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天正遣欧使節、慶長遣欧使節、ペトロ岐部

─日本人のヨーロッパへの求道の旅─
Tensho and Kentyo Mission to Europe, and Petro Kibe"

 まえがき─近世日本人の海外渡航─
1 天正少年遣欧使節、その転回(1582-90)
2 慶長遣欧使節、三つ巴の思惑(1613-20)
3 ペトロ岐部カスイ「転び申さず候」(1615-30)
あとがき

まえがき─近世日本人の海外渡航─

▼キリスト教布教時代の日本人海外渡航▼
 大航海時代は、ヨーロッパ人たちが武器そして宗教を引っ提げて、世界に繰り出してきた時代である。彼らの日本への進出は、1543年ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を持ち込みに始まり、その6年後の1549年にはフランシスコ・ザビエル(1506-52)がキリスト教の布教に乗り出す。その後、多数のキリシタン大名を輩出しながら、日本人キリシタンは16世紀末にかけて顕著に増加する。それはキリスト教布教と信長や秀吉との蜜月時代の出来事であった。 しかし、それも1587(天正15)年の秀吉のバテレン追放令、そして1593(慶長元)年の長崎26聖人殉教で終わる。そして、徳川家康(1542-1616)はオランダやイギリス、中国の日本進出を認めると直ちに、1612(慶長17)年カソリックの禁教令を出し、それを全国に展開させる。これにより、ヨーロッパたちによる日本へのキリスト教布教は挫折し、約60余年に及ぶキリスト教布教時代は終わる。それ以後はキリスト教禁教と迫害の時代となっていった。
 大航海時代、ヨーロッパ人たちが独り勝ちしていたわけではない。東アジア海域においては、日本人にあってもヨーロッパ人の参入以前の、16世紀前半には勘合船による交易を続けていたし、また倭寇としても活動していた。さらに、戦国時代の停滞後の江戸時代、17世紀半ばまで朱印船(奉書船)を送り込んでいた。これら東アジア海域における交易は日本の大航海時代であった。
 しかし、ポルトガル船がその海域に参入してきて、日本船とほぼ同じような交易に行うようになる。それにより、日本人は交易需要をさらに充足できるようになり、日本船は東アジア海域を越えて進出しようとはしなくなる。日本人は、ヨーロッパのシーパワーに次第に圧倒され、それにむしろ依存することとなった。それは、自立的で積極的な国際交易の放棄であり、待ち受け交易の甘受であった。
 それに伴って、近世の日本人が自らの必要のために自前の船を艤装して、伝統的な海域を越えて、ヨーロッパあるいはアメリカまで進出しようとは、いまさらながらにしなくなった。そうしたなかにあっても、1549年の布教開始から1612年の禁教令までの、約60余年に及ぶキリスト教布教の時代に、天正・慶長遣欧使節をはじめ一握りの日本人が、ヨーロッパあるいはアメリカに渡航していた。
▼ベルナルド、天正少年使節、ローマに至る▼
 日本人として最初にヨーロッパ入りしたのは、記録のうえでは、フランシスコ・ザビエルから日本人として最初に洗礼を授けた、鹿児島のベルナルドあるいは薩摩のベルナルド(?-1557)だとされる。彼は、ザビエルにつき従った4人の日本人の一人であり、彼らは1551(天文20)年11月豊後から、マラッカそしてコーチンを経て、1552年2月ゴアに渡る。ゴアで、ザビエルや他の日本人と別れ、1553年3月留学生として単独でヨーロッパに向かい、同年9月リスボンに到着する。1554年から、コインブラの修道院で暮らし、イエズス会員になるための訓練を受けたとされる。
旧コインブラ大学
1290年創建
サンタ・クルース修道院
コインブラ 、1131年創建

 ベルナルドは、1554年7月リスボン出発、陸路、スペインを抜け、バルセロナからは船に乗る。彼はシチリアに上陸したとみられる。その後、彼はナポリ経由で、1555年1月初めローマに到着する。ローマでは、イエズス会創立者イグナチオ・デ・ロヨラ(1491-1556)の世話を受け、教皇パウルス4世(在位1555-59年)への謁見を許される。1555年10月ローマを離れ、ジェノヴァから海路で翌年1月アリカンテに入り、そして陸路でリスボンに戻る。しかし、1557年コインブラで病没し、日本に帰れない。享年23歳だった。かれの墓はイエズス会の墓地にあったが、現在は新カテドラルに移され、イグナチオ・デ・ロヨラ像が置かれた床下にあるという。
 ベルナルド後、渡欧した日本人の伝聞や記録はなく、次の記録は1582(天正10)年長崎を出帆、1590(天正18)年長崎に帰国した 天正少年遣欧使節である。彼ら「少年の4人たち」(クアトロ・ラガッツィ)は、ヨーロッパに入り、日本に帰ってきた、最初の日本人とされる。その時期は、ベルナルド渡欧後、実に30年、キリスト教布教時代の中ごろに当たる。
 その間、日本のキリスト教徒は増加して、1582年には15万人になり、1592年には近世最大の30万人に達していた。また、キリシタン大名がポルトガルのインド副王に書簡を送って、使節の派遣や商館の開設を打診していたとされるが、日本人が渡欧したという記録はない。
 1579年、イタリア生まれのイエズス会東インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539-1606)が来日すると、キリスト教の布教は新しい段階に入る。彼は日本人司祭の育成こそが急務と考え、1580年代初め安土や有馬にセミナリヨ、豊後にコレジヨ、また臼杵にノビシアド(修練院)を設ける。この日本布教改革の一環として、天正少年遣欧使節の派遣が計画・実施されたのであった。
 天正少年遣欧使節以後、日本人がマカオ、さらにはリスボン、ローマまで出向いて、司祭になろうとしたものがいたようではある。しかし、それらは判然としない。例えば、有馬セミナリヨで学んだ木村セバスチャン(1566-1622)は、マカオに留学した後、ようやく1601(慶長6)年日本人最初の司祭になっている。時代は下がるが、生年も生地も不明のアラキ(荒木)・トマスは、1615年以前にローマで司祭になっていたとされる。
▼太平洋を横断、メキシコに渡った田中勝介▼
 天正少年遣欧使節から30年も経ち、すでにキリスト教布教時代が終わり、キリスト教徒迫害が猖獗を極めていたそのなかで、2つの渡航事業が行われた。その2つの事業には連続性があり、いずれも徳川家康が関与していた。それら事業は、ポルトガル人ではなくスペイン人と手を組むことで行われ、またいままでの西回りでなく、東回りで行われた渡航であった。
 その1つが田中勝介のメキシコ渡航である。かれの生年や没年は不詳であるが、京都上層町衆で、朱屋という屋号を持ち、京都の金座を任されていたとみられる。「朱」とは水銀をいう。かれの渡航にはある経緯があった。渡航の前年の1609年9月30日、前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴが乗るガレオンの旗艦サン・フランシスコ号(1000トン以上という)が台風のため、上総国岩和田村(現御宿町)に漂着した。その時救助された乗組員317人(死亡者56人)を、日本で建造された幕府の船でもって、メキシコ送り帰すこととなった。その船に田中が同乗することとなった。
 ドン・ロドリゴは、同年10月29日駿府で家康に拝謁し、日本とメキシコとの直接交易と鉱山の採掘や精錬の職人の派遣を協定したとされる。家康はアマルガム式精錬法に関心を抱いていた。その一環として、京都の豪商、金座の当主、そして家康の経済顧問であった後藤庄三郎(1571-1625)は家康の関心に答えようとして、ドン・ロドリゴに田中勝介を送還船に同乗させるよう依頼したという。
 その送還船は、ウィリアム・アダムス(三浦按針、1564-1620)が家康の計らいにより、1607年伊豆国伊東で建造していた洋式帆船であった。その船はサン・ブエナ・ベントゥーラ号(120トン)と命名された日本船(日本名は安針丸)であった。
 1610(慶長15)年8月1日、相模国浦賀(1604年以降、スペイン船のみが、毎年入港していた)を発ち、ヌエバ・エスパーニャ(ノビスパニア、現メキシコ)に向かう。その船は、同年の10月27日アカプルコ(正確にはカリフォルニアのマタンチェル)に到着する。これにより、サン・ブエナ・ベントゥーラ号が日本船としてはじめて太平洋を横断した船となる。
 この船の乗船者は、サン・フランシスコ号の遭難者の外、家康と秀忠の親書を携えたフランシスコ会の日本遣外管区長アロンソ・ムニョース(?-1620)、そして田中勝介ら23人商人であった。メキシコで、田中勝介はじめ何人かが洗礼を受け、また商いをして、羅紗やぶどう酒などを入手している。日本を出発した23人のうち、少なくとも17人が帰国し、3人がメキシコに残った。なお、この船は約束によりメキシコ到着後に売却され、マニラとアカプルコを結ぶがガレオン航路に投入される。船の売却高はメキシコの商品の買付資金となった。
 田中勝介らは、ドン・ロドリゴとその一行が受けた恩義(救助と送還)に対する答礼使が乗る船に同乗して、メキシコから帰国する。この田中勝介のメキシコ渡航がもたらした効果は不明である。答礼船サン・フランシスコ(二世)号は1611年3月22日アカプルコを発ち、同年の6月10日に浦賀に入る。これにより、田中勝介たちは太平洋を横断して、アメリカ大陸に足跡を残し、帰国した最初の日本人となる。
 この船には、ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコから派遣された答礼使セバスティアン・ビスカイノ(1548-1624、交易人、探検家、メキシコ市の住民f)が乗船していた。彼が選ばれたのは、鉱山・精錬に興味がある家康の要請に沿ったものであった。彼は日本という金銀島を探検することになっていた。
 なお、初代サン・フランシスコ号には日本人キリシタン乗組員がいて、通訳の役目を果たしていたという。すでに、多くの日本人がマカオやルソンに渡っており、そこを経由してメキシコに移住していたので、田中勝介が先着者というわけではない。それと同様に、天正少年遣欧使節は旅先で日本人奴隷を見ている。それからみて、すくなくない日本人がゴア経由でポルトガル、スペインなど、ヨーロッパに渡っていた(ルシオ・デ・ソウザ 、岡美穂子著『大航海時代の日本人奴隷 』、中公叢書、2017など)
▼慶長遣欧使節、ペトロ岐部のエルサレム巡礼▼
 天正少年遣欧使節 から30年後、あるいは60年間のキリスト教布教時代がまさに終わろうとするさなか、もう一つの渡航事業が決行される。それは九州キリシタン大名ではなく、東北の雄藩である仙台藩が企画した使節である。この使節に徳川幕府が関与していた。 この使節は慶長遣欧使節という。かれらは、仙台領内で建造された日本船サン・フアン・バウティスタ号(500トン)に乗って、1613年10月28日(慶長18年9月15日)に牡鹿半島を出帆する。その船は太平洋を横断して、1614年1月28日アカプルコに入港する。そして、彼らはメキシコから大西洋を横断して、セビリアに上陸する。
 この使節は、スペイン国王フェリペ3世(在位1598-1621)やローマ教皇パウロ5世(在位1552-1621)に謁見する。それにより彼らは一応の目的を果たす。かれらは、ローマからメキシコに戻り、1618年4月2日アカプルコを出港、8月10日フィリピンのマニラに到着する。彼らは長期に滞留して、1620年9月22日(元和6年8月26日)になって日本に帰着する。
 特記すべきことは、サン・フアン・バウティスタ号はメキシコに使節を送り届けた後、日本に戻る。そして、その船が再びメキシコに向い、アカプルコでヨーロッパ帰りの一行を出迎え、マニラに到着していることである。これにより、慶長遣欧使節の人々は太平洋に加え、大西洋を初めて横断した日本人となった。それは地球の3分の2を旅行したことになる。また、サン・フアン・バウティスタ号は太平洋を一挙に2往復も横断した最初の日本船となった。
 慶長遣欧使節は1612年に出発している。翌年には慶長禁教令が全国に拡張され、さらにその翌年にはキリシタン大名の高山右近など148人が海外追放される。
 これらとは異なって、日本を追い立てられて出国し、ローマなどで司祭となるなどして、その後忍び込むように帰国した剛直な人びとが、何人かいた。そのなかにペトロ岐部カスイ(1587-1639)がいる。彼は、1615年日本を後にし、日本人として初めてエルサレムを訪問し、ローマにおいて司祭となり、1630年帰国する。その後、禁教のなか宣教を続け、殉教した人物である。
 これ以後、日本人が積極的に海外渡航したという事例は、皆無である。そこにあるのは和船船員たちの遭難譚だけとなる。これとて稀有な記録として残るにとどまる。
 天正少年遣欧使節、慶長遣欧使節、そしてペトロ岐部カスイについて、その渡海状況を文献から読み解くこととする。彼らの簡単な渡海年表は、下記の通りである。

天正少年遣欧使節
慶長遣欧使節
ペトロ岐部カスイ
出発
1582(天正10)
1613(慶長19)
1615(元和元)
スペイン国王拝謁
1584(天正12)
1615(元和元)
ローマ教皇拝謁
1585(天正13)
1615(元和元)
1620(元和 6)?
帰国
1590(天正18)
1620(元和 6)
1630(寛永 7)


1 天正少年遣欧使節、その転回(1582-90)

▼はじめに▼
 日本人は、殊の外、天正少年遣欧使節が好きなようで、それに関する著書や論文、Webページは汗牛充棟の状態である。それらは、ヴァリニャーノ著、泉井久之助・長沢信寿・三谷昇二・角南一郎訳『デ・サンデ天正遣欧使節記』、雄松堂出版〈新異国叢書〉、1969を拡張あるいは縮小したものである。このイタリア複製本は日本の重要文化財となっている、
 長年、松田毅一著『天正遣欧使節』、朝文社、1991が決定版とされてきた。次いで、若桑みどり著『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』、集英社、2008は文献を渉猟して新風を投げかける。最近刊行の伊川健二著『世界史のなかの天正遣欧使節』、吉川弘文館、2017はその旅と影響をコンパクトに整理したものである。それらを参考にして天正遣欧使節の道行きを探ってみる。
天正少年遣欧使節の航路図
天正少年遣欧使節のヨーロッパ巡路

▼クアトロ・ラガッツィ、海路、リスボンに上陸▼
 ザビエルは日本人に敬意を払っていたが、後任のフランシスコ・カブラル(1529-1609)は日本人を侮蔑していた。その事態を憂慮したヴァリニャーノは布教改革を行う。その成果をヨーロッパにデモンストレーションして、日本での布教を高い段階に引き上げようと考えた。そこで、彼は、キリシタン大名の大友宗麟(1530-87)、有馬晴信(1567-1612)、大村純忠(1533-87)が、彼らの名代とすることに異を唱えない考え、有馬セミナリヨの一期生22人のなかから、13-14歳の少年を4人選ぶ。
 4人の少年(クアトロ・ラガッツィ)は、正使の伊東マンショ(1569?-1612)、千々石ミゲル(1569?-1633?)、副使の中浦ジュリアン(1569?-1633)、原マルチノ(1569?-1629)である。彼らは、キリシタン大名たちの遠い縁者か配下の、父を失った不遇の家の子であった。
 ヴァリニャーノの派遣目的は、日本における布教促進のため、日本の有力者までがキリスト教に帰依しつつあることを知らせ、ローマ教皇はじめヨーロッパ諸侯や貴紳から援助を仰ぎ、またヨーロッパ・キリスト教世界の偉大さと富裕さを実感させ、日本人に知らしめることにあった。さらには、教皇への服従を誓うことが絶対であることを体感させるためであった。少年を選んだのはその感受性からして、今後の長期にわたるキリスト教布教に役立つと考えたからとされる。
 天正少年遣欧使節は、1582年2月20日(天正10年1月28日)、キリシタン大名の書簡なるものを携え、長崎を解覧する。カピタン・モールのイグナシオ・デ・リマが率いるポルトガルの大型帆船ナウには、正使・副使の4少年、日本人随員として教育係の修道士ジョルジェ・ロヨラ(1562-89)と活版印刷修業少年のコンスタンチノ・ドラード(1567?-1620)とアグスチーノ(1567?-?)、そして巡察師ヴァリニャーノ、盟友の神父ロレンソ・メシアとオロヴィエロ・トスカネッリ、修道士ジョルジョ・デ・メスキータ(通訳)の11人のほか、船員ら、総勢300人に乗り込んでいた。
 1582年3月9日、中国沿岸では浅瀬や嵐、波に悩みながら、マカオに到着する。クアトロ・ラガッツィは行き帰りのマカオで、長期間滞在することとなる。彼らはこの地で勉学に励んだことであろう。同年12月31日になっていくつかある船のなかから、長崎発と同じカピタンが指揮する船を選び、マカオを出る。マラッカに1583年1月27日到着、2月4日まで休養して、コーチンに向かう。その途中、伊東マンショは赤痢に罹り、危篤状態となる。
 コロンボに寄港する。しかし、コモリン岬を回頭することができず、東に流され、トリチャンドゥリウム(ティルチェンドール)に乗り揚げたらしく、一行は上陸して、マナバルやトゥトコリーヌム(トゥティコリン)に滞在、クーラン(コーラム)から海路で、1583年の4月にはコーチンに入ったらしい。雨期になったため、長期の足止めとなる。遭難船も修理を終え、入港してきたこともあり、ようやく出港して、11月10日ゴアに着く。
 このゴアで、一行はインド副王から歓待され、旅費の提供の申し出を受けたという。ヴァリニャーノは、イエズス会総長から インド管区長なることを命じられたことにより、一行から離れることとなる。そのあとを、ヌーノ・ロドリゲスが引き継ぐこととなり、また一行は再編成されて総勢20人となる。
 1583年12月20日(11月10日より新暦(グレゴリオ暦)採用となる)ゴアを出て、1584年1月1日コーチンに戻る。2月20日、サンチャゴ号に乗って、インド洋に向かう。マダカスカルを右舷に見ながら南下して、1584年5月10日喜望峰を回り、大西洋を北上する。5月27日セント・ヘレナ島に立ち寄り、6月6日再出発する。大西洋上では、赤道を超えてところで疫病が発生して、32人ほどが死亡したという。
 アゾレス諸島は迂回する。カスカイスに仮泊する。翌日の1584年8月11日、リスボンに投錨する。遂に、ヨーロッパ大陸にたどり着いたのである。長崎を出発して2年6か月が経っていた。
▼フェリペ2世にキリシタン大名の「書簡」を奉呈▼
 天正少年遣欧使節は、ヨーロッパ大陸上陸後、陸路、海路をたどりながら、首都や町々で、派手なデレゲーションを行い、絶大な歓迎を受けることになる。その儀式、反響などはよく知られているので省略する。
 1581年から1640年までポルトガルはスペインと同君連合となっていた。まず、当時ポルトガルを統治していたアルベルト・アウストリア枢機卿に、シントラの宮殿で謁見を受ける。そして、スペインに向うこととなる。1584年9月5日早くもリスボンを発ち、陸路、馬車に乗るなどして、エヴォラ、ヴィラ・ヴィソーザ、グアダルーペを経て、9月27日トレドに入る。ミゲルは天然痘らしき病気に冒されていたため、10月19日までの滞在となる。マルチノアは疱瘡になっていた。
 天正少年遣欧使節は、1584年10月20日首都マドリードに、輿馬車に乗り、大勢の歓迎の人々を従え、到着する。11月14日になって、フェリペ2世(在位、スペイン国王1556-98、ポルトガル国王1581-98)の謁見の栄に浴することとなる。正使のマンショとミゲルは、フェリペ2世に抱擁されるという破格の扱いを受け、キリシタン大名から国王に送られた「書簡」を日本語で読み上げ、奉呈する。
 その後、完成して間もない宮殿にして修道院、博物館、図書館からなる複合施設エル・エスコリアルをはじめ、スペインの偉大さを示す個所を訪問して、11月26日マドリードを後にし、アルカラ、ベルモンテを通って、ムルシアに入る。ここで船待ちして23日も滞在し、年を越す。1585年1月5日アリカンテで地中海を目にする。ここで海路に入り、1585年1月19日、アラゴン人を船長とする巨船に乗ったものの、1か月も風待ちし、2回ほど出帆しては引き返すなどして、2月7日、アリカンテを出帆、マジョルカ島北部のアルクーディアに寄港してから、イタリアに向う。同年3月1日リボルノに上陸する。
 その後ピサ経由で、3月7日トスカーナ大公国の首都フィレンツェに到着。クアトロ・ラガッツィは、ヴァリニャーノの指令通り、イエズス会の施設に泊まろうとしたが、大公フランシスコ・プリーモ・ディ・メディチ(在位1574-87)はそれを許さず、ヴェッキオ宮殿に泊まらせた。彼らは、大公の動物園を訪れ、ライオン、虎、熊、山猫を見て喜ぶ。フィレンツェを発ち、カッシア街道のシエナに3月13日に着き、サン・クイリコ、アクアペンデンテ、ヴィテルボなど、6都市を通って、1585年3月22日夜、遂に最終目的地のローマに到着する。彼らはジェズ教会のイエズス会宿舎に入る。
ヴァリニャーノの銅像(口之津港)
出身地イタリアのキエーティ市からの寄贈品
天正少年群像(大村市)

▼ローマ教皇に拝跪、「安土城下町屏風」を献呈▼
 翌日、1585年3月23日には早速、ローマ教皇グレゴリウス13世(在位1572-85)との謁見の儀式が行われた。ヴァリニャーノたちは地方大名の名代と称する使節が過大な歓迎を受けることを恐れていた。そうしたイエズス会の思惑は受け入れられず、すでに先々で派手な歓迎が繰り広げられていた。それはヴァティカンにおいても同じであった。一行は、国境から300人の兵隊に守られて、ローマに向けて行進する。
 教皇との謁見は最高の使節を迎える「帝王の間」(サラ・レジア)で行わることとなった。謁見当日、正使の伊東マンショ、千々石ミゲル、副使の原マルチノの3人(ジュリアンは熱病となっていた)は騎乗して、供奉の行列を引き連れ、王侯使節に則ってポポロ門からの入市し、サンタンジェロ橋を渡って、サン・ピエトロ大聖堂まで行進した。
 教皇に拝礼、足元に接吻した後、伊東マンショは大友宗麟、千々石ミゲルは有馬晴信、大村純忠の「書簡」を奉呈した。その数週間後、教皇が崩御したため、後を継いだシクストゥス5世(在位1585-90)の戴冠式に列席することとなる。こうして、ローマ教皇に謁見するという旅の大きな目的を果たし、しかも2人の教皇にまみえた最初の日本人となる。
 一行はローマ教皇に、織田信長(1534-82)が狩野永徳に描かせ、敢えてヴァリニャーノに与えたという「安土城下町屏風」が献呈している(行方不明)。また、クアトロ・ラガッツィはローマの主要な7つの教会を巡っており、5月29日にはローマ市民会から市民権を贈られる。翌日、新教皇から、佩勲章騎士(黄金拍車騎士)に叙せられる。
 一行はローマに1か月ほど滞在して、同年6月3日ローマを出発するが、帰りは直接リグリア海に出るのではなく、大きく迂回して、まずサラリア街道を通ってナルニ、スポレト、アッシジ、ペルージアを経て、6月12日「聖母が受胎告知を受けた家」が移築されているという、ロレートに入る。アドリア海に沿って歩き、リミニから内陸のエミリア街道に入り、ボローニャ、フェッラーラ、そしてフェッラーラ公の船に乗ってポー川を下り、キオッジャを経て、6月26日にヴェネツィアに着く。
 ヴェネツィアでは、6月28日、95歳のドージェであるニコロ・ダ・ポンテ(在位1578-85)に拝謁する。7月6日に発ち、閘門のある運河を上り、パドヴァに泊まる。ポストゥミア街道を通って、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、マントヴァ、ミラノ(7月日25日着、8月2日発)など、30を超える都市を巡り、行く先々で歓待を受け、さまざまな式典や儀式に参加する。最後に、ジェノヴァに1585年8月6日に着く。そして、早くも8月8日にバルセロナ行きのガレー(三段櫂船)に乗船して、リスボンに戻ることとなる。
 この船は、その多くがジェノヴァの有力家門であるドーリア家の船で構成されている、地中海艦隊20隻の一隻であった。その艦隊は、アンドレア・ドーリアを大伯父とする海軍提督ジャナンドレア・ドーリアが率いていた。当時、ドーリア提督は乗艦していなかったため、ドーリアと同じジェノヴァの有力家門のジョヴィネット・スピノーラが指揮しており、フェリペ2世のもとに伺候しようとしていた
 8月16日バルセロナに着く。9月9日まで滞在、陸路をとって、モンセラート、サラゴサ、アルカラを経て、マドリードに入る。その後、 マドリードを発って、オロペサ、エヴォラを経て、セトゥーバルからはテージョ川を下って、11月後半リスボンに戻る。その後、内陸側をテージョ川を遡行しながら、トマール、サンタレンを経て、12月大学都市コインブラに入り、2週間にわたって滞在する。1586年1月9日コインブラを出て、海岸側のレイリア、バターリャ、アルコバサ、ナザレを通って、リスボンに戻る。ポルトガル、スペイン、そしてイタリアの1年8か月の旅は終わる。
▼インド副王の使節として帰国、秀吉に拝謁▼
 ヴァリニャーノが立てた使命を見事に達成した一行は、ブラジルやアフリカ、インドに向かう28隻というポルトガルの大艦隊の一隻であるサン・フェリペ号(800トン、砲40門)に乗る。1586年3月、リスボンを一旦解覧するが、逆風のため立ち戻る。4月12日再び出帆する。その船には、200人の兵士、200人の船員が乗り組んでいたという。遣欧使節は船長の部屋をあてがわれた。また、教皇はじめ国王、諸侯、貴紳から喜捨された巨額の金銀と山をなす贈り物が積み込まれていた。
 なお、スペイン無敵艦隊は1588年イングランドとの海戦に敗れるが、その際サン・フェリペ号も参戦して、オランダに捕獲されている。また、1595年に高知沖で座礁するサン・フェリペ号事件が起きるが、同名船にすぎない。
 暴風雨や座礁の恐れにさらされながら、同年7月7日、早くも喜望峰を回り、インド洋に入る。モザンビークに8月31日に着くが、季節風が逆向きとなっており、越冬することとなる。インド向けの船のなかには、すでにインドに着いていた。1587年3月15日になって、一行を気遣ったヴァリニャーノがゴアで手配、モザンビークに派遣してきた快速船ガレウタに乗り込み、島を離れる。モガディシュ近くまで流され、12日間避泊した後、1587年5月29日ゴアに到着して、ヴァリニャーノに再会する。
 一行は、ゴアに1年近く滞在する。このゴアで大転回が行われる。日本は豊臣秀吉(1537-98)が天下人となっており、インド副王は使節を派遣する必要に迫られていた。他方、ヴァリニャーノには少年使節に対する批判をかわす必要があった。そこで、ヴァリニャーノは自らが正使となり、伊東マンショらを随員とする、インド副王の秀吉向けの使節として再編成することとした。これにより、遣欧使節はいまやキリシタン大名の使節ではなくなり、ポルトガル・インド副王の使節となったのである。
 1588年4月22日、ヴァリニャーノたち一行は快適な便船に乗り、マカオに向かう。途中、マラッカに7月1日に立ち寄リ、マカオに8月11日に入る。このマカオで、ヴァリニャーノはじめ一行は秀吉がバテレン追放令を出したことを知ることとなる。マカオに1年と10か月も滞在することになるが、その理由として風待ちや配船の中止、バテレン追放が上げられている。
 その間、1589年9月16日、少年たちに付き添い、このマカオで司祭となったジョルジェ・ロヨラが客死する。27歳であった。ヴァリニャーノはマカオで、少年らのメモを参考にしながら、自らの構想に従って「天正遣欧使節記」(「日本使節見聞対話録」ともいう)を執筆、ドゥアルテ・デ・サンデ(1531-1600)がラテン語に訳して、1590年に1000部を刊行する。それはイエズス会監修・ヴァリニャーノ著『ローマ・カソリック都市博物誌』といえるものである。
 どうすれば、クアトロ・ラガッツィを帰国させうるかについて協議が行われたことであろう。1588年8月17日に長崎に入港した、ポルトガル船の船長を京都に上らせ、秀吉と交渉して、インド副王の使節の随員として、彼らが帰国することを認めさせたとされる。そこで、1590年6月23日になって、一行はやおら帰国に旅立つこととなる。これらの帰国を巡る事情も詳らかでない。
 1590年7月21日(天正18年6月20日)ごろに、天正少年遣欧使節は何はともあれ、約8年半に及ぶ大旅行を成し遂げ、しかもクアトロ・ラガッツィや活版印刷修業少年たちが一人も命を失うことなく、無事に長崎に帰帆したのである。この時代としては稀有の出来事であり、快挙であったといえる。クアトロ・ラガッツはいまや成人となっており、親たちも彼らを見分けることは困難になっていた。一行は長崎で歓迎される。
 大友宗麟と大村純忠はすでに死んでいたが、一行はキリシタン大名家を訪問して、ローマ教皇からの返書などを手渡したり、親族と面会したりする。その後、1591年3月3日表敬するだけということを条件にして、聚楽第において秀吉に拝謁することとなる。一行は、ヴァリニャーノらポルトガル人14人、伊東マンショら4人、小姓7人、通訳2人の27人の編成であった。彼らはインド副王の書状を奉呈する。伊東マンショたちは末席に座らせられ、楽器を演奏するにとどまった。
▼イエズス会員、司祭となる、印刷機も受難▼
 伊東マンショら4人は、1591年7月25日に天草の修練院においてヴァリニャーノの司式の下で、イエズス会員となる。彼らは千々石ミゲルを除き、修練に励み、1608年長崎において司祭に叙階される。
 その後、伊東マンショは布教を続け、1612年長崎で病死、享年43歳。原マルチノはマカオに追放あるいは脱出、1629年同地で病死、遺骸はマカオの大聖堂の地下にヴァリニャーノとともに葬られる、61歳。中浦ジュリアンは司祭として、20数年伝道を続けるが捕まり、長崎へ送られて、穴吊りの刑に処せられる、65歳。千々石ミゲルは、帰国10年後イエズス会を脱会、棄教する、不遇な晩年を送る、63歳?。
 リスボンで、日本に持ち帰ったグーテンベルク印刷機が購入されたかどうかは不明ながら、教育係のロヨラと印刷修業のドラードは活版印刷の技法の習得に励み、ヴァリニャーノ著「日本のカテキズモ」を刊行している。輸入印刷機により、1591年から7年間に日本最初の活版印刷物として、「伊曽保物語」「平家物語」「羅葡日辞典」など、50種ほどが印刷された。それらはローマ字あるいは漢字・仮名が用いられ、天草本あるいはキリシタン版と呼ばれる。加津佐や天草、長崎での印刷は1612年頃まで続き、その後印刷機、印刷職人もろともマカオに追放された。
 なお、ドラードはゴアで『原マルチノの演説』、マカオで『天正遣欧使節記』を印刷している。帰国後はヴァリニャーノの秘書を務めたが、マカオへ退去する。マラッカで司祭に叙階、マカオのセミナリヨの院長となり、彼の地で死去する、63歳?。
ヴァリニャーノ著
天正遣欧使節記』
マカオ、1590
天草本『イソップ物語』
ローマ字、天草、1593
天草コレジヨ館蔵
原本、大英博物館蔵

▼おわりに▼
 この天正少年遣欧使節を映画になぞらえて言えば、制作・興行はイエズス会、脚本・演出はヴァリニャーノである。ただ、主役は前半の遣欧使節では4人の日本人少年にせざるをえなかったが、後半の副王使節になると本命のヴァリニャーノが登場したといえる。
 要するにイエズス会巡察師ヴァリニャーノの自作自演である。その一つの成果が、遣欧使節滞在中の1585年6月4日に、ローマ教皇がイエズス会に日本布教の優先権を付与するとした教書であった。
 なお、ヴァリニャーノは一度日本を立ち去るが、その後三度目の来日を果たし、日本や中国の布教に貢献して、1606年1月20日マカオで76歳の天寿を全うする。

2 慶長遣欧使節、三つ巴の思惑(1613-20)

▼はじめに▼
 慶長遣欧使節に関する著書や論文、Webページも、天正少年遣欧使節にもまして汗牛充棟の状態である。この場合、切り口が多様なため、総括することは容易でない。松田毅一著『慶長遣欧使節 徳川家康と南蛮人』、 朝文社、1992は、慶長遣欧使節がソテロの言説に振り回された道行きであったことを解き明かす。五野井隆史著『支倉常長』、吉川弘文館、2003は、文字資料を忠実になぞることで、慶長遣欧使節の虚実を明らかにする。大泉光一著『暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」』、文春新書、2017は、著者が考える政宗の計画が、以夷制夷で国を滅ぶという、陰謀であったことを教えてくれる。
▼政宗は幕府、ビスカイノ、ソテロと要談▼
 徳川家康は、西からやって来るポルトガル船ではなく、東からやって来て日本沿岸を航行するスペイン船に関心があった。スペイン船は、ポルトガル船に遅れること40年、1584年平戸に来航している。しかし、1591年の秀吉のマニラに対する入貢要求(フィリピン降伏勧告ともいう)、1596年のサン・フェリペ号事件を経て、スペインのアジア交易拠点であるマニラとは曲折を重ねてきた。
 それに対して、家康はマニラとの交易を受け入れ、さらにはメキシコとの交易に乗り出そうとしていた。キリストの布教はまったく望んでいなかったが、スペインも商教不可分であったため、浦賀におけるフランシスコ会修道院の建立を認めるなど、関東布教を容認していた。そのなかで、イエズス会と世界への布教を競い合っている、フランシスコ会など托鉢修道会系の宣教師たちが次々と来日してくる。
 スペイン・セビリア生まれのフランシスコ会宣教師であるルイス・ソテロ(1574-1624)は、マニラ近郊で日本人キリスト教徒の指導に従事していたが、1603(慶長8)年8月ごろフィリピン総督の書簡を携えて来日し、家康や秀忠に謁見、その後、日本での布教に従事していた。前述の1609(慶長14)年の上総国でのスペイン船遭難に際して、前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサの通訳や斡旋の役目を果たしていた。しかしソテロはドン・ロドリゴの送還船に乗船させてもらえなかった。その後、仙台藩主の伊達政宗(1567-1636)との知遇をえて、東北地方にも布教を行っていた。
 他方、前述の答礼使ビスカイノは日本到着後の1611年6月から7月にかけ、ソテロを通訳にして、江戸で将軍秀忠、駿府で大御所家康に拝謁する。その時、ビスカイノは久能山東照宮にある、近年、重要文化財となった洋式時計(1581年製)を献上する。
 それに対して、家康はマニラとの交易を受け入れ、さらにはメキシコとの交易に乗り出そうとしていた。キリストの布教はまったく望んでいなかったが、スペインも商教不可分であったため、浦賀におけるフランシスコ会修道院の建立を認めるなど、関東布教を容認していた。そのなかで、イエズス会と世界への布教を競い合っている、フランシスコ会など托鉢修道会系の宣教師たちが次々と来日してくる。
 スペイン・セビリア生まれのフランシスコ会宣教師であるルイス・ソテロ(1574-1624)は、マニラ近郊で日本人キリスト教徒の指導に従事していたが、1603(慶長8)年8月ごろフィリピン総督の書簡を携えて来日し、家康や秀忠に謁見、その後、日本での布教に従事していた。前述の1609(慶長14)年の上総国でのスペイン船遭難に際して、前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサの通訳や斡旋の役目を果たしていた。しかしソテロはドン・ロドリゴの送還船に乗船させてもらえなかった。その後、仙台藩主の伊達政宗(1567-1636)との知遇をえて、東北地方にも布教を行っていた。
 他方、前述の答礼使ビスカイノは日本到着後の1611年6月から7月にかけ、ソテロを通訳にして、江戸で将軍秀忠、駿府で大御所家康に拝謁する。その時、ビスカイノは久能山東照宮にある、近年、重要文化財となった洋式時計(1581年製)を献上する。
洋式時計
スペイン、1581年製
久能山東照宮蔵
▼ビスカイノの船、ソテロの幕府船も遭難▼
 ビスカイノは1611年7月7日家康に、3つの朱印状を願い出た。その1つである日本沿岸の測量は認められた。それ以外は、メキシコでの自由な交易をスペイン人にも日本で認めてほしい、そして日本で建造し、日本人の要人が監督する船に商いさせ、来年には戻ってきたいというものであった。それらは留保になった。
 ビスカイノと伊達政宗は、1611年6月24日江戸の路上で初めて、偶然に出会い、交歓する。ビスカイノは、11月8日陸路で、ソテロを通訳にして仙台を訪れ、政宗からもてなしを受ける。ビスカイノは、政宗の援助をえて、塩釜から沿岸の測量を始め、12月2日には海上で慶長三陸地震(大津波)に遭遇する。ビスカイノは仙台に戻って来て重臣から、政宗が船の建造やメキシコとの通商を望んでいることを聞き取る。1612年1月2日、政宗は江戸でビスカイノとソテロを招いており、そこで家康に留保されていた日本船の渡海計画が話し合われたとみられる。
 ビスカイノは、サン・フランシスコ(二世)号の積み荷を捌けなかったものの、同年9月16日に家康、秀忠の返書を受け取り、ヌエバ・エスパーニャへの帰途につく。しかし、ビスカイノは金銀島を探すが発見できず、暴風雨に遭遇、サン・フランシスコ(二世)号は船首楼を破損、メンマストを折り、海中投棄をして、11月7日浦賀に戻ってくる。彼は、この船を修繕することをあきらめ、後述の慶長遣欧使節のサン・フアン・バウティスタ号に同乗して帰国することとなる。
 その時、彼は浦賀沖で、幕府の船が座礁しているのを目にしたという。その船は10月3日過積載で遭難していた。この日本船はサン・セバスティアン号(100トン)といい、田中勝介が乗ったサン・ブエナ・ベントゥーラ号に次ぐ、幕府の第2船であった。この船は、ソテロが秀忠から許可を取り、ビスカイノが同伴する船として、幕府の資金でもって、10人ほどのスペイン人船員を頼りにして建造されていた。ソテロは、その船に秀忠の使者として乗り込んでいた。その他に、なんと政宗の家臣2人をはじめ、多くの日本人と商品が乗っていたという。ビスカイノはこの船を、5月1日に伊東で視察して、僚船とすることを拒否していた。
 こうして幕府、ビスカイノ、そしてソテロの、それぞれ異なった思惑のあるメキシコ行きは挫折したといえる。そこでビスカイノが政宗に働きかけていた渡海計画だけが残ることとなった
 なお、メキシコ行きが挫折した1612年は、幕府の対外政策が画期となった年でもあった。4月21日には岡本大八事件が処理され、それと同時に幕府のキリスト禁教令が出され、そして1609(慶長14)年大船没収とともに出されていた、大船建造の禁が成文化された年であった。さらに、その年を前後して、オランダ、イングランド、そして明が来航、商館を開設していた。幕府にとってメキシコとの直接交易の必要は顕著に低下してしていた。
▼政宗船の建造、慶長遣欧使節の一行▼
 幕府、ビスカイノそしてソテロの挫折から、驚いたことに一年も経たない、翌年の1613年10月28日(慶長18年9月15日)に、仙台藩・牡鹿半島の月の浦からサン・フアン・バウティスタ号が、船出する。慶長遣欧使節の門出である。短期間に、政宗と幕府、ビスカイ、,そしてソテロのあいだで、使節の派遣と渡航の計画が策定され、実施されたこととなる。そうではなく1612年当初より政宗の渡海計画が実施されていた結果かもしれない。
 このいわば政宗船といえるサン・フアン・バウティスタ号は最近、全長55メートル、最大幅11メートル、排水量500トンと推定されている。その船は高い船尾楼を持ち、前檣と主檣にそれぞれ横帆2枚、後檣にラテン帆1枚を張っていた。また、三陸海岸の雄勝湾で、船大工800人、鍛冶600人、雑役3000人が参加して、わずか45日で建造されたとされる。これら船大工らが実数か延数かをはじめ、建造や竣工の日時や模様も不明である。なお、船材の杉板は気仙、本吉、曲木は磐井、江刺から調達された。
 この船には、政宗の家臣支倉六右衛門常長とその一行12人のほか、向井将監の家人ら10人、ビスカイノやソテロなどのスペイン人40人のほか、日本のキリシタン代表3人を含む堺や京都、尾張、奥州の商人、船員など、合わせて180人以上を乗せ、出帆する。その場合、日本人は150人以上(そのほんどは仙台藩ゆかり)とか、スペイン人はビスカイノとその配下24-25人を含む50人、ソテロたちは10人だったともされる。
 さらに、政宗とビスカイノの積み荷のほか、向井将監(幕府を含むとみられる)の商品200、300梱、商人の商品400、500梱が積み込まれていた。それは全体では1300梱ほどであったという。ソテロによれば、交易品は、日本からは船具、弾薬、釘、鉄、銅、その他金属などを安く手に入る品々であるが、逆に日本へは羅紗、粗羅紗、カルザイ[ある種の布地?]、ペルペトアン[羊の毛織物]、ラクダの毛織物、薄い羊毛織物、オランダの麻織物、ルーアンの綿織物、スペインの麻織物、毛布、絹織物、カスティリャとミラノの織物、葡萄酒、乾葡萄、アメンドー、薬種類、鏡、製革、その他フランドルの珍しい品となるとしていたとされる。
 この船が政宗によって建造されたことは確かであるが、その目的や経過、それに乗る使節の性格は詳らかではない。すでにみたように、ビスカイノの答礼船の帰還に当たり、幕府は随伴船としてサン・セバスティアン号を建造するが難破し、同時に答礼船も難破する。幕府としては、ビスカイノにしろ、ソテロにしろ、来航してくるスペイン船で帰還させればよい。また、キリスト禁教令や大船建造の禁があるなかで、政宗に積極的に大船を建造させるいわれはない。それにもかかわらず、幕府は政宗に大船を建造させ、メキシコへの渡航を認めたのである。
 幕府は、メキシコとの直接交易という望みを捨てきっていないため、政宗が一切の費用を負担するなら、1604年から実施の朱印船の枠外で大船の建造と渡航を認可したとみられる。それに当たって、幕府はソテロの企画する渡航計画に従って、ビスカイノを送還することもできるとしたとみられる。
 ここでいう一切の費用とは建造費にとどまらず、艤装費、補修費、運航費(給与、食糧、薪炭、什器など)、使節費などといった、多岐多様で莫大な費用をいう。それを慶長三陸地震で被害を受けた仙台藩がよく負担したものである。
サン・フアン・バウティスタ号
1993年復元、宮城県慶長使節船ミュージアム係留
2021年観覧終了、解体され、
4分の1のレプリカとなる予定。
ローマ教皇宛ての手紙に
用いられた政宗の印章
仙台市博物館、江戸初期

▼政宗、向井忠勝に礼状、家康に銀子▼
 政宗は、幕府の船手奉行の向井将監忠勝(1582-1641)と頻繁に書状を交わしており、1613年4月29日には船大工派遣の礼状を書いている。建造は、それ以前から始まっていたとみられ、わずか45日で建造されたといったことは到底ありえない。仙台藩は、自力で洋式帆船を建造することは不可能であるので、家康に願い出て船大工の派遣を仰いだとみられる。逆に、向井忠勝が政宗に大船の建造を進めたかもしれない。彼は船手奉行ばかりでなく、浦賀でのスペイン交易を取り仕切っていた。
 向井忠勝配下の船大工たちは、伊東ですでに2回にわたって、幕府の洋式帆船を建造した職人たちであった。政宗船の建造は、日本人船大工が中心となり、ビスカイノの配下40人が加わって、建造されたとみられている。また、政宗船に彼の家人が乗船しているが、船大工や船員ばかりでなく、鉱山関係者もいたとみられる。
 政宗は1613年、忠勝への礼状をはじめ、同年5月ごろ大船建造と海外渡航の認可料としてか、家康に銀子1000両などを差し出している。さらに、同月20日にソテロに乗船者や積み荷の構成について了解しているとの書状を出している。ビスカイノ著『金銀探検報告』第12章には、乗組員の給与や食糧、日本人の扱いなど、きわめて興味深い事項について、政宗と取り交わしたとする協定書が示されている【節末注、参照】。
 こうしことから、同年4月下旬には、政宗は幕府から大船建造と海外渡航の許可をえていたとみられるとする向きがある。それは表向きのことで、大船建造はそれ以前の、1613年の早い時期から始まっていたであろう。特に、ビスカイノは古船で帰国するのを嫌がっており、家康に留保された計画を進めたがっていた。
 月の浦出帆までに、ビスカイノやソテロはそれぞれに奔走するが、目立つのはソテロの画策である。ビスカイノは麾下の航海士など船員を提供するだけの役目に落とされ、ソテロとの確執が起きる。1613年5月10日、政宗は使節の準備が整ったという手紙をソテロに送っており、建造開始と同時に人選も進められていた。ソテロは、スペイン国王やローマ教皇への使節の正使となり、また司教に叙階されて、東日本を仕切れるよう進言しないなら、乗船しないなどと開き直り、またビスカイノから家康らの親書を取り上げ、携行することに成功したとされる。
 そのソテロが、1613年6月初め小伝馬町の牢屋に入れられ、処刑されそうになる。それを政宗が陳情して救い出したという。彼は政宗に、出帆直前の10月17日、スペイン国王、ローマ教皇、セビリア市、フランシスコ会、その他、要路宛の書状を書かせる。それら書状はソテロによって、政宗がキリシタンなるとか、宣教師を派遣してくれとか、ソテロを東日本の司教にするよう望んでいるとか、政宗は日本の覇者になるなどと翻訳、改ざんしたとされることとなる。
 こうした状況に加え、ソテロが政宗から使節の先導を任され、その道中、責任者・指揮官のように振る舞っていることから、使節の正使はソテロ、副使は支倉六右衛門常長とする解説が多い。それは逆であろう。実質はともかく、形式は六右衛門が正使、ソテロは介添人兼通訳としての随員であろう。また、ソテロの虚言と妄想のおかげで、政宗の陰謀説が飛び交うこととなる。ソテロの目的は司教に叙階されて、東日本を仕切りたかっただけとされる。
 正使に支倉常長(1571・元亀2 ー 1621・元和7,、異説あり)が最初から指名されていたわけではない。政宗は正使に後藤寿庵(700石、1200石ともいう)を指名する。しかし、彼は東北のキリシタンのまとめ役であり、また政宗とソテロとの仲介者であったにもかかわらず、それをずる賢く断る。そこで支倉六右衛門常長(常長は後年の忌み名)にお鉢が回ってくる。彼が正使に内定したのは、1613年4-5月ごろとされる。
 支倉常長は低い身分の武士だといわれているが、そうではない。また、ソテロが吹聴するような著名な人物でも、政宗の親戚でもない。彼は、600石取りの御使番という中級武士であり、秀吉の朝鮮の役に参戦するなど、政宗の覚えが愛でたかった。ただ、出帆前年の1612年9月、実父常成が切腹させられている。支倉常長は連座して改易・追放となるべきところ、危険で困難な任務に就かせることで、執行猶予あるいは免罪されたとみられている。
慶長遣欧使節行程図

太平洋と大西洋を横断、支倉、受洗▼
【1回目の往航:浦賀─アカプルコ】 サン・フアン・バウティスタ号は北太平洋海流に乗って、太平洋を順調に横断、出帆後約60日後の1613年12月26日、大圏航路の東端であるカリフォルニアのメンドシノ岬を視認し、サカトっーラに寄港する。そのあと、1614年1月25日アカプルコに約3か月で安着する。この地で、日本人は商いを巡り、いさかいを起こしている。一行は陸路、タスコやクエルナバカを経由して、3月24日にメキシコ市に入り、約1か月滞在する。このメキシコ市において、日本人たちは商いを考慮して、何十人かが集団受洗したという。
 ここで、使節の一行は2つに分かれる。ヨーロッパに向かったのはソテロ,、支倉のほか随員30人、日本人の多くはキリシタン商人たちであった。大西洋の港ベラクルスに移動して、海路スペインに向かう。6月10日ベラクルス沖のサン・ファン・デ・ウルア要塞から、スペイン艦隊の一隻であるサン・ヨセフ号に乗船、キューバのバナナに立ち寄って別の艦隊に乗り換え、10月5日スペイン南部のサンルカール・デ・パラメーダに入港する。支倉常長らは日本人として、はじめて大西洋を横断したこととなる。
 彼らは、1614年10月21日グアダルキビール川を遡り、ソテロの出身地であるセビリアに入り、大歓迎を受ける。ソテロは、日本の皇帝と王がスペインに服従するための使節だと思わせ、アルカサール宮殿を提供させる。1614年11月25日、セビリア市に旅費を負担させながら出発、コルトバやトレドを経て、1614年12月20日一行はマドリッドにひっそりと到着して、サン・フランシスコ修道院を宿舎とする。
 越年して、1615年1月30日になってようやく、支倉常長らはスペイン国王フェリペ3世に謁見を賜り、支倉は政宗─ソテロは秀忠─の書簡を奉呈、宣教師の派遣や─マニラでなく、直接─メキシコとの交易許可を求める。
 しかし、ソテロと対立するビスカイノやイエズス会側から、日本国内での禁教と弾圧、ソテロの事実と異なる報告、支倉使節の目的はもっぱら交易関係を結びたいだけで、宣教師の派遣はそのための口実に過ぎないこと、また伊達政宗は日本の一領主に過ぎないことなどが暴露されていた。
 それにもかかわらず、支倉常長は謁見でフェリペ3世から、敬意を払われ、栄誉を受け、また華やかな歓迎を受けるが、それとは裏腹に良い返事はえられない。ソテロを東日本の司教にすることは保留される。ただ日本までの旅費は支給されることとなった。マドリッドでだらだらと8か月も過ごすが、滞在中の2月17日、支倉六右衛門は図ったかのように、王立フランシスコ会跣足派の女子修道院付属教会において、フェリペ3世やフランス王妃たちの列席のもとで洗礼を受ける。洗礼名は何と、ドン・フェリペ・フランシスコ・ハセクラ・ロクエモンという。
▼パウロ5世に謁見するが、成果なし▼
 支倉常長ら一行のローマ行きはインディアス顧問会議などの反対にさらされる。フェリペ3世は、あえてそれを許し、旅費を支給する。1615年8月22日マドリッドを出発する。ソテロに加え、シピオーネ・アマティ(1583-1653)(『日本奥州王国の歴史』、通称『伊達政宗遣欧使節記』、ローマ、1615を刊行)が、遣欧使節一行の通訳兼交渉係として同行することとなる。
 1515年10月3日、サラゴサを経てバルセロナに入り、ジェノヴァのフラガータ2隻とバルセロナのベルガンティン1隻に分乗、地中海を渡ろうとするが、逆風でフランスのサン・トゥロペに避航したあと、10月11日にジェノヴァに入港する。ナポリに赴く巡察使が乗るガレーに乗り換え、教皇領チヴィタ・ヴェッキアの港に着く。そして、10月25日遂にローマに着き、フランシスコ会のサンタ・マリア・イン・アラチェリ修道院を宿舎とする。10月29日、支倉常長たちは華麗な衣装を身にまとい、ローマへの入市式にのぞむ。そのとき日本人は身分のある武士11人と足軽4人が行進した。
 1615年11月3日、支倉常長やソテロたちはサン・ピエトロ大聖堂の帝王の間ではなく、枢機卿会議室において、ローマ教皇パウロ5世に正式に謁見し、政宗からの書簡を奉呈する。ローマで、支倉常長は高潔な人柄が褒め称えられ、11月20日使節のほか8人にローマ市民権が授与された。この1613年10月17日付け(慶長18年9月4日)の政宗の書簡には、スペイン交易のフェリペ3世へ仲介やソテロの司教任命について請願されていたが、許容されない。ただ宣教師派遣については前向きの回答が出される。
 なお、政宗の書簡はヴァティカン図書館に、また「ローマ市民権証書」と「ローマ教皇パウロ五世像」、「支倉常長像」はいずれも国宝として、仙台市博物館で保管されている。
支倉常長像(国宝)
17世紀、仙台市博物館蔵
 支倉常長(右)とルイス・ソテロ(左) 
1615、ローマ・クイリナーレ宮殿(現大統領府)
ルイス・ソテロ像

▼太平洋を三度横断、使節を出迎え▼ 
【1回目の復航:アカプルコ─浦賀】 時間は遡る。慶長遣欧使節がヨーロッパに向かったあと、メキシコに残った日本人はそのまま1年3か月ほど滞在する。その間、何をしていたか不明である。
 サン・フアン・バウティスタ号は,ようやく出帆許可が下り、1615年4月28日になってアカプルコを出帆する。この復航の船にはスペイン国王の使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父ら3人が搭乗していた。それ以外の乗船者の詳細は不明であるが、往航からの多数の日本人船員や商人のほか、スペイン人の船員もいた。そして、メキシコで仕入れた、大量の羅紗やガラス製品が積載されていた、
 この復航船の指揮者が誰だったかであるが、スペイン国王の使節を配慮した副王が手配したスペイン人の船長が乗船していたとされる。それにもかかわらず、往航から乗船した仙台藩士の横沢将監吉久(300石)が船長であったという説がある。また、仙台藩のために鉱山・精錬職人を約50人連れ帰ったという、荒唐無稽言説も拡散している。
 復航船は、マニラ・ガレオンが用いていた北赤道海流に乗って、フィリピン東方沖に達する。しかし、マニラには立ち寄らないで、そこから黒潮に乗って北上したとみられる。1615年8月15日(慶長20年閏6月21日)わずか3か月半で、浦賀に到着している。仙台には8月28日に帰港する。
 なお、カタリーナ神父らは、1610年前フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴの送還、田中勝介のメキシコ渡航の際に、家康と秀忠がフランシスコ会日本遣外管区長アロンソ・ムニョースに託した親書に対する返書を携えた遣日使節であった。遣欧使節と遣日使節が入れ違っていたのである。それにして遣日使節の遅延さは時代の反映か。
【2回目の往航:浦賀─アカプルコ】 サン・フアン・バウティスタ号は、慶長遣欧使節をメキシコに送り届け、そして日本に帰ったあと、いま一度、太平洋を横断して、使節を収容して帰国させるという渡航計画になっていたとみられる。
 1616年9月30日、サン・フアン・バウティスタ号は浦賀を出港し、アカプルコへ向かう。同号は、仙台藩士の横沢将監吉久を新しい指揮者とし、向井将監派遣の船頭らを含む船員200人、そして商人2人が乗船していた。さらに、幕府から囚人同様の扱いを受け、国外退去を通告されたカタリーナ神父はじめ、スペイン人船員が10人ほどいた。
 この二度目のメキシコ向け航海に出るサン・フアン・バウティスタ号は、政宗にとっては一行の出迎え─家康死後でもあり、帰国は困難と予想された─であると同時に、二度目で本格的なメキシコ交易船であったといえる。この迎船に、政宗のほか、向井将監(幕府を含む)や商人たちが用意した、再輸出品の胡椒のほか、漆器、陶磁器など日本商品をぎっしりと積み込まれていた。
 この迎船に200人もの日本人船員が、どのようにリクルートされたかは不明であるが、多数の船員を乗船させたことは、二度目の太平洋を往復する航海を日本人だけでやり遂げる積りであったことを示そう。横沢将監は、航海が成功しそうになければ船を焼却するとまでいって、船を指揮したという。迎船は、太平洋の航海中、悪天候に四六時中さいなまれ、主檣と後檣を折り、向井将監派遣の船頭をはじめ100人ほどの水夫が死亡したという。
 サン・フアン・バウティスタ号は息絶え絶えになりながらも、1617年2月23日にカリフォルニアのロス・モリネス(?)に到着した。その後、同3月上旬アカプルコへ移動する。なお、横沢将監はメキシコ市で、いまさらながらに洗礼を受けている。
▼一行、ソテロをマニラに残して、帰国▼
 一方、支倉常長ら一行は1616年1月7日ローマを発ち、チヴィタ・ヴェッキアから乗船、リボルノで下船、フレンツィエに向かう。そこでソテロは、『世界周航記』をまとめた、同地出身の商人フランチェスカ・カルレッティ(1573-1636)と面談している(Webページ「世界を遍歴したフィレンツェの商人」、参照)。1月29日、ジェノヴァに着くが、支倉常長は三日熱にかかる。病を癒えて、3月9日出発、海路スペインに戻る。一行はセビリア近辺にあるコリア・デル・リオに1年半も居座り、国王からの書状なしでは帰国できないと交渉を続けたという。なかなかの執念である。
 1616年6月、メキシコとの直接交易を切望していた、家康が死ぬ。他方、インディアス顧問会議は彼らを早期に退去させるべきだとの決議を出していた。すでに支倉常長らは日墨から見放されていたのである。
【2回目の復航:アカプルコ─マニラ】 支倉常長の一行は、15人が先発していたので、5人となっていた。フィリピンで返書を渡すとの約束をえて、1617年7月4日スペイン艦隊に乗り、セビリアからメキシコに向けて出港する。なお、先発した15人たちは海上で遭難するなどして、8-10人がメキシコに戻っていた。
 アカプルコには、横沢将監が指揮するサン・フアン・バウティスタ号が待っていた。彼は、仙台藩の積み荷を売り捌き、復航の費用に充てていた。メキシコ当局からは、日本人船員だけでは運航できないとみなされ、サン・フアン・バウティスタ号にはスペイン人船員が乗り込み、その上で新任のフィリピン総督アロンソ・ファハルドが乗り込んだガレオンが伴走することとなった。
 マニラに向かうサン・フアン・バウティスタ号には、仙台藩士や向井将監の手下、商人たちがメキシコで買い付けた商品をはじめ、支倉常長らが持ち込んできた贈答品や購入品が積まれる予定であった。それら物品に、メキシコ当局は関税を課してきた。この2回目の政宗船には、1回目と相違して、朱印状が下付されてたという。これからいえば、課税されてしかるべき積み荷ばかりであったが、常長の嘆願を受け、また日・フィリピン間の交易が無関税であることから、取り下げられた。
 1618年4月2日アカプルコを出航し、同年8月10日ごろ早々とマニラに到着する。オランダ艦隊14隻が、マニラを攻撃しようとしていた。そのため、サン・フアン・バウティスタ号はスペイン艦隊に用船されたあと、廉価で売却することを余儀なくされる。同号が失われたことは、伊達政宗の壮大な野望が挫折したことになる。それは同時に、幕府の交易や宗教政策の状況からすれば、彼にとっては厄落としになったといえる。なお、サン・フアン・バウティスタ号はミンダナオ島方面へ向かい消息不明、あるいはマニラ沖で砲撃されて沈没した、あるいは大西洋で出て、奴隷交易に従事したともいう。それはともかく、同号に積まれていたあまたの荷物はどうなったのか、不明である。
 伊達政宗の使節一行が、なぜ約2年間もマニラ滞在することになったのか、定かでない。支倉常長や横沢将監、その他日本人は、フランシスコ会から査問を受けているソテロや、在地日本人代表3人をマニラに残して、1620年8月26日長崎へ帰着したという。その帰国手段について、ジャンクを建造したとか、朱印船に便乗したとか、あるいは政宗が仕立てた迎え船で帰ったとかといわれているが、不明である。1620年9月22日(元和6年8月26日)になって、何はともあれ、実にまる7年ぶりにルソンより仙台に帰国する。
 伊達政宗は、支倉常長らの帰郷を待っていたかのように、領内のキリシタン弾圧を本格的に開始させる。支倉常長は棄教を迫られ、支倉家は廃絶するが、帰国後1年もたたない、1621年8月14日(系図では翌年)死去する。享年50歳。後藤寿庵は棄教しないで行方をくらまし、横沢将監は棄教する。他方、ソテロは日本への伝道を続けるべく、マニラから日本人修道士や従者を引き連れ、ジャンクに乗って、常長死後の1622年10月22日に薩摩に潜入するが捕まり、大村藩の牢に投獄される。1624年8月25日火刑にされ、殉教する。49歳、福者。
▼おわりに▼
  ここでも、慶長遣欧使節を映画になぞらえて言えば、監修は徳川家康、制作は伊達政宗、脚本・演出はルイス・ソテロ、主役は支倉常長、後援はフランシスコ会といったところであろう。幕府、政宗、そしてソテロには三つ巴あるいは三者三様の思惑が絡んで実現したのが、慶長遣欧使節である。
 慶長遣欧使節が政宗船に乗って渡航したからには、政宗はそれに確たる目的を持っていたはずである。そこが明白でない。そこから諸説が湧き出ることとなっている。政宗も東北の雄藩として、西国大名のように海外交易をしたかったが、手掛かりがなかった。そこで、ビスカイノやステロの口車に乗せられ、あるいは乗ることにした。そして、メキシコに使節を送り出すため、幕府におもねり、手伝いを受け、認可を取り、またステロを案内役にせざるをえなかった。
 家康の目的は、メキシコとの直接交易を独占しようとしたことに加え、佐渡鉱山の産出量が激減するなか、スペインから鉱山・精錬職人を招聘したがっていた。そのために企画した幕府第1船は職人招聘を実現できず、第2船は渡航する前に失敗に終わる。そこで、政宗にメキシコ交易に意欲があることを利用して、政宗に代船の建造を忖度させたといえる。それは莫大な費用の支出として、東北の外様雄藩に対する特殊な天下普請であったといえる。幕府は政宗船の建造や運航に関与し続ける。
 ステロの目的は、フランシスコ会士としてイエズス会に取り込まれていない、東日本に布教を広げ、その地方の司教になりたいという野望であった。それに当たって、家康のメキシコとの直接交易と鉱山・精錬職人の招き入れたいという要望、そして政宗の海外交易に乗り出したいという意図を実現できるのは、自分しかないと売り込んだ。その道具立てとして、慶長遣欧使節という神輿を仕立て上げ、政宗を乗せることに成功する。
 こうした三つ巴の思惑はいずれも成功しなかったかにみえる。だが、家康にとっては、慶長遣欧使節が何らかの成果を上げればそれを刈り取ればよく、それが失敗しても大きな損失はないと、高みの見物をしていた。
 世界における日本の銀そして銅の生産や輸出の状況からみて、家康の鉱山・精錬職人の招聘意欲も切迫していなかったようで、金の選鉱では「水銀流し」、銀の精錬では灰吹き法が金銀の生産を向上させていた。また、オランダやイングランド、明との交易はすでに軌道に乗っていた。そもそもスペインがアマルガム法を日本に移転してくれると期待することに無理があった。
 慶長遣欧使節は宣教師の増派とメキシコ交易の促進という名目も達成できなかったし、すでに無意味なものになっていた。慶長遣欧使節が帰国する前にキリスト教布教は終焉を遂げており、また1624(寛永元)年スペイン船が来航禁止(ポルトガルは1639年)により、スペイン交易もまた幕を下ろしてしまう。ソテロにとっては、慶長遣欧使節を組み立て、仕切り、引き連れ、メキシコやスペイン、イタリアを経めぐったことで、十分な成功と満足したことだろう。それにひきかえ、伊達政宗は何をえたか。これは心もとない。あのはかりごとはどうなったのか。
 一言でいえば、慶長遣欧使節は家康のスペイン外交に組み込まれ、ソテロに踊らされた政宗の壮大な渡航劇であった。しかし、その渡航劇は日本有史以来の、日本人による壮大な海外遠征あるいは大航海であった。この日本海事史における画期的な意義はもっと強調され、賞賛されてよいことである。しかし、家康や政宗のメキシコとの直接交易という思惑は、ガレオン交易を攪乱することになるので、それを支配するスペインが認めるわけのない企てだったし、彼らもそれを貫徹する意思もなかった。
 なお、仙台藩の切支丹改所に明治初年まで、支倉常長の旅行記19冊が保管されていたという。いまも行方不明、以て瞑すべしか、宜なるかなか。
【注】
ビスカイノ著『金銀探検報告』第12章(村上,直次郎訳、異國叢書、駿南社、1929)にみる政宗との協定書の骨子(要約)
政宗は、
@メキシコまでの航海のために艤装された船を提供する。スペイン国王に出費はない。 
A航海士など士官26人に、アカプルコまでのスペインと同額の俸給と糧食を支給する。司令官(ビスカイノ)はじめ役人(王室警吏官、水管理官、外科医、その他3、4人)の分は負担しない。
B士官たちの俸給のなかから、一般船員に賃金を即時給付して、かれらを救済するようにする(水夫長や船大工50、その見習40、その他役付30、水夫25、水夫見習15、各タエス(テール、両))。
C居所から仙台までの旅費日当を前渡し、馬匹また手荷物の輸送船を提供する。
D慣例に従って乗組員に、それぞれ非課税・無運賃の貨物輸送権を供与する。
Eスペイン人も日本人も、全員、司令官の指揮に服することとする。
F俸給を受けない者にも、アカプルコまでの間、糧食を支給する。
G日本人は船持ちの事務方、また人手不足を補うため水夫見習として、少数を渡航させる。


3 ペトロ岐部カスイ「転び申さず候」(1615-30)

▼はじめに▼
 ペトロ岐部カスイは、近世初頭、世界を渡り歩いたことから、「日本のマルコ・ポーロ」とか、「世界を歩いたキリシタン」とか呼ばれる人物である。それがどれほどのものか。その実態はそれほど明らかでないが、五野井隆史著『ペトロ岐部カスイ』、教文館、2008(初出、1997)から、そのおよその姿をみてみよう。
ペトロ岐部カスイの行程図
▼豊後キリシタン武士の子として生まれる▼
 ペトロ岐部カスイ(1587-1639)は、1587(天正16)年、豊後のキリシタン大名大友氏の重臣一族で、両親がカトリック教徒の子として生まれる。日本人として初めてエルサレムを訪問し、ローマにおいて司祭となり、帰国後、禁教のなか宣教を続け、殉教した稀有の人物である。
 ペトロ岐部カスイは、1600年13歳で親元から離れ、長崎のイエズス会セミナリヨに入り、1606年にはイエズス会の同宿(司祭や修道士とともに寝起きして、彼らの宣教を手伝いする信徒)となり、入会の仮誓願を立てる。
 1612年の慶長禁教令が全国に拡張されたことにより、1614(慶長19)年長崎や島原半島の口ノ津から多数の宣教師や高山右近など信者が4隻の船に乗せられ、すくなともマカオに123人、マニラに12人の日本人が追放された。なお、この1614年キリシタン追放にペトロ岐部カスイが、後述のミゲル・ミノエスやマンショ小西、さらに天正少年遣欧使節の原マルチノとコンスタンティノ・ドラードとともに加わっていたとする記事もある。
 それにペトロ岐部カスイは加わらず、翌1615(元和元)年の春、マニラを経て、その秋、マカオに渡る。その時、マニラにはポルトガル船でも、またスペイン船、中国船でもなく、同年予定の同地向け5隻の朱印船のいずれかに便乗したのではないかとされる。この時代、海外渡航船に、かなりの選択肢があったといえる。
▼日本人として初めてエルサレムを巡礼▼
 マカオのコレジオでラテン語と神学を学ぶが、マカオの管区長の日本人への偏見から司祭叙階がかなわないことがわかる。マカオには、すでにローマで司祭に叙階され、1615(元和元 )年8月に日本に帰国したという、生年生地不明、没年1646(正保3)年のアラキ(荒木)・トマスという人物がいて、彼らにローマ行きを勧めたらしい。そこで、彼は3人または4人の同宿とともに、1616年11月か12月ごろマカオの退去を許されて、ローマを目指すこととなる。
 彼らは、ポルトガルのナウに乗船して、1617年1月ごろマラッカに寄港したうえで、同5月ごろにはゴアに到着したらしい。ペトロ岐部カスイは、すでにエルサレム行きを決意していたらしく、同年、後にローマで司祭となる美濃出身のミゲル・ミノエス(1597-1628)と対馬藩主宗義智の子である小西マンショ(1600-44年)が乗った、リスボンに帰るナウを見送る。
 ゴアを離れるまでの、2年間何をしていたか。それについて、奴隷身分の水夫に身をやつしたりして、旅費を稼いでいたとされもする。滞在費や渡航費の多くは、地元の有徳の人々に工面してもらったのではないだろうか。
 1618年9月ごろになって、ペトロ岐部カスイは単独で、海路、ゴアからグジャラートのディヴを経て、ペルシャ湾の入口ホルムズに入港する。1619年2月ごろ、湾奥のウッブラ(現アバダン)に入り、上陸したとされる。そして、陸路、多分バクダード、アレッポ、ダマスカスを経て、同年5月(あるいは9月)ごろ、日本人としてはじめて、エルサレム入りを果す。さらに、ペトロ岐部カスイは、早くも翌年の1620(元和6)年5月か6月ごろには、ローマにたどり着いたという。これらの行程はブラック・ボックスのため、あれこれの推察が行われている。
 グジャラートのディヴやホルムズはポルトガル領となっていたので、ゴアからはポルトガル船やグジャラート商人の船の便船があったであろう。その後はペルシャ湾の商人のダウを利用したとみられる。ウッブラからは、陸路、何らかの隊商に加わって、オスマン帝国の寛容の下でバグダード、パルミナ経由、シリア砂漠を横断して、ダマスカスに1619年4月か5月に入り、その後聖地エルサレムに入域したとみられる。彼は歓喜に震えながら、聖地を巡礼したことであろうが、その足跡は明らかでない。
▼ローマで司祭叙階、イエズス会員となる▼
 ペトロ岐部カスイが、エルサレムをいつ入域したか、またいつ退去したかは不明で定かではないし、彼が巡礼したという証言も記録もないようである。ローマには1620年5月中旬から6月中旬までに来着していたという証言があるという。エルサレム着からローマ着までわずか1年にも満たない。この短さは異常といえるが、陸路をとっていては不可能である。
 1620年1月中旬エルサレムを発って、ヤッフォあるいはアッコに待機している巡礼船に乗船した。その際、彼は船賃を払えないので、漕ぎ手か水夫となったとされる。1620年4月か5月にはヴェネツィアに到着したという。そうではなく、イタリア南部のブリンディシで下船したかもしれない。それはともかく、ゴアからエルサレム、そしてローマへの行程はまさに至福に満ちた奇跡の道行きであったといえよう。それでも日本追放後、5年を要してはいた。
 なお、ローマ着後から帰国に際してのマニラ出発までの足跡は、彼や関係者の書簡や史料などが残っていることから、かなり明瞭となる。
 ペトロ岐部カスイが、1620年10月18日にはローマに滞在していたことが確認されている。彼は、まずもって、日本から携えてきた秋月のキリシタン殉教者マティアス七郎兵衛の右手中指を、ポルトガル管区を管轄するイエズス会総長補佐のヌーノ・マスカレニャスに、聖遺物として差し出したであろう。
 彼は、1620年11月15日サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂において司祭に叙階される。そして、同月20日には、イエズス会への入会が許される。32歳であった。直ちに、ローマのイエズス会聖アンドレア修練院に入って、2年間イエズス会士として修練を励む。この司祭叙階とイエズス会への入会は異例の速さで執り行われたとされる。なお、彼はそのころ、ローマ教皇への謁見を許されたとみられるが、はっきりしない。
 彼は、約2年間のローマ滞在中、慶長遣欧使節を引見した教皇パウロ5世(在位1605-21)の葬儀と、新教皇グレゴリウス15世(在位1621-23)の選出と戴冠式、そしてゴアで別れたミゲル・ミノエスとともに、1622年3月イエズス会を設立したイグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルの列聖式に立ち会っている。ミゲル・ミノエスは、1626年ローマで司祭になるが、1628年帰国を果たさずリスボンで死去している。
 1622年6月6日、帰国を期してローマを離れ、ゴアまで同道する4人の修練士とともに、チヴィタ・ヴェッキアから船に乗り、ジェノヴァを経て、スペインのバルセロナで下船し、サラゴサ、マドリード、エヴォラを経て、1623年1月末リスボンに着いたとみられる。その地で誓願を立て、一人前のイエズス会員となる。なお、リスボンにはゴアで別れた小西マンショがおり、同年聖アンドレア修練院に入っている。彼は1627年ローマで司祭となり、1632年7月ごろ日本に帰国したとされる。
 
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂
4世紀創建、16世紀修復、ファザード18世紀
ジェズ教会
(元イエズス会本部聖堂)
1580年完成
▼ポルトガルのインド大艦隊に乗ってゴアへ▼
 1623年3月25日、大型のナウ3隻、護衛のガレオン3隻のインド大艦隊が、テージョ川下って行った。それら艦隊には、すでに3月20日、エチオピア大司教アルフォンソ・メンデスと2人の補佐司教、 それにイエズス会司祭17人の宣教団20人のほか、ペトロ岐部カスイらゴアに向かう宣教師3人が乗船していた。なお、この大艦隊には、ヴァスコ・ダ・ガマの曾孫で 2度目のインド総督となるD・フランシスコ・ダ・ガマの一行が座乗していたようである。
 この大艦隊の航海もまた例にもれず多難であった。解覧したその日に暴風雨に襲われ、旗艦サン・フランシスコ・ザビエル号のマストが折れ、ガレオンが陸に吹き寄せられる。それでも、同年4月マディラ島、カナリア諸島に寄港する。激しい雨、凪、潮流、猛暑、そして食料の腐敗、マラリヤ、赤痢、コレラに悩ませられ、病人は300人の以上、神父5人、艦長2人をはじめとした多数の死者を出しながらも、6月1日赤道を超え、順風をつかみ、7月25日には喜望峰を回航し、9月越冬のためモザンビークに入港する。その直前、旗艦が暗礁に乗揚げる。
 新総督が着任することを前触れするためか、航海の季節は終わっていたにもかかわらず、ゴアに小型のガレウタを派遣する。それを受けて、ゴアから返船のパタショが来るが、その時お定まりの暴風雨に襲われ、全艦隊が海岸に打ち上げられる。
 1624年3月27日ナウ、4月1日ガレオンは、それぞれ修理を終えて、モザンビークを出帆する。その時、エチオピア大司教やペトロ岐部カスイたちは、季節風に吹き寄せられることを恐れて、ナウからガレオンに乗り換えたという。ゴアでは強風ため川を遡行できず流され、曳き船アルマディの助けを借りている。彼らは、モザンビークから58日、リスボンから14か月と10日かかって、1624年5月28日ゴアに何とか到着する。なお、天正遣欧少年使節もモザンビークで越冬し、リスボンから13か月半かかっていた。
▼アユタヤやマニラを巡って、帰国を企てる▼
  ゴアに着いた時、毎年4月に出るマラッカ・マカオ向けの便船に、間に合わなかった。ペトロ岐部カスイは1624年11月17日ディヴに向かうエチオピア大司教たちを見送る。その5か月後、マラッカではなく、なぜかマニラに向かう便船に乗り、1625年8月ごろ着き、10月18日から11月15日にかけてマカオに移動したとされる。彼が目にしたマカオはオランダの攻撃におののく要塞都市に変貌していた。
 すでに宣教師の日本入国は困難になっていたし、イエズス会でも日本渡航を自粛していた。だが、ポルトガル船や中国船は、いままで通り日本へは就航していた。マカオに1年と数か月滞在した後、別の手立てもって帰国しようとして、1627年2月マカオを発ち、マラッカ経由で、シャムのアユタヤに向かうこととした。アユタヤには日本人町があり、朱印船が寄港しており、山田長政もいた。
 当のポルトガル船は、シンガポール海峡で4隻のオランダ船に襲われ、捕獲される。乗船者は陸に逃げ込む。14日間ジャングルをさまよって、何とかマラッカにたどり着いたという。ペトロ岐部カスイはマラリアに罹るがすぐに立ち直り、1627年5月1日同地を出発、7月末アユタヤに到着、身分を隠せば帰国できると考えるなどして、そこに2年ほど滞在することとなる。しかし、アユタヤでも帰国の道が断たれていることを知るが、ペトロ岐部カスイはそれにめげない。
 1628年5月ごろ、スペイン船がシャム船と朱印船を焼き討ちするという、アルカラーソ事件が起きたことで、シャムにおけるイエズス会の布教が禁止され、また日本では1630年までポルトガルとの交易が停止される。1629年春、マニラから謝罪使節がアユタヤに送り込まれてくる。ペトロ岐部カスイは、このマニラに戻る使節船に便乗して、同年7月2日マニラに向かい、7月末あるいは8月初旬に着く。その地には、帰国に失敗した日本人神父たちがおり、彼らと帰国を企てる。
▼自前の船を仕立て、坊ノ津に入港▼
 「〔イエズス会員の〕松田ミゲル及び在俗司祭の伊予ジェロニモと相談の上で、私達は船を買い上げ、日本人の船長と水夫を傭い入れることを決めました。…私達の管区〔日本〕やこの地方の管区長…総督閣下の聞罪師…の援助によって、必要なものすべてを整えた後、私達は1630年3月2日にマニラを出発いたしました」と、自らの書簡で述べる(五野井隆史著、p.220)。その船の船長はじめ乗組員はすべてキリシタンであったという。マニラの日本人町には、最盛期の1620年には3000人もの日本人が住んでいたとされる。
 彼らは、マニラ市からは南西150km、南シナ海に浮かび小野田元少尉で有名となった、ルバング島で中古船を修理するが、船食虫に侵されていることがわかる。その被害も修復して、航海に適した風が吹いてきたので、「私達の聖なるイグナチオと聖なるフランシスコ・ザビエルの助力を絶えず願って」、6月20日ごろ日本に向け出帆する。その船に、伊予ジェロニモは乗っていなかったが、翌年帰国していたという。
 このルバング島出帆以降,再び消息が不明瞭となる。
 この船は、朱印船の帰国航路をたどったとみられるが、バシー海峡を通過した後、嵐に見舞われ、七島(トカラ列島)の口之島かあるいは中之島かに座礁、破砕する。ペトロ岐部カスイらは地元の小船を購入し、島役人監視の下で、1630(寛永7)年7月中旬ごろ、ルバング島からわずか30日ほどで、鹿児島の坊ノ津にたどり着く。番所で取り調べを受けるが、遭難した商人ということで放免される。日本を出てから15年ぶりの帰国であった。
 坊ノ津は、まさに"ポエニ(フェニキア)の風景"をなしており、古来より有力な海外交易地として誉れ高く、遣唐使船の出帆地、鑑真第二船の寄港地、あるいはザビエルの上陸地でもあった。近世、日本の交易地が長崎に限られるなか、中国や琉球などとの交易が公然と行われ、薩摩藩は密貿易を篭絡してきたところであった。ペトロ岐部カスイは、この地で、ザビエルの助力をえたことに歓喜するとともに、ザビエルの宣教をわが使命と自覚したことであろう。
▼「転び申さず候」、享年52歳、福者▼
 その後、長崎に向かう。そこはキリシタン迫害と殉教の町と化していた。その近辺に潜むが、1633年には九州を離れたらしい。1636年ごろ、ペトロ岐部カスイや小西マンショ(1644年、飛騨高山で処刑、殉教したとされる。日本人最後の司祭)など、日本人神父4人が生き残り、京阪や江戸、東北を巡回布教したという。
 1637(寛永14)年島原の乱が起きる。1639年の夏ごろ、ペトロ岐部カスイ、ジョアン・バティスタ・ポルロ、式見マルティーニョの神父らが仙台藩領内で捕らえられ、江戸に移される。
 評定所で4回、老中から5回(将軍家光が臨席したともいう)審問を受ける。ポルロ、式見の神父は棄教するが、いずれも獄死する。ペトロ岐部カスイは、穴吊りしにされたり、焚き木炙りに会い、また焼鏝(やきごて)を当てられなど、激しい拷問を受けるが頑として棄教しない。1639年7月4日(寛永16年6月4日)獄死、殉教する。享年52歳。
 なお、ペトロ岐部カスイにローマ入りを勧めたアラキ・トマスは日本帰国後捕まり、拷問を受けて棄教、荒木了伯と名乗り、沢野忠庵らとともに幕府の手先なったとされる。また、彼が長崎に潜伏中に、棄教神父フェレイラ(沢野忠庵、遠藤周作の小説『沈黙』のモデルとされる)の立ち帰りに手をかしたとか、逆に江戸での審問中に、彼を棄教させようとしてフェレイラを呼び寄せ、面会させたという話がある。
 ポルロ、式見の自白が決め手となり、1639年8月ポルトガル船が長崎に入港するが、ポルトガル人の日本渡航禁止が申し渡される。
 ペトロ岐部カスイに関する文献として、松永伍一著『ペトロ岐部 追放・潜入・殉教の道』、中公新書、1984や、高木一雄著 『ペトロ・カスイ岐部神父の生涯』、東京大司教区東京教区ニュース228-234、2005・12-2006・7などがある。それらと五野井隆史著とでは、かなりの異同があるが、取り上げない。
 前者や五野井隆史著では、海賊浦辺衆あるいは岐部水軍の血筋が指摘されている。ただ、彼が自前で帰国船を仕立てて帰国できたのは、水夫になったというローマへの行き帰りの海上経験や見聞からえた知識の賜物であったといえる。また、後者は仙台での捕縛から殉教までの記事が詳しく、1631年ごろポルロ神父は58歳、式見神父は57歳だったという。
▼おわりに▼
 現代の心性からでは考えることのできない、その時代ならではの一生である。
 天正遣欧少年使節は、1582(天正10)年出発、90年(天正18)年帰国という、ヨーロッパに渡航して帰国した、最初の日本人とされる。それに比べ、ペトロ岐部カスイの足跡は少年使節と違って、海路や陸路を組み合わせながらヨーロッパに渡航したこと、日本人として初めてエルサレムを巡礼したこと、帰国の方途を探してアユタヤやマニラを経めぐり、そして自前で帰国船を艤装、運航したことの意義は、きわめて大きい。
 また、初めて世界一周した日本人は、1793(寛政5)年石巻出帆、アリューシャン列島漂着、その後シベリア横断、サンクトペテルブルグ移送後、ロシア船に乗船して、南極圏近くまで流された上で、1804(文化元)年長崎に帰着した、若宮丸漂流民であるとされている。しかし、彼らは送還されたのであって、ただただ結果としての世界一周したに過ぎない。
 これらからみて、ペトロ岐部カスイは自らの意思で、明治以前において世界をまたにかけた点で、「日本のマルコ・ポーロ」とか、「世界を歩いたキリシタン」といえなくはない。それも少年使節と同様、イエズス会という後ろ盾があってのことであり、そのスケールの小ささは他と比べるまでもない。
 2007年、ローマ教皇庁はペトロ岐部カスイおよび殉教者187人を、福者に列した。出生地の大分県国東市国見町岐部にある、ペトロ・カスイ岐部記念公園には、彼の像が建てられている。

あとがき─1860年240年後、咸臨丸、太平洋を横断─

 近世日本人たちは、キリスト教の布教時代の60年間の後半、しかもキリスト教禁圧が厳しくなるなかで、海外渡航していた。しかも、それらはヨーロッパ人のキリスト教布教あっての、それに依存しての海外渡航になっていた。それは、ヨーロッパ人からすれば、大航海時代の余話でしかすぎないであろう。
 そのなかにあって大いに賞賛すべきことは、慶長遣欧使節において、主に日本人が日本建造船を運航し、数次にわたって太平洋横断を果たしたことである。そして、ペトロ岐部カスイが自らの意思と才覚でもって、中近東からヨーロッパにかけて巡礼し、日本に帰国したことである。とはいえ、こうした航海の記録は流布されることもなく、埋もれてしまった。
 なお、政宗船サン・フアン・バウティスタ号以後、太平洋を横断、アメリカ大陸に上陸した日本人は、スクリュープロペラ式汽帆併用船咸臨丸(オランダ製、100馬力)に乗った、勝海舟たちであった。その船の出帆は、政宗船の実に240年後の、1860年であった。その艦長勝海舟らはアメリカ人士官たちの指導を受けていた。また、その船にはジョン万次郎(1827-98)が乗っていた。かれは、漂流後アメリカに入国して捕鯨船員となり、1851年サン・フランシスコから上海経由で帰国していた、
(2018/09/18、11/25記、2020/08/21、2022/02/12補記)

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