▼フィレンツェに生まれ、世界を遍歴する▼
フランチェスコ・カルレッティ[Francesco Carletti、1573-1636]は、1573/4年フィレンツェに生まれ、世界を遍歴した商人であり、 『世界周遊記』なるものを世に残している。 彼は、1594年から1602年までの8年間でもって、西回りで、世界を一周する。スペインから出 発して、アフリカのカポ・ヴェルデ、南アメリカのカルタへーナ、パナマ、リマ、メキシコを経由して、アジアのフィリピンに行き、フィリピンから長崎、マカオ、マラッカ、ゴアをめぐる。ゴアからリスボンに向かうが、その帰国船が大西洋上のセント・ヘレナ島で、オランダ船に拿捕され、無一 文(!?)となる。 その後、1605年メディチ家のトスカーナ大公フェルディナンド1世(在位1587-1609)の要請を受 けて、フィレンツェに帰る。そのフェルディナンド1世に自らの旅行の体験を物語ることとなる。その内容が1609年以降に刊行される。帰郷後、彼はメディチ家の家令となり、1636年享年63 歳で死亡している。 カルレッティ家はアレッツオ出身であるが、13世紀すでにフィレンツェの記録にあらわれ、15世紀半ばには貴族[?]に列せられている。1570年には、7大アルテ(同業者組合)の一つであるポル・サンタ・マリア(絹織物・金銀細工商組合)の正会員に登録されている。 カルレッティの『世界周遊記』(トリノ版、1958)の大要を紹介し、それに解説と考察を加えたものが、榎 一雄著『商人カルレッティ』(大東出版社、1984)である。そのため、この書物は当然のことながら、榎 一雄氏の観点から紹介されている。また、カルレッティの文言と榎 一雄氏の考察とが、判然とは仕分けされていない。 榎 一雄氏の書物が刊行されて3年後、エンゲルベルト・ヨリッセン著、谷進・志田裕朗訳『カ ルレッティ氏の東洋見聞録―あるイタリア商人が見た秀吉時代の世界と日本―』(PHP研究所、1987)が刊行される。ヨリッセン氏の書物は『世界周遊記』の日本に関する部分を中心に紹 介している。また、榎 一雄氏以上に換骨奪胎しており、誤りも見受けられるが、それなりに参考となる。ヨリッセン氏やその訳者は榎 一雄氏の書物についてふれるところがない。
それらを参考にしながら、われわれの交易と航海の観点から、カルレッティの『世界周遊記』 のあらすじをまとめてみる。なお、カルレッティが世界遍歴した時代や国々については、Webペ ージ【3・1・1 スペイン、その破壊と略奪の交易】や【3・2・2 ポルトガル「大航海時代」と東アジア交易】、【3・2・3 スペインのマニラと中国・日本との交易】、【補論:大航海時代の東南アジア船員】などを参照されたい。
カルレッティの世界一周は、次のように整理される。後述のように、彼の航海はきわめ て順調で、約8年間のうち航海など移動はわずか1か年半にとどまり、それ以外は交易地など での滞在となっている。これは異例の記録といえる。
▼奴隷をサン・ティアゴ島で買い、カタルヘナで売る▼
カルレッティは、1591年18歳の時、父親の仲間のフィレンツェ商人に商人見習として雇われ、セビーリャで1593年まで修業する。1593年、父親がセビーリャに来て、一緒にカポ・ヴェルデ諸島に行って奴隷交易に従事することとなる。それに当たり、「400サルマ(16世紀、船の積載量の単位をいう)の小船を借りた」。1サルマは4分の1トンとされるので、その船は約100トンとなる。 セビーリャはスペインの都市、カポ・ヴェルデ諸島はポルトガル領であったので、フィレンツェの商人が奴隷交易するには一定の仕掛けが必要であった。まず、彼らはスペイン人の妻であるピサ人の名義を利用し、カルレッティはその婦人の従業員とされた。しかし、父親はそれも無理なので密航となった。 そして、奴隷の売買には許可状が必要であった。その許可状は自由許可状と4分の1許可状とがあった。前者は許可状の数だけ連行奴隷を自由に売ることができた。それは1枚25スクード(スクードは金貨)支払えば取得できた。後者は連行奴隷の4分の1をスペイン王に差し出すというものであった。彼らは自由許可状を80枚持っていたという。 1594年1月8日、グアダルキヴィール河口のサンルカル・デ・バラメダを出帆して、19日間で、カポ・ヴェルデ諸島のサン・ティアゴ島に着く。奴隷の買い取りを公示すると、ポルトガル人の奴隷商人たちが次々と奴隷を連れ来た。 カルレッティたちは男50人、女25人の奴隷を、1人当たり100スクード買っている。それ以外に、自由許可状25スクード、ポルトガルに払う輸出税16スクード、カタルヘナまでの運賃21スクード、その他食費や雑費を必要とした。したがって奴隷購入費用は1人当たり170スクード以上となった。 1594年4月19日、もう1隻の奴隷船とともにサン・ティアゴ島を出帆して大西洋を横断、3000マイルをわずか30日間でもって、現コロンビアのカタルヘナに着いている。その間、奴隷75人のうち7人が死亡している。彼らがカタルヘナで奴隷をいくらで売り捌いたかは不明である。 榎 一雄氏によれば、奴隷交易でえた「若干の利益で」、別のスペイン船が持ってきた商品を買い込み、ノンブレ・デ・ディオスから灼熱のパナマ地峡を横断して、ペルーに運ぶことになったとする。これでは、奴隷買い付け資金の多くは借入金で、それを返済したことになってしまうが、後段を見るように、そうでもないようである。他方、ヨリッセン氏によれば、カルレッティの父子は40パーセントもの欠損になったとする。これも信じがたい。それは40パーセントほど儲け損なったということであろう。 彼らは暑さにさいなまれながら、1594年の9月パナマに着き、11月まで滞在する。 ▼ペルーでの商いで、銀の延べ棒を手にする▼
大箱の重さは200カンターラ(1カンターラ=約50ポンド)となったというが、それがいくつ積載されたかは明らかでない。それにもかかわらず、航海を困難なものにしたという。その船は、途中、といってもメキシコにかなり近くなって、ガウラ(ハウラ)(特定できない)に寄港して、その海岸でとれる1塊が100-200ポンドもある岩塩を大量に積み込む。また、カカオ豆の産地であるサン・サルバドル近郊のアカフトラとみられる港に立ち寄っており、カルレッティたちはいく袋かのカカオを買い込んでいる。 カルレッティによれば、アカプルコの港の美しさ、安全さに驚嘆するものの、そこでの生活は不愉快であったという。アカプルコには、スペインからは繊維製品が、ペルーからは銀が、フィリピンからは中国製品が運び込まれていた。メキシコの副王として成績が良ければ、またペルーに転出するなどすれば、財をなしたと書いているという。 彼らは240マイル内陸のメキシコ・シティに向かう。彼らが訪れた頃、現在ソカロと呼ばれる、ドゥオモ(カテドラル、1573年起工)のある広場が整えられ、副王宮殿(現国立宮殿)やイエズス会のコレッジョが建設中であり、また副王宮殿にはアステカの王ティソック(在位1481-86)の石という大きな円形の石碑(現在、国立人類学博物館にある。太陽の石あるはアステカの暦とは別のもの)があったという。 彼は、メキシコの産物について書いているが、普通コチニールと呼ばれる「サボテンの一種の葉につく小さな甲殻虫[普通は貝殻虫という]から採取される染料ケルミシについて、スペイン人は土人から買い、税関のような公館に集め、スペイン王の印で封をした箱につめ、金や銀を輸送する船に載せてスペインに運ぶ。その量は毎年16オンス1ポンドで25ポンド〔の箱〕5000-6000で、60万スクードであった」としている(榎p.42-3)。 ▼メキシコから、乗組員に化けて、フィリピンに向かう▼ カルレッティたちは、メキシコに1595年の6月から翌1596年の3月まで9か月も過ごした後、当初の予定を変更して、フィリピン諸島に向かう。それは、毎年フィリピンからアカプルコに帰ってくる2、3隻の船が巨利をもたらしていると知ったからであった。しかし、彼らがフィリピンの出向くには、いくつかの大きな難関があった。それらをかいくぐるのに、多額の費用がかかったと見られるが、それは紹介されていない。 フィリッピンに行くにはメキシコの副王の許可が必要であった。その許可はフィリピンに永住するか、渡航する船の船員であるかであった。永住する場合は、運賃はスペイン王持ちであった。彼らはそれらに当てはまらなかったので、ガレオン船の船長と交渉して父親は砲術長、カルレッティは甲板長として雇われることとなった。しかし、実務は別の船員がとった。 榎 一雄氏がいうように、彼らの俸給が船長の懐に入ったとすれば、船長は2人分の俸給を横領したことになる。なお、ヨリッセン氏によれば、カルレッティの役職は保安士官と称されている。 さらに、アカプルコからマニラに持ち出す現金の額にも制限があった。フィリピンに住んでいる人か、そこに定住しょうとする人かに限り、年額50万スクードとなっていた。その額は、住んでいる人にはメキシコに送った商品の代金として、また住もうとする人には生活や事業に必要な資金としてであった。しかし、カルレッティたちはそのどちらでもなかった。 それにもかかわらず、彼らは海軍士官という資格でもって、国王から許可状が与えられている。彼らは下士官になったり、士官になったり忙しいが、ガレオン船の乗組員には私的交易権を認められ、それぞれの地位に応じた持ち出し額が定められていたと見られる。 そのおかげで、親子はそれぞれ50万スクードを携帯し、しかも残りの金は船長に依頼してフィリピンまで運んで貰うことになったという。船長は、こうした依頼を多くの人々から受けて送金に当っていたとされ、その額は1人100万スクードが常であった。船長は、100スクードについて2スクードの手数料を徴収したという。船長は相当な実入りとなった。 1596年3月25日、カルレッティらが乗る船は旗艦とともに出帆、6000マイルを一路、東から西に向かって吹く風に乗って、すこぶる平穏かつ順調に航海して、3か月でフィリピン諸島に到着する。なお、往路(ガレオンはマニラが母港であった)は北部太平洋を大きく迂回せざるをえないので、6か月を要した。彼らの船は、76日目にフィリピン諸島から950マイル離れた、マリアナ諸島に行き会っている。島の人々が小舟に乗って、食べ物を鉄の小片と交換しようと、船に群がってきた。その小舟はダブル・アウトリガーであった。 そこで1つの椿事が起きる。船には、フランシスコ会カプチン派で跣足僧と呼ばれる修道士が25人乗っていた。その1人が、とっさに島に残って福音を伝えようと決意、団長僧の許可をえて島民のボートに乗り移ってしまった。その修道士の扱いをめぐって大騒ぎとなる。翌年、その修道士と島に取り残された2人は、大量の鉄と交換された。 ▼貨物スペースの割り当てがなく、メキシコに戻れず▼
カルレッティたちは、日本を経由して中国に赴き、そこでポルトガル船に乗ってリスボンに行こうと決心する。そこで、持ち荷のすべてを銀の棒や銀貨に替え、暮夜、密かに日本船に乗り込んで、まず長崎に向かった。 彼らが、マニラでどのようなに商いをし、またどれくらいの銀の棒や銀貨を手にしたか、そしてどういう手だてで日本船に乗り込んだか、そしてその日本船がどういった船なのかは、まったく紹介されていないし、考察もされていない。誠に残念である。ただ、彼らが乗り込んだ日本船を、マニラではソンメ(あるいはソンマ)と呼んでいること、その船がヨーロッパ船とは異なることを詳述している(それは後述する)。 なお、ヨリッセン氏によれば、カルレッティは日本を訪れることになった次第について、次のように記しているという。「ポルトガル人もスペイン人も何ら指図できない自由の国である日本諸島に先ず行くために、ある晩、密かに日本船に乗り込むことになった」。それに続けて、「その際私たちは、ついでそこ(日本)からは難なく自分たちが望むところへも行くことができるだろうと考えた」ともいっている(ヨリッセンp.54)。 カルレッティが「日本から難なく行けるところ」は、さしあたってはポルトガルが領有あるいは縄張りとする東インドの地である。すでに西インドを一応周遊してきた彼らにとって、東インドに足跡を残すことは商人としての世界一周という快挙となる。それは、マルコ・ポーロとは違って、主に海路でもって世界一周したことになる。彼らには、「スペイン人やポルトガル人によって開拓された新しい時代に、自分が属しているのだという誇りと喜びとがあった」のである。 「スペインならびにポルトガル両王国が航海術を競い合い、開発したために世界を一周することが可能となり、世界の情況も判明するに至った。スペイン人とポルトガル人が共に世界一周の輪を作ったのである。それゆえに両国をいかに高く評価してもし過ぎることはない……4年以内で全世界を一周できるという、すばらしい体験をもち得ることはたいしたことなのだ」と称賛する(以上、ヨリッセンp.58-9)。 ▼カルレッティが乗った日本船の帆と舵、航海術▼ カルレッティ父子は、1597(慶長2)年5月マニラを出帆してわずか30日で、その6月に長崎の沖合に着いている。 長崎に着くと、日本のボートが乗客や荷物を運ぶため、蝟集してきた。それを日本人はフネと呼んでいた。それはヨーロッパのボートとはまったく違い、「顔を海に向け、そのボートの一端に立ち、互い背中合せになり、オールは常に水中にあり」と(榎p.63)、伝馬船と櫓、そしてその漕ぎ方を説明している。 日本人は、16世紀末、大船をソンメ、小船をフネと呼んでいた。榎 一雄氏は東洋研究者という立場から、ソンメなる用語はマレー語から出ていると解説する。ヨリッセン氏はソマとしている。 カルレッティが乗った日本船が、ヨーロッパ船との対比で、特に著しい相違は帆にあったという。その訳文は次の通りである。 「それは、木と他の葡萄蔓様のものをマットのように織合せ、割いた竹の棒で補強し、帆を下げようとする場合には、扇をすぼめるように捲くのである……帆を拡げようとする場合には、同様に舳先を風に突っ込み、帆を反対の方向から勢いよくパっと開かせる……前檣の帆はヨーロッパの船で用いているものより遙かにに小さいけれども、そ〔の操作〕は同様である……主檣には横静索がないので、船の大きな動揺を支えきれない」。 かじについて、「柁は少し海が荒れても壊れやすく、そこから浸水する危険がある。そこで柁を波から保護し破壊を防ぐために、2本の大きくて太い梁をオールのように索具の一方の側から他方の側にさし渡し、天候の良い時にはそれを水中深く沈めて、波をくだかせる。これらの梁は同時に船を支えて激しい動揺を防ぐ」。 さらに、外板の塗装や充填材について、「ヨーロッパの船がタールをマストや船体に張る厚板の外側や隙間に塗ったり、詰めたりするのに対し、日本船では石灰と油と麻くずを練り合わせたセイウキと称する塗料兼充填剤[槙皮、まいはだ]を用い、碇は木製であるが、それにつけるロープとしてジウーと呼ぶ、堅牢無比な葛を撚り合せて用いている」。 また、航海術については、「日本人は地図も使わなければ、アストロラーベも用いないで、風についての科学的知識を有し、磁石とコムパスとを使って航海する……但し、磁石とコムパスとの使い方はヨーロッパ人の方法とは違う……陶器製のコムパス箱に塩水で満たす……そこに蝿の羽くらいの薄い鉄片を入れるが、その一端は鋭くとがり、他端は短く切られている。水表に浮かんだこの鉄片の一端が、磁石に触れるとぐるぐる回って、神の摂理で北方を指す」。 こうした状況にもかかわらず、「彼等はヨーロッパ人がやっているのと同様に航海しているのである。カルレッティの感嘆しているところを[、榎 一雄氏が]一言で言えば、ヨーロッパ人が天体を相手に船を進めているのに対し、日本人は風と海底とに相談しながら航海している」とされる(榎p.67-8)。 ここで、カルレッティが述べている当時の日本船についての説明はおおむね妥当であり、それに対する解説は余分となるので省略する。 ▼長崎26人殉教の刑場を見学、朝鮮人を買う▼
カルレッティたちが長崎に着く、少し前の1597年2月29日(慶長2年1月13日)いわゆる慶長の役がはじまっており、1598年9月18日(慶長3年8月18日)に秀吉が死亡したことで終わる。日本軍は多数の朝鮮人を拉致していた。 カルレッティは、多分長崎においてみられるが、5人の朝鮮人をわずか12スクードでもって購入している。彼らを洗礼させ、インドのゴアで4人を自由人として解放し、1人をフィレンツェまで連れ帰った。その朝鮮人はアントニオといい、『世界周遊記』執筆時、ローマにいるとしている。 彼は、ゴアからリスボンに向かう船にはアントニオのほかに、日本人1人とモザンビークの黒人1人を、載せている。彼ら2人の素性、召使いとなった経由、ゴア出帆後の生死については書かれていない。なお、リスボンに向かう船の船長に、主従4人の運賃として、ゴアの貨幣で1000セラフィニ、イタリアの7ジュリオ半を支払ったとしている。 カルレッティは秀吉を暴君であったが、諸国を統治し諸国に安定をもたらす、「賢明な専制君主」として評価していた。ただ朝鮮侵略は「いわれない戦い」であると厳しく批判する。その他、彼はイエズス会の宣教師などの報告を参考にしながら、日本事情についてかなり詳しく記述している。それをヨリッセン氏が整理した項目は文末に掲げた【注】の通りである。 ▼マカオ当局に逮捕され、また父親が客死する▼ カルレッティは日本に9か月ほど滞在して、1598年3月3日長崎を出発し、普通20-25日間くらいかかるところを12日間で、3月15日マカオに着いている。 彼は、「その年はマカオ在住のポルトガル人の船が来なかったので、日本風に造られた船に乗ることを余儀なくされた。しかし、その船の船長はポルトガル国籍の人で、日本人を母として長崎に生まれた者であった」という(榎p.88)。その船には、イエズス会の僧職者とポルトガルの商人、その他一般人の客(それは何か)が乗っていた。 マカオへの途上、船上で、ポルトガルの商人と日本人乗組員とのあいだで、乱闘が起きかかる。それは、あるポルトガルの商人が日本人乗組員の1人を侮辱し、喧嘩になったことにはじまる。ポルトガル人と日本人とが、それぞれ60人ほど手に武器を持ち船尾と船首に集まって、一触即発となった。それにイエズス会の僧職者がわってはいり、キリスト教徒の日本人を説得したことで事なきをえたという。 カルレッティは、純正なポルトガル人の船長や乗組員で構成された、純正なポルトガル型の船に乗りたかった。そうはいかず大変な事態に遭遇したこととなる。榎 一雄氏は、ポルトガル人がマカオやゴアにおいてアジア人の女性を選好していることについて熱心に説明するが、混血の船長と日本人乗組員が乗る日本風の船がどういった素性のものかについては関心がない。 カルレッティたちはマカオに着くと、イエズス会士らとともに夜半密かに上陸して、そのコレッジョ(サン・パウロ学院教会、現在聖ポール天主堂跡として知られる)に行き、所持金を安全に保管してもらう。それはマカオ当局に没収されないようにするためであった。なお、イエズス会士は交易して伝道費用を稼ぎ出しており、その資金の一部に潜り込ませたと見られる。 カルレッティたちについて、彼らはマカオに密入国したスペイン人で、何100万スクードの金を持参しており、それで商売をしてフィリピン経由で日本に帰ろうしているという、噂が広まった。 マカオ当局はカルレッティたちを逮捕する。これに対して、カルレッティは「自分達の楽しみと好奇心とよるもので、国王の命令を無視したり、それに違反したりするような、如何なる動機にもよるものでない。自分たちはイタリア国民で、日本と同様な独立国から来、スペイン・ポルトガル何れの属民でもないこと、世界を旅行することは、あらゆる国民に許されたことである筈だと答えた」という(榎p.100)。 その3日後に釈放されるが、2000スクードの罰金をとられ、また便船あり次第インドに行って、ゴアで副王の許に出頭し、その裁きを受けるという処置となった。 それよりも、カルレッティにとっての大事件は、父アントニオの死であった。彼は4か月にわたって「石の病」を患っており、1598年7月20日享年57歳で死去する。カルレッティが寂寥を感じていた時、フィレンツェ人で著名な弁護士の兄弟であるオラティオ・ネレッティが、ゴアから毎年出る日本行きの船に乗り、マカオに来ていることを知る。彼らは、日本に行って貿易し、一儲けしようと企む。 カルレッティとネレッティは意気投合し、それぞれ近接したところに居を構え、17か月間暮らすことになる。日本に向かったポルトガル船が、帰路、遭難沈没したため、1598年は日本向けの船が出ないことになった。日本行きを予定していた商人たちは、マカオで1年間待機となった。カルレッティは日本行きの熱意も冷め、イタリアに帰ろうと準備をはじめた。その準備はインドとヨーロッパとで売る中国産品を買い入れることであった。 なお、彼ら2人はマカオで分かれることとなるが、1604年ゴアで再会して、同じ船に乗って帰国することとなる。その船はすでにみたようにオランダ船に拿捕されるが、ネレッティの消息は不明である。なお、カルレッティはマカオで、イエズス会士でイタリア人である、日本巡察使アンレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539-1606)や中国伝道師ラザロ・カタネオに会っている。 ▼商人代表が、広東に出向いて、取り引き▼ マカオのポルトガル商人は、日本に絹織物・絹糸を代表とする中国産品を持ち込み、日本から銀を入手し、その銀でもって中国やゴア経由でもたらされたインドやヨーロッパの産品を買い付け、中国や日本に売り捌き、そして中国や日本の産品をインド・ヨーロッパに運んで、巨利を博していた。 中国との取り引きは、マカオのポルトガル商人が広東の町に出向いて行われた。日本向けの商品は4、5月に、東インド向け商品は9、10月に立つ、定期市で買い付けられた。それは、日本向けや東インド向けの船の出帆の時期に合わせたものであった。 ここで、榎 一雄氏は東洋研究者として、広東における定期市や取扱われる商品、ポルトガル人や中国人の振る舞いについて蘊蓄(うんちく)ある解説を大いに試みており、参考となるが、次のカルレッティの記述でさしあたって十分のようである。 「広東で開かれる市の時期[9、10月]が来ると、私は私の資金を代表達に託した。代表達はマカオの市民の中から4人ないし5人の商人が選ばれ、そして任命されるのである。彼等は、そこに行って他の全部の人々のために買物をするのであるが、値段は〔先方の言い値を〕些かも変更してはならないことになっている。 代表達は支那人の船で[乗って出掛けるが]、普通25万か35万スクード〔の金額〕をレアル貨か日本及びインドから持って来られた銀の小棒として携帯して、[商品の]代金に当てる……ポルトガル人達はずっとその船から下りずにいるが、或る日上陸して広東の町に入ることを許され、談合をし、商品を見て、値を決める…… 商品の種類は主に生絹であり、それを私は私の勘定で一担(picco)90タエルで買った。即ち、金貨で90スクード、銀の重さの1リブロ(=ポンド)20オンス〔の割合で〕100リブロに当る……別の種類の絹の捻った縫糸と、もう1つの別の、針で細工をするために使う柔らかで打ってある、全部白い絹糸を一担150タエルで買った」という(榎p.97-8)。なお、一担は中国や東南アジアで用いられる、1人で担げる重量のことで、それはピクルともいい、約60キロキログラムである。 それ以外に、カルレッティのおもねりと見られるがトスカーナ大公フェルディナンドのために(以下にも見られる)、メディチ家の紋章を刺繍させたビロード製天蓋がついた寝台や、贅沢な陶磁器類650-700点を20-22タエルで購入したという。それは主に染め付けであったが、それ以外に大きな花瓶もあった。 ヨリッセン氏は、その多くがオランダに持ち帰られ、売られたが、寝台や花瓶はフランスの王室にもたらされたというが、カルレッティの積荷リストがないので確認できない。 マカオのポルトガル商人の代表たちが乗って出掛ける船は、ランテーとかランティアとか呼ばれていた。それに代表たちは、時には2か月も、寝泊まりすることがあったという。この種の船にはいろいろな呼び名と大きさがあったと見られる。カルレッティは絹布・絹糸のほかに、麝香と金を買っている。その他、砂糖・銅・鉛・錫・真鍮・鉄が極めて安価に買えると述べている。 カルレッティは中国の交易政策にふれ、朝貢使やその随員が行う交易以外に、ポルトガル人やスペイン人に交易を許しているが、それは金よりわりのよい銀を入手したいからであると、的確にして指摘する。彼によると、中国は毎年150万スクード以上の銀を商品の代価として受け取るだけで、あれこれの商品は買わないとしている。 カルレッティは、汪縫預編『広輿考』(1595・万歴23年刊行)という地理書を購入しており、それを後日トスカーナ大公フェルディナンドに献上している。そして、自らの見聞と書物で得た知識をない交ぜにして、明代末期の中国事情をかなり詳細に書いているという。 ▼妻妾を同乗させるサランギと呼ばれる水夫長▼ カルレッティは、マカオに21か月ほど滞在して、1599年12月ポルトガル船に乗って出発して、1500マイルを20日間で航海して、マラッカに着いている。当時、マカオにはゴアから着いた2隻のポルトガル船が停泊していた。彼は、それら2隻の船に持ち荷を2分割して載せ、その1隻に乗船している。それらの船の乗組員は次のような構成であったという。 「ポルトガル人の船長(capitano)・パイロット(pilote)・船長代理(nocchiero)・事務員(scrivano)、その他の高級船員(offiziali)によって指揮されているが、乗組員はアラビア人・インド人・トルコ人及びベンガル人の船員(marinari)である。これらの乗組員は1月いくらという給料で喜んで仕事をし、自身の必要経費は自分で支出している。 これら乗組員を取り締っているのは1人のサランギ(saranghi)と呼ばれる人間で、これまた上の諸国人のどれかに属する。乗組員はこのサランギに親しみ、そ〔の人柄〕を知り、〔同〕船のポルトガル人の船長・事務長(maestro)・パイロットがこのサランギに命令したことに従うのである」とする(榎p.125-6)。 榎 一雄氏はサランギについて貴重な考察を加えている。それは指揮者や監督者をいうペルシア語Sarhangから出た言葉であるとしている。それは、カルレッティの説明通り水夫長であるとしながら、中国では綱主に当たる。それ以外では、「オランダの人攫い(kidnappers)やイングランドの人を騙して船員や兵士にさせる周旋人(crimps)に当る人々の階層である」と記されている文献があるともいう。なお、綱主は通常、船主船長をさす用語である。 カルレッティにとってサランギの問題は次の点にあった。彼らは、「すべてその妻又は妾を連れて乗船している。それら妻妾を見ることは穢く、汚く、いかがわしく……神への冒涜が行われる……しかし、こうした作業をする人々を必要としているために、これらの船の所有者達(padroni)は、他にどうしようもない」のだという(榎p.128)。 この妻妾の同乗について、ヨリッセン氏はカルレッティがポルトガル人以外の「乗組員は、全員が妻や妾を一緒に乗船させている……」と記録しているとする(ヨリッセンp.138)。これは単なる誤読あるいは誤訳ではなく、明らかに一般の乗組員を貶めようとする紹介であることは、榎 一雄氏の訳文から見て明らかである。 近世、アジアを往復する船に、商館員や兵士、商人、そして船員の、ほんの一部の人びとが女性を同乗させることは広くみられたが、一般の乗組員が日常として妻妾を同乗させていたといったことは聞いたことがない。 当時のマラッカは、ポルトガルのインド洋の交易の中心地として繁栄し、最盛期を迎えていた。マラッカがオランダに攻略されるのは1641年である。カルレッティはマラッカで商いをしたと見られるが定かでない。マラッカでは、商いをするしないにかかわらず、商人たちは商品価額の7パーセントを通過料として支払わせられていた。彼はマラッカにおけるポルトガルの交易支配の状況を次のように述べている。 香辛料を携えてきた「ジャヴァ人は、マラッカ市の郊外に城内と同様な木造の家を建て、日中はそこに居り、夜には船に帰る。ポルトガル人総督は、人をこれらの船に派して、主として丁子・にくずく花(メース)・にくずく(肉豆蒄)を買い取らせる。時価で計算し、土人が衣料とする諸種の色に染めた木綿の布で支払う。 総督は時を移さず、これらの香辛料をポルトガル商人に高値をつけて売り、見返りにこれら商人がインドのサントメ海岸及びチャラマンデル[いずれもコロマンデル海岸のことで、前者はポルトガルの古称)から持って来た綿布を受け取る。総督の挙げる利益は70乃至は80パーセントに達する。その結果、3年の任期の間に25万乃至30万スクードの財産を作って、インドに、更にリスボンに帰る人もいる。但し、途中、海で遭難することもあるし、海賊に襲われることもある」(榎p.136-7)。 カルレッティはべゾアール石(bezoar)、すなわち胃石についてふれている。それは、フェルディナンド大公の御要望に応えようとしたもので、反芻動物の消化管に生ずる凝固物であって、あらゆる毒物に対する特効薬、激しい腹痛の鎮静剤として名高いという。4分の1オンスで80金スクードであったという。 ▼ゴアで、マラバール女との愛欲に溺れる▼
カルレッティは、マラッカからセイロンを経て、1599年3月コチンを着き、数日にして、マラッカから2000マイル、マカオから3500マイルの、ゴアに着いたとしている。それは間違いで、その時、すでに1600年になっていた。
当時、セイロンはマラッカと同じようにポルトガルにとって最重要な交易拠点であったが、マラッカとは違ってオランダがアジア進出に当たって、それを攻略しようとかかっていた。彼はそれにふれることなく、ただただセイロンの宝石や肉桂、象、そしてマンナ−ル島の真珠について書き留めている。セイロンのどの港に入り、商いをしたかどうかは不明である。 カルレッティは、ゴア滞在中、中国から持ってきた絹をすべて売り払ったという。その絹はカムバイアに送り、そこにいるグジャラート人の商人によって売られ、その代金に当たる量の、ポルトガル人が推奨する様々な種類の綿布など衣料や、加工された水晶、瑪瑙など宝石類を送ってもらっている。それによって中国で仕入れ値を70パーセント上回る利益をえたという。榎 一雄氏がいうように、手紙でやりとりする取り引きが、具体的に書かれていないが惜しまれる。 カルレッティによれば、ゴアには「毎年その商品を持ち、自身の船でカムバイアからゴアにやって来る。彼等は大部分グジャラート人であり、……彼等は大量のダイヤモドを齎[もたら]す……[それら]商品のすべてはポルトガル人が買い、毎年ゴアかコチンから出港する船でリスボンに送られますが、〔船には〕その他に香辛料とあらゆる種類の雑貨が積み込まれます。 しかし、胡椒はその反対に〔ポルトガルの〕王か王と契約を結んだ者〔に所属します〕。これらの胡椒はカリカット・カナノール・マンガロール・オノール・パルザロール・コチンの付近で採集せられますが、これらの町にはまたカムバイアの商人達が上述の商品を持ってやって参ります」という(榎p.163)。 カルレッティはカムバイア商人を礼賛する。彼らは、大きな経済力を持ち、節度ある生活を送っている。それにポルトガル人商人は依存していた。それに対比して、ポルトガル人たちはあまりにもだらしない生活を送っているとする。その他、ゴアにおけるポルトガル人の豪華な生活ぶりや、ゴアの食品や料理、風俗、そして特に女性について、かなり詳しく述べている。 彼は、ゴアに結果として、21か月も滞在することとなる。このゴアの長期滞在は、マラッカからのもう1隻の船が遅れたことや、彼が説明しているインド洋の季節風の向き―4-8月の4か月は西向けに船を出せない―に影響されてはいた。それだけでなく、彼がマラバール女との愛欲に溺れていたせいと見られている。 なお、榎 一雄氏はゴアやカムバイアの事情、それとのポルトガル人の関わりについて、例えばカルレッティより少し前の1583-89年までゴアのポルトガル大司教の書記として勤務した、リンスホーテン(オランダ人、1563-1611)の『東方案内記』をはじめ、多数のヨーロッパ人の紀行文などを引用して、きめ細かく解説してくれている。 ▼成功を収め、船室を借り切り、ゴアを船出する▼ 毎年、ポルトガルからインドに向かう船は、ゴアに行く旗艦の1隻と、コチンまで行くものがあり、普通3、4隻であった。しかし、カルレッティが帰国の途につこうしたときは、ゴアには旗艦を含め2隻しか来なかった。彼はゴアに来ていた旗艦サンタ・ヤコポ号に乗った。 カルレッティは、1601年のクリスマスの日、ゴアを出帆する。その時、マカオと同じように持ち荷を、リスボンに向かう2隻のポルトガル船に分載し、3人の召使を引き連れ、専用の船室を準備させた。しかし、カルレッティの商人としての成功は、ゴアの船出までであった。 榎 一雄氏は、「勿論、船を借り切ったわけではないが、この時代に専用の船室を借りることは飛切り上等の贅沢であった。利益追求を標傍して、奴隷売買を手始めにアフリカから新大陸・アジアを遍歴したカルレッティは、ここに至って船室を借切るまでの大金持に伸し上がったのである」という(榎p.210)。 ポルトガルに帰る船は、まずカリカットの海岸に沿って南下し、皇帝陛下(フェリペ3世、在位1598-1621)と何人かの契約者のために胡椒を買い付け、そしてコチンでそれ以外の品物を買い付けた。そして、1602年1月にコチンを出港して、セント・ヘレナ島に立ち寄り、そこで水を補給した上で、ポルトガルに無事に行き着くことになっていた。 以下、当時のポルトガル船の様子を知ることできる内容となっているので、長文の引用となる。 「その船の舵手(piloto)は喜望峰を18回乃至20回通過した人であるが、カルレッティはこの舵手と契約を結び、自身と日本人・朝鮮人、モザンビーク出身の黒人の3人の召使とをリスボンまで運び、船尾に近い所にカルレッティ用の小さい船室をしつらえ、そこにベッドを設けて屋内で眠れるようにすること(当時は船長・高級船員の他は、甲板でごろ寝することになっていた)、毎日雌鶏1羽を料理してその肉を食べさせること、その鶏は全航海中の用に供するために鳥屋に入れて運んで行くこと、そしてカルレッティ自身も別に最上等の鶏100羽を持って行くこととし、カルレッティを含む4人と鶏の運賃として、ゴアの貨幣で1000ゼラフィン即ち7ジュリオ半を船長に支払うこととした」。 ここでいう舵手(piloto)は、すでに見たパイロット(pilote)と同じと見られるが、通常の用語は航海長であろう。航海長であってもいま見た権限を行使しうる立場にはない。カルレッティは旗艦に乗っていたので、船長相当職がパイロットと呼ばれることになっていたと見られる。 「さらに、カルレッティは主として大きな箱に入れてある自分の持ち荷を運搬するために、船長及び他の〔高級〕船員達から場所を買った。この場所なるものは、皇帝が買い付けの胡椒を積んだ後、余りの場所を〔高級〕船員・〔普通〕船員のそれぞれに与えるもので、その広さは与えられる人の階級と任務とによって、何ブラッチョ[長さの単位で1ブラッチョ=1.83メートル]と定められていた。船長が一番広い場所を取った…… この制度は無料の恩典(grazie di liberta)と呼ばれ、皇帝からそれらの〔高級〕・〔普通〕船員に与えられ、船員等がその場所に置くべき貨物を買う金銭がない場合には、希望する人にその場所を売ってよいことになっていた」。すなわち、船員に一種の給与として無賃輸送権が付与され、その売買が認められていた。 「乗船が終ると船は帆を揚げて、[まずは]アラビアの陸地と海岸とに向って進み、やがてサン・ロレンソ島(即ちマダガスカル島)に船首を転じ、快適ではあるが若干暴風模様の風を受けて、モザンビークを見ながら、この島と大陸との間を通過し、喜望峰に向った」(以上、榎p.212-3)。 ▼大西洋上において、オランダ船に拿捕される▼ 「セント・ヘレナ島を指して進んだのであるが、乗客のすべては船長アントニオ・ディ・メロ・デ・カストロに水も、薪も、そのほかの品物も十分あるのだから、セント・ヘレナ島に寄港する必要なしと説いた。しかし、船長は皇帝からセント・ヘレナ島に寄港して、コチンから来る筈の彼の麾下のもう1隻の船を待つように命ぜられているからと、乗客達の説得に応じなかった」。当時も、船の進行について、航海経験のある同乗商人が意見をいう慣行が生きていた。 「こうして、12月25目以来平穏な航海を続け、[1602年]3月14日木曜日の朝、太陽が昇った時、セント・ヘレナ島が見えた。南緯16度、喜望峰から1700マイル、ゴアから5000マイルの地点における大洋の真中にある。船は風に逆らって島に近づき、港が空いているかどうかを確かめたところ、3隻の船が入っているのが見えた…… ……1、2隻の船を入れる余地のある、そこの入江に錨を降そうとしている時、港に入っていた2隻の船が帆を揚げるのが見えた。2隻は風に逆らって海に出で、忽ち方向を転じて島に向って進んで来た。そして、何時間もたたないうちに、カルレッティ等の船に併行[ママ]したかと思う間に、風上に立ってしまった……形勢は逆転してしまったのである」(榎p.213-4)。 その2隻は、オランダ南西部のゼーラント(首府はミッデルブルグ)の船であった。少々の掛け合いが行われたが、ポルトガル船の船長が十分な情勢の分析を行うこともなく、ゼーラント船に向って大砲を放ったのがきっかけとなって、砲撃戦が開始された。 ポルトガル船は多くの死傷者(死者50人以上)を出し、船は吃水線の下に多くの敵弾を受けて沈没に瀕した。砲撃は3月14日から15日、16日と続き、遂に白旗を掲げて降服するにいたった。 「ポルトガル船には砲術長(contestabile)・砲手(bombardiere)を始めとする戦闘員が整然と配備されていた。しかし、それは言わば書類の上だけのことで、実際はそれら[の職]は金銭で売買され、より多くを支払った者がそうした役職を入手[していた]……大砲を操作できる者はジェノア国籍のイタリア人砲手が1人いるのみであったが、本国では靴工をしていた」。 カルレッティの父子が、メキシコのアカプルコからフィリピンのマニラに行くスペイン船の砲術長や甲板長の職を買い取っていたが、それがポルトガル船でも行われていた。この傾向について、榎 一雄氏は15世紀の史料にはないので、16世紀になってから広まったと推察している。 「戦闘開始後間もなく、この砲手が敵弾に斃れ[たおれ]、ポルトガル船は戦闘力を失ってしまったのである。その上、ポルトガル船は積めるだけの貨物を積んで行こうとした結果、舷側を始め到るところ荷物の山で、乗組員は自由に行動することが出来なかった……胡椒の包が撃たれて、胡椒がそこからこぼれ出、浸水する船の中に浮んで流れ、排水ポンプにつまって浸水を排除しようとする作業を阻害し、一方敵弾の命中によって次第に船が傾いて行く……」(以上、榎p.216)。 カルレッティは、オランダ人とその船について、「オランダ船の戦闘員が熟練の経験者であること、船内の手入れが行き届いていて、大砲が整然と用意され、船上には戦闘に備えておよそ行動を阻害するようなものが置かれていなかった……これはポルトガル船の場合と全く反対で、ポルトガル船のことは想い出すのも不愉快であると述べている」という(榎p.217)。すでに、この時期、ポルトガル人は腐敗、堕落していたのである。 ▼トスカーナ大公との親密だとして助かろうとする▼ オランダ側は、ポルトガル船が最初に砲撃したので応戦したまでであるといい、戦闘の責任がポルトガル船にあることを主張した。彼らは、船内のすべての宝石を提出するように命じ、多数のダイヤモンドや真珠を持ち去った。その際、船長とその息子を連れて去った。 翌朝3月17日、オランダ側は2隻のボートを出して、多くの兵士と大工、隙詰工(船体の隙を詰めて浸水を食い止める職人)を送り込んできた。そして、ポルトガル船に残留していた人々をボートに載せ、オランダ船に移そうとした。ポルトガル船の残留者のほとんどが水泳を知らなかった。オランダ人たちは意図的に、彼らを水に落ちて溺れるように仕向けので、多くの人々が溺死した。 オランダ船にイタリア語を話す者がいたらしく、カルレッティはその男を買収して、すぐさまオランダ船のボートに移った。要領のよいポルトガル人は、宝石や貴金属のアクセサリをちらつかせて助かっていたが、カルレッティの朝鮮人召使もその1人であった。彼以外の日本人とモザンビークの奴隷は、恐らくこのとき溺死したと見られる。 彼らゼーラントの船員は優秀で、ポルトガル船をたちまち修理してしまった。生き残りのポルトガル人は二手に分けられ、2隻のオランダ船の甲板下にそれぞれ収容された。カルレッティは主だったポルトガル人50人とともに、船尾の梁の下の、最も大きい大砲の置かれているところに入れられた。眠る時には身を伸ばすことができず、おたがいに身体をもたれかけあって眠った。用便以外は部屋を出ることを許されず、抜いた短剣を手にした1人のオランダの番兵に監視された。 1602年4月6日、2隻のオランダ船は拿捕したポルトガル船を曳航して、現ブラジル・リオグランデノルテ沖にあるフェルディナンド・デ・ノローニャ島という無人島に至る。その26日後の5月2日、彼らはポルトガル人をシャツとパンツ1枚で置き去りにして、オランダに向かう。その際、大型のボートをこしらえさせ、リスボンなりブラジルなり、好きなところに行けと、つき放した。 カルレッティはというと、ポルトガル人から「途中で海に投げ込まれるぞ」とねたまれたが、そうはならずゼーラントに着く。その時、「なぜ途中で海に投げ込まれなかったのか」と不思議がられたという。彼は、船長以下のオランダ船員に、自分とトスカーナ大公との親密な関係を誇示し、大公に頼んで、オランダ船がフィレンツェの外港リヴォルノに出入できるよう斡旋してやるといって、たぶらかしたようである。
当時、ポルトガルはスペインと同君連合の時代(1580-1640年)にあり、またオランダは1568年からスペインに対して独立戦争を行っていた。オランダ海軍省(Admiralita)は、サンタ・ヤコポ号の入港と同時に、荷物をはじめ、すべてのものが合法的戦闘による戦利品として、オランダ側に没収されることを宣告していた。それによりカルレッティの請願をしりぞけられた。 そこで、カルレッティはまず東インドと取引のあるオランダ人商人に近づいて、貨物返還を申し入れたが、聞かれない。次に、ミッデルブルグにいるイタリア人商人を見つけ出し、その人からえた情報にもとづいて、母方の叔父に手紙を書く。それは、トスカーナ大公に、オランダ連邦共和国総督の伯爵マウリッツ・ディ・ナサウ(総督在任1584-1625)に好意ある処置を求める手紙を書いて貰うことにあった。 それが受け入れられ、カルレッティはトスカーナ大公の手紙を手に入れ、それ持って1602年9月2日ミッデルブルグを出発し、当時ヘルダーラントのフラーウを包囲していたマウリッツ伯の許に赴く。「伯爵は快く会ってくれ、トスカーナ大公の依頼とあれば出来るだけの助力は惜しまないが、事は商人に関することで自分の権限の外にあるので、どうにも力になれないと協力を拒絶した」という(榎p.224)。 そこで、カルレッティはミッデルブルグに戻って、「東インドと取引ある商人の会社」の支配人代理者達を相手取って訴訟を続けることになった。この会社は総オランダ特許東インド会社(VOC)のようである。この会社は、1598年からオランダの交易都市で次々と設立されていた、フォール・コンパニーエン(先駆諸会社)を統合したものであった。その統合にゼーラント(ミッテルブルグ)が強く反対したため遅れ、1602年3月になってようやく設立されることとなった。 カルレッティはその難産の直後にミッデルブルグに着いた。したがって彼の訴えがやすやすと取り上げられる状況にはなかったのである。 カルレッティはゼーラント州での裁判をあきらめたのか、オランダ国全体の裁判所に提訴する。それに当たり、「各地で苦心して商売に従事し、ゴアからポルトガル船に乗ってヨーロッパに帰る途中で、その乗船がオランダ船に拿捕された次第を述べ、ポルトガル船に乗ったのはそれ以外にヨーロッパに帰る方法がなかったからであることを強調し、ポルトガル船に乗っていたからというだけの理由で、トスカナ大公の家臣である自分の持ち荷を没収するのは不当である」旨を抗議したという(榎p.255)。 その提訴について、トスカーナ大公は「自分はオランダと友好な関係を保ってきた、その自分の国の民であるカルレッティにこうした無法を加え、持ち荷の返還に応じないというのであれば、今後フィレンツェの港リヴォルノに来て貿易するオランダ商人に対し、カルレッティの受けた損害を補償させる」とまで申し送ってくれた。そして、メディチ家出身のマリー・ドゥ・メディチを皇后としているフランスのアンリ4世(在位1589-1610)まで動かそうとしたという。それは破格の扱いというほかはない。 カルレッティも7人の弁護士を雇い、巨額の訴訟費用を支弁して事に当った。しかし拿捕から3年後の1605年4月2日、オランダ東インド会社所属の商人から13000オランダフローリン(グルデンの古称)を受け取らされて決着する。なお、オランダ東インド会社の払込資本金は642万グルデンであったので、和解金はかなりの額といえる。 榎 一雄氏によれば、カルレッティの『周遊記』最後の章は「裁判が徒らに遅延させられ、自分の立場が一向に認められないことに対する焦燥と、折角頂上まで昇りつめようとしていた幸運が一朝にして逆転した身の不運を嘆く言葉とが溢れていて、誠に暗澹たるものを感じさせる。中でも彼が『力は道理より有力である』と嘆き、身の不運を思うと気が狂いそうだと言っているのを見ると、同情を禁じ得ない」という(榎p.226)。 ▼15年目のフィレンツェ帰還、『周遊記』の編纂▼ カルレヅティは再びインドに行って取引をしようと決心して、親しくなった、ハーグにいるフランス大使のところに行く。そのフランス大使は、アンリ4世がオランダで事業を興そうとしているので、王に謁見せよという。首席国務大臣ヴィユロアから1605年11月22日付の国王の署名入りの手紙が送られて来る。 このアンリ4世の書簡に接すると、カルレッティは直ちにハーグから南方20数キロメートルにあるブリーレに行って乗船し、ドーバー海峡を通って、フランスのル・アーブルで船を棄てセーヌ川を遡って、ルアンを経てパリに到着する。ブリーレを出航したのが1605年12月初め、パリに着いたのは同じ月の9日であった。 その日にヴィユロアを訪ね、翌朝ルーヴル宮でアンリ4世に拝謁する。そして、翌々日君命にしたがって、大蔵大臣のロニに会っている。この一連の会談に、当時パリにいたトスカーナ大公の兄弟のジォヴァンニ・ディ・メディチも加わっていた。しかし、大蔵大臣は首席国務大臣とは意見が違って、アンリ4世がオランダと協力して興そうとする、アジアとの交易事業に国費を投ずることに乗気でなかった。そのためこの企画は流れる。 なお、フランスにおいても東インド会社が1604年に設立されるが、一度も船団を派遣せずに破綻する。カルレッティの招聘は、この会社の立ち上げとその破綻に、何らかの関わりがあったと見られる。同社は1664年になって、オランダやイギリスに遅れること半世紀、ルイ14世(在位1643-1715)時代、財務総監コルベール(1619-83)によって再建される。 カルレッティは、パリ滞在中、トスカーナ大公から直接会って相談したいことがあるという連絡があった。パリを出発してリヨンに行き、そこからトリノ・ミラノ・ボローニャを経て、フィレンツェに帰る。時は1606年7月12日、1591年18歳でそこを離れてから15年目、33歳となっていた。その日にトスカーナ大公フェルディナンド1世に拝謁し、敬意を表している。そしてカルレッティの『周遊記』はここで終っている。 「フェルディナンド1世はトスカーナの港リヴォルノを、ブラジルと東インドとの交通の中心にする計画を抱き、これにカルレッティの知識と経験とを利用しようとした。カルレッティを新しい港を開発する計画の指導者たらしめようと考え、計画がかたまるまで彼を顧問として用いるつもりであった。カルレッティに『周遊記』の形で、その経験を直接語らしめ……参考にしよう」とした(榎p.230-1)。しかし、その計画はオランダの妨害によって実現しなかったという。 カルレッティの記録が書物の形に編纂されたのは、1609年以後のことであるとされている。それは、インドのムガル帝国(1526-1857)の皇帝がアクバル(在位1556-1605)からジャハーンギール(在位1605-27)に代わり、その首都が1608年にラホールからアグラに遷都されたことが書かれているからだとされる。 なお、榎 一雄氏はその書物を締めくくる言葉もなく、初出書誌『月刊シルクロード』が休刊となったことを嘆くかのように、書き終えている。こうした旅行記に、20世紀はともかく21世紀の人びとは、さらに興味を持つこともないことであろうと言いたげである。 ▼遍歴商人としての空前絶後の世界旅行▼ それに対して、エンゲルベルト・ヨリッセン氏は2010年現在、寄泉エンゲルベルトと名乗る京都大学教授で、日欧交流史を研究する立場から、カルレッティ『世界周遊記』について一定の見解を述べている。 カルレッティの『世界周遊記』はバロックの視点から書かれているという。その視点は、カルレッティが異教徒をキリスト教徒の立場から非難し、彼らの残虐さや性風俗を殊更に書き上げていることによく現れている。それに付け加えれば、きらびやかさ、すなわち金儲けである。それらはその時代のヨーロッパ人の好みそのものであった。 そして、『17世紀の旅行家たち』(トリノ、1967)を編纂したマルジアーノ・ギリエルミネッティの「(カルレッティは)商人であり、かつ作家であるという系列に属することを願っていた。商人たちは何100年来、商人としての職業柄、世界を知るという特権を用いて、その商業旅行を文化的冒険の水準にまでたかめた」という言葉を引き、その業績を讃えている(ヨリッセンp.192)。 それはそれとして、カルレッティの旅行とその記録の意義はと問えば、すでにみたように商人として交易しながら、海路でもって世界を一周して、それを記録したことにある。 彼以前は、周知のように、1519-22年のカノ(マゼラン)、そして1577-80年のドレイクという、いずれも航海者の世界一周であった。それら航海は彼がいうように4年かかっている。カルレッティは、ドレイクからわずか15年遅れたものの、8年間でもって、ポルトガルとスペインがはりめぐらした東西インドの主要な交易地をくまなく訪れて大いに商いをし、そして悠々と滞在して土地の文化に接して、知見を拡げた。 カルレッティの旅行とその記録はマルコ・ポーロの世界旅行や航海者の世界一周に匹敵する。しかし、カルレッティの『世界周遊記』は知られることが少ないため、その意義を称揚されてこなかったことは誠に残念である。 当時の海上交易の状況にあって、船主船長でもない遍歴商人が海路、世界の交易地に赴き商いをするといったことは、荒唐無稽のことであった。単なる商人であるカルレッティが世界交易旅行をやり遂げえたのは、ポルトガルとスペインの世界分割とその支配がシステムとして成功したいたことの現れであった。マルコ・ポーロの旅行はモンゴルのユーラシア支配に依存していた。そして、カルレッティもまた、イタリア人であったことが幸いしていよう。 彼は最初から世界一周しようと考えていたようにはみえない。自らも告白しているように、フィリピンから日本船に乗って日本に来てはじめて、西回りで世界一周できることを気づいたとみられる。その契機は、イエズス会との関係ができたことにあったと見られる。彼の交易資金を、イエズス会が秘匿してくれた意味は計り知れない。 最後に、カルレッティは世界交易旅行の収支は、いかがなものであったか。彼は、交易港における交易額とその収支や、さまざまな金額を曖昧にさせている。それは商人が公にする文章として当然といえる。それはともかく、最終的にゴアからの積荷を2隻のポルトガル船に分けて載せ、個室を用意させるほどに、大儲けをしていたことは明らかである。 カルレッティは、彼が乗るポルトガル船がオランダ船に拿捕され、その積荷が没収されたことで大きな損害を受け、悲嘆にくれている。しかし、もう1隻のポルトガル船はどうなったのか、明らかでない。 そうでありながら、フランス王やトスカーナ大公に積荷の一部が贈答したとか、長期に多額の訴訟費用を支出したとか、東アジアへの交易に出掛けようとしたとか、フランス王やトスカーナ大公から東アジアとの交易に参画するよう促されたとかいった状況をみるとき、もう1隻のポルトガル船は無事に帰国して、大きな利益をもたらした。そして、彼は積荷以外に儲けた金を、イエズス会を通じて、フィレンツェに送金していたのではないかと推察する。 したがって、カルレッティの世界交易旅行は、遍歴商人としての空前絶後の旅行であったばかりでなく、空前絶後の儲けとなった旅行でもあったかのようである。 【注】 カルレッティ『世界周遊記』にみる日本記事の項目「日本の船、航海用具、船の司令官」、「茶器、茶の調合、味、効能」、「酒」、「茶器、古いものが尊重される」、「鉄製の武器を重んじる」、「年代計算」、「スペイン人とポルトガル人の業績」、「当時の航海」、「1597年2月5日(長崎における26聖人殉教)、磔刑、火灸ぶりの刑、死刑」、「試し斬り、刀剣の価値、死体」、「極東の日本とその他の諸国」、「果物、野菜」、「魚」、「味噌、汁」、「米、箸、食事」、「酒を温める、酩酊」、「牛を飼うがほとんど食用にせず、運送用」、「鶏、その他の家畜」、「鶫、雉子(つぐみ、きじ)」、「銀本位制、他の貨幣」、「実り豊かな国、野鳥」、「火縄銃での狩猟」、「安い物価」、「オリーヴ、葡萄の栽培」、「戦争に対するひたすらなる関心」、「穀物、小麦粉の輸出」、「太閤様(豊臣秀吉)」、「朝鮮出兵、軍勢、兵器」、「朝鮮、朝鮮人奴隷」、「朝鮮に対する暴虐な戦」、「キリスト教徒の苦難」、「(処刑された)フランシスコ会修道士」、「イエズス会員と(ローマ)法王」、「サン・フェリーぺ号事件」、「フランシスコ会員排撃と迫害の端緒」、「受刑人の埋葬、禁令」、「町の治安と組織」、「家屋とその内部、種々の屏風」、「大火、その処罰」、「清潔な家、畳、枕」、「履物、挨拶」、「病人の看護」、「切腹、高位の者の絶対的権力」、「衣服」、「女性、お歯黒、頭髪」、「衣装」、「雨、雪、氷」、「一夫一婦制、姦通罪」、「娘たちの節操」、「ポルトガル人にとっては『ヴィーナスの楽園』」、「男性の髪、鬚」、「帽子」、「東南アジアでの貿易」、「琉球島」、「隣国の野蛮人」、「(トスカーナ)大公への貿易推挙」、「文字、書物」(エンゲルベルト・ヨリッセン著、谷進・志田裕朗訳『カルレッティ氏の東洋見聞録』、p.52-3、PHP研究所、1987)。 (2008/06/12記)
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