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1 日本形の西洋形帆船への転換
(1) 西洋形帆船の導入と屈折
 明治初期の日本船舶は,きわめて多数の大和型帆船と第1表にみるような少数の西洋形帆
船および汽船とで構成されていた。明治政府は,維新直後から西洋形船舶を奨励するが,日
本の造船所はそれを直ちに建造する技術を持合せていない。まずは,輸入にたよらざるをえ
なかったが,それを購入しうる船主は半官半民会社や少数の廻船船主にかぎられていた。そ
れでも,1877(明治10)年の西郷マゼを契機にして,第2表にみるように,かなりの西洋形帆船
が新造登録されるようになり,輸入は抑制される。しかし,1881(明治14)年以降,松方デフレ
ーションのもとで,その建造や輸入は一挙に減少し,その後も停滞しつづけ,第3表にみるよう
に汽船は着実に増加するが,西洋形帆船は増加せず,他方日本形帆船は減少しつつも,大
量に残存しつづける。なお,戦前期における日本船舶の船形別・登簿不登簿別推移は,巻末
資料(略)の通りである。

第1表 明治初年各藩所有船舶数
軍艦
運輸船
木造汽船外車船
暗車船
鉄製汽船暗車船
木鉄交造暗車船
2
14
3
2
21
木造汽船
汽船木造外車船
暗車船
汽船鉄製外車船
暗車船
不詳  
不詳  
不詳
27
3
10
5
20
5
6
9
85
出所:富永祐治『交通における資本主義の発展』66ペ
ージ,岩波書店,1953。
注 原資料,日本造船協会『近代日本造船史』126−
147ページ,原書房版,1975。

 そこで,明治政府は布告30号で西洋形船舶検査規制を制定し(明治18年より施行),また
1885(明治18)年に布告16号で1887(明治20)年1月以降500石以上の日本形帆船の製造を禁
止した。こうした政策にもかかわらず,西洋形帆船の新造登録は第2表にみたように減少し,
逆に日本形帆船は増加に転ずるのである。明治政府は,日清戦争後,船舶の近代化を痛感
し,1896(明治29)年に船舶検査法を制定し,翌年より施行し,150石(のちに200石)以上の日
本形帆船をも検査することとした。その結果,1897(明治30)年の西洋形帆船の登簿船は171
隻27,412総トンにすぎなかったが,1900(明治33)年には3,309隻306,393総トンヘと一挙に増加す
ることになった。その増加について,『日本帝国統計年鑑』は「明治31年及明治32年ニ於ケル
噸数船(帆船)ノ其以前ノモノニ比シテ著シク増加セシハ,船舶検査法施行ノ結果ノ従来石数
船(帆船)ノ取扱ヲ受ケタル模擬合ノ子船ヲ漸次噸数船(帆船)ニ編入セシニ由ル」(同728ペー
ジ)とのべている。
第2表 西洋形帆船の新造登録(1870−1902)
年末(明治)
隻数
トン数
年末(明治)
隻数
トン数
1870(3)71(4)
72(5)
73(6)
74(7)
1875(8)
76(9)
77(10)
78(11)
79(12)
1880(13)
81(14)
82(15)
83(16)
84(17)
1885(18)
86(19)
-1
-
2
-
4
11
16
51
50
146
107
73
32
19
16
23
-50
-
91
-
83
639
1,649
5,204
5,781
10,889
9,477
8,175
2,790
2,889
1,921
1,485
1887(20)
88(21)
89(22)
1890(23)
91(24)
92(25)
93(26)
94(27)
1895(28)
96(29)
97(30)
98(31)
99(32)
1900(33)
01(34)
02(35)
23
18
18
13
6
8
20
26
22
11
18
203
206
193
202
137
1,633
1,348
1,300
1,142
758
644
755
1,735
1,412
997
2,324
20,950
20,342
17,842
20,259
13,035
出所:『日本帝国統計年鑑』,内閣統計局,各年。
注1) 1897年以前登簿トン,1898年以後総トン。
  2) 漁船を含む。

第3表 戦前の日本船腹の推移(総トン)
年末
汽船
西洋形帆船
日本形帆船
隻数
トン数
隻数
トン数
隻数
トン数
登簿船
1870(明治3)75(8)
80(13)
85(18)
90(23)
95(28)
1900(33)
05(38)
10(43)
15(大正4)
20(9)
25(14)
30(昭和5)
35(10)
40(15)
43(18)
35149
210
228
334
528
859
1,390
1,703
2,132
2,931
3,187
3,351
3,471
4,256
4,547
24,99768,227
66,476
88,765
141,970
331,374
534,239
932,740
1,224,091
1,604,900
3,011,634
3,496,263
3,907,908
3,862,942
5,768,914
5,593,748
1144
329
358
304
173
3,309
3,699
4,958
8,656
14,415
14,084
15,379
15,287
16,936
16,963
2,6119,398
51,164
50,772
40,267
29,322
306,393
329,806
390,796
542,579
976,286
883,353
896,231
900,792
1,080,265
1,109,134
--
-
-
-
-
911
1,135
2,098
1,257
988
607
367
154
(74)
-
--
-
-
-
-
41,526
44,215
71,990
41,096
28,687
19,010
11,704
4,804
2,108
-
不登簿船
1870(明治3)
75(8)
80(13)
85(18)
90(23)
95(28)
1900(33)
05(38)
10(43)
15(大正4)
20(9)
25(14)
30(昭和5)
35(10)
40(15)
43(18)
-
-
-
233
251
299
470
598
842
1,504
2,879
4,136
5,160
4,421
(3,994)
-
-
-
-
7,210
8,088
9,995
9,126
7,009
9,818
18,191
35,864
50,679
60,688
51,562
40,207
-
-
-
-
151
561
529
541
433
1,434
8,842
20,406
26,595
32,424
36,002
(39,380)
-
-
-
-
6,521
14,722
15,472
14,179
6,765
22,924
128,694
296,699
386,207
439,443
474,470
(521,678)
-
-
21,260
18,937
17,006
19,375
17,360
17,885
19,713
20,545
16,172
9,362
5,001
4,411
-
-
-
-
357,785
327,370
285,463
330,238
296,088
236,985
206,557
242,140
184,444
115,072
54,538
45,016
-
-
-
出所:『日本帝国統計年鑑』,『逓信省年報』,各年。
注1) 日本形船10石を1トンに換算。
  2) 1940年のカッコの数値は1939(昭和14)年分。

 西洋形帆船に編入されざるをえなかった模擬合の子船は,逓信省『日本船名録』明治34年
版(明治33年末調査)によれば,その建造年次は500石以上の日本形帆船の建造が禁止され
た1887年以後だけでなく,それ以前にさかのぼる。また,その帆装形式はスクーナ型が圧倒的
に多く,幕末に多かったバーク型は比較的に少ない。そこで,重要なことは,その平均トン数が
約100総トンというように,当時としては大型であったことであり,明治10年代の新造登録のそれ
と一致している(なお,平均建造トン数は,1905・明治38年53トン,1910・明治43年75トン,1915・大
正4年63トンとなる)。また,その船籍地や造船所は,先進地の阪神,京浜,志摩だけでなく,全
国に広がっていることである。他方,同船名録によると,西洋形帆船に編入されなかった500石
以上のいわば純然たる日本形帆船は271隻にとどまり,そのうち1887年以前の建造隻数は71
隻,それ以後は102隻(年次不明98隻)であった。なお,1900年における20−500総トン層の船
種別トン数構成は,第4,5,8表からみて,およそ汽船20%,西洋形帆船70%,日本形帆船10%で
ある。
 合の子船の検討は次項で行なうが,さしあたって模擬合の子船は,どういった船であったの
か。500石以上の日本形帆船の建造が禁止されていない1883(明治16)年において,すでに
「豆州下田には昨年来十七艘の西洋形風帆船を新造して各所に往来し居たるが,去年中其
船五艘の横浜に入港せし際,水上警察に取押へられ船頭は拘引の上改築を命ぜられたり。
是れは全く免状を持てる船長を雇へば月給の百円づつも払はねばならぬ故,土地在来の船
頭を乗組せ置きしことが知れしなりと又折角構造せし船体を改めるは難渋なるより嘆願して船
体は少しも改めず格子を作りて船の両腹へ打附け外見を日本形の如くして漸く渡航の許可を
得たり,依て他の西洋形風帆船も此便法に倣うて皆格子を打附けたりと」【1】いう状態があっ
た。これからみて,模擬合の子船は西洋形の竜骨や肋骨(キールやフレーム)を持ち,西洋形
の帆装をした西洋形帆船であったとみなされる。したがって,明治10年代に入って,100総トン前
後の当時の大型帆船にあってはその建造禁止を待つまでもなく,日本形帆船の建造は衰退
し,西洋形帆船として大量に建造されていたのである。それが日本形帆船として登録されたの
は,第5編で分析されるように,船税,海技免状,船舶検査を免ぬがれたいがためであった。
 だが,小型帆船にあたっては日本形帆船が主流を占め,地方の伝統的な木船造船所(船大
工)が西洋形帆船の建造に早期に移行したわけでもなく,ここに帆船の発達としては屈折した
経過をたどることとなる。
(2) 簡略西洋形船体と伸子帆
 合の子船(間の子船とも呼ばれる)の研究は,大和形帆船にくらべきわめて立遅れており,
それに定説らしきものはない。そのなかにあって,石井謙治氏はその研究に取り組んでいる
が,船絵馬の分析から日本形帆船への洋式帆装の導入は大和形の主帆である横帆を残した
まま,明治10年代にまず船首の弥帆柱を利用して三角帆が張られ,ついで明治20年代に入る
と船首に1,2枚のジブ,船尾にスパンカーを張った形式が増加し,定着していったとする。こう
した部分的な洋式帆装化は,在来日本形帆船で大いにみられたようであるが,「こうした変遷
は,理論的よりも経験的なもので,加えて流行的な要素もあるようだ」【2】とされているように,
それによって帆装性能が決定的に上ったとはみられない。この日本形帆船の部分的な洋式帆
装化は,合の子船の前史をなすものといえる。
 次いで、石井氏は1891(明治24)年「帆船検査廃止ニ関スル法律案」が提案された「当時普
及し始めた船体が和船で,帆装が完全な西洋式という和洋折衷式の本格的な合の子船」,さ
らに1896(明治29)年の船舶検査法の制定後「政府の期待する西洋形帆船ではなく,船体に肋
骨を入れたり,外観まで西洋形に似せたりする,より本格化した合の子船」が登場した。それと
「同時に,500石積以下のイサバ・ダンペイ・五大力などローカルの日本形船も,船体の補強と
2檣スクーナの洋式帆装化によって合の子船に変貌し,これが30年代に急速にふえている」と
する。そして,「(1)船体は……30年代末にはスクーナーと見紛うばかりのものまで出現した。
むろんそれでも基本構造は日本式の棚板造りである。(2)帆装は,2檣スクーナーが主流だっ
たが,35年頃に後檣にジャンク式の伸子(すいし)帆(バッテン入りのラグセール)を使うものが
現われ,明治未から大正期には前檣も伸子帆とするのが主流となっている」とする【3】。
 こうした見解を支持するかのような資料として,中国海運局による広島県沼隈郡千年村の老
船頭からの聞取り結果がある。「明治30年になりますと西洋型帆船の影響を受けまして,あい
のこ船(間子船)というのが出来ました。和洋折衷の意味でございます。あいのこは帆に改良
が加えられたのみならず,船体も洋式化しましたが,艙口が小さく荷役が難しくなり,為にあい
のこましという荷役手数料(石炭荷役の割増料金=引用者注)の制度が生れることともなりまし
た。帆船は和洋混合の時代から洋式へと変遷してまいりましたが,洋式にはケッチ,ブリガチ
ン,バーカンチンなどいろいろな型があり,中でも普及しましたのは何と申しましてもスクーナ型
でございますが,これは後には日本化致しまして,帆に横竹を入れ,上下するようになったもの
でございます」(斜体、原著。原著、但し、傍点)【4】。
1910年代の牛窓港入港中の伸子帆
や西洋形の帆船と曳船
岡山県牛窓町マサモト写場提供
1924年頃の牛窓瀬戸通航中の
伸子帆の帆船
岡山県牛窓町マサモト写場提供

 逆に,そうした見解の修正をせまる資料として,次のようなものがある。すでに,1891年当時
において,「何故に日本の船主は西洋形船舶を造らざるか,……船主笑ひていへらく,日本現
時の船政に注目すべし,若し吾人にして西洋形船舶を造るときは煩雑なる法律の下に立たざ
るべからず,是れ我邦経済の未だ許さゞる所なり,是に於て別に新船を発明せり,世にこれを
称して間の子船という。試みに東京入津の船舶に注意せよ。二檣の日本形船舶は大概皆之な
り,船底は全く西洋型に同じくして而して肋柱を用うること少く,其風帆も亦西洋型に類して而し
て更に簡単なる所あり。其費額は西洋形の半額にして而して実用に至りては大に劣ることな
し,此新形は造船家間角次郎が明治十二年に当り東京新堀町に北村某の為に造りたる桐生
丸を以て第一となし,爾後大に増加し凡そ日本形の修繕せらるゝものは今日に於ては大概間
の子船となれり」【5】。これによれば,いわば簡略西洋形船体の帆船が,早い時期から合の子
船と呼ばれていた。また,広島県向島町の内河恒太郎氏(元船頭)は,「私が27才(明治41年)
のとき,父の大和船(ばい船)を大阪の造船所でスクーナ型(2本マスト)の帆船に改造しまし
た。中国地方では,この型が多かったが,東京・北海道方面では間子船(あいのこせん)に改
造したのが多かったようです」【6】というように,帆装形式でもってスクーナ型(多分,伸子帆と
みられる)と合の子船を区別していたかのようである。
第4表 戦前の日本形帆船の石数別推移
年末
(年号)
不登簿船
合計
50-100石
100-500石
500-1000石
1000石以上
隻数
トン数
隻数
トン数
隻数
トン数
隻数
トン数
隻数
トン数
1872(5)
75(8)
80(13)
85(18)
90(23)
95(28)
17, 155
19, 208
17, 453
212,591
230,264
213,247
1,485
1,476
1,484
118,636
115,348
114,123
18,640
21,260
18,937
17,006
19,375
17,360
331,228
357,785
327,370
285,463
330,238
296,088
8,969
9,463
7,969
63,922
68,060
58,209
6,848
8,942
8,723
130,290
187,542
186,727
1,489
91,250
811
563
55,699
38,519
159
105
18,936
12,631
年末
(年号)
不登録船
登録船
合計
200-500石
500-1000石
1000石以上
1900(33)
05(38)
10(43)
15(4)
20(9)
25(14
30(5)
35(10)
17,885
19,713
20,545
16,172
9,362
5,001
4,411
-
236,985
206,557
242,146
184,444
115,072
54,538
45,016
-
640
912
1,974
1,204
866
591
354
150
21,753
29,535
64,281
-
-
-
-
-
245
212
122
52
32
16
13
4
16,498
13,358
7,461
-
-
-
-
-
26
11
2
1
-
-
-
-
3,274
1,312
247-
-
-
-
-
-
18,796
20,848
22,643
17,429
10,260
5,608
4,755
423
278,511
250,772
314,137
225,540
143,759
73,548
56,249
4,804
出所:『日本帝国統計年鑑』。
注1) 第2表注1に同じ。
 2) 1875,1930年合計,誤記通り。

第5表 戦前の西洋型帆船のトン数別推移
年末
(年号)
不登簿船
登簿船
合計
20-100トン
100ー500トン
500-1000トン
1000トン以
隻数
トン数
隻数
トン数
隻数
トン数
隻数
トン数
トン数
隻数
トン数
1878
(11)80
(13)
85(18)
90(23)
95(28)
1900
(33)
05(38)
10(43)
15(4)
20(9)
25(14
30(5)
35(10)
40(15)
43(18)
-
-
-
-
-
541
433
1,434
8,842
20,406
26,595
34,960
36,002
(39,
380)
-
-
-
-
-
-
14,179
6,558
22,924
128,694
296,699
386,207
458,928
474,470
(521,
678)
-
61
205
394
781
631
2,201
2,480
3,633
7,161
11,539
11,719
13,355
13,340
14,212
13,974
3,189
11,217
22,625
30,004
22,376
151,730
159,788
209,866
-
-
-
-
-
-
-
58111
111
81
67
1,104
1,216
1,323
1,494
2,868
2,359
2,019
1,941
2,717
2,692
13,196
24,944
26,845
19,853
16,112
151,
258
164,
701
177,
666
-
-
-
-
-
-
4
13
4
3
4
3
3
1
5
4
1
4
3
1
3,239
11,933
3,173
2,023
2,983
1,880
3,637
825
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
1
1
1
3
2
4
4
4
4
--
-
-
-
-
1,525
2,439
-
-
-
-
-
-
-
123
329
509
865
702
3,850
4,132
6,392
17,498
34,821
40,679
50,339
51,291
16,936
16,671
19,624
48,094
52,643
51,880
41,471
320,572
334,684
413,720
671,273
1,272,985
1,269,560
1,355,159
1,375,262
1,080,265
1,081,086
出所:『日本帝国統計年鑑』。
注1) 1895(明治28)年まで登簿トン数,以下総トン数。
  2) 第3表2に同じ。
  3) 1940,1943年の合計は登録船のみ。

  石井氏が,日本形帆船の全面的な洋式帆装化と部分的な洋式船体化の組合せを,本格
的な合の子船とした上で,「新検査法はその意図に反して,西洋形よりも合の子船の普及に力
を貸した……,ちょっと信じ難いだろうが,明治末期から大正時代にかけて,沿岸航路の帆船
は殆んど合の子船で占められ,まさに全盛期の感を呈している」【7】とするのは,少し無理があ
る。
 石井氏は,船舶検査法制定後,統計上,日本形帆船が西洋形帆船に編入されたことにまっ
たくふれず,また合の子船を日本形帆船として論じている。しかし,すでにみたように,西洋形
帆船は完全型であれ,簡略型であれ,明治20年代にすでに十分に普及しており,それらが
1900年(明治33)年における西洋形帆船の実体であり,かつ日本形帆船を上回る船腹量にな
っていたとみるほかない。その後,第4,5表でみたように,西洋形帆船は日本形帆船にくらべ
急激に増加していくが,そのトン数階層は20−100総トンであり,またその船主や造船所は次編
以下でも詳しく分析されるように,地方小零細の船主と造船所である。それらが船価の高い完
全な西洋形船体をすべて,採用したとは考えられないが,そのほとんどが日本形船体を基本と
した合の子船であったとするわけにはいかない。
 われわれの瀬戸内海地方での木船造船所の聞取り調査では,大正期に入っているが,次の
ようであった。その初期から,同じ造船所で日本形,合の子形そして西洋形を,同時に建造し
ていた。日本形船は積トンで150トンぐらいまで建造していたが,100−150トン層では合の子船が
ほとんどであった。しかし,それ以上になると,西洋形にならざるをえなかった。合の子船は,
日本形通りカワラ(航)を置き,幅広の外板を板作りしていたが,船首・船尾部には西洋形の肋
骨を後から立てて補強し,船中央部は簡略化していた。こうした合の子船は,船舶検査では,
西洋形として取扱われた。船主は,同じ積トンであれば,荷受けが良く,船価が2,3割安く,工
期の短かい日本形を合の子形より,また合の子形を西洋形より選んだとされる。
 そして,大正末期より帆船が大型化しまた機帆船化するにつれて,船体強度が要求されると
ころとなり,機帆船で100積トン以上にあっては西洋形がほぼ採用されるところとなった。瀬戸内
海では,西洋形化は広島,山口,愛媛などが岡山,香川,徳島などより早く進行したとされる。
西洋形の造船技術や技能は,その供給に迫まられた船大工が先進地域に出向いて修得する
のがほとんどであった。三重県の大湊造船徒弟学校(明治29年設立)や広島県の木江造船徒
弟学校(大正8年設立)の卒業生の影響も少なくなかった。
 さらに,大正末期が昭和初期にかけて,大日本水産会技師の橋本徳寿氏が小型木船造船
所に対して全国規模で行った「船匠講習会」が,その全面的な普及を促がしたとされる【8】。

 このように,日本の帆船は明治中期から大正期にかけて一貫して西洋形化が進行していた
とみるべきであり,当面の研究対象である20−100総トン層ではその完全型と簡略型が混在し
ており,大正末期からの機帆船化のなかで完全型が支配的になったといえる。そうした状況を
追認する形で,1910年(明治43)木船検査規程が制定されたといえる。
 他方,帆装型式においても変化がみられた。吉開和男氏は,若松港の回漕問屋の聞取りか
ら1900年代中頃・明治30年代末以後,「帆の改良が行われ,だんだら帆(大和形船の型式を
いう=引用者注)(では)……追手の場合は相当のスピードをだしたが,反対の場合は全く進行
しないため,帆の下桁の片側だけを定着して,片方を浮かしておき,回転を自由にして,風向
によって自由に帆の調節を行いうるよう通称不精帆が考えられた。前者(だんだら帆=引用者)
が常に直線コースを走るに対して後者(改良帆=同前)はジクザクコースを辿りながら常時進行
することができた」。そして,大正期に入ると「帆前船が1本マストにだんだら帆を張るか,下桁
の一方を浮かした不精帆のどちらかにかぎられていたのに対し,帆船はその両方を併行する
こと」【9】になっていたという。不精帆は,大和型横帆の使用法の改良と呼ぶべきものであり,
小型帆船にあっては前項でみた日本形帆船の部分的な洋式帆装化よりも広範に採用され,
全面的な洋式帆装化と併存しあっていたにちがいない。
 この不精帆が伸子帆に発展したとみられる。伸子帆は,木綿帆に横に何本かの竹の張木
(バッテン)を入れた,前縁より後緑の長い四角帆のラグスルで,追風の際の帆のふくらみすざ
を防ぎ,逆風でも切上りの良い帆であった。伸子帆とその前身である網代(あじろ)帆(笹を編
み,竹の入った帆)は,中国のジャンクが用いていたものであった。網代帆は,戦国時代の衛
朱印船が使っていたし,また沖縄では14世紀以来の中国への進貢船や,18世紀に入って登場
した地回りの馬艦(まあらん)船(就航地方の名を取り山原(やんはる)船とも呼ばれる)も使っ
ていたが,和船には普及しなかった【10】。それが明治中期以降,日本で広範に使用されるこ
ととなった。それが,どのような経過で普及したかは明らかにはされていないが,中国のジャン
ク,朝鮮のペイや沖縄の山原船から学んだことはほぼ間違いない【11】。吉開氏のいう不精帆
は,大和型横帆をラグスル風に使用したものとみられ,それにバッテンが入れられるようにな
ったと考えられる。それはいわば日本形帆船のジャンク式帆装化である。
 それが採用された契機は,小零細船主が少数の乗組員でもって,帆走性能の良い帆船を運
航しょうとしたことに求められる。伸子帆はバッテンが入っているので,少人数では展帆は大変
な労力がいるが,縮帆はきわめて容易であり,かつそれを段階的に行えるという,日常的な利
点にあった。こうした利点が伸子帆にあり,それが広範に普及したことは,われわれの聞取り
でも確認された。それは西洋形帆装からみればやはり簡略型といえる。伸子帆の帆船は統計
上ラガー型と称されており,明治末期にはスクーナ型と均衡する数を示している。なお,こうし
た伸子帆を備えた帆船の船体は,巻頭の図版3,4,7(略)にみるように,完全型か簡略型はと
もかくとして,あきらかに西洋形であった。
(3) 内航船近代化の理解について
 このように,明治以後の日本の帆船の型式変化は,帆装については明治初期から中期にか
けて部分的な洋式帆装化から全面的な洋式帆装化に移行する傾向をみせるが,その後小型
帆船が増加するなかでジャンク式帆装化に転換する。そして,船体にあっては明治初期以降,
完全型であるか簡略型であるかはともかく,洋式船体化が一貫して進行していった。その結果
として,大正期に,日本の帆船はジャンク式伸子帆を持つ西洋形船体の帆船に収れんしたと
みられる。したがって,石井氏のいう文字通り和洋折衷あるいは船体補強,伸子帆の合の子
船が,明治中期から大正期に全盛をきわめたと塗りつぶすことはできない。ただ,明治末期か
ら大正期にいちじるしく増加した50総トン層の典型的な船型が,伸子帆を持つ簡略西洋形船体
の帆船であったことはほぼ間違いない。このように見てくると,合の子船という言葉は注意深く
使う必要があることを知りうる。合の子船とはと問われれば,明治初期の日本形帆船が大正
末期にかけておおむね伸子帆を持つ簡略西洋形帆船に,長い期間かけて発達していく過程に
おいて出現した帆船の総称と広く定義するのが,穏当といえる【12】。
 明治・大正期における内航海運の船舶の近代化について,石井氏が通説をはげしく批判し,
合の子船を正しく評価するよう要求することの意義は大いに認められる。その点は,次節で関
説する。ただ,石井氏が「結局,造船近代化政策の眼目の一つである日本形帆船から西洋形
帆船への転換は,圧倒的多数の船主や船大工に歓迎されず,日本形帆船は衰退するどころ
か,明治中期に至っても盛んに建造され,やがて合の子船という和洋折衷形に発展して,政府
の意図する西洋形帆船化は完全な失敗に帰したのであった」【13】とするのは疑問である。
 まず,船舶技術が汽船段階に入っている時に,日本形帆船の西洋形帆船への転換を造船
近代化政策としたことそれ自体,政策として混乱していたというべきであるが,小零細な船主や
造船所の技術的・経済的条件からいって,そのはめじから成功するはずはなかった。しかし,
現実には西洋形帆船が明治初期から輸入・建造され,それが日本形帆船に対して技術的に
優位に立っており,その間で経済競争が行なわれたので,日本形帆船も政府の意図のように
早期かつ完全な形ではなくとも近代化せざをるをえなかった。その結果,完全な日本形帆船は
衰退していく。明治政府の政策意図が失敗であったとしても,それに目を奪われて,現実に西
洋形帆船化していったことを見落せば,単なる批判に終ろう。

2 機帆船への転換とその普及
(1) 焼玉機関の搭載
 内航海運の船舶は,明治・大正期,一方に比較的に少数の汽船と,他方にすでにみたような
発達をとげた多数の帆船が併存しながら推移してきたが,昭和期に入ると帆船はいま一つの
変転をみせる。それが機帆船化である。その詳細は後述されるが,まず大正期末期より在来
帆船を改造して補助機関をつけた補助帆船にはじまる。昭和期に入ると,機帆船として新造さ
れ,それが本格化する。前者にあっては帆走が主力であって,補助機関は無風時,潮流が激
しい時あるいは出入港に使用したとされるが,機帆船化が進むにつれて機走が主力になって
いく。本来の機帆船は,おおむね伸子帆でなく簡略なスクーナ型の帆装をほどこしてはいる
が,それを順風時に使うだけで機走を主力にしていた。それにもかかわらず,補助帆船や機
帆船は帆装しているがために,船舶法上,帆船の取扱いを受けつづけた。
 船舶法施行規則(1899・明治32年制定)第1条は,「本則ニ於テ船舶ノ種類卜称スルハ汽船,
帆船ノ別ヲ謂フ。機械力ヲ以テ運航スル装置ヲ有スル船舶ハ蒸気ヲ用ユルト否トニ拘ハラス之
ヲ汽船卜看做ス。主トシテ帆ヲ以テ運航スル装置ヲ有スル船舶ハ機関ヲ有スルト雖モ之ヲ帆船
卜看做ス」としている。そうした後者の補助機関付帆船あるいは有機関帆船を,簡略化して機
帆船と呼んだとされている。また,機帆船という用語がいつ定着したかの確証はえていない
が,1930(昭和5)年に船舶職員法施行細則が制定されて,機関を有する帆船の機関長が海
技資格を取得することを要求され,また1939(昭和14)年に海運組合法が制定され,それにも
とづき機帆船を冠した全国および地方の海運組合が結成された頃からとみられる。機帆船と
いう用語は,昭和初期から普及したにもかかわらず,法律用語として認知されることはなかっ
た。

機帆船
出所:世界大百科事典』7巻,260ペー
ジ,平凡社,1972.
但し,典型ではない
池貝製舶用
注水式ポリンダー型石油発動機
出所:日本舶用発動機会『日本漁船発動械史』33
ページ,同前,1959

 補助帆船や機帆船に搭載されたエンジンは,戦後,ディーゼル機関が増えたが,その大部
分は20−100馬力程度の焼玉機関であった。焼玉機関は,1903(明治36)年前後から各種の
型式が輸入されていたが,同年池貝鉄工所がティ・アンド・アイ型注水式機関を完成し,また
1907(明治40)年ミーツ・アンド・ワイツ型注水式機関を完成し,まぐろ漁船第1紀州丸に搭載し
た。1910(明治43)年,池貝鉄工所および神戸発動機がスウェーデンのボリンダ型無注水式機
関の国産化に乗り出し,他社もそれにならった。それにともない,1910年代・大正初年代中頃
から,その型式が漁船のみならず小型船に広く搭載されるようになった。1921(大正10)年に日
本発動機がスカンジア型無注水式機関,1924(大正13)年に神戸発動機がボリンダ型無注水
式機関を開発した。無注水式焼玉機関はセミ・ディーゼルと称され,小型船機関の主流となっ
ていった【14】。
 焼玉機関の構造は,上図に示したように,作動方式は2サイクルの内燃機関の一種である
が,燃料着火方式が空気圧縮熱と焼玉を用いることを特徴としている。燃料は軽油または重
油である。始動時,焼玉を外部から加熱し,燃料の気化燃焼を助けるが,運転が整定すれば
燃焼熱で焼玉の熱は保たれる。圧縮圧力や燃焼最高圧力は低いので,熱効率は低く,燃料
消費量は多い。また,クランク室から掃除空気を取り入れているので,潤滑油消費量も多い。
しかし,全体に構造が簡単であり,取扱いや修理も容易である。ただ,起動装置がない場合
は,若干の熟練を必要とするし,始動時は一定の時間を必要とする。故障は概して少ないが,
取扱いや整備が安易となるため,大きな故障が起きる。注水式は,高出力時のシリンダの過
熱を防ぐため,シリンダ内に注入するものであるが,それによって燃料消費量が多くなり,また
シリンダの摩耗もはげしくなる。そのため,無注水式が開発されたが,その段階でそれが機帆
船に大いに採用されだしたといえる。
 われわれの聞取りでは,在来帆船に対する補助機関の取付けにあたって,その船体が完全
西洋型であれ,簡略型であれ,その改造工事は同様にきわめて簡単であったという。それは
小型船からはじまる。大型船や西洋形船の改造がなかったわけではないが,改造費用がかさ
むため新造がむしろ選ばれたとされる。機帆船化が進むなかで,1934(昭和9)年から木造構
造規程が施行され,船体構造の強化がはかられた。機帆船化という段階になって,日本の内
航帆船の船体はほぼ完全西洋型となったが,それはもはや帆船といえるものではない。
(2) 機帆船への転換状況
 帆船に補助機関が装備されはじめたのは,1900年代当初・明治30年代中頃であるが,その
ほとんどが漁船であった。それが,商船に普及するにはかなりの時間がかかった。機帆船業
に関する先駆的な研究文献である四国地方総合開発調査所『瀬戸内海を中心とした機帆船
輸送の経営構造とその問題点』は,帆船から機帆船への転換について,次のような状況であ
ったとしている。明治末期ごろ,愛媛県伯方町の田窪満久氏造船所で建造された田窪利作氏
の発動機付木船日光丸(30総トン)が,瀬戸内海で最初のものと思われるとする。そして,同町
において機帆船が軌道に乗ったのは,1913(大正2)年建造の木元兼松氏の福寿丸(140積ト
ン)であるが,1927,8(昭和2,3)年頃機帆船化率は30%,1935(昭和10)年頃100%としている。
また,徳島市では1916−21(大正5−10)年にほとんどが機帆船に転換,香川県一帯では1918
(大正7)年ごろ機帆船化がはじまり,広島県高田村(現能美町)では1921年47隻のうら機帆船
は1隻にすぎなかったが,1926(昭和元)年41隻のうち6隻,1930(昭和5)年42隻のうち12隻,
1935年41隻のうち24隻が機帆船となったとする。こうしたことにより,帆船の機帆船化は「概し
て,大正中葉から,昭和10年頃に至る間であったと想像される」としている【15】。
 われわれの聞取り調査によれば,広島県倉橋町釣土田では,1918(大正7)年に帆船天仲丸
(80積トン)を機帆船に改造したのが,そのはじまりとされ,新造の機帆船としては同町では1927
(昭和2)年の宝運丸,翌年の伊勢丸だとされる。同音戸町早瀬では,大正末期ごろに林勇氏
の早真丸が最初の新造機帆船とされる。愛媛県伯方町では,1924(大正13)年の村上重吉氏
の明幸丸が最初の機帆船である。四国地方総合開発調査所の指摘とはことなっている。それ
が増加するのは,1920年代後半・昭和初期とする点では,ほぼ同じであった。また,同波方町
では1934(昭和9)年に真木政之氏の父が帆船姪子丸(240積トン)を機帆船に改造したのが,最
初とされる。しかし,『なみたか誌』によれば,同年に山内才松氏が150トンの機帆船を新造した
とする【16】。同町では,1938(昭和13)年ごろ100隻の機帆船がいたとされる。同中島町粟井で
は,1925(大正14)年に120トンの機帆船が出現し,昭和に入って増加したとする【17】。広島県
東野町では,1928,9(昭和3,4)年ごろ,機帆船がぼつぼつあらわれ,1935年頃増加しはじめ
たとする【18】。
 このように地域船主によって機帆船化の時期のちがいはあるが,在来帆船に改造して補助
機関を装備することからはじまり,ついで機帆船の新造へと移っていくが,それらが本格化す
るのは広島県,愛媛県という機帆船業の主要地域においては1933−35(昭和8−10)年となっ
ている。
 帆船から機帆船への全国的な転換についてみてみると,登録船(総トン20トン,200石以上)に
ついてだけであるが,第6表第7表を比較すると,明治期の機帆船は漁船がほとんどであっ
たが,商船のそれは大正期に入って次第に増加する。その末期には,隻数・トン数で10%ぐらい
になる。しかし,1920年代後半・昭和初年代に入ると,純帆船は減少しはじめ,機帆船が顕著
に増加しはじめる。そして,1935(昭和10)年ごろ,純帆船と機帆船は均衡し,その後は機帆船
が増加の一途をたどるが,純帆船はかなりの比重を占めつづける。

第6表 登録純帆船,機帆船及び石数船の推移
年末
純帆船
機帆船
石数船
隻数
トン数
隻数
トン数
隻数
トン数
1900(明治33)
04(37)
07(40)
10(43)
14(大正3)
16(5)
19(8)
22(11)
26(昭和1)
29(4)
31(6)
34(9)
36(11)
40(15)
52(27)
54(29)
56(31)
3,308
3,519
4,196
4,876
7,771
9,068
12,915
12,835
11,744
10,825
10,213
8,642
7,805
6,582
118
105
105
303,084
319,929
304,405
384,031
505,583
568,349
888,743
858,014
737,333
673,316
597,815
489,795
457,711
408,295
7,422
7,194
6,696
13
13
80
172
273
866
1,162
2,440
4,223
5,077
6,419
7,881
10,338
12,186
12,574
13,862
3,309
300
1,442
3,920
7,641
17,244
56,290
72,044
136,135
212,672
287,226
385,140
472,611
671,970
801,488
850,059
919,957
911
1,135
1,186
2,098
1,345
1,171
925
755
564
449
342
229
97
71
-
-
-
41,526
44,215
44,239
71,990
44,361
38,011
29,593
23,992
17,707
13,887
10,919
7,162
2,931
2,003
-
-
-
出所:鈴木登『小型船海運組合法と機帆船の現状』85ぺ−ジ,日本海事図
書出版,1957。
注1)日本船名録の補助機関を有する帆船を集計したもの。
 2)20総トン以上の日本船舶で漁船を含む。
  3)内地登録船のみ。
 4)明治33年末の横帆船1隻は鋼製のもの(以上,原注)。
 5)純帆船,機帆船の合計が西洋形帆船となる。

第7表 戦前の動力漁船の推移(隻)
年末
蒸気
機関
発動機
合計
20総トン-
50総トン-
1915(大正4)
20(9)
25(14)
30(昭和5)
35(10)
40(15)
175
171
108
159
96
173
100
194
 601   65
1,719   217
2,108   621
2,323   816
275
365
774
2,095
2,825
3,312
出所:第2表に同じ。

第8表 戦前の汽船のトン数推移(総トン)
年末
20-100トン
100-500トン
500-1000トン
隻数
トン数
隻数
トン数
隻数
トン数
1900(明治33)
05(38)
10(43)
15(大正4)
20(9)
25(14)
30(昭和5)
35(10)
349
643
815
1,036
1,237
1,488
1,667
1,784
17,949
29,531
36,908
47,143
51,798
62,642
69,808
78,605
290
337
410
530
609
585
548
627
65,880
76,299
89,772
116,046
124,536
139,038
128,754
147,984
61
118
140
150
335
252
217
208
39,875
83,190
102,018
110,403
254,401
188,850
164,636
155,612
出所:第2表に同じ。

 帆船から機帆船への転換が,どのトン数階層から進んだかは,第6表からは直ちには判断で
きないが,純帆船と機帆船の平均トン数を算出すると,1910年代後半においてはそれらの平均
トン数はほぼ同じであったが,1920年代後半に入ると後者が前者を上回るようになる。それから
いえば、機帆船化はまず全階層的にはじまるが、それがはげしく進行する時期には小型船で
より採用されたとみられる。帆船から機帆船への転換は登録トン数船だけでなく,登録石数船
や不登録船でもみられた。しかし,『大日本帝国港湾統計』によると,1935(昭和10)年におけ
る入港隻数は有機関石数船26,232隻,無機関石数船246,926隻であったので,石数船におけ
る機帆船は10%にも及ばなかったとみられる。
 このように,帆船から機帆船への転換の開始や展開には,船主地域によってかなりのちが
いがみとめられる。一部の地域や船主に先行があるとしても,その転換が開始されるのは
1920・大正10年代に入ってからであったことほぼ確かである。それは,すでにのべた焼玉機関
の発達からいっても,確かである。そして,機帆船が全面的に普及していくのは,1929(昭和4)
年の世界恐慌後,日本に向けて「スタンダード,ライジングサンの両社が東洋における販路獲
得のため,計画的なダンピングを強行した」【19】。そのため,軽油価格が1925(昭和元)年の1
キロリットル当り114円から,1931(昭和6)年の60円までに低下した事情が,大きく影響してい
る。いま,第5表第8表を対照すると,20−500総トン層の船腹において,すくなくとも1929(昭
和4)年ごろ機帆船は汽船を追い抜き,汽船にくらべ高い伸びで増加しつづけ,そのトン数階層
の主要な船腹になっていったことがわかる。1935(昭和10)年頃には,その階層の船腹構成は
汽船約20%,機帆船40%,帆船40%となる。
 このように,内航海運における主要な船舶としては,明治以後,昭和10年代までの約60年間
かかって,日本形帆船,合の子船,伸子帆・簡略型西洋形帆船,そして機帆船へと発達し,よ
うやく汽船段階に入ったのである。しかし,機帆船は大型の汽(機)船と比較する時,技術水準
としてはその大部分が船型の大型化が制約された木船であり,機械体系となっていない簡略
な汽(機)船にすぎない。日本形帆船から機帆船への発達は,輸入技術であった西洋形帆船,
そしてすでに輸入技術とはいえなくなった汽船の技術を,簡略化しながら採用してきた過程で
あったといえる。明治期における輸入技術に対する社会的な対応には全面輸入型,折衷型,
拒絶型があるとされるが【20】,日本形帆船から機帆船への発達は折衷型になぞえられること
ができよう。ただ,それが全面輸入型である汽船と長期にわたって併存しながら,折衷型として
完成していったことは,特殊な形態として注目せざるをえない。こうした明治以後,現在にいた
る主要な内航船舶の発達に着目しながら,それを担ってきた小零細船主とそれをめぐる社会
経済的な条件や関係を分析するのが,当面の課題である。

【1】 『東京経済雑誌』1883(明治16)年5月19日号。【2】 石井謙治「明治期の造船近代化と日
本形帆船」『漁船』215号,57−58ページ,1978.6。
【3】 同上58−59ページ。
【4】 中国海運局船員部「老船頭にきく」『海上労働』7巻8号,19−20ページ,1954・8。
【5】 『東京経済雑誌』1891(明治24)年8月15日号。
【6】 『瀬戸内海』下巻333−334ページ,中国新聞社,1960。
【7】 石井注【2】59ページ。
【8】 西洋形造船技術の修得や普及について,松田栄右衛門『潮路はるかに』,讃岐造船鉄
工所,1977,四国小型船工業会『15年の歩み』,同刊,1983.5がある。
【9】 吉開和男「若松港における機帆船発達前史」『若松高校郷土研究会研究紀要』5号,1953.
10。
【10】 喜舎場一隆「琉球の歴史と船」『船の雑誌』6号,1957.7。
【11】 ただ,名嘉真宜勝「山原船」『琉大史学』3号,1972.3では,山原船が木綿帆を採用した
のは,明治37,8年ごろとされる。
【12】 これに関連して,下條哲司氏は注【1】,【5】など多岐な資料を用いて,「日本形船舶の衰
退過程における日本海運業近代化の三類型」『経済経営研究』(神戸大)28号(1),1978.3を論
じているが,合の子船は西洋形の竜角や帆装を持つとしながら,統計上はともかく日本形帆船
と解するのがよいとする。これも石井氏同様無理がある(同156−157ページ)。
【13】 石井注【2】51ページ。
【14】 この部分は,日本造船学会『昭和造船史』第1巻,120−122ページ,原書房版,1977によ
る。
【15】 四国地方総合開発調査所『瀬戸内海を中心とした機帆船輸送の経営構造とその問題
点』14ページ,1955。
【16】 森光繁『なみかた誌』363ページ,波方町誌編纂委員会,1968。
【17】 中島町誌編集委員会『中島町誌』671ページ,1968。
【18】 福本清『東野村史』上巻138−139ページ,東野町教育委員会,1962。
【19】 日本石油梶w日本石油史』298ページ,1958。また,中国海運局監修『中国地方の機帆
船』13ページ,中国地方機帆船組合連合会,1955にも同様な指摘がある。
【20】 さしあたって,海野福寿「序説 外来と在来」同編『西欧技術の移行と明治社会』,日本評
論社,1982。


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