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 この章から、この書物の中味に入る。その手始めとして、有名ではないが、といっても日記が
残すほどの立派なイギリス人船員が、どのような海上履歴を送ったかについて紹介してみる。
それを通じて、これら述べる船員の労働と生活の輪郭をつかんでもらうこととする。バーローの
ものは東インド会社船の航海状態、クレーマーのものは地中海での海商の模様、そしてケリー
のものはアメリカ独立戦争中の軍需輸送が、主な内容となっている。地名については、世界地
図で確かめていただきたい。また、乗組員の職名や構成については、巻末の付記を参照され
たい。

1 農夫出身のバーロー
★徒弟奉公を始める★
 エドワード・バーロー(Edward Barlow)は、1642年3月6日、マンチェスター近くのプレストウ
ィックの貧しい農夫の子として生れた。親しい人から外国の話を聞かされ、船員になりたいとい
う激しい欲望にかられ、15歳になるとロンドンの叔父の一杯飲み屋に行った。そこでボーイと
して働きながら、船に乗る機会をうかがっていた。
 1661年、イギリスの軍艦ナスビイ号の主席士官に徒弟奉公することになった。1662年末、
年季奉公をやり終えずに、クイン・カトリーヌ号に乗船した。その船は400トン、大砲34門、乗
組員50人であった。グレーブズエンドからリスボンに向い、そこでマデイラ諸島向けの塩と油
を積んだ。出帆して10日間たったが、そのうち2日は風が弱くなったため沖合で帆を下してい
る。そこで2日間かけて積荷を下し、樽500個、船客22人を積み、リスボンで乗せた船客8人
と合せて、リオ・デ・ジャネイロを向かうことになった。無風帯で1か月も閉じ込められ、ようやく
赤道を越えることができた。無風帯は単に無風快晴であったわけではなく、打ち続く雨、雷鳴、
稲光や風を経験している。また、マグロ、カツオ、サメを釣り上げている。南緯23度まで南下
し、そこで西方に変針して陸に向けることになった。マデイラからリオまで11週間かかってい
る。帰り荷は900袋の砂糖、小包に入ったタバコや皮革であった。リスボン向け船客が8人乗
船した。アゾレス諸島のセント・ミッシェル島で清水を補給し、タガス川で10日かかって砂糖を
下している。
 ロンドンに帰って解雇されることになったが、リオで下したぶどう酒の流出損失分が賃金から
差し引かれることになった。その積付が適正であったので、乗組員たちは慣行通り賃金を全額
支払うよう、船主を民法博士会館法廷に訴えた。乗組員の勝訴となり、バーローは約20ポンド
を受取れた。それは1か月の賃金相場が1ポンドであったので、結果として、高収入になった。
その後、4年間、海軍に徴発されている。1668年、リオール・フレンシック号(140トン、乗組
員16人、大砲10門)に乗った。カナリア諸島向けの樽板、キャラコ、毛織地、油、バター・チー
ズ、ろうそくが積れていた。出帆前、半月分の賃金が支払われ、船員はそれを扶養家族に渡し
たり、航海用の衣服を買っていた。
★東インド会社船に乗る★
 1670年3月7日、東インド会社船エキスペリメント号の平船員として、ロンドンを出帆し、ボン
ベイ、スラト(ボンベイより北で、タブチ川の河港)に航海している。その船は250トン、乗組員6
0人、船客、男10人、女7人であった。積荷は鉛ばん板、銅板、明礬、赤や緑の幅広綿布であ
った。4隻が船団を組んでおり、ヴェルデ岬諸島のサン・チャゴで果物、生肉、水などを積んで
いる。モザンビーク海峡を通過する頃、3人の船員が壊血病で倒れたので、そのアンジュアン
島に寄港し、治療している。住民は親切で、豊富な果物や野菜、乳牛5頭を積込むことができ
た。
 9月7日、インド海岸を視認し、スラトに入港している。インド商人が乗船してきて乗組員の冒
険商品(ventures、]章参照)を買い、イギリスに持ち帰る冒険商品を売りはじめた。数か月
間、インド海岸で取引きを続け、コショウ、キンマ(蒟醤)の豆、赤色染料の木を積取っている。
3、40トンの現地の船が海岸線で貿易していたが、すきをみせれば海賊に早替りするので、
会社船はいつでも衛兵を当直に立てていた。イギリス人水夫がカリカットで上陸すると、現地の
女たちがいいよってきて、腰回り物を除いてたちまち裸にさせられてしまったという。
1671年2月15日、ボンベイからロンドンに向け出帆している。貨物以外に、セント・ジェーム
ズ公園に引き渡す鹿が積まれていた。モーリシャス(マダガスカルに近い島)を通り過ぎたとこ
ろで、サイクロン(インド洋特有の熱帯低気圧)の尻っぽに巻き込まれている。それはまたとな
い暴風であったので、船が浮んでいると思ったものは、1人もいなかったという。ボンベイから5
か月と2吾かかってダウンズ(ドーバー海峡の停泊地)に着いている。乗組員は解放されたが、
バーローはさらに2年間エキスペリメント号で働く契約をしている。
★日本に行きそこなう★
 ロンドンで2か月分の前渡し賃金(advance money)と、回航要員が船を回してくれたグレーブ
ズエンドで半月分の出帆手当(river money)を受取り、1671年9月27日出帆した。喜望峰を
回った後、都合良く強い西風を受けながら南緯39度線を東航し、スンダ海峡(スマトラ島とジャ
ワ島の間の海峡)に向けて変針している。海峡を通っていると、現地のボートが船に横づけし
てきて、オレンジ、ココナッツ、バナナを売りにきた。バンタン(ジャワ島西部の当時栄えた港)
に入港、それまでに6か月と24日かかっている。
 バンタンでは"赤痢"が、イギリス人船員に猛威をふるっていた。彼も赤痢にかかった。船医
は、病気になって2日後にやってきて薬をくれたが、何も効かなかったという。中国人がジャン
クに乗って貿易にきていた。住民は回教徒で、"尻布"だけ巻いていた。バンカ海峡(スマトラ島
とバンカ島の間の海峡)を通り抜け、そしてインドシナの海岸に沿ってハイナン(海南島)、中国
沿岸を帆走してマカオ、フォルモサ(ポルトガル語で、台湾のこと)まで行っている。そこで、バ
ンタンまで一緒にきた僚船のリターン号から、日本産の銅板を500箱積取ってバンタンに戻る
ことになった。リターン号は350トン、船長シモン・デルポ−、乗組員86人で、1673年6月29
日(旧歴5月25日)に長崎に入港したが追い返されている。当時、銅は最大の輸出品であった
ので、リターン号はどこかで日本からの輸出銅板を購入していたことになる。
 エキスペリメント号はフォルモサにもう一度行っているが、現地商人は乗組員に紅茶、陶器、
刺しゅぅ、絹布を売りにきた。当時は、東インド会社は冒険商品を禁止しており、それが見付か
れば商品の没収か、それと同額の罰金であった。ただ、日本産の金を取引することは許され
ていた。
 バンタンヘの戻りのバンカ海峡で、第3次イギリス・オランダ戦争(1672−74年)中であった
ため、オランダ艦隊に拿捕されている。1674年1月25日、すでに拿捕されていた僚船カッス
ル・オブ・リード号900トンに乗船させられ、オランダに連れて行かれることになった。オランダ
人乗組員は、少なくとも3−5年間も東洋を航海しており、生きて母国に帰れたのは約3分の2
どまりであった。オランダまで8か月ほどかかり、29人が死んでいる。ロッテルダムに着いた
時、戦争は終っていたので、捕虜賃金6ポンド13シリング4ペンスが支払われた。イギリスに
戻り、東インド会社に行って賃金を受取ることにしたが、その資格がないといわれた。お情けで
2か月分の2ポンド10シリングが支払われた。3年間働いて受取った賃金は、前渡しの2か
月、妹への送金3か月、そしてお情けの2か月分だけだった。
★平水夫、士官に昇進★
 1675−76年、バーローはマリーグールド号という小さな船に乗って、地中海諸島に航海に
出ている。乗組員18人、大砲8門であった。クライドで、1樽10シリングで買ったピクルス漬け
ニシンを800樽を積み、タンジール(ジブラルタル海峡のモロッコの港)やアリカンテ(スペイ
ン、ムルシア地方の港)に行って約30シリング出して、良質のぶどう酒を30ガロン(136リット
ル)を買いながら、マルセイユとレグホーン(現在のリボルノ)に向っている。マルセイユでは、
ニシン1樽25シリングで売っている。そこからレグホーンまで、向い風に出会ったため、1か月
もかかり、ニシンを1樽18シリングで売っている。そこで、壷入りのオリーブ油、樽詰めのアン
チョビ、こうり包みの絹を買い、ロンドンに持ち帰っている。イタリアの港には、情の深い娼婦が
いたので、船員たちは彼女らのとりこにされかねなかったという。その航海のバーローの賃金
は1か月31シリングであった。
 1677−78年、バーローはグアンナボ号の次席士官になり、1か月55シリングで西インド諸
島に航海している。その船は350トン、大砲20門、船長サエル・ヨナスであった。バター、チー
ズ、小麦粉を積んでマデイラ島に向い、そこでぶどう洒を満載することにしていた。マデイラ島
を視認できたが、東風のせいで西方に42マイル(78キロメートル)も離れており、アルジェや
サレなどのイスラム海賊が巡航していたので、バルバドス島に向うことになった。そこで積荷を
下し、砂糖、ロッグウッド(黒色染料木)を積んでいる。北東貿易風に乗ってキューバの西端ま
で行き、フロリダ海峡を通り、北緯29度まで北進し、そこで北東に変針する航路を取ってい
る。この航海は8か月と10日かかっている。さらに、同じ船の主席士官に昇進して、ジャマイカ
ヘ航海している。その時、船長が病気でバルバドス島で下船したため、バーローが一船の指
揮をゆだねられている。イギリスに持ち帰ったが、砂糖がぬれていたため、またも乗組員はそ
の分賃金から差し引かれている。
 ついで、旅客船カディス・マーチャント号240トン、大砲24門の次席士官となり、ダウンズか
ら男女船客80人を乗せて、護衛船を雇い、45日かかってポート・ロイヤルに着いている。復
航は90日かかっている。積荷の原綿とスペイン皮革に損傷があったので、乗組員は100ポン
ドを支払わされている。バーローは指揮者になりたいために、金儲けに励んでいる。航海記録
によれば、天気の良い日は152マイル(282キロメートル)、最悪の日は7マイル(14キロメー
トル)だった。次の航海も同じ船に乗っており、1682年1月1日ロンドンに着いている。
 エキスペリメント号(1671年)
エドワード・バーローが描く

★東インド船士官となる★
 バーローは、それまでに東インドに2航海しかしていないが、1683年東インド会社に用船さ
れたデライト号の主席士官として乗船する契約をしており、賃金は1か月6ポンド5シリングであ
った。しかし、船長といさかいを起し、下船させられている。カルカッタで、ケソト号140トンの主
席士官になんとか雇われて、ロンドンまで帰っている。ケント号は、プリマス沖で東インド会社
の監視艇に停船させられ、冒険商品の捜索を受けた。バーローは5シリング9ペンス出して買
ったキャラコ2反に、罰金4シリングを支払わされている。デライト号の賃金を要求したところ、
裁判に訴えればよいといわれている。その後、ふたたびケント号で東洋に行っている。
 1687年に、レインボウ号の主席士官として、6ポンド10シリングで雇われ、トンキン(ハノイ)
などインドシナを航海している。レインボウ号は、南インド洋を南緯36、7度の針路を取って東
航していた。船長は、アムステルダム島またはサン・ポール島(東経80度付近)の経度で北に
変針するつもりでいたが、2つの島を視認できなかったため、船は予定より720マイル(133
キロメートル)も東航してしまった。ソンコイ(北ベトナムの川)をさかのぼり、ドマイで6か月錨泊
したが、すでに1688年3月になっていた。トンキンでは、イギリス人やオランダ人は現地妻を
持っていた。
 レインボウ号は、トンキンで絹糸、漆器、化粧箱、茶卓、金塊、スマトラでコショウを150トン
積取っている。モーリシャス島で新鮮な食品と水を積み、西航に変針する点まで南下して行っ
たが、強い西風にはち合せして、喜望峰の経度まで2か月もかかっている。1690年1月10日
ダウンズに錨を入れたところ、船員たちは全員海軍に強制徴発されてしまう(強制徴発はY章
で詳述する。東インド会社船員が適用除外のはずであるが、帰帆するとそうでなかったらし
い)。その後、バーローは下船して、夏の間、1か月44シリングで海軍の士官候補生になって
いる。
 1691年2月6日、東インド会社船サンプソン号の主席士官として、6ポンド10シリングで乗
船し、マドラスやカルカッタに航海している。その船は600トン、大砲40門、乗組員105人であ
った。復航中、西インドのバルバドスに寄港して船団を組んだが、大西洋を渡る時激しい暴風
にみまわれ、帰帆できたのは26隻のうち11隻であった。帰帆した途端に、一般の船員は強
制徴発隊に連行されている。バーローは、この時、ある船員の妻から、夫を殺した科で訴訟を
起されている(後述[章5参照)。
 ディール・キャッスル号
クオーターデッキで働く船員、士官、
そして飼われている羊や雌どりたち(1775年)

★船長になれず廃業★
 バーローは、1695年11月、セプター号に乗船した。当時、フランスと戦争していたので、船
員は強制徴発され、オランダ人やデンマーク人を補充している。東インド会社は、インドに着く
までどこにも寄港してはならないと命令されていたので、赤道に着くころには飲料水は1人1日
1クオート(1136ミリットル、人間1日1リットルあれば生きて行ける)に制限され、食料は硬い
ビスケットと塩水で煮た塩漬け牛肉だけになった。そのため水夫や兵士が40人死んだ。169
7年6月28日、インド西海岸のアニンガに着いている。セプター号は十分に武装していたの
で、ムーア人の所有する17隻の巡礼船団を護衛することになった。その途中、海賊船を追い
払っている。また、船長が死んだので、バーローが指揮を取ることになった。
 セプター号は、スラトで船を左や右に傾針させて船底を清掃したり、詰め物をして水洩れを防
いでいる。70頭の雌牛、20頭の雄豚を買い、屠殺して塩漬けにし、コーヒー豆を48袋積ん
で、1698年1月15日出帆している。途中、ボンベイで船員を20人補充し、同年8月5日ブラ
ックワル(ロンドンの王立造船所のあるところ)に着いている。バーローは、船長の職を買い取
ることができず、ふたたび主席士官として航海している。次に乗った船の船長は船員でなかっ
たため、ブリストル海峡をイギリス海峡と間違えて、乗揚げ事故を起こしている(なお、船長の
職を金で買い取る話は、後述\章参照)。
 バーローは、1699年11月22日、ウェントワース号に乗って、中国に向っている。船長は乗
組員数が多いと いって、せっかく雇った船員を9人解雇している。1701−03年、東インド会
社の用船フリート号270トン・大砲20門の主席士官として乗船している。船長は若く、うぬぼれ
が強く、横柄で卑しく、不誠実であった。船長は婦人用の帽子屋を営んでいたが、多額の持参
金つきのパン屋の妹と結婚していた。妻は船主に影響力のある友だちに頼んで、夫を船長に
してもらっていたのである。バーローが船長の無能力を批判したところ、セント・ヘレナ島(ナボ
レオンが流された南大西洋の小島)で解雇され、キングフィッシァ号に転船させられてしまっ
た。それがバーローの35年に及ぶ海上履歴の最後になった(この項、コース51−9、97−
8、129−42ページ)。

2 船長の息子クレーマー
★古船で大西洋横断★
 ジョン・クレーマー(John Cremer)は、1700年ロンドンはロザーハイズ区のイースト通りで生
れている。父は商船の船長であり、また叔父は海軍の艦長であり、母はロープ作りの親方の
妹であった。1714年8月、ロンドンからビルバオ(スペイン、ビスケー湾の港)に行くビルバオ・
マーチャント号120トン、乗組員12人で、初めて船員になっている。1か月5シリングで、高給
取りは22シリング6ペンスであった。2回目の航海アムステルダムルで粟の実を積んだが、1
週間ほど帆走したところで粟の実が熱を持って腐り始めた。火事になるのを恐れて、船外に捨
てた0400ポンドで買った積荷は40ポンドにしかならなかった。悪いことは重なるもので、アム
ステルダムで約7週間も氷に閉じ込められている。
 次に乗った船は、300トンの古船で、船長は4分の1の共有船主であった。賃金は1か月15
シリングで、前渡金は10シリング6ペンスであった。港にいる間は1週雲ンスの食料金が出さ
れた。ハキング船長は船の保守、操船、航海のやり方を教えるという約束であったが、最初の
仕事はマストなど索具のクール塗りであった。乗組員は士官2人、掌帆長、有能船員2人(賃
金1か月25シリング)、料理人、ボーイそしてクレーマーであった。船長はレグホーンで下船せ
ず乗船しつづけるという誓約書に署名を求めてきた。乗組員はレグホーンで5シリング賃金を
上げることで合意している。
 ワイト島のカウズ(サザンプトンの沖合の島)に行って、トウモロコシを積み、8隻が船団を組
んで出帆した。カウズで、乗組員は夜にまぎれて畑にしのび込み、えんどう豆やいんげん豆を
盗んで、食料の足しにしている。レグホーンではいろいろな国の船員が入り混じって喧嘩してい
るのに出喰わしている(]U章4参照)。船長が乗組員にサルデニヤ島のカリアリで塩を積
み、ニューイングランドのボストンまで行くと伝えたところ、こんな船に乗って大西洋を横断する
のは嫌だといって、水夫数人が下船している。残った連中は1か月22シリング6ペンスで再雇
用されている。
 大西洋を北緯35−40度の間を通って横断した。塩を満載していたので、水洩れが激しく、
ポンプを絶えず突いていなければならなかった。食料の支給量が減ったので、乗組員は船長
からハム1ポンドを4ペンス、コルシカぶどう酒1ガロン(4・5リットル)を3シリング6ペンスで買
わされる羽目に陥っている。船長は、天気が悪くても毎週1回祈祷会を開いていたが、天気の
良い日は誰も参加しなかった。サルデニヤを出帆して1か月ほどたったところで、黒雲をはら
んだ突風につかまり、バミューダ島に吹き寄せられ、乗り揚げしかかっている。冬期になり、乗
組員は霜焼けになりながら、ボストンに入っている。代理店が、乗組員に温かい着物やラム酒
を持ってきてくれたのは良かったが、それで賃金はふっ飛んでしまった。人びとに見送られてイ
ギリスに帰ることになったが、取替えた材木に詰めたまいはだ(槇皮)が役に立たず、水洩れ
が激しくなった。料理人が、船首に穴が空いて横揺れの度に水が入ってくるのを見つけ、その
穴に塩漬け肉を2切れ挿し込み、その上に板切れを打ちつけたところ、水は見事に止まってし
まったという。
ロンドン港西インド埠頭
(W・バロット画)

★ボストンで「脱船」★
 1717年、サミユエル号140トン、4ポンド砲10門、旋回砲6門、乗組員13人の司厨兼砲手
として、1か月20シリングで雇われている。船長は船主の親戚ということで船をまかされている
だけで、操船術も航海術は何も知らなかった。主席士官が船を扱っていた。シチリア島のメッ
シーナ、ベネチア、ザンテ(ギリシアのザキントス島)やギリシアの西海岸を航海している。ギリ
シアでは、ギリシア兵60人の他、領事の息子や妹、召使が乗り込んできたので、船長は部屋
を明け渡し、乗組員は船首楼に追い立てを食っている。サミユエル号は1717年のクリスマス
にロンドンに帰れたので、乗組員は喜んでいる。
 次の船はシェパード号で、1か月27シリングの次席士官であった。仕向地が変れば、雇用契
約は破棄されることになっていた。ボストンに着いたところ、ロンドンに直行することになった。
主席士官は別の船に乗れば、高い賃金が取れると乗組員をそそのかしていた。クレーマー
も、陸の彼女にくどかれて下船している。彼女と別れて、ガレー型の新造船の次席士官として1
2ポンドで雇われて、ロンドンに帰ってきている。
 グッドフェロー号の次席士官、1か月22シリングでジブラルタルに行くことになった。ダウンズ
停泊中、6人の水夫が1か月の前渡し賃金を受取ると、すぐに脱船している。ミノルカ島のマオ
ンに立ち寄った時、クレーマーは女の取り合いをしている(後述Z章4参照)。船員がなぜかイ
ギリス軍艦に逃げ込んだため、いろいろな国籍の船員を混乗せざるをえなくなっている。緊急
事態が発生すると、セールを縛るため乗組員全員を甲板上に呼び上げる。それにすばやく反
応させるため、最後に出てきた船員に、当直士官がげんこつで一発お見舞するならわしがあっ
た。暗夜、クレーマーが総員起しをかけたところ、はからずも船長が最後に甲板に出てきた。
船長かどうかわからなかったので、クレーマーは両目に黒いあざの贈物をしてしまった。ロンド
ンに帰った時、クレーマーは解雇されている。
★良い船長、悪い船長★
 次は、フリゲート型のザンテ号300トン、大砲20門、乗組員30人の次席士官であった。そ
の船は私掠許可状をたずさえていた。船長は共有船主の息子で若く、その経験からみて船長
の資格はなかった。1719年10月出帆、メッシーナ、マホン、ベネチア、スミルナ(現在、トルコ
のイズミル)、ローマに近いチビタベッキアに回っているが、スミルナで天然痘に感染したらし
く、船長は死に水葬されている。船医は血を抜き、物を吐いて、天然痘の毒を出すしかないと
いっている。主席士官が船長、クレーマーが主席士官、銅工が次席士官に昇進している。チビ
タベッキアに着くと、船は30日間検疫錨地に入れられている。ザンテでは、ユダヤ商人と冒険
商品を丁丁発止と売り買いして、小遣い稼ぎに励んでいる。ザンテからジブラルタルまで6週
間、そこから凪がつづいたため、200マイル(360キロメートル)西方のフィニステレ岬まで20
日もかかった。そのため薪がまったくなくなり、週1日しか火を使えなくなっている。マストやボー
トを薪にするかどうか、議論しあっている。ダウンズについたが、検疫のため40日間検疫錨地
に入れられ、大損している(後述]V4参照)。
 そのロンドンでは、東インド会社船の三席士官として1航海してきた従兄弟と出会い、気前良
く札びらを切って食事をしたり、ドルアリー・レイン劇場で芝居を見たり、洋服屋に行って無地で
幅広の上物のスーツと当世風のコート、チョッキ、半ズボン、絹のストッキング、ハット、短剣を
買い込み、紳士の生活を楽しんでいる。
 その後、ガレー型のランベス号の次席士官になっている。船長はエリオットといい、優秀な船
乗りで敬けんな長老教会員(上流・中流階級の信者が多い=引用者注)であった。乗組員は
誰彼も行儀が良く落ち着いており、がみがみいい合うことは禁止されていた。すべてが命令通
り行われ、良く統制されていた。キャビンには礼拝堂があった。フィニステレ岬の緯度まで南下
したところで、豪雨にみまわれ、すぐさまセールを下したが、稲妻がメンマストに落ち、大破して
いる。当直船員は甲板にたたきつけられてしまい、全員ぼう然としていた。船長は全員に祈祷
式に出るよう命令し、神のご加護を祈った。ジェノバに入港すると、まじめで信心深い乗組員も
上陸して悪の道に逆もどりし、コルシカ産ぶどう酒で酔っぱらって、一晩陸<おか>で過し船に
帰ってきている。船長や主席士官は、たまに大騒ぎする乗組員を大目に見ていた。しかし、ク
レーマーや大工がそれに加わることは許さなかった。それに参加しないおとなしい仲間を、乗
組員はいじめていた。
 クレーマーは、同じ船主の小型船バンステッド号に転船し、1か月3ポンドの主席士官となっ
た。穀物を積み、リスボンに向った。船長と乗組員は親せきで、仕事のやり方を知らず、船内
の規律は乱れていた。コルシカ海岸沖で暴風に出合い、転覆しかかった。大量の穀物を船外
に投げ捨てて、船の傾きを直さなければならなかった。海難報告書(note a protect)を提出し
て保険金を受取り、荷主と船主が共同海損の費用を分担しあっている。船長の親せきの乗組
員はリスボンでさっさと下船してしまい、新しい乗組員は船がジェノバに戻ることを条件で乗船
してきた。クレーマーは、アムステルダムで下船し、イギリス人の寡婦の家で、食事、洗濯付き
で1週間5シリング10ペンスで寝泊りしている。1727年、ガレー型のアムステルダム号の船
長に指名されている。その後、船長を長年勤めたようであり、1774年5月19日プリマスで死
んでいる(この項、コース157−167ページ)。

3 たたき上げの船長ケリー
★西インド郵便舶に乗る★
 サミュエル・ケリー(Sammuel Kelly)は、1778年西インド諸島向け郵便船タイン号の徒弟とし
て乗船している。ケリーは士官と一緒に食事していたが、水夫と一緒にハンモックを使って寝
起していた。乗組員は正式には60人であったが、実際は59人しか乗っておらず、1人分は郵
便物輸送の代行人(船主)がふところに入れていた。ケリーは次席士官の当直に入っている。
船長から、四分儀で子午線の高度の測り方や、船のいる経度の出し方を教えてもらっている。
その後、郵便船キング・ジョージ号に転船しているが、当直中フォマストやメンマストに登って、
見張りをさせられている。また、他の少年と一緒に小銃の扱い方や、ボクシングのやり方を教
えられている。
 また、タイン号に戻っているが、ジャマイカヘの航海中、ネズミが船板をかじって穴を空けてし
まい、海水が流れ込んできて大騒ぎになったとか、メントップの見張りをさせられた時、船がロ
ーリング(横揺れ)、ピッチング(縦揺れ)しているなかを寝ていたとか、時化ている時にスカイス
クレッバー・セールの取付けが恐しかったとか書いている。
測深索を引く水夫
(アトキンソン画、1810年頃)

★冒険商品の売買★
 ついで、1781年郵便船グレンビル号に乗って、バルバトスに向っている。乗組員はメッキの
バックル、絞様入りの帯布、紳士靴、婦人靴や絹の靴下を買い込み、家を一軒一軒回って売
っていた。ケリーは、船長の冒険商品をバルバドスで売春婦に売っている。彼女らは大のお得
意で良い値で貰ってくれるので、苦労せずに売ることができた。グレンビル号に、母国に帰る
ハミルトン伯爵夫妻など要人が乗船してきたので、ケリーは司厨長の手伝いをせねばならなか
った。夜、昼となく呼び出されるので、サロン・テーブルの下で寝るほかなかった。キャビンには
ろうそくがともされていたが、サロンでは鯨油をたく吊りランプが用いられていた。
 帰りの航海は悪天候にみまわれ、ファスル1組だけで10ノット(18キロメートル時)の速さで
吹き流されたという。主席士官は、ファマストやメンマストで寝ている船員を鞭で打った。ケリー
も1時間毎に測深索<レッド>を引きに行くのが遅れると、バケツ水をかぶせられている。西イ
ンド船の食事は良くなかった。塩漬け牛肉には死獣の最もまずい部分も含まれていたし(当
時、イギリスでは死獣を食べていた)、塩漬け豚肉の樽なかには鉄の鼻輪がついた頭や、毛の
はえている足やしっぽも入っていた。
 1782年2月12日、グレンビル号はサウス・カロナイナに向け出帆したが、アメリカ独立戦争
の最中であり、アメリカのフリゲート艦フランクリン号に拿捕されている。バージニアに曳航しよ
うとしたところ、イギリス軍艦に逆に拿捕されてしまっている。当時、海戦で衣服や寝具を失っ
た場合、2ポンドの補償金が支払われるはずであったが、それが郵政省代行人を通じて支払
われたので、船員がそれを間違いなく受取れたわけではなかった。グレンビル号はそれが最
後の航海になった。大工や掌帆良は船のロープ・コイルを売って、臨時収入を稼いでいた。こ
そ泥に間違えられ、船長が釈放を願い出るまで、留置場にほうり込まれていた。ケリーは東イ
ンド会社船の下級士官にならないかと持ち掛けられたが、100ポンドの費用がかかることがわ
かったのでやめている。
★出来の悪い船員たち★
 ついで、外洋軍事輸送船ジェイソン号300トンの有能船員として雇われることになった。ケリ
ーは1か月分の賃金に当る3ポンドを船員周旋屋に支払っている(船員周旋屋についてはZ
章で詳述する)。乗船契約書を署名する時、船長の妻に石炭運搬船で徒弟をしていないので、
有能船員の資格がないと文句をつけられ、1か月40シリングの一般船員として雇われること
になってしまっている。乗組員は船長、主席・次席士官の他、大工、料理人、船員4人、徒弟3
人、ニグロ少年1人、合計12人と少なかった。船長は、運輸省の検査をごまかすために一時
借り受けていた備品を王立造船所に返している。
1782年12月15日、ジェイスン号は軍需品を満載して船団を組み、ガランシーまで行ってい
る。そこで96歩兵連隊の病兵190人を積み、セント・オウビンスに向っている。ポーツマスに
帰ったところ、ネズミ取りが乗り込んできて、船倉にからす麦のだんごを仕掛けたところ、多数
のネズミが死んでいる。ジェイスン号は、1783年6月封印命令書を渡されて出帆した。それに
は、ニューヨークまで行って兵士や移民を乗せ、ノバ・スコシア(カナダ)に移送せよとあった。
それを終えて、ジェイスン号は3年ほどアメリカ・西インド諸島で航海している。その間、船食い
虫に外板に食い荒され、銅板を覆いなおしたり、メンマストに雷が直撃して損壊したので、陸か
ら材木を切り取ってきて新しく立てたりしている。1785年10月ロンドンに帰っている。
 1787年4月1日、ティス号の主席士官となって出帆している。船長は有能な船員であったが
紳士ではなかった(後述]章4参照)。フィラデルフィアで塩を陸揚げした後、マガホニーと染料
木を積み、6月初め出帆、8月13日リバプールに着いている。次いで、マルセイユに行った
が、船長が出帆前に健康証明書を取り忘れたため、検疫錨地に入れられ、船内を燻蒸<くん
じょう>させられている。シチリア島のトラパニに行き、海塩を積み、1788年3月1日フィラデ
ルフィアに向っている。そこで、穀物や材木を積んでジャマイカに持って行き、ロンドン向けの
砂糖を積取っている。復航中、要員不足であった上に病人が出たので、縮帆する時、船長も
舵輪を握らされ、ケリーはポンプを突くざまであった。1788年11月ロンドンに着いている。そ
の停泊中、ケリーと船長は、オールハローズ教会に行って、メゾジスト教派の創始者で神学者
のウェスレー牧師の説教を聞いたのはよいが、牧師をコベント・ガーデン劇場に連れ出して、
不道徳でふしだらな異教劇をみせている。
★ケリー、船長となる★
 ケリーはジョン号の船長になり、1789年7月17日塩、石炭、俵物を積んで、フィラデルフィア
に67日の航海をしている。そこで、小麦や小麦粉を満載して、同年11月バルセロナ向けに出
帆し、翌年1月18日その港に近付いたが、吃水があまりに深かったため乗揚げてしまってい
る。ついで、バレアレス諸島のイビサ(スペインの地中海の島)に行き、塩を買って、同年5月8
日フィラデルフィアまで持って行って高値で売っている。そこで外輪蒸気船を見ている。
 フィラデルフィアでは、リバプール向けの銑鉄、クール、赤肌の杉や樽材を積んでいる。乗組
員は、乗船契約書がリバプールとフィラデルフィアの往復となっていたのにバルセロナに行っ
たので、それは無効になったといって下船してしまった。彼らは船員下宿屋のおやじにそその
かされていた。ケリーは、船員の補充に苦労して、同年7月17日に出帆し、8月20日アイリッ
シュ海に入っている。当時、リバプールに信号所があり、入港船の船名を町に知らせていた
(なお、ケリー船長と他の船長との違いは、後述\章4参照)。1792年、ケリーはジョン号を下
船し、1795年から西インド貿易船に乗っている。ある時、乗組員が徴発あるいは脱船したた
め、何とか乗組員を補充したものの、新しい乗組員から帰帆手当を要求され、大損している
(詳細は後述Y章4参照)(この項、コース169−182ページ)。


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