ホームページへ

目次に戻る


1 軍艦乗組員の賃金
★クロムウェルの賃上げ★
 イギリスのジョン治世(在位1199−1216年)の軍艦の賃金は、1週当たり、提督14シリン
グ、艦長7シリング、掌帆長4シリング1ペニー、水夫1シリング9ペンスであった。その後、この
水準は長く続いたが、15世紀には低下し、水夫の賃金は航海中1シリング3ペンス、停泊中1
シリングとなった(ロイド24−5ページ)。
 16世紀に入って、新大陸からの大量の金銀の流入によって価格革命が発生し、物価が騰
貴した。そうした影響もあってか、ヘンリー8世治世当初、水夫1か月の賃金は5シリング(週1
シリング2ペンス)であったが、その終わりには6シリング8ペンスに上がった。
エリザベス1世の治世となった1585年にはホーキンズの申し入れにより10シリングになっ
た。彼は「女王の軍艦を有能な船員で満たすには、この方法しかない。そうすれば、彼らは何
とか暮らして行けるし、彼らを人間のくずや有害な連中から切り離すことも出来る……」と考え
ていた(同48ページ)。その当時の入港中の職種別賃金は、表1の通りである。航海中は、そ
れより若干高い。
表1 1589年入港中の軍艦の賃金
(単位:ポンド.シリング.ペンス)
年額  
月額
帆走長(master)
26.1.8
2.3.6
掌帆長(boatswain)
10.17.3
 18.0
事務長(purser)
 8.13.9
 14.6
料理人(cook)
 7.12.1
 12.8
大 工(carpenter)
 10.8.7
 17.5
掌砲長(gunner)
 9.15.6
 16.4
水 夫(mariner)
 6.10.0
10.10
注:1ポンド=20シリング,1シリング=12ペンス
(ロイド49ページ)
 表2 1626年軍艦の月額賃金
    (単位:ボンド.シリング.ペンス)
乗組員数
500人以上 50人以上
艦 長(captain)
14.0.0
4.13.4
掌帆長(boatswain)
2.5.0
 1.3.4
船 医(surgeon)
1.10.0
1.10.0
掌砲長(gunner)
2.0.0
1.3.4
水 夫(seaman)
15.0
15.0
給 仕(gromet)
11.3
11.3
少 年(boy)
7.6
7.6
(ロイド69ページ)
表3 1797−1862年軍艦乗組員の月額賃金
(単位:ボンド.シリング.ペンス)
有能水夫 一般水夫 被徴発者
1797
1.9.6
1.3.6
1.2.6
1806
1.13.6
1.5.6
1.2.6
1844
1.14.0
1.6.0
1.3.0
1852
2.1.4
1.13.7
1.8.5
1862
2.9.1
1.18.9
廃 止
(ロイド271ページ)
 イギリスが、海事国として世界の海に乗り出し、船腹を拡大し、乗組員が必要となるにつれ
て、乗組員の賃金を上げざるをえなかった。1625年に有能水夫(able seaman)の月額賃金1
0シリングから14シリング、1626年に15シリングに引き上げた。1626年の職種別賃金は、
表2の通りである。
 1642年、清教徒革命が起きたが、その共和制の指導者で護国卿と呼ばれたクロムウェル
は、みずから身をゆだねていた陸軍はともかく、海軍においては金銭的な誘惑が乗組員問題
を解決する主要な手段だとみなしていた(同91ページ)。すでに、有能水夫の賃金は1643年
に19シリングになっていたが、1653年には、有能水夫24シリング、一般水夫(ordinary
seaman)19シリング、給仕(gromet)14シリング3ペンス、少年9シリング6ペンスに引き上げ
られた。
★150年間賃上げなし★
 しかし、この1653年の賃金は、1797年にすでにのべたスビットヘッドで大きな反乱が起こ
るまで、150年間も変化しなかった。なぜなら、「賃金の引き上げは、すでに十分な重荷になっ
ているわれわれの負担をさらに途方なく激しくすると、海軍第一卿は反対しつづけていた」(同
249ページ)し、それに加え港湾都市には貧民があふれており、彼らを金銭的に引き付けるよ
り、強制徴発にたよる方が手っ取り早く、そうしたことが中産階級の利害と一致していたからで
あろう。
 海軍の士官や船員がともに不満であったのは、陸軍の連中が自分たちより良い待遇を受け
ていたことであった。たとえば、兵卒が1か月30シリングも受け取っていた。船医や牧師は請
願を繰り返したので、なんとか陸軍なみの水準に引き上げられた。しかし、一般の乗組員がで
きる唯一のことはストライキ、当時にあっては反乱以外になかった。スビットヘッドの不屈の乗
組員代表に、議会と海軍本部は敗北し……下士官と有能水夫に1か月5シリング6ペンス、一
般水夫に4シリング6ペンス、被徴発者に3シリング6ペンスの賃上げを承認させられた。180
6年にもまた2シリングから4シリングの賃上げが行われ、その結果、1か月の賃金は有能水
夫33シリング6ペンス、被徴発者22シリング6ペンスとなった(同250ページ)。これら賃上げ
を含む、その後の賃金の推移は表3の通りである。

2 海軍の賃金の遅配・未払い
★手元金のない海軍★
 イギリス海軍における賃金やその引き上げをみて、まず気のつくことは艦長、士官、下士官
そして水夫のそれぞれの間で、賃金格差がきわめて大きいことである。それは、その当時に出
身階層のちがい、熟練船員と非熟練船員の評価のちがい、そして一般乗組員が下層階級か
らの被徴発者であったことを反映していよう。
 次に、大型艦と小型艦とでは、その賃金格差は一般乗組員についてはほとんどないが、艦
長、士官についてはきわめてはげしい。前者は低賃金であるので格差のつけようがなかったと
みられるが、後者にあっては地位の差が反映したものとなっている。
 さらに、賃上げは政府や海軍本部が人集めといったやむをえざる事情がないかぎり進んで
行われるものではなく、厳しい階級支配のなかで反乱が起こって初めて行われるものであっ
た。
 イギリスの軍艦乗組員にとって、その賃金が安いことは食事の悪さとともに不満の種ではあ
ったが、それよりも大きな災難は賃金の遅配や未払いであった。イギリスが、16世紀中頃より
海事国となった段階で、すでに軍艦乗組員の賃金の遅配が始まっており、1608年には調査
委員会が設けられている。
 その当時は、敵国の軍艦や商船を舎捕すれば、賞金が分配されることもあったので、まだま
だ慰めもあった。しかし、海軍が多数の乗組員を雇用し始め、略奪の機会が少なくなっていく
につれて、海軍はそれに必要な費用を国王の大権に依存しては賄えず、中産階級や議会の
負担をあおがねばならなくなった。海軍本部が必要な費用を調達しえないところから、賃金の
遅配や未払いはひんばんに起きることとなった。帆船軍艦なので、燃料費はいらない。ただ、
船員さえ乗せて食事を与えていれば、軍艦が動いたので、海軍本部は直ちには困らなかっ
た。
 すでにのべたように、1625年に賃上げが行われたが、国王は、3000ポンドしか用意でき
なかったので、貧困船員には直ちに支払っても良いが、その他の賃金未払い分は捕獲物が売
れた時、現金で清算すると指示した。しかし、実際には、賃金の3分の2は証書で支払われ、
それが完済されたのは1629年であった(ロイド69ページ)。
1626年には、500人の船員が「残らずよこせ、残らずよこせ」と叫び、チャタムからロンドン
に出て脅しをかけたことで、ようやく賃金が支払われたという(同71ページ)。
 また、すでにみたように、1653年に賃上げが行われたが、その同じ年、4000人の乗組員
が未払い賃金の支払いを要求して、ホワイトホール宮殿に乱入したが、その時、護国卿(クロ
ムウェル)はマスケット銃を向けられた。彼らを取り押えるため、近衛兵を4連隊も繰り出さね
ばならなかった。請願者たちが具体的に持ち出した苦情は、立場のちがうローソン提督でさえ
支持しかねないものであった(同91ページ)。
サムエル・ビープス
(ヘイルス画、1666年)
17世紀中期イギリス海軍の改革者、33歳当時

★ピープスの海軍再建★
 1660年の海軍の債務は150万ポンドにも達し、その半分は賃金未払いによるものであっ
た。国家収入の4分の3は軍隊に投じられていた。それでも王政復古以前には3、4年間も賃
金未払いで活動していた軍艦もあった。乗組員がクロムウェルを歓迎したように、世の中が変
れば何とかなると、それから権力を奪い返したチャールズ2世(治世1660−85)を歓迎したの
も、無理のないことであった(同79ページ)。
 クロムウェル共和制は、海軍の再建に努力したが、財政難はどうしようもなかった。こうした
破産状態を救うため努力したのが、ピープスであった。彼は、「海軍の右腕」とか「海軍の救済
者」と呼ばれているように、大いに努力した結果、100万ポンドを優に上回っていた債務は、1
686年までに17万1836ポンドに減少した。
 ピープスは水夫のおかれている状態について、次のように日記で嘆いている。「1666年10
月31日、妻や弟と遅い夕食を取って寝ることとなった。この日も悪いことで終わった。それは
海軍の勤務にかかわっていた……船員たちが粗暴になって、何事につけ命令に従わなくなっ
た。指揮官たちが船員に権力を振るえなくなっていたため、船員たちは好き勝手にやってい
る。数人は艦内にとどまっているが、ほとんどの船員が町に繰り出していた。彼らをきっぱりと
咎めるものがいなかった。われわれ政府は、彼らに多額の借金をしており、それを支払ってや
らなければ、彼らの家族は飢え死ぬにちがいない。彼らは、政府発行の金券を信用する人に
差し出し、それを引き換えに借金して暮らす以外になかった」(ハゲット43ページ)。
 ピープスの努力の結果も長持ちしなかった。1711年までに、賃金債務は200万ポンドにな
っていた。そうなるのは、艦長が金券を偽造したり、支払額をごまかしたりする悪徳な艦長がい
たり、また賃金を支払わないまま乗組員を転艦させるシステムのせいであった。
1728年、賃金債務の清算のため、思い切った方法が採用された。そのために、50万ポンド
の下賜金がねん出され、そして債務の増加を防ぐ強力な規制が実施された。翌年、船員奨励
法が制定され、志願者には賃金を2か月分前渡し、12か月後には解雇することにした(ロイド
269ページ)。
 18世紀は、前世紀にくらべると、イギリスが巨大な海事国になって植民地からの利益をえて
いたので、賃金の遅配や未払いは改善されたが、それがなくなったわけではない。それが改善
されるにつれて、乗組員の不満は賃金水準漉の低さに移り、すでにみた1797年の大反乱に
なったとみられる。なお、ピープスは確かに有能な官僚であったが清廉な官僚であったわけで
はなく、当時の官僚と同様に猟官、収賄、女あさりなどあらゆる腐敗、退廃のかぎりをつくして
いた。その様子は、臼田昭『ピープス氏の秘められた日記』(岩波新書、1982年)に詳しく書
かれている。
捕獲賞金の支払いを拒否する海軍代理店
(T・ローランドソン画)

★金券での支払いと不当な割引★
 イギリス海軍の乗組員にとって、賃金の安さや遅配、未払い以外にも、いくつかの問題があ
った。まず、チャールズ1世の治世(1602−35年)になって、現金の代わりに金券(wage
ticket)を発行するという不当な慣行が始まった。
 「この慣行は、艦内に大量の現金を置くことは賢明でないというもっともな理由で始められた
が、その後100年にわたっていろいろと悪用されることになった。書記が、実在しない人物に
金券を発行するのを防ぐことは、まったくできなかった。それを現金化する際の割引率がきわ
めて高かった。事務長は1ポンドにつき2シリング以上取ってはならないことになっていた。陸
上の悪徳な取引人はそれ以上に取った。金券は偽造されもした。宿屋に預けると法外な割引
率で借金と相殺された。
 1656年、1ポンドにつき3シリングが通り相場であったといわれる。10年後物売り船のおか
みは5シリングも取っていた」(ロイド70ページ)。
1653−1797年の1か月賃金は、有能水夫24シリング、一般水夫19シリングであったが、
それから次のような控除が行われていた。後述するグリニジ病院への納付金として6ペンス、
牧師に4ペンス、船医に2ペンス、合計1シリング支払うことになっていた。性病になった場合、
罰金を支払わねばならなかった。当時、准士官の賃金は4ポンドであったが、それに対し船医
は5ポンド、牧師は19シリングという低さであった。
 艦長のなかには、自分の利益のために衣類ばかりか、強い酒を売って、乗組員の支払い賃
金からの天引きに精を出していた。その最大の被害者は、乗艦中に死んだ乗組員の寡婦と子
供であった。彼女らは、法的には、乗組員が死ぬまでの賃金を受け取れるようになっていた
が、それを受け取るのは困難であった。夫に死なれた妻が3、4人の子供をかかえ、本艦が入
港するまでに40シリングぐらいしか持ち金がない時に、時間をかけ、苦労して旅行するのはや
むをえないとしても、ロンドンまで100マイルも離れていることがあるので、夫の賃金を規定通
りに全額受け取れたとしても、その3分の1は旅費に支出せざるをえないはずであったからで
ある(同70−1ページ)。

3 商船船員の賃金水準
★賃金未払いは不可★
 それでは、イギリス商船の賃金は、どうであったか。フェイル氏によれば、一時引下げられた
賃金も、1445年再びもとへ戻って、1週1シリング9ペンスおよび加俸6ペンスに引き上げら
れ、ボーイは1週1シリング1ペニー半、船長は1日6ペンス(または1か月14シリング)と定め
られた。この時まで、陸上賃金は一層の騰貴をみていたが、それでも海員の賃金は食料費を
考えあわせると、少なくとも普通熟練工なみの水準であった。ただの労働者よりはるかに高給
であった(同112−3ページ)。また、海軍より少し高かったし自分の裁量により商売の利益も
あった。
 16世紀になると、すでに軍艦でみられたような状況が起こっており、1585年には、ホーキン
ズの尽力により軍艦では、1か月10シリングに引き上げられたが、……船乗り稼業は割のよ
い職のうちにかぞえることはできない。エリザベス女王の末期、単なる陸上労働者でさえ、1日
(食事なし)10ペンスを得ていたという時代になっていた(同172ページ)。
 前期スチェアート時代(1603−49)の商船船員の雇用条件について、ロイド氏は、「商船の
船員は自発的な入職者であり、また船長は海軍のように脱走に対して制裁手段が用いられな
かったので、賃金、労働条件は船員を引き付け留めておくには、合理的な基準でなければなら
なかった。賃金は、貿易の状態、航海の長さ、船の大きさ、目的地によって大きく変動したが、
海軍でえられるよりも数シリングほどいつも高かったし、戦時になると2、3倍になった。賃金
は、その乗組員が契約した航海が終わった時に、ほぼ確実に支払われた。賃金の支払いは
海軍よりもはるかに確実であった。
 そして、賃金の他に自分の勘定で商売をした時、若干の『身入り』が付け加わった。食料の
状態は、まだ航海が短かったのでかなり良かったが、肉は少なかった。積荷が損傷した時は
賃金が支払われないといった、いろいろな控除もあった」とのべている(同56ページ)。
★不熟練労働者並み★
 それでも、フェイル氏にしたがえば、17世紀にはすでに、「中世とは異なって、乗組員のうち
に商人または船舶持分所有者を兼ねている者が存在しなくなった。大洋航路も当初の冒険企
業的魅力を失っていた際とて、教養または身分のある者で平船員になろうとするものはほとん
どなかった。海員たちは、単なる『労働者』(hands)となってしまった。
 ペティによれば、船員の給与は、なお『賃銀・賄料(およびいわば居住用の)他の諸設備をふ
くめて(1週)シリングの高給『』つまり、農業労働者の3倍に相当したと計算されているけれど
も、彼らの地位は、いまや、陸上での比較的割のよい職業と比較すればずっと低下してしまっ
た。彼らは、不況期にしがない低賃金労働者が取り扱われるような仕方で、船主からひどい取
り扱いをうける」という状態になっていた。さらに、18世紀末の状態について、「一般商船の場
合、有能船員の普通賃金は30シリングであったと思われる。この額は、食事、宿泊付の農業
労働者の賃金とほぼ同等であったが、ともかく、西インド諸島貿易船のある船長会議は1770
年にこの額以上支給しないと決議している。東印度会社船では35シリングを支給していた」
(同233ページ)としている。
★戦時の外国人高賃金★
 すでにみたように、戦争が起こると、イギリス船員は海軍に徴発されてしまう。その時こそ、船
主が大儲けできるが、船員が足りなくなるので賃金を上げざるをえないし、外国人も雇わざる
をえなくなる。ナポレオン戦争前、ロンドンから出帆して行く平船員の賃金は1か月20−35シ
リングであった。戦争が勃発すると75シリングに上昇し、1800年には84シリング、1803年
には105シリングにもなった。1804年ある船では6ポンド6シリングという例もあった。しかし、
それまでにイギリス人船員は海軍に強制徴発されてしまっていたので、そうした高額な賃金の
恩恵を受けたのはイギリス船に乗りにきた外国人船員だけであった。
 その戦争が1815年に終わると、12万5000人もの商船船員が解雇され、失業させられて
しまった。運賃市況は不振をきわめ、賃金は激しく低下した。戦争中、イギリス船に雇われてい
た多くの外国人船員は引き続き雇われていたため、タイン川やウェア川の船員はストライキに
入った。それら河港の貿易は停止し、1000隻もの船が立往生してしまった。1799−1800
年の団結禁止法は労働者が賃上げのための結社を禁じており、地方行政官はその趣旨を布
告した。そこで、何百隻もの船が要員不足や不堪航の状態で、しかも多額の保険料を支払っ
て出帆して行った。地元の住民は船員に同情していた。船主は、わずかばかりの賃上げと乗
組定員の増加を認めはしたが、船が出帆して港外に出たところで、乗組員にまぎれ込ませて
いた臨時要員を下船させていた。ストライキは、指導者が6か月も入牢させられたため、終わ
らざるをえなかった(コース198ページ)。
 そうしたこともあって、19世紀前半の商船船員の賃金はほとんど変化しなかったとみられ
る。それには外国人船員の雇用が影響していた。19世紀中頃からは、表4のような推移とな
っている。まず、船籍と航路そして船種によって、一定の賃金格差があることに、気付く。逐年
的に表示しなかったが、1850年代から70年代にかけて賃金は結果として上昇しているが、
賃下げを含んだものとなっている。その賃金変動は、イギリスの景気循環にほぼ一致してい
る。
表4 商船有能船員の月額賃金の推移
(単位:シリンク)
船籍
リバプール
ロンドン
航路
北アメリカ
オースラリア
インド・中国
1848
50
45
40
1852
50
50
40
1853
75
60
45−50
1862
55−70
45−50
50
1863
65−85
50
50
1869 帆船
65
50
50
汽船
80
55
60−65
1873 帆船
90
60
65
汽船
90
65
70
(トーマス・プラッセイ「イギリス船員」160ページ
ロングマンズ・グリーン社,1876)
 海軍と商船の賃金を比較すると、いままでと同じように商船が確かに高いが、その格差は縮
まりつつあるかにみえる。 そして、詳しく調査しなければならないが、表3と比較すると海軍の
賃上げが先行し、それが商船の賃金を押し上げる要因の1つになっているかにみえる。

4 船員賃金の支払いと私的貿易
★船員の報酬の種類★
1376年にクインボロ裁定として知られる法令が通過し、商船船員の賃金や諸手当が定めら
れた。ロンドンのプール(ロンドン橋より下流の繋留地)とリスボンの間の1航海に対する船員
への支払いは1ポンド、食事の支給そして自分の責任で運ぶ貨物(後世、冒険商品 ventures
と呼ばれた)1トンであった。バイヨンヌ(フランス西南部)またはアイルランドとの航路では10シ
リング、食事、貨物スペース(cargo space)であった。賃金が、ある港に向う往路だけについて
決っている時は、船員は出帆にあたってその半分、そして入港した時残りの半分を受け取るこ
とになっていた。船員は、残りの半分でもって、自分に割り当てられた貨物スペースに積む商
品を買い込み、母港に持ち帰ることができた。その船が最初から母港に帰らないことがわかっ
ていると、契約時に通常の賃金に加えて特別賃金が支払われた(コース23ページ)。
15世紀の賃金の支払い方は様ざまであった。船員のなかには、みずからが働いている船の
共有者もいて、利益の分け前を受け取っていた。それは別として、もっとも普通の方法は1航
海いくらと決められていた。航海マイルあるいは1か月いくらという決め方もあった。大変興味
のあるシステムは、航海の終了時に、船長がそれぞれの船員の働き具合を判断して支払うや
り方であった。それらに加えて、貨物スペースが通常割り当てられていた。ロンドン/ニューカッ
スル航路では4シリングと2クオーク(25キログラム)の石炭運賃相当額であった。ロンドン/カ
レー(ドーバー海峡に臨むフランス北部の港)では5シリングのみであった。1487年、ロンドン
/オランダ間の1航海の賃金は10シリング6.5ペンスであったが、なかには1週当り1シリング
3ペンスの賃金に食費1シリング半ペニーという場合もあった。賃金が不払いになると、船員の
申立てにより船が差押えられた(賃金の先取特権は相当早い時期から確立していたかにみえ
る、引用者注)。
 賃金が決ったとしても、その通りすんなり支払われたわけではない。バーローの航海記録で
みるように、中世の運賃は報酬の源泉という考えにより、貨物が喪失あるいは損傷した場合賃
金が支払われないとか、減額されるとか、また運賃が支払われるまで賃金の支払いはまたさ
れることがあった。こうした慣習は、特にイギリスでは長くつづき、1894年海運法によってよう
やく廃止され、船主は運賃の取得に関係なく、船員に賃金を支払わせることにした。その場合
であっても、船員が貨物の横付けや保存に十分な注意を行っている必要があった。また、船が
沈没したり、海賊に出合ったり、徴用されたりして、航海が完了しない場合、最初に取り決めた
契約期間の4分の1に当る賃金しか支払われなかった。それも時代が下ると、その船に乗船し
ていた期間の賃金が、全額支払われるようになったが、それ以後は支払われなかった。この
慣習も、中世の船員も共同経営者という考えにもとづくもので、イギリスでは第1次世界大戦後
までつづいた。
★乗組員の私的貿易★
 すでに何度か出ているように、近世までの船員は運賃を支払わずに、自分が買った貨物あ
るいは商人から依頼された貨物を運ぶことができた。15、6世紀のポルトガル人船員は、この
私的貿易に励み過ぎたため、ポルトガルの衰退を早めたとさえいわれている。なお、日本の北
前船でも帆待<ほまち>という私的貿易の仕組みがあった。
 東インド会社船の船員は、当初、貨物スペースは与えられていなかったが、1694年9月、ウ
ィリアム3世(治世1689−1702)は東インド会社船に雇われている船長、士官や船員が私的
な貿易を行うことを、特別に許可する勅令を出している。その貿易量と商品の種類は、議会が
定めた規則にもとづいて行われるようになった。1772年には、貿易量は往航25トン、復航1
5トンであった。1791−92年には87トンから92トンに増加している。船長の取り分は56トン
であった。その残りが士官やその他乗組員に、その地位に応じて配分された。東インドでの各
港間では、貨物スペースの5分の2が船長、士官、その他乗組員の私的貿易に使うことができ
た。会社が良い荷物を集められない時には、残る5分の3も船長や士官が使うことができた
(同143ページ)。
 東インド会社船員は国家が認めた品目以外の冒険商品をアジアから持ち帰っていた。バー
ローが乗船していたプラッシィ号は紅茶を満載して、1796年12月17日ロンドンに向け出帆し
た。イギリス海峡の入口に当るリザード岬12マイル(22キロメートル)にさしかかったところ、1
50トンのカッターが横付けしてきた。その船は密輸船で、船長は船内の「冒険商品」を買って
やろうと持ち掛けてきた。罰金を支払わされる商品が多く積まれていた。ワッデル船長も紅茶
を68箱も持っており、1箱当り20ポンド要求した。交渉の末18ポンドで折り合いがついた。取
引している時、税関庁のスクナー型帆船アルバー号が風上から近付いてくるのがわかった。そ
れをうまくかわし、密輸船の船長はワッデル船長に、ロンドン・ロンバート通りの金融業者ワー
ポール社振出しの小切手で1224ポンド、士官たちの紅茶には現金で800ギニース(840ポ
ンド)支払っている(同147−8ページ)。
 また、ケリーは1781年郵便船グレンビル号に乗ってバルバドスに行っているが、その乗組
員はメッキのバックル、紋様入りの帯布、紳士靴、婦人靴、絹の靴下を買い込み、家を一軒一
軒回って売るつもりで積み込んでいた。ケリーは船長の冒険商品をバルバドスで売春婦に売っ
ている。彼らは大のお得意先で良い値で買ってくれたので、苦労せずに売ることができたとい
っている(コース172ページ)。郵便船乗組員が冒険商品を積むことは、チャールズ2世の勅
令で禁止されていたが、効果はなかった。1798年、ファルマスの郵便船にかぎって許可とな
ったが、1800年になるとそれが中止されてしまった。それでも、乗組員は冒険商品を運んで
商人に売りさばき、また絹布やぶどう酒、タバコをファルマスに密輸していた。女行商人の一隊
が田舎を回って、そうした商品を農家や地主の邸宅に売り歩いていた。郵便船の船長や士
官、乗組員はファルマスで買取った商品が海外で売れない場合もあったので、往航・復航とも
保険を掛けていた。それが彼らの費用であった。船員の乗った船が復航中に拿捕された場
合、商品の保険金を請求できたが、船が沈没すると請求できず、あきらめるほかなかった。そ
うしたことから、郵便船が拿捕されそうになっても、乗組員はそれを妨げようとはしなかったとい
われる(同188ページ)。
 なお、こうした冒険商品の無賃輸送は19世紀に入ると、急速におとろえてしまう。それは、中
世の慣習が船主にとって、不用になったからである。
スペイン軍艦を拿捕して、
スペイン・ドルを手にしたイギリス水夫、
ポーツマス、1799年
(F・バルトロッチ画)

★帰帆手当をふっかける★
 船長は、あれこれと船員をいじめていたが、船員が船長に仕返しできる機会もないわけでは
なかった。17、8世紀、アメリカの開発が進み、またイギリスの三角貿易が盛大になるにつ
れ、イギリス船は多数就航するようになると、船員は乗組員不足に付け込むことができた。船
長が、西インド諸島やアメリカで乗組員をかろうじて補充して、イギリスに帰れるようになった
時、船員は帰帆手当(run money)を要求するようになる。乗組員は、イギリスの港で西インドに
行きかつ戻るという約束で乗船契約書に署名していたが、彼らはその契約を守る意志など持
っていなかった。乗船契約書は、航海が始まる前に署名される。それが終わると2か月分の前
渡し賃金が支払われる。そして、西インド諸島に着くと、それまでの航海で支払い残しの金額
が支払われる。それが支払われると、乗組員は適当なころあいを見計って脱船する。その上
で、要員不足で復航しかかっている船を見つけ、それに乗り込んで、イギリスに帰りたければ
金をしこたま出せと要求する。要員不足で出帆が遅れれば遅れるほど、船長はそれがいかに
不当な要求であっても応じざるをえなかった。
 ケリー船長も、帰帆手当を要求されている。1795年、ジャマイカに停泊していたところ、乗組
員のほとんどが海軍に徴発されてしまい、ロンドンまで帰れる乗組員を集めるのに大変な苦労
をさせられる。ようやく乗組員を集めて、錨を上げるよう命じたところ、主席士官をはじめ乗組
員全員が復航ノートを要求してきた。ケリーは主席士官に50ギニーズ(52.5ポンド)、乗組員
全員に45ギニーズを支払うことを約束するという但し書を、乗船契約書に記入させられ、何と
か乗組員に仕事を取り掛らせることができた。ケリー船長から、乗組員が要求してむしり取っ
た総額は383ポンド5シリング8ペンスであった。それに対して12週間の航海に支払われるべ
き金額は、イギリス国内の基準でいえば86ポンド18シリング9ペンスにすぎなかった。主席士
官は52ポンド10シリング受け取っていたが、船長は15ポンドにしかならなかった。
 こうした不正な慣行は18世紀末までつづいたが、それをやめさせるため、1797年、「西イン
ドのイギリス直轄地および植民地と貿易するイギリス船における船員の脱船行為に関する法
律」が通過している。法律は、脱船した場合船員は支払われるべき賃金を失うと規定していた
が、脱船を思い止どまらせることはできなかった。また、法律は所定の2倍以上の賃金を支払
ってはならないと規定していたので、法律の当初の意図通りにはならなかった(同181−2ペ
ージ)。

ホームページへ

目次に戻る

前ページへ

次ページへ

inserted by FC2 system