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▼はじめに▼
 このデモステネス海上貸付弁論については、「まえがき」において、伊藤貞夫氏や前沢伸行
氏の論考において総括的な分析が行われており、それに付け加えるものはさしあたってないと
してきたが、必ずしもそうでないようである。やはり、海上貸付弁論を弁論そのものとして、分
析してみる必要があるようである。ここではかなり長めの「あとがき」となる。
▼海事訴訟はどこで扱われたか▼
 まず、デモステネス海上貸付弁論(弁論年代前350年代から20年代まで)は、どういった法廷
で行われたのか。その理解を容易にするため、ディカイ・エンポリカイ(dikai emporikai)といった
特別法廷で行われてきたとされるが、そうした法廷が特に設けられていたようではなく、一般の
陪審廷で行われていたとみられる。
 それについて、アリストテレス『アテナイの国制』59:5には「テスモテタイ[法務執政官]は……
商業や鉱山についての……私法的訴訟を提出する。彼らは……私訟の、公訟の陪審廷を抽
籤により割り当てる」とある(村川堅太郎訳『同全集17』、岩波書店、1972)。それについて、村
川堅太郎氏は「これはアテナイへの輸出入貿易で契約文書が存する場合に、市民や在留外人
のほか、外国人にも認められた訴訟で、1か月以内に判決された。敗れた者には罰金。[前]5世
紀から4世紀半ばまではnautodikai[ナウトディカイ]と呼ばれた委員たちが商業訴訟を扱った
が、[前]4世紀半ば頃テスモテタイの管掌にかわった」と注釈としている(前同、p.427)(注)。
(注) ディカイ・エンポリカイについて、前沢伸行氏は前350-40年整備された「1か月以内に判決すべき訴訟」
の一つで、「担当の役人によって毎月訴えが受理される」としている(同稿「古代ギリシアの商業と国家」『岩
波講座世界歴史15 商人と市場』、p.171、岩波書店、1999)。
 これに従えば、前4世紀半ば以前の海事訴訟は、その内容は不明ながら海事裁判官(ナウト
ディカイ)という専門官憲によって処理されていたが、それ以後ディカイ・エンポリカイとして制度
化され、それが外国人にも開かれ、1か月以内の即決になったといえる。なお、現実に海事訴
訟が行われる期間は、海上交易が休止する期間―ボエドロミオンの月からムニキオンの月、
すなわち9月から4月まで―に限られた。
 この陪審廷は、私訟にあっては、陪審員6000人のなかから選ばれた、係争額が1000ドラクマ
以下の場合は201人、それ以上の場合は401人の陪審員により審理された。陪審員は、年間
200日とも300日ともされる陪審廷に出廷して、日当3オポロス(注)を受ける。その年間の日当総
額は当人の最低生活費に相当し、その経費総額は年間国家予算の13分の1を占めた。
(注) 1タラントン=60ムナ、1ムナ=100ドラクマ、1オポロス=6分の1ドラクマ。
 陪審廷において、原告、被告は、それに共同陳述人が加わりながら、それぞれ2回、一定の
時間内で、弁論(陳述)することが認められるにとどまる。その後、陪審員の票決に付され、結
審した。この手っ取り早さのおかげで、同一法廷において、私訟は少なくとも1日に4件も処理さ
れた。したがって、弁論の良し悪しが票決の行方をほぼもっぱら左右することとなった。それに
勝訴するためには、弁論の草稿を代作する弁論家が不可欠となる。それには当然、相当の費
用がかかる。
 ここできわめて重要なことは、ディカイ・エンポリカイが設置されたことによって、弁論家によっ
て代作された弁論が、今日まで残ることになったことである。
 弁論家はデモステネス弁論においても言及されている。弁論第32番31-2節では、デモステネ
ス自身が被告の縁者として助けたことから、原告から彼を告発するぞと気色ばまれている。ま
た、弁論第35番15節では、被告は有名な弁論家、エッセイスト、そして修辞学の教師であるイ
ソクラテス(前436-338)の教え子だとされ、奸計の裏方が暗示される。いずれにしても好意的
には扱われていない。古代ギリシアにあって、「弁論家」という言葉は現代日本の「評論家」と
同じように、軽蔑の対象であったという。
▼弁論の対象となった紛争は何か▼
 次ぎに、どのような海事紛争が弁論の対象となって残されたかである。それがそのごく一部
であることはいうまでもない。それら紛争の内容は、デモステネス弁論に限ってであるが、借受
金の未返済や利子の未払いをめぐる係争であり、それ自体はかなり単純なものである。そうし
た紛争であればおおむね話し合いで解決され、また特に裁判に持ち込まなくても、私的あるい
は公的な調停によって十分に解決されよう。
 それにもかかわらず裁判に持ち込まれるのは、まずもってその係争額がきわめて多額であ
ったからである。そのすべてが401人の陪審員で構成する法廷で審理されたことであろう。いく
ら多額であっても、争点が単純であれば、裁判に持ち込まれることはない。デモステネス弁論
にあっては、そのすべてが(第33番は海上貸付ではない)何らかのかたちで海難が絡んでい
る。
 すなわち、海難は借り手にとっては不可抗力という言い訳となり、他方、貸し手にとって立証
が困難なことから、争点となっているのである。そして、その海難が海上貸付金返済の免責事
項となり、それをいわば悪用した事件が訴訟となっている。この弁論の最大の争点は次節でふ
れる。
 そうした事情から裁判に持ち込まれた紛争は、それなりの数があったとみられが、その係争
額が多額であるとしても、そのすべてについて弁論がいわゆる弁論家によって代作されたとは
考えられない。そして、デモステネス弁論の内容をみると、海難の立証が困難ではあるが状況
証拠によって、十分勝訴しうるような弁論ばかりである。すなわち、それは弁論家が勝訴しそう
な紛争しか請け負わなかったのではないか。特に、デモステネス弁論が本人のものでないとい
うとき、なおさらであろう。そうして代作された、しかもほんの一部の弁論家の弁論が、現存して
いるにすぎない。
 デモステネス弁論において当事者19人のうち、アテナイ市民は弁論第35番と第32番の話者
で貸し手の2人にとどまり、他は居留あるいは来訪外国人である。したがって、多くの弁論はア
テナイ市民の陪審廷に提訴された外国人間の紛争を、アテナイ市民の弁論家が当事者である
外国人の利益のために代作したものとなっている。
 したがって、この海事訴訟はアテナイ市民である陪審員にとって身内の事件ではなく、その
裁判に深刻たりえない。そのため、海事訴訟弁論はアテナイ市民である陪審員の心証をくすぐ
るような、いわば受けねらいの弁論とならざるをえない。それは、例えば『ディオーニソドーロス
弾劾』第56番48節は、「貸し手たちは自分たちの金を危険にさらしていますが、あなた方の港
におけるビジネスを繁栄させることになっています」といった言葉で締めくくられることになって
いる。なお、陪審員には賄賂が配れたともいう。
▼海難、その立証の困難な争点▼
 いま上でみたように、デモステネス弁論の最大の争点は、海難にある。その理由は海上貸付
が冒険貸借と呼ばれることになる、免責慣行があるからである。「海上貸付が不動産を担保と
する貸借と異なる所以は、船ないし船荷を抵当に貸付が行われ、かつそれらが無事にアテネ
に帰航したとき、はじめて貸方に元金と利子とを受取る権利が生じるところに認められる。とく
に第2の点は、難船や海賊の襲撃など航行中に事故が生じた場合、元金の回収すら不能となる
ことを意味し、海上貸付にまつわる、他の貸付には見られぬ危険性を示している」からである
(伊藤貞夫著「第6章古典期アテネの海上交易」『古典期のポリス社会』、p.191、岩波書店、
1981)。
 一般に重大な海難事故は、後年、海固有の危険(perils of the seas)によって発生するものと
して、「海固有の危険、軍艦、火災、外敵、海賊、剽盗、強盗、投荷、捕獲、免許状、報復捕獲
免許状、襲撃、海上における占有奪取……」といった海上保険の対象となる危険の、筆頭に
上げられてきた。それは、通常の作用としての海上の危険(perils on the sea)とは違って、海
の偶然な事故また災厄を意味しており、より具体的には「風波の作用に因る破船又は難破、
沈没、座礁、乗揚げ、触礁、衝突、その他の風波の異常な作用の結果(()内、略)、船舶及び
積荷の行方不明等」であった(葛城照三著『英文積荷保険証券論』、p.77、早稲田大学出版
部、1959)。
 第35番『ラクリトス弾劾』にあっては、借り手の使った船はアテナイを出帆し、ポントスにから
帰帆して来るが、帰途、海難によって担保の積荷が喪失したとか、投げ荷されたとか主張し
て、債務を清算しない。貸し手にとっては、現実に担保が積まれたかどうか、また海難が発生
したかどうかは、その船に乗船していないため立証しえない。
 第32番『ゼーノテミス弾劾』では、借り手たちが偽装海難を仕組むが、未遂に終わる。その
際、借り手の商人船主が溺死する。この場合、貸し手は乗船していないが、何人かの乗客商
人や貨物上乗人(注)が乗船していた。したがって、偽装海難は隠しようがない。しかし、その
乗客たちが借り手の側についたため、貸し手にとって溺死した商人船主の債務関係について
の立証が困難となった。
(注) デモステネス弁論第35番『ラクリトス弾劾』「▼簡単な解説▼」を参照のこと。
 第34番『フォルミオン弾劾』は、これまた海難を根拠として返済を拒んでいるが、その経過は
若干複雑である。借り手は借受金を船長に返済したとするが、海難により喪失したので、船長
は借受金を貸し手に手渡せなくなったとする。この場合、海難は多数の乗客の死亡で明白で
あるが、借り手が借受金を船長に現実に返済したかどうかについて、貸し手は立証しえない。
 第56番『ディオーニソドーロス弾劾』は船が航行不能に陥ったことを根拠にして、途中で航海
を打ち切り、アテナイに帰着しないことから紛争になっている。この航行不能の存否を、貸し手
は乗船していないため、直接的には立証しえない。この船には何人かの乗客商人や貨物上乗
人が乗船しており、彼らは航行不能を立証しうる立場にあるが、借り手と妥協してしまってい
る。
 デモステネス海上貸付弁論は、直接的か間接的かはともかく、大なり小なり海難にかこつけ
た、海上貸付の慣行あるいは海固有の危険を逆手に取った、借り手やその共謀者による借受
金の借り逃げ―詐取または横領―事件であるといえる。こうした海固有の危険を根拠とした債
務不履行は、その後も海上貸付の慣行として継続することとなる。
▼不安定でぜい弱な担保としての船や積荷▼
 デモステネス弁論から類推して、当時、相当程度の借受金の借り逃げが起きたことであろ
う。弁論の話者がすべて貸し手であることは、そのことをよく示しているといえる。この借り逃げ
の起きるかなり決定的な原因が担保にあったとみられる。すなわち、借り手が提供する担保が
船や積荷といった動産であったこと、その提供者が主として外国人でしかも非居住者であった
こと、そしてその担保が海難など様々な危険に常にさらされていたことにある。
 海上貸付における借り手がアテナイ市民であれば、不動産を担保することができた。しかし、
居留あるいは来訪外国人の場合、彼らの不動産取得を著しく制限されていたので、船や積荷
を担保するしかなかった。貸し手が、外国人の場合は一応、納得づくで、またアテナイ市民の
場合もやむなく、それを受入れざるをえなかった。それ以外に借受金も担保となった。
 この担保としての船や積荷は借り手の手元にあって、貸し手のいる場所から離脱し、海原は
るかを航海してしまう。担保が貸し手のいる場所に戻ってくるまでの一定期間、担保が消失し
た状態におかれる。さらに、その担保は、すでにみたように海難など様々な危険が待ち受けて
いる。
 このように、船や積荷が担保としてきわめて不安定で、ぜい弱であることは、貸し手にとっ
て、その担保が借り手の借受金返済の保証としての意味が、きわめて限定的であることであ
る。そうではない意味のある担保を取ることができない上に、海難などが借受金返済の免責事
由となっているため、担保が引き渡されない危険があった。このように、海上貸付そのものが
貸し手にとって危険をはらんでいたのである。
 こうした担保について、前沢伸行氏は「貸付金取立ての保証提供という通常の機能を果たし
ていない……むしろ彼の負担すべき危険を表わしている。[そして]……債務者の有限責任をと
いう原則を欠いていた」とまとめている(同稿「紀元前4世紀のアテナイの海上貿易」弓削達・伊
藤貞夫編『古典古代の社会と国家』、p.137、東京大学出版会、1977)。
 この海上貸付は冒険貸借であるとか、原初的な海上保険だったとかいわれる。ただ、その場
合、現代とは逆に貸し手が保険者(保険会社)、借り手が保険加入者となっていた。前者とあっ
ては、金を貸した上で危険を引き受けさせられているが、ただその危険が起きなければ高利を
うるというわけである。それが冒険貸借となったのである。他方、後者とあっては、金を貸してく
れた上に危険も引き受けてくれるという、きわめて都合の金銭貸借であった。
▼貸し手に有利な慣行があるといえるか▼
 積荷が担保の場合、貸し手はいろいろな制約を加えている。デモステネス弁論第34番6節お
よび第35番18節は、貸付金によって買い付けた積荷以外に、担保として、貸付金相当額の積
荷を積むよう求めている。それは、借り手に対して貸付金相当額の自己資金を所有しているこ
とを求めていることと同じであった。なお、後掲表の「海上交易事業資金の構成」でいえば、C
型かD型かでなければならない。
 それについて、前沢伸行氏は「貸付金をもって購入された船荷は、当然……担保物件とみな
され……それ以外に、貸付金とほぼ同額の担保物件の設定が要求された」、これら「貸付額
のほぼ2倍の価値を有する物件が、貸主の権限の及ぶ担保と考えられた……貸主の側に有
利なこうした慣行が、一般に行われていた」と強調する(前沢前同、p.128)。ところが、当の弁
論第34番7節や第35番19節においてみるように、何と一般的とされるその慣行が守られていな
いのである。
 それは、そうした担保物件の設定は、現代からみれば当然の措置である。当時において、そ
れを一般的な慣行であったと、なぜ特記しなければならないのか。それがまた、なぜ貸し手に
有利な慣行といわれるのか、奇異に感じる。こうした慣行が、当時一般に行われていたかどう
かについて、両論があるというのはきわめて当然にみえる。
 こうした慣行に関する行論は、海上貸付における借り手がもっぱら貧しい商人とする論者へ
の反論として、彼らは一定の資産があることを示そうとしたものであるが、それは読み込みす
ぎといえよう。
 むしろ、一般的な慣行は、担保の積荷額は貸付額相当額であればよく、それが貸し手の権
限が及ぶ範囲としていたのではないか。しかし、それでは返済保証として十分でないとする貸し
手は、担保としての積荷額を貸付額の2倍とする特約を付けたのではなかろうか。しかし、その
特約は守られることはなかったといえる。
 次ぎに、前沢伸行氏は「貸主の発言力が強かった」例として、弁論第35番10-13節における
借り手は対する「購入すべき商品・航路・航海期間・利用すべき商船などに関する規定」を上
げる(前沢前同、p.137)。これらの方法は、次に述べるように、貸し手にとって有利な慣行とは
いえるものでなく、むしろその不利を回避、軽減するためにある。また、後述するエクドシスとい
う委託交易の名残ごりとみられる。
 これら貸し手を有利とする行論は、海上貸付を後述のエクドシスとの対比で際だたせようす
るものであるが、その意味合いは判然としない。前節でみた担保を貸し手の負担すべき危険と
する見方を徹底すべきであったといえる。
 また、前沢伸行氏は「船舶のみが担保として用いられる場合は稀であった」とするが(前沢前
同、p.)、デモステネス弁論5件のうち3件(弁論第32番、第33番、第56番)が船を担保としてい
る。船は積荷と違って、不動産としての扱いが可能な、意味ある担保といえる。しかし、多額の
貸付額には対応しえない。
 こうしたことから、海上貸付の担保は貸付額の多寡や借り手の信用に応じて、貸付額の2倍
か、同額か、あるいは船舶かといった、いくつかの種別や組み合わせがあったとみられる。
▼海上貸付のリスク回避や軽減の方法▼
 このように、海上貸付は、貸し手にとって担保のあり方から危険なものであったので、それを
回避、軽減するため、すでにみたことを含め、いろいろな方法で対処している。
 それは、まずもって、貸付金を小口にして、借り手を分散させ、そして利子率を高率にするこ
とにあった。特に、富裕市民が多額な金銭を利殖に回す場合、借り手にそれを直接、貸し出す
のではなく、それを若干、小口にした上で、何人かのダミーの貸し手に貸し出したとみられる。
 デモステネス弁論における貸付件数は14件ほどである。そのうち貸付額が明示されているの
は、弁論第35番30、11、20各ムナ、弁論第33番40ムナ(但し累計額)、弁論第34番20、45、10、0.
6各ムナ、第56番30ムナの9件にとどまる。最小は0.6ムナ、最大は45ムナで、平均はそれほどの意
味はないが、最小を除き25.8ムナであり、中産階級の資産に相当し、決して少額ではない。
 こうした貸付額を、貸し手にあっては個人ばかりでなく、複数の人物が合同して貸付けてお
り、借り手にいたってはおおむね複数の、かなりの数の貸し手から借り受けている。なかでも、
弁論第34番では同一の借り手が4人の貸し手から、実に合計75.6ムナも借り受けている。
 利子率はほとんど示されておらず、弁論第35番のみが約半年で22.5-30パーセントといった高率
となっている。その他、罰金がある。それを、弁論第34番26節は積荷しない場合片航海で5000
ドラクマ、第56番20節は合意した航路を守らない場合あるいは担保の公示を拒否した場合貸付
金の2倍としている。
 貸し手にとって、確実に貸付金を回収する方法は、弁論第34番にみるように、貸し手が借り
手とともに航海して、その終了時に貸付金を回収することである。それはあまり現実的でない。
 それに対して、すべての弁論の船には(弁論第33番を除く)、乗客商人(弁論第35番、第32
番、第34番)や貨物上乗人(弁論第35番、第32番、第56番)が乗船している。それが持つ意味
は小さくない。彼らは、海上貸付の当事者に対して第三者の立場から、その船の航海や交易
の経過を証言しうるからである。
 その場合、貸し手が貨物上乗人を雇って乗船させ、自らの商品も船積みして、借り手の担保
とともに航海させ、その船をアテナイに帰着するように仕向けられれば、最善である。また、弁
論第34番8、28節にみるように駐在員を配置したり、あるいは居留会館を建設したりすること
も、その代替措置となろう。
 デモステネス弁論においては、乗客商人は弁論第35番を除き、おおむね借り手と妥協して、
貸し手に有利に働いていない。貨物上乗人のうち、弁論第56番26節はこれに同じである。しか
し、弁論第35番20、34節は貸し手の代理人として、弁論第32番8節は単なる商人の雇われ人と
して、貸し手に有利になるよう振る舞っている。
 このように、海上貸付のリスクを回避あるいは軽減する方法は、そう簡単にありにそうないと
いえる。そうだとしても、こうした乗客商人や貨物上乗人が乗船するようになるにつれ、すなわ
ち賃積貨物が多くなるにつれ、海上貸付のリスクは次第に回避・軽減されるようになろう。
▼個別の交易事業の最低資金とその構成▼
 アテナイにおける海上交易は、そのすべてではないとしても、その多くが海上貸付を受けな
がら行われていたとされる。それでは、個別の海上交易事業は、どのような資金構成でもって
行われたのであろうか。デモステネス弁論はそれなりのヒントを与えてくれる。
 当時のアテナイの海上交易は、ワイン、オリーヴ油、陶器、そして工芸品を輸出し、主として
穀物を輸入するという形態で行われたとされる。デモステネス弁論において、主たる帰り荷は
当然、黒海、シチリア、そしてエジプトといった穀倉地からの穀物となっている。それ以外につ
いては、弁論第35番の行き荷が積込み予定のメンデ産ワイン3000壺(1壺6ガロン、全中身で約
67トンとなり、相当な量となる)、帰り荷がウクライナ・ワイン、塩魚、羊毛、ヤギの皮、また第34
番では行き荷の追加として獣皮1000枚、そして乗船者が300人といった指摘がある。
 こうした積荷や量はそれらのほんの一部とみられる。特に、行き荷は品目に乏しい。それが
実態であったかもしれない。しかし、かなりの乗客商人や貨物上乗人が乗船しているとき、か
なりの品目の貨物が積み込まれていたはずである。
 それはともかく、こうした弁論内容から船の大きさを推定することは、およそ無理である。そ
れにつき、伊藤貞夫氏は外国人研究者が「むしろ碑文史料を基に積載量を試算する方法を選
び、平均120-130トンなる数値を提示」したことを紹介する(伊藤前同、p.198)。いまここで、この
数値を用い、また帰り荷を小麦一貨満載として、海上交易事業の資金を試算してみる。
 1船の積トン数120-130トンは、小麦40キログラムが1メディムノスであるので、3000-3250メディイとな
る。弁論第34番39節によると、小麦の正常価格は1メディムノス5ドラクマという。いま大雑把に、穀
倉地における小麦の輸出価格を、その2分の1とすると、1船の小麦3000-3250メディイは7500-
8125ドラクマ、すなわち75-81ムナとなる。
 いま、小麦120-130トン買付資金を80ムナとし、またそのうち自己資金を0、20、40、60、80各ムナ
とすると、借受資金はそれぞれ80、60、40、20、0各ムナとなる(下表、参照)。そして、20ムナを1
借入単位とすると、必要とする貸し手の数はそれぞれ0、1、2、3、4各人となる。すでにみたデ
モステネス弁論における借受額の大きさや以下にみる事情からみて、120-130積トン船の海上
交易事業資金の構成はB型、すなわち自己資金20ムナ、借入資金60ムナ(貸し手3人)、合計80
ムナといったところとなる。
 なお、その船が乗船商人や貨物上乗人の賃積貨物を積んで運賃を稼いでいる場合、借受資
金は賃積貨物の量に応じて少なくなる。それは、デモステネス弁論からみて、かなりの額あっ
たとみられる(例えば、20ムナ)。
小麦120-130トン積船の海上交易事業資金の構成
                (単位:ムナ)
A
B
C
D
E
自己資金
0
20
40
60
80
借受資金
80
60
40
20
0
合計
80
80
80
80
80

 デモステネス弁論第33番において、借り手の借受金40ムナは売渡担保の船と奴隷(人数不
明、1人当たり1.5-2ムナ)の売却により、清算されている。その価額が一応、正常なものとすれ
ば、120-130積トン船を使って海上交易を起業しようとすれば、中古船購入資金として40ムナ、B
型の商品を買付る自己資金として20ムナ、合計60ムナを、さしあたって用意すればよいということ
になる。この起業資金60ムナは、借入資金60ムナと同額である。
 なお、いまみた一海上交易事業資金80ムナは、あくまで小麦一貨満載のための帰り荷資金で
あって、行き帰りに小麦価格とは比較にならないワインやオリーヴ油、陶器、工芸品、奴隷、贅
沢品などを買い付けようとすれば、そのために必要となる額は一挙に増加し、その数倍に及ぶ
ことになろう。
▼海上交易における資金供給・調達の形態▼
 前沢伸行氏は、「前4世紀初めまで、アテナイの海上貿易を支えていたのはエクドシスであっ
た。前4世紀以降、この投資形態から新たに海上貸付が生み出された」とする(前沢前同、p.
139)。この「エクドシスの場合、出資者は一定額の貨幣(または現物)を信頼できる貿易商人
に委託し、これに海上取引を営ませた。出資者は、商人の輸入した商品を受取り、それを売却
し、売上のなかから一部を手数料として商人に支払った。貿易商人は、いわば出資者の代理
人として貿易取引を行ったのである」という(前沢前同、p.108)(注)。
(注) ここでいう出資者は委託主、商人は受託人、出資額は委託額と読み替えるべきである。
 また、この定義とは異なり、エクドシスは「資本を握っている有力な商人が貸主となり、資力な
き貧しい商人に資本を委託し……貸主は商業資本を、借主は労力と時間を提供して、貿易取
引が営ませるという『協業』の形態であった」ともいう(前沢前同、p.136)。
 それはさておき、「この投資形態から新たに海上貸付が生み出された」としながら、「どのよう
にして成立したのかは明らかでないが、前350年代には、大きな利益をもたらす貸付として…
…断然優位を占めるに至る」という(前沢前同、p.139)。この、海上貸付がどのようにしてエクド
シスから内在的に生み出されたかについては、今後の課題としている。
 そのどちらも、前沢伸行氏がいうように、確かに海事金融としての投資形態であるが、異質
な経営形態である。エクドシスは海上交易品の販売や買付の委託という、明らかに一つの海
上交易業(あるいはenterprise)であり、しかも一つの共同経営である。それに対して、海上貸
付は金銭貸借という一つの金融業(あるいはbusiness)である。したがって、海上貸付は古い形
態から生み出されたのではなく、エクドシスとともにありえたとみるべきである。このことを確認
することが重要である。
 エクドシスと海上貸付とのあいだには、さらに大きな決定的な相違がある。エクドシスにおけ
る当事者―いわば貸し手や借り手―は、すべてアテナイ市民であることである。また、エクドシ
スとともに行われた初期の海上貸付においても、同じである。
 前沢伸行氏は、エクドシスの出資額として460、120、70、40ムナという史料を示し(前沢前同、
p.142)、海上貸付に比べきわめて多額であり、それを1人が出資しているとする。しかし、前2者
は、弁論家リュシアス(前458/7?-380?)が前400年年代に代作した第32弁論『ディオゲイトンに
対して』第14、25節(注)にあるものであるが、それはあくまで出資総額であるにすぎない。後2
者はデモステネス弁論によるものであるが、海上貸付額に近い。
(注)http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/lysias/lys0.html参照。
 エクドシスが富裕な資産家や商人が行うのであるからには、その出資総額が海上貸付の総
額より多くなることは当然あったとしても、その1回(1船)当たりの出資額が多かったとは必ずし
もいえないであろう。しかし、それは、すでにみた標準的な穀物船の最低資金額80ムナを、大き
く上回ることはなかったとみられる。
 いま1つの例を上げれば、資力なき貧しい商人が一人前の商人船主になろうとする際、中古
船の買入れ資金を用意できたとしても、当面、積荷資金はおおむねエクドシスに依存せざるを
えないといったことが起こりえたであろう。さらに、この新入りの商人船主が実績を上げてくれ
ば、富裕な委託主から制約を受けないですむような金銭―海上貸付―を借り受けようとするで
あろう。
 アテナイ市民の交易人にとって、エクドシスと海上貸付はそれぞれが選択肢の一つになりえ
たが、外国人交易人にとってはアテナイ内に有効な資産を持たないがために、エクドシスは協
業の相手方となりえないので、海上貸付が唯一の選択肢となっていたとみられる。
▼海上交易の構造変化とその意味▼
 そこで、前4世紀に入って起きた、海上交易における資金供給・調達の変化を、どうのように
総括するかである。この時期なお、アテナイはギリシア世界で最大の海上交易市場があった。
そのなかにあって、アテナイ市民はその市場を、すでに蝟集していた外国人交易人に明け渡し
つつあった。しかし、海上交易から、完全に撤退したわけではなかった。
 なお、大方としての撤退については、ギリシア世界におけるマケドニアなどの台頭とそれに伴
うアテナイの後退など、内外の要因が関わっていたことであろう。
 前4世紀初めまで、アテナイ市民の富裕層は資力に乏しい海上交易人に、それなりに大口の
交易資金を直接、間接に委託してきた。このエクドシスに加え、海上貸付も行われたことであ
ろうが、いずれであってもアテナイ市民のあいだでの、しかもポリスの規制下での、金銭のやり
とりであった。そのもとにあっても、海事訴訟となる事件も発生したことであろうが、ポリスの伝
統的な裁判で十分処理されたことであろう。
 前4世紀以降、アテナイ市民は海上交易から撤退することになったが、それとの関わりを絶っ
たわけではなかった。海上交易上がりの有力層は、富裕層とともに、海上交易向けの金融業
に転業する。彼らは資金回収リスクの高さから、外国人交易人とエクドシスを組むことはごく少
なかったみられるが、それ以前から行われていた外国人向けの海上貸付を、いまや手っ取り
早い利殖手段として、いままで以上に取り組むようになったとみられる。
 他方、外国人交易人においても、次第に貨幣資産を蓄積するようになる。その有力者も海上
交易から撤退し、金融業に転業していく。こうした外国人の貸し手は自己資金ばかりでなく、ア
テナイ市民、さらに有力な外国人交易人から貸付資金を借り受けて融資したとみられる。
 アテナイの富裕・有力市民、そして有力な外国人交易人の資金が、様々な小口の資金となっ
て、いくつかの経路と段階を経由して、借り手の外国人交易人に供給されるようになる。こうし
て海上貸付は盛行することとなったといえる。そのなかで重要なことは、アテナイ市民の富裕
層が一貫して、おおむねな間接的に、海上交易への大口の貸し手たり続けたことである。
 わがデモステネスは、その親が海上交易によってえた遺産を後見人にかすめ取れられ、訴
訟を起すがわずかしか取り戻せなかった。その際、自らが直接に借り手に貸すのではなく、ダ
ミーの貸し手を使っていた。そのことを弁論第32番は示唆している。アテナイの有力市民の蓄
財ぶりは、デモステネスをもって知るべしである。
 アテナイ市民の海上交易の関わりは、総じていえば、海上交易そのものを外国人に委ね、そ
の社会で嫌われたとされる金融業にもっぱら携わり、その資金を外国人交易人に投資するこ
とでもって、アテナイ市民にとって不可欠な穀物輸入を維持するという、腐朽的な関わりとなっ
てしまった。
▼海事法廷の設置目的は何か▼
 前沢伸行氏は、「前4世紀の50年代以降、なぜ海上貸付が……大きな意義を持つに至った
……鍵は……ポリス側から措置である……何と言ってもdikai emporikaiと呼ばれた訴訟形式
の設置にあった」とする(前沢前同、p.141)。海上貸付の普及は、この訴訟形式が外国人交易
人の優遇措置であったからだという。それは伊藤貞夫氏についても同じである(伊藤前同、p.
188)。
 それによって、外国人交易人が便宜を受けたことは明らかであるが、それは結果であって、
現実はその逆であるかにみえる。すでにみたように、海難を悪用した貸付金の借り逃げや未
返済が主たる海事訴訟となり、弁論の対象となっている。特に、第33番『アパトゥーリオス弾
劾』は海上貸付弁論ではないが、借り手が売渡担保となっている船を持ち逃げしようとする、あ
からさまな事件が起きている。この振る舞いは、弁論の対象となっている海事訴訟の本質を露
わに示したものであった。
 この貸付金の持ち逃げや未返済などが、外国人交易人を当事者としている場合、アテナイ
市民にとって直接的な被害はなく、関心が向かないであろう。そうではなく、デモステネス弁論
でもみるように、貸し手のアテナイ市民が外国人交易人から被害を被るとなれば、無関心では
いられない。
 海上貸付は前4世紀以前から行われていたとみられるが、その場合、当事者はアテナイ市民
であったので、それをめぐる紛争はおのずと解決された。しかし、前4世紀に入って、海上貸付
が貸し手をアテナイ市民、借り手が外国人交易人になるにつれ、貸付金の持ち逃げや未返済
などがいままでになく発生したとみられる。海上貸付をめぐる紛争はそれにとどまらず、多国籍
な交易人たちのあいだで多数、起きるようになった。
 それら紛争の制度的な処理は、単にアテナイ市民の利益を擁護するためだけでなく、輸入穀
物を確保するためにも、不可欠となったとみられる。前4世紀半ばまでには、海事裁判官(ナウ
トディカイ)が海事紛争をしてきたが、それに代わってディカイ・エンポリカイが設置されることに
なった。
 したがって、ディカイ・エンポリカイの設置は借り手の外国人交易人を優遇するためでなく、あ
くまでも貸し手のアテナイ市民の利害を確保するためにあった。さらに、ディカイ・エンポリカイ
において、貸し手のアテナイ市民が勝訴するには、デモステネスような人びとによって、弁論を
代作される必要が生じた。いま、その設置をうがっていえば、アテナイ市民が海上交易から撤
退したことによる、「ツケ」であったといえる。
 アテナイのみならず多くのポリスが輸入穀物に依存しているとき、ポリス間において海事紛争
の処理に関して一定の慣行があったかにみえる。例えば、借り手が偽装海難に失敗し、アテナ
イに向うことを阻もうとしたが、寄港地のケファリニアの官憲がアテナイ向け出帆するよう命令
じたとか(デモステネス弁論第32番9節)、シラクサにおける穀物の積み込みの有無について、
同地に出向いて、官憲の審査を仰ごうといった提案がされたとかしている(同18節)。
 この点に関して、伊藤貞夫氏は「独りアテネにとどまらず、前4世紀、地中海交易の中心となっ
たギリシア諸市には、こと商業にかんしてポリスの枠を越えた紛争処理の慣行が成立していた
と解して誤りないのではなかろうか」と高く評価する(伊藤前同、p.195)。それほどのことではな
く、アテナイにおける海事裁判官(ナウトディカイ)といった官憲が当事者から事情を聴取して、
国際紛争にならないよう処理する程度でなかったかとみられる。
 こうしたポリスの枠を越えた紛争処理の慣行も、ギリシア世界において海上交易中心であっ
たアテナイの国際的地位が低下するにつれ、無きに等しいものとなったとみられる。例えば、
弁論第32番9節にみる借り手が航海を打ち切って寄港したロドス島は、前357年同盟市戦争が
起こった後、2次海上同盟から脱退して自立しており、アテナイに気兼ねすることはなくなってい
た。
▼おわりに▼
 デモステネスの海上貸付弁論は彼の代作ではないとされるが、その弁論年代は前350年代
から20年代までの約30年にまたがる。そうしたことから、海上貸付が前4世紀半ばから後半に
かけて盛行を極めたとされるが、その前後はどうであったか。
 前4世紀半ば以前について、前沢伸行氏はエルクスレーペン氏の「前5世紀以前のアテナイ
の海上貿易においては、後世の海上貸付に類似した貸付[すでにみたエクドシスのことであろ
う]を利用して、富裕市民が下層の市民に海上取引を行わせていたが、前5世紀になるとデロ
ス同盟の発展などによって多くの外人がアテナイを訪れるようになり、しだいにこれらの人々が
実際の海上取引の担い手となって、以後アテナイ市民にして貿易商人である者は例外的な存
在となった。これに対して出資者の大半は依然としてアテナイの富裕市民が占めていたが、前
4世紀の後半になると、海上貸付の1口当たりの額の低下とともに在留外人や外人身分の出
資者の登場もみられるようになる」という論説を紹介している(同稿「ギリシアの経済」伊藤貞
夫、本村凌二編『 西洋古代史研究入門』、p.53、東京大学出版会、1997)。
 このように、またすでにみたように、海上貸付は前5世紀からアテナイ市民ばかりでなく、外国
人交易人向けにも行われていたが、その半ばにかけて外国人交易人向けが圧倒的になった
とみられる。前4世紀半ば、それをめぐって増加した海事訴訟を処理するためディカイ・エンポ
リカイが設置され、前4世紀後半になって多くの海上貸付弁論が代作されることとなった。
 それでは前4世紀半ば以後はどうかである。デモステネス弁論第56番の弁論年代は、デモス
テネスが自殺した前322年である。その年は、まさにアテナイはマケドニアとのクランノンの戦い
で敗北し、その民主制が終焉した年であった。
 それ以後、アテナイをめぐる海上交易は混乱に陥ったとみられる。最大の変化は、外国人交
易人がアテナイの規制から解き放たれて、海上交易するようになったことである。それは、テナ
イ市民は海上交易を外国人に依存できなくなり、海上交易を自らの力で再建せざるをえなくな
ったことを意味した。
 そのなかで、アテナイ市民の外国人向け海上貸付は衰退するが、自国人向け海上貸付はむ
しろ復活したかも知れない。外国人相互の海上貸付はいままで通り行われた。しかし、ディカ
イ・エンポリカイは外国人に対するアテナイ市民の利害擁護の措置としても、またアテナイの規
制に服するもとでの外国人を優遇する措置としても、その存在理由を失った。
 それによって、前4世紀末にかけ海事訴訟も、海事弁論も少なくなった。それにもまして、アテ
ナイの失墜とともに、海上貸付は急速に衰退したことであろう。
 これら推察は、すべて果たしえない、今後の課題となる。
(04/08/13記)

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