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 帆船の生活が、いかに苛酷なものであったかは、船員の多くが病気で死亡したことや、食事
がどうにもならなかったことが、その代表であるが、ここでは、帆船時代の船内の生活や設
備、船員の衣服や持ち物について取り上げる。

1 軍艦の艦内環境と生活
★砲甲板にごろ寝★
 帆船はクリッバー時代を迎えるまで、そのほとんどが200トン以下で、大型船であっても400
トン、500トンであった。軍艦の場合、4、500人も乗り組んでおり、人員過剰もはなはだしいも
のがあった。商船は、軍艦よりも小型で、乗組員も少なかったが、それでも人員過剰であっ
た。当時の帆船の配置図をみればすぐわかるように、個室を持っているのは艦長や船長のみ
で、士官でさえキャビンと呼ばれていた汚い穴蔵(nasty hole)に詰め込まれていた。したがって
一般乗組員はそれさえもなく、裸の砲甲板に寝ていた。
 わらのマットは、火災の原因になるとして、その使用はおおむね禁止されていた。西インド諸
島の原住民が使っていたハンモックは、軍艦では16世紀末から使われ出し、17世紀中頃に
なると広範に普及して行った。商船においても、遅ればせながら、拡がった。船員の寝るところ
が、仕切られた部屋にベッドが置かれるようになったのは、クリッパー時代に入ってからであっ
た(ハゲット11ページ)。16世紀、ドイツのある貴族は地中海を船客として航海して、次のよう
に水夫の生活を描いている。「読者の皆さん、水夫の生活以外にどんな苛酷な生活を、想像し
てみたことがあるか。彼らが、しばしば、雷鳴や電光におののき、そして日々いや四六時中、
激しい風雨にさらされねばならないかを。
 また、彼らは飢えと乾きに苦しみ、不潔と汚染に毒されねばならないかを。彼らのねぐらは牢
獄よりも悪く、家具はあるかなしかである。たとえあっても、大変不潔で固くなった寝具だけであ
る。粗末な食事が出るが、それをむさぼり食べるには、鉄の歯がいる。
 悪臭をはなつ飲物、汚れた衣服、あらゆる不便、眠れない夜、そしていつも定まらない空模
様など。彼らは亡命者や放浪者、落伍者のように、生まれた家を永久に捨てたのではなく、妻
や子供との団らんと、家庭を奪われているにすぎない……」(ハゲット9ページ)。
1781年、陸の人間が訪れた軍艦について、次のように日記に書いている。「軍艦は住みにく
いところを、何とか工夫しているものとつねづね思っていた。ところが、甲板にいる船員は不潔
たらしかったし、寝床、料理場などからただよう臭いには、吐き気がした。艦長の部屋だけが
何とか過ごすことのできる唯一の場所だった。
 ステーツ・ルームと呼ばれるところには海軍尉官、海兵隊長、帆走長、船医などが雑居して
いたが、不快なコーヒー・ハウスよりも悪いところだった。彼ら士官のキャビンもただカンバスの
カーテンで仕切られているだけだった」(同59ページ)。なお、帆船時代、水夫用便所はheadと
呼ばれ、船首部につき出されていた。それとはまったく関係がないが、最下位の水夫はhead
of the Captainと呼ばれていた。日本ではボーイ長といっていた。
1820年頃の夜間戦闘呼出し
軍艦の乗組員が、どのようなところで寝ていたかがうかがえる。
すでに、セイラー服を着ている

★初乗船の印象★
 例のバーローは、初めて軍艦に乗船した時のことについて、「その夜、寝ようとして船室に入
ったが、そこは犬の穴のようなところで、四つん這いにならねばならなかった……朝がやって
来た。起きてあたりを見回したところ、大きな鉄ボルトで結びつけられた肋材や厚坂の巨大な
塊ばかりが目につき、驚いた……私はそうした船を建造することを、将来の仕事にしてみよう
と考えた」(ハゲット29ページ)と書いている。
 1820年代、チャールズ・マクファソンという青年が、軍艦に乗った最初の朝を次のように描
いている。「私は気持よく眠っていたが、ボースン(掌帆長)がワシュ・デッキ(甲板洗い)に引っ
張り出す笛の音で、目をさまされてしまった。私はハンモックから飛び起きたが、あたりが真黒
で、そばに仲間がいるのを忘れてしまっていたので、ある男の上に降りてしまった……甲板に
出ると磨き右(holy stone)を手渡され、板をごしごしこするよう命ぜられた。
 その日は1月の寒い朝で、肌をさす冷たい東風が吹いていた。しかも濡れた甲板にひざまず
いて石ずりをしていたので、指は凍ってしまい石をつかめなくなった……朝食の笛が鳴ってほ
っとし、食堂に降りて行った。
 そこには、大きなベーシン(水ばち)にココアが入っており、ビスケットもたくさん用意されてい
た……その日の夕食には塩漬け牛肉と腸詰めが出た。それは生の豚肉よりも好物であった
……」(同75ページ)

2 商船の船内生活
★船酔いに悩まされる★
 例のケリーは、18世紀末の郵便船の生活について、次のように書き残している。「その船で
の航海部署は、メントップマストであった。本船が舷側までローリング(横揺れ)し、波頭に身震
いして突っ込むようなピッチング(縦揺れ)をしていたので、そこに何百時間も居続けたような気
がした。幸いにもそこからほうり出されずに過ごした……一番苦労したのはトップゲルンマスト
に帆を巻上げ機で30フィート以上も引き上げ、腕力を振り絞ってマストに登り、それを取り付け
なければならないことであった……多くの船員は航海に出る度に船酔いに苦しまねばならなか
ったが、半数はハンモックにへばりついていた。それは麻薬にかかったのと同じだと、船医は
いっていた……この船も規則にしたがって積み込まれていたが、食料の質の悪さは評判だっ
た。牛肉は物が悪く、ニグロにくれてやるような代物だった。豚肉には鉄輪のついた頭、足、毛
のはえた尻尾も入っていた」(ハゲット59ページ)。
 帆船での生活は、19世紀になっても、ひじょうに厳しいものであった。「甲板上の当直者は…
…船酔いしていても厚手の外套、油布コートを身につけ、船員靴をはいていた。襟を立て、防
水帽をかぶり、パイプに火をつけ、噛みタバコをかみ、ぬかるむ甲板を「2回ステップを踏んで
止まるという漁夫の足取り(スキップ)」で働いていた。
 乗組員は種々雑多で、イングランド人、スコットランド人、アイルランド人、ウェルズ人、アメリ
カ人、オランダ人、デンマーク人、スウェーデン人、スペイン人、白黒混血児、ユダヤ人、そして
オーストラリア人が乗船していた。
 料理人は年とったケチな野郎で、インク瓶をひっくりかえしたような縁なし帽子をかぶってい
た。その男はかって影響力のある新聞の編集者であったと、自分からいっていた……
 甲板は水もれしていた。船首楼、中甲板も、サロンもところどころで水もれしていた。寝ている
と汚れた水が鼻面にしたたり、開けている口にぽたぽた落ちて来るので、まどろみを打ち破ら
れてしまった。その船は毒矢に刺されたかのように身震いし、体を縮める。大波に大波が続い
て、船首を杭打ちハンマーのようにたたく。大水が甲板を横なぐりにぶちあたるので、船はぎし
ぎしと鳴る……牛や羊は居所を失って悲しげによろよろしている……舵輪は2人がかりの舵手
を投げ飛ばし、回転花火のようにくるくる回る……。
 ぬかるんだ雪が風下の甲板に吹きだまりとなる。展げた帆のふくらみから、ばらばらと落ちて
来る。プーリー(滑車)やシーブ(その心車)はすぐに凍ってしまい、氷の塊に熱湯をかけなけれ
ば、索具を動かせなかった。乗組員のなかには指を凍傷してしまっていたものもいた。当直が
終わると、誰のあごひげや、ほほひげも凍って固くなり、銀色に輝いていた」(同92−3ペー
ジ)。
甲板の石磨き
(マリアット画)
尉官が監督している

★狭い船員の居住区★
 汽船の居住区も、それほど立派なものではなかった。「1894年の乗組員の居住区はX型
になっている船の鼻先にあり、中央は隔壁で区切られていた。水夫は右舷に石炭夫は左舷に
居住していた。その高さは6フィート6インチ……その広さは864平方フィートで、12人の水夫
が詰め込まれていた(鉄道の3等寝室でも約266平方フィートであった)。その空間は黄色の
ペンキで塗られており、窓が大変小さいので暗い。12個の木製のベッドが2段(3段もある)に
配列されていた。ベッドの下や隅には、乗組員の鞄が置かれ、その他個人の大切な物はベッ
ドの下に隠されてあった…… 彼らは手洗いバケツを持っているが、寝具や着物は汚れてい
た。というのは、棚が設けられてはいたが、椅子がないので、彼らは疲れるとすぐに靴をはい
たまま、ベッドにひっくりかえってしまうからだった。火夫などは当直が終わると機関室で着てい
た服のまま寝てしまう。さらに、屋外便所がひじょうに近くにあるので、臭い空気がますます臭く
なる。便所は水洗ではないので、すぐに詰まってしまう。それを突き出せばよいのだが、誰もか
まおうとはしないので、いつもほったらかしだった。バケツにして、それを捨てるしかなかった。
 乗組員の居住区には机も椅子もなく、余裕のある所もない。食器棚やロッカーもないし、上衣
を吊るして乾かす場所もない。その上、いっさいの食事がそこで行われる。海上でストーブを使
う料理もあるにはある。ギャレイから波のかぶる上甲板を越えてあらゆる食事を運ぶのがこれ
また大変厄介だった」(同102ページ)。
航海中のクリスマス
(E・Tダルバイ画)

3 赤道祭、船員の迷信
★新米船員いびり★
 イギリスでの普通の赤道祭についてみると、ローマの海神ネプチューン(ギリシアではポセイ
ドン)が黄金の冠をいただき、あごひげをたくわえ、鼻ばさみを持ち、三つ又やりを抱えて、妻
アンピトリテ、恐しげな床屋、悪者風の船医、どう猛な衛兵、そしてニンフ(女精)と乱暴者(日
本ではピエロもいる)を従えて、船首楼から現われる。船内を一巡すると法廷が開かれ、海水
がいっぱい入ったキャンバスの浴槽が用意される。覚えめでたい古参者にはうびを与えると、
ネプチューンは新参者を1人ひとり呼び出し、船医や床屋が止めるまで乱暴者(日本では赤
鬼、青鬼) に新参者を、浴槽に何回も頭を突き込ませる。それが終わると、将来こうした取扱
いを受けなくても良いという証明書が、新参者に手渡される。この赤道祭は、大洋航海が始ま
る以前から、神にいけにえを捧げて、著名な岬を無事回れることを祈った慣習にもとづいてい
るが、古参船員が新参船員をいびり、こらしめた上で、一人前の船員と認める儀式となってい
る。
 海神祭は、それ以前は北緯23度27分の北回帰線で行われていたが、1750年ニュートン
船長の乗ったデューク・オプ・アール号(150トン)ではすでに赤道線に変っていた。その船で
は、乗組員のなかでその緯度線を横切っていない船員をロープでメンヤードまで釣り上げ、一
気に海中に落すというやり方であった。それを免がれるには、すでにそれを越えたことのある
水夫に洒、普通はブランデーを振舞うという罰金を支払わされた。それは海に落されるよりは
ましであった。だが、金に余裕のない船員もいたので、ニュートン船長は罰金を立替えてやって
いる(コース64ページ)。
 さらに、18世紀末のレディ・ジユリアナ号のやり方は普通ではなかった。祭りの前に、ネズミ
イルカを捕まえ、皮をむいて海神の衣服を作ることになっていた。尾ははく製にされ、大きな棒
ぞうきんがかつら代りに使われた。それらを装わせて、男人魚らしくしていた。頭をそるとか、
海中に潜らせるとかいうことはなかったが、タールや獣脂の丸薬を飲ませていた。もちろん、海
神になりたい船員は、自分の情事を告白しなければ、その候補者になれなかった。それでも、
レディ・ジユリアナ号の海神祭は空想小説以上に珍奇なものであった(同114ページ)。
 だが、ケリーが乗っていた郵便船タイン号は赤道を横切らなかったためか、海神祭は北回帰
線で催されている。2人の船員が海神とその妻に召し出されることになった。2人は乗組員の
前で丸裸にされ、タールとグリースを浴びせられ、大きな鉄輪のかみそりで頭をそられ、海水
おけのなかに頭を突っ込まれていた(同171ページ)。
 赤道祭を船客に及ぶととんだことになった。1802年、スケルビイ号で海神や妻、従者どもが
赤道を横切る船に襲いかかり、船内で荒れ狂ったところ、船客は乱暴されたとして、船長を訴
えている。船長はボンペイで400ルピーの罰金を支払わされている(同152ページ)。
 船員は迷信深い。「フライング・ダッチマン」といった幽霊船が世界の海をさまよっていると、
長く信じていた。海の妖怪−モンク・フィッシュ、ヒドラ、デーモン・マーメイドを恐れ、魔除けとし
て彫刻を施した角、細長く切った板石を持っていたし、腕に入れ墨をするのを好んだ。刈った
髪を火にくべても燃えない時は海へ出ていけないとか、金曜日、13日、2月2日、4月第1月曜
日、大晦日(いずれもキリスト教に関係)には出帆しないとかを信じていた。船内の誰かが、陸
の女にし返しをしたり、悪さをすると、「恋のつけ」が船に回ってきて不運をもたらすと、固く信じ
ていた。また、黒猫が船内にしのび込んで、歩き回ろうものなら、船に悪いことが起ると信じて
いた。船からネズミがいなくなると、不幸の前兆であるとされていた。それらは240年来信じら
れていた(前半:杉浦昭典『われら船乗り』、後半:コース34ページ)。
 東インド会社船が500トン以上になると、牧師を乗せなければならなかった。そこで、カトリッ
クの司祭が乗船すると、不運にみまわれるという船員の迷信を利用して、実際はそれ以上のト
ン数がありながら、余分な費用をかけたくないため、登録は499トンになっていた。それが18
世紀中頃の東インド会社船の基準になっていた(コース150ページ)。また、水洩れの激しい
船で、大工は幸運を呼ぶとされる馬くわ(鍬)をメンマストに巻きつけて、それを止めてみせると
いっている(同193ページ)。
 船長がクオーターデッキに出ている時は、操船の必要と礼儀上から、風上舷は船長に明け
渡すことになっていた。また、口笛は無礼な振舞いであり、また不幸を呼ぶということで禁止さ
れていた。1818年、若い陸軍士官は口笛をやめるよういわれたがそれを拒否したので、船
長は士官に手錠をはめ、3週間従兵なしで過させた。船長は、その士官に訴訟を起され、500
0ボンドの損害賠償を支払わせられている(同152ページ)。
マーメイド(海処女、海猿、海トルコ人)
(S・ムソスター画、1555年)

4 船員の格好と制服
★着た切りスズメの水夫★
水夫は、およそ、衣類らしいものは、ほとんど持っていなかった。持っていたとしても、激しい仕
事ですぐにぼろぼろになった。水夫たちはぼろをまとっていたにすぎず、それを洗うまでもなか
った。それは病気が蔓延する原因であった。それでも作業服とかが備え付けてある場合もあっ
た。船具としての作業服は、その船主の子飼いの船員には支給されたが、それも船長が指示
した時以外に着ることはできなかった。それは航海の出発や成功にあたって、盛装の商人た
ちに見せて喜ばせる場合に着るだけだった(ハゲット11ページ)。また軍艦では、艦長は将官
艇の乗組員に、自分が選んだ制服を着せている場合が多く、それは劇場衣装をまねた派手な
ものであった。しかし、制服などは誰も持っておらず、何もかも物品所(slop shop)から買うか、
それとも粗末な材料を使って作るしかなかった(ロイド336ページ)。
 16世紀初頭、イギリスの軍艦にはキャンバスの上着(tunic)や半ズボン(breech)、毛糸でウ
ーステッドの靴下や毛糸の帽子といった衣類が準備されていた。しかし、水夫は自分の賃金
で、それを買わねばならなかった(ハゲット12ページ)とされているが、それらが本格的に備え
付けられるようになったのは1628年以降のことのようである。キャンバスのスーツ、綿製のチ
ョッキ、半ズボン……、帽子、靴下、シャツ、靴そしてハンモックといった衣類を備え付けるとい
う最初の指示が出されている。
 それらは多数の乗組員が一揃えの衣類をいつも身につけるよう仕向けて、その汚れた野性
をなくすため、特に準備したものであった。しかし、それがあまり高かったので、5000組のうち
売れたのはたった500組だった。1637年まで、それを蓄えている酒場の主人には1ポンドに
つき2シリングの儲けがあり、さらに事務長(purser)が乗船中、メンマストの前で乗組員にその
手持ちを売る時、1ポンドにつき1シリングの役得が認められていた。それらを購入する費用
は、乗組員の賃金から控除された(ロイド63−4ページ)。
★セーラー服の支給★
 こうした軍艦での衣類の販売にあたって、艦長や事務長、酒場の主人は不正を働いた。その
ため、1663年には衣類の販売に規制が加えられることになり、まずそれぞれの物品につい
て値段が公示され、艦長と乗組員がいる前で、週1回売るようになった。軍艦の乗組員が、自
前で作業服や制服を整えるという慣行は、その後も長く続いた。
 しかし、士気に加えて体裁も整えさせるべきだということになって、海軍本部も制服を支給す
ることに納得した。1748年より、士官には支給されることになったが、海兵は別として、一般
乗組員はいずれ解雇されるので、制服に費用をかける価値がないということになった。ただ、
海軍本部は乗組員の脱船を防ぐために、ある種の病院服は認めても良いとしていた(同238
ページ)。ようやく、1857年になって、すべての乗組員に制服が支給されることになり、その形
式も制定された。それが、艦名入りのリボンを巻いたハット、ネイビィ・ブルーのジャケット、白
いズボンといった、いわゆるセーラー服である。
 なお、海軍の制服については取り上げないが、およそは]章のイラストでわかる。
ペチコートとダブダブズボンの船員
(D・セリス画、1777年)

★東インド船の制服★
 商船船員の服装は、どうなっていたか。1450年から1550年にかけて、商船の士官は体に
ぴったりした短か目のジャケットと、膝までのダブダブなズボンという制服を着るようになった。
それは、特に風が強くて悪い天候のもとでセールを扱うのに、都合が良かった。船員はホック
で締めたジャケットと大変ゆったりした長いズボンを着ていた。そのズボンはたぐり上げやすか
った。それが当時の商船船員の普通の服装であって、記録のなかで初めてあらわれた制服と
いえるものであった(コース24ページ)。
 それに対して、東インド会社船の士官の制服は際立っていた。船長の制服は紺地の燕尾服
で、ベルベットの折りえりとそで口、あざやかな金糸を縫い付けたカラーのある大礼服と、チョッ
キ、濃い黄かっ色の半ズボンに、黒い靴下であった。ボタンは、社章が入った金張りであった。
縁どり帽をかぶり、片手にコートをかけていた。略服は折りえりの他、チョッキ、濃い黄かっ色
の半ズボンであり、ボタンは正装と同じであった。主席士官の制服も燕尾服であったが、それ
には黒いベルベットの折りえりとカラーがついており、小さなボタンが1個そで口に縫ってあっ
た。そのボタンも社章入りの金張りであった。
 1820年、士官は半ズボンをはくようになった。次席士官は、主席と同じような制服であった
が、そで口に2個の小さなボタンがついていた。三席士官は3個、四席士官が4個ついていた。
 これら制服は、1818年5月27日の重役会で決定されている。白地のチョッキや半ズボンセ
相当以前から着られていたが、海軍士官の着ている制服と見違えられるため、1787年6月よ
り深紅色になり、さらにその後、黄かっ色に変えられた。
 一般の船員の制服を、船主は定めなかったが、代表的な服装は紺地の短い上衣、紺または
白地の半ズボンと、えり巻であった。天気の悪い日には、長い厚手のラシャ上衣(pea jacket、
現代の若者も着ているものの原型)、目の粗いだぶだぶの長ズボンと石炭人夫の帽子であっ
た。帽子のえりは後側にたれており、ひもがあごに巻けるようになっていた。なかには、頑の髪
をたばねていられるように、赤い羊毛のナイトキャップをかぶっている船員もいた(同152ペー
ジ)。
★商船制服令設定★
 軍艦の事務長と同様、商船の船長も、必需品を出帆前に船に仕入れておき、航海が長くなっ
てそれが欠乏してくると、船員に売りつけ、大儲けをしていた。1783年ケリーが乗っていたジ
ェイソン号の乗組員は全員、売りつけられた赤い毛織ズボンをはいていたので、乗組員がマス
トに登って縮帆していると、フラミンゴの群れのようだったという(同175ページ)。また、ケリー
が1787年に主席士官として乗船したザティス号の船長は有能な船員であったが紳士ではな
かった。下品な行動が好きで船員と付き合い、一緒になって賭打をやっていた。半ペニーを使
った銭投げが得意なゲームであった。ケリーに仲間に入るよういってきかなかった。彼は断り
つづけた。それ参加すれば、船内の規律は保てなかったにちがいない。船長は賭打で稼いだ
金を、前渡金の欲しい船員に貸し付けていた。復航中、船長はラム酒を売るので乗組員は酔
払ってしまい、ケリーはやっかいな仕事を抱え込まされることになった(同176−7ページ)。
 東インド会社をのぞき、大方の船主はいわば一杯船主であったので、制服なぞ決めても意味
がなかった。それでも19世紀に入ると、大船主は自社の制服や揃い服を使用するようになっ
たが、そこに基準らしいものはなかった。1919年に商船制服令が制定される。それにより、
備品制服の不正使用が禁止され、その着用が認められていないものが着用した場合は罰金
となり、また制服を侮辱した場合は禁固刑となった。制服を着用する資格のある船員は船長、
機関長、海技免状を持つ航海士・機関士、上級免許を受ける資格のある無免状士官、船医、
事務長、無線通信士、見習士官、徒弟、下士官そして被表彰普通船員であった。乗船中に着
用する制服は、受有している海技免状の種別とかかわりなく、船内の地位に従うという規定に
なっていた(コース278ページ)。
 この商船制服令は、商船船員が長年にわたってその国にはたしてきた役割を、第1次世界
大戦も終りになってようやく遅ればせながら認識したあらわれであったとされる。なお、イギリス
では長年にわたって海運はマーチャント・サービス(Merchant Service) と呼びならわされてい
たが、1922年ジョージ5世(治世1910−36)はそれにマーチャント・ネイビイ(Merchant
Navy)という称号を与えたのも、その一環である。

5 船員の持ち物、遺贈
★出帆前に遺書を作成★
 皆川三郎氏は、「17世紀、英国船員について、遺書遺留品目録及び航海記録より観たる」
(帝京大学文学部紀要10、1979)において、東インド会社船で働いていた死亡船員の遺書、
遺品とその遺贈を分析している。
 まず、船員はイギリス出帆前に遺書を認めるのが普通であったが、読み書きできるのは3、
40人のうち1人であったので、代書屋か士官に書いてもらったことであろう。それはさておき、
1610、1613年の船員遺書40通を取り上げ、遺留品を通して見ると下級船員と士官級、さら
に司令官との財産程度は、それぞれ概して一桁違いであった。遺贈品のなかには、次のような
ものがあったという。
 靴(ズック製もある)、靴下どめ、靴下、帽子、タオル、刷毛、帯、リンネル袋、ベルトワン胴着
(古物を含む、毛繊、絹嬬子もある)、ダブレット(胴着)、ラシャズボン(古物が多い)、外套、シ
ャツ(白、縞)、綿プトン、枕、ズボン(黒、ズック製など)、ハンカチ、支那式柚広上着、石けん、
砥石付カミソリ、ハサミ、羽ブトン、チョッキ、その他。
 衣料品や日常身まわり品以外の遺贈品としては(下級船員はほとんど不動産なし)、土地、
家屋、家財、家畜、延金、宝石、指輪、航海図書、地図、星座観測器、長短剣、槍、小楯、航
海器具、太陽高度計器、コンパス、半月黄銅、海路関係図書、支那製皿、安息香、駝鳥の
卵、等。海外で買った商品は主に胡椒で、バンタン産、プリアマン産丁子などは極めて少な
い。
 それを、個人的にみてみると、ヘクター号の下級船員ジョン・タイは、受け取る賃金の他に、
次のような物品を愛妻に遺贈することとしている。その品数は、他の船員にくらべ多い方であ
るが、書物12、靴下6、皮靴下1、黒い帽子2、タオル3、寝帽子2、櫛刷毛1、帯と衣物掛1、
狩猟帯3、リンネル袋3、ベルトワンダブレット1、褐色毛織ダブレット1、ラシャズボン1、ボタン
付外套1、枕1、プリミスリボン(帽子の)1であった。
 これに対し、同船の帆走長リチヤード・ブレシイは、次のような金品を遺贈することとしてい
る。152ポンドの現金、リンネル、靴、靴下、縁飾りのある上衣、ダマスク鋼鉄銃5丁、毛織衣
服、ファスチャン織胴着、ラシャズボン、航海術図書、地図、星座観測器、銀笛と鎖、銀盃、ピ
ストル、洒、銀箔の長剣と短剣、銀製締金付腰帯と長槍、歩行杖と小楯などとなっている。
 皆川氏のいうように士官と一般船員とでは大きな格差がみとめられるが、そこで注目すべき
ことは、一般船員の持ち物は、ハンウェイが設立した海員協会が船員になる貧困少年に支給
した賜物を、それほど上回っていないことが、まずあげられる。ついで、士官の持ち物のなか
にいくつかの職業用の道具がみられるが、それらは個人が準備しなければならず、したがって
それが地位のあかしになっていたことを示す。
 なお、遺品は物品ばかりではなかった。1700年2月に出帆した奴隷船ダニエル・アンド・ヘ
ンリー号の主席士官ジョン・チプマンは天然痘で死んでいるが、その遺品にはクロスタフ、4分
儀<コードランド>、比例尺、海図、暦、デパイダ・コンパス1組、航海図書4冊、聖書、祈祷
書、紙入れの他、J・Cと彫られた象牙14本そしてJ・Cと入れ墨された奴隷男1人、少女1人が
含まれていた。それらはいわゆる冒険商品である(コース72ページ)。
17世紀の航海用具
クロス・スタフ、スケール、デバイダ(海図上)、バック・スタフ(右上)、
地球儀(左上)、アストラーベ(左下)、コードランド(右下)、砂時計(右)

★遺贈とその相手★
 これら金品の遺贈について、皆川氏は「教会や貧民、孤児に対する金品の遺贈が目立って
いる。遺贈相手は実子、父母、親族に劣らず、同僚や船医が多い。特に航海中病気の時、親
切にしてくれた者への遺贈が多いのは、自然な人情というべきであろう」とまとめている。ただ、
皆川氏がそこで紹介している遺書において、教会や貧民に対する遺贈はさきの帆走長の例だ
けであって、一般船員にはみられない。そうしたことは、士官がかなりの金品を持っており、そ
うすることが自分の名誉につながるが、一般船員はそうしたくても、それをするだけの持ち物が
なかったことからいって、かなり当然といえる。
 今、一般船員の遺贈相手の例をあげると、「水夫William Tomerに靴1足、黒ズボン1着とシャ
ツ1枚を遺贈する。また水夫Richard Jamesに黒い胴着1着、シャツ1枚とズック製ズボン1着
を遺贈する。John Wrighteに靴1足を、Alexander Geeに赤いチョッキ1着を、Gemi Hayneにシ
ャツ1枚、チョッキ1着を、また本船の船医Bartholomew Cunonds に10シリング遺贈する。こ
の金は私の給料の4分の1に当るものである。私に支払われるべき一切の金銭の残部につい
ては、East Richfeeld近くのNightingall Laneに独り住いの鍛冶屋なるわが養父John Brookman
に遺贈する」となっている。
 こうした遺贈の相手が決っていないような場合、船員たちは船内で遺品を競売して、なるべく
高い値段をつけて遺族に報いていたとされる。富める者とはちがって、乏しい者はいつも乏し
い者にいつも親切であった。ケリーの弟は太っ腹の男で金を半ペニーにくずして、ロンドンのタ
ワー・ヒルのあたりに群れをなしている乞食や障害者、なかにはなまけ者にも金を恵んでやっ
ていた。そうした慈善は、船員なら誰でもやっていたという(コース177ページ)。

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