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続 トメ・ピレス『東方諸国記』を読む
(Sequel) Read Tome Pires's "The Suma Oriental"

▼香料の島々における交易の過去と現在▼
 香料の島々の節では、まずジャワ
島に隣接するバリ島から小スンダ列
島に筆を進め、バンダ諸島、それを
含むやモルッカ諸島に至る。この地
域は、馬歓の『瀛涯勝覧』では取り上
げられていないので、それらの産品
についていま少し注目することとす
る。
 ビマ島は現在のスンバワ島の西半
分で、「タマリンドや蘇木がたくさんあ
り、かれらはそれをマラカへ持って行
って売る。またマラカからも人がこれを
求めて来る……若干の黄金がある」
(諸国記、p.344)。トメ・ピレスのいうソ
ロル島は現在のフロレス島をさすが、
「この島からマラカへ多量の食糧、タ
マリンド、硫黄を携えて行く。この硫黄
は非常に多量なので、人々はそれを
マラカからカウシ・シナへ、商品として
持って行く」(諸国記、p.345)。
 次に、トメ・ピレスがいうティモル諸
島に移るが、それはティモール島とス
ンバ島をさしている。「この2つの島に
モルッカ諸島(マルク諸島)
は非常に多量の白檀があり、値段もたいへん安い……マラヨ人の商人は、神はティモルを白檀のために、バンダンを荳蒄花(マーサ)のために、マルコを丁子のために創られたので、これらの島々を別にすると、この商品のある所は世界のどこにもないと語っている」という。
 これらの島々から「マルコ諸島までは順風にのって6、7日で行く。これらの島々は不健康で、人々はあまり誠実ではない。この島にはマラカとジャオアから毎年〔船が〕行く。そして白檀がマラカへ来る」。ティモール島に、ポルトガル人は1550年、オランダ人は1618年に商館を置いている(以上、諸国記、p.346)。
 そして、いよいよ香料諸島の、そのなかでも小さな島嶼である、トメ・ピレスがいうバンダン(諸島)に入る。長岡新治郎氏によれば、「バンダ諸島は肉荳蒄および荳蒄花の産地で、香料の獲得を目標の1つにしていたヨーロッパ人の目的地の1つであった。アントニオ・デ・アブレウの率いる船隊は1512年にバンダに到着している。ビレスのこの記録はこの船隊の得た情報に基づいていると思われる。バンダは、この後ポルトガルのこの地域における貿易の中心地であったが、1599年ヤコブ・ファン・へームスケルクの率いる船隊が同地に到着してからは、オランダ人の勢力が増大し、1619年には完全にオランダの支配下に入った。イギリスも1609年に商館を設けたが永続しなかった」と解説する(諸国記、p.349)。
 トメ・ピレスはバンダン諸島には6つの島があり、「そのうちの5つの島には荳蒄花があり……もっとも大きな島はプロ・バンダン〔ロントール島〕と呼ばれ」、そこに荳蒄花が集められる(諸国記、p.347)。そして、当時のバンダ諸島をめぐる交易について、「以前は」と断って、「毎年ジャオア人やマラヨ人がこれらの島々に航海していた」。彼らは、ジャオア、スンバワ、ビマを回って交易した後、バンダ諸島に来て「ジャオアの織物やカイシャで、荳蒄花を買い入れた」。そこに、ポルトガル人が参入したことによって、「かれら[ジャオア人やマラヨ人]が、この国の人々に価格をおしつけていた」ことが分かってしまったという(諸国記、p.350)。
 いまはどうなっているか。いままでとは異なり、ポルトガルの交易によって正義と福利が満ちあふれているという。バンダ諸島が「[ポルトガル]国王陛下の支配下に入ってからは、このようなことは行なわれなくなり、バンダンの人々は立派な大量の適切な価格の衣服の所有者となり、常にポルトガル人の恩恵と贈物とを受け、われわれと親しく交際している。ポルトガル人は、イスラム教徒がつまらぬ品物で買い入れている品物〔荳蒄花など〕を、黄金や立派な品物で買い入れる……イスラム教徒は〔バンダンの人々の〕われわれとの交際にひどく不満である」。
 トメ・ピレスらの船隊が携えて行ったとみられる商品としては、「あらゆる種類のシナパフォ、ベンガラ産のあらゆる種類の薄い白い織物、ボヌア・キリンのあらゆる織物、すなわち大中小の格子縞のエンロラドの織物、トぺティとグザラテ産のあらゆる種類の織物」であるが、それ「以前、同地に来航していた商人たちは古い壷、耳飾り、カンバヤの数珠玉、その他これに類する品物で買い入れていた。従って、現在バンダンは〔以前よりも〕豊かであることは疑いない」。
 なお、モルッカ特産の丁子がバンダンヘ、季節風にのっても、なぜか12日か15日かけて運ばれてくるそうで、「丁子1バールは荳蒄花1バールと等価で、荳蒄花1バールは肉荳蒄7バールと等価である」という(以上、諸国記、p.351)。
▼「われわれの友人、丁子の島テルナテ」▼
 トメ・ピレスらの船隊は、セラン諸島を経て、
最終目的地である「マルコ(モルッカ)諸島に
やって来た。われわれはそこから先に進むつ
もりはない。これはそうする必要がないから
で、単にこの丁子の島について〔記述し〕、そこ
から〔マラカへ〕帰ることにしよう」(諸国記、p.
355)。
 セラン諸島はセラン島(現在のセラム島)と
アンボン島が中心で、後者は丁子の産地で
ある。15世紀の中頃からテルナテ王国の支
配下にあったが、トメ・ピレスたちが1512年に
来航したことにより、16世紀末までポルトガル
の支配下に置かれる。1599年にはオランダ人
が進出し、1605年には要塞が建設され、この
間、イギリス人も進出するが、 1623年のアン
ボイナ事件以後、撤退したところである。
 トメ・ピレスがいうマルコ(イギリス名モルッ
カ、マレー名マルク)諸島はハルマヘラ島の
テルナテ島と活火山ガマラマ山
1538年にも爆発
1700年代初期の挿絵
左上はポルトガル/スペインの砦
西側ある島々をさし、また5つの島とはテルナテ、ティドレ、モウティ、マキアン、バシャンである。現在では、ハルマヘラ、セラム、ブルといった大きな島や、アンボン、テルナテ、ティドレなどの小島を含めて、行政上はマルク州としてまとめられている。
 長岡新治郎氏によれば、「ポルトガル人は1511年マラッカを占領すると、翌年アントニオ・デ・アブレウの船隊をこの方面に派遣したが、これはバンダ諸島に到着したにとどまり、1513年アントニオ・デ・ミランダの船隊がはじめてモルッカ諸島に至った」という(諸国記、p.357-8)。したがって、トメ・ピレスの記録は伝聞となるが、見聞に近いものではある。
 「この5つの島は毎年約6000バール前後の丁子を産出する」、「丁子は年に6回の収穫がある。昔はマラカからはバンダンとマルコに8隻のジュンコが行ったが、〔その中の〕3、4隻はアガシ〔グリシ〕のもので、他はマラカのものであった。マラカのものはシャティン[コロマンデル海岸]の商人、[マラッカ商人]クリア・デヴァのものであり、アガシのものは[前述の領主]パテ・クスフのもので、彼は同地で取引を行なっていた。この他にジャオア人やマラヨ人の商人も加わっていたが、この2人が主要な商人で、2人ともこの取引で多量の黄金を入手していた」(諸国記、p.357)。
 このように丁子の買い手がかなり少数であったことを知りうる。
 この5つの島の中心はテルナテ島で、その王はイスラム教徒のソルタン・ベン・アコララといい、ポルトガル人に友好的な態度を示した。1513年夏にバンダ諸島に来航した、トメ・ピレスたちの船隊のうち1隻が、帰途、ルコ・ピノ島[?]で難破する。その船の船長「フランシスコ・セランがアンボンにいることを知ると、[テルナテ島の王は]彼と……他のポルトガル人を呼びにやり、自国に迎え入れ、かれらを鄭重にもてなした」という(諸国記、p.360)。
 翌1513年、アントニオ・デ・ミランダの船隊、3隻が派遣され、バンダを経由してモルッカに入る。フランシスコ・セランは、それと接触するがモルッカにとどまり、アンボン島に移っては「同地で住民の戦争に参加して勝利をおさめ、要塞をかまえたが、当時ティドル王との戦争に苦しんでいたテルナテ王が彼を迎えた。彼はテルナテに移って王に協力し、ティドル王を圧迫した。しかし、1521年に彼はティドル王のために毒殺され、テルナテ王もその直後に毒殺された」という(諸国記、p.361)。その間、1519年ごろ、トリスタン・デ・メネゼスがテルナテ島に要塞を造る。
 なお、モルッカ諸島における「ポルトガルの勢力は、アントニオ・ガルグアンがこの地域の総督であった時期(1536-40)に確立されたが、キリスト教の強制的布教、香料貿易の独占などは住民の反感を招いた。オランダ人は1599年にはじめて来航すると、1605年にアンボイナのポルトガル要塞、またテルナテを占領して、[すでに1533年に進出し]ティドル島を根拠地にしていたエスパニャ人と対抗する。この後、オランダは、この地方全域に支配権を確立した」とされる(諸国記、p.357)。
 トメ・ピレスは、マラカからマルコへの航路、すなわち丁子の入手航路は、適切に決定されなければならないという。マラカの商人にあっては「資本が少なく、水夫は奴隷なので、時間をかけて利益のあがる航海を行なう[必要がある。そのため]……マラカからジャオア……ジャオアからビマ、シンパワまで高価な商品を運んで行く」。それに対して、「われわれは賃金を払って船員を連れて来ている」ので、「決して、ジャオアの海岸を経由してマルコへ行く航路をとるべきでなく、シンガプラ[現在のシンガポール]を経由し、シンガプラからブルネイへ行き、ブルネイから[スラウエシ島の南にある]ブトゥン諸島へ行き、それからすぐにマルコへ行く航路をとるべきである]とする(諸国記、p.367)。それは寄り道せず、直航せよという程度のことである。
 最後の中央の島々の節では、マラカと交易しているスラウェシ島やカリマンタン島、ジャワ島周辺の島々を取り上げ、一般論として「それらについては、黄金と奴隷があること、たがいに取引をしていること、小さな島は大きな島と取引をし、大きな島々はマラカと取引をしていること、マラカはこれらの島と商品を処分したり、交換したりして取引をしていること以外には〔特に〕語る理由はない。これらの島々の大部分には黄金がある。また、どの島にも海賊と盗賊がおり、かれらは〔盗むこと以外では〕生きて行けない」と述べる(諸国記、p.375)。
▼マラカの王、交易のため、イスラームに改宗▼
 第6部マラッカは全体4分の1を占め、歴史、支配地域、政治、貿易、ポルトガル人による占領、の構成となっている。トメ・ピレスのいうマラカ(満刺加、イギリス名マラッカ、マレー名現在のムラカ)の歴史は、すでにWebページ【2・2・3 東南アジア交易圏の成立と海峡部の交易】でふれているが、簡単にみれば次の通りであろう。
 「14世紀末に、スマトラ島のパレンバン王国のパラメシュバラ[?-1414]が建国したとされる。中国、明の鄭和の遠征(1405-33)の基地となったことにより、国際貿易港としての地位を確立、タイのアユタヤ朝の支配からも脱した。インド洋をわたってくる船と、南シナ海からくる船がこの地で貨物を交換するようになり、東南アジアの商業ネットワークの中心となった……1511年、ポルトガルに占領され、国王マフムード・シャー[在位1480?-1528?]はマラッカからのがれ、半島南端にジョホール王国をたてた」(Microsoft Encarta Encyclopedia 2001)。
 ここで注目されるのは、トメ・ピレスによれば次のような経過をたどって、マラカが海上交易のイスラーム教国かつ中継国になった、としていることにある。
 2代王シャケン・ダルシャー〔イスカンダル・シャー〕[在位1414-22]は、当時のジャオア王バタラ・タマリルに、「私の父はすでに死んでしまいました……パリンバンの国をお譲りしましたから、今後は、私は私の国で取引を行ないたい……〔殿下の〕部下や人々が航海しているパセーやその他の場所に行くには浅瀬があるのに対し、〔マラカまでは〕最小の危険でジュンコが航行できるからであります」と願い出る(諸国記、p.395)。
 それに対して、ジャオアの王は「パセー王は自分の臣下である。従って、もしそれが〔同時に〕彼〔パセー王〕の意志であったならば、自分はそこ〔マラッカ〕に船を派遣しよう。さもなければ、自分は〔パセー王の意志に〕さからうことはしないであろう」と答える(諸国記、p.396)。
 そこで、マラカの王はパセーの王に、「ジャオアがマラカで取引することを悪く思わないように譲歩していただきたい。また、同様に貴国の商人にも商品を持たせて、マラカに来させるようにしていただきたい……私が〔このことについて〕ジャオア王に手紙を書いたところ、もしそれがパセー王の意志であればそれをたいへん喜ぶと答えて来た」と伝言させた。
 これに対して、パセーの王は使節を送り、「もしあなたがイスラム教徒に改宗するならば、私はあなたが私に譲歩するように頼んで来られたことを喜んで承知いたします。もし、そのことについて決心がつかれましたら、率直にそのことを私に知らせていただければ、その意志に沿うように用意をしましよう」と答えさせた(以上、諸国記、p.396)。
 マラカの王シャケン・ダルシャーはパセーから来た使節を歓待せず、彼らを捕え、抑留する。パセーからは身分の高い人々が、しばしばこのマラカ王のところへ来て、使節たちの釈放を求めてくる。3年経ってから使節を釈放し、パセーに送り帰したという。
 その後、この「〔2人の〕王は友情を保ち、パセーの〔人々〕がマラカに来て取引を行なった。そして、数人のイスラム教徒の商人がパセーからマラカに移住して来た。かれらはベルシア人、ベンガラ人、およびアラビア人のイスラム教徒であって……大きな取引を行ない、また財産があってたいへんに豊かであった」(諸国記、p.397)。
 「王シャケン・ダルシャーは一方では[イスラーム教の]僧侶たちに、一方では他の何らかの方法で説得されて、パセー王と約束を結び、彼〔パセー王〕のようなイスラム教徒に改宗し、常にいっしょに住むという条件でパセー王の娘と結婚することをとり決める」のである(諸国記、p.399)。こうしてマラカにおいて海上交易が根付くようになる。
 これらマラカやジャオア、パセーの王たちの交渉は伝聞によるが、マラカの王がマラッカ海峡の制海権を持つジャオアの王に、ジャオアとパセーの間に入って交易したいと願い出る。それは認められるが、パセーの王はマラカの王にイスラーム教徒に改宗せよと条件を出す。マラカの王は、次に示すようにそれを受け入れる。こうした経過は、マラッカ海峡の交易権はイスラーム教徒が握っており、マラカの王が彼らを積極的に取り込むことで、その港を中継港となりえたことを示そう。
 なお、トメ・ピレスは「72歳の時に、彼の一族と共にイスラム教に改宗し……彼の周囲の人々を全部改宗させた」とする(諸国記、p.399)。その一方で、「シャケン・ダルシャーは45歳の時に、自分でシナに行って、シナの王に謁見し……往路、滞在、復路に3年を費やした」、「シャケン・ダルシャーと同行して、1人の高位の司令官[鄭和とされる]がやって来た」などといっている(諸国記、p.400)。
 しかし、これら記述は、シャケン・ダルシャーが初めてのイスラーム教徒の王であったことは確かとしても、史実と整合しない。鄭和遠征艦隊は1405年の第1回から毎回マラカに入港しており、1409年の第3回の帰途には初代王パラメシュバラを随伴し、また1413年の第4回に参加した馬歓は『瀛涯勝覧』において、そのとき王をはじめ国民はイスラーム教徒であったと書き残している。
▼1509年ポルトガル船隊、マラカの港に現れる▼
 マラカ王国は、1431年の第4回鄭和遠征が終わるとアユタヤ王国からの圧力は強まるが、中国との冊封と朝貢を続けることでしのぐ。5代王ムザッファル・シャー(在位1444?-59?)は、初めてスルタンと称した人物で、アユタヤ王国の侵入を撃退し、最終的にマラカの独立を確保した人物であった。この時代からマラカ王国の支配範囲は、マラッカ海峡に面したマレー半島の両岸、そしてスマトラ島北岸に拡大し、サムドラ・パサイやアユタヤに取って代わって、東南アジアにおける交易センターとなる。
 このスルタン・ムザッファル・シャーは、トメ・ピレスによれば、「それまでの代々の王よりも良い王であったということである。彼はシアン、ジャオア、シナ人およびレキオ人との〔関係を〕非常に緊密にした。彼は非常に正義感の強い人で、マラカの改善に非常に貢献した。彼はジュンコを購入したり、建造したりして、それに商人を乗り組ませて海外へ派遣した。このことによって今日現在でも、モダファルシャー王の時代から〔活躍している〕古い商人たちは、彼を、特に彼が正義感に強かった」と大いに讃美する(諸国記、p.402)。
 次代のスルタン・マンスール・シャー(在位1459?-77)も同じであるが、当時の8代王スルタン・マフムード・シャー(在位1480?-1528?)は、次のように評価される。「彼は倣慢であったため、すぐにシアン王[シャム王]に対する服従を撤回し、もはや彼の国に使節を派遣しようとはしなかった。彼はジャオアにもほとんど服従せず、ただシナにだけ服従し、『なぜマラカはシナに服従している諸王に服従していなければならないのか』と語っていた。このため、約15年前にシアン王はマラカに対して戦いを挑み、彼の司令官たちを海路進撃させた」(諸国記、p.421)。
 その戦いに当たって、「9万人の武器をとることのできる人間が加わった」という観兵式において、「彼はこのことをたいへん自慢し、理性を失い、倣慢になり、自分だけが世界を破壊するために充分の力を持っており、全世界は〔マラカが〕季節風の吹き終る所に位置しているために、その港を必要としており、またマラカの中にメッカを作らなければならないと語った」とする(諸国記、p.422)。
 トメ・ピレスがマファムトと呼ぶ、このスルタン・マフムード・シャーこそポルトガルに敗れた王であり、学識あるイスラム教徒と人々は、彼はこの倣慢さという罪のために破滅し、人々が彼に悪意を抱くようになったという。このようにマラッカから追い出した王を貶める。
 1509年8月15日、ディオゴ・ロペス・デ・セケイラは、5隻の艦隊を率いてコチンを出発し、同年9月1日パサイ、べディルを経て、マラカの港の前面に到着する。
 それより前とみられるが、トメ・ピレスによれば、グザラテ人がマファムト王に拝謁して、「ポルトガル人がこの港に来たからには、かれらは今後も毎回当地に来るに違いありません。かれらは海上や陸上で掠奪するばかりでなく、すでにインディア全体が、人々がフランク人と呼んでいるポルトガル人の手中に陥ちたように、引返して来て、当地を占領するために偵察に来ているのです。ポルトガルは〔ここから〕遠いので、かれらを当地で皆殺しに……すればマラカは滅びることも、商人を失うこともないでありましょう」と上奏したという(諸国記、p.424)。
 マファムト王は、ポルトガル対策をベンダラ(宰相)やラサマナ(提督)などの高官と協議するが、前者は主戦派、後者は和平派に分かれたようである。トメ・ピレスによれば、王は最初、撃退派にしたがうが、ポルトガル船入港後は、和平派にくみするようになる。彼らはいずれも交易の魅惑には勝てなかったようである。
 マラカとポルトガルとの間で交易協定が結ばれた。その内容は、生田滋氏はフェルナン・ロペス・デ・カスタニェーダという16世紀の年代記作者の記録から、「若干の家屋をポルトガル王に贈り、そこに商館を設け、財産を保護させること、〔ポルトガル王の〕船が土地の船やどの外国の船よりも早く積荷をするようにすること、丁子、薬品、荳蒄花は土地の価格で、貨幣によって買い入れられるか、または商品と交換[される]」といったことが取り決められたとする(諸国記、p.426)。
 マラカ人が、ポルトガル船入港を漫然と受け入れたわけではなく、高官の息子やグザラテ人の船長は徒党を組み、上陸しているポルトガル人を殺害、ポルトガル船を襲撃した。それにより、ルイ・デ・ダラウジョら24人が捕虜となるが、ポルトガル船隊は季節風の時期が終りに近づいているため、彼らを残してゴアに帰航する。
▼4人のシャバンダール、入港船を管理▼
 支配地域の節は、マラカが支配する町をあれこれと紹介しているが、マラカの町の状況についてはまったくふれない。そのなかにあって特記されているのが錫の産地である。政治の節については、その一部はすでにWebページ【2・2・3 東南アジア交易圏の成立と海峡部の交易】でふれているが、トメ・ピレスの記述をみれば、次の通りである。
 マラカ王国は、マジャパヒト王国の討伐から逃れたパレンバンの王族であったパラメスワラと、それに付きしたがった海民らが建国者となり、それら子孫が王族(ラジャ)と貴族(マンダリ、マンダリン)となって支配している国であった。彼らは双務的な関係にあったとされる。トメ・ピレスは王の力を上回る貴族がいることを強調している。また、貴族は次のような官職をついていたという。
 パドゥカ・ラジャ(総司令官)は時々任命される。
 しかし常時は、ベンダラ(マレー名ブンダハラという、宰相)が「王国でいちばん偉い。ベンダラは民事上、刑事上の……裁判長のような役目を行なう……王の財産の管理を行なう」(諸国記、p.445)。その他、遠征軍の司令官にもなる。それは、世襲、終身の官職とされ、特定の家系の貴族がなる。
 ラサマナ(提督)は、「海軍の提督のような役目であって、海上で編成される全艦隊の司令官である。海員およびジュンコ、ランシャラ[マレーのジュンコ級大型船]はすべて彼の支配下にある。彼は王の護衛に任じている。すべての騎士とマンダリとは、彼に服従している。彼は戦争のことに関しては、ベンダラとほとんど同様に有力である。彼はより重要で、より恐れられている」とする(諸国記、p.446)。
 「トムンゴは市の市長で、市の警備に任じ、また多くの人々を彼の支配下に置いている。人を投獄するような、あらゆる事件はまず彼の所に来て、彼の所からベンダラの所に行く。この任務には常に非常に尊敬されている人々が任命される。彼はまた商品の税金を受け取る」(諸国記、p.447)。
 マラカの町には、多くの外国人が居留しているが、それらをグループ毎に担当するシャバンダール(さしあたって港務官)が、4人いる。「かれらは市の役人であって、それぞれの管轄に従ってジュンコの船長を応接する人々である。かれらは船長をベンダラに紹介し、かれらに倉庫を割当て、商品を受け取り、もしかれらが手紙を持っておれば、かれらを宿泊させ、[荷役のため]象〔を使わせるよう〕に命令を与える」ことができる。
 そのなかでも、(1)「グザラテ人のシャバンダールは他の誰よりも重要である」とされ、(2)「ブヌア・キリン、ベンガラ、ペグー、パセーのシャバンダール」、(3)「ジャオア、マルコ、バンダン、パリンバン、タンジョンプラ、ブルネイ、ルソンのシャバンダール」、そして(4)「シナ、レケオ、
マラカやジャワの人びと
ヤン・ホイフェン・ヴァン・リンスホーテン著『東方案内記』、
挿画の彩色画、初版1595‐96、アムステルダム
シャンシェオ〔章州または泉州〕、シャンパのシャバンダール」がいる。
 「[外国からきた]人々は、マラカに来た時には、それぞれの国籍によって商品あるいは贈物を持って、〔それぞれのシャバンダールの所に〕出頭する」ことになっている。
 生田滋氏は、シャバンダールは「港務長」の意味であるが、「一般に居留外国人から任命され、居留外国人の行政、貿易活動の管理にも当る。パロスが、この官職を『われわれの間では国の領事のような役目』と定義しているのは、その一面をよくとらえている」と注記している(以上、諸国記、p.448)。
 なお、シャバンダールについては、Webページ【「イブン・バットゥータの大旅行記」を読む】を参照されたい。また、いま紹介したトメ・ピレスとは異なる官職もあり、マラカ王国の政治と社会の構成については、生田滋稿「東南アジア群島部における国家の発展」『世界の歴史13』(p.307-9、中央公論社、1998)を参照されたい。
▼マラカに来訪・居留する外国人60か国に及ぶ▼
 貿易の節において、トメ・ピレスはまずマラカに来訪あるいは居留する外国人の国、地方や都市の地名を60ほど列挙する。さらに、マラカの港ではしばしば84の言語が話されているとしている。生田滋氏は、次のようなグループに分けることが出来るという(諸国記、p.455-6)。
(1) グジャラート人の船に便乗して来航していた人々
 カイロ、メッカ、アデンからのイスラム教徒、アビシア人、キルワ、メリンディ、オルムズの人々、ペルシア人、ルーム人、トルコ人、トルクメン人、アルメニア・キリスト教徒、グザラテ人(その他、マサリ人、モガディシオ、モンバサの人々、ギラン人、ホラサン人、シラスの人々などが含まれる)。(2) アフマドナガル、ビジャープル両王国のイスラム教徒
 チャウル、ダブル、ゴア、ダケン王国の人々
(3) 1つのグループ[マラバル海岸、ショロマンデル海岸の人々]
 マラバル人[カナノール、カレクト、コシン、コウラン]、ケリン人[ショロマンデル、バレアカテ、ナオール]
(4) マラッカの支配下にあるマラッカ海峡沿岸の各地の人々
 オリシャ、セイラン
(5) マラッカから見て西北方面の人々
 ベンガラ、アラカンの商人、ペグー人、シアン人、ケダの人々、マラヨ人
(6) マラッカの北方から来航する人々
 パハンの人々、パタニ人、カンボジャ人、シャンパ人、カウシ・シナ人、シナの人々、レケオ人
(7) マラッカから見て東北方面の人々
 ブルネイ人、ルソン人、タンジュンプラ人、ラヴェ人、バンカ人、リンガ人
(8) マラッカから見て東南方面の人々
 マルコ人、バンダ人、ビマ人、ティモル人、マドゥラ人、ジャオア人、スンダ人、パレンバン、ジャンビ
(9) [マラッカから見て西南方面の人々]
 トゥンカル、アンダルゲリ、カポ、カンパル、メナンカボ、シアク、ルバト、アルカ〔アルカト〕、アル、バタすなわちトミアノの国、パセー、ペディル、〔マル〕ディブの人々
 これら国々の人々が、どのような商品を輸出入しているかは、不思議なことに整理されていないのである。
▼100分の6の税金以外に交易規制はない▼
 次いで、国別に、マラカへの輸出品とマラカからの輸入品、来航する隻数、積荷の量や価格について、その要約がマラカに焦点を当てて示されている。しかし、それは(1)から(3)のグループに限られている。ここにも、この書物が未完成であったことが示される。それら以外のグループのうち、東南アジア圏については、生田滋氏は前出論文において整理している(生田前同、p.322-5)。それはともかく、いくつか注目される点がある。
 (1)グループについて、「グザラテからマラカには毎年4隻の船(ナオ)が来る。それぞれの船の商品は1.5万、2万、3万クルサドの価値があり、最低のものでも1.5万〔クルサド〕である。また、カンバヤ市からは毎年1隻が来るが、それは疑いもなく7、8万クルサドの価値がある」(諸国記、p.458)。
 マラカに来ると、「かれらは100分の6の税金を支払っている。そして、もし船〔の積荷〕を鑑定人に評価してもらいたい時には、評価された額を支払う……これはマンダリ〔ムントゥリ〕の不法な徴収を避けるためである」。それ以外に、「ベンダラ〔プンダハラ〕、ラサマナ〔ラクサマナ〕、トムンゴ〔トゥムンゴン〕、シャバンダールに対し、それぞれ100につき1の織物を支払う……商人はこれを非常な圧迫とみなしている(諸国記、p.459)。
 (3)グループについて、マラバル人は「毎年3、4隻の船がマラカに行く。これらはそれぞれ約1.2万ないし1.5万クルサドの価値がある。バレアカテからは1、2隻の船が行くが、それぞれ8、9万クルサドの価値があり、またジュンコもそれ以下の値打ではない」(諸国記、p.460)。
 マラカの港における徴税や取引について簡潔に述べるにとどまる。「〔役人たちは、評価人として〕10人の商人―5人はケリン人、5人は他の国からの商人―を呼び出す。かれらは、ベンダラ〔ブンダハラ〕の兄のトムンゴである税関判事の前で評価し、税金と贈物とを受け取る。これは、もしこれが行なわれなかったとしたら、〔国王、ベンダラ、トムンゴ、シャバンダールの〕それぞれがめいめい〔税金を〕徴収するからである。また取引が非常に大きく、護衛の者が盗みをするので、盗みとかれらの横暴さとを避けるために、これが行なわれていたのである。しかし、評価人たちが多額の賄賂を贈られていたことが明らかになったので、人々はそのためあえてこれを行なうことはほとんどしない」。
 「商人が到着して積荷を陸揚げし、税金か贈物を支払うと、10ないし20人の商人がその商品の所有者と会合する。かれらはたびたび集まる。そして、これらの商人によって価格が決定され、商品はすべてかれらの間でそれぞれの〔割合に〕応じて分配される。そして時間が少ないために、多くの商品が引渡されてしまうと、今度はマラカの商人が商品をかれらの船に積み込んで行って、気の済むまで売り捌く。これから取引者〔商品の所有者〕は元手と儲けを受け取り、土地の商人は自分たちの利益をあげていたのである。そして国はこの習慣によって秩序が保たれ、また元手を回収していたのである」とある(以上、諸国記、p.463)。
 その他、貿易の節においては、税金、貨幣、金銀の価格、計量について述べているが、マラカ王国には王たちの先買権は行使されていないようである。
▼1511年アルブケルケの大艦隊が来襲▼
 第6部マラッカの最後の節は、ポルトガル人による占領である。トメ・ピレスはそれに参加していないが、その占領1年後にマラカに入っている。それにも関わらず、その内容には迫真さがない。それは見ると聞くとではやはり違いがあるか、あるいは「私はたしかに商品の取引に関すること以外は知らない」(諸国記、p.473)と逃げているかであろう。
 「総司令官(カピタン・モール)にしてインディア総督(ゴヴェルナドール)のアフォンソ・ダルボケルケ〔アルブケルケ〕は1511年7月[1日]のはじめに、大小16隻の艦隊を率いて到着した。1600人前後の戦士[そのなかにはマラバル人も含まれていた]が、それに乗ってやって来た。その時、マラカでは10万人[せいぜい2万人とされる]の兵士を……集め……海には多くのランシャラとパラオとがあり、河〔マラッカ河〕と海とには多数のグザラテ人のジュンコと船(ナウ)とがあった」(諸国記、p.473)。そのとき、ポルトガル艦隊はゴアからパサイ、ぺディル経由でマラッカに向かったが、その途中、数隻のグジャラートの商船を拿捕して同行させていた。
 マラカは戦争の準備に怠りはなかった。しかし、その支配層はすでにみたように主戦派と和平派に分かれており、それ以外にも弱点があった。すでにみたように、マラッカにはマライ人ばかりでなく多くの民族の人々が雑居していた。トメ・ピレスによれば、マラカのような「取引の行なわれる土地では、人々は異なった国々の出身であり……国王に対して愛情を持つことができない」としている(諸国記、p.474)。
 生田滋氏の注記によれば、ジュンコのシナ人船長5人が総督のところに来て、「マラカ王はすぐに私たちや陸上にいる外国人の船長一同……に対して命令を下し、あなたがた〔ポルトガル人〕と戦うのを助けさせようとしました。しかし、私たちは逃げ出して来るための手段を持っていました」といってきたという。(諸国記、p.474)。
 そのなかにあって、カンバヤのイスラーム教徒たちはこの町を防禦することに固執した。グゼラト人のシャバンダールは、王が召集した会議において「決して……妥協しないようにと強く主張した。そして、彼はその提案の中で、同地に滞在しているグゼラト人の商人全部の財産と人員とを、市の防衛のために提供すると述べ、また直ちに〔かれらの〕船から火砲[40門]と600人の人員とを陸地に移す命令を下した」と述べたという(諸国記、p.475)。
 ポルトガルの「総司令官は、彼の艦隊を率いて到着すると、数日間は静観し、平和〔を求める〕伝言を送って、できるだけ戦争を避けようとした……同時に総督は[前述の]ルイ・デ・ダラウジョ[たち]……を取り返そうと努力した。王はまったく平和を欲せず……和睦に関することはまったく聞き入れようとはせず……[主から]罰せられるということが必然のこととなって来た」のである(諸国記、p.475-6)。
 そこで、生田滋氏の注記によれば、アルブケルケは「遂に市を攻撃することを決定し、まず10隻のボートを派遣して、海岸沿いの家屋と、3隻のグジャラート人の商船を焼き払った。マラッカ側はこれに驚いて直ちにルイ・デ・アラウジョ以下の捕虜を釈放し、和睦を申し出た。アルブケルケはこの申し出に対し、市内に堅固な家屋を建築するための用地を与え、そこにポルトガル人を駐在させること、その家屋はアルブケルケが当地を出発するまでに完成されるべきこと、ディオゴ・ロペス・デ・セケイラとその船隊に与えた損害と捕虜に対する賠償として、30万クルサド相当のものを支払うことを要求した」(諸国記、p.477-8)。
▼3日間の掠奪を許し、献上品を調達する▼
 マラッカ側はこの通告を受けると再び混乱するが、王は軍備を信頼して抗戦することとする。それに対して、総督は同年8月6日「部下を率いて上陸し……市を占領し、これを手中に収めた。王と、娘たちと、彼の義理の兄弟のカンパル王〔ラジャ・アブドゥラ〕と、パハン王〔スルターン・アブドゥル・ジャリル〕はマラカから逃げ出して、ブレタンに赴いた。そこは〔マラカの〕代々の王が住んでいた所であった」(諸国記、p.478)。
 トメ・ピレスは戦闘の結果だけを示すにとどまる。マラカの王は1500人以上の軍勢を率いて応戦し、市街戦は9日間にわたって続いたとされ、その激しい戦闘により双方に死者が出ている。また、マラカ側は戦象を用いていたとされる。
 このマラカ市内を攻撃するに当たって、アルブケルケはマラカ住民の分断を図った。それ以前に王と不和の関係にあったウティムタラジャは、アルブケルケに生命、財産と人命の保護を願い出ていた。それが受け入れられ、彼と手を結んでいたので、住民の大きな部分を占めるジャワ人は王の防戦に協力しなかった。また、「当地に滞在している外国人商人に対し、彼の目的は市を破壊することにあるのではなく……償いを求めているだけなのだという旨のメッセージを送った。そこで商人たちは、王に対して和睦するよう勧告したが、王はこれに耳をかさなかった」という(諸国記、p.479)。
 アルブケルケは市街戦に勝利すると、「外国人商人に対し自分の住居に帰ることを許したし、マライ人の商人にもこれを許した。これに、まず応じたのはペグー人の商人であった。この間に、アルブケルケは3日間にわたり市内の掠奪を許した……掠奪はマラヨ人、グザラテ人及びその他の外国人の家屋、財産に限って許され、クリング(ケリン)人、ペグー人、ジャオア人のそれは保護された。そして、多量の商品の他に、35マルコの黄金、25マルコの銀が埋めてあるのが発見された」。
 さらに、「アルブナルケは、マヌエル王および王妃に献上するものを除き、5万クルサド(カスタニェーダによると、20万クルサドと多数の男女の奴隷)相当のものを、将兵の間で分配させた。国王、王妃に献上するために、6つの青銅製の象、腕輪、各国人の少女、耳輪などがとっておかれたが、これらは帰途旗艦のフロル・デ・ラ・マール号が座礁沈没したために、ことごとく失われた」。
 ポルトガルが押収した「火砲は3000門に達し、その中2000門は青銅製で、その中にはカレクト王より贈られた巨砲があり、他の1000門は鉄製であった」という(以上、諸国記、p.479-80)。この大砲の多さには誇張があろうが、かなりの数であったことは明らかである。
 ポルトガルのマラカ占領とその支配は、東南アジア島嶼部の人々に衝撃を与え、その反抗を巻き起こすこととなった。それはすでにみた1513年1月のジャワの王パテ・オヌスたちのマラカ攻撃である。それをトメ・ピレスは再度取り上げている。
 「この頃、ジャオアはその全勢力を集め……マラカの前面に来航した。その中には40隻のジュンコと60隻のランシャラと〔があり、その他に〕100隻のカラルス[大型のボート]がやって来た。かれらは5000人の人々を率いていた。かれらに対して、われわれの船が出航した。ジャオア人はそれによって妨げられ、引潮と共に退却し、あらゆるものを残して行った。そして、かれらはカラルスに乗り込み、1隻の大きなジュンコと他の2隻とで逃げ出した。他の船は全部焼き払われ、それらの船や他の船に乗っていた人々は溺死し、他の人々は捕えられた。
 これはポルトガル人が今までインディアで全然見たことがないほど立派な艦隊で、非常に身分の高い人も多かった。そしてそれはまったくみごとに破壊されてしまった。そのことについて、われらの主は常に讃えられるべきである。なぜならば、このような結果はわれわれの手中にあるものではなく〔神意によるものであり〕、またわれらの主はその裁きにおいて遅滞がないからである。
 ジャオアの人々はおとなしくなった。パテ・ウヌスと共に来たパリンバンの人々も死んだ。ジャオアのグステ・パテもトゥバンの領主も、このことには大して不満ではなかった」(諸国記、p.485)。
▼占領後の交易再開、陛下の臣下が来訪▼
 ポルトガルは、占領したマラカに商人を向かい入れる。その統治権とは何かはともかく、「ケリン人の統治権はベンダラの職と共に[ベンガル人の商人]べンダラ・ニナ・シャトゥに与えられた。ルソン人、ペルシア人、マラヨ人の統治権はルソン人のイスラム教徒レジモ・デ・ラジャに与えられた」(諸国記、p.484)。彼にはトムンゴの職も与えられた。ここにも住民分断が貫かれている。
 なお、占領直後、イスラーム教徒の統治権を、いま上でみたジャワ人のウティムタラジャに与えていたが、彼とその一族は、後日、「マラヨ人の陰謀に加担していたことと、丁子を汚損しょうとしたことが露見したため」処刑された
1630年代のマラッカ
(諸国記、p.481)。それに対して、ニナ・シャトゥはポルトガルに終始、協力したとされ、1514年に死ぬ。トメ・ピレスは、「彼は陛下の忠実な真の召使だった」と、その死を深く悲しんでいる(諸国記、p.495)。
 現在、マラカに取引に来ている人々は、「グザラテ人、マラバル人、ケリン人、ベンガラ人、ペグー人、パセー人、アル人、ジャオア人、シナ人、メナンカボ人、タンジョンプラ、マカサル、ブルネイの人々、ルソン人」である(諸国記、p.483)。それは、すでにみた過去の来訪・居留の国々に比べ、いまだ少数である。
 そして、「われわれの船(ナウ)はジャオア、パンダ、シナに、ジュンコはパセー、バレアカテ〔に行っていた〕。今日ではティモルに白檀を求めて行っているし、他の地方にも行っている。われわれのジュンコは、すでにペグーのマルタニアネ〔マルタバン〕に行ったことがある」という(諸国記、p.484)。これはマラカ占領前後のポルトガルの東南アジア島嶼部における狭い交易範囲を示しているといえよう。
 トメ・ピレスは、「マラカの商人はジュンコを買い入れ、新たに倉庫を作っている。国は成長をはじめ、人々が到着しはじめたので、最初に規則と秩序と、永遠に続く法律とが必要になって来た。マラカにとってはそれを統治するための[古代イスラエル王国の王]ソロモン〔のような人物〕が必要であったが、マラカはそれにふさわしい都市である」。これはトメ・ピレスあるいはポルトガル人からみて妥当な商慣行の確立が必要となったことを述べたといえる。
 アルブナルケは、占領後、さしあたって木造の要塞を建造し、さらに破壊した大メスキータの跡に立派な石造の要塞を建造した。「それは強固で、周囲の塔の中に2つの真水の井戸があり、他にも2つ3つある。一方の端では海がそばまで来ており、他方は河に接している」という(諸国記、p.480)。
 そして、アジアにおけるポルトガルの支配国は、「パハン、カンパル、アンダルゲリの諸王は朝貢する臣下で、かれらは国王陛下の奴隷である……メナンカボ、アル、パセー〔パサイ〕、ペグーの諸王およびシアンの王は友人である。マルコの諸王は自らを〔陛下の〕奴隷の中に数えている……ジャオアのパテたち、アガシ、トゥバン、サダオ〔セダヨ〕の領主たちおよびスルバヤの領主は臣下で友人であり、かれらは自らを〔陛下の〕奴隷の中に数えている。スンダの王もまた同様である。ブルネイの王は自らを〔陛下の〕奴隷と呼んでいる」と書き連ねる(諸国記、p.486)。
▼マラカで金儲けをする法―委託販売―▼
 トメ・ピレスは、「ジュンコを持たず、他人の船に積荷する商人たちの取引の手段」という見出しのついた項において、占領前のマラカにおける金儲けについてふれている。それは数少ない海上交易あるいは海上投資の実務に関する記事であるが、適訳を引き出せない中途半端な記述となっている。それは2つの段落として訳されているが、内容は3つに分かれる。訳文を補足、整理すると、次のようになる。
 A:「〔ジュンコの〕所有者は彼のジュンコに必要なものをすべて装備する。[商品の所有者が]もし1つか2つの船艙(ペイタカ)を希望するならば、[それを認める。他方、商品の所有者は]それを監視し、取引をし、手に入れたもの[商品]を記録するために、2、3人を傭って[乗船させて]おく。そして、マラカに帰って来た時に、マラカでジュンコに積み込んだ品物の100分の20を[傭い人の報酬として]支払う。そして、商品の所有者は〔ジュンコの所有者に〕携えて来た品物の中から[船艙使用料に相当する]贈物をする」。
 B:「もし、[商品の所有者が乗船する商人に]マラカで100クルサド[あるいは相当額の商品]を託したとしたら、帰航の際にはジュンコの所有者に[運賃相当額を]支払う前に、200〔クルサド〕を受け取る」。
 C:「もし、[商品の所有者である]自分がマラカにいる商人であったとしたら、ジュンコの所有者にその時マラカで評価されている価格で100クルサドの商品を与え、帰航に際しては〔かれが〕危険を自分の負担としたら、140クルサドだけを私に払って、他の品物は与えない。それはマラカの規則に従って、ジュンコが港に到着してから44日目に支払われる」(以上、諸国記、p.490)。
 Aは、商品の所有者がその商品を船に積み、販売人を雇って販売させるが、その場合、雇い人の報酬は商品の20パーセント、そしてジュンコの所有者には船艙使用料を支払うとした例である。
 Bは、商品の所有者がその商品の販売を、乗船する商人に委託するとき、その商人に課した委託販売額を200クルサドとし、ジュンコの所有者には別途、運賃相当額を支払うとした例である。
 Cは、商品の所有者がその商品の販売を、ジュンコの所有者に委託するとき、そのジュンコの所有者に課した委託販売額を140クルサドとした例である。この場合、運賃相当額は支払い済みである。
 いま、ジュンコの所有者が委託商品を200クルサドで販売していたとすれば、商品の所有者はジュンコの所有者に託した商品の100分の60を、結果として、彼に与えたことになる。
 この比率は、商品の所有者がジュンコの所有者に支払う、委託額(元手)に対する運賃込みの委託販売手数料の率といえる。それについて、トメ・ピレスはポルトガルの交易範囲について、次のように整理している。
 スンダ、タンジョンプラは「商品が多く、取引が盛んで、利益が多い」ので100分の50、パセー、ぺディル、ケダは「航海はより安全でより短い」ので100分の30、シアンとペグーは航海が長いので100分の50、ベンガラ、バレアカテは1に対して1を、または100分の80、90を、ジュンコの所有者に与える。ただ、シナについては、それは「有利な航海である。さらに、船艙を手に入れて積荷する者は、誰でも時々1に対して3を、すぐに捌くことができる良い商品で入手する」(諸国記、p.490-1)。
 「このジュンコに[資金を]託する方法は、たいへんな利益を生む……これは規則的な季節風によって出発するからである。マラカ王は〔それによって〕大きな利益をあげていた」。さらに、「パハン、カンパル、アンダルゲリ、その他の諸王は当地にやって来て、かれらの代理人を通じて資金をそれらのジュンコに委託していた」。「王は必ず豊かになる。そして、王の資金を携えて行く商人は分け前にあずかり、誇りと自由とを受け、彼〔の投資〕は好意をもって歓迎され、期限にきちんと支払いを受ける」とされる(諸国記、p.492)。
▼マラカ賛歌―ヴェネツィアの喉に手をかけた―▼
 トメ・ピレスは、最後にポルトガルのアジア進出の目的は達成されたとし、マラカの偉大さを賛歌して筆をおく。それに小見出しを解説代わりに付けて示すこととする(以下、諸国記、p.493-5)。
―マラカは金が大いに儲かるぞ―
 毎年、シナ、ベンガラ、バレアカテ、ペグーに、それぞれ1隻ずつのジュンコを派遣することができるほど豊かな人がマラカに来て、これらのジュンコに他の地域に向かうのも含めてマラカの商人を同乗させたとしたら、もし国王陛下の商館員が来て、すでに述べた通りの百分率で資金や商品を〔船に〕積み込んだとしたら、またもし誰かが部下の役人を率いて来て、税金を受け取る税関の職についていたとしたら、マラカでは何バールもの黄金を儲けることができて、インディアからの資金を必要とせず、かえってそこに〔資金を〕送るようになることを誰も疑うことができないということに注目しなければならない。
―マラカには香料が集まってくる―
 私はバンダンやマルコについては語らないが、そこは世界中でもっともつまらない所だからである。あらゆる香料は何の苦労もなく〔マラカから〕同地〔インディア〕に送られる。これはマラカが賃金や食糧を支払っているからである。マラカはもし香料が入手され、取引され、統制され、またそれにふさわしいだけの人手があったとしたら、財宝をたくわえ、あらゆる香料を〔インディアに〕送り出すであろう。
―清廉な人士よ?!、マラカに来たれ―
 大きな仕事を少数の人々で処理することはできない。マラカには人の応援が行なわれるべきで、ある人々を当地に送り、他の人々を引揚げるべきである。また有能な役人、商品の知識を持っている人々、倣慢であったり、腐敗していたり、[命令に不服従にならない]、贅沢であったりしない長老の風格を持った平和の友がマラカ市を助けなければいけない。これはマラカには白髪の役人がいないためである。上品な青年と商品の取引とはぴったりしないものである。しかし代りを見つけることはできないから、少なくとも若者が年をとる〔まで待つ〕以外には他の方法ではどうにもならないことである。人々はマラカが偉大で、利益が大きいため、その価値を〔正確に〕見積ることができないのである。
―マラカは世界の中心である―
 マラカは商品のために作られた都市で、〔その点については〕世界中のどの都市よりもすぐれている。そして1つの季節風の吹き終る所であり、また別の季節風が吹きはじめる所である。マラカは〔世界に〕取り囲まれてその中央に位置し、1000レグワもへだたった2つの国の間の取引と商業とは、[それら]両側からマラカにやって来なければ成立しない。それは〔マラカが〕重要な地点で、非常な富を持っているからである。また、しかるべく統治され、援助されていれば、いつの時代にも決して没落しないであろう。
―イスラーム教徒は抜け目がない―
 マラカはマファメド〔の信者〕に取り囲まれているので、[われわれの]補給、監督を受け、尊敬と好意が与えられ、閑却されることがあってはならない。かれらはマラカが力を持っていない限り友人とはならないし、またその時でさえもモウラマ[知識層]は強制されなければ、われわれに対して忠実にならないであろう。かれらは常に監視していて、何か防禦されていない所があるのを見ると、そこに矢を放つのである。
―商品がわれわれの信仰を助ける―
 従って、マラカが現実面でいかに利益があるかということと、精神面でさらに利益があることが知られる。すなわちマファメド〔の信者〕は袋の中に入れられたようになっていて、もはやそこから出て行くことができない。そして、できる時には逃げ出して行く。たとえ、人々がそちらの側〔イスラム教徒〕を助けるとしても、商品はわれわれの信仰を助ける。
 そして、マファメド〔の信者〕がほろびるということは真実である。かれらは必ずほろびるのである。われわれの側の世界〔マラッカ周辺およびそれ以東の地域〕は、インディア側の世界よりも豊かで尊敬されていることはたしかである。なぜならば、こちら側でもっともつまらない商品は黄金で、それは〔実際よりも〕価値が低く見積られ、マラカでは商品と見なされているからである。
―すでにアジアを支配している―
 マラカの支配者となる者はヴェネザ[ヴェネツィア]の喉に手をかけることになるのである。〔ポルトガルから〕マラカまで、マラカからシナまで、シナからマルコまで、マルコからジャオアまで、ジャオアから占領されたマラカ、スマトラまでの〔地域は〕、われわれの権力の下にある。このことを理解する者はみなマラカを助け、閑却しないであろう。なぜならば、マラカでは麝香や安息香やその他の貴重な品物よりも、にんにくや玉ねぎを尊ぶからである。
▼若干のまとめ▼
 トメ・ピレスの東方諸国記の読後感は、いままで取り上げてきたWebページ【マルコ・ポーロ東方見聞録、イフン・バットウータの大旅行記、馬歓の瀛涯勝覧】とは違って、空しいものがある。
 それは、そこここの港市を、主に交易地としての価値や交易拠点の建設の観点から観察しようとしているからである。そして、そのために行われる武力攻撃や、それに伴う殺戮、掠奪が主キリストがイスラーム教徒を罰する仕置きとして合理化されているからであろう。その1つの例は、一方で「われわれの友人、丁子の島テルナテ」といいながら、他方で「バンダンやマルコは世界中でもっともつまらないところ」としていることである。
 トメ・ピレスの東方諸国記の際だった特徴は、そこここの港市についてそこに出入りあるいは居留する人々の国籍を網羅していることであろう。それはポルトガルがどこに交易拠点を配置するかの基礎資料とするためにあったとみられる。そして、ただ輸出入される商品を取り上げるのでなく、それらをマラッカとの関係でまとめていることであろう。それは、マラッカを西のゴアとは対置される、東の主要な交易拠点にする政策に対応しているといえる。
 トメ・ピレスのアジア滞在は、最終執筆前を取ればせいぜい約4年間という短期間であり、その滞在地もカナノールや、コチン、マラッカに限られ、また遠征先もスマトラ島やジャワ島、香料諸島、それも一部にとどまる。それにも関わらず、大量で網羅的な情報を収集したことは、驚異的なことである。そのことは、彼が商館員としての任務がアジア港市の交易情報担当であったことを示しているかにみえる。「私はたしかに商品の取引に関すること以外は知らない」といった言葉は、そのことを示そう。
 それでありながら、アジア港市における交易の具体的な様相をはじめ、交易組織や交易実務については内容に乏しく、わずかな指摘にとどまる。それは秘匿されたかのようにみえるが、そうではなく彼は商館員というものの、海上交易の知識に乏しかっただけでなく、現実に海上交易にほとんど関与する機会がなく、いまみたように情報収集に専念させられていたからであろう。
 それでありながら、トメ・ピレスはマラッカの節でみたような商品の委託販売という、手っ取り早い金儲けに一枚加わっていたかにみえる。
 冒頭でふれたように、生田滋氏は本書を「単なる地理書として書かれたものではなく、どこでは、だれと、どう取引したらよいか、ということを明らかにするという、きわめて実用的な目的のために書かれたもの」と評価する(諸国記、p.24)。「どう取引したらよいか」はいまだしとしても、アジアにおける海上交易の実用書となっていることは確かである。
(2005/10/26記)

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