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1・3・1 フェニキア―海上交易国の誕生―

▼文明、交易、遠征の世界史の十字路▼
 かれらカナン人が自分たちを、ギリシア語の「フェニキア」人と自称することはなかった。かれらは、エジプト人ら船を造る人、ギリシア人から赤い布の商人とみられていた。
 グレン・E・マーコウ氏は、かれらのアイデンティティについて、シリアやパレスティナとは違い、「フェニキア人は領土によって定義される国民ではなく、商人の集合体だった。彼らの帝国はひとつながりの地面ではなく、あちこちに散らばった商人コミュニティの寄せ集めだった。土地ではなく海上交易が、彼らの領分と定義していた」とまとめている(同著、片山陽子訳『フェニキア』、p.5、創元社、2007)。
 フェニキアの地は、現在のレバノンの地中海に接する、北はカウシス山から南はカルメル山までの、東をレバノン山脈にさえぎられた沿岸地域をさしている。そこは、すでにみたように文明の揺籃期から現在まで、世界の文明、交易、遠征、そして争乱の十字路である。東西8-25キロメートルほどの狭い沿岸を、多くの国々の支配者とその軍隊―エジプト、ヒッタイト、アッシリア、新バビロニア、ペルシア、ギリシア、ローマ、トルコ、十字軍、フランス(ナポレオン)、イギリス、そしてアメリカ―に襲われ、支配され、それに耐えてきたことか。それはいまも変わっていない。
 この地域には、前三千年紀半ば頃から定住がはじまったが、前1800年頃から前1400年頃までエジプトの侵入をうけ、その支配下にあった。前13世紀の変わり目、エジプトがヒッタイトに敗れて後退し、またヒッタイトが「海の民」の侵入を受けて衰微しはじめると、フェニキアの諸港市はそれら大国を宗主国として仰ぐがなくてもすむようになる。そして、
 フェニキア人は、クレタ人やミケーネ人が没落した後、ギリシア人が活動が復活させる前8世紀までのあいだ、地中海の海上交易を我がものとする。 フェニキアという地域に、いわゆる領域国家が生まれたことはなく、すでに述べたビュブロスやウガリットのほか、シドン(現サイダ)、テュロス(ギリシア読み、ラテン語でテュルス、聖書の新改訳はツロ、新共同訳はティルスであり、現スールあるいはティール)、ベルタ(現ベイルート)、トリポリなどの港市国家が点在していた。ただ、有力な港市が他の港市を統治するとか、あるいは港市連合を結成する場合もあったという。有力な港市は、前16世紀ウガリット、前14世紀ビュブロス、前12世紀シドン、前11-9世紀テュロス、前5世紀トリポリへと変転する。
 フェニキア人は、商人らしく商売がたきに対しても、争いをなるべく避けた。かれらは、エジプトやギリシア、イタリア、シチリアで、容易に駆逐された。テオドール・モムゼン氏は、「フェニキア人の最も本質的な特徴として、国家的な意識の欠落ということ」を上げ、旧約聖書・土師記が「彼らは静かに生
フェニキアの進出
出所:ナケ編『世界歴史地図』、p.41、三省堂、1995
きた。シドン人のやり方で、安心して、陽気に、富を手にして」いると記していることをあげる(同著、長谷川博隆隆訳『ローマの歴史』U、p.6、名古屋大学出版会、2005)。
▼フェニキア、アッシリアに贈り物や貢ぎ物▼
 ここで扱う時代の中心港市は、シドンとテュロスである。「海の民」の侵入後、次々と港市国家として独立して、交易と「植民」に励み、隆盛期に入る。まず、肥沃な後背地を持っていたシドンが復興する。前11世紀末、アビバアル(?-前970)やその子ヒラム(1世、在位前969-36)が領主となると、テュロスは手工業と交易の組み合わせることで勃興し、西方に発展する。それらの港市はそれぞれの領主を仰いでいたが、商人貴族、裕福な船長、有力な市民などで構成された長老会議が領主権を規制し、また交易を監督していたという。
 前10世末になると、アッシリア帝国の圧迫が強まり、フェニキアはその脅威にさらされ続けることになる。他方、エジプトが起死回生する。前9世紀、テュロスはエトアバル(1世、在位前887-56)のもとで繁栄、シドンを勢力下におさめる。フェニキアの諸港市はエジプトと連合するなどして、反アッシリア暴動を繰り広げたものの、前7世紀後半、アッシリア帝国から新バビロニアが独立すると、それに組み込まれる。
 エトアバルの時代、すでにアッシリアとの関係は、大きく変化していた。アシュルナシルパル2世(前883-59)は、前870年頃アッシリアの王として200年ぶりに地中海に赴く。その際、フェニキアが自らの交易を維持するために、王に金、銀、鋼、錫といった貴金属、上質の亜麻布で仕立てた衣類、ツゲ材、黒檀、象牙といった貴重な物やサルを「贈り物」としていたが、粗銅や銅製のうつわ類が目を引いたとされる。
 しかし、後継者の3世(在位:前858-24)の時代になると、フェニキアはアッシリアの勢力下に入れられ、「貢ぎ物」を差し出すこととなる。ドゥル・シャッルキン(現コルサバード)にあるシャルマネセル3世の宮殿を飾っていた「青銅門」には、テュロスの「貢ぎ物」を船で島から本土へ運ぶ模様を描いた装飾帯がある。
テュロス、貢ぎ物を運び込む
前9世紀、大英博物館蔵
 フェニキアは、前9世紀末から前8世紀前半までは政治的自由をえていたが、テュロスはセンナケリブ(在位前704-681)の怒りを買ったことで、前701年から5年間包囲、攻撃される。そのとき敗北したテュロスの領主エルライオス(在位前729-694、アッシリアではルリと呼ばれた)は、キプロスに逃亡する。ルリが水門から二段櫂船に逃げる様子が、ニネヴェのセンナケリブ宮殿の浮き彫りに描かれていた。現物は消失したが、その模写が上にみた装飾帯とともに、大英博物館にある。
 そのとき、テュロスを受け継いだシドンも、前675年アッシリアによって完全に破壊される。そして、テュロスもまた新バビロニアのネブカドネザル2世(在位前604-562)の包囲攻勢に13年間も耐え抜くが、前572年降伏することで破壊を免れるという状況となった。その間、テュロスの人々が前814年カルタゴを建設する。
 さらに、フェニキアは前539年ペルシア帝国に征服され、その属州のようになる。ペルシアは、いままでの宗主国とは違って、陸上だけでなく海上をも制覇しようとする。その頃、すでにギリシアとの制海権争いに敗れていたフェニキアは、このペルシアの地中海制覇にすすんで荷担し、積極的に海事力を提供して協力する。そのペルシアが、マケドニアのアレクサンドロス大王に敗北すると、シドンやビュブロスはすぐに降伏するが、テュロスはひとり7か月間も抵抗して前332年に屈服する。それ以後のフェニキアは、ヘレニズム時代は前198年以降セレコウス王国の、また前64年以降ローマ時代は属領シリアの、一地域でしかなくなる。
 この長いフェニキアの歴史を整理すると、前1200年頃以前のエジプト・ヒッタイト時代、それ以後の独立時代、宗主国交代の時代、そしてギリシア・ローマ時代に、大きく分けられよう。
▼大国からの独立でえる飛躍の機会▼
 フェニキアには、狭い沿岸地域にあるとはいえ、一応自給自足できる農業があり、しかもレバノン杉をはじめ、赤紫染料を使った織物など有力な交易品があった。かれらは、それらを南北の大国に売りつけ、またその狭間にあって中継交易に励んできた。こうした富裕の土地を次々に勃興する大国が見逃すわけはなかった。そのため、フェニキアはその長い歴史において、それら大国を宗主国として仰ぎ、貢ぎ物を差し出して、港市国家を維持してきた。その例外が前13世紀から前9世紀までの独立時代であった。
 フェニキアが、いままでにない発展の機会をえた時、そのとる道は決まっていた。すでに前14世紀から、エジプト、メソポタミア、そして地中海という3方向の市場において、建築職人、工芸職人、商人そして船乗りとして活躍しはじめていた。この独立時代に入って、フェニキアは杉、緋衣ばかりでなく、製陶業、冶金業、ガラス製造、金属加工業を発達させる。いまや使い勝手の良くなったラクダの隊商をオリエント内陸部から受け入れ、そして本来の生業といえる海上交易を、外洋船を完成させたうえで、東地中海はもとよりとして西地中海まで押し拡げていった。 フェニキアの成長ぶりは目覚ましいものであったらしい。ゲルハルト・ヘルム氏は、フェニキア人の「沿岸航海は、エジプトとビュブロスとの通商関係が密接だったときでさえ、筏流しに毛の生えた程度をほとんど脱しなかった。……パピルス、綱、あるいは彼らの古典的な輸出品の何かを、エジプトより遠い地方に送ろうと思えば、彼らはクレタの、 のちには
赤紫染料と緋衣
ミュケーナイの商船をやとわなければならなかった。これらのギリシア人が、その当時すでに全地中海を往来し、龍骨船を使っていた唯一の人びとであったのだ。しかし、突然―一夜にして、と言ってもいいくらいである―カナン人[フェニキア人をいう]もそういう船を所有するようになった」とする(同著、関 楠生訳『フェニキア人―古代海洋民族の謎―』、p.85、河出書房新社、1976)。
 また、それより早く、フイリップ・フーリ・ヒッティ氏は「フェニキア人はずっと以前から沿岸航海を行い、マグロ、ガラス、土器、その他の地方的産物の行商をしていたが、この独立時代には大海を突切り、東西貿易路の海図[?!]をつくり、地中海の四方八方に植民地をおいた。彼らはこの海をフェニキアの湖と考えたのであり、ギリシア人やローマ人がこれを自分たちのものと言い出すのは後のことである。海原は彼らをおじけづかせるどころか、むしろ引付けたらしい。未知は彼らをこわがらせるどころか明らかに魅惑したのであった。かつてカヌー[筏ではなく]を漕いでいた人びとが、当時の最も偉大な国際的航海者となり、かつて行商をしていた人びとが、古代の指導的貿易商人となった」と述べている(同著、小玉新次郎訳『レバノンの歴史』、p.26-7、1972、山本書店)。
 こうして、フェニキア人は海洋民族とか、商業民族とか(なかには、海の行商人、海の放浪者、海のベドウィン)と呼ばれることになっているが、その足跡の詳細は知ることができない。それは、かれらが文書をパピルスにしたためたため、文献史料がほとんど残っていないからである。他方、支配者であったオリエントの大国や敵対者となったギリシア・ローマの文献にはしばしば登場する。そのためフェニキア人は謎の民族とされ、毀誉褒貶にさらされることになる。
 その一環として、フェニキアの歴史について、前出のゲルハルト・ヘルム著『フェニキア人』とか、メートランド・A・エディー著、桑原則正訳『海のフェニキア人』、タイムライフブックス、1977とかいった、歴史推理が大手をふるってきた。しかし、最近、グレン・E・マーコウ著、片山陽子訳『フェニキア』(創元社、2007)という本格的な研究書が刊行されている。その内容は従前の知見を上回るものではなく、近年の発掘をもとにした古代フェニキア都市の地誌が展開されている。
▼地中海全域に広がる交易地(港市)▼
 フェニキアが建設したとされる交易地あるいは植民市を、地中海の主要な地域に広がっている(それらはおおむねギリシアやローマ遺跡と重複する)。しかし、その建設時期、建設母市、交易活動などは定かでない。そうしたことも文献史料の欠如のせいである。それにもかかわらず、概説書などは、それを平板に語るだけである。後述するように、フェニキアが建設した交易地あるいは植民市なるものは、ギリシア・ローマの植民都市や植民地とは違って、交易地(港市)であることである。その一部は鉱山開発基地であった。
フェニキアの植民
出所:樺山絃一ほか編『世界全史』、p.54、講談社、1994
 『世界全史』は、上記のような図版を掲げるが、フェニキアの植民活動について特段の注釈はない。それはさておいて、この図版の地名をフェニキアの主要な交易地(港市)とみなして、電子百科辞典などを参考にして整理してみると、次のようになる(ただし、不明や曖昧な点が多い)。
フェニキアの主要な交易地(港市)
国名・地名
建設地名
建設時(頃)
備考
キプロス サラミス(現ファマグスタ近郊)
キティオン(現ラルナカ)(*1)
前8世紀
前820

金属の積出港、ストア学派ゼノンの出生地
シチリア モティア(*2)
パノルモス(現パレルモ)
前8世紀
前8世紀
平石を敷き詰めた長方形のドックが出土
前254年ローマ占領まで、カルタゴの植民市
サルディニア カラリス(現カリアリ)
フルキ(フルキスともいう)
前9世紀 カルタゴが占領、前238年ローマが征服
南西海岸にある
リビア レプティス・マグナ
オイア(現トリポリ)
サブラタ
前8世紀
前700
前9-7世紀
前6世紀、カルタゴが占領

金や象牙の交易地
チュニジア ハドルメントゥム(現スース)
カルタゴ(*3)
ウティカ(*4)
ピッポ・ザリュトス(現ビゼルト)
前9世紀
前814
前1150

テュロスに対して新しい町カルタゴ
モロッコ ティンギス(現タンジール)
リクソス(*5)

前7世紀
旅行家イブン・バットゥータの故郷
航海者ハンノが寄港したという
スペイン アブデラ
マラガ
カディス(*6)

前12世紀
前1100
コスタ・デル・ソルにある
カルタゴが支配
タルテッソス鉱山の銀、琥珀、錫の取引、前501年カルタゴが征服
資料:『世界全史』、p.54、『マイクロソフト・エンカルタ百科事典2001』など

*1:前出『フェニキア人』、p.208は、前1000年頃フェニキアの前哨基地だったという。
*2:前出『海のフェニキア人』、p.151-9は、カルタゴが前700年頃モティアを建設したとしている。
*3:シチリアの交易地はカルタゴ建設直後の建設とみなされてきたが、カルタゴやシチリアには前735年以前の遺物
は発見されていないとする(前同、p.67)。それにしたがえば、シチリアの交易地はカルタゴが建設したことになろう。
*4:前1100年建設説あり。
*5:カディスより古いという説あり。
*6:前1000年建設説あり。
 フェニキアの交易地(港市)の建設は、前11世紀からはじまり、前10世紀半ばから前8世紀半ば頃までが最盛期であったとされる。その初期の交易地(港市)として、カディス、ウティカ、リクソスが上げられるが、それらの出土品は前8世紀後半から前7世紀半ばを大きくさかのぼらないという。それらの建設の経過について、小川英雄氏は「彼らはキプロスやクレタなどの島の海岸線に拠点を築きながら、ついにはジブラルタル海峡に至った。そして、北アフリカや大西洋に面したタルテッソス王国などの要衝に植民を派遣した。最初はウティカやガデスを建設したが、紀元前9世紀末にはティルスの手でカルタゴが創立された。カルタゴはさらに、マルタ島、シチリア島、スペイン南岸に植民市を建設した」と述べている(同他著『世界の歴史4 オリエント世界の発展』、p.57、岩波書店、1997)。
 フェニキアの交易地の建設誘因について、栗田伸子氏はM・E・オーベ氏の所論を紹介し、一方でカナン人の居住地の縮小、海岸平野部への人口集中があり、贅沢品・威信財の手工業が発達した。その結果として農産物不足と人口過剰が生じた。他方で、アッシリア帝国の時代テュロスから金属が供給され、金・銀を基準とした物を交換が行われるようになり、前9世紀末から8世紀初頭にかけてアッシリアは銀の不足に見舞われ、テュロスは西方に、その供給を求めざるをなくなった。「要するに、フェニキア人の西方拡大は人口圧による領土拡大要求と、手工業生産・金属取引の発展の結果生じる、原材料および新たな生産拠点への要求が交わった所に生じた」としている(同稿「アフリカの古代都市」『岩波講座世界歴史4』、p.143、岩波書店、1998)。
 これらフェニキアの交易地(港市)は、地中海の東から西に及び、ヘラクレスの柱=ジブラルタル海峡を越えている。しかし、南北の広がりはない(ギリシア・ローマの植民地は四方への広がりがある)。しかし、地中海の北海岸にもあったに違いない。さらに、それらが建設されていた土地の形状をみると、岬の先端とか、内陸から少し離れた小島とかが多い。それが内陸部には及んでいないのは、先住民の抵抗があり、危険だからであった。さらに、新鮮な水や、城壁を築くための岩、そして最小限の農地があるところとなっている。こうした地形は"ポエニの風景"と呼ばれ、1日当たりの帆走距離50キロメートル(ラクダの隊商は30-50キロメートル)の間隔において見いだされるという(なお、ポエニとはローマ人がカルタゴを指した言葉)。
カルタゴが
シチリア・モティアに建設したコトン
チュニジア東部マーディアの旧港
▼内陸部との交易拠点、海上交易の中継地▼
 おなじみのクレンゲル氏は、フェニキアの交易地(港市)について「原理としては、こういう居留地も別段目新しいものではなかったが、しかしこの度は海外営業所の創設ではなかった。つまり、すでに存在している都市の商人居住区のなかに支店を開設するのではなかった。むしろ土着民と交易を営むために、防御施設で囲められた港町を建設したのである。そういうもののなかからしばしば都市的な居住地が発達してきた。のちのギリシア人の植民とは対照的に、フェニキア人の活動は内陸に及ぶものではなかった」と述べている(同著、江上波夫・五味亨訳『古代オリエントの商人』、p.262-3、山川出版社、1983)。
 フェニキアはクレタ、さらにはギリシアなどとともに海上王国とされるが、その支配は沿岸の狭い地域に限られていたことに注意する必要がある。
 すなわち、ギリシアの植民地とは明らかに異なり、フェニキアの交易地(港市)はさしあたって内陸部との交易拠点、海上交易の中継地を確保することにあった。それは、商館や小規模の居留地があるだけといった交易地から、大規模な居留地や自衛組織を持ち、城壁を囲った都市の体裁を持った港市にまでまたがっていたであろう。
 前8世紀半ばから前6世紀半ばにかけて、それまでフェニキアに交易を委ね、農耕・牧畜にいそしんできたギリシア人の植民活動が活発になり、地中海はフェニキアの湖ではなくなり、いわゆる交易圏をめぐって入り組んだ海域となる。こうしてフェニキアの交易地(港市)の建設は終息を迎える。それに伴って一部は撤退を余儀なくされたであろう。したがって、いままでみてきた交易地(港市)の多くはカルタゴの建設になるものとして、その名を残したとみるべきであろう。
 その一方で、カルタゴは宗主国やギリシアの勢力や影響の及ばない西地中海においてひとり発展を遂げ、前6世紀に繁栄期を迎え、その後300年にわたって西地中海を制することになる。ペルシアの王カンビュセス2世(在位前530-22)は、前525年エジプトに続けてカルタゴを攻略しようとするが、テュロスの艦隊が"息子たちを攻撃したくない"と拒否したため挫折する。息子たちが、どの程度に母市と思っていたかどうかはわからないが、息子は親心で救われたのである。なお、カルタゴについては、次節で取り上げる。
 すでに、その後退が明らかとなっていた前6世紀頃のフェニキアについて、ヒッティ氏は「このころには国際貿易の支配的役割が、海上ではギリシア人とカルタゴ人、陸上ではアラム人に奪われていた。フェニキア国民の生命は息絶え絶えになり、フェニキア世界―積極的で生気に満ち、探究心に旺盛な―も実際上終りにきていたのである」と述べている(ヒッティ前同、p.50)。
ソロモンのヒラムとの提携による紅海交易
 フェニキア人は、地中海に交易地(港市)を建設して交易圏を拡げ、多種多様な交易品を取り込み、交易の拡大させたことになっている。しかし、それを指し示す史料を、フェニキア人は残すことがなかった。それをユダヤ人が旧約聖書『列王記』上に書き残している。すでに、Webページ【1・2・1 ビブロス、ウガリット―古代文明の十字路―】において、テュロスの領主ヒラムがイスラエルの王ソロモン(在位前965-26)に、彼の神殿建設のための木材を進んで提供していたことを紹介した。彼らの提携は紅海交易へと発展する。
ソロモンのヒラムとの提携による紅海交易
09:26 ソロモン王はまたエツヨン・ゲベルで船団を編成した。そこはエドムの地の葦の海の海岸にあるエイラトの近くにあった。
09:27 ヒラムは船団を組み、自分の家臣で航海の心得のある船員たちを送り、ソロモンの家臣たちに合流させた。
09:28 彼らはオフィルに行き、金420kキカル[16トンという]を手に入れ、ソロモン王のもとにもたらした。
(以下に、シェバの女王のソロモン訪問についての有名な記述があるが、省略―引用者注)
10:11 また、オフィルから金を積んで来たヒラムの船団は、オフィルから極めて大量の白檀や宝石も運んで来た。
10:22 王は海にヒラムの船団のほかにタルシシュの船団も所有していて、3年に一度、タルシシュの船団は、金、銀、象牙、猿、ひひを積んで入港した。
出所:新共同訳旧約聖書『列王記』上、09:26-10:22、日本聖書協会、1987
 これらの文言は曖昧さを含む。前段にあっては、ソロモンは紅海交易のための自らの船団を、アカバ湾のエイラト近郊で編成したこと、それに当たってヒラムは自らの船団を編成するとともに、船員たちをソロモンの船団に合流させたこと、そしてその彼らが紅海出口にあるアフリカの港とみられるオフィルで交易して、大量の金を持ち帰ってことは明らかであろう。 
 後段については、ソロモンとヒラムには別々の船団があり、別々に交易していたかのようでもある。そうではなく、ソロモンの船団はヒラムの船団を吸収して交易していたかのようでもあり、判然としない。それでありながら、ソロモンの船団は3年に一度というように定期的に遠征していたとするとき、ソロモンの船団は自立的に航海するようになったか、あるいはソロモンの船団が主導的な立場で紅海交易を取り仕切るようになっていたかにみえる。
 なお、タルシシュの船については、旧約聖書『エゼキエル書』がテュロスの船をそうした呼び名を使い、またタルシシュはスペインのタルテッソス(あるいはトルコのタルソス)を指しているともされ、議論がある。ただ、当時の船が金属交易に深く結びついていたことから、タルシシュの船は宝船の呼び名となっていたともみられる。
 佐藤育子氏は、彼らの提携について、フェニキア人にとって紅海へのルートはイスラエルを経由して初めて可能、他方ソロモンにとってもヒラムの助けがなければ艦隊を建造することも艤装することもできない。そこで、「ソロモンは、紅海貿易での商業権益をヒラムに分け与えることを認める代わりに、船の建造資材や漕ぎ手に至るまでフェニキア側の多大なる技術援助を要請した。ここに両者のもくろみは見事に一致し、前一千年紀の初め、紅海をめぐる壮大な共同海運プロジェクトの幕が切って落とされた」とする(栗田伸子・佐藤育子著『興亡の世界史03 通商国家カルタゴ』、p.51、講談社、2009)。
 「共同海運プロジェクト」というよりは、イスラエル王国がいまや領域国家となった立場から、テュロスに命じて造船と航海を請け負わせることで、
タルシシュの船と呼ばれる船
シドン旧港サルコファガス(石棺)に彫られた
フェニキア人の船、後200
出所:P.Kemp:The History of Ships p.19
Orbis Publishing,、1978
シドンのコイン
前342-341
ベルリン国立博物館蔵 
紅海交易を開発するプロジェクトではなかったのか。そして、イスラエル王国は自前で紅海交易できるようになったといいたげであるが、そうはならずに、テュロスにいいとこ取りされていたかにも見える。この紅海交易もアッシリアのフェニキア進出で終わる。
▼中継品と加工品の交易、御用から自前の交易▼
 フェニキアが活躍した地中海交易の実態はどうなってであろうか。それはまことに心許ない。ここでは概観されてきたことをなぞるにとどまる。
 伊藤 栄氏は、フェニキアの交易や交易地の建設が鉱物の獲得と深く結びついていたとして、前1050年頃フェニキアはスペインに銀鉱を発見し、カディスとタルティクス(タルテッソス)を建設した。その発見は、近世ペルーの銀鉱に匹敵するとする。そして、かれらは銀のほか、「ぶどう酒・オリーグ油・蟻・果実・羊毛等を手に入れた」とする。次いで、伊藤氏はヘロドトスにもとづき、フェニキアの船が北海・バルト海まで進出したとしている(同著『商業史』、p.18-9、東洋経済新報社、1971)。なお、フェニキア人はスペインで採鉱・精錬したとはされていない。
 古代オリエント世界の交易を優れた総括を残したクレンゲル氏においても同じ論調でもって、「銅はキュプロスや西アジアの内陸部から輪入されたし、錫はこの当時はとくにスペインから、銀は小アジアとエチオピアから、金はエチオピアからのものであった。……フェニキアの諸都市は"加工業"の生気溢れた中心地であり、とくに輸出品を作り出していたが、しかしまた通過貿易でも大きな役割を果たしていて、西アジアの内陸部あるいはさらに遠方から地中海地域の諸中心地に向けて売り出される品物の積み替え地だった。とくに農業の特産物とか精油が多かったかもしれないが、青銅製品もまたこうやってオリエントから西地中海地域にまで渡っていったらしい。その反対に、西方の品物も東に運ばれてきた」と、いつになくおぼつかなくまとめている(クレンゲル前同、p.278-9)。
 クレンゲル氏は、その著書の終章を「フェニキア人とその海上貿易」としている。しかし、その性格づけについて、かなり性急にまとめている。それも史料の少ないせいであろう。上記の文章に続けて、「フェニキアは古代世界の貿易に様々な形で割り込んでいき、数百年もの間それを支配していた。かれらは、陸上でこそ内陸国の領主あるいは商人が編成して海岸に向けて送り出す隊商に、専ら依存せざるを得なかったが、海上では自前の輸送手段つまり大々的な商船隊を思う存分自由に駆使することができた」と結論づけている。
 この結論の意味合いはきわめて重要である。いまなお、フェニキアをめぐる陸上交易においては支配者からの委託交易がいまなお続けられているが、海上交易についてはそれがほとんどなく、商人の自発的でしかも自立的な交易、すなわち本来的な交易が支配的となっている。そうした状況は、独立時代以降、海上交易の交易量、交易品目、交易範囲が飛躍的に増加あるいは拡大した結果であり、また原因であったであろう。特に、輸入した原材料を「生気溢れた」加工業が作り出した、フェニキア銘柄の工業品、そして農産品の交易の増大が重要であろう。
 グレン・E・マーコウ氏は、前千年紀あるいは青銅器・鉄器時代の変わり目までは、「王と王宮が外国とじかに取引する権利を排他的に有しており、経済的主導権を大きく握っていた」。その時代、「フェニキアの通商はほとんど国家に取り仕切られていたといっていい。また、ウガリトのような外国の港町に駐在したフェニキア商人は事実上、宮廷の代理人といった役割を果たしていた」。しかし、前8世紀初頭になると、「フェニキアの海外取引が発展した結果として強力な商人貴族が台頭してくる」とする。
 フェニキアさらにウガリトの海運業は、「"フブル"と呼ばれる同業組合か商社のようなものを通して営まれていた」とし、それは前11世紀初めの『ウェンアメンの航海記』に示されており、「20隻の船を有するフブルが、ビュプロス王とエジプト王スメンデスから共同で指示を受けている」。「このフブルは、どうやら王の海外取引にのみ使われる特権的な制度だったようだ」という。なお、「商人たちが自国の港で商業活動を行なうのでさえも、港湾役人を通して王からきびしく監督されていたし、駐在する外国の商人の動きも同様に監視されていたにとどまる(以上、マーコウ前同、p.122-3)。
 前千年紀から、遠隔地交易の重心はいまやオリエントの大国を離れ、地中海に移り、その結果、交易圏は飛躍的に拡大した。また、その交易は大国の中心地にいる特権的な大商人の一手専売でなくなり、その広がった交易圏において多数の商人が介在するようになった。その決定的な成り行きは、海上交易が交易圏の幹線ルートのかなめに位置する、大国からみれば周縁都市や周縁地域にいる商人たちに委ねられるようになったことである。ここにフェニキアという海上交易国が成立する。
▼ペルシア時代の交易の拡大と艦隊の派遣▼
 フェニキアの独立時代が終わり、再び大国支配あるいはその属地の時代になる。それによって、いままでのような海上交易の開拓者の役割は終わるが、その海上交易の規模が縮小したわけではなかった。
 ペルシアは海戦に不慣れなため、海軍力はフェニキアに大きく依存することになった。他方、フェニキアは、ペルシアに艦隊を提供する見返りとして、自治を保障され、重税を免れることとなった。この時代もまた、フェニキア主要な都市は、テュロス、シドン、ビュブロス、アルワドであったが、テュロスはネブカドネザル2世に13年間も包囲されたことで衰微したため、フェニキアの首座はシドンに移り、その座はペルシア時代が終わるまで続く。その地位はフェニキア艦隊のなかで、シドンの艦船が快速で勇敢であったおかげであった。
 ペルシア時代あるいは「ペルシアの平和」のもとで、その帝国の大きさとその国家体制はフェニキアの交易にとって有利に作用した。特に、ペルシアの小アジア支配は、手強い競争相手となっていたギリシア人と対抗する上で、フェニキアに少なからぬ便宜を与えた。
 その点について、エディー氏は「ペルシアの近東支配は……3つの面でフェニキア人を助けた。第1に、ペルシアは領土内の通信制度を確立し、連絡の速度をいちじるしく向上させた。……第2に……ペルシア人は独自の貨幣を鋳造して、巨大な帝国全域にわたる商取り引きの基準とした。……第3は、アラム語は……共通商用語として、エーゲ海からインドに至るまで採用された」と強調する(エディー前同、p.101)。
 特に、前6世紀、ペルシア支配下におけるテュロスの交易品については、旧約聖書『エゼキエル書』(27:12-24)が教えてくれる。それは、フェニキアの交易品を具体的に知ることのできる、いわば唯一の史料とされている。
ペルシア支配下におけるテュロスの交易品
27:12 タルシシュはお前の豊かな富のゆえに商いに来て、銀、鉄、錫、鉛をお前の商品と交換した。
27:13 ヤワン、トバル、メシェクの人々は取り引きを行い、彼らは奴隷と青銅の製品をお前の物品と交換した。
27:14 彼らはベト・トガルマから、馬、軍馬、らばを仕入れて、お前の商品と交換した。
27:15 ロドス島の人々はお前と取り引きを行い、多くの島々はお前の下で商いをし、彼らは象牙と黒檀を貢ぎ物として献上した。
27:16 アラムはお前の豊かな産物のゆえに商いに来て、トルコ石、赤紫の毛織物、美しく織った布地、上質の亜麻織物、さんご、赤めのうをお前の商品と交換した。
27:17 ユダとイスラエルの国もまた、お前と取り引きを行い、ミニトの小麦、きび、蜜、油、乳香を、お前の物品と交換した。
27:18 ダマスコはお前の多くの産物と豊かな富のゆえに商いをし、ヘルボンのぶどう酒とツァハルの羊毛を運んで来た。
27:19 ウザル地方のウェダンとヤワンは、お前の商品と交換し、銑鉄、桂皮、香水萱をお前の物品と取り替えた。
27:20 デダンは乗馬用の粗い布地で、お前と取り引きを行った。
27:21 アラブの人々とケダルの首長たちもまた、お前の下で商いをし、小羊、雄羊、山羊を商った。
27:22 シェバとラマの商人たちは、お前と取り引きを行い、極上のあらゆる香料、あらゆる宝石、黄金をお前の商品と交換した。
27:23 ハラン、カンネ、エデンとシェバの商人たち、アシュルとキルマドは、お前と取り引きを行った。
27:24 彼らはお前と取り引きを行い、豪華な衣服、紫の衣、美しく織った布地、多彩な敷物、堅く丈夫によった綱で、お前と取り引きを行った。
出所:新共同訳旧約聖書『エゼキエル書』、27:12-24、日本聖書協会、1987。
注:タルシシュはスペイン、ヤワンはイオニア、ベト・トガルマはアルメニア、ダマスコはダマスカス、デダ
ンやケダルはアラブ、アラムやハラン、カンネ、エデンはシリア地方の地名を指すとされる。
 それを整理して、ヘルム氏は「この商品リストは、4つの大きなグループに分けることができる。その第1は、香油とか、今日なお薬品製造で一役を演じている、てんなんしょう[天南星、サトイモ科の多年草]から採る菖蒲油、さらに蜂蜜、肉桂など、薬品、化粧品、香辛料のたぐいである。次のグループは染料、貴重な織物で、何度も言及した赤と青の紫もその一つであるが、そのほかに、エジプトの亜麻織物、イラクとペルシアの多色織の絨毯もこの類に属する。第3のグループは装飾品その他のぜいたく品で、シリアの宝石、イエーメンの金、アナトリアの銀、アフリカあるいはインドの象牙と黒檀、それからもちろん精巧なアラビアの鞍敷も、この中にはいる。最後の第4グループは大量生産品、つまり鉄、錫、鉛、馬、家畜、小麦、綱、そして―奴隷である。
 これらの個々のグループをその原産地と関係づけて見ると、食料品と家畜は主としてレバノン近隣地域に産し、したがっておそらく陸路で運ばれたのに反し、量はわずかでも大きな利益のあがる高価な商品はとりわけ、遠国貿易、海上貿易で売られた」とする(ヘルム前同、p.122)。これら交易品はオリエント産品がほとんどである。
 ヘレニズム時代はギリシア世界との互恵貿易が進展し、フェニキア人はギリシア艦隊のなかで働き、また軍隊の後を追ってアジア大陸まで交易を行ったという。「ローマの平和」のもとでは東西交易の十字路にあって、西方向けの東方産品の需要に応えることで、空前の繁栄期を迎えるとされる。
 ローマ時代の交易品について、ヒッティ氏は従来からのフェニキア産品である材木、葡萄酒、オリーブ油、ガラス製品、緋色織物、金属加工品、パピルスに加え、次第に酒、油、ナツメヤシの実、乾いた果物、皮革、小麦粉の輸出が増加した。中央アジアの宝石、南アラビアから乳香、真珠、医薬品、香料、インドから香料、砂糖、米、宝石、中国から絹、そして各地から奴隷が輸入されてきた。これら外国産品は中継交易に回され、西に向けて船積みされ、大きな利益となったとまとめている(以上、ヒッティ前同、p.63-4)。ここでは交易品目が増加し、その多くが中継交易や加工交易に回されていることがみてとれる。
 なお、鉄は銅と違って生産用具として用いられ、農業生産を向上させた。また、それは深い井戸の掘削に用いられ、交易地(港市)の建設に役立ったとされる。
▼丸い・黒い・がらんどうの船▼
 フェニキア人が、すぐれた交易者あるいは航海者であったと、喧伝されてあまりある。それでありながら、かれらが用いた船は画期をなしてはいたが、その航海ともども具体的な史料にそれほど多くない。フェニキアの港市は、自分たちの船は自分たちの町で造った。また、堅い木材を削るため、積極的に鉄の道具を使った。
 またまた『エゼキエル書』に頼れば、フェニキアの船について「彼らはセニルの檜でお前の外板を造り、レバノンの杉で帆柱を立てた。バシャン[ゴラン高原]の樫の木で櫂を造り、キティム[キプロス]の島々の糸杉に象牙をはめこみ、甲板を造った。美しく織ったエジプトの麻がお前の帆となり、旗となり、エリシャの海岸から得た紫と赤紫の毛織物が甲板の日よけとなった。シドンとアルワドの住民が漕ぎ手となり、ティルス[テュロス]よ、熟練した者が乗り込んで水夫となり、ゲバル[ビュブロス]の老練な者が乗り込んで水漏れを繕う者となった。海のすべての船と船乗りたちはお前のもとに来て、物品を引き渡した」と、大いに美化されている(新共同訳:『エゼキエル書』、27:05-09、日本聖書協会、1987)。
 具体的な展開としては、その後少なくとも2000年に及ぶ船舶史の先駆けとなる、丸い船(商船)と長い船(軍艦―衝角を持つ多層櫂船―)という、2つのタイプが登場したことである。
 エディー氏は、積極的に、ミノス・ミュケナイといった「エーゲ地方に由来する強じんな竜骨を持った船こそ、[2つのタイプの]フェニキア船の原型」とみなし、それらをミノス・ミュケナイ人は前2000年までに使いはじめ、「前1500年ごろになると、それが広範に使われるよう」になっていたとする(エディー前同、p.40)。また、かれはヘルム氏ともども、この竜骨を持つ船は丸木舟の発展型であるとし、フェニキア人がそれをいち早くあるいは一夜にして取り入れたとするが、その時期は明らかにしない。
 それに対して、クレンゲル氏は竜骨にはふれず、前1000年頃、フェニキア人は肋財を用いた外洋船を完成させたとする。また、ヘレニズム時代以前は、甲板がなかったとする。前7世紀、錨が使用されはじめる。これらの論点はいずれ再検討される。
 それはさておき、丸い船(商船)は、ホメロスから「船をもちいて世に知られたポイニーキア[フェニキア]の男たちが来た、強欲ないかさま師でな、小間物類を山ほど運んだ」、"黒い船"とか、"黒塗りの船"、"がらんどうの船"(うつろな船と訳されている)と呼ばれている(同著、呉茂一訳『オデュッセイア』下、15:419-205、p.92、岩波文庫、1972)。その船は防水用の瀝青(コールタール)が塗られていた。その形状は、船首尾が反り上がったバスタブ形で、長さは幅の3-4倍ほどで9-24メートルほどあり、船首像は馬の首であった。エディー氏は、丸い船(商船)に竜骨があったとはせずに、その機能を果たす横梁に頑丈な骨材の檣座を据え、マストを立てていたとする。
 クレンゲル氏によれば、主な推進手段となる「港内あるいは凪のときには櫂で漕いで進んだが、主な推進手段は帆であり、船のほぼ中央に立つマストには大きな長方形の斜めの帆[意味不明]あるいは横帆がついていた。ロープを操れば、帆を畳んだり風の向きに合わせて回転させたりすることができた。舵をとるには船尾の両側についている2本の長い舵を繰縦したが、その舵柄は1人でも2本同時に操ることができた」(クレンゲル前同、p.280)。このロープのうち、絞り綱と呼ばれるものは6本ほどあり、帆桁にわたして、帆の下端に結びつけられていた。しかし、風上に進むことはできなかった。
 こうした丸い船(商船)の大きさと航海について、クレンゲル氏は「積載力はどのくらいあったのか。少なくともヘレニズム時代より前には、それほど大きかったとは考えられない。おそらくふつうの船では250トンを超えることがなかったろう。それなのにフェニキア人がこの比較的小型な船で進んでいった距離には、まったく驚嘆を禁じ得ない[それほどのことではない]。食糧や新鮮な水を補給するために途中でしばしば港に立ち寄らなくてはならなかった。
フェニキアの商船と絞り綱
出所:クレンゲル前同、p.281
通常船は陸地の見える距離を保ちながら走り、夜間はどうしても走らなくてはならないかぎりは北極星に頼って方角を定めた。しかし夜はできるだけ上陸して過ごした。そうすると今度は、難破船の積み荷を奪う盗賊団一味の手に陥る危険があった。1日あたり進む距離は約30海里〔55キロメートル〕を超えることはおそらくなかっただろう。したがって、故郷の港を離れるとたいていは長旅を覚悟したくてはならなかった」とまとめている(以上、クレンゲル前同、p.281)。
▼大規模な港湾とヘラクレスの柱への航路▼
 このように、フェニキアは世界最初の海上交易国として名を辱めないが、どれほどの船舶や船員がいたかはこれまた不明である。それを暗示するのが港湾施設や次に述べる艦隊の規模である。ただ、フェニキア人の航海術がいかに優れていた例として、バスコ・ダ・ガマより2000年以上も前に、エジプト第26王朝のネコ2世(在位前604-562)の命を受けて、アフリカ大陸を時計回りで、紅海からヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)まで、3年がかりで周航したことが上げられてきた(ヘロドトス著、松平千秋訳『歴史』中、4:42、p.28、岩波文庫、1972)。
 フェニキアの港市のなかで、最大で最良の港湾施設を持っていたのがテュロスである。このテュロスは、前10世紀テュロスの領主ヒラムが、陸上から600メートル離れた、海上にこしらえた人工島であった。その際、建設されたのが、天然港の北港であった。それは"シドンの港"と呼ばれた。そして、エトアバルの時代に、海上交易の増大を対応して人工港の南港が造成され、"エジプトの港"と呼ばれた。それはまさに"原ポエニの風景"である。
 ローマ時代のそれらテュロス北港と南港の大きさは15ヘクタールもあったという。北港は225メートル、南港は東西に分かれた、合計750メートルの防波堤で守られており、南港の防波堤の幅は8メートルもあったという。シドンにも2つの港があり、北港は開放型の南港のとなりに、閉鎖型の内湾として建設された。それらは100隻以上が同時に停泊できる港となっていた。いまや古い都市となっていたビブロスの港は1.5ヘクタールであったとされる。
 丸い船(商船)が、フェニキアの港市からジブ
ローマ時代のテュロス港
出所:クレンゲル前同、p.262
ラルタル=ヘラクレスの柱まで、どのような航路をたどったか。それについて諸説あるようであるが、基本ルートはフェニキアの諸港市からまずキプロスに向かい、小アジア海岸とギリシア海岸やそれらの島々に次々寄港し、さらにカルタゴあるいはシチリア、サルディニアを経由して、スペインに向かうルートである。
 ただ、カルタゴ以西にあっては、北アフリカ海岸沿いに走ったとみられる。しかし、カルタゴ以東の北アフリカ海岸は、フェニキアの交易地(港市)はもとより、島々や良港がほとんどない上に、リビアのシドラ湾は深く大きく、海流が複雑で、しかもシルテ(流砂)が襲ってくるので、通常はそれを避け、西向き航路を逆行したとみられる。
 エディー氏は、特にスペインからの輸送にあたって、その中間地点のカルタゴ、シチリアが重視されたし、またシチリアには前735年以前の遺物はないとしながらも、「フェニキア人はギリシア人とは違い、紀元前750年までには―おそらくもっと早くから―西端の地方に向けて定期的に赴くようになった」などという(エディー前同、p.72)。
 栗田伸子氏は、ポンポニウス=メラという1世紀半ばの地誌学者の地中海都市の記述順に従い(ストラボンは逆順)、また地中海の海流や風向きを考察した外国人研究者の説を受け入れ、フェニキア人の地中海航路は反時計回りであったという(栗田他前同、p.111)。その場合、シチリアから西向きの航路は、陸地から大きく離れるサルディニア、そしてイビサ島を経由する航路となる。
 そうした航路の取り方はかなり無理がある。まずもってカルタゴを経由するのが基本であろうし、そして陸地を見ながら航海するのが基本するとき、その後の航路は時計回りのアフリカ北岸沿いとなる。いずれに
フェニキア人の交易ルート
しても、自前の交易地を中心にして交易を繰り広げながら、友好的な他国の交易港を立ち寄りながら、航海したことに違いない。このルートを通して、アルファベットが波及したことであろう。
 また、クレンゲル氏はフェニキア人の北極星の利用を取り上げるが、ヘルム氏は星や太陽を利用した航法はクレタ人の発案だとする。フェニキア人が錫を求めてコーンウォルに達したとしても、そこでの交易の確証はないという。
▼ガレーの登場、衝角、二段櫂船の開発▼
 長い船(軍艦)について、エディー氏は、まず「前3000年ごろエーゲ海において使用されていた初期のガレー船は……大型の丸木舟」(長さ19メートル、幅1.2メートル、漕ぎ手24人)であった。そうしたガレー船に必須の衝角(ラム)が「発明されたのが紀元前1000年ごろである」とする。しかし、「たとえ衝角を発明したのがフェニキア人ではなかったとしても、彼らはすぐさまそれを採り入れ」、それを発展させたのはフェニキア人だと考えている。歯切れの悪い脈略となっている。ただ、二段櫂船を開発したのはフェニキア人だという。そして、前1000年頃という「まさにこのころ東方フェニキアの諸港は、独自の交易勢力として姿を現し、戦闘用の艦隊をつくりあげた」としている(以上、エディー前同、p.45-6)。
フェニキアの二段櫂船
ニネヴェ・センナケリブ宮殿出土、前700頃
大英博物館蔵
 さらに、エディー氏はフェニキアのガレーの実例として、前700年頃のアッシリアの浮き彫りにある二段櫂船、そして1971年シチリア・マルサラ沖(モティア小島よりさらに外側にある島)で発見された、前3世紀のイソラ・ルンガ島の難破船(カルタゴの軍船、長さ27メートル)(商船については、Webページ【1・2・2 キプロス、クレタ―地中海世界への橋脚―】で取り上げている。なお、前500年頃、地中海では三段櫂船は当たり前であったとしている。
 一段櫂船は一平面に30-50の漕ぎ台を並べていたが、前8世紀デッキをもち上げて、オールの台を上下二段とする二段櫂船となった。上段の漕ぎ手は舷縁から、下段の漕ぎ手は舷窓から漕いだ。一段櫂船の全長は38メートルほどであったが、二段櫂船はその半分20メートルとなり、小回りがきくようになった。三段櫂船が導入され、それが大型化すると、漕ぎ台には1組4-5人の漕ぎ手が配置された。
 なお、ヘルム氏は丸い船(商船)と長い船(軍艦)以外に、第3のタイプとして「いわゆる"ミュオパロネス"、すなわち貝殻ボートで、漕ぎ手の数は戦争用ガレー(三段櫂船では約200人)ほどではないが、ふつうの商船よりは多かった。たいていは帆がなく、艦隊の補助船として、海賊船として、あるいは海賊の出そうな海域では武装商船として、用いられた」ものを取り上げる(ヘルム前同、p.113)。
 しかし、フェニキアが、どのような経過でもって長い船(軍艦)を建造し、艦隊を編成し、配置したかなどについては、何もふれない。不明なのであろう。しかし、宗主国がかれらの艦隊や船員を傭ったことが、しばしば取り上げられる。
 いま、エディー氏の見解を敷衍すれば、前1000年頃という独立時代もかなり進み、地中海交易を拡大しつつあるなかで、交易地の建設と交易路の維持のために、長い船(軍艦)を保有するに至ったのであろう。その後の大国支配とその交代の時代になると、その海軍力が認められて傭われることとなったとみられる。それは、いまや交易地(路)の維持のためというより、海戦請負業になっていたのでないか。
 フェニキア艦隊が参戦していたとみられる史実は、まず前9世紀後半、アッシリアの王シャルマネッセル3世(在位前859-24)がダマスカスの王を打ち破ったとき、フェニキアはダマスカスに味方している。また、前701年同王センナケリブ(在位前704-681)がテュロスを5年間包囲攻撃したとき、テュロス以外の諸港市がかれに60隻を提供している。
▼ペルシア戦争で、フェニキア艦隊、連敗▼
 ペルシアとギリシアとの戦争は、フェニキアとギリシアとによる地中海の制海権をめぐる争いともいわれるが、その頃すでに後退を余儀なくされていたフェニキアにとっては、ペルシアを利用して失地回復する機会であったに違いない。この長い戦いにあたって、フェニキアの艦船(軍艦ばかりでなく商船も含まれていよう)が加わり、東地中海とエーゲ海とを往復して、ペルシア軍隊を輸送した。
 それより前、ペルシアの王カンビュセス2世が前525年エジプトを攻略した際、それまでエジプトに傭船されていたフェニキア艦隊は雇い主を取り替え、その征服に役立っている。前499年、小アジアのイオニアにあるギリシア植民地が反乱を起こす。その首謀者であるアテナイの主要な植民地ミトレスを、ペルシアが鎮圧したとき、フェニキアは艦船を提供している。
 ペルシアの王ダレイオス大王(在位前522-486)はギリシア本土遠征に乗り出す。前492年、海路、大軍を送るが、アトス岬沖で暴風雨に遭遇して撤退する。次いで、前490年、フェニキアなどから集めた600隻の艦隊を編成して、マラトンの海岸に上陸するが不意打ちにあって、これまた撤退する。その子クセルクセス(在位前485-65)が三段櫂船1207隻を擁してギリシアに向かった際、フェニキアはその3分の1を提供している。前484年、かれはヘレスポントス海峡(現ダーダネルス海峡)の幅2キロメートルのところに674隻の船を橋脚にして、2本の橋を架けるが、その際、フェニキアの補給船が利用されている。
 ペルシアの後退のはじまりとなった、前480年の世界最初の大海戦といえるサラミスの海戦において、クセルクセスのペルシアの大艦隊はサロニコス湾に攻め入るが、アテナイの将軍テミストクレス(前524?-460?)が立てた作戦にはまって水道に誘い込まれ、粉砕される。そのとき、ペルシアは1207隻のうち200隻が消失したのに対して、ギリシアは310隻(そのうち新鋭船は200隻、アテナイの無産男子市民が全員が動員されていた)のうち40隻にとどまったという。
 フェニキアの艦隊は見事に闘ったとされる。かれらは、ペルシア艦隊の主力として、小海戦に勝つことはあっても、サラミスの海戦など大海戦では連敗したとしかいいようがない。すでにフェニキアの海事力は衰退していたのである。
 フェニキアに終末が来る。前4世紀半ば、フェニキアの都市は連合し、エジプトと同盟を結んでペルシアに反乱を起こすが、ペルシアに手厳しく報復される。次いで、前333年アレクサンドロス大王が地中海アジアに進出してくる。そのとき、かれはペルシアを猛追せず、まずペルシア艦隊の最良、最強の部分であるフェニキアの艦隊を押さえ込もうとにする。シドンは、大王を諸手をあげて歓迎し、その他の都市もたちまちうち帰順する。しかしテュロスだけが徹底抗戦する。
 アレクサンドロス大王は、前332年テュロスを攻略するにあたって、陸上からはフェニキア人に大陸に属していることを教えるとばかりに、陸からは沖合800メートルにある要塞の島に向けて突堤を築いて攻め、海上からは200隻の三段櫂船を使って攻撃した。このなかには、ペルシア艦隊を離脱したフェニキアやキプロスの艦船が含まれていた。
 この攻城戦で、8000人が殺害され、2000人が磔刑となり、3万人が奴隷とされた。なお、この攻城戦は、敵国人である大王がテュロスの市神に供犠しようとしたのを、テュロスが拒否したことから起きたともいう。
アレクサンドロスのテュロス包囲
▼若干のまとめ▼
 ヘロドトスはギリシア・ペルシア戦争を"文明の衝突"として描きはじめる。「大昔に、フェニキア人はアルゴスの王の娘イーオーをさらって、故郷に連れ帰った。その後、ギリシア人が復讐のために、テュロスからエウローペー[ヨーロッパの語源とされる]を誘拐したが、そのまた報復として別のオリエント人、トロイアのパリスが、スパルタから美しいヘレーネーを連れ去り、その結果トロイア戦争が起こった」と(ヘルム前同、p.256)。
 このエウローペー(エウロペ)はヨーロッパの語源となったフェニキア生まれの姫で、一目惚れしたゼウスが雄牛に変身して、クレタ島に運んだ。その間に生まれたクレタ王の船団が、ヨーロッパ大陸の海上交易を育んだという伝説がある。
 ここに、ヨーロッパ人がこの時代から抱きはじめ、いまなお抱き続ける、アメリカの文芸評論家エドワード・サイード(1935-2003)が批判してやまない、オリエンタリズム(オクシデンド(西洋)のオリエント(東洋)に対する思考と支配の様式)の源流がある。ギリシア人がフェニキア人とはじめて接した時、かれらに驚嘆し、畏敬せざるをえなかったであろう。しかし、その後、ギリシア人が力を持ちはじめ、打倒すべき相手となると、フェニキア人をねたみ、貶めはじめる。
 すでにみたように、フェニキア人が地中海世界に登場してきたのは、フェニキアを圧迫してきたオリエントの大国や、地中海で活躍していたミノス・ミュケナイが後退した時期であった。それはギリシア人あるいはヨーロッパ人からみれば「暗黒時代」であったが、フェニキア人あるいはオリエントからみれば地中海世界に自由に羽ばたける時代となった。この始まりはさしあたって前1200年頃であろうが、その終わりはいつなのか。
 ギリシア・ペルシア戦争の結果、オリエントがオクシデンドの一部に組み込まれる。それを重視すると、前6世紀までの800年間がフェニキアの栄華時代となろう。しかし、その間、フェニキアは前9世紀からふたたびオリエントの大国を宗主国としなければならなかった。さらに、前8世紀になると、ギリシアの植民活動が活発になり、地中海におけるフェニキアの海上交易は制約され、そのなかでフェニキアは東西に分裂せざるをえなくなる。それにもかかわらず、フェニキアへの思い入れが強いと、その栄華がカルタゴに引き継がれたとして、それを終わらせない。フェニキアが、地中海世界において自由に羽ばたき、歴史を築きえたのは、前9世紀までであろう。そうしたことからすれば、フェニキアの栄華時代は、それまでの独立時代の400年間であるといえる。
 地中海は、東西3800キロメートル、南北の平均幅700キロメートル、広さ250万平方メートルという、かなり大きい内海である。夏期、北西の季節風、また冬期、まれに強風が吹くが、比較的に穏やかで、しかも潮流のない海である。それはいままでみてきた交易圏の数倍にも及ぶ広がりを持っている。フェニキアは、そうした地中海に交易網を張り巡らし、それを一つの交易圏として開拓した。ここに世界ではじめて海上交易圏が形成される。しかも、その海上交易圏はすでに文明化したオリエントに加え、「暗黒時代」から脱して、文明化しつつあるオクシデンドにまたがるものであった(これをギリシア・ルネサンスなどという)。
 こうした世界最初の海上交易圏を築いたのが、古代文明を築いた大国の狭間にあるフェニキアのテュロスやシドンといった小さな港市国家であったことは、一つの驚異であろう。それだけに、フェニキアが称賛に余りあろうというものである。さらに、注目すべきことは、いままで取り上げてきた国々のように単なる荷主国でも、海運国でも、中継交易国でもなく、フェニキアは一方では自国の加工業を基礎とした荷主国であるとともに、かなり発達した木造構造帆船を多数保有する海運国でもあり、また優れて中継兼加工交易国でもあったことである。一言でいえば純正な海上交易国であった。それは近世におけるイタリアや、オランダ、イギリスの先駆けであった。
(03/04/27記、10/02/22補記)

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