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 近世、船長や艦長は、全能の神(God Almighty)として振舞っていた。それは、何も、荒くれ者
の船員を扱うから、そうであったわけではない。海軍は、男たちを船員に仕立てて死におもむ
かせるには、暴力を用いるほかはなかったからである。また、近世になると、船主や船長と船
員の利害は、いやおうなく対立せざるをえなくなったからである。それに加えて、船長や艦長自
身が船員から尊敬される人物が少なくなったからである。

1 水夫上がりと良家出身の艦長
★海軍士官制度の確立★
 軍艦の艦長や士官が、どのような出身階層から、どのような職歴を経て任命されたかについ
て、個々の著名な人物は別にして、その全体と趨勢を示してくれる資料は直ちにはみあたらな
いが、それでも大体のところは次の通りである。艦長や士官は、本来、貴族やそれに連なる上
流階級がつく地位ではあったが、海軍が未発達な段階では下層階級出身で水夫上がりを、数
多く士官や艦長に任命せざるをえなかった。イギリス海軍は、17世紀後半の3次にわたるオラ
ンダとの戦争で、確固たる地位を築いたが、それとともに海軍は一般乗組員は別として、士官
にとって一つの安定した職業になった。18世紀、農夫上がりのジェームズ・クックがポスト・キ
ャプテン(勅任艦長)になったのは、例外中の例外であった。
 ロイド氏は、「軍艦は商船とはっきり区別されるようになり、また海軍という職業集団は階級
や賃金に一定の階層を持った有資格の士官で構成され始めた。海軍は、まだまだ臨時的な就
業先ではあったが、上流階級に対して一つの職歴を提供し始めた。それらのことは一般乗組
員にはいえない……クロムウェル時代のように、水夫上がりが艦長や提督になれれば、海軍
は魅力ある職歴になりえたが、17世紀が終わる頓にはそうした機会はまれになって行った」と
のべている(76―7ページ)。
 イギリス海軍の歴史のなかで、ホーキンズやネルソンに並んで忘れられない人物として、サ
ムエル・ピープス(Samuel Pepys、1633−1703年)がいる。彼は、クロムウェル共和政の前
後に、海軍本部の官房長となり、海軍の改革に努力した人物として、また暗号で日記を書き残
した人物として有名である。1661年から士官候補生(midshipman)の制度が導入されていた
が、ピープスは1677年、きわめて重要な改革を実施し、士官を職業集団として完成させた。
シーマン・シップと航海術の試験に合格しないかぎり、だれも尉官になることができなくなった。
 こうした海軍士官制度の発達は下甲板からの昇進機会を改善しなかった。船員は、士官候
補生までにはなれたが、尉官試験に合格するだけの学力を持っていなかった。船員の社会階
層は、士官や紳士になることを妨げていた。それでも、船員は准士官(warrent officer)にはな
れた。17世紀初頭までは、掌帆長や掌砲最も一般乗組員ではなく、士官として扱われていた
が、いまではその任命もまったく尉官の職責になってしまった。階級の開きが明確になるにし
たがい、後甲板と下甲板との境界線ははっきり敷かれるようになった(ロイド89−90ペー
ジ)。
★出来の悪い良家出身★
 また、水夫上がりの艦長(tarpoulin captain)は、通常、多くの船員にくらべれば長い訓練を受
け、航海に責任を持つ帆走長を経由して昇進した艦長であるが、その時代の終わり頃には、
後甲板の地位に登れるのはごくまれな例になってしまった。18世紀中頃のビクトリア海軍の特
徴となった硬直した状態にはなっていなかったとはいうものの、階級の区別は固まりつつあっ
た(同90ページ)。
 水夫上がり艦長よりも、良家出身艦長(gentleman captain)が多くなったことで、艦内は
どうなったか。ピープスは、王政復古の教訓が受けとめられていないところから、規律問題に
ついて一般乗組員よりも士官の方に苦労させられた。共和政の民主的な雰囲気のなかで指揮
官に昇進した水夫上がり艦長にくらべ、良家出身艦長の気質のあり方が、事件の原因となっ
ていた。士官になった廷臣や素人のなかには、常習欠勤、泥酔、出帆遅滞、不必要な従者の
乗艦で告発されている。そうした艦長は、「自分の気まぐれ」でもって、自分の乗組員をダメにし
ているとのべ(同88ページ)、それを是正するため、すでにみたように、尉官試験を導入した。
 それでも、18世紀末におけるフランスとの戦争は、水夫たちが士官に昇進できる絶好の機
会となった。しかし、ルイス教授が、ネルソン時代の士官の構成を分析したところでは、下甲板
の船員が後甲板の士官に任命される機会は、2500人に1人であったと評価している。そうし
た士官になれたものでも、その70%は尉官以上には昇進できず、2.5%が将官(flag rank)に
なれたにすぎない(同253ページ)。
 戦後、海軍がその要員規模を急激に削減したため、士官でさえ昇浄困難になり、水夫の
昇進機会はまったく閉ざされてしまった。士官とその他乗組員の階級区別が明確となり、また
強制徴発にたよらずに乗組員の定着をはかるため、1853年に一般水夫(ordinary
seaman)、有能水夫(able seaman)の上に先任水夫(leading seaman)という等級と、下士官
(petty officer)という階級を新しく設け、下甲板の船員の昇進機会を用意せざるをえなくなっ
た。
ネルソン時代の軍艦乗組員の服装
(トマス・ローランドソン画)

2 好かれる士官、嫌われる士官
★尊敬されるネルソン★
 このように、軍艦において艦長および士官と一般乗組員との間には、大きなへだたりがあっ
た。船員は、戦闘や略奪にあたって勇気を示し、人の扱いで公正に振る舞う士官は無条件に
尊敬し、忠節を尺、くした。また、戦闘や操船の上手な士官を好んだ。後述する1797年に起
きたスビットヘッドでの反乱では、100人以上の不評判な士官がそれぞれの艦艇から追い払
われたが、そのなかにはガードナー提督も含まれていた。デーク号では、士官21人のうち6人
が本艦にとどまることを許された。それらの士官は反乱があってもなくても、水夫たちに敬服さ
れていた。フリゲート艦エウリデス号のタルポット艦長は自発的に下船して行ったが、乗組員に
呼び戻されてしまった。
 その時、乗組員は次のようにのべている。「タルポット艦長、われわれは真面目に希望し、要
請します。再びわれわれの一団を率いていただきたい。あなたは優しい羊飼いです。良く承知
していただきたいことはやるべきことはいやがっているわけではないし、国家への義務や貴官
への服従をやめるなど思いもよらないことだということです……本艦の指揮は貴官のもので
す。われわれは心からの敬意と尊敬と従順の意を示して、本艦の指揮を委ねます。いままで
実行されているように、士官だけでなく水夫のことにも耳をかされるよう希望します」(ハゲット4
6ページ)。
 イギリスにおいて、ネルソンは英雄視されている。それは、ネルソンが才気あふれる戦術、物
に動じない勇気、そして部下に対する配慮があったからだとされている。ネルソンが部下から
いかに慕われていたか。その例として、彼の葬儀をみてみよう。
 イギリスの国民や同僚士官、そして一緒に働いた乗組員は偉大な海軍の英雄の死を悲しん
だ。ネルソンの遺骸がイギリスに持ち帰られ、3日間グリニジの斎場に安置された。1806年1
月7日、正式の葬儀が終わる1時間前に、ブリグ艦エリザベス号とメリー号が河口にたどりつ
いた。その船にはヴィクトリ号の勇士から選ばれた水夫や海兵の音楽隊が乗船し、自分たち
の指揮官閣下の葬列に加わろうと馳せ参じて来た。彼らは46人の水夫と16人の海兵であっ
たが、そのほとんどが閣下が戦死した同じ日に、名誉の負傷を受けた乗組員であった……勇
敢な船乗りたちはホード卿に出迎えられ、英雄の遺骸に最後の対面を許すと申し渡された。ホ
ード卿はお前たちにとって、それは残酷なことかもしれないがと、付けくわえた(同72ページ)。
 艦長や士官との関係で、一般乗組員が持っている不満は自分たちが好意を寄せる士官と一
緒に転艦して働きつづけることができないことであった。またネルソンの例であるが、彼の将官
艇の乗組員は、「閣下が本艦を離れられると聞き、ひじょうに残念に思っています。われわれ
は、海上にいようと陸上にいようと、閣下のお側にお仕えしています。われわれがイギリスに役
立つと認めていただけるなら閣下の将官艇の乗組員として働くか、お望みのお役目をおおせ
つかるようお願いします」とのべている(同67ページ)。
★乗組員に好意を持つ士官★
 それでは逆に、艦長や士官は一般乗組員をどうみていたのであろうか。それは、すでに述べ
たように、その多くは彼らをどうにもならない連中だとみていたことはあきらかである。それで
も、スビットヘッドの反乱にあたって、偏見のない士官たちは、その方法に疑問を持っていた
が、船員たちの目的にかなりの同情を寄せていた。モナーク号のフィリップ・ビーバー尉官も同
様であった。「彼らは……ひじょうに慎重、細心、穏健に検討した上で、賃上げに取り組んでい
た……士官の1人として、その企てを非難しなければならなかったし、愛国者として無駄な時間
がたつのは残念であった。しかし、乗組員の1人として、彼らの言い分は認めざるをえなかっ
た。そこで、彼らが重い罪に問われないよう、いろいろ忠告してやった」とのべている(同61ペ
ージ)。まっとうな人間はおたがいに評価しあっていたのである。
 またまたネルソンであるが、彼のような誠実な士官は口に出さなくても、水夫に同情を寄せて
いた。ネルソンは、「われわれが重要な役割を果たさなければ、世の中はどうにもならないと信
じていたが、命じられた任務をやりとげるやいなや、無視されてしまう。議会が艦隊に何も賜物
をしないと、水夫たちはぶつぶついい始める。彼らの苦労に償えるだけの賞金が、艦隊にない
場合もある。せいぜい名誉と塩漬け肉があるだけだった。彼らは1週間近くも、新鮮な肉や野
菜を一口も食べていなかった。その時カーデフ港にいたが、わたしでさえ2回しか上陸できなか
った。この艦隊ほど提督から最下位の水夫にいたるまで、いままでになく一所懸命、国のため
働いてきたはずであった」と、妻に書き送っている(同67ページ)。
ノアの反乱
パーカー代表委員会議長が、
パッカー副提督に要求書を提出している

3 スビットヘッドとノアでの大反乱
★統制のある反乱★
 軍艦の水夫にとって、暴風雨にあって生命が危険になったり、海賊や敵艦の攻撃や略奪に
あったり、苛酷な生活がつづくことは、いったん船員になったかぎり、あるいはならされたかぎり
覚悟のことであった。しかし、海軍本部や艦長、士官が、乗組員を人間らしく扱わないと反乱が
起こった(有名な戦艦バウンケン号の反乱もそれである)。ついに、イギリスの海軍の歴史を画
する反乱が、フランス大革命の示渉戦争中の1797年に、スピットヘッドとノアで発生した。ス
ビットヘッド(ポーツマス港とワイト島の問にある停泊地)の反乱は、ひじょうに良く組織され、統
制されていた。
 1797年4月、海峡艦隊16隻の乗組員は出帆を命じられたが、それを拒否した。各艦から2
人の代表がクィーン・キャロット号に送り込まれ、大きなステーツ・ルームに反乱司令部を設置
した。4月18日に海軍本部に嘆願書が差し出されたが、それには不平不満が簡潔に書かれ
てあった。
 「閣下、われわれは国王の海軍の乗組員にはささいな嘆願であっても、閣下に申し立てる自
由がある。われわれは、長年にわたって苦難と虐待のなかで働いてきたが、その償いをすぐに
でもしてもらいたい……われわれが申し立てる不満は、まず賃金があまりに安いことである。
妻や家族がまともに暮らせるよう、賃金をできるかぎり引き上げてもらいたい……食料はその
量を2倍にし、その質を良くしてはしい……十分な量の野菜を支給してはしい。特に、寄港地に
おいて種類を増してほしい……軍艦に乗船中、いかに注意しても病気にかかることを、よく知
っておいてもらいたい……入港中はもとより、帰港中に仕事が終われば、上陸して自由を楽し
む許可と機会をあたえてはしい……戦闘で負傷した場合、治癒あるいは退院するまで、賃金
の支払いをつづけてほしい……艦隊乗組員代表」となっていた。
 反乱はどこからみても、礼儀正しい配慮と節度をもって行われた。反乱者たちは、評判の悪
い士官に私物を持たせて下船させたが、通常の勤務をつづけ、おたがいに規律を守ってい
た。フランス軍との戦闘が起これば、海上に出ると主張していた。ブリットポート海峡艦隊司令
官が懐柔案を提出した。政府や海軍本部は初め、まごまごし、躊躇していたが、陸上休暇を除
いてそのほとんどの要求を認めることにした。有能船員の賃金は1か月当たり24シリングから
29シリング6ペンス、一般船員は19シリングから23シリング6ペンスに引き上げられた。この
反乱は1か月かかって解決したが、それに参加した船員たちには特赦があたえられ、海軍本
部は報復しないことを約束した。その約束は守られ、首謀者の何人かはその年の内に昇進し
た。反乱がひじょうに早く解決した主な理由は、船員の要求がだれもが認めざるをえないような
公正なものであり、そうした改善はもっと早く実施されるべきだったとみなされていたからであっ
た。
ノア反乱者の会議
(ジョージ・クルックシャンク画)
プリタニア女人像は壁から落ちかかり、
机の下の提督や役人は首謀者はわれわれだといっているぞといい、
グロク洒をついでいる男は俺たちが主人だということをわからせろといっている

★フランス革命の影響★
 他方、ノア(テムズ河口の停泊地)での反乱はスビットヘッドの反乱の終わる数日前に始まっ
た。反乱者たちは、過大な要求を出していた。彼らは、脱船者の釈放、賞金の平等な配分、そ
して"粗暴な"士官との勤務を拒否する権利を要求していた。どちらの側も、その態度は荒あら
しかった。
 政府と海軍本部は、これ以上譲歩しないことにしていた。水夫たちは腐敗しやすい荷物を積
んでいる商船を除き、ロンドン港に出入りする商船の通航を遮断した。ノアの水夫たちは、スピ
ットヘッドと同様に、国王と国家に忠誠を尽すと主張し、国王の誕生日には礼砲を鳴らしもし
た。
 それはさておき、ジャコバン党や過激な労働者通信協会(議会改革と普通選挙権の獲得を
目指す)との接触がないことが確かめられはしたが、そこには政治的な底流は十分に認めら
れた。首謀者リチヤード・バーカーは自ら議長(プレジデント)と称した。彼らは声明書のなか
で、自分たちを「圧制の犠牲者」と呼び、「理性の時代」の夜明けは今だと叫んでいた。
 しかし、広範な政治目的は声明書にははっきり書かれておらず、方法や目標もごたまぜで混
乱して
 いた。ほとんどの水夫たちは、そうした目的をあまり支持せず、反乱参加の艦艇も次第に脱
落して行った。首謀者のうち、29人は死刑、9人は鞭打ち刑を受け、29人は投獄された。バ
ーカーは教養があり、以前には士官候補生として勤務していたことがあり、不服従で軍法会議
にかけられたこともあった。バーカーは覇気のない男であったが、それでもいさぎよく死んで行
った(以上、ハゲット60−62ページ)。
 この2つの反乱は、イギリス海軍における史上最大の反乱となったが、そこで特記すべきこと
は、この反乱がイギリス海軍の近代化の決定的な契機となったことである。これら反乱は、アメ
リカ独立戦争やフランス大革命といった自由と解放の時代を背景として発生していた。そして、
そうした精神を担って大衆を組織しうる指導者も生まれていた。これら反乱の指導層は、職業
的な水夫ではなく、強制徴発の一環であった割当法にもとづく被割当者(the Quota Men)であ
った。
 スピットヘッドの指導者バレンタイン・ジョイスはイングランドに反抗していたアイラ
ンド人であるといわれるし、その秘密結社のメンバーもかなり乗船していたとされる。また、指
導者のなかにはエバンズと呼ばれた被割当者の弁護士もいた。ノアの指導者リチヤード・バー
カーは1782年に強制徴発され、その後軍艦や商船を転々とし、尉官の仕事を果たせるまで
になっていた。借金のため刑務所に入っていたところ、1797年に割当法の適用を受けて、そ
れを清算するためにふたたび海軍に入ったという人物であった。
 このように、海軍の乗組員はそれ以前のように世の中のくずばかりではなくなり、乗組員の
人間としての権利を認めた海軍づくりを行わざるをえなくなった。

4 商船船長の職歴となりふり
★船長は水夫上がり★
 商船の船長の出身階層や職歴、それと一般乗組員との関係ほどうであろうか。商船の船長
は、海運が貿易と一体となっている段階では、その多くは水夫上がりであるとしても、船主船長
か共有船長であった。しかし、海運が貿易から分離するようになると、船長も単なる雇われ船
長になって行った。その場合でも、軍艦とはちがって、船長のほとんどは水夫上がりであった
し、そうした職歴が汽船時代に入り、職業訓練が発達するまで普通であった。
 フェイル氏は、18世紀の状況について、次のようにのべている。「東印度会社船を除いて他
の船に乗っている船長・副船長は、ほとんどすべて平水夫から昇進した者であった。彼らの実
地経験に富んだ操縦技術は、しばしばきわめて高いものであったが、そのほとんどの者は教
育を身につけていなかった。こうしたなかで、主要な例外たりえたのは、船主船長であったが、
彼らは次第にその数を減じて行く傾向にあった……また、当時の海運界には、良家出身の家
出人や船主の被保護者も多数見かけられ、彼らは初めから抜擢されて昇進することができ
た。だが、当時の海運業はいまだその性格においても、報酬の点においても、多数の教養あ
る人々を、惹きつけるに足るものとはなっていなかった」(同231ページ)。
★船長職を金で買う★
現実に、どうして船長に昇進したか。それは軍艦の艦長や高位高官と同様に、一に情実、二に
機会、三に技量であったようである(江戸城の大奥では、一にひき、二に運、三に器量とい
う)。すでにのべたバーローは、こんな事件に出会っている。1699年、東インド会社船マデチ
ス号の共有船主であるヘンデル船長に100ポンド出して船長になることの合意を取り、また会
社もそれに同意していた。ところが会社重役のチャイルド卿がある海軍尉官を指名したという
話が伝わってきたので、邸宅に掛合いに行ったところ、下院議長リットルトン卿夫人から200
ポンド出され、当の尉官を船長にするよう頼まれたといわれ、バーローは100ポンド取り返す
ことであきらめるほかはなかったという(コース141ページ)。桂冠詩人ウィリアム・ワーズワー
ス(1770−1850年)の一番下の弟ジョンは、1787年船員になり、2年後東インド会社船に
乗船し、2航海して次席、主席士官となり、早や1805年には船長に指名されている。その時、
兄姉や金貸しから借金して、2万ボンド投資している。ところがうまく行かないもので、ジョンは
海難で溺死している(同上143−4ページ)。
 東インド会社船の船長は名声が高く、身入りも多かったため、それになる資金はうなぎ上りと
なった。普通1万ポンドかかっており、船長は後任者に権利を売っていた。こうした慣行は船長
だけでなく、士官についても同じであった。それを規制するため、1793年には主席士官は23
歳以上で、会社船で次席または三席士官としてインドまたは中国に1航海はしていなければな
らないとか決めているし、また1796年には船長職の売買を禁止し、船長になるにはその能力
と資格を証明させることにしている。しかし、手づるがなければ、船長にはなれなかった。船長
や士官の情実昇進は、東インド会社船では特に激しかったが、一般の商船でも大なり小なりあ
ったにちがいない。それでも、その船長に能力や資格があればまだしも、船主などがそれらの
ない息子や知り合いを船長にさせる場合も少なくなかった(同145−6ページ)。こうした悪弊
がなくなるのは、船長が単なる雇われ船長となり、19世紀中頃海技試験制度が実施されるよ
うになってからである。
 コース氏は、18世紀末から19世紀初めごろの商船船員について、次のように書いている。
「当時のイギリス人船員は衣服や歩く格好で、すぐに船員とわかったものである。彼らは、通
常、海港に住む身分の低い家族の出身で、当時でも享受できる教育さえ受けていなかった。
彼らは海上で厳しく仕付られるので、平船員から士官や船長に昇格すると、彼らが受けたのと
同じように荒あらしくむごたらしい方法で、水夫たちに立ち向って行った。当時のあるイギリス
人船長は、商船船員について次のように評している。彼らは腹黒く押えのきかない『けだもの』
で、その生活や習慣は彼らを無感動で無節操にしている。陸にいると、彼らはみずから進んで
下層階級の仲間に入り暇をつぶしており、多かれ少なかれ酔払っていた。船員たちが陸に上
がると、ほとんどの場合間違いなく、洒をあおってどんちゃん騒ぎをやらかしていた。船長でさ
え酒の誘惑に勝てるものではなかった。……船首楼(おもての平船員、引用者注)から船長に
なると『たたき上げ』(rule of thumb)の航海者と呼ばれ、知識はそれになるまで一緒に働いた
優秀な士官や自分自身の経験にもっぱら依存していた。彼らは、海上経歴を始めてから、読
み書きを学ぶことになるが、それも自然に航海術に限られてくることになった」(同195―6ペ
ージ)。
18世紀の商船船長
(J・バンダーバンク画)
バック・スタフを持っている

★船長に身構える船員★
 そうした船長や士官と一般船員の関係がどうであったかは不明であるが、海洋小説でみる範
囲では、船長はいつも暴君として扱われている。                           
 商船の船員も生易しいものではなかった。ある種の船長のもとでは、乗組員はいつでも反乱
を起こすつもりでいなければならなかった。反乱は、ちょっとしたきっかけで、簡単に発生してし
まった。あるニューカッスルの石炭船では、乗組員全員が悲惨な結果となった事件も起きてい
る。
 それは、船長が乗組員にバターを規定通りに支給しなかったため発生した。船長はメンスル
を引くよう命じたが、乗組員は次のように答えた。「バターの小箱をマストの側まで持って来るま
で、1本のロープにもさわらない」。船長はただいたずらに諌めるだけだった。船はすべての帆
を拡げたまま、陸に近づいて行った。船長は帆を引いてしまえば、すぐにでもバターを支給する
と約束した。しかし、乗組員は、「現物を見てからの話だ」と答えた。船長はそうせざるをえない
と判断して船室に下りて、バターを持って来てマストの側に置いた。
 乗組員は仕事にかかったがすでに遅く、帆を巻いたり、張ったりしてみたが船は砂浜に乗り
揚げてしまい、そこから逃げ出すことができなくなってしまった(ハゲット32ページ)。
 船員ともめごとばかり起こす船長ばかりいたわけではない。例のケリーが船長になって、船
員をどう扱っていたか。「彼は食料が不足する恐れがなければ、最良の質の食事を乗組員に
出すよう命じていた。それでも犯罪容疑者の食料は減量している。乾パン(ビスケット)、牛肉、
豚肉、えんどう豆、小麦粉の他、悪天候のため甲板上で塩漬け肉を煮ることができなくなった
時は、チーズを代用品として支給している。また、朝食にオートミールやインディアンミールを糖
みつと一緒に出している。天気の悪い日にはラム酒を一口、仕事ぶりが良かった時には土曜
日の夜1びん(760ミリリットル)を、乗組員めいめいに与えている。……日曜日には必要でも
ない仕事をさせることを許さなかった。少年たちには聖書を読むよう仕向けている。自分以外
の乗組員が他の乗組員に体罰を加えることを禁じている。船酔いにかかった船員が寝込むこ
とを認めている。また、ケリーが仮病とみないかぎり、病人を親切に取扱っている。彼は病気を
誤認することを恐れていたのである。一風変った方法で、なまけ者をこらしめている。動きがの
ろのろしている時、その船員の側に行って急いで仕事をやるよういい、それをやり終えたところ
で叱責するようにしている。また、索具の増締め、シートの清掃、ヤードの上げ下げといった罰
業をやらせる時、他人が手を貸すのを止めなかった」という(コース181ページ)。

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