も供用されている飛び地のブレーマーハーフェン(ブレーメンの港)を建設する。
 ブレーメンの商人は、主としてフリースランドやフランドル、イギリス、スカンジナビア、ウェストファリア、ヴェーザー川上流域と交易しており、バルト海との交易は二次的であった。そのため、ブレーメンはハンザ同盟に対して、加盟前も加盟後も「わがまま」に振る舞い、厄介者であったとされる。
 なお、ヴェーザー川を下って運ばれたのは、主に石材、特にオーベルンキルヒェナー砂岩(ホワイトハウスの石材の大部分)、石灰、鉄鉱石、建築用木材、穀物などであり、逆に川を遡って内陸部へ運ばれたのは、魚、バター、チーズ、獣脂、布地、家畜、泥炭などであったとされる。
  リューベックについては、Webページ【2・4・3 ハンザ同盟、ニシンと毛織物で稼ぐ】やWebペー【補遺】 リューベックのバルト海交易─14世紀から17世紀まで─を参照されたい。

世界遺産・ブレーメンの市庁舎 1405-09年建設

【参考文献】
玉木俊明著『北方ヨーロッパの商業と経済 1550-1815年』、知泉書館、2008
 北澤毅著『北欧商業史の研究−世界経済の形成とハンザ商業』、知泉書房、2011
 Webページ:Moin! Hamburg 〜ハンブルクと北ドイツの街〜
(2013/09/30記)

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