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続 鄭和西洋下りを『瀛涯勝覧』から読む
(Sequel) Read Zheng-He's Western going from "Yingya Shenglan"

▼アラビア半島のズファール、アデン▼
 第4次遠征にあっては、第1-3次遠征の最終目的地であったマラバール海岸から延伸し、そこから本隊は北上して、アラビア海の最奥を回って、忽魯謨厮(オルムズ)に入る。また、分遣隊は蘇門答刺国(スマトラ)から溜山(モルディフ)を経て、インド洋を横断して、アフリカ東海岸、そしてにアラビア半島を歴訪して、オルムズに入ったことになっている。
 まず、祖法児国(ズファール、Zufar)は「古里国(カリカット)より船を出立し、西北に向かって風向きさえよければ、10昼夜[あるいは20昼夜]で着くことができる。この国は海辺に沿い、山がそびえており、城郭はないが東南は大海であり、西北は山が重なっている。国王も住民もみなイスラム教を奉じている」。このズファールはアラビア半島南岸のマスカット・オーマンの西、ハドラマウトの東に当たるズファール地方にある港市国家で、第7次遠征の分遣隊も天方国(後出)に向かう途中に立ち寄っている。
 ここの「物産は乳香であるが、この香は樹脂である。この樹は楡に似ており、葉はとんがって長い。ここの人たちは樹を切りつけて、この香を採取して売っている。中国の西洋派遣船隊(宝船)が、ここに到達したとき〔詔書を〕読み聞かせ、賜わり物をあたえた。国王は頭目を差し遣わし、あまねく住民に命じて、乳香、血竭[きりん竭ともいい、当時の血止め薬]、蘆薈、没薬、安息香[バルサムとなる]、蘇合油[マンサク科の落葉高木の樹脂]、木別子[うり科植物]の類を持って来させて、絹糸や磁器などのものと交易させた」という(小川前同、p.143)。
 なお、『星槎勝覧』によれば、この国の「物産は祖刺法、金銭豹、駝鳥、乳香、竜涎香がある。交易品には金銭、檀香、米穀、胡椒、色段、絹、磁器の類を用いる」とある(小川前同、p.148)。「国王は使者を遣わし、その使者が戻って来ると、またその頭目を使者として差し遣わし、乳香、駝鳥などのものを携えて、〔鄭和の〕西洋派遣船隊に付きしたがって〔明の〕朝廷に進貢してきた」(小川前同、p.144)。
 阿丹国(アデン、Aden)も古里国(カリカット)より測られる。「古里国より出帆して真西に位置を直し、風向きがよければ1月で着くことができる。この国は海に沿い、山ははるかに遠い。国は富み、民衆は豊かで、国王も国の人びともみなイスラム教を信奉しており、アラビア語を語っている。人びとの性質は強く、精鋭な騎兵が7000、8000あり、国の勢いはおもおもしく隣の国々には恐れられている」。
 当面の第4次遠征も分遣隊を編成している。その説明は具体的で詳細であるが、ここでは第6次遠征の分遣隊のものを取り上げる。
 「永楽19年(1421)に正使太監李などに命じて詔勅を伝え、衣冠をその国王に賜わった。〔李などは〕蘇門答刺国(スマトラ)より来たり、船隊を分けて内官の周に商船[?!、取宝船のことか]数隻を指揮させて、そこに行かしめた。国王は船隊のやって来るのを聞いて、大頭目や小頭目を率いて海浜に出て迎え、詔勅と賜わり物を迎えたが、王府に赴いての礼法は甚だうやうやしいものであり、皇帝のお言葉の伝達が終わると、国王はその国の人びとに諭を与え、そして珍しいものの交易を許した。
 ここでは、重さ2銭ばかりの大きな猫目石、色とりどり雅姑(ジルコン)など、大粒の真珠、2尺ほどの高さの珊瑚樹数株を買い求め、また珊瑚枝を5櫃、金箱、薔薇露(水)、麒麟、獅子、花福鹿、金銭豹、駝鳥、白鳩なども買い求めて戻った」という(以上、小川前同、p.149-50)。「ここの国王は聖恩に感じ、とくに金や宝石をちりばめた帯を2すじ、真珠、宝石をちりばめた金の冠を1個作り、あわせて雅姑などのいろいろな宝石を集めたものを2個と金葉の表文を、中国に進貢した」という(小川前同、p.152)。『星槎勝覧』によれば、この国の「物産は九尾般羊、千里駱駝、黒白花驢(しまうま)、金銭豹があり、交易品には金銀、色段、青白花磁器(青花白花磁かもしれない)、[白]檀香、胡椒の類を用いる。この酋長は恩賜に感じ、自ら贈り物を貢献して来た」とある(小川前同、p.156)。
▼最終目的地としてのオルムズ、そしてメッカ▼
 第4次遠征本隊の最終目的地は忽魯謨厮国(オルムズ、Hormuz)にあったとされる。この港市国家には、1272、93年にマルコ・ポーロ(但し、旧港)、1331年イブン・バットゥータが訪れている。
 「古里国(カリカット)から船出して、西北に向かい風むきがよければ、25日ばかりで到ることができる。この国は海に沿い山が近く、各地の商船や陸路の隊商がみなこの地に集まって取引きするので国民はみな富んでいるわけである。国王も住民もみなイスラム教を信奉しており、毎日回も礼拝し、慎み深く清潔である。風俗は淳朴で貧乏な家はない」(小川前同、p.170)。
 「ここにいる諸国の人びとは宝物をいろいろ持っている。まず青や紅や黄の雅姑石、紅刺石(ルビー)、祖把碧(エメラルドの一種)、祖母緑(前同)、猫目石、金剛鑽(ダイヤモンド)、竜眼ほどの大きさの大粒の真珠……珊瑚の珠、珊瑚の枝、金珀、珀珠、神珠、蝋珀、黒珀[珀は琥珀のこと]があり、この土地では撒白(琥珀)と名づけている……」。
 「国王は船を仕立て、獅子、麒麟、馬、真珠、宝石などの物とあわせて、金葉表文を持たせた頭目などを西洋派遣船隊(宝船)の回航にしたがわさせ、明の都におもむいて朝貢してきた」という(以上、小川前同、p.174-5)。『星槎勝覧』には、この国では「金銀銭が使われる。物産は真珠、金珀、宝石、竜涎香、撒恰刺[ダイラシャ]、梭眼、絨毯があり、交易品としては金銀、青白花磁器、五色段絹、木香、金銀香、檀香、胡椒などが用いられる。ここの酋長は恩賜に感じ、自ら贈り物を遣じてきた」とある(小川前同、p.180)。
 天方国(メッカ、Mekka)は、「古里国(カリカット)からより出帆して、西南西の方位に船で行くこと、3カ月でこの国の波止場である秩達(ジッダ)に着く」。あるいは、オルムズから40昼夜で着く。ここから西に行くこと、1日ばかりで国王の居城に着くという。「かつて、聖人[ムハンマド、570頃-632]が始めてこの国でイスラム教を説き始めてから今に至るまで、国の人びとはことごとくその教えや行いにしたがい、いささかも疑うことがないのである」。
 このメッカには第4次遠征の遠征隊は訪れておらず、第7次遠征の分遣隊がそれを訪れたことになっている。その一行に馬歓も同道したとみられ、メッカ巡礼を果たしたこととなっている。しかし、『瀛涯勝覧』の文言は、次のようになっている。
 「宣徳5年(1430)欽蒙聖朝差正使太監内官鄭和らが各国におもむいて、皇帝のお言葉と賜わり物を伝えた。その分遣隊が古里国に到ったおり、その指揮官の内官太監洪は、この黙加(メッカのこと)国の使者が古里国に〔たまたま〕差し遣わされていたので、すなわち通訳官7人を選んで、麝香、磁器などのものを持たせて、黙加国の船に便乗させて、そこへ派遣したのである。往復1年かかったが、いろいろな珍しい宝物、麒麟、獅子、駝鳥などや、あわせて天堂[カーバ神殿]を画いた図などを買い求めて、明の都に戻って来たのである。また、黙加国王も使臣を差し遣わし、貢物を持たせて、通訳官7人と同行して、明の朝廷に献見した」(小川前同、p.184)。
 これを文字通りに取れば、通訳官7人だけを選んで、黙加国の船に便乗させて派遣したことになる。しかし、通説はそう受け取ってはおらず、数隻の分遣隊が編成されたとしている。それは、『瀛涯勝覧』の異本には、「分宗[分遣隊のこと]、古里国に到る時、内官太監洪、本国より人を差し遣わし、彼[メッカのこと]に往かしむ。就ち通事等7人を選び、(中略)本国の船隻に附して彼に到らしむ」とあり(小川前同、p.226)、通事には分遣隊が付けられていた。これからすれば、黙加国の船に便乗とは、それに分遣隊が付き従ったということになる。さらに、後述のイスラーム史料は、第7次遠征の分遣隊がメッカを訪問した史実を伝えている。
 このメッカを訪問した第7次遠征の分遣隊の行程について、小川博氏は家島彦一氏の説を採用する。「分遣隊は本隊より半年以上も早く古里国に到着し、1432年4月末か5月に古里国より阿丹に向けて出航し、ズファールを経て6月に阿丹に着き、ジッダ・メッカに手紙を送り、7月末か8月にジッダに着き、メッカに巡礼し、10月か11月にオルムズに向けて出立し、12月末か1433年2月にオルムズに到着し、本隊と合流して帰還した」という(小川前同、p.227)。
 なお、『星槎勝覧』には、天方国(メッカ)の国の「物産は金珀、宝石、真珠、獅子、駱駝、祖刺法、豹、虎で、馬は8尺の高さがある。すなわち天馬である。交易品としては金銀、段疋、色絹、青花白磁器、鉄鼎、鉄銚のたぐいを用いる。ここでは日中は市場を開かないが、日が落ちた後に夜市をする。つまり昼間は暑いからである。ここの国王は深く天朝の使の来たことに感じ、尊敬をもって贈り物の獅子、麟麟を明の朝廷に貢じた」という(小川前同、p.191)。
▼アフリカ東岸のモガディシオ・ジューブ・ブラワ▼
 第4-7次遠征は、アフリカ東岸の国々を訪れている。その記録は『瀛涯勝覧』にはなく、『星槎勝覧』のなかに、3国に限って、簡単な記事があるだけである。
 木骨都刺(束)(モガディシオ)について、「海に画し、石垣を積みあげて城を築いている。兵士を訓練し射撃を教えて、尚武の気風にあふれている。人家は4、5階建ての石造で、台所や便所もととのい、上層の部屋で客に応待する……駱駝牛羊などもみな海魚の乾物を食べる。産物として、乳香・金銭豹・竜涎香がとれるが、中国側の交易物は、金銀・段子・檀香・米穀・陶磁器・絹織物などである」。
 卜比刺(ブラワ)について、「この国は海のそばにあり、住民は聚落をつくっている。土地は広いが塩分が多く、塩池がある。木の枝を池に投げこみ、しばらくしてひきあげると、食用の白塩が結晶する。耕作すべき田地はなく、漁業で生活している……物産には馬喰獣・花福禄・豹・鹿(おおのろ)・犀牛・没薬・乳香・竜涎香・象牙・駱駝があり、中国側の交易品には金銀・綿織物・米豆・陶磁器などを使っている」。
 竹歩(ジューブ)について、その国の「聚落はまばらで、位置は西方にかたよっている。石を積みあげて城垣を築き、家屋も石造りである……人々は網で魚をとって暮している。産物には獅子・金銭豹、6-7尺もある駝鳥・竜涎香・乳香・金珀があり、中国側の交易品には土珠、各種の絹織物・金銀・陶磁器・胡椒・米穀などが用いられる」とあるという(寺田前同、p.132-3)。
▼イスラーム史料における鄭和の大遠征▼
 第4次遠征以後、その遠征範囲は東南アジアや南インドを越えて、アラビア半島、アフリカ東海岸に及ぶこととなった。そのうち、鄭和の分遣隊のアラビア半島遠征が、イスラーム史料に書きとどめられている。しかし、第4次遠征の分遣隊についての記事は残されていない。
 イエメン・ラスール朝(1229-1454)時代の史料として、まず第5次遠征の分遣隊(複数の船)が、1418年12月から翌月までの月に、阿丹(アデン)に入港したことが分かる。シナの長の使者は、スルタンのいるタイッズまで行って面会し、約1か月滞在している。スルタンに「シナの長の贈り物が提示された。それは各種の奢侈品、高級金錦織の服、高級麝香、沈香木、重量2万ミスカール(約97キロ)におよぶ各種のシナ陶磁器多数からなる、すばらしい贈り物であった」。その返礼として、スルタンは「各種の奢侈品、イフランジャ(フィランジュ)[フランク王国]の港で加工された珊瑚樹、野牛・野生ロバなどの各種の野生動物、飼いならされた獅子、〔野生の〕豹、飼いならされた豹であった」という。
 次いで、第6次遠征の分遣隊が阿丹(アデン)に到着したという知らせが、 1423年1月31日スルタンのもとに着いたという。「シナの長の使者である宦官」は、タイッズまで、「奢侈品類、麝香鹿、麝香〔猫〕の練り物、彩色真珠、シナ産の沈香・高級シナ陶磁器、服、クッション、新奇の蚊帳、高級沈香、その外には陶磁容器であった」といった進物を持って来たとある。そのときの模様は前述の『瀛涯勝覧』の阿丹国(アデン)の項に示されている。
 さらに、第7次遠征の分遣隊が、1432年2月28日「シナの長の家臣であるジャンクの船長(ナーホーダ)は、わが君主スルタン……への進物をもって、ラヘジュ[アデン近郊]に到着した」という(以上、家島彦一著『海が創る文明』、p.248-50、朝日新聞社、1993)。
 この訪問は、1416(永楽14)年から4度の朝貢後、途絶えていたものを復活するよう促すことにあった。スルタンは、「シナのジャンクの来航を知って、ラヘジュからアデンに行き、その波止場に3日間滞在し……ジャンクに乗りこみ、実際に船内を視察したものと推測される」という(家島前同、p.263)。この第7次遠征の分遣隊は、すでにみたように、天方国(メッカ)を訪問している。
 これら以外にも史料がある。中国ジャンクが1420/21(永楽18/19)年)に阿丹(アデン)を訪問したという。「シナ(中国)の長の使臣が3艘の大船を率いて、スルタンのもとに来着した。その船には価格、金に換算して20ラック(20万ディナール)におよぶ貴重な進物を積載してきた。その使臣はスルタンと謁見したが、彼の面前で大地への接吻の礼を行わず」であった(家島前同、p.258)。
 この中国ジャンクについて、家島彦一氏は「それはおそらく第5次遠征隊の残留隊であると考えられる。なぜならば、鞏珍の『西洋番国志』「阿丹(アデン)国」条には……永楽19年出使の分遣隊は3艘であったと述べられているからで……アデン訪問の後、永楽20年(西暦1422年)、第6次の鄭和本隊と合流して帰還したものと考えられる」とする(家島前同、p.261)。
▼エジプト・マムルーク朝の史料の疑問▼
 さらに、エジプト・マムルーク朝(1250-1517)の史料もある。それは何と、第7次遠征の分遣隊の約4か月後に、中国ジャンクが阿丹(アデン)を訪問したという記事である。この記事をもとに、家島彦一氏はすでにみた分遣隊の行程を推察している。
 1432年6月22日(宣徳7年5月25日)、メッカから次のような知らせが来た。「数艘のジャンクがシナ(中国)からインドの海岸地帯に達し、さらにそのなかの2艘はアデン海岸に投錨した。しかし、イエメンの状況が混乱していたので、彼らの〔積載してきた〕商品である陶磁器、絹織物、麝香などの取引ができなかった。そこで、その2艘のジャンクの長は……彼ら〔ジャンク〕がジッダに向かうことの許可を求めてきた……[マムルーク朝の]スルタンは彼らがジッダに来航するように、また丁重にもてなすようにと返答した」という(家島前同、p.265)。
 これら2つの史料について、家島彦一氏は「ここで興味深い点は、イエメン側の史料は中国の使節団を手厚くもてなしたと記しているのに反して、エジプト側の史料は彼らがイエメンで冷遇されたために、マムルーク朝支配下のジッダヘ入港を求めてきたことにある。この両者の記録のいずれが正しい事実を伝えたかは明らかではない」。こうした事態は、「当時のエジプト・マムルーク朝側はイエメン・ラスール朝を中継せずに、インド洋周縁部の諸国との直接的交易関係を強く求めていた、中国の使節団の目的の1つがメッカ巡礼にあった、またイエメン側はシナ・ジャンクが紅海に進出することを嫌っていた」という状況から起きたという。
 その上で、もう1つの、1432年に「数艘のシナ・ジャンクが算定できぬほどの奢侈品をもって到着した。それらの品々はメッカにおいて売却された」という、マムルーク朝の史料を紹介する。この記事について、家島彦一氏は「マムルーク朝のスルタン=パルスバイの許可が下りた後、@鄭和遠征分隊の2艘はジッダ港に実際に来航した、Aジャンクに積載の品はメッカにて売却された、Bしたがって……人びとは積み荷と一緒にメッカまで同行し、巡礼を行った」と整理する(以上、家島前同、p.266)。
 この家島彦一氏の説明は奇妙である。それを好意的に受け止めれば、まず2つのマムルーク朝の記事をない交ぜにした上で、イエメン朝の記事とは切り離し、その2艘を第7次遠征の分遣隊とは別の分隊とみなし、この分隊に限ってアデンでは難渋したので、手を尽くして、メッカ入りしたという説明となっている。
 しかし、このもう1つのマムルーク朝の記事は、単に第7次遠征の分遣隊そのものの記事でしかないであろう。また、1432年についてのイエメンとエジプトの3つの記事は、月日に違いがあるが、いずれも同一の史実、すなわち第7次遠征の分遣隊のアデンとメッカ訪問の記事とみなすのが穏当といえる。また、アデンにおいてその分遣隊が取り引きでたとしても、それができなかったことを口実にして、ジッダに向かおうとしたとみた方がよい。そのようにみたとしても、家島彦一氏の2つの記事に関する状況説明は、なお有効である。
 こうした家島彦一氏の業績を詳しく紹介する寺田隆信氏は、最初のマムルーク朝の記事について「2隻の中国商船はアデンからジッダに向かったことが知られる。そして、メッカにおいて全商品を売ることに成功したようである」。「これらイスラム側の記録によると、中国人の一行はみずからの船に乗って来航したようであり、またその目的もメッカへの巡礼ではなく、貿易活動にあったように受けとれるが、巡礼か貿易か、その点を深く追求する必要はないであろう。とにかく、彼らはメッカに行き、巡礼の使命を達成したのである」と解説する(同著『中国の大航海者・鄭和』、p.149-50、清水新書、1984)。
 ここでは、寺田隆信氏は家島彦一氏が「鄭和遠征分隊」としたものを、中国商船と読み直す。さらに、家島彦一氏がう第5次遠征隊の残留隊としていたものを、「鄭和が帰国している間にも、民間の商船隊が」活躍していたことは確実」だと塗り替える(寺田前同、p.127)。明の海禁政策のもとで、中国商船を登場させる。それらの関連づけの説明はどうなるのか。その説明はない。なお、小川博氏は最初のマムルーク朝の記事を引用するが特段の解説はなく、すでにみたように家島彦一氏の第7次遠征分遣隊の行程を引用するにとどまる。
▼8000トン級の西洋取宝船は、沙船か福船か▼
 鄭和の大遠征航海に使用された船は、すでにみたように宝船とか、西洋宝船、西洋大船、さらには西洋取宝船などと呼ばれている。その用語は遠征航海の目的や性格を示す。しかし、その遠征艦隊の数や構成は、全体としては不明といってよい。その数少ない史料の1つが『明史』鄭和伝である。
 それによれば、「永楽3年6月、鄭和と彼の同僚の王景弘らに命じて、西洋に通使せしめた。士卒27800余名を率い、多くの金幣を持参させた。大舶を造り、長さ44丈、幅18丈のもの62隻を整備した」とある。それを換算すると、長さ150メートル、幅62メートルになる。これは現在の8000トンクラスの大きさに相当するとされ、15世紀の初めこのような大船の建造が可能どうかについて疑問が持たれ、せいぜい2000トンクラスとみられてきた。
 しかし、1957年5月に、南京市北西郊外の、明代の宝船廠(造船所)跡とつたえられる場所から、舵軸が発見された。この舵軸は11余メートルもあり、それから舵の面積を割り出し、そして船の長さを推定したところ、44丈という大舶のものと断定されるにいたった。
 こうして鄭和の大遠征艦隊は空前絶後の巨大な木造船艦隊となった。第4次遠征の宝船は、宮崎正勝氏によれば、「最大は長さが約151.8メートル、幅が61.6メートル、中くらいは長さが約126.5メートル、幅が約51.3メートルに達し……船長と船幅の比率が2.5対1という偏平なかたちをした艦船であった」という(同著『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』、p.98、中公新書、1997)。
明代の宝船廠跡発掘の舵軸
南京鄭和寶船廠遺址出土文物展館蔵
 この宝船が、平底の沙船であったのか、竜骨を備えた尖底の構造船(福船)であったのかについて、議論がある。
 寺田隆信氏は、発掘舵軸から大舶と断定した周世徳氏の「鄭和の西洋取宝船は沙船だ」という説を支持し、「沙船は、福船、広船、烏船などとともに中国帆船の4大船型の1つで、世界的にも知られており、古くから、広く使われ、もっぱら外国航路の主役を演じてきた船である……ずんぐり型であるため、速度はややおちるが、悪天候にたえ、逆風のなかでも航行が可能であった。颱風の多い南シナ海や、名だたるインド洋の颶風のなかをすすみうる堅牢な大船であった」とする(寺田前同、p.184)。
 それに対して、宮崎正勝氏は「水深が浅い黄海ではなく、南シナ海・インド洋の激浪を越えて艦船が航海したことを考えると、平底の沙船では無理があったように思われる。明人の胡宗憲が『沙船は唯よく北洋を走り、南洋を走るに便ならず』と述べているように、南シナ海に乗り出した鄭和艦隊は竜骨を備えた福船系(福州で建造された外洋船の系列)の尖底船と考えるのが妥当であろう」とする(宮崎前同、p.100)。
 ルイーズ・リヴァシーズ氏は、「沙船は外洋で安定を保つことができなかったので、波の荒い南シナ海やインド洋の航海には不向き」とした上で、
 「永楽帝の時代に福建から龍江へ移住した造船職人たちは、南洋航海に適した形のジャンク船を開発した……船体が『ナイフのようにとがった』形になったもので、上部には広く張り出した甲板を持っていた。X字型の船底には龍骨が1本走っていて……船首と船尾は高くもち上がり、船体は4層構造の甲板を備え……最下層には……バラスト(脚荷)として土砂と石が詰められ、その上の層は船室と貯蔵庫……その上の2層は屋外調理場や大食堂、そして操作艦橋の場所として使われていた」といい(同著『中国が海を支配したとき―鄭和とその時代』、p.98、1996、新書館)。
 その結論としては、後述の宝船の仕様を加味した上で、「龍江で宝船艦隊のために新たに開発された船舶は、こうした沙船と福船のそれぞれの特長をうまく統合したもの」とする(リヴァシーズ前同、p.100)。
▼艦隊の隻数と構成―宝船、馬船、水船、戦艦―▼
 鄭和の大遠征艦隊は、すでにみたように毎次60余隻で、それが宝船でもって編成されていたようになっている。但し、大型の宝船だけでは大艦隊は成り立たず、それ以外に艦種の異なる艦船によって編成されるとみられてきた。
鄭和の艦隊の艦種
泉州海事博物館蔵
 ルイーズ・リヴァシーズ氏によると、第1次遠征をに当たり、「1403年の5月、永楽帝は福建省に137隻の遠洋船……3カ月後には蘇州および江蘇、江西、新江、湖南、そして広東の諸省がさらに200隻の造船を命じられた。また同じく1403年の10月には、朝廷から沿岸諸省に対して、平底輸送船を188隻、ただちに外洋航海に使えるよう改修せよという指令が下された……。新造および改修された船は、総計1681隻にのぼった」という(リヴァシーズ前同、p.94)。
 なお、宮崎正勝氏によれば、「『崇明県志』、『大倉州志』などは、鄭和艦隊の第1回遠征には208隻の艦船が参加したと記している」という(宮崎前同、p.98)。ルイーズ・リヴァシーズ氏によれば、1405年の春、永楽帝が南京に招集した艦隊は遠洋船317隻とし、それがすべて参加したという。そのうち宝船がどれくらい含まれていたかは不明とする(リヴァシーズ前同、p.104)。第2次遠征68隻、第3次遠征48隻、第4次遠征63隻、第7次遠征100隻となっている。それらに真偽は不明ながら、宝船60余隻であっても大艦隊ではあるが、それ以外の艦船が参加していたとすれば、さらに驚異である。
 それはともかく、宝船以外の種別について、ルイーズ・リヴァシーズ氏は最大の宝船は9本マストで、長さ118-124メートル、幅48-50メートルとした上で、「2番手に大きな船は8本マストの『馬船』とよばれるもので、約100メートルの全長と約41メートルの幅をもっていた。馬船はその名の示すごとく、重要な交易品のひとつである馬を運ぶ船である。もちろん同時に他の交易品も積まれていたし、海上で船舶を修理する際に必要な建材をり僚船に運ぶのも馬船の役目であった。
 次に7本マストの『糧船』(おおよそ全長77メートル、幅34.5メートル)がくる。この船の船倉は、時に28000人にも達する船員をやしなう食料でぎっしりである。それから全長約66メートル、船幅約25メートルの兵員輸送船があり、艦隊のために派遣された大隊が乗っていた。
 艦隊にはさらに2種類の軍艦も含まれていた。ひとつは5本マストで全長50メートルの福船であり、もうひとつはやや小さい(おおよその全長36メートルから38.4メートル)巡視船である。後者は8本のオールで漕ぐ船で、スピードが速く、海賊たちの恐怖の的になっていた」。
 さらに、「専用の飲料水タンカー群が宝船に随行するために建造された。このおかげで船員たちは1カ月以上海上にいても、いつも新鮮な水を飲むことができた。大艦隊にこのような便宜がはかられたのは世界でもはじめてのことである。もっとも、たいていの場合、艦隊はほぼ10日おきに各地の港に停泊して飲料水を補給している。長い航海の場合、補給のための寄港は20回におよんだと考えられている」(以上、リヴァシーズ前同、p.104-5)。
 なお、この「飲料水タンカー」や「2種類の軍艦」を、宮崎正勝氏は水船や戦艦としての坐船・戦船と呼んでいる(宮崎前同、p.101-2)」。
 このように、艦船の種別はある程度が明らかになるが、宝船とは何か、宝船60余隻はどのような構成か、それ以外の随伴船がいたかどうかなど、遠征した艦船の実数、それらの艦種別の構成は不明である。小川博氏の「西洋派遣船隊」という意訳通りとすれば、「宝船60余隻」とは正使や副使が乗艦する8000トン級大型船を中心に、いまみた多様な艦船で構成された遠征艦隊の全体を指す用語となる。それでも随伴船がなかったとは断じがたい。
▼乾ドック、豪華船室、24門の大砲、瑞獣の彫り物▼
 ルイーズ・リヴァシーズ氏によれば、「永楽帝の時代、
龍江はほぼ規模が2倍となり、南京の東門から揚子江に
いたる数キロ四方の土地を占めていた。揚子江河口近く
にあった蘇州の造船所をもしのぐ、帝国で最大の、そし
ておそらく中国史上でも最大の造船地帯である。1491年
までは、龍江は実のところ互いに隣接するふたつの造
船所からなっていた。そのひとつで大半の宝船が造られ
た」という(リヴァシーズ前同、p.94)。それ以外では、江
蘇、江西、新江、湖南、そして広東の諸省でも建造された
とみられる。
 そのため、「洪武帝から永楽帝の時代にかけて、龍江
には400世帯以上の大工や製帆工、造船工が居住して
いた。彼らは江蘇、江西、湖南、広東の諸省から移住して
きた人々であり、最盛期の龍江にはそうした住民が2万
龍江造船所跡
中国・南京市
人から3万人いたという。腕利きの職人たちは基本的に4つの工房に編成された。船大工、鍛冶職人、填隙職人、そして帆と索をつくる職人[の工房……それに]加えて、工程進行係がいたし、足場や架橋の専門職人もいた」(リヴァシーズ前同、p.95)。
 宝船は、龍江にあった乾ドックで建造された。その「造船所の中央には全長450メートルの乾ドックが7箇あった。乾ドックは揚子江に向かってほぼ垂直に位置し、乾ドックは江とは高い堰堤によって隔たれていた」(リヴァシーズ前同、p.96)。その幅はだいたい27メートルから36メートル、なかには63メートルもあった。これは48メートルから50メートルの幅をもつ、宝船を建造するのに十分な大きさになっていた。
 宝船の基本的な構造について、ルイーズ・リヴァシーズ氏によれば「X字型の船体と長い龍骨、そして重量のあるバラストによってうみだされる安定性のため、海上では『天秤のごとき平衡』を保ったという。龍骨は長尺の材木を鉄のたがで束ねて作られた」。「船尾には重さ450キロを越える長さ2.4メートルの錨が2個搭載されており、沖合に停泊するときに使われた。錨は主軸に対して4本の爪が鋭角に突き出たもので……伝統的な錨の形である」。宝船には、「伝統的な船舶技術である舷側の水密区画」となっていた(リヴァシーズ前同、p.103)。
 また、「宝船には上げ下げ可能な釣合舵も装備されていた」。「宝船は交互に位置をずらした9本のマストをもち、赤い綿布でできた12枚の方形の帆で風を最大限にとらえ、福船よりも速いスピードで航行することができた。そして、青銅で鋳造された大砲を24門も備え、しかもその射程距離は240メートルから270メートルに達した。しかし、宝船は戦艦の目的で造られたものではなかったので、福船のような高く張り出した戦闘用甲板を有してはいない。むしろ宝船はおしみない豪華さを追求したものである」。
 「皇帝の使節たちが休息する船室は広々としていたし、窓のついた通路や控えの間は花飾りのようにあでやかなバルコニーと手すりで囲まれていた。船倉には交易のための高価な絹と磁器があふれんばかりであり、浮き彫りがほどこされた船体はそのあざやかな彩色で眼を楽しませた。
 船首では獣の首の彫像と龍の眼が炯々と前方をにらみ、船尾では龍と鳳風が舞い踊ったり、鷲が玉を握ったりしている。こうした瑞獣のデザインはすべて航海の吉祥を象徴するものだった。船底は石灰の白色で覆われ、赤で示された喫水線の上には太陽と月の続き絵が描かれていた」(以上、リヴァシーズ前同、p.104)。
 これら大艦隊の海上での連絡について、それを「可能にしたものは、視覚と聴覚双方を利用した精巧な信号システムであった。大旗が1枚、信号用の鐘が数個、幟が5枚、大太鼓がひとつに銅鉾がいくつか、そして信号灯が10基、これら一式がすべての船に備えられていた」。艦隊の指揮は音響、信号灯は夜間や悪天候時、遠距離通信には伝書鳩が使われ、船の識別は船体の色と帰属する編隊を記した旗にたよったという(リヴァシーズ前同、p.105-6)。
▼使節と乗組員の数、それらの構成▼
 鄭和の大遠征艦隊には、すでにみたように毎次、約27000余人が参加したことになっている。その構成について、いくつかの史料があるようであるが、宮崎正勝氏は『瀛涯勝覧』の占城国の条に、次のような第4次遠征隊員の構成が示されているとする。
第4次遠征航海の人員構成
使節団員
一般乗組員
 正使太監 7
 副使監丞 5
 少監 10
 内監 53
 都指揮 2
 指揮 93
 千戸 140
 百戸 403
 舎人 2
 戸部郎中 1
 陰陽官 1
 医士医官 180
 教諭 1
 余丁 2
 (小計、868人)
 官校
 旗軍
 勇士
 通事
 民稍
 買弁
 書手
 (以上、27670人)
出所:宮崎前同、p.94。
 正使の太監や副使の監丞のほか、実務担当の少監、内監といった宦官、そして各級の指揮官である都指揮、指揮、千戸、百戸がいる。さらに、舎人(秘書官)、戸部郎中(積荷管理官)、陰陽官、医士医官、教諭、余丁といった専門官が配置されている。これら使節団員の人数は868人となる。
 そのもとに一般の乗組員がおかれる。まず官校、旗軍、勇士といった下級士官と兵士、民稍という運航員、そして通事(通訳)、買弁(交易担当)、書手(事務担当)といった実務員が配置される。ここで民稍に代表される運航員は、別の史料では、火長(航海士)、舵工(操舵手)、班碇手、水手(水夫)、民稍となっている。
 これら配置のうち、宮崎正勝氏は、上級指揮官の数が明代の通常の軍隊編成に比べ、下級指揮官の数がより多いことに注目し、その「理由は、鄭和艦隊が明帝国の偉容を『海の世界』に示すための外交儀礼を重視したために、儀礼官としての高位の軍人」をより多く必要とした。また、乗組員約150人[27000余人/180人]に1人の割合で、180名もの医官や医士が乗り組んでいたことに注目し、その「理由は、航海中に病気で没する兵士が多く、諸艦船に医官を分乗させる必要があったためであった」と解説する(以上、宮崎前同、p.96-7)。それに対して、ルイーズ・リヴァシーズ氏は、彼らは明初の人口増加と海禁政策のもとでの医薬品不足を解消するために、動員されていたとする(リヴァシーズ前同、p.153)。
 このように、使節や乗組員の官職名は一応明らかであるが、そのうち乗組員の職名別構成、さらにそれら艦種別の配置人数については明らかでない。それはともかくとして、使節団員868人、一般の乗組員27670人―前者は後者の内数とみられる―を、大型船を含む遠征艦隊63隻に乗艦した総人数とされてきたのである。
 使節団員はともかく、一般の乗組員のリクルートについて不明であるなかにあって、ルイーズ・リヴァシーズ氏は「官吏外の船員や兵士の大半は、流罪を宣告された罪人を登用したものであった。さらに、海上で船に修理が必要になったときのために、鍛冶職人や填隙職人、足場を組む職人などが乗っていたことも忘れてはならない」。
 一般の乗組員に罪人を登用することはありうることであるが、それは一部であろう。乗組員になりうる罪人がそれほど多くいたとは考えられない。
 いままで利用した一般乗組員の職名のなかには、造船や工作の要員が含まれていなかったが、他の史料ではそれらが指摘されてはいる。
 また、「こうした乗務員は全員、身分の高低にかかわらず、無事に職務を果たして帰国したあかつきには皇帝から報酬として金銭と布が与えられる約束になっていた。もし、航海中に負傷したり死亡したりした場合は、本人あるいは遺族に、本来の報酬にくわえて補償金が支給されるしくみであった」という(以上、リヴァシーズ前同、p.107)。これらのうち死亡・災害補償は極めて重要な史実の指摘といえる。
▼遠征艦隊としての行動が見えない▼
 馬歓の『瀛涯勝覧』は、中国史上において唯一の海上遠征となった鄭和の大遠征航海事業を記録した数少ない史料の1つである。
 その記録の意義について、わが国の翻訳・注解者である小川博氏はその「内容は前代の諸記録を参考にするよりも、撰者自からの観察と智識を質量ともに伝えているところにある。後代の……『明史』でも多くの記事をこの書物によっており、比較的に史料のすくない東南アジア史研究には欠くことのできない記録である」とするにとどまる(小川前同、pp.4)。
 銭唐の馬敬の序によれば、「太宗文皇帝、宣宗章皇帝は太監鄭和に命じて勇士を率いて海外に遠征せしめ、諸番の国々の物産を持ちきたらし、その人物の豊富なこと、舟楫の雄壮なこと、才芸の巧妙なことは古今に未だかつてないほどのものであった」。わが馬歓の書は、「島夷の地の遠近、国々の沿革、彊界の接する所、城郭の置かれた所、さらに衣服の違いや料理の珍しさ、刑罰制度、風俗、物産など、述べられていないものはない」ということなっている(小川前同、p.4-5)。
 われわれは、円仁の『入唐求法巡礼行記』やマルコ・ポーロの『東方見聞録』、イブン・バットゥータの『大旅行記』を読んできたが、それらに比べ馬歓の『瀛涯勝覧』はその量、質とも相当劣るとしなければならない。小川博氏の評価とは逆に、前代の記録の形式を踏襲するにとどまっており、その観察と智識に新規さや広がりはみられない。それが欠くことのできない史料とされるのは、鄭和の大遠征航海事業を記録した、数少ない史料となっているからにすぎない。
 こうした形式的な記録となったのは、馬歓が旅行した国々がすでに中国人にとって周知の地域がほとんどであり、そこに新規なあるいは特記すべき事柄がことさらにはなかった。そして、馬歓は彼らとは違って、その旅行の直接の当事者でなく、それに随行した単なる通訳であったことによるにみられる。また、円仁は別として、他は本人が書き手ではなく、別途の聞き書き手や編纂者がまとめた旅行記となっている。そのためか、それらに比べ、『瀛涯勝覧』の内容はふくらみのないものになっている。当人が随意に書くより、一定の意図のもとで聞き取られた方が、内容は豊富となりうる。
 馬歓は通訳として、他に比べ自由な立場に立って、遠征艦隊の正使から平水夫に至る乗船者をはじめ、多数の国々の様々な階級の人々と面接しえたにもかかわらず、『瀛涯勝覧』には馬歓はもより鄭和といった「ひとのかお」がまったく見えない。また、鄭和の遠征は「艦隊」として、長期間にわたって航海している。それにもかかわらず、『瀛涯勝覧』には、遠征艦隊としての行動がまったく見えない。
 そのため、遠征航海において人命や船舶に損失がまったくなく、万端つつがなく終わたようになっている。こんな屈託のない遠征航海など古今東西どこにもありえない。当然のように、遠征艦隊の乗組員のなかには脱船、逃亡するものがいた。
 ルイーズ・リヴァシーズ氏によれば、「費信が『星桂勝覧』で描いているように、鄭和の部下たちが現地にとどまって結婚し、その子孫が現在のマラッカに住む中国系住民」となった。「艦隊を離脱することは永楽帝の命令によって強く禁じられていたにもかかわらず、中には他の土地での生活に魅せられて、船を捨ててしまった船員が存在した」という(リヴァシーズ前同、p.271)。
 いま少し検討を加えると、鄭和の大遠征航海の性格づけるに関わりのある重要な事項として、宝船60余隻・27000余人という艦隊が、単一の艦隊として行動したとは考えられない。そんな巨大な艦隊が、当時の小さな港に次々と入ってくれば、パニックに陥ったであろう。それは通商使節ではなく、災厄そのものでしかなかった。そうしではなく、一定の艦種構成のもとで、いくつかの小艦隊が編成されて、それぞれ行動したものと思われる。したがって、通説が図説する鄭和の大遠征の航路図は、単一の行程に組み立てたモデルにすぎない。
 現実には、複数の小艦隊がそれぞれに決められた目的地に向けて逐次遠征し、所期の目的―入貢の招諭と王の交易―を果たすと、朝貢使節団を引き連れ、また進貢品や交易品を積んだうえで、中国に直ちに帰還するか、あるいはマラッカなどの集結地を経由するかして帰還したと、みられる。そのなかにあって、鄭和の旗艦のいる本隊だけが当面の目的地―カリカットやオルムズ―や紛争地に向かい、未知あるいは遠隔のアフリカ東岸やジッダ-メッカ向けには、特別に分遣隊が編成されたとみられる。
▼遠征艦隊、王の先買い後、商人と交易▼
 したがって、すべての遠征艦船が馬歓の『瀛涯勝覧』が記録するすべての国々に訪問するといったことは、最初からありえない。そうだとすれば、馬歓にあっても訪問しない国々については伝聞に頼ったとみられる。そればかりか、『瀛涯勝覧』が記すそれぞれの国々の朝貢品となる物産は、『島夷志略』からの引用とされる『星槎勝覧』のそれより簡略であり、しかもそれが付けたりのように付け加えられている。
 それでも海上交易の側面からみて、馬歓の『瀛涯勝覧』にメリットがないわけではない。当然ながら、この時代のアジアにおける王の交易とその交易管理、そして鄭和遠征艦隊の交易の一端が記録されている。それぞれの国々において、鄭和の艦隊は明の皇帝からの賜わり物を授け、その国から進貢物を受け取るという贈与交易を行う。その上で、それほど明らかでないが、その国の王の調達交易、すなわち王の先買いが行われた後、商人との交易―中国にとっては調達交易―が行われている。
 いわゆる東洋の国々には華僑が居留し、中国の貨幣が通用していることでもあり、鄭和遠征艦隊は王との交易も商人との交易も、彼らに委ねられたとみられる。そのためか、交易についての記事はない。それに対して、その国の内紛に関与する記事が中心となっている。交易が特記されているのは西洋の国々の一部である。その模様を示した記事は多くはないが、再度、その一部を摘記する。
 モルディブにおいては、鄭和遠征艦隊の1、2隻がそこに行き、その国の特産品をを買い集めたとある。
 カリカットにおいては、ヒンズー教徒の王から国事を委ねられ、明から賞詞を受けているイスラーム教徒の大頭目の2人が、贈与交易を含む一切の交易を取り仕切っていることが知れる。頭目と仲買人が船に乗り込み、「太監鄭和や船頭たち」とのあいだで、その港における積荷の公定価格を決め、取引する。その後、あまたの金持ちや仲買人がその国の物産や中継品を持ち込んできて、鄭和遠征艦隊とのあいだで取引が行われる。その期間はかなり長期にわたるとある。
 ズファールにおいては、王は詔勅と賜わり物を受け取る儀式が終わると、国民の鄭和の艦隊との交易を認める。その際、頭目を通じてあまねく住民に命じ、主としてこの国の様々な産品を持って来させて、交易させたとある。
 アデンでは、鄭和の艦隊が来ると、国王は大頭目や小頭目を率いて海浜に出て迎え、詔勅と賜わり物を受け取る儀式が終わると、国王は人びとに諭告を与えて、国民と鄭和の艦隊との珍品の交易を許したとある。ここでは、鄭和の艦隊はこの国の多様な産品ばかりでなく、中継品を進んで買い求めたことになっている。
 メッカにおいては、いろいろな珍しい宝物、麒麟、獅子、駝鳥、天堂図などを買い求めて帰還したとある。
 こうした鄭和遠征艦隊の商人との交易は、アラビア半島の国々においても、王の先買い後行われているが、イスラーム史料にあっては、もっぱらそれぞれの国王と鄭和遠征艦隊との贈与交易だけを記録していることが、特徴的である。ただ、シナの長の贈り物のなかには、遠征途中で買い付けた中継産品が含まれるようになっていることが、大きな特徴である。
 1418年アデン訪問の第5次遠征分遣隊をみると、スルタンにシナの長の贈り物は各種の奢侈品、高級金錦織の服、高級麝香、沈香木、陶磁器、他方その返礼品は各種の奢侈品、フランク王国の港で加工された珊瑚樹、野牛・野生ロバなどの各種の野生動物、飼いならされた獅子、〔野生の〕豹、飼いならされた豹であったとある。
▼鄭和の大遠征航海の目的について▼
 鄭和の大遠征航海事業の目的について、議論があるようである。寺田隆信氏は、鄭和の大遠征の目的に関わって、それが「いかにも軍事行動であったかのような印象を与えるが、実態は、政府あるいは宮廷直営の貿易を行うための活動であった。その過程において、鄭和が武力を行使しなかったわけではないが、それは貿易を妨げる勢力の排除であって、主たる目的は通商にあった。鄭和自身は明帝国の政治使節であると同時た、通商代表であった」(寺田前同、p.6)。ここでは通商が強調される。
 宮崎正勝氏は、「明帝国の『海禁政策』により失われてしまったジャンク交易圏を、明帝国の力を誇示するために政治的な朝貢貿易体制として再編しょうとする試みだった」と、朝貢貿易の再編を強調する(宮崎前同、p36.)。
 また、ルイーズ・リヴァシーズ氏は「永楽帝が……厳格な朝貢・交易政策を廃棄し……私的な交易を許可した」という信じがたい文言の後、「インド洋貿易を再開して錆びついていた貿易ルートを復活させ、同時に膨大な中華の富をたずさえて行って、[30年間の海禁による]空白期間を埋め合わせようとしたもの」であり、また浮浪海賊団や密輸商人たちに向けて、「膨大な宝を積んだジャンク船に威圧的な軍艦の隊列を伴走させた」とする(リヴァシーズ前同、p.113-4)。ここでは貿易ルートの復活が強調される。
 馬歓の『瀛涯勝覧』は、鄭和の大遠征航海事業の目的を、ほぼ余すところなく示唆しているといえる。その事業の結果から見て、その目的は中国から東南アジア・インド洋・ペルシア湾、そしてアフリカ東岸までの海のシルクロードにおいて、海上交易に加わっている国々に朝貢を招き諭すことにあった。そして、それを可能となるように、通商路(シーレーン)とその安全性を維持することにあった。
 そうした目的を果たすため、明朝は鄭和に宝船60余隻・27000余人の大艦隊を委ね、海のシルクロードの主要航路に4半世紀、7次に及ぶ大遠征航海を敢行した。それは空前絶後の大通商使節団であった。そうしたことから、鄭和の大遠征航海事業は平和な使節として捉えられてきたが、それを証明しようと、宝船がその体を表すとか、艦隊の武装が簡易であったとか、将校が多く兵が少なかったとかいった説明が加えられてきたが、彼らは朝貢を承服しない国々には容赦しなかった。
 いくつかの国々―爪哇(ジャワ)、旧港(パレンバン)、蘇門答刺(スマトラ)―では様々な内紛に関与して武力介入を行い、その敵対者を連行さえしている。満刺加(マラッカ)を圧迫する、暹羅(シャム)には砲艦外交を加えている。また、朝貢を承服しない錫蘭山(セイロン)とは、唯一とされる本格的な戦闘を交えてさえいる。ただ、こうした武力行使も、ほぼもっぱら当時にいう東洋の海、あるいは中国の海において行われたにとどまる。鄭和はイスラーム教徒として、イスラーム交易圏では事を荒立てなかったとみられる。
 大遠征の目的には、朝貢招諭という本来的な目的に密接に結びついた、もう1つの大きな目的があったといえる。それは王の交易―贈与交易と調達交易―を行うことにあった。それを企画した永楽帝の時代、明は興隆期に入り、外征を行っていた。鄭和の大遠征もその一環であった。そこには、陸上の遠征と違って国々を武力支配する意図はなく、朝貢の招諭とその通商路の維持が目指されたが、それは建前であって本音は明初からの海禁政策によって不足する、西洋の珍宝を獲得することにあった。
 そのため、鄭和の大艦隊を、海禁以前、中国ジャンク船が通い慣れた国々に派遣して、従来通りの珍品を入手することが目指された。したがって、そこには新規な航路や珍品を開拓する意図はなかった。しかし、朝貢を促すに当たって、鄭和の大艦隊は中国の最新の珍宝を見本船のように満載し、それを見せびらかしたことであろう。しかし、それらとて新規なものは多くはなかったとみられる。こうした事情があるため、馬歓の『瀛涯勝覧』の交易の状況や交易品に関する記述が通り一遍になったといえる。
 このように、鄭和の大遠征航海の目的は、30余か国が鄭和使節団を受け入れ、中国皇帝の贈り物と返礼品の授受(贈与交易)が行われ、そして多くの国々の国民と様々な交易品を取引し(調達交易)、しかも遠征艦隊が多数の国々の朝貢使節団を毎次連れ帰ったことで、十分に達成されたといえる。
▼若干のまとめ▼
 最後に、鄭和の大遠征航海事業のアジアの海上交易史あるいはヨーロッパ進出前のアジア交易圏にとっての意義については別途ふれることとして、 ここでは中国にとっての意義に限ってみてみる。
 まず明らかなことは、明朝は威風堂々たる艦隊を派遣して、アジアの国々にその威風を余すところなく示したことによって、所期の目的―入貢の招諭と王の交易―を達成した意義は大きい。その大きさはモンゴルのユーラシア征服に匹敵する。しかも、それが領土征服や暴力支配の意図を持たない海外遠征であったし、さらに後代のヨーロッパのアジア侵攻とも異質のものであった。
 しかし、それには犠牲を伴っていた。その施主である永楽帝は、鄭和の大艦隊を建造し続け、大量の交易品を用意するため、それらの生産や供給を促したという。そのなかでも、大量の絹や木綿、それらの織物、陶磁器、そして造船・交易用の鉄製品の増産が督励された。
 その結果は、ルイーズ・リヴァシーズ氏がいうように、「宝船艦隊を建造するのに必要な労力と資材は過大なものがあったので、その影響はたちまち国民の上に大きな負担として現れ……結局のところ、海外貿易で得られる富の恩恵を享けることになったのは朝廷だけで……一般の国民にとって、大航海の計画は重税と、住民から必要以上に搾取しようとする官吏の腐敗を意味するものでしかなくなってゆく」こととなった(リヴァシーズ前同、p.108)。
 鄭和の大遠征航海の期間中、アジアの国々は引きも切らず来朝してきた。しかし、1435年宣徳帝が急逝すると、それ以後、遠征航海が行われなくなる。それに伴って、一方では中国の威信が低下して朝貢交易が一挙に少なくなり、他方では中国も朝貢交易を重荷とするようになり、朝貢交易は弛緩しはじめる。
 鄭和の大遠征航海の論者は、遠征航海そのものを扱うのが忙しく、遠征航海のその後については説得的ではない。朝貢交易の衰退は、海禁のもとにあっては、海上交易の縮小を意味した。それは、朝廷にとっては威信財や奢侈品の不足となり、また交易商人にとっては生業の危機となったはずである。しかし、現実はそうはならず、中国をめぐる海上交易はその必要から途絶することなく続くことになるが、それは朝貢交易や海禁政策とは対極的な形態にならざるをえなかった。
 その形態について、ルイーズ・リヴァシーズ氏は、まず「朝貢貿易体制の箍(たが)は少しずつゆるみはじめていた。外国使節団が山のような朝貢品をたずさえてくることはもはやなかったし、かたや皇帝の方も下賜品をいちいち出し渋るようになった。また、『使節団』とはいいながら……中にはあきらかに盗人か密輸商人としか呼べないような者も混じるようになった」という。
 他方、中国にあっても、「1444年、大規模な商船隊が広東からジャワに向かい、 33人の密輸商人がそのままジャワに居残る」ようになるし、「中国沿岸では地方市場が次々に発生し、そこでは一般庶民があたりまえのように外国製品を買っていた。朝廷は貿易上の独占体制をあきらかに失いつつあり、同時に、沿岸地方と外国勢力とが手を結んだら、中央の権威はいっそう掘り崩されてしまうのではないかという」状況となったという(リヴァシーズ前同、p.256-7)。
 こうした明朝にとって不正規な国内外の商人の活躍と、それを受け入れる中国の地方市場―それは従来からあった―が、朝貢交易に取って代わる。これは海禁政策の事実上の崩壊である。そうした形態であっても、中国の海上交易需要は満たされたとみられる。
 それは明朝の海上支配力の低下を意味した。その結果はやったものは、16世紀倭寇と呼ばれて久しい、中国人海賊の跋扈であった。「15世紀半ば以降に起きた中国人の国外脱出は、私的貿易が法律によって禁じられたことの裏面である。結果として、かつて例を見ないほどの海賊行為と不法貿易が東南両シナ海に生じることになった……実のところ倭冠の正体は国際的な密輸団であった」のである(リヴァシーズ前同、p.274)。
 こうした明朝の海上支配力の低下は海軍力の低下でもあった。「15世紀初頭、全盛期にあった明の大海軍は3500隻の船舶を擁していた」。「淅江省だけをとってみても、700隻以上のジャンク船からなる艦隊が存在していた。しかし、1440年までに淅江の船舶数はその半分以下に減ってゆき、15世紀半ばには最盛期の数分の1になってしまった」からである(リヴァシーズ前同、p.257)。
 鄭和の大遠征の意義と限界は、それが所期の目的―入貢の招諭と王の交易―を達成したものの、それが国民に過重な負担を加えながら、すでに宋・元の時代に十分に発展を遂げてきた民間交易を排除して、朝廷が外国との海上交易を独占しようする形態、そのものにあっ た。そのため早晩行き詰まらざるえなかった。
(2005/08/25記)

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