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五大陸を渡った22年の海上人生

(1) 私掠船や軍艦で地中海や北海を航海する

▼1670年、疲弊した町メミンゲンに生まれる▼
 マルティン・ヴィンターゲルスト(Martin Wintergerst)が生まれたメミンゲンは現南ドイツのバイエルン州にあり、シュヴァーベン地方のアルゴイ高地の端に位置する、プロテスタント改革派の自由帝国都市であった。
 メミンゲンは、良質の繊維製品を産出し、裕福な商人たちの住む豊かな町であった。17世紀初めには6000人が居住していたが、その後、飢饉、逃亡、疫病(ペスト)により、三十年戦争(1618-48)後には約3000人まで減少していた。
 ヴィンターゲルストは、1670年疲弊した町に生まれる。彼はパン焼き職人になるが、1688年故郷の町を後にして、職人遍歴の旅に出る。それを一転させて船員となり、20隻もの船に乗って大洋を航海して、五大陸の地を踏むこととなる。元パン焼き職人は、その22年にわたる海と陸での体験を淡々と書き残した。
 その回想録は、帰郷して2年後に、地元のヨハン・ヴィルヘルム・ミュラー社から、「ヨーロッパを歩き、アジアを航海し、アメリカとアフリカの地を踏み、そして東インドに長期にわたって滞在したシュヴァーベン人、マルティン・ヴィンターゲルストによって著された」という題辞のもとに出版された。その後も版を重ねる。
 邦訳のライナー・レディース編、宮内俊至訳『海賊ヴィンターゲルストの手記』(NTT出 版、1996)は、1932年のロノレ・ナーバー版に基づき、編者が編集、構成したもので、原題は 「北海とインド洋の間―1688年から1710年におけるわが旅行と遠征」となっている。また、以下 に見るように、訳書名の『海賊ヴィンターゲルストの手記』は出版社のためにするネーミングで ある。この書としては珍しく、39もの章に小分けされている。
 ヴィンターゲルストの22年間にわたる海上人生は、1690年代、地中海や北海を航海していた 前半と、1700年代、オランダ東インド会社船でインド洋を航海していた後半に分かれる。
  当時のヨーロッパは、オランダ、イギリス、サルディニア、そしてスペインがフランスと争うプフ ァルツ継承戦争(1688-97)、そしてそれらの組み合わせが代わり、オランダ・イギリスとスペイ ン・フランスが争うスペイン継承戦争(1701-14)に代表される時代であった。
 また、ヨーロッパ諸国はトルコに圧迫されていた。そのなかで、ヴェネツィアは中世から築いてきた地中海の領土を次々と失い、1669年には最大の拠点であったクレタ島を奪われていた。そうした大きな後退を挽回しようとして、ヴェネツィアは最後の力を振り絞ってトルコに挑んでいた時代であった。
 他方、東インドにおいては、ポルトガルの後退は決定的になっており、それにとって代わって進出したオランダは、17世紀「黄金時代」を謳歌していた。しかし、18世紀にかけてオランダの東インド制覇も、イギリスやフランスの猛追によって、かなり次第に浸食されるという時代となっていた。
  これらの時代背景やそれぞれの海域の交易については、Webページ特集【海上交易の世界史】において対応するページを検索されたい。
▼ヴェネツィアでオランダ船に乗る▼
 ヴィンターゲルストは、1688年故郷の町を後にして南ドイツを遍歴していたが、翌年アルプスを越えてヴェネツィアに入る。すぐさま、イタリア語を読み書きできるようになる。ドイツ人が経営する旅館に宿泊していた、オランダ船ユスティティア号(以下、ユス号)の船長のイタリア語通訳として、月10グルデンで雇われる。
 その船は、プファルツ継承戦争(1688-97)の最中であったので、海賊に備えて46門の大砲を装備し、乗組員は180人であった。この艤装状況や後述の経過からみて、ユス号は単なる商船ではなく、敵船あるいは獲物とみれば襲いかかる私掠船であった。
 1689年10月上旬、ヴェネツィアは物価の高いので、クロアチアのポレチュにおいて必需品を買い込む。その後、凄まじい嵐にあって、帆桁が折れる。ダルマティアで修理する。そこで、2隻のフランス船がキプロスを出て、アドリア海を航海するという情報が入る。ユス号の乗組員のなかには、当時ヴェネツィア支配下にあった、スタラヴォニールと呼ばれたダルマティア人もいた。
 コルチュラ島沖で2隻の船を目にすると、船長はリヴォルノの旗を掲げて、追跡を開始する。1隻はヴェネツィア船でクザル島の、もう1隻はフランス船でコルチュラ島の要塞に逃げ込まれる。船長はコルチュラ島に投錨して探索隊を上陸させ、フランス船が新造船でコンスタンチノープルからマルセイユに向かっていたことを知る。なぜ、マルセイユに向かう船が、なぜ危険なアドリア海に入っていたかは不明である。
 船長はカッターで、少尉(通常は次席士官などと訳される)はボートで、カービン銃やピストル、サーベルを持った男たちを、それぞれ20人引き連れて出撃する。船長は右舷から、少尉は左舷からよじ登る。フランス人たちから頑強に抵抗される。味方は3人、敵方は船長以下15人の死者を出すが、27人のうち12人が生きていた。
 バラストとして「通常は、砂か鉄を積むことになっている船底に、約75トンの硫黄を積んでおり、さらに山羊の生皮が400枚、綿布とらくだ毛の入った梱が数個、トルコ長靴が200足あることがわかった……私は甲板長の長持[チェスト]をもらったが、中には品物がぎっしり詰まっており、一番上には銀鎖のついた銀のフルートが置いてあった」(p.9)。
 金銭がまったく見つからなかったので訊問したところ、書記が船長の長持にドゥカーテン金貨が500枚入っているはずだといったが、空っぽだった。犯人を特定できなかったが、後日、つかまえたフランス船の乗組員が横領していたことがわかる。
 コルチュラ島要塞から砲撃が加えられてきたので、ユス号の略奪隊は捕虜たちをカッターやボートに放り込み、アンカーロープを切断して逃げ出しにかかる。フランス船を戦利品とともに、ユス号まで曳航することに成功、戦利に大いに満足する。
▼捕獲したフランス船を海戦で失う▼
 翌日の夜遅く、ドゥブロヴニクに着き、捕獲船を売ろうとするが、すでに略奪の噂が陸路で伝わっており、あわてて逃げ出す。アドリア海の出口のオトラント海峡にあるサザン島の沖合いで、2隻のトルコ船に出会った。それは現リビアのトリポリの2隻で、合わせて46門の砲を備えており、われわれと同じように獲物を狙っていた。戦闘が開始され、およそ1時間小競り合いしたが、優劣がつかずに終わる。
 ユス号は、10人の捕虜兵卒を短艇に乗せて、オトラント海峡にこぎ出させる。彼らが上陸できるかどうは神任せであった。さらに、捕獲船を曳航しながら、カラブリア半島沿いに走って、シチリアの港メッシナに入る。ここで、スミルナ(イズミルの古名)から来るはずの味方の船団と出会うつもりでいたが、一足遅れる。味方の船団は、食糧を補給するため、サルディニアの首都カリアリに向かっていた。
 サルディニアに針路を取っていたところ、フェラット沖で再び2隻の船が向かってきた。捕獲船から、絹と鉄製の大砲6門、小臼砲14門を運び出し、乗り込んでいた16人全員をユス号に乗り移らせる。相手がフランス船であったので、捕獲船を積荷もろとも海底に沈め、旗を上げずに向かっていった。このときも決着せず、ユス号はカリアリへと向かい、その沖合で錨を下ろす。
 そこでも船団に出会えなかったが、当地で略奪品を売り払い、それでえた金でいろいろな必需品、新鮮な水やパン、肉、それに安く手に入る薪を買い入れる。そこから、良質なワインの産地スペインのアリカンテへ直進したところ、船団が塩を積むために2マイル離れたアレマータにいるという知らせを受ける。
 その港で15隻の船団を発見し、一緒にアリカンテに戻って、美味いワインを400樽積み込んだ。「マラガに着くと、相当量の良質な白ワイン、甘草、無花果、アーモンド、大粒の乾し葡萄、さらにスペイン・ウールを購入して、積荷を完璧なものとした。船は満杯になり、もう犬1匹入る余地もないくらいだった。船倉や甲板と甲板の間に大量の羊毛袋を積み込んだ」(p.12)。
 積荷が完了すると、アムステルダムのシュライバー(フィリップス・スフレイヴァーとされる)艦長率いる軍艦コルネリア号が、出航の合図の青旗を掲げる。16隻からなる船団はジブラルタルへ向かい、海峡を通過して、1690年の1月にカディスに到着、3月まで滞在することとなる。
▼フランスの私掠船に拿捕され、捕虜▼
 カディス停泊中、スペインのシルバー船団が入港してきた。その船団はガレオン船10隻からなり、各船が400-500ラスト積んでいた(1ラストは、インディアン・ラストでは1.8トン、ヨーロッパ・ラストでは2トンであった)。その船団の積荷は銀であった。中南米の産物の運送料は高額で、100ライヒスターラー(近世ドイツの銀貨)相当の積荷を運べば、商船は1ライヒスターラーだが、軍艦なら2ライヒスターラーになった。
 ユス号は8レアル銀貨を約30万枚買って積み込んだ。また、船長はさらに6ラストの銀塊を買い取ったという。船長は相当の交易資金を持っていたようである。しかし、彼らがそれを何でもって支払ったかについては、書かれていない。
 3月末、ユス号は僚船とともに出航し、サン・ヴィセンテ岬に着いた後、リスボンより北の40度まで来たところで北東に転針する。しかし、実際には、フランスと交戦中であったため、アイルランドを迂回することになった。北緯47度に達したところで、オランダやイギリスで今日でも話題になるほどの、激しい嵐に巻き込まれる。3日間の嵐の後、ユス号の回りには副司令官が乗った軍艦以外に、どの船も消えてなくなっていた。2隻は協議するが折り合わず、ユス号は単独で英仏海峡に向かう。
 3日後、ブルターニュ半島先端にあるウェサン島に着くと、フランスの私掠船と軍艦の3隻が次々と襲いかかってくる。小型船であったが、私掠船は24門、34門、軍艦は24門の砲を装備していた。早速に戦闘がはじまり、3日間続く。1日目、ユス号は副航海長以下、多数の人員を失い、またミズンマストが吹き飛んだ。2日目、バウスプリットが飛ばされ、多数の死傷者が出る。作戦会議が開かれ、自船を爆破するという船長を説得して、もう1日持ちこたえたらボートに銀を移して、イギリスかアイルランドに行くことに決める。
 彼らの予想に反して、わが方が降服しなかったため、フランス軍艦はハーフ・カルタウネ砲(前装の重砲、25-40ポンド弾を発射)をぶっ放してくる。ついにメインマストを失い、また7シュー(ドイツの長さの単位で、1シュー=25-43センチメートル)ほど浸水した。それでも船長は降服しようとしなかった。マストを失ったため、ボートを下ろすことができなくなっていた。フランス国旗を掲揚した敵船のランチが来て、身ぐるみはがされることとなる。ヴィンターゲルストも、トルコ長靴に約400枚のライヒスターラーを隠していたが、見つかってしまう。
 ユス号の乗組員180人のうち、船長の生死を含め、何人が死傷したかは書かれていない。敵については300人もの死傷者が出たという。ヴィンターゲルストも腕と肩を負傷して敵船に運ばれる。フランスの船団は、捕獲船と捕虜をサン・マロに持ち込んで、勝利を祝う。ユス号の負傷者たちはむしろ歓待される。マルタ騎士修道会士で、わずか18歳のフランス人船長の、豪勢な館に連れて行かれる。
 病院では親切に面倒をみてもらう。「船上で受けた治療がひどいもので、理髪師[外科医の代用]が傷口に亜麻繊維を詰め込んで包帯を巻いたため、繊維と肉が癒着してしまったのだ。そこで完治するように、再び腕と肩の傷を銀刀で開き、銀の針と木綿糸とで縫合しなければならなかった。全快するまで丸々5週間も伏せっていた」(p.21)。
サン・マロ(編者が同時代として選んだ挿絵)

▼霊力ある航海士がいる船に乗る▼
 ヴィンターゲルストは元気になるや否や、病院から監獄へ移される。同じ捕虜であっても、オランダ人とイギリス人は捕虜交換によって全員釈放されていったが、ドイツ人のヴィンターゲルストはただ1人とり残されることとなる。当地に滞在しているデンマーク領事に頼み込んだところ、ダンケルク出身のグラースというフランス人船長がやって来て6ルイ金貨をくれた上に、保釈金の100ルイを払ってくれたという。そして、マリア・フォン・コペンハーゲン号という捕獲されていたデンマーク船に乗り込むことになる。
 出帆の準備が整うまで、さらに2週間港に停泊していた。やがて船はナントへ向けて出航する。そこで積荷がなければボルドーに行くつもりであった。ブルターニュ半島にあるブレスト沖で、1隻の私掠船に出会う。「白ゆり」と名前は美しいが、ウサギコウモリ(耳が胴ほど長い)のように不格好で、フランス旗を掲げて14門装備していた。「白ゆり」の船長が乗り移ってきて、いとも友好的に挨拶を交わし、ウェサン島まで付き合うといって、後ろから付いてきた。
 ところが事態が一変する。その船はオランダ旗を掲げて接舷、斬り込んでくる。奴らは、ゲルリット・フォン・デル・ボルトを船長とするゼーラント州フリッシンゲンの私掠船であった。完全にお手上げとなり、新品の優れた武器を備えていたが、あまりの奇襲のために何一つ抵抗できなかった。ヴィンターゲルストは進んで、そのオランダの私掠船に乗り換えることとした。
 その後、1週間のうちに、デンマーク船とフランス船の2隻を捕獲し、プリマスへ連行した。彼は金や物を手に入れたものの、失業の身となる。その後、6人のドイツ人に出会い、彼らと一緒にポルトガルのセトゥーバルに塩を積みに行くデンマーク船に乗り込む。この船を選んだ理由は、有名な航海士のクラウス・タンストが乗船していたからであった。
 プリマスを出航して3週間後、リスボンの近くで陸地が見えたところで、トルコの大型海賊船が急ぎ向かってくのを発見する。こちらには24門しかなく、おまけに大半は使用不能だった。一方、敵は40門、射程距離に入るや20門が火を吹いた。クラウス・クンストが三角旗を掲揚させると(その意味は不明)、海賊船は暴風にあおられたかのように転舵してしまった。
 わがデンマーク船はセトゥーバルに入港し、すでに塩を積み終えてオランダからの護衛艦隊を待っている、84隻と合流する。この84隻という多さに驚かされる。その多くがオランダ船であったのであろう。かのクラウス・クンストには霊力があるらしく、オランダの護衛艦隊はフランス艦隊にやられたと告げる。それは真実であった。滞船のため、乗組員たちは解雇されたようである。
 陸路、リスボンに出向いて、乗組員400人、大砲64門、小臼砲36門という、巨大なジェノヴァの商船サンタ・ローザ号に巡り合い、乗り組む。この船は僚船とともにカディスヘ行き、多くの銀を積み込む。その後、ジブラルタルへとコースを取ったが、セウタ近海でモロッコとスペインの艦隊の派手な戦闘を目撃する。船は海峡を通過し、マルセイユに針路を取る。
▼ジェノヴァの私掠船団に転船する▼
 マルセイユで、ジブラルタル海峡で出会った4隻の私掠船のなかのハンニバル号に転船する。その船はオランダが分捕ったフランス船であった。この私掠船団の国籍は明示されていないが、脈絡からみて、ジェノヴァの船団のようである。彼らは、シチリアのトラパニとチュニジアのボン岬のあいだを遊弋して、レヴァントから来るフランスやトルコの船をねらったが、簡単に獲物はかからなかった。
 北西アフリカからきた船から穀物を強奪する。その一方、強力な敵が来ると、シラクーサに逃げ込む始末であった。シラクーサでは、検疫のため2週間停留させられ、首まで水につかってから上陸が許された。シラクーサのワインを飲んで、20人が狂乱状態となり、死んだという。
 トリポリの近海で、フランス船に出くわす。お互いに他国の旗を揚げるなどしてだましあう。その船を拿捕して、ジェノヴァの領事のもとへ送りつける。さらに、チュニジアとマルタ島のあいだにあるランペドゥーサ島に向かう。その島で、あろうことかカトリックの教会に押し入り、イタリア人が喜捨した賽銭や船乗りたちが供えた穀物などを奪う。そのため、ジェノヴァの港に入ると、乗組員たちは人びとから冷遇されることになる。
 その後、ボン岬で、1隻のトルコ船に遭遇する。その船は神出鬼没で、4隻の私掠船は翻弄され、逆に略奪されそうになる。コルシカに針路を取っていたところ船を発見、フランス旗を掲げると、相手はトルコ旗を翻らせる。そこで砲撃が開始されたが、敵に降服の意思がないので、わが方もトルコ旗を上げたという。イギリス籍の船であることがわかったので、今度はオランダ旗に替えたという。お互いにカッターを海面に下ろして相対したところ、その船はリヴォルノで約40人のトルコ人捕虜を引き取り、それをトリポリへ運ぶ途中であることがわかった。
 わが私掠船の航海が5か月も経っていたので、ゆっくりとジェノヴァに戻ることになった。その意味を理解できないが、ジェノヴァにはフランス船が数時間まえに入港していた。「もし沖合で出会っていれば、必ずや捕獲していたであろう。何といってもその積荷は20万グルデンの価値があったのだから」という(p.33)。
 それはともかく私掠航海は終わって、私掠船は再び貨物を運ぶことになった。その際、ランペドゥーサでの教会略奪の件が問題となり、その島の支配者であるフィレンツェ大公[すでにトスカーナ公国となっている]の怒りは激しく、4隻の私掠船が差し押さえられることとなった。それについて交渉が行われ、数千ライヒスターラーが使われたという。どのような結末になったかは書かれていないが、ヴィンターゲルストたちは解雇され、5か月分の給金と捕獲船の分け前として1人当たり30グルデンを受け取ることとなった。
▼ヴェネツィア船で、荷役ストライキを決行▼
 ジェノヴァでは雇われるチャンスに恵まれなかった。郵便船であるフェラッカに乗って、リヴォルノまで行ったが、ここも駄目だった。当地在住のオランダ領事から旅券をもらい、陸路で、ピサ、フィレンツェ、ボローニャ、フェラーラ、そしてパドゥアを経て、水路、ヴェネツィアに入る。
 ヴェネツィアの船に雇われる。それはアウタスブルク出身のショーラーという商人船主の船で、24門の砲を搭載していた。船長は生粋のフィレンツェ人で漁色家であった。罰が当たり、航海は災難の連続で、船主は3万グルデンを超える損害を被ることとなる。ヴェネツィアでは、200袋の穀物、200トンの珪石、そしてワインを入れる空樽を400個積み込んで、現ギリシアのイオニア諸島のケファリニアかザキントスでワインを買い入れようと出航した。
 6日目、現アルバニアのドリン湾で凄まじい嵐に遭遇し、湾の奥に押し流されてしまう。船長は、同乗させていた2人の情婦ともども死ぬのを恐れて、上陸したい者を引き連れて退船しまう。ヴィンターゲルストら8人が航海長とともに船に残る。嵐が収まると、船長たちは戻ってきたので、それを受け入れる。
 オトラント海峡にある現アルバニアのサザン島に向け出帆したが、その夕刻、9隻のトルコ船に囲まれてしまうが、すんでのところで脱出に成功する。敵の快速船2隻がコルフ島(ケルキラ島)まで追走してきたが、パクソス島(パク
イオニア諸島
シ島)のマドンナ要塞に逃げ込む。そこで夜を過ごし、翌日出航して、無事ケファリニアに到着し、積荷を降ろし、空樽にワインを詰め込んだ。
 ケファリニア停泊中、ヴィンターゲルストたちドイツ人は結束して、荷役を拒否する。食事と給金はきちんと取り決めてあったが、しばらくたつと少なくなってしまった。船積みの段になって、一切手を貸すことをやめる。働く気があるのか尋ねるので「ない」と答えると、船長は陸に上がり、領事に逮捕するよう要請する。この島(そしてザキントス島)の住民はすべてギリシア人であったが、ヴェネツィアに宗主権があった。
 ヴェネツィア領事は1分隊の兵を船長につけ来る。乗組員たちは尻尾を丸めて仕事に取りかかる。ヴィンターゲルストとノルウェー人は、それに屈しなかったため捕縛され、2週間にわたって投獄される。船積みが完了して出航するばかりになった時、航海長と書記、そして同乗していたらしい船主商人もやって来て、今後、待遇をよくすると約束してくれる。彼らは、後向きに穴から這い出し、船に戻る。
 積荷を完璧にするため、ザキントス島に針路を取った。この島での積荷を終えると、船主商人は船と別れてヴェネツィアに戻っていったが、船はシチリアの交易都市メッシナに向けて出帆した。そこで、またも猛烈な嵐に襲われ、ぶち破られた穴から流れ込んだ海水を掻き出しながら、メッシナに入港する。ここで検疫のために3週間停留させられる。その後、積荷の一部を下ろして売ってえた金で、損傷した船体を修理する。
 それから再びメッシナ海峡を通過し、ストロンボリ火山島に来たところで、またもひどい嵐と戦わねばならなくなる。メッシナに舞い戻って、3日間天候の回復を待った後、サルディニア島のカリアリに向けて帆を上げる。
 ある情報を小耳に挟んだ船長は、それらを分捕るつもりで船をカリアリに船を向ける。カリアリで、6人の坊さんたちが旅客となる。彼らは1198年に設立された聖三位一体会の修道士で、キリスト教徒の奴隷と交換するために、リヴォルノで買い受けたトルコ人男女を何人か連れていた。さらに、スペイン国王がスペインとポルトガル人の奴隷を買い戻すための金と、アルジェの病院に喜捨するための金が入った箱を36個も持っていた。
▼船長、船を横領、売り払って、逃亡▼
 トルコ船に追跡されるが、彼らが2隻のポルトガル船に襲いかかっているすきに、無傷のままアフリカ沿岸に接近し、2、3日後カタシーヌ岬に達し、アルジェに入って錨を下ろす。直ちに、舵を船体から取り外して、陸に揚げさせられ、またボートは鎖に繋がねばならなかった。トルコ人たちがやって来て、船を検査する。
 アルジェの要塞は海からも陸からも攻めるのは困難であった。港の守りは固いが、あまり大きくはなく、せいぜい10隻か12隻しか入れなかった。
 坊主たちは、トルコ人奴隷ともども、上陸する許可をえる。翌日、金が病院に運ばれて、126人のスペイン人奴隷が解放される。1人当たり200ライヒスターラー要した。アルジェでは36日間停泊し、怠惰な日々を過ごしたという。イギリス領事が、イェニチエリ(トルコの歩兵で、元キリスト教徒)を1人つけてくれたので、どこへでも行くことができた。
 滞在期間が終わってから、買い受けた奴隷を乗船させ、出航の準備をした。アルジェ国王は旅券と護衛艦1隻を出してくれた。その間、トルコ船が2隻出港していった。それらの船はわが船を収用するためにあった。イギリス領事のもとへ行ったところ、船長が船をトルコ側に売ったという。また、下船してイギリス船に移るよう説得されるが、信じられなかった。
 スペインのカルタヘナへ直行して、直ちに坊さんやスペイン人奴隷たちを降ろす。それと同時に、トルコの旅券も無効になり、護衛艦も別れの砲を3発放って、ガータ岬の方へ向かっていった。翌日、海岸沿いを走って行ったところ、アルジェを出帆した例の2隻が錨を下ろして、待ち受けていた。砲撃態勢を整えているうちに、わが船長は艫(とも、船尾)から逃亡してしまう。
 船長に逃げられ、船が売られていたとわかって、船長室へ行ったところ書記も砲術下士官も、一切合財持って消え失せていた。もはや逃げるよりたほかに道はなくなり、ボートに乗り移って陸を目指した。敵はこれをみて追ってきたが、モトリル要塞が兵を乗せたバークを2隻救助のため出してくれた。それで助かり、モトリル要塞下の小さな湾に入った。
▼スペイン艦隊に雇われ、ナポリで脱船▼
 総督(要塞隊長といったところか)は、見捨てられた16人に快適な住まいを提供し、また旅の用意を整えてくれた。ヴェレス・マラガやマラガへ行ったが船を見つけることができず、陸路、海路を使って、カディスまで行く。彼らは自由の身だったので、どこでも好きなところで乞食をしていたという。
 カディスで、ようやくスペインのアルマダ(大艦隊。有名な無敵艦隊ではない)に雇われる。支度金として48ターラー(スペインの銀貨)もらうが、艦隊が王国内にいる限り何か月たっても、それが給金のすべてであった。ただ、スペイン領であっても他の王国に移れば、また同額の給金をもらえた。食事はよかった。
 ヴィンターゲルストが乗った艦名はザンクト・ドミニクス号といい、フラマン分艦隊に所属しており、乗組員は700人であった。大艦隊はセウタヘと向かった。ジブラルタル海峡にあるスペインのセウタ要塞には毎年糧食を補給することになっており、当時モロッコによる攻囲が続いていたため、補給はいっそう重要になっていた。それが終えると、バルバリア海岸に沿って、アルジェのオラン要塞の補給に向かった。
 そこからアリカンテに戻って、さまざまな物資を積み込んだ後、大艦隊はマリョルカとメノルカの間を通過してバルセロナに着き、ガレー18隻と合流する。そして、ビスケー湾からくる軍艦4隻を待ち受けるため、ロサス湾に針路を取った。しかし到着したのは3隻だけだった。彼らは、4隻のフランス艦と遭遇し、提督の艦が撃沈する。それを見殺しにした残りの3隻の艦長たちが逮捕される。
 大艦隊は、軍艦24隻と乗組員(兵員を含む乗船者であろう)24000人、ガレー18隻、火船2隻、病院船1隻、補給船2隻、そして高速偵察船2隻という、大編成となった。それら艦隊はリヨン湾を通過してから、ニースとヴィラ・フランカに入り、一路ジェノヴァを目指す。そこに到着して、港外錨地に錨を投げる。
 ヴィンターゲルストによれば、そこで茶番劇が起きる。大艦隊が来航したのは、ジェノヴァに中立を放棄させ、スペイン帝国の側に参加させることにあった。ジェノヴァを攻撃する決定が下され、獅子の勇気をもってはじめられるが、おどおどした兎の心臓でもって終わってしまう。
 偵察船が、14隻のフランス艦隊がわがアルマダに接近しつつあるという情報をもたらすと、スペイン人たちは震え上がる。ジェノヴァがスペインの要求を入れて入港を認めると、大艦隊は錨を上げて港内に避難する。こうしてスペイン艦隊のジェノヴァ攻囲は水泡に帰してしまう。港内では、慣例通り、舳(おもて、船首)を岸壁に繋ぎ、艫は錨で固定して停泊した。
 船長に命じられて、ジェノヴァ人の甲板長がボートで、陸に水を取りに行くことになったが、その際、同郷人17人とスペイン人2人を連れて行ったところ、同郷人はついぞボートに戻らず、ずらかってしまった。それは一度スペイン船に雇われれば、めったに辞めることができないからであったという。ヴィンターゲルストも同じ手に出る。
 スペイン艦隊はフランス艦隊の所在を確かめるため、連日、4隻のガレー船と2隻の偵察船を出していた。敵艦隊がツーロン港にいることが確認されると勇気を取り戻し、港外錨地に出て順風を待って、イタリア半島とコルシカ島のあいだを通ってナポリに入り、冬のあいだの泊地とする。
 ヴィンターゲルストは、ナポリの副王にドイツ人で編成された親衛隊がついていることを知る。この同郷人の助けを借りて、彼は脱船する。ナポリでは、青い絹地の短い胴衣にズボン、それに白のストッキングを履くという、実に格好良い伝令の服装をして、町を徘徊していた。そして、聖バルトロメオ教会のドイツ人神父たちから、ローマ行きの旅券を出してもらう。
 ローマに向けて出発したところ、2時間も行かないうちに、2人のスペインの密偵に捕まってしまった。スペイン船がナポリに入港すると、船員の逃亡を防ぐために、密偵がすべての街道に見張っていたのである。それを何とかごまかす。彼が徒歩、ローマに入ったのは、1691年の11月とみられる。
 彼は、ナポリで預かった手紙を、ヴェネツィア・ロココの代表的な画家ジョバンニ・アントニオ・ペレグリニ(1675-1741、[作品:《ダレイオスの亡骸とアレクサンダー大王》(1708)、ドイツ・デュッセルドルフ・クンストパラスト美術館蔵])に手渡す。その工房には40人もの職人がいたという。ヴィンターゲルストはプロテスタントであったが、ヴァチカンやパンテオン、コロセウムを詳しく観察している。
▼ヴェネツィア艦隊の砲術下士官となる▼
 ヴィンターゲルストはヴェネツィアに戻りたくなって、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(世界カソリック教会の中心で教皇庁が置かれ、17世紀半ば現在の建物に修復されていた)で健康証明書をもらって、ローマを後にする。オルヴィエート、シエナ、フィレンツェ、ピサを経て、リヴォルノに着く。まるで現代の観光旅行と同じコースである。
 リヴォルノからヴェネツィアの商船に乗ってメッシナに着く。滞在中に凄まじい大地震が起きたとしている。しかし、それが起きたのは1693年1月のことであった[シチリア大地震をいう]。「すべてが崩壊し、大勢の人間とたくさんの家畜が死んだ。船も、揺すられているかのように、ゆらゆらと揺れた。ひどく濁った海中には死んだ魚がいっぱい漂っていた」という(p.61)。
 船は、船長の故郷のクルツォーラを経て、ヴェネツィアに到着する。すぐに、船を横領された船主のショーラーから使いが来る。彼に挨拶にいって事情を話す。彼は別の船に雇ってやるというが辞退する。その船は何と後日沈没してしまった。
 当時、ヴェネツィアは1684年からはじまった第6次トルコ
戦争[大トルコ戦争ともいう]の最中で、艦隊をペロポネソス
半島(フランスではモレアという)ヘ遠征しようとしていた。
ヴィンターゲルストは、4隻の軍艦の1隻であるヴィクトリア
号の下級砲術下士官として乗り組むことになった。その艦
隊の指揮を取るのは、将軍アントーニオ・ゼーノであった。さ
らに、元首(ドージェ)兼海軍総司令官のフランチェスコ・モ
ロシーニ(1619-94、元首在任1688-94)が新造ガレーに座
乗した。そのとき彼は72歳であった。その他、多数の商船
を従え、総勢およそ40隻になった。
 この艦隊は、1692年5月にヴェネツィアを出帆し、瞬く間
に、半島のすべての沿岸都市をヴェネツィアの支配下にお
いた。ナウパクトス、ナヴァリノ(ピロス)、コロネ、そしてペロ
ポネソスの首都ナウプリオンを立て続けに屈伏させる。そ
こで、先駆していた陸軍の歩兵全員と一部騎兵を乗船さ
せ、コリントスに向かう。
 ヴェネツィア艦隊はトルコがアテネに配置した私掠船に
悩まされていた。モロシーニは、その出港を阻止するため、
サロニコス湾のエギナ島(アイギナ島)を占領する命令を下
す。ヴィンターゲルストは、砲を12門、高所の要塞に持ち上
フランチェスコ・モロシーニ
げる。この島から、アテネは3マイルも離れていなかった。ヴィンターゲルストは、だいたいドイツ・マイル=7.420キロメートルを用いている。なお、フランス・マイル=5.565キロメートル、オランダ・マイル=7.155キロメートルである。今日使われているマイルはイギリス・マイル=1.852キロメートルである。
 「すでにヴェネツィアはアテネ市を占領していた。その証拠として2体の巨大なライオンの美しい大理石像を持ち帰り、それは現在ヴェネツィアの国立造船所(アルセナーレ、兵器廠を兼ねる)の前に立っている」と訳されている(p.64)。
 ライオン像は、1687年ペロポネソスを再征服したときに、持ち帰った戦利品である。したがって、ここでいう「すでに」ではなく「以前に」である。その時、ヴェネツィアの砲弾がパルテノン神殿に当たり、貯蔵されていた火薬が爆発して、それが破壊されたことは有名である。また、「ヴェネツィアはアテネ市と、年貢として12000ライヒスターラーを納める代わりに、自治を認めるという協定を結んでいた」(p.65)。
 15隻の大型軍艦がダーダネルス海峡に入り、投錨して対峙するが、内海〔マルマラ海〕にいる敵艦隊はあえて出てこようとはしなかった。「ギリシアの古老たちは、トロイはその地にあったのだと教えてくれた」という(p.65)。みんなが知っていたのである。トルコ艦隊を待つのは無駄だと分かり、マケドニア地方のサロニキ(テッサロニキ)に入る。
▼ドージェ・モロシーニの遺体を運搬▼
 ヴィンターゲルストたちはナウプリオンに1693年の春まで留まる。陸軍は再び集結する。そのなかに、ホーエンローエ伯爵領(ドイツのフランケン地方)の2つの中隊に所属していたシュヴァーベン人の生き残りの6人と出会う。彼らは傭兵とみられる。
 ヴェネツィア艦隊はクレタ島に赴き、まだヴェネツィアに帰属していたスダとスピナロンガの要塞に補給する。スダでは、エルサレムへ運ぶ大理石柱と糸杉材を積み、ヤッファまで運び、そこで陸揚げする。しかし、上陸できなかった。艦隊はクレタ島に取って返し、要塞の兵員を交替させてから、再びペロポネソスへ向かう。そして、トルコ艦隊探索の命を受けて、エーゲ海を遊弋したが発見できなかったため、またコリントスに戻った。
 そこで、ドージェ・モロシーニがなくなり、その遺体をヴィンターゲルストが乗っている軍艦が運搬することとなる。彼はそれをいやがっている。ヴェネツィアまでの航海ははじめからずっと逆風で、しかも三度も凄まじい嵐に巻き込まれる。それは海が死者を嫌っているためだと思ったという。ヴェネツィアでは、モロシーニの後任として足の悪いシルヴェストロ・ヴァリエール(在任1694-1700)が選ばれ、また司令官ゼーノ将軍を海軍総司令官に昇格させていた。
 ヴェネツィアから再び出航することになったが、ヴィンターゲルストたちは給金をもらわなければ出発する気はないと訴えたところ、1年分の俸給をえたという。船体にはオイルが塗ってあったので、船足は早かった。ナウプリオンに着いた。そこで4隻の船に軍事行動ではなく、エーゲ海周辺にあるトルコの都市から、租税を取り立てるよう命令が下される。自前の軍備を持っていない都市は、ヴェネツィアとトルコ双方に、租税を払わなければならなかった。
 彼らの艦隊は、まずとりわけ美しく、素晴らしい島サモスに着いて租税を取り、キオス島と小アジア半島のあいだを進む。そこでトルコのカイク(組み立てマストのある沿岸櫂船)を2隻座礁させ、イズミル(スミルナ)の近くを通過し、レスボス島と小アジア半島のあいだに入った。そこで、またもトルコのカイクを4隻撃沈する。そこからスキロス島を経て、エーゲ海を航走してコリントスに戻る。
▼キオスの破壊に砲術下士官として活躍▼
 1694年の春、ヴェネツィアは新兵と新造軍艦を補充して、ナウプリオンで集結、大艦隊を組織する。「軍艦は26隻を数え、最小艦でも砲を40門装備していた。さらに砲18門と小臼砲36門のガレアッセが6隻いた。これは特殊な船で、各艦とも60かそれ以上のオールを持ち、1本につき6名から8名の奴隷が必要だった。さらに、水夫が40名、砲術下士官が7、8名、それに兵700からなる連隊を乗せていた。その他に、ガレーが42、ガレオートが30、火船2、砲艦2、それと弾薬や物資を積んだ商船およそ12隻が同行した」。さらに、マルタのガレー7隻とローマのガレー4隻が合流した(p.72)。
 全艦隊は、ポルトポレスからエビア[エイボイア]を経由することになったが、風が行く手を妨げたため、ダーダネルスヘ向かうことになった。しかし、トルコ艦隊の所在は突き止められない。ギリシアのバークから、トルコ艦隊が武装を解除してコンスタンチノープルにいるという、情報がもたらされる。彼らはベオグラードを占領するため、全兵力を投入していたのである。
 ヴェネツィア艦隊は、コンスタンチノープルまで押し入ることを避け、エビアに戻る。ロードス島を出たトルコのガレー3隻をキプロスまで追跡するが、目的を果たせない。9月に入って、将官たちは何としてでも戦果を挙げる必要に迫られ、キオス島を占領するという命令が下される。キオスには、ジェノヴァ領の時代から司教が居住しており、その司教から確実な情報が届けられ、発進したとみられるという。
 艦隊は順風に恵まれ、全速力で進んで島の沖合に到着する。トルコの駐留部隊にしてみればまさに青天の霹靂だった。港にはトルコ船が犇(ひし)めいていた。
 ヴィンターゲルストは、最年少の砲術下士官として、上陸作戦に参加する。戦闘は、9月8日から12日まで続いたが、その後敵の砲撃は沈黙する。17日、城壁に大型の地雷が仕掛けられ、最後通告が出されると、敵は降伏する。港内と要塞にある物はすべて勝者のものとされた。港には大小60隻の船がいたが、そのなかには探していた3隻のロードスのガレーもあった。ヴィンターゲルストたちはそれぞれ持ちきれないほどの戦利品を手にする。
 キオスのトルコ側の司令官はイスラーム教に改宗したヴェネツィア人であった。生き残ったトルコ人は小アジアに移送されることになっていたが、彼はみつかり即座に裁判にかけられ、吊し首となる。キオスの町は根こそぎ破壊される。
▼スミルナで黄金の雨が降り、撤収する▼
 エーゲ海の島々のなかで、キオスほど神の恩寵に溢れた島はないとされた。「天の恵みに満ちたこの島は、貴重な果実や植物、マスカットワインをはじめとする極上のワイン、良質のオイル、レモン、オレンジ、石榴[ざくろ]、そして実に大量の無花果[いちじく]を産出する。オリエント風の家々の平らな屋根は無花果に埋め尽くされ、乾燥無花果が作られる。また、絹と綿も忘れてはならないが、しかしスルタンに莫大な利益をもたらすのはピスタチオである」(p.79)。
 このキオスを越冬地として、1695年を迎える。滞在中、ヴェネツィアは要塞をできる限り強化する。占領した翌日になってしまったが、トルコのガレーが40隻も支援に駆けつけてきたからであった。コンスタンチノープルに錨泊していた艦隊を、大スルタンは急遽武装させ、キオスを奪回せよと厳命していた。
 ヴェネツィア艦隊は、敵を待つことなく出帆すると、レスボス沖でトルコ軍と遭遇する。彼らはスルタン船21隻とガレー60隻を擁していた。われわれが接近すると、敵は恐れをなして、フォイゲという島の背後に遁走してしまった。翌朝、索敵したところ船団を発見して一直線に迫ると、一目散にスミルナの港へと逃げ込んだという。
 スミルナは瀟洒な交易都市で、キリスト教徒も大勢住んでいた。その時、イギリスとオランダ、フランスの輸送船団が停泊していた。トルコ人たちは、海戦が起きればキリスト教徒を全員捕らえ、一発でも砲弾が落ちれば一人残らず切り刻んでやると脅していた。
 ヴェネツィア艦隊はスミルナを砲撃することを決め、砲艦を2隻出動させることとした。そこで3か国の領事がフェラッカに乗ってやって来て、半日も、司令官と協議した。「その結果、金銀の風がフェラッカから吹きつけ、即座に錨を揚げてキオスに戻る命令が下された。私たちは1695年の2月までキオスと小アジアのスパルマトーレの間に停泊して、敵のことなどすっかり忘れてのんびりと過ごした」という(p.82)。
 大将は自らの軍艦を劇場に変え、毎日コメディーを演じさせていたし、兵卒たちはすっからかんになるまで金を賭けて争っていた。彼らがのんびりと暮らしているあいだに、トルコ軍はかなり軍備を増強し、キリスト教徒やギリシア人を相当数雇い入れていた。ヴィンターゲルストの乗っている船が、トルコ艦隊の針路を哨戒するために出動させられた。哨戒艇の船首には火薬を充填する筒があり、敵を発見すると点火して、合図の煙を上げるようになっていた。
▼海戦に敗れて、キオスを奪還される▼
 トルコ艦隊がスミルナを出航して、こちらに直進してきた。ヴェネツィア艦隊は分散しており、ガレーの何隻かはキオスに行ってしまっていた。錨を巻き上げる時間すらなく、錨を海底に残したまま、敵に突っ込んで行くこととなった。朝の10時から夕方まで凄まじい戦闘が続いた。最初のうちこそ風向きはわが方に味方したが、次第に逆風になり、戦況は必ずしも有利とはいえなくなった。
 大将の軍艦は、トルコの襲撃が迅速を極めたため、劇場をこしらえていたきれいな油具で描かれた布地を始末できずに、船尾の廊下に放り込んでいた。それに火がついて瞬く間に燃え上がってしまった。それが近くにいた軍艦に移った。それを見たトルコ艦は、燃えさかる2艦に急接近して乗組員を奴隷にすべく捕らえ、さらに2艦に砲撃を加えて完全に沈没させてしまった。
 そのとき致命傷を負った大将は僚艦に救助されたが、間もなく絶命した。同僚の砲術下士官に18ポンド弾が命中して、頭部と左側の肩や胸を影も形もなく吹き飛ばしてしまった。ヴェネツィア艦隊は36人の死者を出していた。トルコ軍に捕まらなかったのはせめてもの幸いであった。敵もスミルナに戻り、ヴェネツィア艦隊は船体の修理に取りかかったが、食糧不足に苦しめられることとなった。飢えに苦しみ、フランス人の乗組員は暴動を起こさんばかりになった。
 新任の大将をはじめ人びとの士気は高く、再度トルコ艦隊とあいまみえることとなった。そのとき、ヴィンターゲルストは上級砲術下士官に昇進ており、彼が乗り組んでいた艦が先頭を切った。トルコの旗艦は鉄製の大砲を84門搭載しており、マストのトップには白いフランス旗、船首と船尾にはトルコ旗を掲げていた。
 トルコの旗艦がわが艦に接近してきたけれど、一発も撃たずに通り過ぎていった。その直後、準提督の72門搭載の艦が射程距離にまで近づいてきて、マスケット銃の挨拶を送ってきたので、26門の砲で返答するとフォアマストが吹き飛んだ。敵の三番手の艦が援護してきた。われわれは砲弾を浪費したため、敵に反撃の余地を与えてしまい、大砲の一斉射撃を受けて、たちまち20人以上の死者とおよそ60人の負傷者を出してしまった。
 ヴィンターゲルストたちは、キオスに戻ることにしたが風を掴むことができず、錨を残置したところまで行くことができなかった。これを見たトルコ軍は、その錨泊地に入り込み、錨を奪ってしまう。何とかキオスに帰還して作戦会議が行われる。将官たちは、食糧は欠乏しているし乗組員の間には不穏な空気が漂っているので、これ以上キオスに留まることは危険だと見なした。
 2月23日までにキオスの要塞を爆破することになり、カトリック教徒やギリシア正教徒は乗船するよう伝えられた。爆破は、砲兵隊長が命令に背いて火薬を要塞から船に積み込んだため、起きなかった。彼はすぐに逮捕される。こうして、ヴェネツィア艦隊はキオス島に別れを告げ、再びもとの主人に返すことになった。彼らは、こっそりナウプリオンに戻り、今回の遠征を終了する。
▼敗戦将軍の苛酷な運命に立ち会う▼
 5月、ナウプリオンに滞在中、艦隊に大至急ヴェネツィアに帰還するよう命令が出された。また、ゼーノ将軍は解任され、新たに総司令官が任命された。ゼーノ将軍の解任理由は明示されていないが、敗戦の責任を取らされたようである。なお、彼は自分の館に用いるために、トルコのモスクから見事な鉄格子を36枚、その他の高価な物品を強奪していた。
 将官のなかには、ヴェネツィアに戻らず、ローマ領地のオトラントヘと遁走したものいたが、将軍は召喚された地に赴かざるをえなかった。ヴェネツィアの港外に到着すると、検察長官がゴンドラに乗り、捕吏が乗った2隻のバークを引き連れて現れた。直ちに、将軍にバークに乗り移るよう、命令が下された。将軍は、一定期間の検疫停留の後、終身刑に処すという厳しい判決を聞かされる。彼は、1人の若いトルコ人近習と聴罪司祭を呼び寄せた後、命を絶ったという。
 ヴィンターゲルストは、直接の上官よりもゼーノ将軍に懇意にしてもらっていた。将軍が「勇敢な騎士であったことは間違いなく、こんなことになってしまったのは怠慢の故ではなくて、心根の優しさ故にいろんな人の助言に耳を傾け過ぎたためであった」といい(p.93)、無念の最期を遂げた者の運命に同情を禁じえなかった。
 1695年7月になっていたが、遠征を終わりにするにはまだ早過ぎるとして、6週間の航海に出る。ヴィンターゲルストの乗船契約は3年間であった。それが終わったので、その後の身振り方は自分たちで協議して決めてよいといわれたが、サザン島に来てしまう。3週間ほど遊弋したが収穫はなく、メインマストが折れるほどの凄まじい嵐と格闘しただけで終わる。ヴェネツィアに、9月1日に到着し、42日間検疫を受けた後、乗艦はすでに3度の遠征を経験し、もはや航海不能となっていたため、解雇を快く受け入れる。
▼水先案内人を雇って憧れのオランダに入る▼
 ヴィンターゲルストは、幸運にも、初めてヴェネツィアから出航してフランスで囚われの身となった、その時の船長に再会する。彼から、部屋つきの砲術下士官として雇い、月給は20グルデン出すといわれる。オランダへ出航する準備が整う12月まで待って乗船する。
 1696年初頭、空樽を積み込み、乾し葡萄を買い入れるため、なじみのケファリニアとザキントスに向かう。乾し葡萄が足りなかったので、船長は何か異国風の物をオランダへ持って行こうと考え、ケファリニアで大きな玉葱を24000個購入する。次いで、オランダ人とみられるある商人が所有する3隻の船と合流するため、メッシナに針路を取る。そこに到着してみると、フランス船が2隻もいた。そのフランス船は当方を襲うつもりでいることがわかった。それを出し抜いて出帆、バルバリアに針路を取る。
 ヴィンターゲルストの船はオラン、さらにマラガへ行って、最後の荷である甘草を積み込んだ。しかし、ジブラルタル海峡を通過中、船内に湯気が立ちはじめた。玉葱が芽を出し、その匂いが甘草に移ってしまった。使い物にならなくなった甘草は仕方なく海に投棄され、玉葱は原価でハンブルクの商人に売られた。
 その3日後、オランダに直航すべく、カディスを出港する。船は、右手にスペインの陸地を見ながら進み、陸地から遠ざかってリスボンの緯度に達すると、イギリス最南端にあるシリー諸島へ向ける。シリーに着く前に、軍艦10隻を含む40隻の艦隊に遭遇する。それはヴァージニアへ行くイギリス艦隊であった。恐ろしい目に会わせてくれた代わりに、英仏海峡は安全であると教えてもらう。
 カディスから400マイル以上を航海して、ヴィンターゲルストが憧れていたオランダの地のテセル(フリージア諸島西端の島)に、無事到着する。ここから先は、浅瀬に乗り上げないために、水先案内人を雇わねばならなかった。
 「砂州が水中に隠れている所では、長いロープの両端に空の樽と錨とを、それぞれ結びつけた物を目印として設置する。危険な浅瀬の両側に樽が浮かんでいるため、船は安心して進むことができる。そして、船上では全面的に彼らに指揮権が委ねられる。彼らの稼ぎは相当なもので、船の吃水が深いほど払う金額も多くなる」(p.97)。
オランダのテセル(フリージア諸島の一つ)
 船は砂州を無事通過して、鰈(カレイ)がよく捕れるパンポス(位置不明)に着き、船を軽くするために積荷の一部を下ろす。船は無事到着したものの、商人は大して利益を上げることはできず、しばらくして破産してしまった。7月7日に、乗組員は全員パンポスから小舟でアムステルダムへ運ばれ、翌日給金を受け取る。
 「これで私はまた海から肘鉄砲を食らったのだった。ところが、今や私には、自分は海に出ていないと気分がよくないということがはっきりと分かった」(p.98)。アムステルダムでは、毎年1回、通常は秋に、東インドからの船団が帰って来る頃、それを迎えに出ることになっていた。東インド・クルーザーと呼ばれる食料補給船に乗り込むことになった。
 8月8日に、鰊漁船を60隻ほど引き連れて、2隻でアムステルダムを出て、ノルウェーに向かった。それは一種の護衛であったようである。フェロー諸島あるいはノルウェー近海を移動しながら、東インドからの船団を待機していた。その間、彼らも鱈や鰊を釣って楽しむ。3か月ほど待ったが、船団が来ないのでテセルに引き返したところ、1週間もしないうちに帰着する。
 彼らの後について入港し、東インド会社船の仕事は終わる。「しかし、本当にいい航海だった。とにかく愉快だったし、危険な目にはまったく遭わず、食事も飲物も最高だった。航海が終わり、お金をもらい、おまけに1人当たり1グルデンのボーナスまで出た。私は、これほど快適にインドへ行けるものなら、ぜひ一度行ってみたいものだと思った」という(p.99)。
軍艦に護衛されるニシンの船団
ピーテル・フォーヘラール画、1656-1730
アムステルダム国立美術館蔵
 ヴィンターゲルストが乗った食料補給船は、オランダ東インド会社が東インドから帰帆してくる会社船隊を見張るため、英仏海峡や北海、さらにスコットランド沖の大西洋に配置されていた、監視船隊の一部であろう。また、この監視船の制度は抜け荷など不正防止のための措置とみられる。スループという型式の船が用いられ、帰帆船を最初に見つけた船には報奨金が出された。監視船には会社代表が乗船しており、帰帆船から航海日誌と宝石袋を提出させ、乗組員から航海経過について事情聴取した。また、銃砲や弾薬のほか、香辛料や中国の磁器、日本の銅などといった積荷、乗組員の私交易品を検査したという。
▼オランダ海軍の砲術下士官となる▼
 1697年の初頭、ダンケルクまで出向いてフランス船に乗船しようとしたが、プファルツ継承戦争が続いていたので官憲に阻止される。アムステルダムに戻って春になり、オランダ海軍本部が募集をはじめだした。ヴィンターゲルストは採用され、出発まで1日当たり20クロイツァー(1グルデン=60クロイツァーほど)の食券が支給されることとなった。それを食堂に渡せば、出帆まで、毎日それなりの食事をとることができた。
 乗船者名簿が、海軍本部のあるプリンセン・ホフ(現ホテル・グランド・アムステルダム)に掲示されると、それに自分の店で食べた者が含まれていれば、食堂の主人たちはそれを申し出てお金を払ってもらうことができた。食券を受け取っていても、その人物が逐電してしまえば、主人は丸損になった。
 こうして4月まで、ぬくぬくと怠惰な日々を送っていたが、出帆の太鼓が叩かれた。ヴィンターゲルストにとって、船乗り生涯で最大級の船となった軍艦アムステルダム号に、砲術下士官として他の2人とともに配属されることとなる。軍艦14隻が、イギリス艦隊を増強するために出発、まずテセル島へ行って大砲を艤装した。
 「わが艦は72門を装備し、最大が18ポンドで最小が12ポンドだった。砲1門につき弾丸75発、弾丸2個を長さ1シューの鉄棒にくっつけた、クネッベルという砲弾〔棒つき弾〕を30発積み込む……かくしてわが艦には弾丸5400発、クネッベル2160発、火薬が240ツエントナー〔12トン〕積載された。それから、私たち乗組員が350名おり、各自が私物を詰めたトランクを1個ずつ携帯していた。しかし乗船の段になると、4人に1個のトランクしか許されず、残りは浜に放置された」。
 それ以外に食糧として、「豚肉、鳥肉、棒鱈、塩漬け肉、えんどう豆、大麦、チーズ、バター、ビール、水、それに乾パンが、人数と期間に応じて積み込まれた。通常は9か月分を用意し、兵卒の場合、朝食には大麦を煮た物、昼と夜には
アムステルダム港の沖合
コルネリス・デ・トロンプの
元旗艦ゴールデンライオン号がいる
ウィレム・ヴァン・フェルデ画、1686
アムステルダム国立美術館蔵
えんどう豆が出る。その他に4分の1ポンドの棒鱈が週に3回、1ポンドの肉か4分の3ポンドのベーコンが2回、さらに半ポンドのバター、半ポンドのチーズ、3ポンド半の乾パンが支給された。ビールはある間は飲めたが、後は水になる」(以上、p.102)。
 ヴィンターゲルストら砲術下士官は各自、火薬筒を12本、点火棒を12本、さらにその他必要な道具を、自前で用意しなければならなかった。
 テセルを出ると、ダンケルクへ行って2週間遊弋していたが、フランス船は港から出ようとはせず、また他国の船も来なかったので、獲物は何もなかった。彼が乗った艦では、大勢が火酒に溺れてしまい、32人もの死者を出た。ダンケルクからイギリスのポーツマスまで行き、味方と一緒になって、イギリス艦隊を待つことになった。
 それから2週間、艦隊のうちの4隻が交互にシリー諸島とウェサン島の間を巡航した。それを3回交替したとき、大砲250と数千個の爆弾を積載してブレストに向かう、フランス船が現れた。それをいともたやすく拿捕して、ワイト島の沖まで連行して来たところで、その捕獲船がかなり老朽化し、しかも満載していたため、砂州に乗り上げてしまう。大砲は大部分運び出されたが、他の物はすべて海の藻屑となってしまった。
 その後、間もなく艦隊は出航して南イギリスのトーベイに向かい、そこでイギリス艦隊と合流する。イギリス艦隊は、ヴィンターゲルストにとって驚嘆に値する艦隊だったようで、この艦隊があれば全世界を征服できると感じている。ルーク提督が座乗するブルターニュ号は色鮮やかな旗を掲げ、112門搭載していた。そして、立派な軍艦84隻、多数の火船、補給船、高速偵察船も集結していた。
 フランス艦隊がいよいよ出港したとの一報が入るや、待ちに待った命令が下され、プロヴァンスへ航行するフランス船を拿捕するため、ブレストへ直進した。ところが、高速偵察船からフランス人たちは見事なイギリス艦隊を見る気にはなれず、引き返したという連絡が入り、全艦隊は手ぶらでトーベイに戻ることとなった。
 その地で、ヴィンターゲルストの艦を含む4隻にカディスヘ行って、護衛を待ち望んでいる輸送船団を護送するよう命令が与えられる。カディスに着いて、輸送船団に3日以内に出帆準備を終えるように命じ、それに遅れた船は置き去りにすることにした。ところが、リスボンを出る3隻を引き受けることになり、出発が延期される。
▼カディスで、密輸銀貨の運び屋となる▼
 スペインから銀貨を船積する場合、その額の5パーセントがスペイン王の懐に入ることになっていた。それを密かに持ち出せば逮捕され、金はすべて没収されて永久にガレーに繋がれた。こんな危険をものともしない強欲な商人が大勢おり、5パーセントの手数料で、いくらでもオランダへ運ぶことを請け負っていた。
 そんな商人(従軍商人であろう、軍需品の調達や戦利品の売却を担当した)の1人が、ヴィンターゲルストの艦にも乗っていた。その商人は、彼を運び人として雇い、毎朝街に連れて行き、古い籠に銀貨の詰まった袋をいくつも入れ、その上に大根やレタス、腐ったキャベツを山のように積み上げた。こうして、ヴィンターゲルストは相当な金額を船に運び込み、かなりの賃金をもらったという。
 艦長も商いに励んでいた。彼はけちで誰も雇わず、自分で毎日何度も街へ出かけて行っては、上着やズボンに銀貨を詰め込んでいた。しかし、ついに市門の下で見張っていた捕吏たちに気づかれ逮捕され、銀貨は没収される。彼が艦長であったおかげで、それですまされたという。
 乗組員たちがたっぷり銀貨を仕込んだ後、セビリア地方のサンルカル・デ・バラメンダヘ行って3隻、次いでリスボンのべレムに行って5隻を引き受ける。それにより船団は47隻になって、英仏海峡に針路を取った。それに達しないうちに、プファルツ継承戦争を終結させる講和条約が、1697年9月オランダのライスワイクで批准されたことを知る。これによって海上の危険は完全に去った。
 敵と衝突することもなく、無事テセルに到着した。商船が先に入港する。護衛艦は常にしんがりを勤め、港外にいたが、錨が持って行かれたほどの嵐になった。それを逃れ、入港することとなった。船は、カメレと呼ばれる浮箱で陸岸まで運ばれ、まず大砲が下ろされ、最後に乗組員が下船した。
 「大型の船舶の場合、水深が浅い所ではこの浮箱でもって岸まで運ばれる。浮箱というのは船の形に合わせて作られた、大きな箱のような物である。場合によっては船体の両側につけられ、中にポンプで水が注入されて水面下に沈む[「水を注入して水面下に沈める」であろう]。それを船の下で鎖で繋ぐ。
 これは、例えてみると、体に浮袋を2つつけて泳ぎを習うようなものである。さて、浮箱が船体に固定されると、中の水がまたポンプで抜かれ、船体が何シューか持ち上げられる。これで船は岸のすぐ近くまで行くことができる。この方法が開発されたのはつい最近のことである」という(p.107)。カメレは1690年頃に開発されたことになっている。
 その後、ヴィンターゲルストは北オランダのメデムブリクで上陸、解雇されて、アムステルダムへ行って給料をもらうこととなった。10月末、陸路でホールン、エダム、モニケンダムを通って、バイクスロートまで行き、そこから対岸のアムステルダムへ船で渡っている。2週間後、規定通りの給金を受け取る。すでに冬が目前に迫っていた。運良く、宿の主人から留守番を頼まれ、快適に越冬する。
▼カディスで、従軍商人に変身する▼
 1698年、ヴィンターゲルストは商船に乗り込んだ。平和な時代となり、大砲、爆弾、弾丸の代わりに、チーズやバター、本が積まれた。その船は250マイルを航海した後、ビスケー湾のペサヘスに到着して食料品を下ろし、代わりに木材や鉄、樹脂をスペイン国王のためにカディスまで運んだ。カディスでは、大して仕事もないまま、6か月間も滞在した。
 スペイン国王カルロス2世(在位1661-1700)が病気になると、フランス国王ルイ14世(在位1643-1715)が王位をねらって、ウェールズ公[名誉革命でフランスに逃れ、ルイ14世によって育てられ、王位継承者と認められた、ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(1688-1766)のことか]が率いる26隻の軍艦を当地に派遣してくる。それに対抗して、イギリスはスペインを援助するため艦隊を編成して、カディスに入港してくる。その情報を知ると、フランス艦隊はそそくさとツーロンに帰ってしまう。そのたびに、停泊していた商船は停泊場所を、彼らに譲らねばならなかった。
 ヴィンターゲルストは、砲手としの仕事が何もなかったので、その機会を利用して従軍商人もどきに変身したという。彼は、ギリシア女からバークを1隻賃借りし、対岸の物資が豊富なプエルト・サンタ・マリアへ行っていろいろなものを買い込み、フランス艦隊に持って行くなど、相手かまわず商売に励んだという。
 9月になって、待望のワインを積み込むことができた。さらに、塩や大粒の葡萄、無花果、良質の油などを仕入れた。10月、他の2隻とともに湾を出たが、トルコ船が出没していることがわかり、再び港に戻り、他の艦船の出発まで待つことになった。11月1日になって、36隻で出航した。
 そのうちの3隻が、欲の皮の突っ張っていたため、沈没する。塩は、当地ではほとんどただ同然であったが、オランダでは高く売れた。そこで、金の亡者は航海中好天がずっと続くものと思い込んで、船に積めるだけ積んだので、過積載の状態になった。航海が、ほとんど進まないうちに嵐となり、たちまち船は冠水しはじめ、ポンプ2台では足りなくなった。そこで、過積載の船長が援助を求めてきたが、こちらの乗組員も決して多くはなかったために断った。
 「それから間もなく悲鳴が聞こえ、振り返ってみると、もう船体が真中で真っ2つに折れていた。そして上下が逆さまになり、船内にあったものはすべて海の藻屑と消えてしまった……どんなに警告されても、この危険な賭を止めようとはしない……すでに満杯の船にはち切れんばかりの塩袋を次々に放り込むため、60から80袋も超過することも稀ではない」という(p.113)。
 クリスマス・イヴに、北ホラントの海岸にあるエグモントの灯台が見え、神様のお蔭に感謝したが、それ同時に危険が降りかかる。ヴィンターゲルストの船は最後尾のグループにおり、その日のうちにテセル海には入れることができなかった。そこへ経験したことない恐ろしい嵐がきて、2週間も翻弄されることとなる。しかし、幸運なことに、船も乗組員も無事であった。
 ようやく天候が変わり、好ましい北東の風が吹いて、船はアメラント島の湾へと流される。そこから、テセルを探していたところ、1隻のガレオート(長短二本マストの沿岸用小型船)と出会う。それは遭難船の捜索に送り出された船で、水先案内人が乗っていた。彼は発見できれば100ライヒスターラーもらえたが、発見できなければ報酬なしという決まりであった。
 彼によれば、アムステルダムの商人たちは船はとっくに沈没したとみていおり、船主が船を売りに出したが、その価格[1トン当たりか]が通常100グルデンに対してわずか15グルデンという安さだったにもかかわらず、買い手はまったくつかなかったという。
▼船員を食い物にする人集め業者▼
 ヴィンターゲルストは、1699年の年頭から職探しをはじめる。アムステルダムの新桟橋に行くが、冬だったので出航する船は1隻もなかった。ロッテルダムに、西インド諸島へ行く船長がいるというので出掛けるが、すでに人集めを終えていた。3月、ゼーラントへ行ったが、仕事はなかった。
 頭なしの船員たちは人買いの手で乗船した。ヴィンターゲルストは400グルデンという所持金があり、それで食べていけたので人買いの手に落ちることはなかった。彼は、人買いたちの稼ぎ方について、次のように述べている。
 「船員が文無しになると、人買いのいる場所へ行く、すると人買いは兵士か水夫か、それとも士官として働きたいのか質問する。そして希望に応じて契約が取り交わされ、その結果人買いには相当の借金を負うことになる。通常兵卒の場合は150グルデン、水夫は200グルデン、そして士官では300グルデンになる。
 さて人買いは男を家に連れていき、しかるべき食事を与え、新しいパイプと1日当たり1オンスのタバコ、さらに火酒を1杯提供する。これが短い場合でも1か月は続く。10数名をまとめて面倒を見ることもよくあり、人買いも金持ちではないので、パンや肉や火酒やその他の食料品を掛けで買うのである。
 さて出航準備の時期になると、人買いは男たちを連れて港へ行き、どういう人間が必要なのか尋ねて回り、船長たちは必要な人員を集めることができるのである。採用が決まると、人買いはすでに交付を受けていた送り状を、船の名簿管理者に手渡す。
 もし、当の船員がアイスランドに着く前に逃げ出したり死んだりすれば、人買いはそれまで費やした分を取り戻すことはできず、もし検査に合格すれば、送り状が政府に返送される。すると当の人買いは金を受け取ることができるのである。支払いを済ませて残った分が人買いの収益になるのだが、彼らは儲けることもあれば損をすることもある。
 待つ期間が長過ぎて、どうしても金が入り用になると、彼らはアムステルダムへ行き、債権証書を資本のある人買いに譲渡することもよくある。ただその場合は100グルデンに対して50か60グルデンしか手にできないのである」(p.117)。
  なお、資金のある人買いはセールコーベルスと呼ばれた。彼らは契約書や名簿を買い集め たと注記されている。日本でも、第2次世界大戦以前、近世オランダと同じような、ボーレンと 呼ばれた船員口入れ業者が活躍していた。それについてはWebページ【船員口入れ業と船内高利貸制】を参照されたい。
(次につづく)
 

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