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19世紀廃止に掉さす奴隷交易人たち

はじめに
(1) ナントの奴隷交易人マテュラン・トロティエ
 (2) 奴隷買い付け人セオフィラス・コノウ
あとがき

はじめに
 21世紀に入って、欧米では北大西洋海域を中心した近世海事史の研究が進められ、日本でもそれに典拠した著書や訳書が刊行されている。田中きく代他編『海のリテラシー 北大西洋海域の「海民」の世界史』(創元社(大阪)、2016)も、その一つである。海上交易に関しては、フランスはナントの奴隷交易人やリベリアの奴隷買い付け人の軌跡などが取り上げられている。

(1) ナントの奴隷交易人マテュラン・トロティエ
▼奴隷交易の見積書をもとに出資者を募る▼
 フランスでは、大革命のもとで、奴隷制と奴隷交易は廃止された。しかし、ナポレオンが権力を握ると、その隆盛は過去のものになっていたにもかかわらず、1802年奴隷交易が復活する(1848年第二共和制のもとで奴隷制廃止)。それを当て込んで、フランスの奴隷船が1801-03年に75隻も出港したという。その内訳は、ボルドー22隻、ナント14隻、ル・アーヴル10隻、マルセイユ5隻、オンフルール4隻などであった。そのナントの1隻を、マテュラン・トロティエが艤装していた。その顛末─処女航海で店じまいとなるが─を取り上げたのが、阿河雄二郎稿「貿易商人マテュラン・トロティエ―ナポレオン時代における合法奴隷貿易の利潤と情報」である。
ナント・フェドー島の建物群そのマスカロン(怪人面)

 マテュラン・トロティエは、1755年トゥール生まれであるがナントに住みつく。1778年(23歳)、若手実業家として認知されていたらしく、名士の娘と結婚している。そして、裕福な商人が住む、フォス河岸やフェドー島地区に住んでいた。1782年、27歳のときフランス植民地のサン=ドマング(現ハイチ共和国)に渡り、現地で同業者と商会を設立して、商品取引、輸送業を始め、奴隷交易を幾度か手掛け、小規模のプランテーションを経営した。わずかの間に、中規模の交易商人に匹敵する50万リーヴルを蓄えたという。
 大革命が起きる。彼はプランターたちからの信頼を受けていたらしく、1790年(35歳)現ハイチの首都となるポルトープランス地区の代表として、パリの国民議会に現状報告と請願活動を行っている。翌年、現地に帰ると、奴隷の反乱がおきて、商店やプランテーションは焼失してしまう。翌々年、トロティエは無一文となってナントに引き揚げてくる。それにもかかわらず、彼は「艤装主」とか「名士」といった肩書を持っており、妻の2人の兄(船長と商人)の援助もあってか、資産は20万リーヴルに回復していたとされる。
 その彼にとって 奴隷交易の再開は千載一遇のチャンスに映り、交易仲間でマルティニクに本拠を置くアダンの協力をえて、奴隷船を艤装することとなる。当時の奴隷交易は見積書を公示して事業を始めていたようである。彼の見積書は、収入は300人奴隷の売却金(1人当たり2250リーヴル)67万リーヴルなどで72万リーヴル、支出は45万リーヴル、差し引き27.5万リーヴルの利益で、支度金(新船建造費8万リーヴル、奴隷購入費12万リーヴル)に対する利潤率は135パーセントとするものであった。
ボンヌ・メール号の見積書(再構成)(単位:リーヴル)
収入
支出
奴隷売上金(注1)
船売却費他 
675,000
45,000
建造費
奴隷購入費
奴隷売買手数料など(注2)
艤装解除費他
貨幣価格差(注3)
  小計
剰余金(利益)
  80,000
120,000
168,750
25,623
50,625
444,998
275,002
合計
720,000
合計
720,000
資料:前掲書、p.123
(注1)奴隷300人、1人当たり2,250リーヴル
(注2)船長・船員・植民地の費用、往復の保険料を含む
(注3)本国と植民地との貨幣価格差(10パーセント)

 支度金の調達は、地縁と血縁を駆使しても、奴隷交易の盛期が過ぎていたためか、容易ではなかった。トロティエは、17人出資者から23.4万リーヴルを集めたが、ナントでは到底出集めることはできず、パリに集積した金融資産に依存せざるをえなかった。その結果、出資者構成はトロティエ本人が20、その子、船長や積荷監督などナントの6人が18、パリの商人や金融業者8人が52、アダンなど3人が10パーセントとなった。
 トロティエが建造した新造船はボンヌ・メール号といい、206トン、3本マスト、二層甲板、大砲4門搭載、奴隷約300人積み込み予定の、中規模の奴隷船であった。この船はナントで建造されたとみられるが不明である。船長には5隻の奴隷船経験のある者、また積荷監督には奴隷買い付けの経験があり、しかも縁者であるテポーが当てられた。そして、乗組員は地元のナントと外港のパンブフから35人が集められた。船員のリクルートは ナントではボルドーとは違って、容易であったとされる。海上保険は外航の場合義務づけられており、往航の保険金は支度金の3分の2、15万リーヴルの6パーセント、9000リーヴルであった。
▼奴隷と帰り荷の安値で大儲けは見果てぬ夢▼
 ボンヌ・メール号は、他の奴隷船と同じような荷物(綿・麻織物や鉄砲、刀剣、金物、ブランデーやワインなど)を積み、1802年8月30日(47歳)パンブフを出帆した。10月20日に目的地の現ナイジェリアのポニーに到着、どのように取引が行われたかは不明であるが、4-5週間のうちに300人の奴隷を船積みした。その他ポニーの族長の縁者を人質として乗せていたという。12月14日出帆、1803年1月28日マルティニク(現、カリブ海にある海外県の1つ)のサン=ピエール港に到着した。この間5か月、乗組員や奴隷などに死者を1人も出すことなく、順風満帆となった。
 しかし、その港には何と交易仲間のアダンが艤装したナントの船パクトール号が先着しており、しかもイギリス船までもが2隻停泊していた。奴隷は供給過剰となっており、奴隷の売りさばきに難渋することになる。しかも、奴隷の販売は1803年2-4月にかけ、アダンの現地支配人によって仕切られた。そうしたことで、奴隷の価格は1人当たり1500リーヴル、300人で45万リーヴルとなり、見積を大幅に下回ることとなった。なお、奴隷の価格は成人男子は2500、婦女子は1000リーヴルであった。こうしたことから、トロティエはマルティニクのアダンに適当にあしらわれたのではないかと、論者はみている。
 ボンヌ・メール号は奴隷をともかく完売して、4月6日マルティニクを出帆するが、その時乗組員は病死、入院、下船などで、29人に減っていた。イングランドとのアミアンの平和は早々と破綻しつつあった。出資者たちは、ボンヌ・メール号の帰港を急がせたので、トロティエから急報を受けた積荷監督のテポーは植民地物産(砂糖、コーヒー、ココア、綿花など)を急ぎ買い集める。帰り荷は、ボンヌ・メール号に4万リーヴルの現金と27万リーヴル相当の商品、ナント船籍のポーリーヌ号に残る砂糖10万リーヴル相当、ル・アーヴル船籍のマントール号に綿花0.7万リーヴル相当を振り分けた。それら総額は現金を含め
マルティニク島の奴隷記念像
1830年奴隷船が難破したことを記念して建てられた
41.7万リーヴルとなる。
 ボンヌ・メール号は1803年5月8日ナントに問題なく帰着する。ポーリーヌ号はイングランド海軍の哨戒をかいくぐって6月7日、マントール号は拿捕され、積み荷を没収される。トロティエは、ボンヌ・メール号の復航の海上保険を出資者の一人であるボルドー人と契約する積りであったが、ボンヌ・メール号が早々と帰国したので、2.5パーセンの保険金は払わずじまいであったという。
 さて、この論考のテーマである奴隷交易のもうけであるが、これが心もとない。奴隷の売却金で購入した植民地物産が、どのような価格で売却されたかが不明であるためである。植民地物産の買い手があまりつかず、不良在庫になった。その原因は、当時深刻な経済危機に陥っており、しかも植民地物産が過剰となっていたからであった。それがため、出資者から不満が出て、配当金を現物での受け取りを要求される始末となった。
 そこで、この論考はボンヌ・メール号の奴隷交易の利潤率についてあれこれ考察しているが、建造費を含む艤装費を即時償却したうえで、典拠文献では植民地の物価高(ナントより10パーセントのインフレーション)を考慮すると3.4万リーヴルの赤字、考慮しない場合4.4万リーヴルの黒字と試算するが、いずれにしても利益ほとんど出なかったとする。それに対して、論者は植民地における奴隷売却時点での利益金は5万リーヴル、利潤率は20パーセント強であったとする。この時期、奴隷船の多くがイングランドに拿捕、あるいはアメリカで拘留されるなどして、ナントだけでも奴隷交易人が10人ほど倒産したという。
 なお、トロティエは奴隷交易に失敗したことから経営不振に陥り、1805年(50歳)破産宣告している。その負債総額は50万リーヴル超に上った。それでもボンヌ・メール号は売却せず、その良い機会を幾度か見過ごして保有し続ける。その間、多分用船に出していたとみられる。ようやく1812年になって競売に付され、価格は1.55万リーヴルであった。その後、ロンドン航路船、再び奴隷船として使用されたが、1815年には解体されている。わがマテュラン・トロティエは、栄えある交易商人の座から退場したものの、小商いをしながら、なんと1843年、88歳まで長生きして、ナントで死んでいる。
 君塚弘恭稿「近世フランスの北大西洋世界―港湾ネットワークからみた多重経済構造」という論考は、フランス船乗組員の供給地を分析した研究を取り上げている。18世紀末、直行交易、奴隷交易にかかわりなく、ナント仕立ての遠洋交易船にあってはナント司教区から供給されており、奴隷船にあってはボンヌ・メール号にみるようにナント近郊出身者が圧倒的だという。しかし、ナント仕立てでも、沿岸交易船にあってはブルターニュ地方全域に広がりを見せるという。また、ロリアンで仕立てられるインド会社船の上級士官をみると、それが位置するブルターニュ地方が3分の2を占めるが、その他は大西洋沿岸やパリを含む内陸出身者で構成されるとする。

(2) 奴隷買い付け人セオフィラス・コノウ
▼海賊の手下から、奴隷船の船長となる▼
 田中きく代他編『海のリテラシー 』に収められている竹中興慈稿「奴隷商人セオフィラス・コノウ―19世紀前半の環大西洋非合法ネットワーク」は、1807年イギリスでは奴隷交易(禁止)法が制定され、また1808年アメリカでは奴隷輸入が禁止されたものの、奴隷交易はやむことはなかった。そうしたなかで、奴隷船で働きはじめ、奴隷船の船長になり、そし奴隷商人に成り上がった人物を、2つの欧文文献を再構成した論考である。ただし、彼の奴隷交易は三角交易ではなく、アメリカ植民地物産と奴隷を取引する中間航路の交易に限られている。
 セオフィラス・コノウ(1808-60)は、イタリアのフィレンツェで生まれの、フランス人である。叔父2人が海軍将校であったことから、海の生活にあこがれたとされる。1819年、ボストンの船ではじめて航海に出たことになっているが、どうもボーイとして乗っていたようである。1821から25年(13-17歳)まで徒弟や航海士として、数回東インドへ航海したという。中米や南米をぶらぶらして、一稼ぎしようとして、ハバナ行きの船に乗ったところ、キューバ島の近くで座礁し、海賊に全員が殺され、積荷も奪われる。コノウはといえば、フランス語を話せることから、海賊の頭目の下で働かされる。
 その後解放され、キューバのイタリア人食品雑貨商を紹介される。彼はモンゴ・ジョンといい、3000ドルで購入したアエロスタティコ号という小さな船で、アフリカ奴隷交易を行っていた。コノウはその手下となってアフリカに向かうが、暴動が起きる。その時、彼は乗組員を5人射殺してしまい、ハバナに帰れなくなり、リオ・ポンゴ(現ギニア)で奴隷の買い付けをするようになる。1827年(19歳)、200人の奴隷をハバナ向けの船積みに成功する。その時、コノウへの手数料は10パーセント(何に対する比率か不明、奴隷売渡額か)であったが、モンゴ・ジョンは4.1万ドルの利益を上げる。ただ、その一部はキューバ総督に奴隷1人当たり8ドル、そして下級役人への少額の賄賂となって消えた。
コノウの活躍地
(ギニア、シエラレオネ、リベリア)
前掲書、p.175
 1828年(20歳)、コノウが内陸の旅からリオ・ポンゴに帰ると、フランスの奴隷船が現れ、捕まるが、スペイン船のニンファ号に助けられる。彼らは、当のフランス船からメキシコ金貨を略奪、大砲を破壊するなどする。ニンファ号の船長が死亡したことで、その後釜に収まる。ニンファ号は、リオ・ポンゴで、デンマーク船といざこざを起こしたうえ、彼らを出し抜いて375人の奴隷を積み込み、ポルトガル国旗を掲げて航行していたところ、イギリス(多分、イングランド)軍艦と交戦末、拿捕される。
 この拿捕は、イギリス政府が奴隷交易廃止の効果を上げるため、1817年スペイン、ポルトガル、1818年オランダ、1827年ブラジルと協約を調印していたことに基づくものであった。裁判所は、乗組員たちにガレー船での労働5年の判決を下し、ポルトガル国旗を掲げを掲げていたことから、リスボンに送致されるが、すぐに釈放される。他方、コノウはイギリス軍艦の船医を買収したらしく、その手引きで黒人のボーイとともに脱走し、現地の部族のカヌーに救助され、リオ・ポンゴに帰ったという。
 同1828年、コノウはどのような手立てしたかは不明でるが、裁判所から奴隷船を手に入れ、はじめて船主船長となる。その手始めとして、リオ・ポンゴ近くで他船が積み込みを予定していた、奴隷197人を略奪する。軍艦に追われるが、それを振り切る。反乱を企てようとしていた航海士を足枷のまま、タートル島に遺棄する。サンチャゴ・デ・キューバで奴隷を競売した後、イギリス製商品を買ってアフリカヘ向かうが座礁してしまう。その救助費用が多額となり、船舶あるいは積み荷資産の70パーセントを失う。
  1830年、資金がなくなったらしく、現アメリカ領ヴァージン諸島のセント・トーマス島で、セント・ポール号の航海長として雇われる。その船はブラジル建造で300トン、10の舷窓、24ポンドカロネード砲16門を備え、乗組員は55人であった。船長はフランス人で、乗組員にフランス風の制服を支給しており、フランス軍艦に対する以外は常にフランスの国旗を揚げることとし、奴隷はポルトガル領モザンビークで乗せる計画であった。
 モザンビークでは、フランス仕立てが功を奏したのか、先船14隻を出し抜いて、800人の奴隷をそそくさと積み込む。その奴隷が天然痘にかかっていたため487人に減り、船長も赤痢で死亡してしまう。船長の遺言は船と荷物をナントの友人のところに届けよという内容であったが、イギリス軍艦の砲撃をかわして、奴隷はサンチャゴ・デ・キューバ近くに陸揚げし、船は燃やす。コノウは船長の遺言により1.4万ドルを手にする。名を知られることになったコノウは、自らの名義の共有船の船主となるが、その奴隷船はアメカリ軍艦に拿捕され、本人の身も危ういものとなる。
 年次不明であるが、金もなくなり、キューバ北岸にあるマタンサスヘ戻ったという。その地で、ヴィーナス号を任され、アユダー(?)ヘ向かい、現地にいる有名なブラジル人ムラートで奴隷商人のチャ=チャが奴隷をそろえるまで、内陸のダホメ王を訪問している。460人奴隷を積んで帰る途中、奴隷反乱の兆しがあったが、銃を撃って、沈静化させる。イギリスの軍艦に追跡され、サンチャゴ・デ・キューバ近くの浜に乗り上げ、逃れる。積荷の奴隷のうち370人は陸揚げできたが、90人は船に残った。その船はジャマイカに曳航され、燃やされる。
 それでも初期投資は回収していたらしく、ゴールデン・イーグル号96トンを入手している。現セネガルを流れるサルーム河河口のゴーリーに着いて、現地の王と奴隷の価格交渉をしていたところ、王の部下に捕らえられ、フランス軍艦に連行される。ゴールデン・イーグル号は武装され、商船の護衛に使われることとなった。彼の逮捕はこの転用のためであったと考えられた。その後、フランス西部のブレスト市刑務所へ移され、18か
1839年奴隷船アミスタッド号の反乱
月間収監される。1836年(28歳)になって、コノウはナポレオン三世の宮廷医長であった兄の尽力があってか、恩赦で釈放されるという情報が入る。
▼奴隷商人として独立するも、行き詰まる▼
 1836年かその翌年(28、29歳)、コノウはアメリカ船に雇われた後、ガリーナスにあるスペインの有名な奴隷商人ドン・ペドロ・ブランコ(1795-1854)(注、参照)にすり寄り、アフリカ内陸との奴隷取引に踏み出す。このドン・ペドロ・ブランコは現地の奴隷市場に絶大な影響力を持っていた。彼は、まず現リベリアのモンロビアヘ買い付けに行き、次いで商館設立のため同じくニュー・セスターに出向く。そして、ニュー・セスターに住んで、手数料10パーセントでもって、その商館経営を任される。しかし、イギリス軍艦の奴隷船の拿捕が続いていたので、奴隷は500人が在庫となっていた。
  イギリス軍艦が食糧補給のためにシエラレオネ(フリータウンか)ヘ行っているすきに、ブランコの船を呼び寄せ、120人の奴隷を送り出した。その後、リベリアで奴隷を買えなかったスペイン船ブリランテ号が来たので、それまで集めていた奴隷を全部さばくことができた。その後、植民地総督が殺されたことに対してスペインやポルトガル船の船長3人と共同して、原住民に復讐を仕掛けるが反対に負けてしまい、コノウは右足を撃たれ、9か月間松葉杖を離せなくなる。彼の負傷はこの時が初めてではない。シエラレオネで流刑中の元パートナーのイギリス人に、逃亡資金を用立て、リオ・ポンゴに逃がしてやっている。
 ニュー・セスターは船あしらいが良いと評判をとり、3年目には需要に応じられなくなる。そこで、リベリア国境の外に2か所に商館を作り、イギリス軍艦にも新鮮な食料などを供給する手はずを整える。
 1838年(30歳)、コノウがロシア船に便乗してメスラードヘ行こうとしたところ、イギリス軍艦サラセン号に砲撃され、シエラレオネヘ連行されてしまう。イギリスに移送されそうになったので、コノウは逃亡を決意、艦長の誕生日の宴会が行われているさなか、海に飛び込み、クルーメンの町へ逃れる。サラセン号が出港してから、廃棄処分されていなかったポルトガル船に31人の奴隷を乗せ、そこを離れるが、イギリス軍艦に見つかってしまう。
 雇い主のブランコが永遠にアフリカを去ることになったので、コノウは独立と奴隷交易は辞めるという決意をして、1839年(31歳)ロンドンヘ向う。その目途は立たなかったようである。当のブランコもコノウを手放す気はなく、ニューヨークのクロフォード号でアフリカヘ商品を運ぶよう命令してきたという。どうも、コノウは多額の借金があったので、それを断われなかったという。
 1840年(32歳)、リベリアではすでに黒人解放奴隷のアフリカへの「帰還」が進み、再移住区がリベリア連邦としてまとまりつつあった(1847年独立宣言)。コノウがニュー・セスターを留守する間、奴隷交易を根絶しようとして、リベリア総督ブキャナンはアメリカ軍艦ドルフィン号の船長と共同で、奴隷商館の破壊や奴隷商人の追放を企てつつあった。ブランコの荷物を積んだクロフォード号が着く。コノウは、これを最後にするつもりで、600人の奴隷を送り出すことにする。
 しかし、イギリス軍艦の監視態勢が厳しくなっていたため、十分な食料を人手できない。そこで、婦女子は下船させ、255人に減らす。それでも、最後の食料が尽きそうになったところへ、クロフォード号と船主(ケープ・パルマスに住む元総督)が同じトラファルガー号が現れ、事なきをえたという。ただ、コノウが用意した奴隷は他の2つの商館の奴隷とともに、749人が当時有名な奴隷船ヴォラドール号に積み替えられたとされる。
 1840年末、コノウはニュー・セスター近くに一般交易の商館を設立するが、雇い主のブランコは彼の独立を認めない。ニュー・セスターは、イギリス軍艦ターマガント号に封鎖されていた。その艦長シーグラムのもとに出向き、奴隷取引をすでに放棄したことを告げる。シーグラムが、コノウの商館で、現地部族の王子に奴隷交易を止めるよう説得すると、彼はコノウがイギリス人を騙すために芝居を打っていると誤解して、奴隷交易を止める協定に署名したという。
ガーナのケープ・コースト城塞.
世界遺産:ガーナのベナン湾沿いの城塞群の一つ
前面の奴隷収容所は現在取り払わfれている

 それを受けて、イギリス軍艦がガリーナスに兵士200人を上陸させ、スペイン人の商館をすべて破壊し、焼き尽すが、コノウの商館は無傷のままであった。それを怪しんだ現地部族の王子はコノウを懲罰しようとするが、ターマガント号が来る。コノウがイギリス国旗を挙げたので、彼をボートを出して救出する。彼の財産は3隻のイギリス商船が無料でモンロビアまで運んでくれた。それでも、現地部族の王子たちは彼の倉庫から持ちきれないほどのものを略奪したうえで、それに放火したという。これではコノウの蓄えは図り切れなかったことになる。
 コノウは、ロンドンに訪れた際に知り合いとなったレッドマンが提案してくれた施設を作るため、直ちにケープ・マウントに向かう。その時も、軍艦ターマガント号に乗って行っている。大きな奴隷船を遭遇するが、排撃されてしまう。コノウは、ケープ・マウントの王に助けられ、1841年(33歳)ニュー・フィレンツェという施設を設立する。しかし、数か月後、シエラレオネの総督がケープ・マウントをイギリスの保護下には置けないとしたという知らせが来る。それにより将来への期待を絶たれ、レッドマンとの関係もなくなった。
 その後どうしていか不明であるが、1843年(35歳)頃アメリカ船アトランタ号が来ると、コノウは船長に協力してガリーナスで仕事をして、700人の奴隷をキューバに送る。アメリカ船も奴隷交易を止めていたわけではなかった。数か月前には、同じガリーナスで1000人の奴隷を積んだ奴隷船が軍艦に砲撃されたが、奇跡的に逃亡していた。こうして、コノウは奴隷取引に完全に復帰し、イギリス軍艦との蜜月は終わる。1845年には、ニューヨークでチャーターしたパトゥセント号がアメリカに帰る途中、大量の米と奴隷デッキを持っていたという理由で、アメリカのアフリカ小艦隊に拿捕され、ニューヨークで裁判を受けることになる。しかし、積荷の木材は甲板用と判断され、無罪となる。
 ニュー・フィレンツェにチャンセラー号を用船して戻ると、現地では成り上がった族長が支配権を握り、イギリス軍艦にコノウが用船しているパトゥセント号は奴隷船で、ニュー・フィレンツェは奴隷市場だという虚偽の情報を流していた。そのため、チャンセラー号はイギリス軍艦に見張られ、またアメリカ軍艦から捜査を受けるが、普通の船と認められる。
 1847年(39歳)になると、コノウの乗った船を拘留した上で、イギリス軍艦の兵士たちがニュー・フィレンツェに上陸、コノウの住居を捜索して持ち帰った奴隷矯正棒を証拠品として、奴隷交易を咎めだてる。翌日、兵士たちは栽培物を根こそぎ抜き、品物や家畜を略奪し、すべての建物に火を放った。これによりニュー・フィレンツェは壊滅し、コノウの奴隷交易は終わりを告げる。
 その後の足跡は不明とされるが、1854年(46歳)フィラデルフィアに住んでいて手記を書いていたとか、同年ナポレオン三世に謁見、ニュー・カレドニアの外交官に任命され、アヴァンチュール号に乗って、マルケサス諸島経由でニュー・カレドニアに赴任したとされる。

あとがき
 海上交易の観点から見て、ナントの奴隷交易人マテュラン・トロティエには、奴隷交易の見積書の提示、交易資金の募集とその清算、植民地での奴隷の売り捌き、植民地物産の積み分けなど、奴隷交易の全体を俯瞰することができた。奴隷買い付け人セオフィラス・コノウに関しては、彼が大親分のドン・ペドロ・ブランコの傘下の奴隷買い付け人(後掲の注からいえば、現地代理人)という地位から抜けられず、また奴隷交易からも足を洗えなかったことをよく示している。いずれも奴隷交易が廃止されつつあるなかで、あざとい商いをして一旗揚げようとしたが、決して成功を収めたというわけではない。
 なお、ダニエル・マニックス著、土田とも訳『黒い積荷』(平凡社、1976)では、コノウは筆名セオドール・キャノット、本名テオフィール・コノーとして取り上げられている。その内容は論考とは大きな相違がある。彼の手記は粉飾されているとしているが、非合法奴隷交易の大の成功者だとされている。現地人から彼は「ミスター火薬」と呼ばれていた。また、彼は1857年ニュー・カレドニアでか傷病者となり、帰国後、1860年心臓発作で60歳、パリで死んだことになっている。
 最後に、この書物の目的は海(民)のリテラシーへの接近だという。「海(民)のリテラシーとは、識字力に限定するものではなく、『海の情報』を取得し、理解し、発信し、活用する能力、換言すれば、海に張り巡らされた、人、モノ、情報を移動させる海のネットワークを成り立たせる情報へのアクセス権を行使できる能力である」(前掲書、p.5)という。
 ここで取り上げた2人の奴隷交易人の論考に限ってであるが、彼らがリテラシーという能力を獲得し、活用していた外形は示された。しかし、奴隷交易人が獲得し、活用している「海の情報」、さしあたって航海、交戦、交易に関する知識や技能といった、リテラシーという能力の中身について記述することは、それほど容易ではない。すなわち、リテラシーという縛りをかけてみても、パーソナル・ヒストリーを扱った文献を超えることは、それほど容易ではなかったことを示したといえる。

(注) ドン・ペドロ・ブランコ
 ウィキペディア(英文)には、以下のような略歴が掲載されている。
 ペドロ・ブランコ(1795-1854)は、1822年から1838年にかけてシエラレオネ沖のガリ-ナスに拠点にした、悪名高いスペインの奴隷商人だった。
 ブランコは、奴隷交易を手掛ける前、キューバで砂糖工場を経営していた。彼は、持ち船の1隻であるコンキスタドール号に乗って、アフリカに来ている。1822年からアフリカ奴隷の取引を始め、1839年までネットワークを広げてプランテーションに働き手を供給し、キューバ人たちの飽くなき渇きを癒してきた。彼は、アフリカ王シアカとの協力関係を確立することで、事業を拡大していた。
 彼は最終的に、ケープ・マウント、シーバー、ディグベイ、ニュー・セスターなどに、代理人を駐在させていた。リノ・カルバリョという人物をパートナーとして、ハバナに管理センター、プエルトリコやトリニダード、テキサス共和国に拠点を置いていた。彼の商業上の地位は非常に高く、彼の信用状はニューヨーク、ロンドン、その他多くの有名な金融センターで、積極的に受け入れられた。
 ブランコは、ガリ-ナスに自らの王国を築いており、1つの島に倉庫、別の島に事務所、さらに3つ目の島にはアフリカ人妻たちの家を持っていた。船積み待ちの奴隷たちはタロとカマサンといった島に収容していた。1838年、ブランコはアフリカを離れてキューバに向かったり、バルセロナに行ったりしているが、いずれも奴隷を取引するためであった。
 彼は、[1839年に起きた奴隷反乱事件のスペイン船]アミスタッド号に乗っていたアフリカ人の一団が、彼の奴隷収容所に到着する直前に、ガリ-ナスを立ち去っている。しかし、事業を継続するため、従業員のネットワークは残していた。その従業員のなかには、アミスタッド号の奴隷を取り扱ったものもいたとみられる。
 いずれにしても、ブランコはこの地域[西アフリカの胡椒海岸]の奴隷交易の発展に、決定的な役割を果たした。彼の事業は1848年遂に崩壊し、1854年ジェノヴァで亡くなっている。
(2016/12/20記)

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