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 イギリスはじめ先進国の資本主義は、アメリカ大陸における植民地の建設と、そこでのアフリ
カ人奴隷の酷使を通じて、初めて成立した。奴隷を供給したのが、奴隷商人と結びついた海運
であった。その非人道的な輸送について、目をふさぐわけにはいかない。また、18世紀、資本
主義が成立し始め、社会的緊張が強まるなかで、多数の流刑囚を奴隷船さながらの状態で移
送した流刑船が、人民の反発を抑圧する権力者の手段となっていたことも見落すわけにはい
かない。

1 イギリス、奴隷貿易も独占
★18世紀が最盛期★
 大西洋の奴隷貿易は、16世紀に西インド諸島そしてアメリカに植民地が建設されるとともに
始まる。その先発者はスペインやポルトガルであった。貴金属鉱山の採掘や砂糖キビ栽培農
園で、原住民奴隷が減少すると、黒人奴隷が送り込まれることになる。ここでは大西洋奴隷貿
易のみを取り上げるが、他の地域でも広範に奴隷貿易が行われていた。日本も無縁ではなか
った。ポルトガル船が、日本に就航するようになると、ただちに奴隷貿易を持ち込み、特に日
本人女奴隷を多数積込み、南アジア、アルゼンチン、メキシコ、アメリカまで売りとばしていた。
1571(元亀2)年、長崎開港の年、ポルトガル王は日本人奴隷取引き禁止の勅令を出してお
り、また1587(天正15)年、秀吉は伴天連追放令で黒船が日本人を買い取ることを禁じてい
る。それで止まったわけではなかった。
 イギリスの植民地は、当初、自国の半奴隷的な白人年季奉公人や徒弟が多数輸出されてい
たので、金を出してまで黒人奴隷を買うことはなかった。しかし、1623−25年にバルバドスや
アンチグア、1670年にジャマイカなど、西インド諸島が戦利品としてイギリスの植民地になり、
またアメリカ植民地で綿花、タバコ、米、インジゴ(染料)などのプランテーションが開発されるに
つれ、イギリスも奴隷貿易に進出するようになった。同じ頃、オランダ、フランスも加わってき
た。1672年には、王立アフリカ会社が設立され、奴隷貿易を独占するようになったが、1698
年に廃止され、その後奴隷貿易はすべて商人、船主に開放されるようになった。1713年のス
ペイン継承戦争講和条約の1つであるユトレヒト条約は、イギリスにスペイン領アメリカへ奴隷
を運ぶ権利を与えている。17世紀末になると、イギリスの奴隷貿易の独占が進んで行った。
 イギリス最初の奴隷船主は、1553年のトーマス・ウィンハムであるとされるが、本格的な輸
送はジョン・ホーキンズ卿(ウイリアムの息子、1532−95)であった。1567年、エリザベス1
世は2隻の奴隷船を所有していたとされる。奴隷貿易は、初めロンドンとブリストルの商人が中
心であったが、18世紀初めにそれに手を染めたリバプールがイギリス最大の奴隷船を保有す
る港となった。1750年にはリバプールの西アフリカ貿易を拡大・強化する法律が議会を通過
さえしている。1752年、リバプールから87隻の奴隷船が出帆し、また1773年には105隻1
万1056トンが所属していた。港の商店は、ニグロ奴隷に使う手錠、足かせ、首輪、鎖を売っ
て、商売を大繁盛させていた。リバプールは私掠船でも名を上げていたが、奴隷貿易では背
後地にマンチェスターなど工場地帯を持っていたため、急速に発達したのである。
 18世紀後半の奴隷船総数は192隻、輸送能力4万7146人であった。1783年から93年
までに、リバプールの奴隷船は30万3737人の奴隷を運び、純利益は1229万426ポンド
で、利益率は30%であったという。アフリカからアメリカに運ばれた黒人奴隷は、300年の間
に1500万人といわれる。また、輸送中の奴隷の死亡率は、平均的には4分の1から3分の1
といわれるので、300−500万人が海に捨てられたことになる。しかも、そうして運ばれた奴
隷は18世紀末にはたった300万人しか生き残っていなかったという。
 なお、ダニエル・P・マニックス著・土田とも訳『黒い積荷<ブラック・カーゴ>』(平凡社、197
8)は、奴隷船について詳述されており、大変参考になる。
奴隷船ビンランティ号240トンの奴隷345人の積み付け図(1822年

★奴隷の取引と輸送★
 奴隷船のなかには、100トンかそれ以下の船もあったが、18世紀はほとんどが200−250
トンであった。奴隷貿易の批判が強まってからのことであるが、1788−89年、いくつかの議
会法が通過し、201トンまでの船が積める最大奴隷数は3トンにつき5人、201トンを超える
場合その1トン毎に1人と規定していた。しかし、それが守られたわけではなかった。ある235
トンの船に、西アフリカの仲買人は700人を供給したという。一方、船主は600人しか積込ま
れていないといって争っているが、その船が積める法定数は425人であった。法定数そのも
のが多過ぎた。奴隷が船に着くと、手かせ、足かせをはめられて、船艙に入れられた。1788
年通過の議会法によれば、甲板と甲板の高さは5フィート(1.52メートル)以上でなければなら
ないことになっていたが、棚で水平に2段に仕切られており、その間は30インチ(76センチ)し
かなかった。その上、奴隷はお互いに鎖で継ぎ合わされていたので、折り重なっていなければ
ならなかった。航海中、奴隷たちは熱病か赤痢で、半数が死んでしまった。
 奴隷船が、西アフリカの積込み港に着くと、船長は部族長に土産物を贈り、さらに大量のア
ルコール飲料を供給した。部族長は贈物に満足すると、その船が積めるだけの奴隷を送り届
け、船から約束した量の貨物を受取った。必要な数の奴隷が集っていないと、部族長は戦士
を内陸に送り、奴隷を狩らせていた。時には、奴隷船の乗組員が自分たちのボートに乗って、
熱病にかかりやすい河をさか上って捕まった奴隷を選ぶ場合もあった。それが1か月になるこ
ともあった。
★452人積んだ例★
 奴隷船の具体的な取引と輸送状況をみてみる。1700年2月24日、エクセターのダニュル・
アンド・ヘンリー号が奴隷船としてダートマスを出帆して行った。船長はロジヤ・マシュー艦長で、
乗組員は45人であった。ギニア向け往路の積荷は薄いキャンバス、酒、ニグロ風ナイフ、鏡、
火打ち石と導火線、カービン銃、ピストル、火薬、鉛の棒、亜鉛板、大きなコップ(彫刻あり、な
し)、鉢と壷、白いサレム粉、マンチェスター製綿糸とインド絹糸であった。ある港では、4枚の
キャンバス、火薬1バーレル(136リットル)と火薬7フルキンズ(41リットル)が奴隷男1人と女
2人、鉢19個が少女1人、カービン銃7丁とカトラス剣1本が男1人と交換されている。
 航海日誌によると、同年4月9日ケープ・コースト・カッスル(ガーナ)の沖に錨を入れている。
その後、いろいろと移動したが奴隷は5人しか手に入らなかったが、大量の金を積んでいる。
最後に、ポイヨンに着き、8月15日まで錨を入れて、主として女奴隷を254人買い取ってい
る。さらに、フランス領ギニアのセント・トミー(北緯10度10分)で奴隷を手に入れ、水や食料
を補給して、9月6日奴隷452人を連れてジャマイカに向けている。10月6日までに、乗組員2
人、天然痘にかかって死に、奴隷は153人に及んだ。その後、主席士官も死んだが、船医は
何の役にもたたなかった。
 中間航路を北東貿易風に乗って直進したが、思いのほか長くかかった。10月23日までに奴
隷の死者173人となった。11月4日、バルバドス島が見えてきたが、その翌日までで奴隷の
死亡数は183人になっていた。航海日誌の記事欄には「船医は彼らを治療する知識がない」
と書かれていた。11月3日、イスパニオラ(サント・ドミンゴ)の沖を通り、同14日ケープ・チブ
ロン(ハイチの南西の岬) を見ている。2日後、ジャマイカ島をとらえ、翌朝ポート・ロイヤル港
に入っている。この船は中間航路に72日間もかかり、奴隷452人のうち206人が死んでい
る。そして、その港で多数の乗組員がもう不用になったといって解雇されている (同69−73
ページ)。
アフリカで奴隷を買う前に奴隷商
の代理として彼らを調べる船長たち
バーク型船ワイルドファイア号上の
奴隷(1860年)

★役に立たない船医★
 奴隷輸送の規制としては、積込み量や収容スペースの他、1789年法は船医の配乗義務を規
定した。それ以前から船医は乗船していたが、乗組員の病気を治療させるためではなかった。
奴隷を収容する部屋を作る大工や奴隷を縛る道具を用意する銅工は、船医とともに奴隷船の
非常に重要な乗組員であった。奴隷が積込まれると、船医は伝染病を注意深く検査した。しか
し、伝染病の病原がわかっていなかったので、外観だけであった。中間航路で奴隷の健康を
保つのも、船医の責任であったが、病気が発生してしまえば手におえるものではなかった。
 奴隷船の中間航路で、奴隷をそれほど死なせずに運んだ例もないわけではない。ジョン・ニ
ュートン(1725−1807年)は後年聖職者になり、奴隷廃止に努力した船長として有名である
が、奴隷を1人も死なせていない。1701年、マーザ号は200人の奴隷を輸送した際、船医や
士官が死んでいるが、天候に望まれたおかげで、奴隷の損失は20人だけだった。1758年、
ナイト号は398人の奴隷を積んでいたが、ボウティス船長は彼らをやさしく取扱い、彼らを信頼
して縛らなかった。フランス私掠船に襲われたが、奴隷たちも勇敢に闘い、フランス船を沈没さ
せている。乗組員と奴隷を30人失っただけでジャマイカに着いている。1806年、メアリー号
はクロウ船長の食事と衛生の管理が良かったため、乗組員・奴隷を各1人失っただけであっ
た。そうしたことは、少し人間的で商才に長けていればありうるとしても、大方の船長や商人は
決してそうではなかった。

2 奴隷船は船員の墓場
★奴隷の反乱★
 奴隷たちはそれが成功するとは思っていなくても、千載一遇をねらって反乱に打って出るの
もきわめて当然のことであった。1756年の夏、西アフリカ海岸から約300マイル(556キロメ
ートル)しか離れていなかった、奴隷船で事件が起きている。鎖で縛られず、甲板に出ていた
6、7人の奴隷が主席士官のアシュフィルドをうまく欺し、彼の注意を船艙にそらせたところで、
後部サルーンに押し入り、船長のポープ、次席士官のダンカンをなんなく捕え、船長を殺し、ダ
ンカンに重傷を負わせた上、キャビンに陣取った。4時間後、次席士官は何とか脱出し、アシ
ユフィルドや銅工と一緒になって、扉を縛って奴隷を中に閉じ込めるのに成功した。奴隷たち
は、マスケット銃やラッパ銃を閉まった扉から撃ちかけてきた。一発も当たらなかった。撃ちや
まったところで、アシュフィルドと銅工が、勇気を奮ってキャビンに飛び込み、奴隷の武器を取り
上げた。彼らも争いで傷を負ったが、奴隷たちを縛るのに成功した。ただ、キャビンに押し入っ
た首謀者は海に飛び込み、溺れ死ぬのを選んだ。
 1797年、ピークー・マゾキー船長が指揮するリバプールのトーマス号は、ルアンダからバル
バドスに375人の奴隷を運んでいたが、バルバドスの近くにきて乗組員が朝食している時に、
反乱が発生した。3人の女奴隷(女奴隷は鎖で縛られることはなかった)は、兵器係が武器の
入った箱を開けたままでいるのを見つけ、武器を取り出して後部ハッチに持って下り、男奴隷
に手渡した。約200人の奴隷が、5つのハッチから甲板に出てきて、その辺にいた乗組員を
全員殺した。船尾にいた船長、士官、数人の船員はキャビンから応戦したが、船長を含めほと
んどが殺された。12人の乗組員が、船尾に備えつけてあったボートに逃げ込んで、バルバドス
に着いている。船内で生き残った船員は、船をアフリカまで引き返せという命令を受けたが、そ
のうち4人はボートに乗って逃げるのに成功し、餓死の状態でウォルテング島に着いている。
 その結果、残った5人の船員だけで船を動かしていた。6週間後、ラム酒を積んだアメリカの
ブリグ型帆船の船長が、トーマス号の船上に人影がないのに気付いて横付けして帆走したとこ
ろ、武装した奴隷たちはアメリカ船に移り込み、乗取ってしまった。乗組員はボートに乗って逃
げた。積荷のラム酒を見つけた奴隷たちは、それを浴びるように飲んで酔いつぶれてしまった
ので、トーマス号の5人だけで船を取り戻すことができた。そこで最寄りの陸に針路を向け、北
アメリカのロング・アイランド(ニューヨークのある島)の海岸にたどり着いて、一件は落着した。
 これらの例は成功した部類に属していよう。大方は直ちに発見されるか、あるいはむしろそ
の兆候があっただけで、鎮圧されたにちがいない。
★船長の奴隷手数料★
 奴隷貿易の利益はきわめて大きかったが、船員にとってはそれほど魅力のある仕事ではな
く、乗組員の扱いは普通の商船よりも悪かった。そこで、船員を集めるのに一定の工夫が必
要であった。リバプールの船主は、貧困少年を長期間、海上徒弟として働かせ、彼らを順次に
次席士官、主席士官そして船長に昇進させることで、船長や士官を確保していた。最後には、
彼らのなかから西インドで奴隷を取引する代理人に指名していた。そうしたやり方で奴隷貿易
を行い、大儲けをしていた。しかし、平船員を集めるのは、そうはいかなかった。乗組員の大半
は船員周旋産の甘言や奸計に引っ掛った新米船員であった。その他の多くは、下宿屋のおや
じに借金してしまい、それを清算するためか、あるいは治安判事に追い掛けられているため、
奴隷船は乗るものでないと考えながら、乗らざるをえなくなった連中であった。なかには、監獄
船からもらい下げた船員や拘置所から逃げ出した連中もいた。
 奴隷船の賃金は、決して高くはなかった。18世紀中頃、東インド会社船の1か月の賃金は船
長10ポンド、主席士官5ポンド、次席士官4ポンド、船医3ポンド、大工3ポンド10シリング、掌
帆長2ポンド15シリング、有能水夫1ポンド3シリングであった。それに対し、先のニュートン船
長の奴隷船アフリカ号は、船長5ポンド、主席士官4ポンド、船医3ポンド10シリング、次席士
官3ポンド、大工3ポンド10シリング、掌帆長2ポンド7シリング6ペンス、銅工2ポンド5シリン
グ、有能水夫1ポンド8シリングであった。東インド船にくらべ奴隷船の士官の賃金はきわめて
低い。というのは、船長、主席・次席士官、船医は運んだ奴隷の数にしたがって、手数料を受
取っていた。1752−53年、ニュートン船長は14か月の航海で、少なかったというが、奴隷手
数料は257ポンドであった。1805年のフォチュン号では、船長、船医の奴隷手数料はそれぞ
れ192ポンド、1か月賃金6ポンドであった。その他、500人運んで650ポンド、268人運んで
346ポンドという例もある。船長などは、奴隷を慎重に輸送すれば、多額の手数料が手に入っ
たはずであるが、なぜそうしなかったのであろうか。彼らは、黒人を人間とは見ていなかったか
らである。
 奴隷貿易の航海は、西アフリカへの往路、ニグロ奴隷を積んで西アフリカから西インドまたは
アメリカに向う中間路、そしてイギリスヘの復路に分かれる。中間航路になると、船艙を奴隷に
奪われるので、船員は甲板上で暮らさねばならなかった。そこで彼らを覆ってくれるのは、ボー
トのブームに張られたタールを塗ったオーニング(天幕)だけだった。熱帯の雨にぬれるので、
乗組員は熱帯アフリカの河でかかる熱病になってしまった。ある奴隷船では乗組員45人のう
ち15人を失っており、またある船では乗組員が熱病か赤痢にかかり、全員死んだ場合もあ
る。
 奴隷船は、西アフリカ海岸や中間航路が大仕事であったので大量の船員を乗せねばならな
かったが、復路になれば乗組員はそれほど必要でなくなる。船長のなかには、船内の条件を
次第に悪くして行って、乗組員が西インドで脱船するよう仕向けていた。それがあまりにも激し
く公然たるものであったので、ある議会法は1790年以後脱船者に支払われるべき賃金残額
を、グリニジ王立病院に拠出させることにした。その額は、1790年16ポンド18シリングであ
ったが、1802年には2530ポンドになっている。
 奴隷船の乗組員の死亡率は奴隷に劣らず高く、また多数の船員が解雇あるいは置き去りに
されていた。クラークソン船長[奴隷制廃止論者トマス・クラークソン(1760-1846)のこと]が、
1784−90年のリバプールとブリストルの奴隷船を調査したところ、出航時の乗組員数1万
2263人、死亡数2643人、帰還者数5760人であったという。死亡率21.5%、未帰還率53%
となる。こうしたことから、奴隷貿易は長い歴史を持ちながら、船員の養成所ではなく、船員の
墓場だといわれている(マニックス186−7ページ)。

3 奴隷貿易の廃止と密貿易
★奴隷貿易の言い訳★
 エリザベス女王は、「それがうまく行っても、いまわしい仕儀であって、奴隷貿易の請負人に
神の仕返しがあるにちがいない」といっていたというが、イギリス船が奴隷を運ばなければ他国
の船がもっとひどい状態で運んだにちがいないとか、ニグロたちは捕虜あるいは受刑者であ
り、奴隷として売られないかぎり命がなかったとか、奴隷は天の授かり物ではなく、自由人とし
て暮らして行ける能力がないとかいって、奴隷貿易をつづけていた。奴隷貿易は、その商人や
船主だけでなく、イギリスとその植民地に経済的な繁栄をもたらしていたので、イスラム諸国が
ヨーロッパ人を奴隷としていることを批判しても、自らが奴隷を取引・使用することには、それ
ほど痛痒を感じていなかった。しかも、イギリスはアフリカに宣教師などを送らず、銃とジンと雑
荷だけを持って行った。ただ、イギリスは他の国より奴隷貿易に実務的な才能を示したが、そ
の廃止にも努力を払った。
1770年代に入ると、奴隷貿易に反対する動きが強まってきた。1787年、ロンドンで奴隷貿
易廃止協会が設立されている。奴隷商人や船主が、大きな利益をつねに保障された仕組みの
1つとして、奴隷に貨物保険が掛けられていたことが上げられる。
★奴隷の海中投棄事件★
 大衆の奴隷貿易に対する無関心も、1783年のゾング号訴訟事件で破られることになった。
その船はコリンウッドが船長で、リバプールの参事会員グレグソンが船主であった。船長は共
同出資者で、この事件の原告であった。リバプールの同業組合会館で審理が行われた。原告
は、ゾング号の西アフリカからジャマイカまでの航路で失った奴隷150人の保険金を要求して
いた。ゾング号が西アフリカを出帆した時、奴隷が何人乗っていたかわからなかった。その船
の船底は不潔で、水洩れしていた。航路の半分までくるのに、15週間もかかっていた。船が遅
れた理由はいろいろあったが、船長自身の航海の失敗もあった。当時、アフリカ西海岸で清水
を積むのは困難であったので、乗組員や奴隷への水の割当てはごくわずかであった。ジャマイ
カが見えてきたが、船長はそれをイスパニオラと見誤ってしまい、さらに西方に向かった。船長
が自分の誤りにようやく気付いて、船を引き返すことにしたが、向い風にさらされ3週間から1
か月もかかりそうであった。コリンウッド船長は士官と協議して水を節約するため150人の奴
隷を生きたまま、鮫<サメ>がうようよいる海に投げ捨てることにした。ジャマイカに着く前に、
奴隷が60人死に、40人がのどの乾きで気が狂い、海に身を投げていた。そこに着いた時、
甲板には30人が横たわっていた。ゾング号が豪雨に会っていなければ、乾きでもっと死んで
いたはずであった。
 裁判官は、ゾング号の船主グレンソン氏に出頭を求め、「人間仲間のような動物が積荷目録
に入っていたので、商品を船外に投げるように投げた」件について尋問し、そしてこのニグロ奴
隷の投棄は海難(the perils of the sea)による損失であったと、船主に勝訴の裁定を下した。
 海上保険協会は、奴隷が病気になったのは航海が長期になり、また船長が無能力であった
せいで、そのため彼らが売れそうになくなり、保険会社から全額補償されることを期待して、船
外に投げ棄てたと反論した。また、その季節は雨期で過度の水不足になるはずがなく、雨水が
集められていたのに、奴隷を生きたまま船外に棄てたと主張している。
 リバプールでは原告が勝訴したが、ロンドンの王座裁判所では海上保険会社が勝訴した。し
かし、当時の実業家たちはそうした状況で生きた人間を船外に投げ棄てるのも、純粋な商行
為だと考えていた。
 この事件が暴露されたことで、多くの人びとは大変な衝撃を受け、2つの法令がその再発防
止のため議会を通過した。その1つは明白な危険がある場合を除き、奴隷は保険金を受取れ
る対象にならないとし、他の1つはどのような状況になっても、生きた奴隷を船外に投げ捨てる
ことを禁止した。
★奴隷密貿易やまず★
 遂に、1807年5月、イギリス船による奴隷輸送を禁止する法律が通過した。それは、人道
主義的な廃止論の高まりもさることながら、産業革命で資本主義的工業生産が増大しつつあ
ったイギリスが、黒人を奪い去ることでアフリカを荒廃させるより、そこをより大きな商品市場に
しようという新しい動機によるものであった。それはともかくイギリスと同じくアメリカは1807
年、1810年代にオランダ、ポルトガル、スペインそしてフランスも奴隷貿易を廃止した。そし
て、イギリスのみが配置している奴隷鎮圧艦隊に公海上の捜査権を認める条約を承認するよ
うになったが、アメリカは拒否した。
 これによって、奴隷貿易が終えんに向かったかといえば、決してそうではなかった。イギリス
は1833年に奴隷制そのものを廃止したが、最大の需要国である北アメリカや西インド諸島は
それを廃止しなかった。アメリカは、表面的には奴隷貿易を廃止してはいたが、奴隷船を本気
になって取り締まろうとはしなかったので、アメリカ奴隷船がイギリスにとって代って大活躍する
ところとなった。それも、アメリカの南米戦争を経て、1865年に奴隷制が全土で廃止されて以
降、ようやく終えんに向かうことになった。
★奴隷船乗組員の暴動★
 1775年夏、リバプールで船員の激しい暴動が発生し、港の海運街や町の一部が焼打ちに
あっている。暴動は、奴隷船ダービイ号の艤装や整備を終えた船員が契約通りの賃金1か月
30シリングを支払うよう、要求したことが発端になっている。アメリカ独立戦争で奴隷の市場が
小さくなり、3000人の船員が失業し、40隻もの奴隷船が係船していたので、船主は1か月2
0シリングしか支払わないと、船員の要求を拒否した。船員たちはダービイ号に戻り、索具を切
り落してしまった。治安判事は首謀者9人を逮捕し、ウォタ一通りの牢搭に閉じ込めた。船員た
ちはキャプスタン棒、混棒やその他手元にある武器で身をかためて牢搭を襲撃し、仲間を奪
い返した。それだけではすまず、ドックまで行進して行って、出帆準備の整っている船の索具を
解き放ってしまった。
 週末は何事もなかったが、月曜日になると船員たちは牢搭まで行進し、治安判事にタービイ
号の水夫に最初の約束通り1か月30シリングの賃金を支払わせる命令を出すよう要求した。
翌日、船主はその支払いに同意したので、事件は解決したかにみえた。しかし、暴動の首謀
者を逮捕するため、300人の屈強な男が1日10シリングで雇われているという話を聞き込ん
だため、ただではすまなくなった。船員たちは、その夜9時に集まり、取引所に押掛け、取り囲
んだ。1人の水夫が間違って窓を破ったことがきっかけになって、取引所にいた特別警官が発
砲し始め、船員が7人殺され、40人ほどが負傷した。そこで取引所の窓に投石がふりそそい
だ。
 水曜日の朝になると、1000人の水夫たちが帽子に赤いリボンを巻いて集まり、バーズ銃砲
製造所に押し入って300丁のマスケット銃を奪い、他の店から銃弾や火薬を取り上げた。マス
ケット銃やカトラスで武装して、午後1時取引所を取り囲んだ。なかにはドックに下りて行って、
船からカノン砲を6門引っ張り出し、建物をねらいやすい場所に据えつけた。カノン砲が撃ち込
まれたため、取引所の窓は粉ごなになり、4人が死んだ。
 船員たちは取引所からホワイトチャペル通りに行進した。そこには奴隷船の船主で商人のト
ーマス・ラトクリフ氏の家があった。彼は船員に向けて最初に発砲した人物とみなされていた。
船員は発砲しながら、家の中に押し入り、家具や持物を道路にほうり出した。
 船主の家をあちこち荒し回ったが、セントポールズ広場にあるジョン・シモンの家に向うころに
は、酒のせいでたちが悪くなっており、2軒が略奪にあっている。彼らは、「挑戦総理」と呼ばれ
る首謀者の指揮の下に集り、婦人北会館で会合し、戦術を決定していた。彼らは通りに沿って
歩き、人びとに支持と暴動をつづけて行くための資金を求めていた。暴動は、マンチェスターか
ら派遣されたペムブローク公が率いる近衛連隊に鎮圧された。その中隊が到着すると、船員
たちは追い散され、捕まらないように地下室などに隠れた。60人が逮捕され、ランカスター拘
置所に入れられた。1776年4月、14人の首謀者は軍艦に乗せられ、アメリカに追放されてい
る(以上、コース60−82ページ)。

4 オーストラリア流刑船
★流刑囚16万人運ぶ★
1780年代、イギリスでは土地囲い込みや産業革命による失業者や放浪者が都市に入り込
み、犯罪をおかして監獄(船)はいつも満員であった。ところが、1776年アメリカが独立したた
め、それに代る流刑地が必要になり、それがオーストラリアに求められた。オーストラリアヘの
流刑囚輸送は、その航海日数がひじょうに長かったため、奴隷輸送に匹敵するほどの残酷な
ものとなった。
 オーストラリア植民の先駆者は流刑囚であった。最初の流刑地がポート・ジャクソン(シドニ
ー)に設けられ、1788年759人の流刑囚が上陸している。最後の流刑船は、1868年フリマ
ントル(西オーストラリア)に着いている。その間、16万663人の流刑囚がポート・ジャクソン、
ノーフォーク島、タスマニアのホパート、メルボルンのポート・フィリップ、ブリスベーンのモアトン
湾やフリマントルのスワツ川に着いている。自由民の移民は、1820年に始まったが、同じよう
な港に着いている。なお、1837−59年までのオーストラリアとニュージーランドヘの移民は6
0万人であつた。
 流刑人輸送は海軍本部が、商船を航海用船し、船団を組んで行われていた。請負人は、商
船を流刑船に改造し、乗組員、食料、索具を用意していた。初期の流刑船は3、400トン、末
期には500トンと、当時としては比較的に大型の船であった。特に、東インド会社船が多数用
船されていた。末期になって、移民輸送が増加すると、古船が用いられるようになった。そし
て、船長や乗組員の質も低下して行った。初期は、監督官の海軍士官の他、衛兵が乗船して
いた。また、各船に船医が乗船していたが、1802年から船団に船医監督官しか乗らなくなっ
てしまった。
1790年、流刑船として航海したネプチューン号809トンの監獄は、メンデッキより2段下のオ
ルトップデッキにあり、長さ75フィート(23メートル)、幅35フィート(11メートル)、床からビー
ム(梁)の下端までの高さは5フィート7インチ(170センチ)であった。獄室は片舷2列で合計4
列あり、それぞれ6フィート(183センチ)角で仕切られていた。監獄の端には樫の隔壁が設け
られ、南京錠のついた扉やのぞき穴があった。悪天候になると、どうしても通気は悪くならざる
をえず、また船のすきまから水が洩れ、流刑囚の寝床をぬらした。そうなると、いやな空気が
立ちこめ、腐った汚水が臭い始め、流刑囚の体はしめり始める。なお、1820年代に入ると、
監獄は一段上のツインデッキに設けられるようになった。
★女流刑囚との情交★
 流刑囚は、男ばかりでなく、女もいた。彼女らは、売春、窃盗など軽罪で流刑されていた。彼
女らについて、船医ジョン・ホワイトは、次のように書いている。「彼女らは体質として体温が高
いこともあったが、まったく堕落してしまっていたので、船艙のハッチが開かれることはなかっ
た。彼女らは、船員や海兵と無分別に情交でもしないかぎり、夜は棺おけに入れられたのも同
然であった。他の船では、女が男と一緒にいたがるのは押えがたい欲望であったので、懲罰
の恐ろしさや恥しさをもってしても、船員の居住区との隔壁を越えることを思いとどめさせること
はできなかった」(コース110ページ)。乗組員と女流刑囚との売春や性交は、流刑船の開始
から終了まで、どうしてもなくならなかった。
 第1回目のレディ・ペンリー号322トンは、女流刑囚だけを101人移送することになってい
た。ロンドン出帆前から5人の女流刑囚が売春していたので足かせをはめられ、次席士官が
解雇下船させられている。また、フレンドシップ号には女流刑囚が21人しか乗船していなかっ
たが、そのうち12人を監禁せざるをえなかった。彼女らは口論し、喧嘩したので、4人は10日
間の足かせになっている。彼女らは船医や士官を侮辱するばかりか、船員の居住区にやって
きた。船員たちは樫製の隔壁に穴を開けていた。その1つは士官に見つかったが、大工がぐ
るだったのでどうしようもなかった。4人の女が船員や下士官の居住区で発見され、それにか
かわった船員たちは、護衛していた軍艦シリウス号に引き渡され、大工を除き全員が絞首刑
になった。女たちには足かせがはめられた。
 船長や士官にかくれて、女流刑囚と情交を結び、処罰された例ばかりではない。『船員ジョ
ン・ニコルの生涯と冒険』という航海記を書いたニコルは、第2回目のレディ・ジユリアナ号401
トンの様子を、次のように書いている。1789年7月、女流刑囚だけを226人乗せてプリマスを
出帆し、309日もかかってポート・ジャクソンに着いている。船員たちはめいめい女流刑囚を1
人ずつ選んで一緒に寝ていたし、女たちもまったくいやがらなかった。ニコルは、知り合いから
借りたコートを盗んだと言い立てられ、7年間の流刑となった少女を選んでいた。彼女は入港
する前に、彼の子供を生んでいる。流刑船はいずれイギリスに帰るが、そこで残された女もし
ばらくすると、他の船の士官や乗組員、さらには陸にいる男たちに「女の武器」を役立ててい
た。
 シドニーやホバートの地方官は、流刑船の船長や船医が船員を女流刑囚の性交渉を防止す
る十分な手段を講じていないと、繰り返し報告している。それを防止する規則が作られたが、
士官がそれを実行しようとしてもおおむね成功せず、荒あらしい女たちや反抗的な男たちに対
抗できないことを悟らされた。そうしたことから、水夫と女流刑囚との不道徳な振舞いは、船首
や甲板上、いたるところで見られ、それをやめさせる努力も行われず、船長や船医は寛容で、
そこで何が起っていても、見逃がしておく方がもめごとを避けるのに都合が良く、「誰もが幸福
になっていれば」それで良いとしていたとされる。
 なお、先の奴隷船でも、乗組員たちは船長や士官の目をかすめて、女奴隷を辱かしめてい
た。ニュートン船長も、現場に出喰している。船員の1人が女奴隷を"背後位"で犯していたが、
そこは甲板上にある女部屋で、クオーターデッキから丸見えだった。その男は逃げ隠れもでき
ず、恐れ入った。罰は足かせであった(コース64ページ)。

5 流刑囚の高い死亡率
★船長の無情、残忍★
流刑囚の死亡率や罹病率は、きわめて高かった。1790年1月19日、3隻の流刑船が、男9
39人、女78人の流刑囚を乗せ、ポート・ジャクソンに向かった。この航海では256人の男と2
人の女が死んでいる。流刑囚はあらんかぎりの残酷な取扱いを受けていた。ネプチェーン号が
最も悪く、流刑囚は飢えさせられ、甲板には足かせをつけたままで、それもたまにしか出されな
かった。天気の悪い日などは、何日間も流刑囚は監獄で鎖でつながれたまま放っておかれ、
腰まで水につかったことさえあった。何人かが鎖につながれたまま死んでいた。奴隷船の方が
情けがあった。ポート・ジャクソンに着いた時、流刑囚は信じがたい状態になっていた。ほとん
どが裸に近く、多くが歩くこともできず、ロープ製の吊り網に入れて、舷側からボートに降ろさざ
るをえなかった。全員が不潔で、頭や体には罰則がわいていた。
 この事件に関する審問がロンドン市役所で行われた。ネプチューン号の船長ドナルド・トライ
ル、主席士官ウィリアム・エリントンは流刑人の食料を横領し、シドニーで売っていたと証言さ
れている。そして、彼らは、1792年6月8日、流刑囚殺人罪の容疑で私的な告発を受け、オ
ールド・ベイリー中央刑事裁判所に出頭している。3時間の審理で無罪となっている。
 コース氏は、「トライルのような船長は、勘定高くもない船主から船の指揮をまかされていて
も、できるかぎり金儲けをするのが当然だという考えを持っていた。他方、彼らは管理されてい
る人たちの運命がどうなるかについて、責任を感じるような良心は持ち合わせていなかった。
彼らは強欲で、無情で、残忍で、利己的であった。流刑囚に四六時中足かせをつけさせてい
た。そうしておけば、自分たちは無事でいられると感じるような連中であった。彼らは最も卑劣
な憶病者で、奴隷船や流刑船を指揮したがるのは、もっともなことである」(同115ページ)との
べている。なお、トライルは1781年から83年まで、ネルソンのもとで帆走長を勤めたという
が、ネルソンも不肖の部下を持ったものである(戦艦バウンティ号の艦長ブライも、ジェーム
ズ・クックの遠征に参加した帆走長で、同じ手合いであった)。
★流刑囚の多病死★
 流刑囚は、船長の不当な取扱いだけで死んだわけではなかった。流刑船で、最も死者の多
かった船は、ヒルスバラ号764トンである。300人の男流刑囚のうち95人が腸チフスで死亡
した。それはポーツマスのラングストン湾にいた監獄船ですでにまん延しており、それから持ち
込まれた病気であった。1798年2月、ジェームズ・パトリック卿は、監獄船からヒルスバラ号に
流刑囚を乗船させることに激しく抗議したが、受け入れられなかった。ある若い流刑囚が船長
に、士官を殺害する計画が進められていると密告したため、全員、鎖でつながれ、手錠と首輪
をつけられ、食料や水も減らされた。腸チフスは驚くべき勢いで拡がり、喜望峰のテーブル湾
に着くまでに30人が死亡し、100人が重体であった。船医が病人の陸揚げの許可を受けるま
でに28人が死んだ。病院は隔離小屋を建てざるをえなかった。ポート・ジャクソンに着いた時、
ほとんどの流刑囚が病気で衰弱していた。
 こうした状況のなかで、それでなくとも悪党ばかりの流刑囚が暴動を起さないわけはなかっ
た。暴動にともなう最大の流血事件が、ヘラクレス号406トンで発生している。1801年11月
29日コーク(アイルランド)から男140人、女25人乗せて出帆した。船を乗っ取る計画がある
といわれたが、いつまでたっても何事も起きなかった。12月29日テーブル湾に近付いた時、
甲板にいた流刑囚たちはクオーターデッキにいた2人の衛兵を襲撃してきた。
 舵輪を操っていた船員は別にして、乗組員や兵士は全員居住区にいた。船長のベッツ海佐
や衛兵指揮のウイルソン海佐、船員や兵士たちもクオーターデッキにたどりつき、暴動流刑囚
に砲火をあびせ、13人の流刑囚を殺害した。ベッツ海佐はシドニー海軍予審裁判所で裁判に
かけられ、暴動鎮圧の際の13人殺害容疑は無罪となったが、首謀者の射殺については過失
致命罪と宣告され、500ポンドの罰金の裁決が出た。しかし、イギリスでは訴訟措置が取られ
ず、処罰されなかった。
 船長や船医が少し親切に扱えば、流刑囚の死亡や罹病は少なくて済んだし、流刑囚が無謀
な暴動を起しはしなかった。流刑囚がチフスで多数死亡したことにショックを受けたトーマス・ラ
インは、船長になると流刑囚をきわめて丁寧に取扱って1人の死者も出さなかった。流刑囚は
下船する時、船長に何度も拍手を送ったという。19世紀に入ると、流刑船の航海日数が150
日以下、さらに100日以下に短縮されるにつれて、流刑囚の死亡数は目立って減少して行っ
たが、逆に船長や船員の質が低下したため、海難での死亡が多くなってしまった(以上、コー
ス106−127ページ)。
 なお、移民船は奴隷船や流刑船ほどでないとして、相当にひどい状態であったが、ここでは
取り上げない。

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