- The Birthplace of Civilization -
▼海上交易に関する情報▼
古代エジプトの優に3000年にも及ぶ歴史のなかで、様々な遠征や交易が行われ、それによって様々な略奪品や貢納品、贈答品、交易品が輸出入されたことであろう。古代エジプトの海上交易に関わりのありそうな史実を、年表風にたどってみよう。
エジプトは一目してナイル河と生死をともにしている。したがって、早い時期からパピルスの葦舟以外に、帆とオールを持つ木造船が明瞭に登場していたことは、当然といえば当然である。
古代エジプトでは、先王朝時代の末期になって、北はパレスティナ、南はヌビアとの遠距離交易が確立したとされる。パレスティナとは「ホルスの道」と呼ばれるシナイ半島沿いの海岸ルート、ヌビアとはナイル河沿いのルートでもって交易が行われるようになった。 初期王朝時代、古代エジプトという国家が形成されると、南北にその勢力を拡げる。それら地域を「植民地」として扱い、交易網を拡大する。古王国時代、鉱物資源を積極的に獲得しようとして、遠征隊が繰り出される。また、パレスティナとの交易はますます盛んになり、ビブロスが西アジアとの交易拠点となる。 古王国時代から中王国時代にかけて、「たとえば金を求めてワディ・ハンママートやヌビアのワディ・エル=アラキヘ、銅を求めてシナイや東部砂漠、ヌビアへ、鉛を求めて紅海沿岸へ、みょうばんを求めてエル・カルガ・オアシスへ、孔雀石とトルコ石を求めてシナイヘ、そして、アメジスト、めのう、重晶石、天河石、水晶やその他の鉱物を求めて東部砂漠のさまざまな場所へと、出向いていった」。 それらの遠征には、「二つの偉大な艦隊における神の印璽官あるいは単に将軍という称号をもつ役人に率いられ、その下には、艦隊指揮官、艦長、海軍将校のような海軍式の称号を持つ役人たちや、採石作業監督官、ヌビア人護衛隊指揮官などが従った」(エヴジェン・ストロウハル、内田杉彦訳『図説古代エジプト生活誌下』、p.77、原書房、1996)。ただ、それら遠征は交易を維持することにあり、軍事遠征ではなかったとされる。 前1730年頃における異民族ヒクソスの侵入は、エジプトを大転換させる。異民族を駆逐した新王国時代、エジプトはオリエントの国々と覇権を争い合う好戦国家となり、最大級に対外膨張するようになる。そのなかでオリエントの国々との交易が拡大し、エジプトにも商業が生まれたとされるようになる。しかし、エジプトの国力は疲弊しはじめる。他方、商業を掌握した神官団の富裕化が進み、政治社会に混乱が起き、異民族の支配を受ける地域となっていく。 なお、プトレマイオス朝時代、アレクサンドリアは世界最大の交易港になるが、エジプトは相変わらず単なる農業国にとどまり、交易国となることはなかった。アレクサンドリアが世界最大となったのは、主としてアジア・地中海交易の中継地としての拡大であった。 ▼海上交易の範囲、プントはどこか▼
ハトシェプスト女王の遠征について、屋形氏は「女王は、対外政策において軌道修正を行った。アジアへの対外遠征は行わず、採掘、採石および交易のための遠征隊がさかんに派遣された。アジアよりむしろアフリカとの交易を重視し、平和外交に徹した。このことを象徴するのが、治世9年になされた中王国以来中断していたプントへの交易隊の派遣再開である。プントの位置は、まだ確定していないが、アフリカ東海岸沿いまたは海岸に近いところ」とする(屋形禎亮他著、『世界の歴史』1、p.467-8、中央公論社、1998)。 紅海の長さは2000キロメートル(日本海にほぼ同じ)で、ナイル河のデルタからフェニキアまでの、少なくとも優に4倍はある。いま、プントが紅海のなかほど(ナイル河の第5急湍近くの緯度)だとすれば、コセイルからの距離はフェニキアまでの2倍になる。また、そこは新王国時代の最大版図の外縁に位置し、紅海周辺においても乳香などを産するとされるが、それを含むアフリカ産物の原産地にはなりえない。 いま、プントを紅海のなかほどだとしても、そこは中継地であろう。そこへの遠征は中継地として維持あるいは支配し続けるためだったといえるかもしれない。しかし、その遠征が、エジプトの長い歴史のなかで特記されたのは、特別の大遠征であったからであろう。事実、大型船の遠征隊が編成され、大量の産物を持ち帰ってきている。したがって、プントが紅海のなかにあるとするのは、数度にわたり、長期断続させた後に、大遠征する必要のある交易先としては、近すぎよう。 他方、プントを単にアフリカの東海岸あるいはソマリアと推定するには、新王国時代の最大版図からみてもいささか曖昧で遠隔すぎよう。そこで、プントは単にアフリカの東海岸ではなく、紅海への入口に控えている「アフリカの角」のソマリア海岸、あるいは後代、インド洋交易圏から紅海への大きな中継地となるアデン湾ではなかろうか。 なお、プントとの交易は前13世紀から前14世紀まで続くが、その後、古代エジプトは主な交易先を地中海諸国に広げていく。
注 エジプトの中王国(前2040-前1782)のパピルスに書かれたテキスト「難破船員の物語」は、サンクトペテルブルクにあったロシア帝国博物館で発見され、現在はモスクワで保存されている。 ▼プント遠征の意味合い▼ 前14世紀半ばのアマルナ文書は、オリエント諸国との外交書簡である。そこに記載されている財貨は、ファラオと諸国の支配者とのあいだで、兄弟の友好のあかしとして交換された「贈答品」であって、通常の交易品ではなかった。それでも、贈答品は値踏みにされたらしく、クレンゲル氏は「もしや量や質が期待通りでないときは、送り手に苦情をいった。……この『贈り物』の輸送を請け負ったのは使者あるいはまた商人である。……[かれらは]はっきりと区別できなかった」という。 そうした贈答外交を、クレンゲル氏は「西アジアの宮廷間での『贈り物のやり取り』として演じられるものは、ある意味では『最高レベル』での商いであった」とみる。エジプトから黄金、象牙、黒檀などが、逆にオリエント諸国からはアフガニスタン産のラピスラズリなどの宝石が輸出されたが、それらは「典型的な国産品を『贈り』合っていたとはいえかった」。これら贈り物は隊商によってシリア砂漠を通り運ばれたという(以上、ホルスト・クレンゲル著、江上波夫・五味亨訳『古代オリエントの商人』、p.198-9、山川出版社、1983(原著1980))。 国産品の贈答がなかったわけではない。ボアズキョイ文書には、前1286年頃ガデッシュの戦い後に講和した、ヒッタイトの王ハットゥシリ3世(在位前1275−50)はラムセス2世(在位前1290−24)に宛てて、「あなたが書いて寄こした"良質の鉄"についてですが、私の倉庫にはいま良い鉄がありません。……いまは、あなたに一ふりの鉄の短刀だけをお送りします」と書き送り、国産の貴重な鉄の流失を渋ったとある(『生活の世界歴史』1、p.338)。鉄は青銅器時代において重要な贈り物の一つであった。 こうした贈答外交をみて、プント遠征の意味合いを知ることができる。プント遠征の規模は新王国時代に大きくなったとはいえ、それ以前から行われていたし、それが特記され続けた。その意味は、エジプトがオリエント諸国との贈答外交に当たって、不可欠な財貨を獲得するために行われた。このプント遠征は、上記の年表にみるように、それだけが単独で行われたのではなく、エジプトがオリエントへ対外膨張しようとする時期に、それとほぼきまって並行して行われていたからである。 贈答外交は非市場交易そのものであるが、それが崩れると支配者間であっても市場交易もどきの交易が必要となる。新王国時代が終わり、第3中間期のはじめ、上エジプトの支配者となったヘリホル(生没年未詳、最高の神官、武官)から、ビブロスにおいてアメン神の行幸に使う船を修理するための材木を調達するよう命令された、テーベのアメン・ラー神殿の執事長である『ウェンアメンの航海記』と称される文書がある(その全文はWebサイト西村洋子著『古代エジプト史料館』にある)。前1070年代頃、ウェンアメンは船長がシリア人(なお、シリアという言葉は広い地域を指すことが多い)の船に乗ってビブロスに出掛け、領主に材木(レバノン杉)を差し出すようよう要求する。しかし、ファラオの権威はすでに地に落ちており、宗主国づらした贈答交易は受け入れられない(後述のように、前1800年頃のビブロスの領主はエジプトの官僚であった)。 ビブロスの領主ザカル・バアル(前1075年頃統治)は、「エジプト王の僕[しもべ]ではない。……私の父君に送られて来たものは、『王の下賜品』ではない。『兄弟』間の贈り物でもなくて、単に材木の代金にすぎなかった」と抗議する。そして、ウェンアメンを疑い、エジプトに手紙を送る。その使者が、エジプトから交換品を運んできたので、領主は材木を切り出し、ウェンアメンに持ち帰らせることにしたという(以上、クレンゲル前同、p.242-7)。 その交換品は、メートランド・A・エディーによれば、次の通りであった。「数個の金製と銀製のつぼ、エジプト亜麻布10束、パピルス500巻、上等な王族用の亜麻の衣類10着、そして牛皮500枚、綱500本、ヒラマメ20袋、魚5かご」(同著、桑原則正訳『海のフェニキア人』、p.26、ライムライフブックス、1977)。ここで強調すべきことは、エジプトの輸入品の交換あるいは支払手段としての輸出品は金、銀ばかりでなく、農産品が重要な地位を占めていたことを確認することであろう。 ▼エジプトをめぐる船と航海▼ エジプトの海上交易は、どのような船で行われたのか、またどのように航海していたのであろうか。 ジャン・ルージュ氏は、エジプトにおける「主たる航海は中継港に向って進められ、その中継港でエジプトの航海者はそこに集められた商品を入手するのである。本質的なものは2つの港、あるいは2つの地域であった。その一方にフェニキア、とりわけビブロスがあり、他方にオポネ[?!]すなわちプントの国があった」。 その「フェニキア行きの航海はほぼ日常的な航海であった」し、ナイル河「デルタ地帯の諸港、すなわちタニス[デルタ東部の主要な都市]またはファロス港[現在のアレクサンドリア東港]に君主[ファラオ]の船が常駐していた」(このファラオの船の説明はない)。 それに対して、「グァルダフイ岬[アシール岬]の地域すなわちソマリ海岸である可能性がつよい」「プント国行きの航海は、事情がちがっていた。実際、紅海の航行は異例のものとみなされていた。したがって、それは定期的な航海ではなかった」。それは「必要が生じたときは、兵士を乗せた数隻の船を含むまぎれもない遠征隊が差し出された」。プントからの輸入は、「ナイル河畔の大港コプトスと紅海との間、もっと的確にいえばコプトスとコセイル地域との間の輸送路を介して
こうした「ソマリ行きの遠征隊の場合、船は、地中海から移されたのでないかぎり、紅海の北、今日のスエズの地域で建造された」、また「プント国へ派遣された船は……コプトス経由で輸入されたプント産物を下エジプトに運ぶナイル河の船にほかならない」とし、その実例でもあるかのように、エジプトの物語から引用し、「長さ120肘尺、幅40肘尺、乗組船員120名の船」(1肘尺=キュピットは約52センチ)という、ある難破船を紹介する(ルージュ前同、p.157)。いま、いくつかのエジプト帆船の要目を列挙すると、次のようになる。
2009年8月、「NHKハイビジョン特集・エジプト発掘」が放送された。それによれば、コセイルより北に位置し、古代の港として知られてきたサファーガ近郊のメルサガワシスが発掘され、港や船の遺物が発見された。それをプント遠征の出発港として、ハトシェプスト女王葬祭殿(デル・エル・バハリ)の浮き彫りや、エジプト考古学博物館所蔵のダハシュール出土船を資料として、プント遠征船を復元、300キロメートルの実験航海が行ったという。その復元船の要目ははっきりしているはずであるが、心もない。同時代人の身長から、長さ20メートル、幅5メートルと推定し、マストの高さではなく、重さ650キログラム、横帆の幅15メートル、乗組員24人とある(NHK「エジプト発掘」プロジェクト著『エジプト発掘 解き明かされた4つの謎』、NHK出版、2009)。 ▼多品種・高価品の輸入、少品種・低価品の輸出▼ それでは、エジプトに、どのような財貨が輸出入されたのであろうか。その品目はともかく、その量は不明である。
この引用文に「北方クレタ島との交易も再開されている」とあるが、それはアメンエムハト3世治世の「ヌビア状勢も平和であり、[その]クシュ侯の本拠地ケルマにはエジプト政府の交易拠点も設けられ、内陸アフリカの金、黒檀、象牙などをもたらした。レバノン杉の輸出港であるビブロスの支配者はエジプト風の称号でよばれ、エジプトの官僚とみなされた。アジア交易の範囲はアナトリア、バビロニアまで広がり、杉材、オリーブ油、ワイン、銀、さらにはシリア人奴隷などが盛んに輸入された」に対応していよう(屋形前同、p.440)。 エジプトの交易について、いささか要約しすぎであるが、伊藤 栄氏は中王国時代以降を念頭に置いて「南方のヌビアやエチオピアからは、金のほか象牙・黒檀・砂金・銀・ルビー・豹の毛皮、生きている牛・こうし・馬等が輸入された。なかでも象牙が第1位に立つ。北方とくにシリアやバビロニアとの取引では、銅・鉛・青石・緑石・銀・香料・ろば・馬・象・鉄・牛・こうし・オリーブ油・木材・車・器具・家具・高価なつぼ・奴隷等が輸入された。なかでも金属が最も重要な輸入品であった。これに対して、エジプトから外国に輸出されたものとしては、ナイル河の流域に産した穀物・綿花・亜麻・綿布・陶器等であるが、斧・短剣・首飾り・指輪等もあった」(同著『商業史』、p.12、東洋経済新報社、1971)とする。これら以外に、シナイ半島で開発した銅やトルコ石、クレタ島の壺などが上げられる。 なお、クレンゲル氏は、新王国時代という後期青銅器時代においてもっとも重要な品目は銅であり、また碑文にはないがアヘンが持ち込まれていたとする(同前、p.222-3)。 こうした引用文からみても、エジプトの輸入が多品種・高価品であり、輸出が少品種・低価品となっていたことは明らかである。輸入品にあっては、貴金属をはじめとした奢侈品や貴重品、軍需品がほとんどであるが、造船用の木材や農耕用の家畜、必需品も含まれている。それに対して、輸出品は農産品ばかりである。これではエジプトはないものづくしの単なる農業国と見まごうばかりである。 こうした輸出入品目のすべてが交易品目とはいえないであろう。古・中王国時代にあっては、ファラオに捧げられた貢納品や、支配者たちが交換しあった贈答品がほとんどであり、その一環として交易らしきことが行われとみられ、その量はわずかであったであろう。新王国時代になって、商業が生まれたとされ、神官たちが交易を掌中に収めたことで、交易の品目や量も増えたであろうが、後述するように贈答品はなくならなかった。 エジプトをめぐる貢納品や贈答品のやりとり(貢納交易や贈答交易と呼ばれる)の収支バランスなぞ、最初から問題とはならないが、それ以外の交易品目の収支において、それが非市場的交易だとしても、相当大幅な赤字になっていたはずである。いま、高価品は少量かつ断続的に輸入されたにとどまり、他方において農産品には相当量の余剰があったので、それをかなり大量に輸出することでもって、交易収支をバランスさせていたのであろう。他国がエジプトに期待した贈答品は、ヌビアからの「塵のように」取り込んだ砂金であったというから、大幅な赤字は貴重品で埋めていたに違いない。すでにみた『ウェンアメンの航海記』からあきらかのように、貴重品と農産品を組み合わせて輸出し、交易収支をバランスさせることが多かったみられる。 さらに、積極的にいえば、エジプトはオリエントから銅や貴石、杉、オリーブ油、ブドウ酒、工芸品など様々な品々を取り込まざるをえない。しかし、それに充てるものが自国には少ないので、アフリカに遠征や交易を行って金や象牙、黒檀などを獲得し、その一部をオリエントへの支払いに充てた。それでも不足するので、エジプトは、オリエント、さらにアフリカに、自国産の穀物や綿花、亜麻、工芸品を持ち込んで、支払いに充てたということである。 エジプトの交易の構造や性格については今後の課題として、これら品目のうち海上交易品とみられるものは、さしあたって輸入の木材、オリーブ油、ワイン、輸出の穀物、綿花、亜麻ぐらいである。特に、後者がどこに向け、どれくらい輸出されたかわからないが、海上交易されていたとすれば相当量となったであろう。事実、エジプトはナイルの恵みを受けた、自給自足が十分可能な大農業国であったので、相当量の余剰農産品があり、その仕向地はアフリカ内陸部やフェニキアであったであろう。 ▼新王国時代の壁画にみる交易▼ 新王国時代、首都が一時、ナイル・デルタに近いメンフィスに移る。このメンフィスに、フェニキア人やパレスティナ人は、彼らの名にちなんだ特別区に居留し、商館を開いていたとされる。その時代交易が盛んであったことことから、セティ1世(在位前1318-04)は多数の海上交易用の船や商人を抱えていたとする、ラムセス2世の碑文がある。また、メンフィスの商人も沿岸交易用の船を所有してiいたことを示す墓があるという(グレン・E・マーコウ著、片山陽子訳『フェニキア』、p.18-9、創元社、2007)。なお、これら商人がエジプト人かどうかは不明である。 クレンゲル氏は、ルクソールにある新王国第18王朝のアメンヘテプ3世(在位前1391-53)の治世、テーべの港(ルクソール)の支配人を勤め、またアメン神の穀物倉庫の管理人でもあった、ケンアメンという人物の墓(テーべ93号墓)の壁画(同墓にはビール作りの壁面もある)は、エジプトとシリアとの交易関係を示すとして、次のように絵解きする。
「たくさんの帆掛け舟が停泊している。......これには桟橋が渡されている。桟橋の段々がはっきりと見分けられる。帆は畳まれ、人々は積み荷を陸揚げして入港税を支払うところである。商品はケンアメンの前にもってこられる。......かれの前には立沢な衣服を身にまとうシリア人がひとり平伏している」。 「陸揚げされた品物はというと、たいていはワインか油の入った大きな容器だが、しかしまた皮に水玉模様のついた、大きくがっしりした雄牛2頭(絵によれば瘤牛)や奴隷も船から下された。下役の官吏たちがこれらの品々をしっかり検査して適当に関税を徴収していたと思われるけれども、しかしそれではケンアメンはエジプト王の代理人として外国の商人からその積み荷をそっくり全部引き取ったのか。実はそうではなかった」。 「港にはエジプトの商人も小屋を掛けて、その地域の工場の造る製品、たとえば衣服やサンダルなどを売りに出していた。実際ひとりの商人が今まさにシリア人と取り引き中で、後者は代わりに油またはワインの入った壷をひとつ差し出しているではないか、そのエジプト人はというと、何かを量っている。こんなふうに、外洋船の寄港する所では小規模な取り引きも花盛りで、外国の船員たちはここで公[おおやけ]の積み荷のほかに自分の商品として船に積んでもってきたものを売り払ったことだろう」(以上、同前、p.220-2)。 この絵解きに従えば、まずシリアの帆船がナイル河を800キロメートルもさかのぼって来たことになるが、果たして信じて良いものかどうか。このシリアの船は商人船主の船であり、その積み荷も当然かれのものである。ここに非近代的な海上交易の典型をみる。さらに、この港では大商いと小商いがあったことを知りうる。 前者の大商いを、ケンアメンがエジプト王の代理人として取り仕切り、シリア人の商人船主と交易しているが、その一部は自らの商いとしている。すなわち、エジプト王は交易を統制しているものの、その全部を独占できる状態ではなくなっている(さらに、王の収入は入港税や関税だけになっているかもしれない)。 後者の小商いは、エジプト人商人とシリア人船員とのいわば自由な交易として行われている。このシリア人船員の商いは、近世船員におけるカーゴ・スペース(給与の一種)と同じである。その品目がおおやけの積み荷と同じワインや油であるところをみると、シリア人船員はこの航海の少額出資者かもしれない。なお、一般船員は腰布をまとうだけの姿で描かれているので、その小商いは高級船員の役得であろう。 ▼全面的に外国人商人に依存▼ どのような商人がいたのか、どのような商取引が行われていたか。 まず、屋形氏はエジプトにおける商人について、オリエントのような「商業資本や高利貸資本はエジプトには存在しなかった。エジプト語で『商人』という語が現れるのは、新王国時代後半のことであり、その場合も神殿や高官の使用人または外人商人(主としてシリア人)にすぎず、独立した商人層はエジプト社会に成立することがなかった」とする(『生活の世界歴史』1、p.182)。 伊藤氏にあってもほぼ同様であり、上記の引用文に続けて、さらに詳しく、「このような対外商業は法的にファラオ自身の手中にあるのみならず、実際上でもまた、ファラオ自身の掌握するところであった。しかしながら後代においては、自己所有の船隊を有する神殿がこの対外商業の主導権を握った。……エジプト出身の土着の商人を知らなかったようである。……新王国において
このように、古代エジプトの交易は、ファラオの統制のもとで盛んに行われていたが、そのほとんどが外国人商人によって担われ、エジプト人が基本的に商業を携わることはなかったし、まして本格的な海上交易人が生まれることはなかった。 その一方で、遠征と交易が一対の対外活動として行われ、また神殿が自ら船隊を所有していたとされる。それはどういうことなのか。ファラオや神殿の高官たちは、通常、海陸から渡来する外国人商人から奢侈品などを入手していたが、かれらの渡来がなくなって奢侈品などが不足したり、あるいはそれが特段に必要となると、プント遠征のような贈答交易や、遠征による略奪まがいの交易を行うこととなった。 さらに、その遠征がプントといった遠隔地にまで進められる場合や大量の財貨を入手しようとする場合、自ら船隊を建造、編成していたのではないか。ただ、平和的な遠征の場合は、外国人商人を乗船させて交易を行わせることもあったであろう。 ▼若干のまとめ▼ 古代エジプトは孤立的で閉鎖的な国ではなく、外から侵略され、外に向け侵略もし、また東西南北に交易を行ってきた。しかし、ナイルが育んだ自給自足の経済でもって、国民を扶養していける国柄であったので、古代エジプトは交易に積極的に乗り出す必要に迫れたとはとうていいえない。そのため、交易は最小限に抑えられ、支配者が必要とする奢侈品を獲得すればよかったのではなかろうか。それにもかかわらず、古代エジプトは古代諸文明のなかでも燦然たる地位を築いている。歴史上、交易から自立した文明なぞありえないとしても、古代エジプトは交易に取り込まれた文明とはいえない。 そうした状況から、古代エジプトは長い歴史をもった大国であったにかかわらず、海上交易国となることもなく、まして自らが主導する交易圏を形成することもなく、ほぼ常に一交易地にとどまったといえる。それでも、古代エジプトは中王国時代以降、東地中海に進出し、またフェニキアを支配下に置いたが、海上交易圏を形成したわけではなかった。したがって、古代エジプトの海上交易は、フェニキアやクレタといった交易民族にほとんど依存し、王や神殿はそれら交易民族から、必要なものを買い付ければ事足りたといえる。それでは不十分となると、遠征が行われたといえる。 (03/01/22記、09/10/05、17/04/20補記)
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