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 古代から近世まで、海運あるいは貿易はそれらが1つになった海商業(marine commerce)と
して営まれていた。それは、国王や領主の統制と保護の下で共同経営として行われていたが、
近世に入って自立的な資本経営になって行く。商人、船主、船長は同一人物が兼ねていた
が、それらも次第に分離してくる。船員は、「最古の賃金労働者」といわれるが、共有船主であ
る場合も少なくなかった。地中海の海商国は変転するが、それは東方物産の独り占めをめぐ
る争いであった。

1 古代海上帝国フェニキア
★パピルスの筏と本船★
 古代文明は黄河、インダス川、チグリス・ユーフラテス川、ナイル川といった河川流域に発達
した。それは河川が直接に与えられた交通路であったからである。それに使用される舟が、人
や物を大量に、かつ少ない労力で(安い費用で)運ぶことができたので、他の交通手段にくら
べ早く発達するところとなった。海は大きな障害であったが、川と同様その息遣<づか>いを
利用して、それを乗り越えれば容易に外国に行くこともできた。そのおかげで、文明の発生とと
もに海運は発達して行った。
 前3500年頃、エジプトではナイル川を上る際に用いる帆と擢<かい>を持ったパピルスの
筏<いかだ>があり、前3000年頃になるとレバノン山の杉材を輸入して、木船を造っていた
とされる。エジプト人は、フェニキアに行って木材、衣料、金銀什器、香料・番木、またプント(現
在のソマリア)に行って金、象牙、黒檀、香料、肉桂、毛皮を輸入し、対価としての金・銀の他、
殻物、リンネル、パピルス、ロープ、陶器、彩色瓦、牛皮などを輸出していた。これらエジプトの
海商活動は、海軍の支援のもとで富裕な商人や地主によって行われており、奢侈品の確保を
超えるものではなかった。
★地中海貿易の先駆者★
 最初の海上帝国とされるフェニキアは、エジプト人がフェンク(造船者)と呼んだことに由来し
ているが、レバノン山脈に沿い、地中海に面した細長い地形に、前12−8世紀に繁えた都市
国家の総称で、現在のレバノンのチール、サイダ、ベイルートなどがそれにあたる。それら都
市は初めエジプトに従っていたが、エジプトが弱体化すると独立し、活発な貿易を展開する。フ
ェニキアには沃野は少ないが、船材に恵まれ、海岸には良港があり、そして東西貿易の要路
にあった。
 フェニキアは、レバント地域、エーゲ海はもとより地中海、さらには大西洋や紅海にまで海陸
の通商路を拡げ、それらの貿易を独占した。彼らは、ただ「太古における最も偉大な航海者で
あり、最も偉大な商人……貿易業者であったばかりでなく、製造業者でも」あった(フェイル21
ページ)。さらに、キプロス、シシリー、カルタゴなどに植民地を建設して行った。それら植民地
は、フェニキアが取扱う各種の商品を売りさばき、また原材料や取引き商品を供給してくれる
地域となった。
 フェニキアは、船舶、染料、絹物、刺繍、金銀細工、ガラス器具、その他手工芸品を生産して
いた。陸路、海路を通じて、メソポタミアの織布、じゆうたん、衣料、アラビア・インドの香料、宝
石、孔雀など東方物産を受け入れ、地中海諸国に再輸出していた。そこから、殻物、帆布、ロ
ープ、パピルス、象牙、黒檀、青銅容器、美術品を買入れ、自国だけでなくレバント地域やエー
ゲ海で売りさばいていた。カルタゴなど植民地からは金、黒檀、象牙、皮革、スペインから銀、
錫、鉛、塩魚、刀剣類、さらにはイギリスの錫、バルト海の琥珀、木材を交易していた。そこで
見落してはならないことは、奴隷にする戦争捕虜、破産者を取引して、その利益の大半を上げ
ていたことである。
 また重要なことは、たとえば東方物産を再輸出したり、エジプトの穀物をギリシア南部に移送
しているように、「フェニキア人は、次第次第に発展をとげ、古代世界の仲買人(middlemen)
に、一般運送人(general carrier)になって行った。彼らの諸都市は、あらゆる地方の産物がそ
こフェ集められ、かつそこから配給される物資の集散地・市場となった」(同23ページ)。そし
て、海商・植民地活動を、1つの産業活動としてしかも地中海規模で行ったことである。なお、
フェニキア人は、「長年の間に体得した知識……を航海上の秘密として他国民に教えず、自国
民の間にだけ代々伝承していた」(同24ページ)。
 フェニキアは、アテネの台頭により勢力を失い始め、前332年マケドニア(アレキサンダー大
王)に敗れ、紀元前64年ポンペイウスに征服され、ローマの属領になる。フェニキアは、地中
海規模での海商活動の先駆者であり、その後の海商諸国はその単なる後継者にしかすぎな
い。
フェニキア、タルシシの船
シドン古港から出土の石棺
スプリットスルを持っている
ギリシアの商船
船首に目がついている

2 海運の原型、ギリシア・ローマ
★ギリシアの冒険貸借★
 ギリシアもまた都市国家(ポリス)の総称である。フェニキア同様に自然資源に恵まれない
が、海はあった。しかし、それとは逆に、海はあっても背後圏はなかった。そこで、手始めはい
ずこも同じように、「どちらかといえば、通商目的のためというよりか、むしろ海賊行為や征服
活動または植民を目的に船舶を建造していた」(フェイル27ページ)。その上、ギリシアはいつ
も食糧の不足に悩まされており、それを輸入するため船がいるが、その資材も輸入せざるをえ
ない状況にあった。そうしたなかにあって、自国の食糧の3分の2を輸入しなければならないア
テネは、前5世紀中頃からフェニキアと争いながら、嵩高<かさだか>の穀物を運ぶ船を作っ
て、エジプトやキプロス、さらにはペルシア支配地から運んでいたが、それに加えてシシリー、
南イタリアに植民を送り、穀物を生産・輸入する植民地を建設するようになった。アテネは、前
477年のデロス同盟を画策して、東部地中海の覇者となる。
 アテネの統治者は海商を統制し、アテネに帰帆する際、殻物や必需品を運ばない船や、そ
の積荷を抵当した貸借を禁止し、また輸入する殻物はピレウスへの直送を命じ、その再輸出
は3分の1しか認めなかった。初期のギリシアでは、自分で船を持ち、船を動かし、商品を売買
する商人船主船長の手で営まれていた。買積船である。なかには小規模な組合を作って、船
を共有しあう船主もみられるようになった。また、ギリシアが勢力を蓄え、海商が盛んになるに
つれて、船主は船長を兼ねてはいるが、その船は商人に用船されるようになり、単に商品を積
んで運賃を取るだけの賃積船も増えて行った。そうした船には、商人やその代理人が目的地
で取引きの必要から一緒に乗り込むことも、少なくなかった。
 そして、資産家が船主や商人に資金を貸すようになった。船主は船舶や運賃を抵当にして航
海費用を、また商人は貨物仕入代金や前払い運賃を貸りた。船舶や貨物が喪失した場合貸
主は丸損となったが、それらが安全に着くと、貸付金にその3分の1といった高率の利子をつ
けて、貸主に返済される取決めになっていた。なお、船長が人命、船舶、貨物を救うため投荷
したり、敵国に金品の支払いをさせられた場合、その損害に応じて貸付金は減額された。これ
を「冒険貸借」と呼ぶ。さらに、用船者(商人)は船主に運賃を支払う他、荷役費を負担してい
たとされる。このように、ギリシアの海商活動のなかで、将来における船舶の共有、船主と商人
の分離、海事金融や海運取引の慣行が形づくられて行った。現在、ギリシアは第2次世界大
戦後、現代の国際的な「冒険貸借」でもって、世界第2位の船腹保有国になっている。
★ローマの海運取引★
 ギリシアのポリス同志の抗争や敵国との戦争がやまず、アテネやコリントは衰退し、前4世紀
になるとマケドニアが力を持ち、アレキサンダー大王(前356−前323年)が築いたアレキサ
ンドリアで、ギリシア商人船主が大きな地位を確保する。他方、西地中海では、フェニキアの植
民地であったカルタゴがギリシアの植民活動を抑え、前6世紀後半サルディニア、コルシカ、イ
ベリア半島、北アフリカに植民地を設け、さらにイギリス、アフリカ黄金海岸まで活動し、強大な
海商勢力を築いて行く。
 前272年、ローマがイタリア全体を征服すると、地中海世界に乗り出してくるが、その権勢の
大きさ・拡がりはすさまじいものがあり、世界を自らの版図におさめる。ギリシアもカルタゴも敵
ではなく、地中海はローマの海となる。そればかりか、前67年のポンペイウスの海賊退治をみ
るように、「外敵への防備任務から解放されたローマ艦隊は、地中海の海賊を掃討し、黒海お
よび印度<インド>洋でもそれを抑制した。船主・商人・生産者はこうして安全保障のお蔭で、
行政機関の隆替<りゅうたい>や国境線の不明確などにわずらわされずにすんだ。……いま
や、海は海運にとって……例外を除き、曾つて見られないほど安全なものとなったが、同時に
また船腹に対する需要も未曾有に増大を示した」という時代に入る(フェイル35−6ページ)。
 ローマの商船も、フェニキアの丸形船と基本的に変っていなかったが、全体として船型は大
型化して行った。人工港が多くなり、灯台、信号所も作られるようになり、海図の使用や季節風
の利用も行われるようになった。積荷は、従来と基本的に変らなかったが、殻物、建築・道路
用材の輸送に大量の船腹が用いられるようになった。そのなかで大きな意味を持ったのは、ロ
ーマの中国、なかでもインドとの貿易であった。インドとの貿易は、アラブの船でアラブの港に
持ち込まれ、陸路でシリアまで送り込まれていた。インドから香料、コショウ(胡椒)、宝石、真
珠、象牙、絹、綿、皮革、チーク材など多様な商品がヨーロッパに輸入され、それに対しぶどう
酒、金属、手工製品、金が輸出された。
 ローマの船主は、自分自身の計算において海運取引を行っていたが、主要港にある法人に
登録させられていた。ローマが衰微し始める2世紀中頃になると、その法人は国家の統制団
体となってしまう。それはさておき、船主のなかには、商人船主や賃積船主の他に、単なる船
主もいたようである。単なる船主は資産としての船舶を所有しているだけで、自らは船舶を運
航せず、航海知識のある用船者に一定期間あるいは廃船するまで、貸船していた。単なる船
主から用船した運航者は、自分の判断で船を運航して運賃を稼いで利益を上げ、そのなかか
ら船主に用船料を支払っていた(裸用船=船舶の賃貸借)。その運航者は法律上船主とみな
されていた。また、船主と商人の分離もかなり進んでおり、その場合用船契約書という文書
が、近世と同様、商人と賃積船主との間で結ばれていた。
 236年のある航海用船契約書(実質は運賃運送契約書)は、次のように書かれている。「ま
ず、冒頭に船長および商人の氏名が記され、次いで当該船長が本船の所有者たること、およ
び本船の貨物積載力の明細が記されている。商人は本船全船腹を当該特定航海に限って傭
<よう>船し、船腹運賃として銀貨100ドラクマを支払う。ただし、そのうち40ドラクマは傭船
契約蹄結と同時に支払い、残額は貨物の引渡と同時に支払うことに同意する。船主は至当な
艤装と適切な乗組員とを提供し、2日以内に貨物の積込を完了し、それを完全にかつ海水に
よる汚損なしに引渡すべき義務を有する。荷揚港における荷卸が4日以内に完了しないとき
は、船主は1日につき16ドラクマの滞船料を申受けるものとする。
 本傭船契約書は―今日のわれわれから言わしせれば―船主の免責条項を入念に網羅して
いる定期船の船荷証券に比較すれば、やや簡潔に失するものであるが、明晰にして実務的な
証書であり、契約上の主要事項を洩れなくふくんでいる」とされるものであった(フェイル47ペ
ージ)。すでに、海商において商慣習、商法は発達していたのである。

3 十字軍と共栄したベネチア
★海商都市の交代★
 西ヨーロッパでは、封建制社会のもとで農業の生産力が増大し、それを基礎にして手工業が
発達し、余剰農産物と手工業製品を取引しまた原材料を供給する商業が、いままでとはちがっ
て広域的に展開されるようになる。10世紀末には、農村からの商工業の分離が進み、商業が
復活して都市が形成されてくる。11世紀になると、地中海と北海・バルト海に遠隔地海商都市
がほぼ同時に育ち、2つの大きな海商圏が築かれる。
 ローマ帝国も、375年民族大移動でゴート人がローマ領に入ると、急速に衰退し始める。そ
れに伴い、大規模であった海商活動はあっけなく姿を消し、11世紀、十字軍が活動するまで
停滞しつづける。しかし海商活動がなくなつたわけではない。330年にコンスタソティヌス大帝
が都に移したコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)の東ローマ帝国が、東西貿易の限
られた中心地として残り、6、7世紀アラブ回教徒<イスラム>(サラセン)軍の攻撃に堪え抜く
とその独占的地位が確立する。しかし、アラブ人は名うての海賊(アラブ人にとっては海軍)で
あったため、強力な海軍に守られた東ローマ帝国以外の船舶は地中海から締め出されてい
た。
 東ローマ帝国も、ペルシア、アラブ、スラブ、トルコにあいついで侵略され、力を弱めて行く
が、ベネチアとジェノバといった都市国家が力を強め、軍艦の保護のもとで多数の商船を動か
すようになる。なかでも、ベネチアは1081年東ローマ帝国と通商条約を結び、東方物産をヨ
ーロッパに供給する特権を獲得する。地中海世界における回教徒の膨張も10世紀初めには
ほぼ終り、11世紀に入るとヨーロッパは反撃に入り、国土回復<レコンキスタ>運動を始め
る。その1つが、キリスト教徒の聖地エルサレム奪回の十字軍(1096-1270年の間に7回)
である。
 「十字軍は兵員輸送、物資補給のため多大な船舶を要し、またサラセン人の艦隊とたたかう
ために戦艦と優秀な海上戦士とを必要とした。……ヴェニス、ゼノア、ピサは、代償の条件次
第では、輸送船および護送船を供給できる域に達していた。真の宗教をまもるという大義にも
とづいてなされた彼らの奉仕には、報酬として単に貨幣ばかりでなく、十字軍がサラセンからと
りもどしたシリア諸港で通商を独占する特権が与えられたし」、「1203−04年、ヴェニス……
は第4回十字軍指揮者を説き伏せて、遠征の目的を『聖なる墓所』の奪回からコンスタンチノ
ープルの攻略へ転ぜしめた」、「宗教的情熱と冒険精神と掠奪意欲とが奇好に混り合ってでき
た、かの俸大なる十字軍の遠征」(フェイル53ページ)が、ベネチアやジェノバを大海商国に押
し上げたのである。
 イタリア都市国家の海商路は、「東方、すなわちエヂプト方面、シリア・パレスチナ方面、ビザ
ンチューム方面に達する大規模な貿易ルート。この貿易路はヴェニス・ゼノアの船主に最も高
価な貨物を提供した。次に、西方ルート。この貿易路によって、……珍奇かつ高価な貨物がス
ペイン、フランス、イングランド、フランダースに配給された。次に、イタリー、スペイン、北アフリ
カの諸港相互間に交叉する無数の貿易ルート。この貿易路では、ヴェニスの塩、ガラス製品、
アフリカの金、皮革のごとき物産が交易された。最後に、活発をきわめた沿岸航路および近海
航路。これも充分に利益のあるルートであって、多数の小型船舶を就航していた」(フェイル55
-6ページ)。このように、地中海海商はあいかわらず、東方物産を中心にした奢侈品が中心
で、イスラム海賊が徘徊<はいかい>するなかを、一発勝負の海商を営んでいた。
16世紀のベネチア
中央手前がサン・マルコ広場、右上が国営造船所、いろいろな種類の船がいる

★最強国ベネチア★
 だが、イタリア都市国家は、どれも独力でアラブの海賊を鎮圧できる力はなく、そればかりか
お互いに抗争しあっていた。商人は船主と契約するにあたって、乗組員に適切な武装をするこ
とを要求し、さらに船団を組み、時には軍艦の護衛をつけて航海していた。海賊と闘うのはもと
より、都市問が戦争に入ると、私掠許可状が発行され、敵国船に襲いかかった。船主と商人
は、敵船に襲われた場合、その損害は共同で負担し、逆に敵船の捕獲物は共同で分配してい
た。ベネチアは、その商人や船主が外国の港で海商特権を獲得するため、戦争、抑圧、報
復、差別、買収、肝計などあらゆる策術をめぐらした。ベネチアはラグーナ(潟)に浮かぶ小国
ではあるが、貴族共和制を成功させ、13−14世紀ヨーロッパの最強国となる。
 1423年頃、ベネチア本土の人口は15万人であったが、45隻の大型ガレー船に1万1000
人、300隻の大型帆船(120トン以上)に8000人、3000隻の小型帆船(24−120トン)に1
万7000人の船員が配置され、その他に船大工が1万6000人いたとされている。ベネチアは
あげて海商に熱中していたし、そうせざるをえなかったのである。そこで注目すべきことは、船
員はベネチア人だけではなく、水夫は航路筋に当る現在のダルマチア海岸やギリシアの島じ
まから集めていた。ベネチアでは、次節でみるような海運経営が行われていたが、最盛期もす
ぎた1255年ムーダと呼ばれる国有定期船隊を編成し、商人船主に航海用船あるいは定期
用船するようになった。ベネチア商人は、個別の競争を行うが相互の規制に服することにも長
け、それが成功の鍵となっていた。それ以外ジェノバ、ピサ、アマルフィといったイタリア都市の
商人船主は、まとまりのない海商をつづけていたとされる。
 中世、地中海世界を支配したベネチアを中心としたイタリア海商都市も、15世紀、オスマン・
トルコが東ローマ帝国を滅ぼし、16世紀「地理上の発見」により海商圏が大西洋に移り、スペ
イン、ポルトガル、オランダそしてイギリスが台頭し、それらが東方物産を直接に運ぶようにな
ると、いやが上にも衰微せざるをえなかった。
中世ヨーロッパ海商圏

4 船員も商人船主の端くれ
★海商の共同経営★
 中世イタリアの海商経営は2つの方法で行われていた。その1つは、共同冒険組合である。
11世紀頃まとめられたアマルフィ海法(以下、ほぼすべて慣習法)では、船主、商人、船員が
集って1つの組合を結成する。これら持分所有者は自分たちのなかから管理船主を選んで、
冒険組合の全般的な指揮をゆだね、他の持分所有者は船員としてあるいは自分の商品を持
った商人として乗組む。船主は船価に応じて冒険組合の一定の持分があり、商人は自ら投じ
た資金または商品の額に応じて持分が割当てられ、また船員は自分の提供した労役に対して
持分が与えられた。船員が船主また商人である場合、その持分が追加された。貨物の取引か
らえられた利潤はすべて組合勘定に入れられた。航海が完了すると裁判所で計算書の検査を
受け、それぞれの持分数に応じて純益が船主、商人、船員に分配されることになっていた。
 また、1272年のラグーザ海法では、一定数の商人がそれぞれ船長および乗組員に対し
て、商品取引きに使用する一定の貨幣や商品を委託する。船主や船員も、自分の計算で投資
を行うことができる。冒険組合の対象となった商品の運賃はそれぞれ計算され、また商品の取
引からえられた利潤とともに、共同の基金に入れられる。そして、航海が終了した時、船主と
船員がこの共同基金の半分を受け取り、残り半分は冒険商人がそれぞれの投資額に応じて
配分を受けることになっていた。
 もう1つは、船舶共同所有である。古代のように、自らの所有船を自ら単独で経営する船主
や、代理人を乗せて監督する船主は中世になるとごく稀になり、経営は主として組合方式で営
まれ、大多数の船舶は共有制のもとで所有されるようになった。組合員のある者が管理船主
になり、他の組合員の全部または一部が船員となって、しばしば乗船した。15世紀まで、船舶
はおおむね24の持分に分かれていた。1人の組合員が、2つ以上の持分を持つことも可能で
あった。そうした船主は、自らの商品を満船する場合もあれば、そうでない場合もあった。船主
が商人でない場合、商人の組合と用船契約を結んだ。それ以外に単なる融資もあったようで、
ベネチアでは利子率20%であったとされる。
 このように共同冒険組合であれ、船舶共同所有であれ、イタリアの場合、おおむね乗組員の
全部または一部がその船舶や海商の持分所有者であって、自分たちの労働に対して賃金の
形式でではなく、利潤分配の形式でもって報酬を受けていた。それでも、乗組員のなかには持
分所有者ではなく、単なる賃金労働者として雇用された船員を補充しなければならない場合も
あった。こうした海商経営の方法は、海難や海賊の危険がありまた海運と貿易とが切り離せ
ず、またそれらを乗組員に依存せざるをえないが、古代とはちがって海運・貿易が大規模に発
達しつつあるので、古代のように資産家でなくても、一定の資金や労力を出し合えば船舶を所
有し、商品を売買することが可能となってきた状況のなかで発達した形態といえる。
★詳細な海商の取決め★
 海商が共同経営で行われるようになると、その取決めも詳細になって行ったが、現在からみ
れば新旧取りまぜた内容を持っている。1236年、ピサで3人の船主と4人の商人とが結んだ
用船契約書を見ると、船主は船舶を良好な状能に艤装し、適当に武装した有能船員を乗組ま
せなければならないとか、往復航ともどこにも寄港せず目的港に直航せよとか、用船者(商人)
が貨物を満載できない時は、船主がそれを補充してよいとか、仕向地に着くと契約書に書かれ
た商人に引き渡すとか、航海用船契約としてもっともな内容が書かれている。しかし、他方、往
航の貨物の船積みと陸揚げ費用は船主の負担としておきながら、復航の貨物のそれは商人
の負担としているとか、貨物には運賃を支払うが動産(金銀、奴隷か)には支払わないとか、検
量人は船主・商人双方で選出するが費用は船主が負担するとか、現在の慣行とはかなりちが
った内容となっている。
 次に、乗組員はどのように取扱われていたか。重要なことは、すでにみたように、乗組員のな
かに持分所有者がいたので、後世からみれば保護的であった。ベネチアの海法では、120ト
ンの船は戦士・料理人を除き船員20人を配乗し、それが5%増す毎に1人を追加するという、
乗組員の配乗規定を持っていた。また、船員の賃金は近世のように航海終了後ではなく、毎
月あるいは季節毎、航海毎(航海日数は近世より短かい)に支払われることになっていた。14
世紀の代表的な賃金の支払いは、9か月契約で3か月ごとに賃金が支払われ、最初の3か月
以内に死亡しても、相続人はその3か月分の賃金を受取れ、また作業や戦争で死亡した場
合、全期間の賃金が支払われることになっていた。海賊に捕った場合、その期間中の賃金は
もとより、引き取るための身代金も支払われるようになっていた。乗組員は運賃を負担せず
に、少量の商品を運ぶことも許されていた。船内の食料は船主が支給した。1258年のバル
セロナ条例や14世紀後半のコンソラート・デル・マーレには船内給食規則が掲げられていた。
近世とはちがって、新鮮な野菜が手に入る港に寄港したので、良い食事が出されたし、それで
壊血病にかかることも少なかった。
 その他、ベネチア海法は、船型毎に船舶の長さ、幅を制限したり、備えられるべき帆の数と
材料、錨やロープの数を定めたり、官吏による船舶検査を義務づけたりしている。さらに、底
荷や横付けの取締りは厳しく、甲板積みは軽量の貨物に限られ、過積みをしないよう船体の
外板に公定マークをつけ、出帆前に検査を受けねばならなかった。
 このように、「中世、海員の給料および労働条件は、それ以後の近世的な時代に比べてかな
り良好であったばかりでなく、海上における生命・財産の安全確保を目指して行われたイタリー
諸都市国家の取締りは、ともかく、今から100年前にイギリス法に見出されるものよりも明ら
かにすぐれていた」のである(フェイル67ページ)。

5 ハンザ同盟、必需品の海商
★地場産業とその海商★
 イタリアの都市国家が、地中海の海商活動を支配し、しかもその主要な貨物が東方物産で
あったので、その裏側や末端にあたる北ヨーロッパやイギリスがその分け前にあずかれるわ
けはなかった。それとは別に、北海やバルト海にも海商都市が形成され、海商圏が築かれて
いくが、それは地中海海商圏とは性格がことなっていた。中世初期、その以前から、主に陸路
を通ってロシア、スラブの物産や東方物産が西ヨーロッパに運び込まれていたし、北海、バルト
海ではニシン、タラの漁業も盛んに行われ、西ヨーロッパに供給されていた。11世紀になる
と、フランドル(ライン河のデルタ地帯)に毛織物工業が発達し、それに必要な羊毛はイングラ
ンドから輸入され、それをめぐる海商が活況を呈するようになった。そして、ロシアから小麦、
皮革、毛皮、蜂蜜、ろう、東方の絹、スカンジナヴィアからは鉄、銅、石材、東方植民地から小
麦、ビール、バルト海沿岸やスカンジナヴィアからハンザ・コグに不可欠な船材が供給されてい
た。
 こうした北ヨーロッパにおける海商活動を、一手におさめたのがハンザ同盟であるが、その
繁栄はバルト海の漁業をめぐる海商を支配したことにあるとされる。漁業はデンマーク人やス
ウェーデン人が行っていたが、ハンザ商人は漁獲物の大部分を購入し、塩漬し、樽詰めし、配
給した。それに必要な塩や樽を供給し、多数の働く人に食料品、ビールを売り込んだ。漁獲物
をロシア、ポーランド、フランドル、フランス、スペイン、ポルトガルに売りさばいていた。そして、
それらの国の特産品を購入して、いろいろな国に持ち込んだ。こうして、ハンザ商人は「北ヨー
ロッパ全体に対する偉大な仲立商人・運送人たる地位を占めるにいたった」(フェイル86ペー
ジ)。ハンザ商人の成功は、それだけでなく、それ以前の海商と同様、植民とも結びついてい
た。
 12、3世紀は、ヨーロッパの人口が増加したこともあって、それまで開発が遅れていたエル
ベ、さらにはオーデル川以東、現在の東ドイツやポーランドに、西ドイツを中心にフランドル、オ
ランダなど人口過剰地域から植民が行われた。この東方植民は、ドイツ諸侯の自国の繁栄、
土着スラブ人諸侯の土地の開発を目指したものであったが、それを促進したのがハンザ商人
やドイツ騎士団であった。ハンザ商人はそれら都市と遠隔地商業とを結びつけたのである。
ハンザ・コグ
現在ポーランドのエルプロングの市章

★ハンザの海商規制★
 ドイツ商人は、12世紀中頃、商人ハンザを結成していたが、13世紀になると定住し始め、都
市問の条約が結ばれ、都市ハンザが拡がって行く。1370年、ハンザ商人に屈服しないデンマ
ークを武力で制圧し、ハンザ同盟は最盛期に入る。ハンザ同盟は、リューベック、ハンブルグ、
ブレーメンなどを中心としたドイツ・ハンザを中核に、その他のドイツ、フランドル、フランスの都
市ハンザと連携していた。ハンザ都市ははそれぞれ皇帝に忠誠を尽してはいたが、都市の自
治権を確保しており、その参事会が海商・陸商を統制していた。ハンザ同盟そのものは緩やか
なやかな組織体であって、総会も必要に応じて開かれたにすぎず、分担金を取り立てはしたが
支払わない都市もいた。また海軍を常設しなかったが、海賊を取締る力は兼ね備えていた。
 ハンザ同盟は、北ヨーロッパの海商を独占するため、まず傘下の商人(それは同時に船主で
あった)に対して、外国人(正確には非ハンザ人)のために船舶を建造したり、船舶やその持
分を外国人に売却・譲渡したり、外国人に持船を用船に出したり、外国人を船長にしたり、外
国船に商品を積んだりすることを禁止していた。それに違反する商人や都市は除名されること
になっていた。ハンザ同盟は、西はロンドン、ブリユージュ、アムステルダム、北はベルゲン、
オスロ、東はナルバ、ノブゴロドに支店や商館を設け、商人たちはそこに一定期間滞在して厳
格な規律のもとで共同生活を営んでいた。取引地では、あらゆる外交手段を躯使して、貿易の
独占権の獲得に努め、第三国の商人に対しては特定商品だけを扱わせるなどの規制を行
い、それに抵抗する都市に経済制裁や武力抑圧を加えていた。
 ハンザ同盟は北ヨーロッパ貿易を独占したとされるが、どれくらいの商船を保有していたか
はあきらかではない。1368年、リユーベックに858隻が入港し、911隻が出港したという統
計があり、その繁栄ぶりがしのばれる。それについて、年7、8航海として、100隻が人口2万
人の町に所属していたという推定がある。
 北ヨーロッパの海運・貿易を独占したハンザ同盟も、15世紀以降イギリス、オランダなど取
引地で国家が形成され、その貿易特権を奪われ、それらの商人の進出がめざましくなり、また
ドイツ国内で領主権力が強くなり、商業都市の自治権が奪われ、同盟内の団結が保てなくな
り、16世紀末衰退して行くことになる。

6 雇われ船員に厳しい措置
 ハンザの商人は組合を作って、船舶を共有し、海商を行っていた。持分は8分割され、商人
は持分に応じて船舶に投資し、積荷を集め、海商の費用を負担し、利益をえていた。船舶共有
者の誰かが船長になり、管理商人船主として海商を取り仕切っていた。船は、共有船主の貨
物を積込むのが原則ではあったが、そうでない商人の貨物も積んでいた。船舶共有は、それ
以前にもあったが、ハンザ商人はそれを広範に採用した。地中海にくらべて海は荒れたが海
賊の危険は少なく、運ぶ商品も奢侈品ではなく、大量で重くかさばる生活必需品であり、また
ハンザ同盟の規制が加えられていたので、資金を手広く投資することが有効であったからであ
ろう。
 船長は管理商人船主ではなく、共有船主や用船者の単なる使用人が、次第に多くなったとさ
れる。船長が、目的地以外の港に船を入港させたり、用船者の同意なしに貨物を販売したりす
れば、死刑という審決も出されていた。船舶は、同盟の検査人の下で建造され、一定のトン数
に制限されていた。また、船舶が過積しないよう、都市や商館は監督しており、船長が過積み
で損害を引き起した場合、賠償の責任があった。冬期の航海は制限されていた。
 乗組員の賃金は航海単位で決定され、出帆時、陸揚港到達時、母港帰着時にそれぞれ3分
の1が支払われた。それ以外に、バラスト(底荷)を積んだり、小麦を積替えたりすれば、手当
が出された。そして、船長と同様に、商品を運賃なしで運ぶことができた。船員食料規則も定
められており、肉食日には牛肉またはベーコン、えんどう豆、煮物、他の日は塩魚、オートミー
ル、そら豆、えんどう豆を支給するとなっていたが、その量は定められていなかった。それはと
もかく、ハンザ商人はしみったれで、けちけちしていたとされる。
 船内規律は、乗組員が持分所有者ではなく、単に雇い入れられた賃金労働者であったの
で、きわめて厳格であったとされる。賃金の前払いを受けた船員が脱船すると死罪となった。
その後、3か月の監禁に軽減された。船長の命令に従わない時は、賃金は没収され、最寄り
の港で下船させられ、以後、ハンザ商船に雇用されないと宣告された。ハンザ海法は、オレロ
ン海法(後述する)にくらべてはるかに厳格であり、責任の所在を明確にさせているが、それは
「北ヨーロッパ貿易の大半をハンザ商人の掌中に把握せしめた彼らの仮借なき通商実権の根
因であると同時にその結果でもあった」とされる(フェイル96ページ)。こうした法律だけで、船
内規律は維持されなかったので、まさにドイツ中世的な処罰が船内で行われていたとされる。

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