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 いままで、船員の労働と生活について、それなりに詳しくふれてきたが、ひとことでいって、船
員は命あっての物種としかいいようもない状能におかれていた。それに対して、船員福祉や船
舶安全の面で、どのような援助や保護、規制が行われていたのであろうか。また、それに対し
てどのような闘いが行われてきたのであろうか。

1 チャタム基金とグリニジ病院
★6ペンス税の徴収★
 イギリスでも、15世紀中頃より船長など個人の慈善事業として、病院や救貧院がいくつかの
港に作られていたが、スペインのような海軍病院とか病院船といった施設はなく、傷病船員や
廃疾船員は放置されたままであった。
 イギリスは、1588年スペインの無敵艦隊に勝利したが、船員がえた賞金は少なかったばか
りでなく、その扱いはみじめなものであった。イギリス艦隊を指揮し、その後ノッキンガム伯爵と
なったチセールズ・ハワード(1585−1624)は、エリザベス女王の宰相パースレー公爵に、
「貴公にいいたい。病気や死は驚くべきほど増加している。マーケット港は実に哀れな惨状を
呈している。船員たちが通路に累々と横たわっている。町にむりやりにやっと押し入って見たも
のは、下宿屋に捨ておかれた船員たちであった。そこでできたことは、小屋と屋外便所を作っ
てやることであった。エリザベス・ジョナス号は、他の船と同様にあらゆることをやったが、その
航海の最初から病気はものすごい勢いで蔓延していた。その船に乗り込んだ500人のうち20
0人以上が、プリマス港を出帆して3週間か1か月もしないうちに死んだ……われわれ艦隊の
ほとんどの船に、病気が広がっていったことはいうまでもない。それらの船は長く海上におり、
着替えも持っていなかったからである。また、それを買ってやる金もそれを売ってくれる商店も
なかった。そうした状能で、ほとんどの船員が、海上で8か月間も過していた」(ハゲット22ペー
ジ)。
 1590年、ドレイク卿、ジョン・ホーキンズ卿とハワード伯は、チャタム基金(the Chatham
Chest)を設立した。それは、海軍にいるすべての船員の賃金から、毎月6ペンスを控除するこ
とで維持しようという基金であった。その後、でたらめな管理で、官憲の手入れを受けたり、役
人の食い物にされたこともあって、グリニジの王立海軍病院の会計と統合された。この基金は
イギリスにおいて最初の拠出制医療保険制度であった。この基金の金庫には6ペンス銅貨を
入れる穴があいている。現在も、それは国立海事博物館に保存されている(ロイド47ペー
ジ)。この6ペンス税の納入の義務づけは、1626年から始まったとされる(ハゲット23ペー
ジ)。
 17世紀末、イギリスはオランダとの抗争に勝利をおさめ、海事国として成長していったが、そ
れを維持・拡大するためには、船員を安定的に確保する必要があった。その一環として、169
0年代の初め頃から、グリニジにある古い宮殿を病院に切り替える計画が議論されていたが、
ウィリアム3世とその妻メアリーが、1695年10月25日に王立病院を設立するという特許状を
下付するまで、実施にいたらなかった。その目的は、次のような条文になっていた。
1 海軍に所属する艦艇に勤務する船員が老齢、傷病、その他障害により、これ以上に海上勤
務を続けられないか、また自らを扶養できなくなった場合、それら船員を救済・援助する。
2 海上勤務で不慮の災難に死んだりあるいは身体に障害が生じた船員の妻を扶養する。
3 (同様な、引用者注)船員の子供を扶養・教育する。
4 上記以外の救済・奨励措置を船員に行う。
5 航海を改良する(ロイド176ページ)。
 このように、グリニジ王立病院は単なる医療施設ではなく、総合福祉施設であった。それは1
705年に完成した。
5つの鍵のあるチャタム金庫
1590年の遺品、国立海事博物館に保存されている

★商船船員からも徴収★
 王立病院は、1696年から建設がはじめられたが、王室や大衆の慈善、国営の富くじや石
炭税だけでは、この雄大な制度を財政的に維持するには不十分であった。過去1世紀にわた
って、海軍に勤務する船員がチャタム基金に毎月6ペンス納入していることが取り上げられ、こ
の新しい病院があらゆる種類の船員に役立つことになりそうなので、商船に勤務する船員にも
納入させるべきだということになった。それは1734年法により実施されることになった。
 ところが、すべての船員は6ペンス事務所に納入金を支払ったが、この施設は海軍勤務で傷
病にあった船員のための施設であるという条文は、そのまま変えられず使われたので、海軍
以外の船員は除外されることになった。ある男が、海軍の勤務で障害者になっていたとして
も、それを証明しないかぎり、その便宜は受けられなかった。そうでありながら、商船船員は6
ペンスをまきあげられた。それは不正以外のなにものでもなかった。事実、負傷した船員のほ
とんどは海軍と商船を何回も往き来した連中であった。また、病院に収容された船員が急速に
増加したので、すぐに部屋がなくなった。1705年の収容者は42人であったが、1805年246
0人、1814年2710人となった。その後、その数は減少し、病院は1869年に最終的に閉鎖
された(同176−7ページ)。なお、6ペンス事務所は、1834年に廃止されている。
★障害手当・寡婦手当★
 チャタム基金とか、王立病院といった中央政府が関与する福祉施設以外にも、いくつかの対
策が立てられていた。「1601年、偉大な救貧法が通過した後、すべての教区に対しその教区
の障害船員(disabled mariners)に、水夫には10ポンドまた士官には20ポンドを超えない範囲
で年金を支給する義務を負わせた。この法律は、初期の年金法に代わるもので、教区委員は
艦長が発行した障害船員の証明書について、それが軍艦の帳簿に記載されているかどうか
を、行政区の出納者に照会することになっていた」(ロイド47−8ページ)。
 また、1733年法は軍艦の乗組員100人当たり2人の寡婦手当要員(window's men)を認
め、それに相当する人数の賃金が戦闘で殺された男の寡婦に支給されることになっていた。
それは1829年に廃止されている(同252ページ)。この寡婦手当要員の賃金は、乗組員が
死ななかった場合、乗組員に分配されていたようである。1832年には、軍艦に3年以上勤務
した船員には、年金が支給されることとなった。
 こうした公的な努力以外にも、いろいろなことが行われていた。まず、ホーキンズ卿は、159
4年にチャタムに貧困船員を収容する私立救貧院を設立している。商船もそうであったとみら
れるが、死んだ男の衣服は、艦内でセリにかけられた。通常、船員の根からの気前よさから、
高値がつけられた。そうした金は、ネルソン時代にロイズの会長であったJ・J・アンガスティが
行っていた慈善活動に活用された。同氏はロイズ愛国基金を組織して、傷病船員や寡婦を扶
助していた。その基金は、ある勝利を記念しようと大衆に寄付をつのったことで始まった。……
1793−1801年には19万3331ポンドも集まった。1803年には、同氏はその基金を恒久
的な施設とし、すべての艦長に死傷者の名簿を出すよう求めた。それにネルソンはいつも感謝
していたとされる(同252ページ)。
グリニジ病院の収容船員
(J・クリクシャンク画)
片手、片足を失った水夫
(1827-35年画)

2 商船における慈善・自助
★東インド会社の福祉★
 17世紀、ブリストルはロンドンにつぐ貿易港であった。商人船主は船員救済事業を実施して
いた。ブリストル冒険商人組合は、船員が船に乗組み、危険にさらされ、犠牲を払いながら航
海しているおかげで、利益の上がる貿易が成り立っていることを良く知っていた。その返礼とし
て、貧困船員の少年のための学校を設立・運営したり、傷病船員に救済資金を支給したり、老
齢船員や船員未亡人に養老院を提供していた。その養老院は、以前に船員ギルドが建てた建
物であったが、17世紀初めには船員が稼いだ賃金のなかから1ポンドにつき1.5ペニーを出
し合って、それを維持していた。それがつづけられなくなったので、冒険商人組合が代わってそ
の運営に必要な費用を全部持つようになっていた(コース47ページ)。
 東インド会社は、17、8世紀イギリス最大の商人船主であり、多数の船員を雇用あるいは使
用していた。それに応じて、各種の船員制度を発達させていたが、その1つに福祉制度があ
る。船員という職業は、貧困が廃業の原因になる場合もあった。東インド会社のポプラ基金は
貧困に陥った船員を救済することになっていたが、その額はわずかであった。1625年から、
船員の賃金から1ポンドにつき2ペンスを控除して、ポプラ基金に拠金させることにした。178
5年になると、船団の指揮官を含むすべての船員から賃金の1.25%、約3ペンス控除すること
にしている。東インド会社に少なくとも8年間継続勤務し、拠金を怠らなかった船員に年金を受
ける資格が与えられ、士官も資産の程度に応じて年金を受取ることができた。指揮官は、250
0ポンドの貯蓄または年間125ポンドの収入のない場合、毎年100ポンドの年金を受ける資
格があった。士官候補生は、貯蓄400ポンドまたは年間収入20ポンド以下の場合、年金は1
2ポンドであった。過去7年間、海上勤務をやりとげた指揮官、士官、船員の寡婦や孤児には
4ポンドから80ポンドの手当が与えられた。救貧院も建てられたが、1802年に改築された時
でも、下士官や船員、彼らの寡婦など38人しか収容していなかった。1866年、ポプラ基金は
廃止され、救貧院も取りこわされた。すでにみたように、グリニジ病院に積立てる1か月6ペン
ス税が一般の商船船員からも徴収されることになったが、東インド会社の士官や船員は免除
されていた(同134−5ページ)。
 また、東インド会社に用船または所有されている船には「大いに励むべし」(Encouragement)
という標語のある告知文が掲示されていた。それには、敵意ある攻撃から船の財産や活動を
守れば、賞金が与えられるとのべられていた。船員が船を守って命を落した場合、会社はその
寡婦、子供、父親または母親に30ポンド、足や腕を同じように失った場合30ポンド支払うと約
束していた。保障金の総額は、会社の重役が決定したが、船長や上官から成績優秀であった
という報告のあったあれこれの負傷者にも与えられた。負傷者は会社の費用で治療を受ける
ことができた(同142ページ)。
★船員友愛協会の設立★
 イギリス北東海岸の船員たちは、それ以前から友愛協会(Friendly Societies)を作っていた
が、1798年にサウス・シールズに水夫基金(Sailors' Fond)を設立している。その目的は「海
難や拿捕に会った船員や、病気、災害、不幸、病弱あるいは老齢で困窮している船員」を助け
ることにあった。基金は、19人の発起人が出した400ポンドの寄付金で始められた。会員
は、それぞれ稼いだ賃金1ポンド当たり1シリング拠金することになっていた。最初の2年間は
給付を受けられなかった。失業船員は1年間、1週7シリングの給付金を受取った。海上で衣
服を失った場合7ポンドの補償があった。会員が海上で死亡または行方不明になると、5ポン
ドの年金が再婚するまでその妻に支給された。ただ、規則によれば、喧嘩による怪我や性病
に対して給付金は支払われなかった。
 その協会の集会場は「希望と錨」という名前の社交場のなかにあった。それを家主から借り
るため、会員は2ペンス拠出していた。その部屋は2ペンス出すだけの値打ちがあった。自分
たちのクラブの部屋に酔っ払って入ると、2シリング6ペンスの罰金となった。会員の葬儀があ
った時、酔っ払ってくると同じように罰金が取られた。口論、賭けごと、わいせつな言葉は6ペン
スの罰金となった。会員を殴ったり、人格を傷つけると5シリングの罰金となった(同197−8
ページ)。
 ナポレオン戦争が終り、多数の失業船員が出た。それは、世間に注目されるところとなり、1
816年になると船員に対する慈善活動が繰り広げられるようになった。それは、ナポレオンの
侵略を防いでくれた船員の働きに対する国民の感謝のあらわれであった。1818年、ロンドン
で困窮船員救済恩賜団体が設立され、失業船員や貧困船員を援助することになった。同じ
年、イギリス人・外国人水夫協会(現在のイギリス人水夫協会)が発足している(同198ペー
ジ)。
 このように、船員の悲惨な状態から、船員福祉はかなり早い時期発達してはいたが、あくま
で海軍や東インド会社(同社の制度は進んでいるかにみるが、士官はともかく一般の船員がそ
の会社に7年も継続勤務したとは考えられない)、地域船主ごとに作られた船員の共済会が中
心で、それに慈善事業が加わっていたにすぎず、その規模もきわめて小さかった。国家や船
主に命を投げ出しただけの報いはなかった。
★政府関与の救済事業★
 1800年代初め、政府の船員に対する福祉施策はわずかなものしかなかった。それでも、あ
る商船船員年金基金が設けられ、船長や士官は1か月1シリング6ペンスから2シリング6ペン
スまで、平船員は1シリング拠出することになった。その拠出金のうち6ペンスはグリニジ病院
に振り向けられた。1851年、船員基金が商務省に移管されたことで、グリニジ病院への拠金
は廃止されることになった。その移管の意図は、それまでの船員基金を廃止して出資金の返
済を受ける資格のある拠出者に出資金の清算を済ませ、彼らが希望すれば今後も拠出の継
続を認めようとするものであった。年金は、商務省の海運局から支給されるようになり、1875
年までに船長、士官、その他船員に合計7528ポンド、寡婦や孤児に1万4972ポンド支払わ
れている。
 アルフレッド王立商船船員協会が、1865年「イギリス王国の老齢廃業商船船員を救済す
る」目的で設立されている。それは海難船員協会から5000ポンドの贈与金で始まったが、そ
の費用はすべて有志の寄付金でまかなわれていた。その直後、ケント県のベルビディアに老
齢船員の養老院を新設し、また老齢船員、廃疾船員や寡婦に年金や一時金、その他手当を
支給している。その協会の年間費用は7万ポンドにもなっていた(同206−7ページ)。
 船員が金を持つと、どんちゃん騒ぎをやらかすか、町のいかがわしい連中にたかられるか、
船員周旋屋にかすり取られるかであった。そうでなくても、船員に扶養家族がいれば送金しな
ければならないし、また自分で貯えをしておかなければ下船中まともに食っていけない。1854
年海運法により船員貯蓄銀行が設立された。その銀行は商務省の管理の下におかれ、ロンド
ンに本店銀行、他の港にも支店銀行が配置されることになった。船員は、それら銀行を使って
雇止めされた時、賃金の全額または一部を預金したり、また親せきや友人に送金できるように
なった。それは船員周旋屋の活動を制限するのに役立った(同226ページ)。
船員福祉が自助や慈善として行われるのではなくまた商慣習として治療費用が支払われるの
ではなく、労働者の当然の権利が確立するのは1894年海運法、1897年の労働災害補償
法、1908年の無拠出老齢年金制、1911年の健康保険と失業保険を含む国民保険法の制
定にまたねばならなかった。
★船員宿泊施設の建設★
 船員が、周旋業者にだまされざるをえない原因の1つとして、港に適当な宿泊施設がなかっ
たことがあげられる。イギリスでは、19世紀もしばらくたって、ようやく多くの宗教的な慈善団体
が、船員のために陸上に立派な陸上施設を用意して、周旋業者に立ち向かった。1835年、3
人の商船士官がロンドン港の近くに、100人の船員を収容できるセーラーズ・ホームを建設し
た。それから40年後には、国内の港に28か所、海外の港に8か所、同じようなホームが作ら
れた。「そこはだだっぴろい部屋ではなく、……小さな部屋が、長い廊下をはさんで左右に分か
れていた。寄宿人には小さなキャビン(個室)が与えられていた。そこには、清潔で快適なベッ
ドが入っており、持物や道具を収められるだけの大きさがあった。水夫たちは家庭に帰った気
持になり、やがて乗船して行った……。食堂で1日4回、栄養のある食事が用意されていた。地
下には酒場があり、麻薬入りでないビールやエール、紅茶やコーヒーが用意されていた。その
建物のなかには、浴場、洗濯場、散髪屋もあった。寄宿人は週15シリング支払う必要があっ
たが、それは適当な負担であった。
 イギリス海外水夫協会、海員伝道会、海員キリスト教友好教会など、多くの宗教団体は船員
に聖書や小冊子だけでなく、レクリエーションの便宜も提供していた。イギリス海外水夫協会は
本部を、シャドウェルのメルサーズ通りに頑丈に建てられたセーラーズ会館に設けていた。そ
こは有名なハイウェイの側にあった。読み書きできる室、チェスと盤を備えた喫茶室、立派な
航海学校、貯蓄銀行、聖書などを売る小店、そしていろいろな目的と慎み重い説教や礼拝に
使う、2つの講堂で構成されていた。この協会は、国内に25か所のセーラーズ・ホームを持
ち、海外に4つの支部を持っていた(以上、ハゲット106−7ページ)。

3 船舶の航行の安全の確保
★海運の成長と海難の増加★
 世界に先がけて、産業革命を終えたイギリスは、19世紀、世界最大の工業国、貿易国、金
融国となった。それに伴い、イギリスの船腹は、1792年の126万トンから1816年の241万
トンヘと増加した。そのなかで、誰もが商船を保有し、船員を雇用し、高利益を上げうる機会に
臨まれることになった。それだけに、船舶の安全など無視する船主も出るようになり、海難が
増加した。なかでも増加していた移民船の海難は、悲惨をきわめた。1816−18年の平均人
命喪失数は763人、1833−35年は894人であつた。1834年春には18隻の移民船と70
0人の人命が、北大西洋で一挙に失われていた。
 1836年になって、ようやく特別委員会が設置され、海難の原因が調査されることになった。
特別委員会は、船舶建造の不完全性、不適切な設備と不十分な修理状態、貨物の不適正な
積付けと過積み、トン数測度法の欠陥を利用した過大な設計、船長の無能力、士官や乗組員
の泥酔癖、船主の船舶建造に対する無配慮や設備の省略、安全性の無視を誘発させる海上
保険、安全な港の不足と海図の不備を上げた。誠にひどい状況になっていたのである。
 その具体例を拾ってみる。1773年に制定されたトン数測度法は、船の幅を深さの2分の1
と仮定してトン数を決定し、それにもとづいてトン税を徴収していた。その結果、トン数を減らそ
うとして、横が狭く縦に長い「棺おけ船」(coffin ship)が建造され、悪天候ともなれば転覆するほ
かはなかった。船長のなかには、経験不足の14歳の船長や、海上経験さえない船主の倉庫
運搬人もおり、経度の計算ができる船長や士官はごくまれで、船位の誤差は数百マイルも違う
ことはざらであった。海上保険は、船価ばかりでなく、往復航の運賃も補償していたし、保険証
券の額面は実際の船価より50−100%も高くなっていた。
 特別委員会は、同年、報告書を作成し、イギリスの海運活動を監督・規制する海運局(the
Maritime Board)の設置や、海運法の編さん、船舶の等級や検査、船長・士官の資格と試験の
実施、航海学校・船員福祉事業の実施、海難審判所の設置などを勧告し、特に商船の建造と
船長・士官の要件に関する法律を制定するよう提案した。直ちに法案が議会に提案されたが、
船主の意向を代表した商務省の反対で見事否決されている。その後、勧告は棚ざらしされて
いたが、1845年になって船長・士官の海技試験が実施されるようになった。その受験は任意
であったが、1851年から強制の制度となった(コース199−213ページ)。
サミュエル・プリムゾル氏

★ブリムゾル氏の熱烈な運動★
 このように、船長・士官の資格要件は定めたが、船舶の安全性に関する法的規制は遅々と
して進まなかった。それでも、1854年、エリザベス1世以後に制定された海法を統合した海運
法(条文548項、別表23)が制定された。それには、正確なトン数測度法、海上交通法、船舶
建造の基準などが含まれていた。しかし、海難はいっこうに減少しなかった。その当時、増加し
つつあった汽船の海難は帆船よりも多く、その原因の1つは過積みであった。
1865年1月、補助機関付帆船ロンドン号1752トンがイングランド最南端のランズ・エンド岬
沖で遭難し、船客・乗組員200人もろとも喪失した。その原因は、船舶の建造が不適切な上
に、貨物の過積みと積付不良であった。それを契機にして、それ以上船積みすると船が危険と
なることを示す満載吃水線表示の運動が起きた。その先覚者は、タインサイドの船主でニュー
カスル商工会議所の会員ジェームズ・ハル氏であった。ハル氏は、炭抗夫の安全は法律で確
保されているが、船員はまったくかえりみられていないとし、堪航性のない船を出帆させた場合
軽罪に処し、そうした船を出帆させない規定を設けるべきであると提案している。議会に法案
が提出されるが、船主は外国船との競争に敗れるといって反対し、それを葬り去っていた(同2
28−9ページ)。
 そうした状態に果敢に闘ったのが、サムエル・プリムゾル下院議員(Samuel Plimsol、1824
−98年)であった。ロンドンの石炭売買業者であった同氏は海運よりも鉄道から便宜を受けて
いたが、「非常に活動的な氏は、船舶の安全が船主及び荷主のどん欲と、政府当局の無責任
と怠慢によって阻害され、いくたの貴重な生命が海上で失われつつある実情に義憤を感じ、イ
ギリス国会の内外において、航行安全への狂熱的な戦線を展開した」。
 プリムゾル氏の努力のかいもあって、1871年法は、船首および船尾に吃水目盛をつけさ
せ、不堪航性船の検査を政府に要求する権利を船員に与えることにした。それまで、船員は
不堪航性を理由に職務を拒否した場合、12週間以下の懲役刑となっていたのである。この権
利は、現代の労働災害・公害問題にとっても重要な意味がある。なお、日本では、1952年制
定の船舶安全法になって、その権利が認められるようになった。
 1871年法では、プリムゾル氏が要求したにかかわらず、満載吃水線を表示させようとはし
なかった。その後も運動がつづけられた結果、1876年法でその表示が義務づけられることと
なった。ところが、「その表示の個所についての指定が、この法では欠けていた。その決定は、
実は船主またはその代理人にのこされていた。かかる奇妙な状態は、それから15年間もつづ
いたのであるが、1890年になり、吃水マークの標示個所が規則によって決定されることにな
った。これが、いわゆるプリムゾル・ラインであり、プリムゾル氏の航行安全の闘いが、かくて2
0年を経てついに結実したのである」(以上、小門和之助『船員問題の国際的展望』444−6ペ
ージ)。
 このプリムゾル下院議員の闘いは、リンド博士の実験とともに、世界の海事史上の金字塔を
なしている。こうしたいわば有識者の努力は、海事世界の改革に大きな役割を果たした。
プリムゾル・マークの塗装

4 1887年全国水火夫組合結成
★ペニー・ユニオン★
 すでにみたように、1851年、1850年海運法が契機になって、イギリスの北東海岸ではペ
ニー・ユニオンと呼ばれる海員組合が作られ、賃上げと海運法反対のストライキが行われた。
その指導者は、1816年生れの海軍兵学校出身で軍艦にも乗ったこともあり、ある海運会社
で働いていたトーマス・ムーアであった。彼は一般の乗組員のペイ・オフシステムに反対し、ま
たハル氏より早く不堪航性船の出帆差し止めの権利、さらに船員が告訴できる権利について
キャンペーンを行い、政界と接触し活動していた。
 1853年法によって、航海条例が定めていたイギリス船の乗組員の4分の3はイギリス人で
なければならないという規定が完全に廃止されることになった。船主は、政府が「自由な貿易」
を擁護するなら、船員との「取引も自由」でなければならないと主張していた。組合代表ムーア
は、その法案は「船長がまったくつまらない口実で、乗組員を首にし、外国人を好きなだけ雇え
るようにするものである。神よ、あわれな水夫を救いたまえ」といったことを書いたパンフレット
を議員に送りつけたが、法案は議会を通過してしまった。1853年、外国人船員は7321人で
あったが、翌年には1万3230人にも増加した。それによって、ペニー・ユニオンは致命的な打
撃を受けることになった。それについて、コース氏は「彼らは単に外国人であっただけでなく、
組合破壊者であったのである」といっている。さらに、1852年オーストラリアに金鉱が発見さ
れると、船主たちは海上経験のない男たちを安い賃金で雇うようになり、またグレート・ノーザ
ン鉄道が開業して、ロンドンまで石炭を直送するようになったため、1858年ペニー・ユニオン
は力を失ってしまう(以上、コース222−5ページ)。
★指導者ウィルソン★
 その後、1875年にロンドンで設立されたイギリス船員擁護組合、1878年にサンダーランド
で設立された海員組合の他、いくつかの地方組合があった。ついに、1887年2月、現在につ
ながるイギリス・アイルランド全国合同水火夫組合(the National Amalgamated Sailors' and
Firemen' Union)が結成される。その指導者はハベロック・ウィルソン(Havelock Wilson、1860
−1929年)であった。ウィルソンはサンダーランドの生れで、帆船の徒弟から始め、帆船の次
席士官をしたり、アメリカのバルチモアで港湾労働者になったりしていたが船員をやめ、妻と一
緒にレストランを開きながら、サンダーランドの組合に協力し、次第に船員の全国組合の必要
を感じ始めていた。それを結成する決意をしたのが1887年であった。ウィルソンは下院議員
としても活躍している。初めはかなり過激であったが、組合が安定すると船主と協調的になり、
他の組合に高圧的になっている。
 その組合の事業として、@全階級の船員の乗船中・下船中の労働条件を改善し、その利益
を擁護すること、A海員会館を設立すること(特に船員周旋業から船員を保護すること)、B合
理的な労働時間の獲得、公正な賃金率の維持そして船員階級の議会代表の選出をすること、
C賃金請求、災害補償、海難救助請求......などに法的扶助を講じること、D船内労働の安全を
図って、人命の損失を防止すること、E海運サービスに最上級の船員を供給し、全組合員は
指定の時間にしらふで乗船することを見届けること、F遭難船員に援助の手を差し伸べるこ
と、G病気、障害、求職、葬儀そして寡婦・孤児に関する基金を準備すること、H議会代表の
基金を準備すること、Iストライキ船員の援助基金を準備することを掲げていた。
 組合員は、最初、ウィルソンと友人の2人だけであったが、1889年にはグラスゴーやリバプ
ールなど36か所に組合支部が設けられ、組合員4万人に急成長した。同年、運賃が上がり始
めたので、賃上げストライキに入っている。船主はストライキ破りを送り込み、船員周旋屋は船
主に協力したが、それを打ち破って6週間目に解決している。これに対抗して、船主たちは18
90年海運連盟(the Shipping Federation)を結成し、水火夫組合に対抗するようになる。水火
夫組合は、海運連盟と船員の補充をめぐり、血みどろの闘いをつづけ、一時は後退を余儀なく
されるが、1911年海運ブームが起きると、海運連盟での雇入れ事務の廃止、乗船中の港に
おいて部分賃金を受取る権利、労働時間制と時間外手当率の確立、全国最低賃金を要求し
てストライキに入り成功をおさめる。これにより、海運連盟も水火夫組合と正常な労使関係を
結ばざるをえなくなり、船員労働は近代化して行く。
 なお、船長は1862年商船勤務者協会(the Mercantile Marine Service Association)、機関
長は1889年船舶機関士協会(the Institute of Marine Engineers)を作るが、それは研究・扶
助団体であった。それにあきたらない航海士や機関士は、いろいろな労働組合を結成するが
弱小であった。

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