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1 江戸時代の海運と船主【1】
(1)全国的な廻船網の成立
 秀吉政権は,太閣検地を実施して,兵農分離と石高制を押しすすめ,全国的な封建体制を
築いた。石高制は,農民を自給自足経済に閉じこめ,商品流通から切りはなし,年貢米を確
実に収納しなければ,藩財政が成りたたないものとした。兵農分離によって,領主や家臣は城
下町に集住することになったが,それにともない領主は年貢米や必需品,あるいは特産物を
城下町に集中させ,領内・領外への商品流通を統制するようになった。そして,年貢米の多く
は,家臣の扶持や給付,武器や必需品の購入などにあてるため,換金化された。
 秀吉政権を打ちたおした徳川政権は,鎖国制,3都(江戸,大坂,京都)など主要都市の直轄
支配,参勤交代,武家諸法度でもって,より強固な封建統一国家を打ちたてた。それにより,
諸藩は参勤交代,在府・助役費用を捻出するため,年貢米や特産物の換金化をよりいっそう
求められ,それらを3都に搬出するようになった。徳川政権の確立にともない,一方で農民を自
然経済に緊縛しながら,他方で領主が貨幣経済に組入れられていくという幕藩領主的商品流
通が,3都を中心に特に大坂が「天下の台所」となって確立していく。それにもとづき,中世とは
大きくことなる全国的で恒常的な輸送体制が形成されることになった。そのなかで,海運は海
難・海損,長時間・着時不定輸送,積荷をめぐる不正があるにもかかわらず,大量の積荷を積
替えや滞留もなく,しかも遠距離を低運賃で輸送するという特性から,陸運にくらべ大いに発達
するところとなった。
 この江戸時代の海運は,まず年貢米の廻船としてはじまった。すでに,九州,中国,四国か
ら大阪にいたる瀬戸内海運,東北・北陸から敦賀・小浜にいたる北国海運(その後,琵琶湖・
大津を経て大坂にいたる)が発達していたが,河村瑞賢が1671(寛文11)年に日本海沿岸から
津軽海峡を経て江戸にいたる東廻り海運,翌年日本海沿岸から関門海峡を経て大坂にいた
る西廻り海運を整備したことにより,全国的な年貢米廻船網がしかれることになり,江戸時代
の海運が確立していった。年貢米廻船には,畿内,中国,北陸の廻船が,賃積船として調達さ
れた。
 全国的な年貢米廻船網がしかれる以前から,江戸に幕府がおかれたことで大坂・江戸海運
(南海路)が発達するところとなった。17世紀前半,菱垣回船による大坂からの、綿・油・紙・木
綿・薬・砂糖・鉄・蝋・鰹・酒・醤油など日用品の,江戸への廻送がはじまる。それにあたって,
大坂に海上運送業者としての廻船問屋が生れ,荷主から積荷を集め,積込み,運送してい
た。その廻船問屋の横暴に対抗して,1694(元禄7)年受荷主仲間としての江戸十組問屋が結
成され,つづいて大坂でも買次問屋仲間としての二十四組問屋が結成され,船頭や廻船問屋
との海運取引の秩序が確立する。17世紀後半,伊丹の酒造家に支持された酒荷専用船があ
らわれ,1731(享保15)年酒店組が十組問屋との紛争の末脱退し,樽廻船を組織するようにな
る。樽廻船は,菱垣廻船より小型で,船速や荷役が早く,しかも運賃が安かったので,菱垣廻
船から積荷を奪うまでになる。菱垣廻船問屋は,樽廻船問屋と協定を結んだり,幕府から保護
を受けたりしたが,その衰微はまぬがれなかった。なお,1772(安永元)年大坂・西宮で樽廻船
問屋株,翌年菱垣廻船株が公認される。
 菱垣廻船は,廻船問屋の手船もあったが,その多くは紀州や大坂の船主の雇い船であっ
た。雇い船も,十組問屋から廻船の新造や修理の援助を受けるようになって自立性を失いは
じめ,次第に十組問屋(1841年株仲間解散後は9店)の所有船や共有船,商人個人の所有船
が多くなっていった。他方,樽廻船は,そのはじめから酒造家の持船が多く,廻船問屋の手船
がそれについだ。菱垣廻船は,制度的には,その廻船問屋によって他人貨物輸送(public
carrier)として運航されていたが,時代が下がるにつれて,荷主の自己商品輸送(merchant
carrier)となっていった。樽廻船は,早い時期から,自己製品輸送(industrial carrier)として運
航されていた。
 西廻り海運が整備されるにつれて,年貢米輸送だけではなく,商品の輸送もはじまり,それ
に従事する廻船は北前船と呼ばれるようになった。19世紀初め,北海道の開発が進むにつ
れ,北前船は全盛期に入っていく。大坂への上り荷は鰊・メ粕・数の子・昆布などであり,下り
荷は木綿・古着・塩・砂糖・酒・紙などであった。北前船は,その船主が同時に商人であるとい
う,典型的な買積船(merchant carrier)であった。北前船による西廻り海運は,東廻りにくらべ
航路が安全であり,大坂を基地としていたことで大いに発達し,北陸に大小の船主を輩出する
ところとなった。
(2)地方廻船の進出
 18世紀後半から19世紀にかけて,自然経済を強要されてきた農民も,特産物生産の地方的
な分化・分業と手工業技術・技能の伝播が進み,農業や家内工業の生産力は向上し,農民の
手もとに剰余生産物が留保されるようになる。彼らは,藩専売制や特権的商人に一揆を起し
て,それを直接に販売するようになっていく。こうした農民的商品生産の展開のなかで,幕藩領
主的な商品流通やその輸送の体制も破綻していかざるをえなかった。その一環として,江戸近
辺諸国の商品生産が活発になるにつれ,従来の大坂・江戸海運は衰退しはじめる。それに対
し,地方における商品生産の増大は新興の廻船市場を生みだし,大坂を経由しない江戸への
直行廻送や地方相互間の廻送に大型廻船,さらには領内・地方内の廻送に小型廻船が多数
就航するようになる。
 「江戸市場に流入する木綿荷は,大坂からは菱垣廻船で,伊勢・尾張・美濃木綿は勢州白子
湊からの白子船で,三河木綿は三河平河湊からの廻船で江戸に運ばれた」【2】,また「嘉永前
後,児島塩の流通を担当した廻船をみると,大阪に積み登ったのは多く地船であったが,一方
そのほか尾州船,勢州船,淡州船,摂州船,紀州船‥‥‥などの塩廻船の手をへて,ほとん
ど全国にわたって大量に移出された」【3】。そのなかでも,「瀬戸内海は国内海運のもっとも発
達した地域で廻船密度も高く,瀬戸内の湊に出入する船には北国・九州・関東など他国船もあ
ったが,また地船も多く活躍している……備前国の宝永7(1710)年の地船調査がある……船
舶総数は2,467隻で,その80%は40石以下の小船で漁船が主で,残り500艘弱が廻漕船で……
500石以上の大船は57艘を数えた。……文政ごろ(広島)藩内の船数調査によると……安芸
郡が1,831艘,豊田郡が1,840艘と御調郡の3倍近い数であった」【4】。そして,享保期,単なる
避難港にすぎない兵庫県の今子浦の入津廻船486艘の構成は,「上方地方158艘,北陸・奥羽
地方143艘,四国地方74艘,山陰地方48艘,中国地方43艘,九州地方20艘となっている……
(これによって=引用者注)全体的な日本海廻船の動向を把握することができる」【5】とされる。
 天保期(1830年代)には,大坂への入津量が減少するというようにもなった。それにともな
い,菱垣廻船はもとより,樽廻船や従来南海路に就航していた幾内船も衰退するようになっ
た。それに対して,北前船はむしろ発達し,さらに山陰・中国の廻船が進出しはじめる。こうし
た状況のなかで,幕末をむかえるのである。
 幕末の主要航路の大型廻船の実態を,ずばり示す資料はみあたらないが,菱垣廻船45隻,
樽廻船100隻以上あったとされる【6】。北前船の実数は不明であるが,幕末から明治初期に酒
田港の避難港である飛島への入港隻数が,1,500−2,000隻にのぼっているので,その隻数は
1,000隻にも及んだとみられる。明治初期における日本形帆船は,1872(明治5)年において50
−500石が17,155隻,500石以上が1,485隻であった。その容積としての500石は,積石としては
約700石に相当するので,幕末において500積石以上の大型廻船は全国に1,500−1,600隻い
たことは確かである。

2 海運の近代化と政商資本【7】
(1) 明治初期の海運の状態
 開国そして明治維新を転機として,日本の資本主義化=近代化が進められていく。それは,
きわめて概括的にいって,資本・賃労働関係の創出と半封建的土地所有関係の形成を同時
的に進行させ,後者における収奪と軽工業や問屋制家内工業における搾取を基盤にして,国
家・国家資本の主導のもとで軍事産業=基幹産業を保護育成し,外国資本主義に対抗しなが
らも、それに政治的・経済的に従属し,そのもとでアジア諸国を植民地・半植民地とすることで
確立した。
 さらに,産業構造にそくしていえば,工業部門と農業部門,先進技術を移入した官営工場と
在来技術にとどまる民間工場や在来産業,繊維工業・鉱山業・鉄道業と機械工業・鉄鋼業の
不均等な発展,官営・政商企業の肥大化とその他の零細弱小性など,産業構造の不均等・分
断性として進行した。それを支持した条件は,本源的蓄積と産業革命の同時的な進行によっ
て生みだされたインド以下的な低賃金と肉体消磨的な労働,それを基盤とした繊維製品の輸
出,その反面としてのアジアからの原料・食料の輸入であり,そして天皇制国家の国民に対す
る専制支配であった。
 こうした日本資本主義の確立と構造は,海運産業においてはより直接的であつた。幕末の日
本海運は,すでにみたように,大小の廻船の就航する全国的・地方的な廻船網があり,主要な
国内貨物輸送機関として発達していた。そこでは,マニュファクチュア的在来産業として十分に
発達し,前期的ながらも資本・賃労働関係が形成されつつあった。しかし,それに使用される
船舶は汽船ではなく,沿海航路に堪えるだけの比較的に小型の大和形帆船であり,またその
ためもあって資本主義的な海運用役生産(public carriage)としては発達していたわけではなか
った。
 したがって,徳川幕府が1861(文久元)年に百姓町人に大船の建造,外国船の買入れ,その
運航を奨励し,翌年海外渡航の禁止を解除しても,また明治政府が1869(明治2)年西洋形風
帆船や蒸汽船の製造・買入れを奨励し,翌年「商船規則」において西洋形船への切替えとそ
の引立てを表明しても,海運・船舶の近代化が直ちに進展したわけではなかった。幕末,幕府
および西南雄藩は,それぞれの軍事的な必要から西洋形船を外国より購入していたが,明治
初年の藩有艦船は第1表でみたように軍艦21隻(木造帆船なし),運輸船85隻(そのうち木造
帆船27隻,汽船49隻,不詳9隻)であった。この藩有船が,当時の西洋形船のほぼすべてであ
った。そこへ,パシフィック・メイルなど,外国海運企業が乱入してきた。
 明治初期の殖産興業が官営事業の設立であったように,近代的な汽船による海運業の創設
もまた同様であった。1867(慶応3)年,徳川幕府は東京の廻船御用達・嘉納次郎作に幕府所
有汽船奇捷丸(517トン)を貸下げ,江戸・大坂間に毎月3往復の定期運航を命じた。1868(明治
元)年,大阪運上所は所属汽船浪華丸を大阪・横浜間に就航させた。翌年以降,北海道開拓
使は威臨(200トン)など西洋形帆船や汽船でもって,内地・北海道間の輸送をはじめた。これら
船舶は,一般の貨客を輸送しなかったわけではないが,主として官物輸送にあたっており,本
来的な海運業ではなかった。
 1870(明治3)年,明治政府は年貢米を輸送し,また外国船に対抗するため,半官半民の回
漕会社を設立し,政府・諸藩の汽船11隻でもって東京・大阪毎月各3回の定期運航を委託し
た。しかし,回漕会社,その後身の回漕取扱所も成功しなかった。そこで,明治政府は1872
(明治5)年目本国郵便蒸気船会社を設立し,廃藩置県で官有となった汽船18隻・帆船7隻を払
下げ,東京・大阪間に毎月12回の定期運航などを行なわせるとともに,各種の特権や保護を
あたえた。こうした中央政府の海運業の官業的な保護育成の他に,1869(明治2)年に紀ノ国
屋萬蔵は紀萬船(紀萬汽船)を設立し,紀州藩より汽船千里丸など6隻を借受け,神戸・横浜
航路を開設し,翌年には岩崎弥太郎は郵便汽船三菱会社の前身である土佐開成商社を設立
し,土佐薄から汽船夕顔丸(650トン)など3隻を借受け,東京・大阪・高知航路を開設し,また同
年には薩摩屋は島津藩から汽船豊瑞丸(300トン),寧盛丸などを借受け,神戸・鹿児島航路を
開設している。このように,本来的な海運業が設立されていったが,そのいずれもが半藩半民
的なあるいは特権的な経営として出発した。そのほか,東京・横浜・大阪・神戸・瀬戸内海など
輸送需要の多い航路に,かなりの小蒸汽船が就航するようになった。
(2) 保護会社・日本郵船の設立
 これら半官(藩)半民・特権的な海運業者は相互に,また外国船と競争しあったが,いまだ日
本資本主義が確立していない段階では十分に成長しうるものではなかった。そのなかで,三菱
会社は1874(明治7)年に台湾出兵が起ると,明治政府が急遽輸入した汽船13隻17,159総トン
の運航を委託され,政商となる機会をつかんだ。台湾出兵で海運の軍事的な重要性に注目し
た参議内務郷大久保利通は,経営不振の郵便蒸汽船会社と輸入汽船を処理するため,民間
有力会社による海運の育成とそれへの保護を建議した。それにもとづき,三菱会社は輸入汽
船13隻,蒸汽船会社の汽船15隻を無償払下げられ,また多額の航路補助金を交付されること
になった。これにより,三菱会社は「無類保護会社」となり,日本海運を跳梁するようになる。
 明治政府は,明治14年政変後の1882(明治15)年,東京風帆船会社などを母体にして共同
運輸会社を設立させ,多額の政府出資,営業資金の貸付け,多数の政府所有汽船(三菱会
社との合併時,汽船29隻28,010総トン,帆船10隻4,119総トン)の貸下げを行ない,三菱会社に対
抗させた。その間の競争ははげしくなり,明治政府は1885(明治18)年それらを合併させ,日本
郵船会社を設立させた。その資本金1,100万円,持船・汽船58隻64,610総トン,帆船11隻4,725
総トンであった。当時の汽船は,228隻88,765総トンであったので,日本郵船のトン数は約4分の3
に及び,その平均トン数は1,114総トンであって,その他の142トンを大きく上回っていた。このよう
にして,日本郵船は政商資本として初期独占となり,日本海運に超然たる地位を確保すること
となった。その他の海運業者は,経営の零細性と技術の在来性のなかにおしこめられていた。

3 国内主要航路の汽船輸送
(1) 海運企業の勃興・社外船
 1880・明治10年代後半に入ると,綿紡績,鉱山,鉄道を中心にして資本企業が異常なまでに
勃興するようになり,機械制工業の本格的な移植が行なわれるようになった。そして,日清,日
露戦争を画期として,軍事工業,製鉄業,造船業,鉱山業,機械工業が飛躍的に発展した。そ
れにより,跛行性や分断性をはらみながらも産業革命を終了して,日本資本主義は1900年代
(明治末期)において確立する。それにともない,国内における資本制的商品流通も拡大し,さ
らに外国貿易も拡大し,綿糸・綿織物,生糸・絹織物を輸出し,米,綿花,鉄,機械を輸入する
ようになる。このなかで,海運業においても,自生的な海運企業も成長しはじめ,国内海運市
場における汽船の比重も高まり,政商企業は外航海運へ進出するようになる。
 1877(明治10)年西南戦争を契機に,大阪を中心にして,多数の汽船船主が群生するところ
となった。それにくわえて,岡山,広島,丸亀,和歌山,徳島,淡路で,1,2の汽船会社が設立
される。しかし,松方デフレーションによってたちまち船腹過剰となり,運賃切下げ競争が行な
われるところとなった。1881(明治14)年,大阪汽船取扱会社という運賃同盟(コンファランス)
が設立されるが,成功しなかった。その後紆余曲折を経て,1884(明治17)年に大阪商船会社
が設立される。それに参加した船主55人,汽船93隻15,375総トンであった(帆船はなし)。そのう
ら500トンを超えるのは光運丸1隻だけであった。大阪商船会社は,日本郵船,東洋汽船ととも
に,1896(明治29)年の航海奨励法の航路補助金などの保護を受け,社船企業として大きく成
長していく。
 1879(明治12)年,三井物産会社は三池炭を輸出するため海運業を創業し,1886(明治19)
年浅野回漕船(後の東洋汽船),1888(明治21)年摂津灘興業会社が設立され,また同年広海
二三郎(後に広海汽船)が汽船を購入するなかで,汽船が広く導入されはじめ,初期社外船が
形成されるところとなった。これら社外船は,1892(明治25)年に日本海運業同盟会を結成す
るまでになった。その当時の有力社外船主は,第9表にみるように,三井物産,浅野総一郎,
広海二三郎,摂津灘興業,浜中八三郎,大家七平であった。それら社外船社の合計船腹35
隻41,155総トンは,1893(明治26)年の日本汽船船腹400隻167,490総トンの24.6%にあたる。この
ように,社外船の進出はめざましいものがあったが,当時の社船船腹は日本郵船45隻64,157
総トン(1891・明治24年に帆船全廃),大阪商船51隻17,875総トンであり,社外船の2倍にあたっ
ていた。それら社船・社外船だけで,日本汽船船腹の隻数で3分の1,トン数で4分の3を占めて
いたのである。
(2) 汽船の主要航路の支配
 海運の近代化は,国内航路に汽船を投入し,その輸送の規則化,迅速化,安全化を達成さ
せた。それは,一面では在来の日本形帆船を後退させ,他面では外国船(主としてパシフィッ
ク・メイルやP&O会社)を国内市場から駆遂する過程となった。すでにみたように,明治初期の
半官(藩)半民会社は太平洋岸の主要航路に汽船を投入して,その定期運航を開設してき
た。そのなかで,三菱会社は政府助成金を受けて,主要な定期航路を拡大し,独占していっ
た。それに対して共同運輸が設立され,ダブル・トラックとなって競争が起る。他方,大阪商船
の母体となった船主や,三井物産などを除く社外船は,輸送需要の多い瀬戸内海航路を中心
に,汽船や西洋形帆船を投入して,伝統的な輸送シェアを維持し,さらにはそれを拡大しようと
していた。しかし,日本郵船と大阪商船が設立されたことによって,日本の主要な定期航路は
独占されたため,社外船の成長は制約されざるをえなかった。
 日本郵船などの汽船が,主要航路で伝統的な帆船を駆遂した状況については十分に調査さ
れていないが,たとえば川野宗太郎氏の『自伝』がよく利用される。「日本郵船が帆船より漸次
に汽船に改めて,海運界に勢力を伸張し初めた……灘及び大阪と東京間との荷物を自然の
勢いで吸集するので,帆船に積む荷主は漸次減少して行った……殊に大阪の広海氏所有汽
船『北陸丸』が灘方面へ浸入して来て,自家所有船のない醸造家の酒を運び初めたことは…
…非常な衝動と刺激を与へた」(同115−117ページ)。
第9表 1893(明治26)年当時の社船・社外船
隻数 総トン数
社船
日本郵船
大阪商船
合計

45
51
96

64,157
17,875
82,032
社外船
三井物産
浅野総一郎
広海二三郎
摂津灘興業
浜中入三郎
大家七平
右近権左衛門
三菱合資
馬場道夫
入馬兼介
その他9社
合計

7
4
4
3
2
2
1
1
1
1
9
35

11,101
5,116
3,782
3,632
3,091
2,675
1,326
1,274
1,004
701
7,453
41,155
資料:1)社船,各社社史。
   :2)社外船,畝川鋲久『海運興国史』
262−264ページ,1893年ごろと推定。

 1903(明36)年の日本郵船の国内航路は,神戸・小樽東廻線,神戸・小樽西廻線,神戸・四
日市線,青森・室蘭線,同直航線,函館・青森線,基隆・神戸線,横浜・小笠原線,函館・根室
線,根室・網走線,根室・紗那線,函館・小樽線,稚内・網走線,小樽・稚内線,その他(不定
期)で,投入船腹は31隻56,990総トンであり,定期航路のほとんどは逓信省,北海道庁の命令
航路であった(なお,外国航路の使用船腹は36隻167,206トンであった【8】)。また,1907(明治
40)年の大阪商船の国内航路は,大阪・鹿児島線,大阪・敦賀線・大阪・境・安来線,萩・下関
線,大阪・宿毛線,大阪・内海線,大阪・熱田線,大阪・高知線,大阪・三輪崎線,大阪・高松
線,大阪・田浦線,大阪・徳島線,大阪・由良線,宇品・高浜線,五島・多度津線,高知・田浦
線,高知・宿毛線,尾道・別府線,大阪・沖縄線,大阪・基隆線であり,使用社船64隻(約50,
000トン,推定)であった(なお,ほぼ同量の船腹が近海航路に就航していた)【9】。
 このように,江戸時代より発達して来た国内の主要な幹線航路には1900(明治33)年ごろま
でに汽船が投入され,しかもそれらが日本郵船と大阪商船によって独占されつくしたのであ
る。それら汽船がどのような貨物を輸送したかは詳細不明であるが,それは明治末期に増加
した石炭,石油,鉄,木材,肥料といった低価格の嵩高貨物よりは,むしろ在来の大型廻船が
輸送していた穀類,海産物,砂糖,繊維など高価格の小口貨物であったとみられる。

4 帆船船主の近代化と没落
(1) 鉄道の敷設と海貨の陸送転移
 日本海運の近代化が,政府・政商資本の主導のもとで押しすすめられ,国内の主要な幹線
航路には汽船が就航して,次第に従来の日本形帆船に取ってかわり,またそれが輸送して来
た貨物を奪っていった。他方,1872(明治5)年宿駅・助郷制度が廃止され,内国通運会社が設
立され,馬車による道路輸送がはじまるが,それと同時に近代的な鉄道も建設されることとな
った。日本の鉄道は,同年の品川・横浜間の開通にはじまる。その後停滞するが,明治20年
代後半の鉄道熱のなかで幹線網が建設されだし,1906(明治39)年鉄道国有法が制定され,
軍事的な必要から鉄道の一元的な支配が実施される。海運と競合する主要幹線は,1889(明
治22)年新橋・神戸,1891(同24)年上野・青森,1893(同26)年上野・直江津,1898(同31)年
長崎・門司,1901(同34)年神戸・下関,1905(同38)年福島・秋田・青森,1908(同41)年米原・
魚津,1912(同45)年京都・出雲今市というように、順次全通する。
 このように,日本の鉄道も海運と同様に急速に近代化が進められたわけであるが,一部の
石炭鉄道などをのぞき,旅客輸送が中心であった。1896(明治29)年の輸送量は,官設鉄道
128万トン,私設鉄道566万トン(無賃輸送を含む)であったが,日本郵船は170万トン,大阪商船56
万トンであった。また,1913(大正2)年の輸送量は鉄道4,123万トン,海運3,026万トン(主要港の集
計)であった。したがって,国内貨物輸送は明治末期までは,海運に大きな役割をはたしてい
る。それでも,鉄道網と貨物輸送が整備され,鉄道運賃体系が改善されるにつれて,鉄道貨
物は海運貨物を上回る伸びをみせるようになった。
明治期における海運・鉄道の品目別輸送量や分担率は容易に知りえない。鉄道国有後の鉄
道の輸送品目(明治40年代)は,石炭43%,木材9%,米5%,豆粕・海産肥料3.4%,木炭2.8%,麦・
大豆2.1%,石材2%,鉄・鋼・銅1.3%であった。海運から鉄道への転移の結果をみると,東京着の
木材は1913(大正2)年には鉄道77%,海運21%となり,また大阪着の米は水運57.9%,鉄道42.
1%,東京着の米はそれぞれ44.2%,55.8%となった。肥後米の輸送は,1898(明治31)年には海
運67.9%,鉄道30.1%であったが,1911(明治44)年に関門間貨車輪送が実施されたところ,それ
ぞれ42.0%,52.7%に逆転した。北陸地方の米は,鉄道の発達とともに,それに転移し,海運は
北海道向けに限定されるところとなった【10】。なお,石炭輸送については,後述する。
(2) 大型廻船の衰退と転換
 汽船そして鉄道の発達は,国内貨物輸送の機械化であった。江戸時代からの日本形帆船
は,その生産性がいちじるしく低いため,その輸送需要を次第に奪われ,後退を余儀なくされ
た。その過程で,帆船船主は汽船船主に転換するか,それとも転廃業するかを求められた。こ
の階層分解は,江戸時代において大型船を幹線航路に就航させ,主要な貨物を輸送して来た
菱垣廻船,樽廻船や北前船の船主および地方の有力船主においてあらわれた。それ以外の
小型船や地方の船主は,汽船や鉄道が未発連な航路に就航しつづける。これについては,後
述する。
 菱垣廻船,樽廻船は,すでに幕末かなり衰退していたが,半官半民会社の汽船と外国船の
就航とともに「急激に没落しおおむね,明治10年代前半に其影を絶つにいたった」とされる。そ
の過程で,1886(明治19)年設立の大日本同盟風帆船組合や翌年設立の灘盛航社は,汽船
の出現のなかでの樽廻船グループの「所有帆船隊の延命策」にすぎず,1888(明治21)年に著
名な酒造家によって設立された摂津灘酒家興業会社も,購入汽船による「灘酒輸送確保のた
めの防衛的且っ自己輸送的性格のものであった」。明治30年代初めにおいて,「純粋土着の
阪神船主,なかんずく,菱垣廻船・樽廻船の流れを汲むものとしては,摂津灘興業会社・盛航
会社・(両社の合併によって出来た=引用者注)摂津航業会社・八馬兼介・辰馬商会を認め得
る」にすぎなかったとされる【11】。そのかぎりで,菱垣・樽廻船の船主のうち,有力な酒造家で
ある船主のみが西洋形帆船や汽船を導入することで,その自己製品輸送としての海運業を維
持しえたにとどまり,その多くは没落したとみられる。
 しかし,すでにみたように,1884(明治17)年に大阪商船が,関西の小汽船船主55人によって
設立されている。それらが,どのような系譜の船主であったかは解明されていない。そのなか
に,江戸時代より他人貨物輸送として活躍し,汽船を購入しうるだけの資産をもっていた廻船
船主がいなかったとするわけにはいかないであろう。すでにみたように,明治10年代に瀬戸内
海航路で小型ながらも汽船化が進み,それが船腹過剰にまでなった。住友家(財閥)の仲介を
えて,弱小船主が企業合併を余儀なくされ,その自立性を失うなかで設立されたのが,大阪商
船である。大阪商船の設立前後には,山口県の共栄社,愛媛県の宇和島運輸・伊予汽船,大
阪の共同組,和歌山県の日本共立汽船,福岡県の大川運輸,徳島県の阿波国共同,高知県
の高知郵船など【12】,地方の有力帆船船主の汽船共有経営とみられる企業が設立されてい
る。それら船主は大阪商船と競争しあう。その過程で,それ以外の伝統的な帆船船主は,汽
船への転換の可能性を奪われ,そして模擬合の子船にも挟撃されて,没落していったとみら
れる。それを決定的にしたのが,1889年の東海道線,1901年の山陽線といった長距離鉄道の
開通であった。
(3) 北前船の活躍と衰退
 それにくらべ,北前船は,明治中期まで活躍する。それは北海道が開拓され,それへの移出
入貨物が増加したのにくらべ,それら航路への汽船の投入が遅れ,また鉄道も急速には発達
せず,帆船の活躍の余地が大いにあったからである。北前船主は,1,000積石の大型帆船や
西洋形帆船を投入し,買積み輸送としての海運業を維持していった。北海道へは東北,北陸
から米,木綿,縄,塩,雑貨を移出し,それから東北,北陸そして瀬戸内海へ身欠鰊,塩鮭,メ
粕を移入した。この分野での隆盛と凋落をまざまざと見せつけたのが,西村屋忠兵衛であった
【13】。
 有力な北前船船主は従来の日本形帆船に加えて,汽船や西洋形帆形を購入し,買積み輸
送ばかりでなく,他人貨物輸送にも乗り出していく。1880(明治13)年,福井県三国の前田閑は
三国丸(111総トン)などを購入して,三菱会社と同じ金谷・敦賀航路を開設している。翌年に
は,富山県の有力船主が北陸通船会社を設立し,秋津丸などを購入し,伏木・直江津航路を
開設している。1886(明治19)年には,越中汽船会社,伏木汽船会社などが設立され,地方航
路の汽船化が進んでいる。また,広海二三郎(のちの広海汽船)は,1888(明治21)に北陸丸
(614総トン)を購入して以降,1903(明治36)年には汽船6隻にまで増加させている。馬場道久は
1889(明治22)年,南島間作は翌年,大家七平は翌々年に汽船を購入している。このように,
有力な北前船船主は企業勃興期のなかで汽船を積極的に採用し,初期社外船を構成した
【14】。
 しかし,明治30年代中頃になると,日本郵船や大阪商船の定期航路が整備され,賃積み輸
送が安全・確実になり,鉄道や電信の発達により現地買付けや価格の照会が可能になり,そ
して地方の汽船が増加するにつれて,北前船とその買積み輸送は衰退せざるをえなくなった。
そして,1896(明治29)年敦賀・福井,1899(明治32)年敦賀・富山の開通,1905(明治38)年福
島・青森の全通や,北海道の鰊の漁獲や農業の魚肥使用の減少(化学肥料への転換)などに
より,決定的な打撃を受けることになった。そのなかで社外船企業となった一部少数の船主を
のぞき,まず500積石以上の大型帆船が急激に減少しはじめ,そして汽船船主をもまきこん
で,北前船船主は他の地方にくらべ全層的に没落していった。有力な北前船船主は,従来か
ら兼業していた高利貸,銀行業,水産業(北洋漁業),電力業,倉庫業,醸造業を専業するよう
になり,また大小の単なる地主になっていった【15】。

5 海運近代化の跛行性
(1) 汽船の急増と帆船の残存
 日本における海運の近代化は,明治政府が日本郵船,大阪商船といった政商資本を上から
保護・育成していくことを基軸にし,それに圧迫された伝統的な帆船船主の一部上層が汽船船
主に転換していくなかで,押し進められた。それは,江戸時代から幹線航路に就航していた菱
垣廻船,樽廻船,北前船など大型帆船の海運市場を奪いさり,それら船主を没落させる過程
となった。この過程は鉄道の発達によって促進された。この急激な汽船の投入による海運の
近代化は,幕末にマニュファクチュア段階にあった帆船海運業が,汽船海運業に自生的に転
化する機会を奪った。それにもかかわらず,汽船は帆船を駆遂するにいたらず,伝統的な帆
船船主も完全には没落せず,新しい型の帆船やその船主が生まれるなかで,帆船海運業は
地場産業との結びつき,地方航路に活躍しつづけた。その規模は,けっして小さなものではな
かった。
 明治初期の商船船腹は,第3表でみたように,きわめて多数の日本形帆船ときわめて少数
の汽船でもって出発した。その後,汽船が増加するが,帆船は停滞する。1900(明治33)年の
船腹構成(登録船・不登録船の合計)は,汽船1,329隻543,365総トン,西洋形帆船3,850隻320,
572トン,日本形帆船18,796隻278,511トン相当だった。その翌年,汽船のトン数は帆船を上回るこ
ととなった。しかし,その後,日本形帆船は減少するものの,合の子船を主体とする西洋形帆
船が増加しつづけ,それら帆船は少なくとも1940(昭和15)年までは減少することはなかった。
それら帆船が全船腹に占める比率は,1910(明治43)年37%,1620(大正9)年32%,1930(昭和
5)年26%と低下していくが,その地位は決して低いものではなかった。
 明治前・中期において,日本船腹のなかで大きな比重を占めていた日本形帆船は,第4表
みたように,汽船や西洋形帆船の出現による圧迫や合の子船の切替えのなかで,500石以上
が大幅に減少していく。しかし,それ以下の日本形帆船は,明治年間増加しつづける。それに
対して,西洋形帆船は第5表でみたように1900年以来合の子船が加わって増加するが,その
主たるトン数階層は20−100総トン層と100−500トン層であった。しかし,明治末期からは20−100
トン層の増加がはげしく,大正以降は西洋形登録船の主要な部分となり,戦中までつづく。20−
100トン層は,江戸時代の積石数でいえば約280−1,400石にあたるので,大正期の帆船は江戸
時代の大型船のクラスが増加しつづけたことになる。他方,汽船の20−100総トン,100−500トン
層の船腹量の推移は,第8表の通りであった。それら階層の汽船は,どの時期をとってもまた
隻数,トン数をとっても西洋形帆船を下回っている。西洋形帆船が,それら階層に占める比率
は1900(明治33)年78%,1910(明治43)年75%,1920(大正9)年約85%,1930(昭和5)年約82%と
いう高さであった。
第10表 明治期の帆船保有上位10県の推移
西暦
明治
順位
1881
(14)
隻数 トン数
1895
(28)
隻数 トン数
1900
(33)
隻数 トン数
1910
(43)
隻数 トン数
1位

2位

3位

4位

5位

6位

7位

8位

9位

10位
石川
1,589 41,475
兵庫
1,513 29,521
愛知
9882 5,663
愛媛
1,539 24,920
大阪
383 21,017
広島
1,441 20,952
山口
1,286 19,429
静岡
479 14,399
新潟
725 14,358
東京
316 14,292
兵庫
1,783 28,211
広島
1,504 27,055
山口
1,266 24,268
大阪
4322 3,980
長崎
864 20,651
愛知
874 19,254
愛媛
874 16,956
東京
680 16,085
和歌山
672 13,013
富山
474 11,806
広島
2,069 62,206
山口
2,043 60,021
愛媛
1,211 41,119
兵庫
1,753 34,151
福岡
806 33,430
長崎
885 29,586
愛知
1,038 25,834
東京
889 21,775
静岡
351 19,739
和歌山
764 17,700
広島
2,705 97,758
山口
2,852 77,291
福岡
1,532 59,038
愛媛
1,552 43,677
東京
1,075 37,792
愛知
1,908 33,347
兵庫
2,474 33,268
神奈川
1,138 26,840
大阪
609 26,410
長崎
803 25,329
小計 10,259 226,026 9,423 201,279 11,809 345,561 16,648 460,750
全国
18,671 354,801
18,062 337,559
22,646 599,083
29,035 727,857
資料:第2表に同じ。
注1)西洋形,日本形帆船の登簿・不登簿船の合計。
  2)第2表注1)に同じ。
  3)福岡県1881年419隻4,132トン,1895年474隻11,338トン。

 明治以降における内航船腹とその構成についての統計はないが,すでにみたように1903(明
治36)年の日本郵船の内航船腹は31隻56,990総トン,平均1,839トン,1907(明治40)年の大阪商
船のそれは64隻約50,000トン,平均781トンであった。したがって,明治末期における内航船腹と
その構成は,20−1,000トン層の汽船1,365隻228,960総トン(そのうち郵船・商船の大型汽船約
100隻10万トン),20トン以上の西洋形帆船4,958隻390,796トン,同じく日本形帆船2,098隻71,990トン
相当ということになろう。すなわち,少数の大型汽船を頂点にし,ひじょうに多数の小型帆船と
で構成されていた。それが戦中までの基本構成であった。なお,西洋形の帆船の新造船は,
毎年およそ船腹の5%ぐらいが建造されている。なかでも,日露戦争や第1次世界大戦の時に,
大量に建造されている。
 最後に,明治期の西洋形・日本形帆船の府県別推移を,第10表でみてみると,1881(明治
14)年から1895(同28)年にかけて,北前船が多かった石川県と新潟県の減少,そしてわずか
の船腹量しかなかった福岡県の増加が特徴的である。その間,いち早く西洋形帆船に転換し
た兵庫県,大阪府,東京都や,小型日本形帆船の多い瀬戸内海諸県はその船腹を保持しつ
づける。しかし,1900(明治33)年から1910(同43)年にかけて,広島,山口,愛媛,福岡県の伸
びはいちじるしく,その他の伸びは停滞的となる。それにともない,広島,山口,愛媛・福岡県
が全船腹に占める比率は,1881年19.6%,1895年23.6%,1900年32.8%,1910年38.2%と上昇す
る。このように,明治期における帆船保有県は,菱垣廻船や樽廻船,北前船を保有した伝統
的な府県から,そうではない瀬戸内海県へと変移しつづけ,戦中にいたるのである。
(2) 内航海運の近代化の意味
 三和良一氏は,明治期の海上輸送について統計的分析を行ない,まず明治初期について
「明治10年頃までは大和型帆船時代,10年代を西洋型帆船時代,20年以降を汽船時代と把
握すると…20年代未で,…海上輸送の近代化は,一応完成してみてよかろう」【16】とする。こ
の見解は,それぞれの船型の増勢傾向でもって判断してのことにすぎない。汽船のトン数が日
本形帆船の換算トン数を上回るのは,確かに1895(明治28)年であるが,そのときの西洋形帆
船は日本形の4分の1にすぎない。したがって日本形帆船時代は,他の船種のトン数の対比に
おいて,明治20年代中頃までつづいたというべきである。
 その後について,三和氏は合の子船が西洋形に算入されたことをふまえたうえで,日本形帆
船は「明治31,2年頃,西洋型帆船トン数に追い抜かれることになり,明治30年代以降は,沿岸
航路における内航海運の主力は,(帆船にかぎって=引用者注)西洋型の帆船に移行したと見
てよかろう」【17】としている。それはよいとして,汽船との関係ではどうなるかについて直接に
はのべていないが,1910(明治43)年の内航船舶の入港トン数に占める汽船の比率が84%に及
んでいるとの統計をかかげ,帆船の地位を低く描いている。たしかに,汽船は帆船にくらべ高
い生産性をもっているが,それを就航隻数や1港当りの輸送トン数を考慮しないで,入港トン数だ
けで比較することは危険である。すでにみたように,汽船と帆船とが競合するようなトン数階層
における西洋形帆船の増勢傾向はおとろえず,それが占める比率も高く維持されている。した
がって,内航海運においては船舶の近代化は完成せず,明治20年代から戦前まで,汽船の優
位はあらそえないものの,汽船と帆船の併存時代がつづいたとみるべきである。
 こうした船舶の近代化をふくむ海運の近代化について,多くの論説は半官半民会社や特定
政商会社の保護育成により近代企業が形成され,それが汽船を採用したことに着目し,まず
内航海運において外国海運企業を対抗しながら航権を確保し,さらに外航海運に乗りだしたこ
とにおいて海運の近代化が達成されたとし,それ以上についてふれない見解が多い【18】。そ
こでは,近代海運が殖産興業として育成され,日本経済を支配する政商資本の一環となり,軍
事的な役割をもっていたことなど,いちおう特殊日本的な性格についてふれられているが,そ
れ以上のものではない。たとえば,加地照義氏は「わが資本主義には一方に高度に発達をと
げた少数の巨大企業があり,他方には封建制を払拭せざる広汎な零細企業,零細農が存在
して,これが財閥発展の土壌となり基盤となった……このことは海運業に於ても同様で……郵
船・商船の如き国家の手厚い育成政策を受けた巨大企業の下に,多数の所謂一杯船主が存
在するに至るのであるが,ここでは詳論はさける」【19】としている。
 それに対し,いくつかの文献は海運の近代化の過程における大和形廻船とその船主の変転
を扱っており,その市場が汽船に浸蝕され,それに抗して一部船主が西洋形帆船や汽船を導
入した過程を実証的に解明している【20】。しかし,それは加地氏のような問題意識にたって接
近されていないため,明治期において日本形帆船が残存し,明治中期より西洋形帆船として
独自な発達をみせたことについて,本格的な分析までは及んでいない。なお,下條哲司氏は日
本海運業近代化の類型として,武士的な企業(いわば社船企業),商人的な企業(社外船企
業)のほかに,農民的な企業(一杯帆船船主)をあげているが,その近代化過程は「明治末期
より大正を通じ,あるものは昭和時代までかかって,やっと……完成する」【21】というように,
海運の近代化を船舶の近代化に短絡させる議論にとどまり,日本形船舶としては衰退した
が,合の子船として残存した経済的な意味あいまでは分析がおよんでいない【22】。
 このように,日本における海運の近代化あるいは産業革命にかんする本格的な研究は,今
後の課題となっている。それにあたって重視すべき論点は,在来産業である廻船船主の衰退
過程はもとより,その系譜をひく船主や新興船主が日本資本主義の本源的蓄積と産業革命の
同時的な過程において,どのように残存し,拡大再生産されたかを解明することであろう。海
運の近代化は,その経過からいえば内航海運からはじまり,その成果のうえに立って,外航海
運へと移行した。その場合,在来産業であった大型廻船やその船主の自生的な発展ではな
く,特定少数の政商保護企業が一挙に汽船を導入することではじまった。マニュファクチュア段
階の在来産業に,機械制工業段階の近代産業が割込んできたのである。そこで,その優劣は
あきらかであり,大型廻船がもっていた国内市場は汽船とその企業によって奪われることにな
り,その一部船主は西洋形帆船や汽船を採用して,その経営を維持しえた。しかし,その多く
は明治中期にかけて没落を余儀なくされた。その点で,海運の近代化は在来産業の破壊のう
えに立って,はじめて達成されたといえる。
 それにもかかわらず,汽船企業は内航海運を完全に支配するまでにいたらず,地方航路に
おいては在来産業の系譜を引く多くの日本形・西洋形帆船が残存し,日本資本主義が産業革
命を完成した明治後期よりむしろ独自な発達をみせる。内航海運の近代化は,一方に機械制
工業段階にある少数の汽船と,他方にマニュファクチュア段階にある帆船が併存しあうという,
跛行性と二重性のもとで進行したのである。したがって,日本における海運の近代化という場
合,内航海運の近代化の跛行性や二重性について,その実態や規定要因に立ちいって分析
することで,はじめてその本質をつかみうる。それは,日本における産業革命の性格を,海運
産業という部門において解明することになる。それに少しでも接近することが,われわれの当
面の課題である。

【1】 この節については,豊田武他『交通史』,山川出版社,1970,松好貞夫『日本輸送史』,
日本評論社,1971などを参考にした。
【2】 林玲子「近世」『日本輸送史』157ページ。
【3】 渡辺信夫「流通経済の発達と海運」豊田武他『交通史』312ページ。
【4】 同上 323−324ページ。
【5】 同上 325−326ページ。
【6】 林注【2】129ページ。
【7】 この節については,加地照義「日本資本主義の成立と海運」『海運』273−288号,1950.6
−1951.6,富永祐治『交通における資本主義の発達』岩波書店,1953,佐々木誠治『日本海運
競争史序論』,同『日本海運業の近代化』海文堂,1961,『日本郵船株式会社70年史』1956,
『大阪商船株式会社80年史』1966,全国内航輸送海運組合編『内航海運の年表』1977などを
参考にした。
【8】 『日本郵船70年史』95ページ。
【9】 『大阪商船80年史』256ページ。
【10】 この部分は松好貞夫注【1】を参考にした。
【11】 この部分は佐々木前掲『日本海運業の近代化』158−160ページを参考にした。
【12】 『大阪商船80年史』17ページ。
【13】 西村屋については,西村通男『海商三代』中公新書,1964がある。
【14】 佐々木前掲書は,北前船船主の近代化の事例として,広海二三郎を詳細に分析してい
る。
【15】 北前船船主の転廃業の状況については,牧野隆信『北前船の時代』,教育社,1979に
詳しい。
【16】 三和良一「海上輸送」『日本輸送史』397ページ。
【17】 同上407ページ。
【18】 富永注【7】著書や加地注【7】論文。
【19】 加地注【7】論文,『海運』273号,5ページ。
【20】 佐々木注【7】著書や下條哲司「日本形船舶の衰退過程における日本海運業近代化の
三類型」『経済経営研究』28巻1号,1978.3。
【21】 下條同上165ページ。
【22】 なお,四国地方総合開発調査所『瀬戸内海を中心とした機帆船輸送の経営構造とその
問題点』7ページ,1955は,「明治維新以後に於ける我国海運業の発達は,藩閥及至政商的な
大手汽船会社,諸物品問屋に渕源して上昇発達した地方汽船会社,及び諸物品問屋の支配
下にあった帆船船主の3つの系統から形成されており,そのうち前2者はいわゆる近代的な経
営方式をとり,船会社として発展しているが,後者の帆船船主層からのものは2,3の例外を除
く外は,その殆んどが機帆船業者として残存している」とのべているが,それ以上の追及はみ
られない。

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