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1・1・1 エジプト―外国人商人に依存―

▼海上交易に関する情報▼
 古代エジプトの優に3000年にも及ぶ歴史のなかで、様々な遠征や交易が行われ、それによって様々な略奪品や貢納品、贈答品、交易品が輸出入されたことであろう。古代エジプトの海上交易に関わりのありそうな史実を、年表風にたどってみよう。
時代・王朝
記事
先王朝時代
(前4200-3000頃)
前4500年頃、四角い帆とオールを持ち、船首と船尾が高くせり上がった木造船があっ
た(『世界全史』、p.30、参照)
初期王朝時代
(前3000-2650頃)
先王朝時代末、北はパレスティナ、南はヌビアとの遠距離交易が確立、「植民地」とともに、交易圏が拡大する。
古王国時代
(前2650-2180頃)
第4王朝
スネフェル王(在位前2575−2551頃)、レバノンから40隻分の杉材を輸入(吉村作治編著『エジプト』、p.321、実業日本社、ほか)
クフ王(在位前2551−2528頃)の大ピラミッドの舟抗に入れられていたクフ王の船は、レバノン杉で作られているという(図版:『世界全史』、p.38、参照)
第5、6王朝
シナイ半島、西アジアやプントへ、数次の遠征(大貫良夫他著『世界の歴史』1、p.412、
岩波書店、1998)
ペピ2世(在位前2246−2152頃)治世、プント遠征のため紅海で船を建造中、官僚が遊
牧民に襲われる(前出『世界の歴史』1、p.415)
中王国時代
(前2040-1785頃)
第11、12王朝
前2000頃、メンチュヘテプ2世(在位前2010−1998頃)、同3世(在位前1998−1991
頃)の治世、プントに交易遠征隊を派遣(前出『世界の歴史』1、p.431)
アメンエムハト3世(在位前1844−1797頃)治世、エジプトの交易範囲がアナトリア、バ
ビロニアまで広がる。前1400年頃まで、フェニキアを勢力下におく(同上、p.440)
ナイル河の支流と紅海との間に、運河が掘削される(旧版『世界の歴史』1、p.398)
新王国時代
(前1565-1070頃)
第18王朝
前1490年頃、トトメス3世の摂政ハトシェプスト女王(在位前1473−58頃)は、プントヘ
遠征交易隊を派遣、クレタ島との交易を再開(前出『世界の歴史』1、p.465-466)
前1468年頃以降、トトメス3世(在位前1479−25頃)は17回のアジアに遠征、フェニキ
アの港を制圧して海路で遠征、シリア・パレスティナを植民地とする(同上、p.468、ほ
か)
末期王朝
(前750-305頃)
第27王朝
前600年頃、ネコ2世(在位前610-595)、フェニキア人をして、アフリカ就航に向かわせる、紅海を結ぶ運河を建設し始める
前521年 ダレイオス1世(在位前522−486頃)、紅海を結ぶ運河を完成させる(吉村作治編著『エジプト』、p.289、ほか)
プトレマイオス朝
(前304-前30頃)
前331年、アレクサンドロス在位(前336-323)、アレクサンドリアを建設、その後、世界
最大の交易港になる
 エジプトは一目してナイル河と生死をともにしている。したがって、早い時期からパピルスの葦舟以外に、帆とオールを持つ木造船が明瞭に登場していたことは、当然といえば当然である。
 古代エジプトでは、先王朝時代の末期になって、北はパレスティナ、南はヌビアとの遠距離交易が確立したとされる。パレスティナとは「ホルスの道」と呼ばれるシナイ半島沿いの海岸ルート、ヌビアとはナイル河沿いのルートでもって交易が行われるようになった。
 初期王朝時代、古代エジプトという国家が形成されると、南北にその勢力を拡げる。それら地域を「植民地」として扱い、交易網を拡大する。古王国時代、鉱物資源を積極的に獲得しようとして、遠征隊が繰り出される。また、パレスティナとの交易はますます盛んになり、ビブロスが西アジアとの交易拠点となる。
 古王国時代から中王国時代にかけて、「たとえば金を求めてワディ・ハンママートやヌビアのワディ・エル=アラキヘ、銅を求めてシナイや東部砂漠、ヌビアへ、鉛を求めて紅海沿岸へ、みょうばんを求めてエル・カルガ・オアシスへ、孔雀石とトルコ石を求めてシナイヘ、そして、アメジスト、めのう、重晶石、天河石、水晶やその他の鉱物を求めて東部砂漠のさまざまな場所へと、出向いていった」。
 それらの遠征には、「二つの偉大な艦隊における神の印璽官あるいは単に将軍という称号をもつ役人に率いられ、その下には、艦隊指揮官、艦長、海軍将校のような海軍式の称号を持つ役人たちや、採石作業監督官、ヌビア人護衛隊指揮官などが従った」(エヴジェン・ストロウハル、内田杉彦訳『図説古代エジプト生活誌下』、p.77、原書房、1996)。ただ、それら遠征は交易を維持することにあり、軍事遠征ではなかったとされる。
 前1730年頃における異民族ヒクソスの侵入は、エジプトを大転換させる。異民族を駆逐した新王国時代、エジプトはオリエントの国々と覇権を争い合う好戦国家となり、最大級に対外膨張するようになる。そのなかでオリエントの国々との交易が拡大し、エジプトにも商業が生まれたとされるようになる。しかし、エジプトの国力は疲弊しはじめる。他方、商業を掌握した神官団の富裕化が進み、政治社会に混乱が起き、異民族の支配を受ける地域となっていく。
 なお、プトレマイオス朝時代、アレクサンドリアは世界最大の交易港になるが、エジプトは相変わらず単なる農業国にとどまり、交易国となることはなかった。アレクサンドリアが世界最大となったのは、主としてアジア・地中海交易の中継地としての拡大であった。
▼海上交易の範囲、プントはどこか▼


古代エジプトの最大版図
ナケ編『世界歴史地図』、p.45、三省堂、1995
 前1450年頃、トトメス3世の治世、古代エジプトは最大版図となり、北はフェニキアを超え、ユーフラテス河から、南はナイル河の第4急湍まで広がった。そのうち、エジプトは、ヌビア、リビア、シナイ半島、シリア、パレスティナ、そしてアナトリア、クレタ島などが、交易範囲であったとみられる。それらのうち、海上交易地はプント、シリア、パレスティナ、アナトリアの一部、クレタ島とみられる。
エジプトは、古王国時代から様々な遠征や交易を行っているが、その基本的性格について、屋形禎亮氏はエジプトが天然の要害に守られたナイルの谷のなかにあり、外敵の脅威を受けにくい、それが行う隣接部族への遠征は「交易のため、あるいは交易路の確保のための小規模な軍隊を派遣するだけでよかった」と述べている(三笠宮崇仁編『生活の世界歴史』1、p.180、河出書房、1976)。この指摘は重要であろう。
 その上で、その遠征が長い歴史のなかで特記され、かつ何次にもわたり、そして海上経由にならざるをえなかったプントの位置が、何とも心許ないこに、不明なのである。通常、アフリカの東海岸、そのなかでもソマリアとされてきた。また、それは古代エジプト人がアラビアやソマリランドに与えた言葉とされてきた(ジャン・ヴェルテール著『古代エジプト』、p.68、白水社、1990)。最近の研究では、「スーダン南部から[北エチオピアの]エリトリア北部付近の紅海沿岸地域」(吉村作治編著『エジプト』、p.214、実業日本社、1997)とか、「エチオピアの奥地までを含む広い地域と考えられている」(吉成薫著『ファラオのエジプト』、p.132、廣済堂、1998)とかのようである。
 中王国第12王朝について、加藤一朗氏はその時代は「また、軍隊と隊商との遠征の時代でもあった。この2つは、通常、共同の作戦をとらねばならなかった……上エジプトのコプトスから、紅海のコセイル[クセイルともいう]に通ずる隊商路に沿うワディ・ハママト[ハンママートともいう]の石切場がさかんに利用された。また、この隊商路を通じて香料を求めるために、ソマリランド海岸の「神の国」プントヘも、しばしば遠征隊がおくられた」という(貝塚茂樹編、旧版『世界の歴史』1、p.399、中公文庫、1974)。アフリカには、ポルトガル人探検家が目指してきた「プレスター・ジョン伝説」によるキリスト教国以外に、「神の国」があったようである。
 ハトシェプスト女王の遠征について、屋形氏は「女王は、対外政策において軌道修正を行った。アジアへの対外遠征は行わず、採掘、採石および交易のための遠征隊がさかんに派遣された。アジアよりむしろアフリカとの交易を重視し、平和外交に徹した。このことを象徴するのが、治世9年になされた中王国以来中断していたプントへの交易隊の派遣再開である。プントの位置は、まだ確定していないが、アフリカ東海岸沿いまたは海岸に近いところ」とする(屋形禎亮他著、『世界の歴史』1、p.467-8、中央公論社、1998)。
 紅海の長さは2000キロメートル(日本海にほぼ同じ)で、ナイル河のデルタからフェニキアまでの、少なくとも優に4倍はある。いま、プントが紅海のなかほど(ナイル河の第5急湍近くの緯度)だとすれば、コセイルからの距離はフェニキアまでの2倍になる。また、そこは新王国時代の最大版図の外縁に位置し、紅海周辺においても乳香などを産するとされるが、それを含むアフリカ産物の原産地にはなりえない。
 いま、プントを紅海のなかほどだとしても、そこは中継地であろう。そこへの遠征は中継地として維持あるいは支配し続けるためだったといえるかもしれない。しかし、その遠征が、エジプトの長い歴史のなかで特記されたのは、特別の大遠征であったからであろう。事実、大型船の遠征隊が編成され、大量の産物を持ち帰ってきている。したがって、プントが紅海のなかにあるとするのは、数度にわたり、長期断続させた後に、大遠征する必要のある交易先としては、近すぎよう。
 他方、プントを単にアフリカの東海岸あるいはソマリアと推定するには、新王国時代の最大版図からみてもいささか曖昧で遠隔すぎよう。そこで、プントは単にアフリカの東海岸ではなく、紅海への入口に控えている「アフリカの角」のソマリア海岸、あるいは後代、インド洋交易圏から紅海への大きな中継地となるアデン湾ではなかろうか。
 なお、プントとの交易は前13世紀から前14世紀まで続くが、その後、古代エジプトは主な交易先を地中海諸国に広げていく。
プントに向かった船の遭難と贈り物をもらった船員
 [遭難した船員が、プントの王と称する大蛇に答えていう]「私は王の宝の山に向かうべく、船に乗っていました。その船は長さ120キュビット[1キュピット=肘尺は約52センチ]、幅40キュビットで、エジプト選りすぐりの船員が120人乗っていました。……彼らはライオンよりも勇猛心があり、暴風が来る前また天気が悪くなる前に、それを予知することができました。……嵐は、海にいる間中ばかりか、陸地の近づいても吹き続けました。……波の高さは8キュビットにもなりました。[その後、遭難して乗り込んだ]ボートに木片が当たったことで沈んでしまい、それに乗っていた人は私を除いていなくなりました。そうして、私はあなたのいる、この島に打ち上げられたのです」。
…………
 それで、私は腕を腹に回し、体を曲げて、彼[大蛇]に尊敬の念を表しました。すると、彼は私に、大量のミルラ[没薬]、ヘフル油、アヘンチンキ、ヘサイトスパイス、香水、アイペイント、キリンの尾、香の大きな塊、象の牙、グレイハウンド、サル、ヒヒ、そして貴重な品々を授けて下さった。それらをボートに積み込みました。思いがけないことが起き、身をかがめて、それに感謝した。すると、彼は「驚くなかれ、お前は2か月もしないうちに、家に近づくであろう。お前の腕は子供たちで一杯になるであろうし、墓場に入るまで、家の中で、若々しくしていられる」と告げた。 
資料: Ancient History Encyclopedia
注 エジプトの中王国(前2040-前1782)のパピルスに書かれたテキスト「難破船員の物語」は、サンクトペテルブルクにあったロシア帝国博物館で発見され、現在はモスクワで保存されている。
▼プント遠征の意味合い▼
 前14世紀半ばのアマルナ文書は、オリエント諸国との外交書簡である。そこに記載されている財貨は、ファラオと諸国の支配者とのあいだで、兄弟の友好のあかしとして交換された「贈答品」であって、通常の交易品ではなかった。それでも、贈答品は値踏みにされたらしく、クレンゲル氏は「もしや量や質が期待通りでないときは、送り手に苦情をいった。……この『贈り物』の輸送を請け負ったのは使者あるいはまた商人である。……[かれらは]はっきりと区別できなかった」という。
 そうした贈答外交を、クレンゲル氏は「西アジアの宮廷間での『贈り物のやり取り』として演じられるものは、ある意味では『最高レベル』での商いであった」とみる。エジプトから黄金、象牙、黒檀などが、逆にオリエント諸国からはアフガニスタン産のラピスラズリなどの宝石が輸出されたが、それらは「典型的な国産品を『贈り』合っていたとはいえかった」。これら贈り物は隊商によってシリア砂漠を通り運ばれたという(以上、ホルスト・クレンゲル著、江上波夫・五味亨訳『古代オリエントの商人』、p.198-9、山川出版社、1983(原著1980))。
 国産品の贈答がなかったわけではない。ボアズキョイ文書には、前1286年頃ガデッシュの戦い後に講和した、ヒッタイトの王ハットゥシリ3世(在位前1275−50)はラムセス2世(在位前1290−24)に宛てて、「あなたが書いて寄こした"良質の鉄"についてですが、私の倉庫にはいま良い鉄がありません。……いまは、あなたに一ふりの鉄の短刀だけをお送りします」と書き送り、国産の貴重な鉄の流失を渋ったとある(『生活の世界歴史』1、p.338)。鉄は青銅器時代において重要な贈り物の一つであった。
 こうした贈答外交をみて、プント遠征の意味合いを知ることができる。プント遠征の規模は新王国時代に大きくなったとはいえ、それ以前から行われていたし、それが特記され続けた。その意味は、エジプトがオリエント諸国との贈答外交に当たって、不可欠な財貨を獲得するために行われた。このプント遠征は、上記の年表にみるように、それだけが単独で行われたのではなく、エジプトがオリエントへ対外膨張しようとする時期に、それとほぼきまって並行して行われていたからである。
 贈答外交は非市場交易そのものであるが、それが崩れると支配者間であっても市場交易もどきの交易が必要となる。新王国時代が終わり、第3中間期のはじめ、上エジプトの支配者となったヘリホル(生没年未詳、最高の神官、武官)から、ビブロスにおいてアメン神の行幸に使う船を修理するための材木を調達するよう命令された、テーベのアメン・ラー神殿の執事長である『ウェンアメンの航海記』と称される文書がある(その全文はWebサイト西村洋子著『古代エジプト史料館』にある)。前1070年代頃、ウェンアメンは船長がシリア人(なお、シリアという言葉は広い地域を指すことが多い)の船に乗ってビブロスに出掛け、領主に材木(レバノン杉)を差し出すようよう要求する。しかし、ファラオの権威はすでに地に落ちており、宗主国づらした贈答交易は受け入れられない(後述のように、前1800年頃のビブロスの領主はエジプトの官僚であった)。
 ビブロスの領主ザカル・バアル(前1075年頃統治)は、「エジプト王の僕[しもべ]ではない。……私の父君に送られて来たものは、『王の下賜品』ではない。『兄弟』間の贈り物でもなくて、単に材木の代金にすぎなかった」と抗議する。そして、ウェンアメンを疑い、エジプトに手紙を送る。その使者が、エジプトから交換品を運んできたので、領主は材木を切り出し、ウェンアメンに持ち帰らせることにしたという(以上、クレンゲル前同、p.242-7)。
 その交換品は、メートランド・A・エディーによれば、次の通りであった。「数個の金製と銀製のつぼ、エジプト亜麻布10束、パピルス500巻、上等な王族用の亜麻の衣類10着、そして牛皮500枚、綱500本、ヒラマメ20袋、魚5かご」(同著、桑原則正訳『海のフェニキア人』、p.26、ライムライフブックス、1977)。ここで強調すべきことは、エジプトの輸入品の交換あるいは支払手段としての輸出品は金、銀ばかりでなく、農産品が重要な地位を占めていたことを確認することであろう。
▼エジプトをめぐる船と航海▼
 エジプトの海上交易は、どのような船で行われたのか、またどのように航海していたのであろうか。
 ジャン・ルージュ氏は、エジプトにおける「主たる航海は中継港に向って進められ、その中継港でエジプトの航海者はそこに集められた商品を入手するのである。本質的なものは2つの港、あるいは2つの地域であった。その一方にフェニキア、とりわけビブロスがあり、他方にオポネ[?!]すなわちプントの国があった」。
 その「フェニキア行きの航海はほぼ日常的な航海であった」し、ナイル河「デルタ地帯の諸港、すなわちタニス[デルタ東部の主要な都市]またはファロス港[現在のアレクサンドリア東港]に君主[ファラオ]の船が常駐していた」(このファラオの船の説明はない)。
 それに対して、「グァルダフイ岬[アシール岬]の地域すなわちソマリ海岸である可能性がつよい」「プント国行きの航海は、事情がちがっていた。実際、紅海の航行は異例のものとみなされていた。したがって、それは定期的な航海ではなかった」。それは「必要が生じたときは、兵士を乗せた数隻の船を含むまぎれもない遠征隊が差し出された」。プントからの輸入は、「ナイル河畔の大港コプトスと紅海との間、もっと的確にいえばコプトスとコセイル地域との間の輸送路を介して
である」という(以上、ジャン・ルージュ著、酒井傳六訳『古代の船と航海』、p.156-7、法政大学出版局、1982)。
 このコプトスとコセイル間の陸路に加え、コラムに見るように、東西そして南北に走る運河が建設されていた。この運河は、ナイル:デルタの東端の支流にあるブバスチスから、ワディ・ツミラトを使って東に向い、チムサ湖から南に向かい、ビター湖を経て紅海に出る運河であった。この運河は同じルートをたどって、古代エジプトばかりでなく、プトレマイオス朝やローマ、初期イスラーム国によって、幾度となく再建が試みられてきた。
 酒井傳六氏は、古代エジプト運河を最初に手がけたのは中王国時代のセンウスレト1世(在位前1971−26頃)であったが、真の建設者はそれより1300年後のネコ2世(在位前610−595)であったとする(同著『スエズ運河』、p.30、朝日文庫、1991)。この説にも、吉村氏は疑問を呈している(前同、p.160)。


古代エジプトの東西運河
古代エジプトの運河
 エジプト人のもう1つ土木技術上の業績は、地中海と紅海とをつなぐ運河である。現在のスエズ運河のこの先駆者は、2000年以上もの間使用された。しかしエジプト人はけっして大航海者ではなかった。アラビアやソマリランドとの交易には、海岸沿いに航行して、商品をミオス・ホルモスへ運ぶのであった。
 ここは紅海を半分ほど行った地点で、商業路はここから大陸を越え、ハムママットの谷をぬけてニール河岸のコプトスに達した。浅瀬が多くて、突風の吹く紅海の北部を避けたのである。そこに建設された運河は、2つの部分から成っていた。
 西・東の部分は、ナイル・デルタの東部支流にあるブバスティスからトゥミラトくぼ地をぬけてティムサー湖に達する。これは全くの灌漑運河で、古代にはゴシェン谷―イスラエル人がエジプトにいたころ定住した地域であったところ―をうるおした。運河の第2の部分は、ティムサー湖から、北と南へ走り、いわゆる「にがい湖」を通りぬけて、現在のスエズ運河の、ちょうど北部にある地点に達し、その全長は100マイルに少し足りないのであった。
 確実な根拠によって、われわれはこの運河が、ファイユムを灌漑水系の中に包含させた王たちと同一人によって建設されたと信ずることができる。エジプト史の後期、ネコ王第2世(紀元前600年)がアフリカ大陸を周航する探険隊を出したときには、この運河はたしかに存在していた。ペルシァ王ダリウスはこの運河の泥を除去し、エジプト・インド・ペルシァ間の海上交易を実現する政策に役立つようにした。その当時には、幅約200フィート、深さ40フィートであった。
 ダリウス王がこの運河の岸に建てた記念碑によれば、王はここを通ってペルシァへ航行する24隻の船隊を持っていた。大王アレクサンドロスと、ローマのある皇帝たちが、この運河に依存し、利用していたこともわかっている。しかし紀元第4世紀からあとになると、かえりみられなくなり、ついに全く泥で埋まってしまった。
出所:R.J.フォーブス著、田中実訳『技術の歴史』、p.47-8、岩波書店、1956

 こうした「ソマリ行きの遠征隊の場合、船は、地中海から移されたのでないかぎり、紅海の北、今日のスエズの地域で建造された」、また「プント国へ派遣された船は……コプトス経由で輸入されたプント産物を下エジプトに運ぶナイル河の船にほかならない」とし、その実例でもあるかのように、エジプトの物語から引用し、「長さ120肘尺、幅40肘尺、乗組船員120名の船」(1肘尺=キュピットは約52センチ)という、ある難破船を紹介する(ルージュ前同、p.157)。いま、いくつかのエジプト帆船の要目を列挙すると、次のようになる。
エジプトの船 単位:メートル、トン、人
長さ
高さ
吃水
排水量
乗組員数
クフ王の船
43.3
5.9
1.78
1.48
45
40
プント遠征の船
21.5
12.5
プント遠征の復元船
20
5
24
ある難破船
62.4
20.8
120
注1) クフ王の船:ディルウィン・ジョーンズ著、嶺岸維津子ほか訳『大英博物館双書・古代エジプ
トを知る4 船とナイル』、p.117、学芸書林、1999
注2) プント遠征の船:茂在寅男著『航海術』、p.9、中公新書、1967。ハトシェプスト女王葬祭殿
のプント遠征船の浮き彫りからの推定。
注3) プント遠征の復元船:NHK「エジプト発掘」プロジェクト著『エジプト発掘 解き明かされた4つ
の謎』、NHK出版、2009
注4) ある難破船:ジャン・ルージュ著、酒井傳六訳『古代の船と航海』、p.157、上記のプントに向
かった船をいう
 クフ王の船以外は推定であるが、プント遠征の船の浮き彫りが実船の写しかどうかは不明である。また、特にルージュ氏が示すある難破船は、エジプトの物語から取られた荒唐無稽の船である。こうした大言壮語は旧約聖書創世記にあるノアの方舟の記述にもみられる。それに加え、ルージュ氏はプント国への派遣は断続的であり、そのための船はスエズで建造されたとしながら、それらがナイル河の船とは同じとするのは無理があろう。
 古代エジプト人がどのような船を持ち、それがどのように発達させたか。
 前5世紀にエジプトを旅したギリシアの歴史家ヘロドトスは、河船について「アカシアから長さ2ペキュス[89センチ]ほどの板を切り出し、これを煉瓦のように積んで船体をつくるのであるが、その工程は次のようである。頑丈な長い木打を使って、先の2ペキュスの板を接合してゆく。こうして船体が出来上ると、その上に棟梁をわたす。肋材は一切用いず、船板の継目は内側からパピロスを詰めて塞ぐ。舵は一つしか作らず、しかも竜骨を突き抜いて付けてある。帆柱はアカシア材のものを用い、帆はパピロス製である」と述べている(同著、松平千秋訳『歴史』上、p.218、岩波文庫)。
 ディルウィン・ジョーンズ著、嶺岸維津子ほか訳『大英博物館双書・古代エジプトを知る4 船とナイル』(学芸書林、1999)は、古代エジプトの船について河船、海船、荷船、パピルス舟型の木造船、パピルス舟に分け、王国時代ごとに説明されている。そして、クフ王の船をほぞ継ぎ・縁継ぎ工法の優れた事例、またハトシェプスト女王のプント遠征船を海船の典型としている。
 船の建造法は時代が下がるにつれて発達するが、河船、海船、荷船はいずれの時代においても基本的な建造法において違いはないようである。そこに示された船の分類は一応、用途別であるが、河船と海船、荷船と木造船の別は大きさの違いを示すかのようである。それはともかく、海船については、河船より大型となっているので、船体の強度を補強する必要があり、そのための艤装(ホッギング・トレス、ガードル・トレス)が行われていたという特徴を持っている。
 エジプト人は、ナイル河の船については適切な建造法を開発していた。その最大級の河船がクフ王の船であったであろう(このクフ王の船は河に浮かんだ形跡があるという)。しかし、この船とて大型すぎて脆弱とみられ、海船としては利用できそうにはない。寡聞にして、エジプトの船がナイル河を下って、プントはもとよりとしてフェニキアまで航海した形跡を認知することができない。他方、後述のように、フェニキアの船はナイル河をさかのぼって来ている。
 古代エジプトにおいて、ファラオや神殿が船を所有していたという記述があるが、その規模はきわめて小さかったとみられる。エジプトが、フェニキアなど東地中海から財貨を輸入する場合、来訪するフェニキア人商人の船から買い付けるか、あるいはかれらに買い付けて来させるか、また特に必要が起きれば、かれらの船を用船して交易させるといった方法がとられたに違いない。
 ただ、プントへの遠征のような場合には、自前の海船を建造せざるをえなかったのであろう。その材質がレバノン杉であ


ダハシュール出土の船
エジプト考古学博物館蔵


エジプト古王国クフ王第一の復元船(正面)
前26世紀
太陽の船博物館(ギザ)蔵


古王国サフラー王時代という船
(模型)
前25世紀


テーベ69号墓メンナの墓に描かれた船
アビドスからテーベに戻る巡礼船
前1420頃
ったこと、またそれが紅海で建造されてことからみて、その建造はフェニキア人の建造法が採用され、しかもその建造や運航にあたってはフェニキア人が徴発されたとみられる。その端的な例が、かなり時代は下るが、ネコ2世(在位前610-595)がフェニキア人を紅海からアフリカ大陸一周に向かわせ、3年後にヘラクレスの柱を通ってエジプトに戻ってきたという、ヘロドトスの残した伝聞である。
 2009年8月、「NHKハイビジョン特集・エジプト発掘」が放送された。それによれば、コセイルより北に位置し、古代の港として知られてきたサファーガ近郊のメルサガワシスが発掘され、港や船の遺物が発見された。それをプント遠征の出発港として、ハトシェプスト女王葬祭殿(デル・エル・バハリ)の浮き彫りや、エジプト考古学博物館所蔵のダハシュール出土船を資料として、プント遠征船を復元、300キロメートルの実験航海が行ったという。その復元船の要目ははっきりしているはずであるが、心もない。同時代人の身長から、長さ20メートル、幅5メートルと推定し、マストの高さではなく、重さ650キログラム、横帆の幅15メートル、乗組員24人とある(NHK「エジプト発掘」プロジェクト著『エジプト発掘 解き明かされた4つの謎』、NHK出版、2009)。
▼多品種・高価品の輸入、少品種・低価品の輸出▼
 それでは、エジプトに、どのような財貨が輸出入されたのであろうか。その品目はともかく、その量は不明である。

ハトシェプスト女王葬祭殿、プント遠征の図(模写)
なお、上下は左右で、つながっており、
上段は貢物、中段はプントでの積み荷と帰還、下段は船団の出発を示す。、

 屋形氏は、▼プント遠征の意味合い▼の項の引用文に続けて、ルクソール西岸にあるハトシェプスト女王葬祭殿を含む、プント遠征の「デル・エル・バハリ葬祭殿の浮き彫りによると、紅海を航行した[葬祭殿の壁面からみて、5隻の]船隊は、乳香、没薬、黒檀、象牙[これら以外に、アンチモン、ひひ、猿、犬、貂の毛皮、現地住民とその子供]などのアフリカの産物を満載して帰国している。北方クレタ島との交易も再開されている。……のちのトトメス3世による連年のアジア遠征と大帝国の建設は、女王の平和な治世があったからこそ実現できたといえる」という(屋形前同、p.466)。なお、プント国王への贈り物が示す浮き彫りもあるが、その内容は不明である。
 この引用文に「北方クレタ島との交易も再開されている」とあるが、それはアメンエムハト3世治世の「ヌビア状勢も平和であり、[その]クシュ侯の本拠地ケルマにはエジプト政府の交易拠点も設けられ、内陸アフリカの金、黒檀、象牙などをもたらした。レバノン杉の輸出港であるビブロスの支配者はエジプト風の称号でよばれ、エジプトの官僚とみなされた。アジア交易の範囲はアナトリア、バビロニアまで広がり、杉材、オリーブ油、ワイン、銀、さらにはシリア人奴隷などが盛んに輸入された」に対応していよう(屋形前同、p.440)。
 エジプトの交易について、いささか要約しすぎであるが、伊藤 栄氏は中王国時代以降を念頭に置いて「南方のヌビアやエチオピアからは、金のほか象牙・黒檀・砂金・銀・ルビー・豹の毛皮、生きている牛・こうし・馬等が輸入された。なかでも象牙が第1位に立つ。北方とくにシリアやバビロニアとの取引では、銅・鉛・青石・緑石・銀・香料・ろば・馬・象・鉄・牛・こうし・オリーブ油・木材・車・器具・家具・高価なつぼ・奴隷等が輸入された。なかでも金属が最も重要な輸入品であった。これに対して、エジプトから外国に輸出されたものとしては、ナイル河の流域に産した穀物・綿花・亜麻・綿布・陶器等であるが、斧・短剣・首飾り・指輪等もあった」(同著『商業史』、p.12、東洋経済新報社、1971)とする。これら以外に、シナイ半島で開発した銅やトルコ石、クレタ島の壺などが上げられる。
 なお、クレンゲル氏は、新王国時代という後期青銅器時代においてもっとも重要な品目は銅であり、また碑文にはないがアヘンが持ち込まれていたとする(同前、p.222-3)。
 こうした引用文からみても、エジプトの輸入が多品種・高価品であり、輸出が少品種・低価品となっていたことは明らかである。輸入品にあっては、貴金属をはじめとした奢侈品や貴重品、軍需品がほとんどであるが、造船用の木材や農耕用の家畜、必需品も含まれている。それに対して、輸出品は農産品ばかりである。これではエジプトはないものづくしの単なる農業国と見まごうばかりである。
 こうした輸出入品目のすべてが交易品目とはいえないであろう。古・中王国時代にあっては、ファラオに捧げられた貢納品や、支配者たちが交換しあった贈答品がほとんどであり、その一環として交易らしきことが行われとみられ、その量はわずかであったであろう。新王国時代になって、商業が生まれたとされ、神官たちが交易を掌中に収めたことで、交易の品目や量も増えたであろうが、後述するように贈答品はなくならなかった。
 エジプトをめぐる貢納品や贈答品のやりとり(貢納交易や贈答交易と呼ばれる)の収支バランスなぞ、最初から問題とはならないが、それ以外の交易品目の収支において、それが非市場的交易だとしても、相当大幅な赤字になっていたはずである。いま、高価品は少量かつ断続的に輸入されたにとどまり、他方において農産品には相当量の余剰があったので、それをかなり大量に輸出することでもって、交易収支をバランスさせていたのであろう。他国がエジプトに期待した贈答品は、ヌビアからの「塵のように」取り込んだ砂金であったというから、大幅な赤字は貴重品で埋めていたに違いない。すでにみた『ウェンアメンの航海記』からあきらかのように、貴重品と農産品を組み合わせて輸出し、交易収支をバランスさせることが多かったみられる。
 さらに、積極的いえば、エジプトはオリエントから銅や貴石、杉、オリーブ油、ブドウ酒、工芸品など様々な品々を取り込まざるをえない。しかし、それに充てるものが自国には少ないので、アフリカに遠征や交易を行って金や象牙、黒檀などを獲得し、その一部をオリエントへの支払いに充てた。それでも不足するので、エジプトは、オリエント、さらにアフリカに、自国産の穀物や綿花、亜麻、工芸品を持ち込んで、支払いに充てたということである。
 エジプトの交易の構造や性格については今後の課題として、これら品目のうち海上交易品とみられるものは、さしあたって輸入の木材、オリーブ油、ワイン、輸出の穀物、綿花、亜麻ぐらいである。特に、後者がどこに向け、どれくらい輸出されたかわからないが、海上交易されていたとすれば相当量となったであろう。事実、エジプトはナイルの恵みを受けた、自給自足が十分可能な大農業国であったので、相当量の余剰農産品があり、その仕向地はアフリカ内陸部やフェニキアであったであろう。
▼新王国時代の壁画にみる交易▼
 新王国時代、首都が一時、ナイル・デルタに近いメンフィスに移る。このメンフィスに、フェニキア人やパレスティナ人は、彼らの名にちなんだ特別区に居留し、商館を開いていたとされる。その時代交易が盛んであったことことから、セティ1世(在位前1318-04)は多数の海上交易用の船や商人を抱えていたとする、ラムセス2世の碑文がある。また、メンフィスの商人も沿岸交易用の船を所有してiいたことを示す墓があるという(グレン・E・マーコウ著、片山陽子訳『フェニキア』、p.18-9、創元社、2007)。なお、これら商人がエジプト人かどうかは不明である。
 クレンゲル氏は、ルクソールにある新王国第18王朝のアメンヘテプ3世(在位前1391-53)の治世、テーべの港(ルクソール)の支配人を勤め、またアメン神の穀物倉庫の管理人でもあった、ケンアメンという人物の墓(テーべ93号墓)の壁画(同墓にはビール作りの壁面もある)は、エジプトとシリアとの交易関係を示すとして、次のように絵解きする。
テーべ93号墓の壁画(模写)
クレンゲル前同、p.220-1

 「テーベの河港に停泊中のシリアの帆船である。……手前の船の船首には水先案内人が立ち、今ちょうど指示を与えているところで、それと同時に長い竿で水深を測っている。商人ないし船主と思われる人物が船の中央に見られる。かれらはその社会的地位にふさわしく立派な衣裳をまとっているし、ほかの人物よりも大きく描かれている」。
 「たくさんの帆掛け舟が停泊している。......これには桟橋が渡されている。桟橋の段々がはっきりと見分けられる。帆は畳まれ、人々は積み荷を陸揚げして入港税を支払うところである。商品はケンアメンの前にもってこられる。......かれの前には立沢な衣服を身にまとうシリア人がひとり平伏している」。
 「陸揚げされた品物はというと、たいていはワインか油の入った大きな容器だが、しかしまた皮に水玉模様のついた、大きくがっしりした雄牛2頭(絵によれば瘤牛)や奴隷も船から下された。下役の官吏たちがこれらの品々をしっかり検査して適当に関税を徴収していたと思われるけれども、しかしそれではケンアメンはエジプト王の代理人として外国の商人からその積み荷をそっくり全部引き取ったのか。実はそうではなかった」。
 「港にはエジプトの商人も小屋を掛けて、その地域の工場の造る製品、たとえば衣服やサンダルなどを売りに出していた。実際ひとりの商人が今まさにシリア人と取り引き中で、後者は代わりに油またはワインの入った壷をひとつ差し出しているではないか、そのエジプト人はというと、何かを量っている。こんなふうに、外洋船の寄港する所では小規模な取り引きも花盛りで、外国の船員たちはここで公[おおやけ]の積み荷のほかに自分の商品として船に積んでもってきたものを売り払ったことだろう」(以上、同前、p.220-2)。
 この絵解きに従えば、まずシリアの帆船がナイル河を800キロメートルもさかのぼって来たことになるが、果たして信じて良いものかどうか。このシリアの船は商人船主の船であり、その積み荷も当然かれのものである。ここに非近代的な海上交易の典型をみる。さらに、この港では大商いと小商いがあったことを知りうる。
 前者の大商いを、ケンアメンがエジプト王の代理人として取り仕切り、シリア人の商人船主と交易しているが、その一部は自らの商いとしている。すなわち、エジプト王は交易を統制しているものの、その全部を独占できる状態ではなくなっている(さらに、王の収入は入港税や関税だけになっているかもしれない)。
 後者の小商いは、エジプト人商人とシリア人船員とのいわば自由な交易として行われている。このシリア人船員の商いは、近世船員におけるカーゴ・スペース(給与の一種)と同じである。その品目がおおやけの積み荷と同じワインや油であるところをみると、シリア人船員はこの航海の少額出資者かもしれない。なお、一般船員は腰布をまとうだけの姿で描かれているので、その小商いは高級船員の役得であろう。
▼全面的に外国人商人に依存▼
 どのような商人がいたのか、どのような商取引が行われていたか。
 まず、屋形氏はエジプトにおける商人について、オリエントのような「商業資本や高利貸資本はエジプトには存在しなかった。エジプト語で『商人』という語が現れるのは、新王国時代後半のことであり、その場合も神殿や高官の使用人または外人商人(主としてシリア人)にすぎず、独立した商人層はエジプト社会に成立することがなかった」とする(『生活の世界歴史』1、p.182)。
 伊藤氏にあってもほぼ同様であり、上記の引用文に続けて、さらに詳しく、「このような対外商業は法的にファラオ自身の手中にあるのみならず、実際上でもまた、ファラオ自身の掌握するところであった。しかしながら後代においては、自己所有の船隊を有する神殿がこの対外商業の主導権を握った。……エジプト出身の土着の商人を知らなかったようである。……新王国において
商人は大部分外国人であった。新王国時代にエジプトの商業は著しく発展した。特に第26王朝サメチクス王[プサメティコスともいう]は外国商人の国内定住を許し(紀元前650年)、商業を奨励した。それ以前はただ取引者として入国を許されたにとどまり、しかも海岸に限られていたのである。これら外国商人は主としてフェニキア人であったが、後にはギリシャ人も加わった。それ以後、国内・奥地の取引はほとんどギリシャ人の手に握られるにいたる。とくに紀元前4世紀、アレクサンドロス大王がエジプトを征服するや、ギリシャ人は大挙してアレクサンドリアに植民するにいたり、同港は世界商業の一大中心地になった」している(前同、p.12-13)。
 なお、前650年前後、ナイルデルタにナウクラティスというギリシア人の居留地を認め、そこにギリシア人の交易を集中させた。
 こうした評価に対して、フェイル氏は、新王国第18、19王朝のもとでエジプトは「一大海軍国となり、レヴァント


ナウクラティスの位置
海・エーゲ海の全域に相当程度の制圧を加える艦隊をもっていた。……王自身も自らの手によって大量の運輸貿易[海上交易のことであろう]を行なったが……[当時、税関が設置されていたことかみて]、運輸の大部分が私的商人の手で営まれ……アジア産の奢侈品を輸入するため自己の船舶を所有していた」とし、エジプトの海軍力だの、私的商人の地位だのを誇大に記述している。しかし、エジプトへの輸入の多くがフェニキア人によって担われたことを認めている(同著、佐々木誠治訳『世界海運業小史』、p.19-20、日本海運集会所、1957(原著1933))。
 このように、古代エジプトの交易は、ファラオの統制のもとで盛んに行われていたが、そのほとんどが外国人商人によって担われ、エジプト人が基本的に商業を携わることはなかったし、まして本格的な海上交易人が生まれることはなかった。
 その一方で、遠征と交易が一対の対外活動として行われ、また神殿が自ら船隊を所有していたとされる。それはどういうことなのか。ファラオや神殿の高官たちは、通常、海陸から渡来する外国人商人から奢侈品などを入手していたが、かれらの渡来がなくなって奢侈品などが不足したり、あるいはそれが特段に必要となると、プント遠征のような贈答交易や、遠征による略奪まがいの交易を行うこととなった。
 さらに、その遠征がプントといった遠隔地にまで進められる場合や大量の財貨を入手しようとする場合、自ら船隊を建造、編成していたのではないか。ただ、平和的な遠征の場合は、外国人商人を乗船させて交易を行わせることもあったであろう。
▼若干のまとめ▼
 古代エジプトは孤立的で閉鎖的な国ではなく、外から侵略され、外に向け侵略もし、また東西南北に交易を行ってきた。しかし、ナイルが育んだ自給自足の経済でもって、国民を扶養していける国柄であったので、古代エジプトは交易に積極的に乗り出す必要に迫れたとはとうていいえない。そのため、交易は最小限に抑えられ、支配者が必要とする奢侈品を獲得すればよかったのではなかろうか。それにもかかわらず、古代エジプトは古代諸文明のなかでも燦然たる地位を築いている。歴史上、交易から自立した文明なぞありえないとしても、古代エジプトは交易に取り込まれた文明とはいえない。
 そうした状況から、古代エジプトは長い歴史をもった大国であったにかかわらず、海上交易国となることもなく、まして自らが主導する交易圏を形成することもなく、ほぼ常に一交易地にとどまったといえる。それでも、古代エジプトは中王国時代以降、東地中海に進出し、またフェニキアを支配下に置いたが、海上交易圏を形成したわけではなかった。したがって、古代エジプトの海上交易は、フェニキアやクレタといった交易民族にほとんど依存し、王や神殿はそれら交易民族から、必要なものを買い付ければ事足りたといえる。それでは不十分となると、遠征が行われたといえる。
(03/01/22記、09/10/05、17/04/20補記)

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