(2) オランダ東インド会社船でインド洋を航海する ▼東インド会社船で、苦難の航海に出る▼
東インド会社が人を募集しはじめたので、近いうちにいい機会に恵まれる望みが出てきた。5月1日までロッテルダムにいて、セイロンへ行くシオン号(1686年建造の老齢船、ジオンと訳されている)に採用される。バタヴィアヘ行くアイセルモンド号(1699年建造の新造船)と一緒に出発することになった。これらの船は東インド会社の所有船であった。この船には少なくとも160人が乗ったとみられる。 彼らはすぐに2か月分の給料をもらった。また、シオン号は半年分の食糧として、バター、油、肉、棒鱈、えんどう豆、大麦、乾パンを160人分(1人当たり135ポンド)、さらに余分に40ツエントナー(2トン)、水が4万マース、ビールが200樽、火酒が1600マース、そしてチーズが1人当たり4個相当分が、積まれた。 ヴィンターゲルストは、「ここで注意しておきたいとして、アムステルダムの船は水を大量には持って行かず、船内の装置で海水を蒸留し、浄化して調理用に使うということである。しかしそれには日夜火を焚かねばならないため、大量の薪が必要となる」と述べる。17世紀末という時期に、オランダ船で海水を蒸留するという、画期的なことが行われていた。しかし、大量の薪が必要としたため、早々に行われなくなったと注記されている。 シオン号は、大砲を36門しか搭載してなかったので、その分生きた家畜が多かったという。たくさんの鶏と家鴨、数頭の羊、ベーコン用に2頭の母豚と10匹の子豚、さらに雄豚が1頭いた。目的地に着くまでには子豚が10匹増え、また他の子豚も大きくなっていた。そして、1699年5月19日までフリッシンゲンに停泊して、そこで7つの所帯の貧しい家族を32人乗せ、出帆した。 シオン号は英仏海峡を通過する短い航路を取って、サン・ヴィセンテ岬を後にすると、カナリア諸島が見えてきた。この海域は、モロッコのバルバリアからトルコの私掠船が出てくるため、大変危険であった。軍船はともかく商船がこれらの島に寄ることは稀であった。オランダからカナリア諸島まで、通常は5週間から6週間かかった。 カナリア諸島通過後、今後の食糧の割り当てについて、糧食係主任を交えた協議がなされた。その結果、「食卓には必ず7人ずつ着くように指令が出された。そして、船内にスペースを作るために、まずビールに手をつけ、樽が空になるたびに海に投げ捨てることになったという。テーブルに1日1マースのビールが割り当てられた。ビールを、どろりとなるまで煮て冷ました、大麦にかけた。 さらに、火酒が各人に16分の1リットル、また週に3回ある肉の日には8分の1リットルのスペインワインが出ることになった。チーズはすでに最初に1人当たり4個ずつ配ってあった。バターは週に1人半ポンドになり、ビールがなくなると1日1マースの水になった。乾パンと棒鱈はこれまでと同じ量のままだった。そして、この配分の仕事に当たった者たちは、毎月きちんと帳簿を締めておく必要があった」(p.119-20)。 ▼アフリカの南端、喜望峰に錨を下ろす▼ 出帆後、順風に恵まれていたが、北回帰線を越えてから東と南東の風となったため、アメリカ大陸まで押し流されてしまい、北緯5度で、ガイアナ寄りのブラジルの海岸に漂着してしまった。いわゆる未開人たちが、砂糖黍やサツマイモ、カボチャ、そして大量のインディアン無花果(バナナのこと)など、いろんな物を船まで持ってきた。 その海岸に3、4日じっとしていたところ、やっといい風が吹きはじめ、船を西から東へと走らせた。数日後、2、3週間前には着いていたはずの、サン・パウロ島に到着する。ここで糧食を補給するつもりでいたが、何もえられず、死者を2人この島に埋葬するにとどまった。そして、赤道の真上に来たところ風がばたりと止んでしまい、6週間ものあいだ、まったく先に進めなくなった。 深刻な食糧不足が起きる。1樽残っていた水も悪臭がして捨ててしまい、後は雨水に頼るだけとなった。食糧も通常の半分になった。海豚や飛魚が飢えを癒した。乗客の貧しい家族は貧窮と飢餓にすっかり打ちのめされていた。そのうち十分に食べられなくなり、人びとは次々と病に倒れていった。そこで現イギリス領セントヘレナ島の一部であるアセンション島を目指したが徒労に終わった。 船内には不満が鬱積し、非難の言葉が湧き上がるのが当然であったが、不平不満を口にすることは厳禁されていた。それにもかかわらず2人のものが口を開いた。彼らは、慣習にしたがって、手足をマストに括りつけられて、背中を打擲(ちょうちゃく)された。船にいる者は1人残らず、ロープで作った鞭で、彼らを打った。2人は重傷を負い、数日後には死んでしまった。それで船長にとっては数100ライヒスターラーを失ったことになった。 何とか南回帰線を通過し、その後しばらくしてアフリカ大陸の海岸に到達し、1699年10月に喜望峰から12マイル離れたグッセン島(ロッベン島と取り違えているとされる)に着く。ヴィンターゲルストは、それまでに60人が死んだとしているが、公文書では、シオン号21人、アイセルモンド号7人と記載されているという。 それはともかく、「私たちは1人残らず病気に冒されて危険な状態だったし、その上まったく成す術を知らなかった。神のお導きでこの島に辿り着き、大量の野菜を見つけ……煮て食べてみると、壊血病によく効く素晴らしい薬だということが分かった」という(p.124)。 再び帆を上げ、大陸に沿って9マイル進むと、喜望峰からわずかに3マイルのロッベン島に着いた。その島で、囚人たちを監視する警護隊を率いる、軍曹に出会う。岬には、多数の兵が常駐しており、2、3年から20、30年もの島送りとなった犯罪者がいた。彼らは、毎日、建築用の消石灰の原料にする、巻き貝を決まった量になるまで、拾い集めさせられていた。 ヴィンターゲルストたちは「間もなくかの地に、というよりは夢にまで見た大陸に到着した」。船が喜望峰に錨を下ろすと、病人はすぐに東インド会社の1000人も収容できるという、病院へと運ばれていった。健康な者は、当地の慣習により、3日続けて焼き立てのパンと肉を振る舞われた。そして、乗組員の半数ずつが交代で上陸した(半舷上陸)。喜望峰の10月末は春まっさりで、辛かった航海のこともすぐに忘れてしまったという。 ヴィンターゲルストにとってアフリカ、さらに目的地のアジアは未知の地であったることから、あらゆることが珍しく、あれこれと熱を込めて回想するが、それは紹介しない。 なお、喜望峰のケープタウンは、オランダが1652年から建設しはじめた交易中継基地であった。 ▼この世の楽園セイロンで、4年半過ごす▼
1700年1月末、小バクソスに着いた。その頃、まったく雨が降らず、深刻な水不足に陥った。誰も彼もが水を集めることにかまけていて、暗礁のことを念頭においていなかったので、暗礁に乗りあげかかった。激しい雨のために見えるわけもなかった。天候は回復したが、すきっ腹を抱えたまま、海岸沿いに帆走して大バクソスを経て、ついにゴール(現ガル)の港に到着する。 ゴールに居住しているのはオランダ人ばかりで、大きくはないが守りの堅い良港であるため、商人にとっては首都コロンボよりもずっと都合がいい港であった。到着した日は日曜日で、教会に来ていた人たちが、空腹で死にそうな乗組員に食べ物を持ってきてくれた。 翌日の早朝、カルタラに向かった。そこに着くと、スループ(2本マストの帆船)がやって来て、乗組員の半数に及ぶ病人をすべて連れて行った。残った者で船を進め、その日のうちに、陸路ではゴールから12マイルしか離れていない、コロンボに到着する。 港外錨地に停泊していると、いわゆるカンパニー・マスターが現れて、彼に船が引き渡された。これで、船長はその権限を失い、これまでの航海について詳細に報告しなければならなかった。カンパニー・マスターは、船長の報告の正確さを吟味するため、通常3人の航海士と1人の地理学者を連れてきていた。カンパニー・マスターについては、船舶に関する業務を司る経験豊富な者で、特に退役した人物が就任すると注記されている。駐在退職船長あるいは海務監督といったところか。 いわば入港検査が終了すると、船は港内に引き入れられ、兵士たちは陸に上がり、積荷が下ろされた。これで、今回の航海は終わる。 現在スリランカのセイロンは、1505年ポルトガル人が侵出して以来、130年余にわたって支配されてきた。1602年にはオランダ人が侵出する。1638年からポルトガルとの戦いをはじめ、1658年にはそれを駆逐して島の大半(といっても海岸線)がオランダ領となる。セイロンはバタヴィアとともに、オランダ人のアジアにおける2大交易拠点であった。 ヴィンターゲルストは、それ以後、この世の楽園セイロンのコロンボで4年半過ごすことになる。その身分について述べていないが、オランダ人がインド大陸で使用する火薬を製造したり、そのための伐採に17人を部下を引き連れたり、また門柱の大石を運ぶためキリスト教徒に改宗した通訳や5人の黒人(現地人であろう)を連れて行ったことなどから、彼は商館付きの砲兵として転属していたのではないかとみられる。 彼の上司はスウェーデン人、また相棒も同じであったという。彼は、相棒と相互に遺産相続人となる。現実に、その相手が死亡したので、遺産を受け取ることになるはずであった。 ▼セイロン特産品の肉桂の収穫とその管理▼ ヴィンターゲルストは、オランダ人の支配とセイロンの王との関係やセイロンの動植物などについて、詳しく回想している。それらの紹介は省略するが、セイロンが特産品である肉桂の収穫とその管理について、次のような回想となっている。 肉桂の木は白い砂地に生えており、根元から脇枝がたくさん出ていた。その集まりは森ではなく、こんもりした茂みとなっていた。 肉桂の木々が樹液を含む季節になると、「樹皮を剥ぐ作業が始まる。その時にはすでに総督のもとに、会社から収穫量に関する指令が届いている。総督はそれを肉桂長に伝え、肉桂長はわが国の森林監督官か樹木監視人に相当する地区長とともに、全地区を巡回して、収穫する場所を決定する。つまり毎年同じ場所で収穫してはならず、樹皮の再生を計るために必ず2年間は木を休ませねばならないのである。 次に、樹皮を剥ぐシャリアスという者たちが、リーダーとともに城館に来るよう命令を受ける。彼らは、樹皮を剥ぐ権利を独占しているため、特殊な階級組織を形成しており、将校や下士官のいる小規模な軍隊さながらに旗を立てて行進してくる。そして、100人の男たちが最高の産物を贈り物として総督に献上し、続いて賃金について契約が交わされる。 だが、賃金はあらかじめ決まっている。即ち、指で弾き飛ばせるほど、からからに乾燥させた肉桂80ポンドにつき、ドイツ貨に換算して1グルデン12クロイツァーである。したがって契約は、賃金の半分か4分の3を現金で、残りを塩か木綿で受け取る……引き続き、村ごとに納入額が割り当てられる。 そして、納入と船積が完了すると(通常は5隻がオランダへ直行し、11隻か12隻がバタヴィア経由になる)、積み残った分がすベて市場に売りに出される日が決定される。価格は1ポンドにつき1ライヒスターラーと決まっていて、値切ることはまったく期待できず、残りは全部焼却される。要するに会社は、肉桂のセイロンからの輸出を独占したいのである」(p.152-3)。 肉桂の木のわずかな盗みでも、オランダは厳刑を科しており、刑は厳しく執行された。ある日、肉桂を積んだイギリス船が2隻に入っているという知らせが入った。それは大事件で、イギリス船に肉桂を提供した犯人を突き止めねばならなかった。 「国王が契約に反して行ったのか、総督が秘かにやったのか、まったく別の人間の仕業なのか? 国王は肉桂の木がある村落を2か所に所有しているが、そこには常にオランダの監視人がいる。総督は直ちに地区総督と肉桂長を招集したものの、真相は分からずじまいだった。 続いて、使者が原因究明のために、国王のもとに送られた。その間、城塞の住民に対しては、戦争になって国王が物資の供給を止めた場合に備えて、速やかに6か月分の食糧を備蓄するよう勧告が出された。しかしながら、国王は思っていたよりもはるかに友好的だった。彼はすぐに大掛かりな捜査を開始し、犯人とおぼしき人物を数名捕らえて、使者とともにコロンボに送っ[てき]た。 そして、厳しい取り調べの結果、彼らは犯行を自供した。彼らが樹皮を剥いだのは手つかずの野生の木なので、構わないと思ったのだという。これが国王に伝えられると、彼はオランダ側に処罰を任せると答えた。しかし、オランダ人たちはこれを断り、犯人たちを国王のもとへ送り返した。そこで、国王は即座に彼らを槍で刺し殺させ、使者を送って総督に知らせた。総督は返礼として、国王に高価なプレゼントを献上し、かくして肉桂戦争は回避された」という(p.158)。 ▼セイロンから帰還したものの、足を骨折▼ ヴィンターゲルストは、セイロンにおける任期が終了して免職となり、ヨーロッパへ帰る4隻のうちの1隻に乗る。帰る前に、セイロン島の対岸にある南インドのトゥティコリンから、ゴールへ木綿を運ぶ仕事があった。ゴールに着いてから大急ぎで荷を積み替え、いよいよオランダへ向けて出航した。「積荷は硝石、染料用木材、東インド産サフラン、白砂糖、肉桂、胡椒、それと若干の木綿であった。できるだけきっちりと積み込み、さらに残った隙間に胡椒の袋を大量に詰め込んだ」(p.16)。 ときは1703年12月28日であった。1週間後に無事に赤道を南に越えた。往路よりも帰路の方が順調で、今回も2か月のうちに1600マイルも進み、1704年の3月に喜望峰に到着した。そこで打ち合わせ通り、バタヴィアからくる船団と合流する。バタヴィアからの13隻を加え、船団は17隻となった。5週間停泊して、必要な物資をすべて調達した後、出帆する。 風の機嫌がよく、赤道では、往路は6週間も無駄にしたが、復路はたった2日間の停滞にとどまった。赤道通過後、往路とはまったく別のコースを取った。サン・パウロ島が見えたとき、それを左に見てヴェルデ岬沖(ヴェルデはイタリア語で「緑」をいう)を通って、海中にコケモモに似た小さな植物が群生する「草の海」を帆走する。 海の草原を越えるのに、1日約15マイルの航行で10日かかった。カナリア諸島が濃い霧のなか見えてきた。すでに6月になっていた。それを後にしたとき先が見え嬉しかったという。その後、船はイギリスとスコットランドの背後を回って、グリーンランドの方向に進むこととなった。それは、スペイン継承戦争(1701-14)の最中で、英仏海峡が危険になっていたからであった。 乗組員の多くが、インドで流行していた水症(浮腫に同じ)にかかっていた。この病気は寒さが大敵で、航海が長引けば死ぬおそれがあった。7月末、ノルウェー海岸が見え、トロンヘイムとほぼ同じ北緯65度に達した。その辺りで、先に述べた補給船と落ち合うようになっていたが、それが果たせなかった。
▼帰郷の当てがはずれて、再びインドへ▼ 船がテセルに着いて錨を下ろそうとした際に、水を吸って物凄く固くなったアンカーロープが跳ね返って、ヴィンターゲルストの脛に当たり、骨が砕けてしまった。船医、といっても理髪師に診てもらったところ、完全に折れたわけではないといい、それでも一応副木を当ててくれた。陸に上がって、外科医にみせるが、それがニセ医者であった。別の開業医にみせると骨折しているという。長い治療となり、財布の中身も薄くなり、帰郷の心が失せる。 足の骨折が全快する。希望が叶って、再び東インドへ行くことになる。1705年の9月に、乗組員160人、20門搭載のブロイス号に乗船した。10月2日、僚船ととともに、2隻の軍艦に護衛されて、ブリッシンゲンを出航した。前の船と同じように北海回りとなり、ノルウェーとシェトランド諸島のあいだにある、フェアー島に着いた。そこで護衛艦は慣例通り引き返していった。 護衛艦と別れる前に、鱈漁に遭遇する。「鱈船には10人から12人の漁師が乗り、それぞれが仕掛けを3つ4つ用意する。船底があるのは前部と後部だけで、中央部は水中に潜れるほどの大きな生け簀になっており、釣れた魚はそこに放り込まれ、生きたまま目的地まで運ばれる。鉤には、鰊ほどもない小魚をつけて投げ込むと、もう鱈がかかってくる。入れ食い状態で、手を休める暇もない。これが一日中続いた」。 「船を走らせながら釣る、とても面白い漁法もある。溶かした錫を流し込んで、鰊ほどの魚をこしらえ、その中に糸を通して鉤を結びつける。こいつを海中に投げ込むと、莫迦な鱈は獲物だと勘違いして釣られてしまう。私たちもこのやり方で釣って、何樽も塩漬けにした。この魚は味も良く、特に子牛の頭ほどもある頭は美味であり、またこの時期だと生で食べることができる。夏の暑い盛りなら、岩の上に薪のように並べて干物にする」(p.166)。 こうして楽しい数日を過ごした後、嬉しいことにほぼ2週間ものあいだ、暴風が後ろから船を押してくれたため、帆を張らないまま北回帰線まで突っ走ってしまったという。 ヴィンターゲルストたちは順調な航海を続けたが、パンの割当てが減らされはじめたのだ。それは積まれるべき量が積み込れていなかったことによる。「上級将校たちは、インドでは火酒が高く売れることを知っていたのだ。私自身も火酒を数ターラー(オランダの銀貨か)分買い込んでおり、半分を途中で飲んだが、残りを売って金を全額取り戻している。 そういうわけで、船長はパン用の3つの室に火酒の瓶を詰め込ませ、それも床の上に2段に積み重ねた。それで、パンの貯蔵は数週間後にはかなり減ってしまい、その結果私たちは私利私欲を償う断食をさせられることになった」のである(p.168)。パンの代用にはならないが、鮪、海豚、そして鮫が沢山いて、いくらでも釣ることができ、気分を紛らわせてくれた。 赤道通過後、アセンション島を目指したが、向かい風のためにうまくいかず、ダックス島に針路を採った。南回帰線を通過する前に、東に転舵したところ、まだ発見されて間もないジュートランド島(不明で、トリンダテ島とみられている)に出てしまった。そこで、大急ぎで船を走らせて南回帰線を越え、一路アフリカの陸岸を目指した。 まず、ダックス島から7マイル離れた、アフリカ大陸のサルダーニャ湾、翌日ダックス島に到着した。この島で、十分な食糧の補給を行ったが、水の補給ができなかった。そのためケープタウンに寄港することになり、3日間滞在して再び帆を上げた。 ▼セイロン島とインド大陸との往復航海▼ 喜望峰に到着したのは5月、秋もたけなわでワインの仕込みは終わっていた。投錨後、船長はパンの不足が外部に漏れることをおそれ、お大尽ぶって、乗組員にすぐに焼き立てのパンと羊肉を振る舞ったり、将校全員を豪勢にもてなした。これで船長に借りができ、審問を受けた際、食糧不足はなかったと宣誓しまう。パン不足の申告しなかったために、充分な補給を受けられず、再び飢餓に苦しむ羽目に陥ることになる。 喜望峰に4週間滞在して出港した。僚船はオランダが採用した航路を取って一路バタヴィアへ向かったが、ヴィンターゲルストの船は前回と同じようにマダガスカルとモルディヴを経由して、セイロンに向かった。風向きが北東になって流され、南回帰線を越えはしたものの、本来の針路からはそれる。3週間ほど帆走し、南緯10度まで来たところ、地図にも載っていない島が現れる。
南インドのマラバール海岸にあるコーチンへ、石灰を運ぶよう命じられる。コーチンは、1663年にはオランダ人が征服し、インド大陸との交易の中心地となっていた。ヴィンターゲルストの船はモール人を奴隷として100人買っている。このコーチンで次の年を迎えたようである。 ▼コーチンからゴアへ、ローカル交易に向かう▼ ヴィンターゲルストは、コーチン事情として、現地の人種構成や象皮病の患者、キリスト教会の状況、間接支配の仕組み、胡椒の栽培などについて回想しているが省略する。 ヴィンターゲルストの船は、3人の商人(ローカルな交易を扱う商人とみられる)の提案にしたがって、物品販売船に早変わりして、一儲けをたくらんだという。それは、東インド会社がアジア海域における買い付け資金を稼ぐための、ローカル交易であったとみられる。それに乗組員が便乗して商いをしていた。 それを実行にするため、コーチンで「各種の鉄製品を200箱、大量の白砂糖と600袋の黒砂糖、日本の銅の延べ棒が600本、マラッカの錫製品が数100個、多量の水銀、さらにココナッツ、クローブにメースなどの香辛料、椰子油、42000個もの大粒のピスタチオ等」を積み込んだという(p.179)。 ブロイス号はが金儲け用に作られていた。船は、コーチンから海岸沿いに走って、カルダモン(ショウガ科の多年草、芳香のある香辛料)が大量に生育しているカンナノールへと進んだ。オランダは原住民と、オランダ人以外にはカルダモンを売却しないという契約を結んでいた。商人たちは大儲けを企んで買い惜しみする。そこへ、2隻のイギリス船が来たので、原住民はすべて売ってしまう。 カンナノールから、マラバールの国王が居住しているバルサロールへ直航する。そして、コーチンから200マイル、セイロンからおよそ600マイル離れた、カナラ海岸に到着してゴアに入る。ゴアは、ポルトガル人が支配する町であったが、港には航行不能の船が何隻かぱっとしない様子で浮かんでいたなど、すでに寂れていたという。500グルデンを払って、商人が停泊と交易の許可をえて帰ってくる。 ヴィンターゲルストの船には、天から降り注いできたかのようにモール人で溢れかえり、ほとんど占拠されたような状態になった。そこで船長は営業を停止する。それは儲けを大きくしようという作戦であった。持ち込んだ鉄製品、白砂糖、香辛料をおおかた売り切る。香辛料は周辺にも生えていたが大いに欲しがり、ヨーロッパと同じ値段で売れた。ヴィンターゲルストの室も千客万来となり、一番早く店仕舞いをしたという。600本の銅の延べ棒も売りたかったが、そうかいなかった。 ゴアで、出発の直前になった、ダギスバウム号というオランダ船が、70ラストの荷を積んで入港してきた。新しい水を補給すると、1日早くペルシアに向けて出ていった。その後、海賊に襲われ、徹底的に略奪された。そこでヴィンターゲルストの船はポルトガルの駐留軍を乗船させて出航した。 カルヴァルにいるイギリス人商人が銅を買ってくれるとのことであった。カルヴァルに入港した翌朝、40艘ほどの1本マストの小舟がひしめいていた。ヴィンターゲルストの船よりはいくらか小型の船が来ると、小舟たちはその船に殺到して、周りを取り囲んで海岸まで連行し、錨を下ろさせた。その船を略奪し尽くす。その後再び錨を上げさせ、乗組員を乗せたまま船を、はるか彼方まで運んでいき、座礁させてしまった。 イギリス人商人の使いが来て、小舟はムガール帝国皇帝の弟のサンバージの配下の海賊であり、総勢3200人以上もいる。そして、先日略奪された船がイギリス船であったことがわかった。そうした状況から商いをするのは困難と伝えてきた。船長は元気な乗組員が160人(実際は航海に疲れた60人)いるから大丈夫と応えたが返答はなかった。なお、ムガール帝国皇帝は第6代のアウタンダゼーブ(1618-1707)であり、またサンバージは皇帝の弟ではなく、ムガール帝国と抗争を続けたマラータ王国の王子を指すのではないか。 海賊がまた現れたが手出ししてこなかった。彼らと、イギリス船乗組員の釈放について交渉して、ゴアの南方およそ100キロメートルにあるアンコラで引き渡すと約束させる。4隻の海賊船とともに、目的地へ赴き、捕虜たちを引き受ける。 アンコラに20年間も外国船がまったく来なかったためか、王様はヴィンターゲルストたちが交易することを歓迎、その許可がえられる。王様は一番に600袋の黒砂糖を買い取った。かくして荷揚げがはじまった。遠路はるばる持ち運んできた銅の延べ棒を、乳香、少量の白檀、油などとともに売り払い、木の実だけが最後まで残ったがそれも数人の製油業者に買い取られた。交易の利益は薄かったが、商品が全部捌けたことを喜んだという。 その他、アンコラでにおける盗みに対する厳罰が、ヴィンターゲルストたちの前で執行されたことや、ヒンドゥー教、踊り子や娼婦、王様の生活などにふれているが、省略する。 ▼バタヴィアのオウムをスラトで売る▼ このローカル交易に同行した3人の商人のうちの2人が病気で死ぬ。残ったのは、そうした航海を25年も続けてきた、年老いた商人であった。 アンコラからバーケロールに向かい、現地に着いてみると、オランダ人商人の家が海賊に襲撃されていた。オランダ人商人は召使たちと、何とか海賊どもを撃退していた。海賊はすでに船を2隻を略奪し、商人を襲っていたのに、ヴィンターゲルストの船に何ら危害を加えなかったのは不可解であった。バーケロールからバカノールに着き、砂を下ろして米を積み込み、すぐにカンナノールに向かった。 その時、カンナノールは再びオランダ領になっており、美しく強固な要塞都市であった。そこで、インド・サフランとカルダモンを現地の商人が買い集めたものをすべて購入する。まだ売れ残っていた水銀や錫、銅が少しあったので、カリカットに舵を取る。それらをすべて売ることができたが、カリカットはフランスやポルトガル、イギリスの勢力が強いところで、オランダ人は顔が利かなかった。 カリカットを5日後に出航して、再びコーチンに着き、引き取った捕虜たちを下船させ、胡椒を積み込んだ。そしてバタヴィアへ向かうことになる。それに当たり100人以上もの奴隷が買い集められる。また、ゴールに立ち寄って胡椒を、オランダに帰る4隻の船に転載する。空になった船倉に砂を積み込んで、バタヴィアを目指す。
スマトラ近海で、よく発生する嵐に巻き込まれた後は順調に走って、バタヴィアに到着する。直ちに荷揚げを終え、船内には砂だけを残して、胡椒と優良な家畜を積み込むため、12マイル先のバンタムへ向かう。その後、バタヴィアに戻る。
ヴィンターゲルストは、そこに着けば上陸できると思っていたが、モールから奪った船に砲術下士官として乗船して、北インドのグジャラート地方のスラトに回航する命令を受ける。モールの船は、2年前にオランダが支配するスラトにおいて、関税を大幅に引き上げようとして一悶着が起きた際、拿捕した船9隻のうちの1隻であった。 その船はライヒエ・ゼー(豊かな海)号といい、ベンガルから荷を満載して来てところで拿捕され、バタヴィアに2年間繋留されていた。当初、積荷は黄金18トンに相当すると見積もられていたが、1400個あった綿玉はもう600個しか残ってなかったし、600本の象牙は300本、1200袋の砂糖は600袋しかなかった。また、その船はイギリス製の立派な大砲を22門装備していた。 ヴィンターゲルストたちは、たいした稼ぎにはならないことを承知しながら、モール船4隻とオランダ船6隻とともに、スラトへ向けて出航した。その途中、水の補給と、中国のタタールから送られてきた唐辛子を積み込むために、再びコーチンに寄港する。スラトに無事到着する。スラトでは、オランダ東インド会社の支社長(商館長か)が36人の部下とともに紛争の煽りを食って、大きな邸宅に監禁されていた。 支社長が4人の船主と連絡を取ると、そのうち3人は船が戻ることを歓迎するが、ヴィンターゲルストが乗る船の所有者は同意しない。その彼はスラトでも有数の金持ちで、大きな船を40隻も所有していた。そればかりか、大王のカンパニー・マスターの職に就いており、また造船所も彼の管理下にあった。彼は積荷が金数トン分も軽くなっていることに気がつき争いとなる。 ヴィンターゲルストたちのスラト滞在中に、10万人ともいう兵団を率いる例の大王の弟サンバージが現れ、例年通り、ヨーロッパの金貨で9トン(あるいは90万オランダ・グルデン相当)に相当する60万ルピーを出さなければ、街を焼き払うと脅迫してきた。善良なスラトの住民たちは震え上がる。それにオランダ船団も便乗して砲撃すると脅かす。それによって、彼らは関税を払うこともなく、自由に交易したようである。 ヴィンターゲルストもこたえられない取引をした。バタヴィアで買ったオウムや九官鳥で生き残った1羽を元値の数十倍もの26ルピーで売り、また綿布80本も買っている。スラトに寄港するヨーロッパの船は、そのすべてが木綿を積み込んだ。 ▼提督、2人の情婦のあいだで息絶える▼ スラトでは、イスラーム教徒が支配者となっており、大金をはたいて建てた尖塔が多くみられた。また、彼らは火葬を行っていた。オランダとの紛争がなくなったとして、イスラーム教徒たちは、海路、モハメッドの墓のあるメッカへの巡礼を行くようになっていた。その船は大砲を44門装備した大型船で、スラトの司令官の息子が船長となり、巡礼者をぎゅうぎゅうに詰め、60万ルピーという信じられない額の喜捨を積んでいたという。 ヴィンターゲルストたちはその出帆を見送っている。しかし、60マイルも進んだところで海賊船が出現し、最初は味方であるかのごとく赤旗を掲げていたが、イギリスの旗に替えて攻撃を開始し、最後はポルトガルの旗を翻らせて接近してきた。彼らは一切合財奪い取り、何一つ痕跡や手掛かりを残さなかった。その一部始終を目撃した、2隻のオランダ船がスラトに知らせるが、すでに遅しであった。 5か月も滞在することとなったスラトを出航する間際になって、ヴィンターゲルストは小型快速艇に乗って、ペルシアにいる2人のオランダ人を迎えに行くこととなった。それを成し遂げると、シュピーゲル号という旗艦に乗船することとなる。それに乗っている旧知の老スウェーデン人砲術下士官に望まれたからであった。 1708年4月23日についにスラトを出航する。しばらく航海していると、奴隷が部屋から飛び出してきて、「ああ、ご主人様が亡くなられた!」と叫ぶので、急いで部屋のなかに入ると、提督が2人の情婦のあいだで息絶えて横たわっていた。スラト滞在中、提督は支社長の料理女に手を出したため、魔術にかかって命を縮めたということになった。バーケロールの近くまで来たところ、例の悪名高い海賊と遭遇するが、彼らはたった14隻でわれわれの敵ではなかった。 コーチンに到着すると、いよいよ赤道に近づいたことを悟った。スラトでは北極星や大熊座がよく見えたのが、バーケロールの緯度に達すると、まったく姿を消してしまっていたからであった。コーチンでは水を補給し、奴隷を乗船させた。全速力でバタヴィアを目指し、ほどなく無事に到着した。そしてスラトで買い入れた少量の木綿を売り終えた。 そこで、今度はドナウ号という名の、すでに荷役を完了した船に、転船を命じられる。それは火酒と砂糖と、バタヴィアに置いておきたくなかったカトリックの僧と信者の5家族を、コロマンデル海岸に運ぶ仕事だった。バラストとして石を積み込む。その途中セイロンのトゥリンコマリーに寄り、さらに陸を左手に見ながら、ジャフナの北にあって、素晴らしい真珠が採れるポイント・ペドロに着く。 ポイント・ペドロで補給を受けて走ると、セイロン島から対岸のコロマンデル海岸にかけて2マイル以上も続く、いわゆるアダムス・ブリッジという長大な砂州が見えてくる。それは船舶の航行にとっては大変な障碍になっていた。船は無事コロマンデル海岸のナガバッティナムに到着する。 このナガバッティナムは、バタヴィアは別として、オランダが東インドで運営する6つの植民地のうちの1つであった。その他はセイロン、マラッカ、アンボン、テルナテ、マカッサルであった。ナガバッティナムには、塁壁をめぐらせた実に見事な要塞があり、大砲を三段重ねで装備していた。その兵員は500人を数えた。世界で最も色合いの美しく極めて良質で滑らかな綿布を取引して栄えていた。 オランダは、約16年前、ファン・レーデという偉い大臣を、東インドへ派遣したことがある。この大臣も「顕職は人を変える」というラテン語の格言通りになった。あちこちで権力を濫用して、帰国を命ぜられた時、自らの栄誉に相応しい船を要求する。差し向けられた船を見て、彼は不満を露にしてもう1年インドに留まろうとにしたが、スラトへの途上、一服盛られてしまい、異国の地に埋葬されたという。 ▼中国人、古いオランダ船から鉄を取り出す▼ ガバッティナムに7週間滞在してから、いよいよ帰途につく時が来た。積荷は木綿だけで、船は一路バタヴィアを目指した。一緒にオランダへ帰る4隻が待っていた。積荷の一部を下ろし、傷だらけの古い大砲を60門を積み込む。出発という段になって、中国からお茶を運んでくる船を待つために、何隻かが残ることになった。ヴィンターゲルストの船は留まることになり、他の13隻はケープへ向けて出航した。 バタヴィア停泊中、船が国有財産であるため、たとえ船長であろうと提督であろうと、誰一人として一晩でも船外で寝てはならないという厳命を受けていた。将校たちは毎晩部下の在船名簿を提出しなければならなかった。3回続けて不在となると、直ちに捜索命令が出された。また、数年前まで、火事の予防として、旗艦以外は大砲を撃ってはならないという命令が出されていた。 当時、バタヴィアではオランダと大ジャワの皇帝との激しい対立がようやく終結をみていた[マタラム王国との対立をいうと見られる]。その戦いは6年の長きにおよび、オランダは巨額の費用を使って運んできたおよそ7000の兵を失ったという。その原因は功名心という名の化け物だった。ここでヴィンターゲルストは交易港バタヴィアについて若干詳しく述べる。 バタヴィアは東インドで最も重要な交易拠点であった。そこには要塞があり、100隻もの船舶が停泊できる立派な港と、それ別に中国船専用のもっと小さな港があった。港の海底はねばっこい粘土質であった。錨が食い込んで船体を保持したので、1本の錨で船を固定できた。市街は堂々とした外塁を持ち、建物はイタリア風にこぎれいに造られていた。 バタヴィアは交易の中心地であり、モルツカからは丁子やナツメグにメースが入り、オランダ支配下のバンダやアンボン、テルナテから魚、鳥、鶏をはじめ必要な物資が送られてきた。ヨーロッパの人間にはまったく信じられない、塩漬けの卵が運ばれてきた。セイロンからは肉桂、コーチンからは胡椒、中国からはお茶と唐辛子が入った。 1年中30隻から40隻もの船が停泊し、大勢の外国人が居住し、大規模な軍隊も駐屯していた。住民はオランダ人、モール人、それに中国人であった。モール人はイスラーム教徒のジャワ人のことである。オランダ商人は個人での商行為は禁じられており、東インド会社の名前でのみ活動できた。肉桂、丁子、砂糖など商品ごとに商館があったので、誰がどこに所属しているかははっきりしていた。 中国人の商人はとても裕福で、毎月税金を納めれば自由に商売ができた。中国の商人は現地では入手できない鉄の商いに精を出していた。古鉄はヨーロッパから運ばれてきたが、それ以外では古い船から取り出していた。長期間使用してお役御免となった船は、船体を空にして、1500か1600、場合によっては2000ライヒスターラーで、中国人に売却された。彼らは船の上部を解体し、船底に鉄製のネットを張り巡らし、火をつける。鉄がネットのなかに落ち、それを集めて売るという仕組みであった。毎年10-12隻がこうして燃やされていた。 ▼さらば東インド、船長の病死に歓声を上げる▼ ヴィンターゲルストの船は、バタヴィアを出航することとなったが、塩漬け肉がなかった。現地の肉は塩漬けにすると溶けてしまったし、オランダからの補給船はフランスに拿捕されてしまっていた。そこで肉の代わりに残っていたベーコンを積み込んで出発した。1709年1月末であった。 バンタムを経由して、プリンス島で新しい水を補給し、3月末に喜望峰に着く。船長の具合が悪くなって病院へ運びばれる。ヴィンターゲルストたちは彼が死ねばよいと願っていた。船長はまだ生きていたので乗船させて出帆するが、しばらくして船長が死んでしまう。乗組員は大喜びで海に葬ったという。 ヴィンターゲルストは、一般の乗組員と船長や上官を、次のように対比する。「東インドへ行く船長に関して言うと、私の見るところ、生きてあるいは元気に戻ってくる者は、稀である。私が一緒に航海した船長は3人いたが、いずれも二度とヨーロッパを見ることはなかった。 一方、平の乗組員はその多くが帰ってきたし、また彼の地に残った者も元気にやっている。どうしてかと言うと、まず船長たちはあまりにも陰謀をめぐらすということ、さらに……彼らはあまりにも無慈悲なのである。 一般に船には善良な者は多くはないのだけれど、何でも度を過ごして欲望に際限のないお偉方に較べれば、下級船員たちは本当に天使のようなものである。だから船長たちが破滅しても何の不思議もないし、神がこのような人間に精算を要求し、彼らにとっては幸いなことにその罪の道を短縮なさることは、言わずもがなというものである」と述べている(p.250-1)。 南東の風に乗って、船は瞬く間に赤道に達し、東インドに別れを告げる。彼らが受けていた指令は、北緯65度で東に転舵して、アイスランドとフヴィートランドのあいだを抜けてトリヒターといわれる海峡に入ることであった。風向きは常に東で、陸も島も見えなかった。1か月もあちこちをさまよった。アイスランドに向かおうとしたが、これも風に阻止された。そこにあるのは暴風と氷と雨、それに多数の鯨だった。僚船も見失っていた。 ある夜、突然西風が吹きはじめ、夜が明けて見たのは、天に届かんばかりに切り立った断崖だった。フェロー諸島のただ中に入り込んでいたのである。投錨することもできなければ、引き返すこともできなかった。故郷を目前にして、海の藻屑と消えるのかと暗澹たる気持ちになった。操船は慎重を極めた。航海士が、マストの上で向こうが見えると叫んだので、みんなは喜び、再び元気になったという。 11月の末日、エグモント沖に着いた。水先案内人がやって来て、船長が望んだワルヘレン島ではなく、安全を優先して、近くのへレフェッルイスへ船を廻した。入港後、直ちに小型快速艇が船の到着を知らせるべく、ワルヘレンへ走る。3日後、東インド会社のお偉方が現れ、ヴィンターゲルストたちとの契約を解除し、船内で帳簿を調べた。さらに、給金と長持を受け取るため、ミッデルブルフへ行く小舟を2艘用意してくれた。 船は、日雇いとか波止場人足と呼ばれる者たちによって、1週間以内にミッデルブルフに運ばれたが、長持を受け取るのにまた1週間待たされた。その期日が来て、貨物計量所のような建物へ行って各自の持物を引き取り、それから数日後に給金をもらったという。 ▼22年ぶりに故郷に向かう、彷徨いのはじまり▼ ヴィンターゲルストは、船長の代行を務めていた航海長が正式に船長になり、再び砲術下士官として24グルデンの月給で雇うと約束してくれたので、再びドナウ号で東インドへ行くつもりでいた。ところが、同宿のチロルの小鳥商たちもと知り合いになり、突然この機会に故郷に帰ってみようという気になってしまった。彼ら小鳥商は22人で、それぞれ約1000グルデン分の小鳥を持っていた。 クリスマスから2週間後、アムステルダムからユトレヒトへ行くことになり、海上人生は終えることになった。彼は「靴に鋲を打ってもらった。だがそいつを履いて歩くと妙な具合で、船に乗って大波に揺られている方がよっぽどましだった」(p.226)。ユトレヒトからはナイメーヘンヘ、さらにクレーヴェへと歩いた。ラインベルクへ行って、ライン川を船で渡り、ケルンへ向かった。 そして、ライン川沿いに、まずコブレンツへ行き、それからリンブルク、ケーニヒシュタイン、シュヴァールバッハを通って、フランクフルトに着いた。そこで、それまでずっと通用していたオランダのお金を両替した。さらに、ダルムシュタットヘ行き、ベルクシュトラーセ(グルムシュタットとハイデルベルク間の街道)を登って、ベンスハイムに着く。ここで小鳥商と別れ、ハイデルベルク、ハイルブロン、シュトゥツトガルト、エスリンゲン、ゲッピンゲン、ウルムと歩く。 そして、1710年2月8日、再び故郷の町メミンゲンに着いた。旅立ってから22年経っていた。「メミンゲンの市内を通ったが、誰も私だとは気づかなかった」。「心はシュヴァーベンにはなく、また再びセイロンに向かっていた。それ故、私はもう一度最初の出発点から始めてみようと思った。そして覚悟も新たにまた歩き出した」(p.228)。 ヴェネツィアに渡って、数日間仕事を探したけれど、昔の知り合いはみんな死んでしまっていた。仕方なくシュヴァーベンに帰ることにした。彼が帰国して2年後に回想録が出版されるが、彼がいつ死んだかは定かでない。 ▼ヴィンターゲルストの海上人生の履歴▼ ヴィンターゲルストの海上人生の履歴を整理すると以下の通りである。回想録は編集されているため、かなりの船の名前や乗下船日などが省略されている。それはさておき、若干分析してみる。 |
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まず、1689年10月から1709年12月までの242か月にわたる海上人生の構成をみると、海上勤務164か月68パーセント、陸上勤務45か月19パーセント、そして下船期間33か月13パーセントとなっている。なお、下船期間は、休養あるいは療養、そして失業あるいは求職などの期間をいう。それは1年のうち平均2か月となっている。陸上勤務は後述する。 彼の海上人生は、1690年代、私掠船や軍艦などで地中海や北海を航海していた前半と、1700年代、オランダ東インド会社船でインド洋を航海していた後半とでは、就業形態がかなり大きく異なる。 前半の1689-98年までの9年間に13隻の船に乗船している。その1隻当たりの乗船期間は7か月である。ただ、ヴェネツィア軍艦に乗船してキオス島攻撃に参加した期間が40か月と長く、彼の同じ船の乗船期間として最長となっている。それを除くと乗船期間は4か月と短くなる。前半においては短期間で乗船と下船を繰り返している。それに対応して、乗船地や下船地、また乗船経由や下船理由の多様となっている。 後半の1699年5月から1709年12月までの10年間に、7隻の船に乗船するとともに、45か月という陸上勤務を行っている。乗船した船はすべてオランダ東インド会社の社船であり、またその陸上勤務は同社のコロンボ商館であった。この後半は、オランダ東インド会社に、結果としてではあるが、長期に継続雇用されていたのである。それにともない乗下船地や乗下船理由は単純である。ただ、彼は骨折の治療のため、1年余のあいだ、下船を余儀なくされている。 近世、多数のヨーロッパ諸国が海上交易に次々と参入するようになり、大きく広がった交易圏において交易覇権を争うようになった。そのなかで、いろいろな国籍の船が交錯して航海し、いろいろな国籍の船員が1つの船に入り交じった乗り組むことになった。 そうした状況をヴィンターゲルストの海上人生の前半はよく示しているといえる。17世紀、オランダは世界の交易覇権を握る。彼が、長い海上人生において、その一翼を担った東インド会社船の乗組員になったことは、一つの成り行きではあった。 ヴィンターゲルストが船員を生涯職業として、20余年という長い海上人生を続け、また多種多様な船種と航路に従事していたことは、一つの脅威といえる。そのことは、逆に彼が近世ヨーロッパ船員の典型ではなかったということになる。それにもかかわらず、近世ヨーロッパ船員らしく波瀾万丈―特に前半―の人生であったことは明らかで、しかも類い希な、かなり恵まれた履歴を形づくっていたといえる。 ヴィンターゲルストの回想録は、あれこれと無い物ねだりすることはできるが、空前絶後の船員の回想録である。彼が海の見えない南ドイツを出身地としており、しかもその地で回想録が出版されるなどといったことは、想像を超える。 ヴィンターゲルストについて、訳者の宮内俊至氏は次のように述べている。「17世紀、ドイツ・バロック時代の唯一にして最大の小説と言われる『ジンプリツィシムスの冒険』(『阿呆物語』として邦訳がある)が世に出ている」。「小説の主人公ジンプリツィシムスも軍隊や強盗団に入ったり、パリに出て華やかな女性遍歴を重ねたりし、さらにロシア、朝鮮、日本、マカオと流転の旅を続けた末、最後は南海の無人島に漂着して豊かな自然の中で余生を送る。この波潤万丈の冒険物語が、少年ヴインターゲルストに多大な影響を与えたであろうことは想像に難くない」という。ただ、朝鮮、日本、マカオの記事は、ほんの一、二行に過ぎない。 また、「著者の途方もない記憶力には驚くほかない。そしてこの類い稀な記憶力と優れた観察力に裏打ちされた数々の報告は、実に魅力的で、読む者を飽きさせることはない。だが、読み進むにつれて鮮やかに浮かび上がってくるのは、生まれながらの幸運、強靭な肉体、優れた知力と勇気、正義感と責任感、ユーモアと思いやり、これらすべてを兼ね備えた著者その人の輪郭である」(以上、p.263-4)。 そして、「300年の時を越えて、このような人物に出会えたことは訳者にとって大きな歓びであった」とされるが、こうした「貴重な時代の証言」を発見し、翻訳された宮内俊至氏に大いなる敬意を表するとともに、訳書をリライトしたことについてご寛容を賜るよう、お願いする次第である。 なお、ヴィンターゲルストより少し前の時期に、イギリス東インド会社などの船員として働いた、イギリス人エドワード・バーローの日記がある。その一部は拙著e-Book『帆船の社会史−イギリス船員の証言−』(高文堂出版社、1983)で紹介しているが、抄訳は皆川三郎著『海へ行く人びと―大航海時代の英国―』(竹村出版、1986)にも掲載されている。 |