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1・3・3 カルタゴ、アレクサンドリア-地中海の棲み分け-

▼カルタゴの建国、ギリシアとのつばぜりあい▼
 カルタゴは、前814年に建設されたというが、これも確かでない。カルタゴの最も古い出土品は前8世紀後半のもので、多くは前7-6世紀のものとなっている。さらに、その建国伝説も意味ありげである。その伝説がギリシア人によっているからなおさらである。その頃、フェニキアのテュロスの王位にエリッサという王女がつき、アケルバスというメルカルト神の大祭司で裕福な叔父と結婚する。ピグマリオン(在位前820-744)という弟は、王位と叔父の財産を狙って、叔父を暗殺した。女王は亡命を決意し、部下と財産を船に積み、地中海へ乗り出した。キプロスに立ち寄り、その後、現在のカルタゴの地へ着いたという。
 ここで注目されることは、それが伝統的な交易地(港市)を建設するための商人や船員の移住ではなく、女王を頂点とした貴族や様々な市民の亡命となっていることである。このカルタゴはテュロスを母市とはしなかっただろうし、逆にテュロスからみれば反乱あるいは不満の輩の町ということになろう。そのことを示すかのように、テュロスを母市としない"新しい町"と名付けた。なお、カルタゴに関する史料はフェニキアと同じくように乏しく、それがあるのは前5世紀以後のもので、しかもローマ人によるものである。
 前9-8世紀、フェニキアはアッシリアに圧迫されていた。前701年、テュロスとシドンの王ルリ(在位前725-690)は反旗を翻し、アッシリアの王センナケブリ(在位前704-681)により廃位に追い込まれ、それ以前にルリが征服していたキプロスに逃げ込んだとされる。前11世紀からはじまっていたフェニキアの交易地(港市)の建設も、この時期、東地中海から逃げ出すように進められたとみられる。こうしたルリの廃位逃亡や交易地(港市)の窮迫的な建設が、カルタゴの建国伝説のイメージになったのではないのか。
 さらに重要なことは、カルタゴが建設された時代はギリシアの「暗黒時代」の終わりにあたり、ギリシアの植民活動が最盛期に入っていたことである。地中海最大の島であるシチリアに先着したのはギリシア人であった。前735年にメッシーナ、前734年にナクソスやシラクーサといった、主としてシチリア東部に植民都市を建設していった。それはカルタゴ建国後わずか80年にもならない。それとほぼ同時期に、フェニキア人あるいはカルタゴ人が入ってきたとされる。その後、シチリアはカルタゴ、ギリシア人、そしてローマ人の三つどもえの争奪地となる。
 その争いは、カルタゴにとっては、ギリシア人やローマ人の西ヨーロッパへの進出を阻止することにあった。いま、カルタゴ人のシチリアへの進出がギリシア人の植民を牽制するためであったとすれば、その進出時期に諸説あるなかで、前700年説がもっともらしいこととなる。その入植地は主としてシチリア西部のモティアやパレルモであった。すでに、この時期、ギリシア人の植民圧力はフェニキア人を圧倒する勢いをみせていた。なお、伝説上のローマ建設は前753年である。
 ギリシア人(ポカイア、フォカイア人)は、小アジアから西地中海にかねがね進出していたが、さらなる衝撃は、前600年頃南フランスのマッシリア(現マルセイユ)に、植民地を建設したことであった。さらに、ペルシア軍に追われて、コルシカ島のアラリアに、植民地を建設する。そのかれらの海賊行為が驚異となる。カルタゴはエトルリア(現トスカーナ地方)と協同して、それぞれ60隻の軍船を出して攻める。ギリシア人は、これまた60隻でもって迎え撃ち、40隻を失ったものの、辛勝する。すでに、この時期にエトルリア人や植民ギリシア人の勢力は、侮れないものとなっていた。
 これが、ヘロドトスが『歴史』1:165-6に書き残した、前540年または前535年のアラリアの海戦である。これを契機にして、カルタゴは国のあり方を転換せざるをえなくなる。当時、後述するように、この時代カルタゴはマゴ家によって執政され、盛期を迎えていた。
▼カルタゴ、交易地の取り込み、西地中海を支配▼
 カルタゴは、前7世紀以降、植民ギリシア人の圧力のもとで、海上交易圏(植民市)を維持、拡大するだけでなく、内陸に支配圏を拡大しようとする。それらは、海上交易によって巨富を蓄えたマゴ家が前535-450年にわたって、貴族制社会をリードして行われたという。マゴ家の政治のもとで、建設以後、リビアの先住民に納めてきた貢納が取りやめられ、傭兵軍と艦隊がはじめて編成され、シチリアやサルディニアなどの交易地には防壁が施され、そして内陸部において農業開発が行われた。
 カルタゴは、前7世紀イビサ建設、前6世紀レプティス・マグナ占領、前501年頃カディス占領などにみるように、前6世紀頃から、一方では西地中海に植民市を建設しながら、他方では既存のフェニキア交易地(港市)を取り込み、支配下においていく。後者の場合、カルタゴを進んで新しい母市と仰ぐか、さもなければカルタゴに占領される場合もあったであろう。こうしてカルタゴは西地中海交易の中心地となる。
 いわば、東フェニキアに対する西フェニキアが生まれ、地中海交易圏は東西に分断され、カルタゴは西地中海交易圏を支配することとなった。そうした動きを掣肘する力は、すでにフェニキアの母市にはなかった。西フェニキアの交易地(港市)はカルタゴに従属したが、それは名目的なものであったとされる。
カルタゴの勢力圏
 このカルタゴの西地中海における植民市の建設や取り込みについて、マドレーヌ・ウルス=ミエダン氏は「ギリシア人の軍事的圧迫やかれらとの商業上の競争があったばかりに、カルタゴはやむを得ず、[スペイン・]タルテッソス地方との関係を維持するためにも、錫や金の貿易路を開発するためにも欠かせない重要な場所に、大挙定住した」が、それは「厳密に経済的な性格のもので、軍事的な性格はほとんど持たなかった」とする(同著、高田邦彦訳『カルタゴ』、p.46-47、白水社、1996)。
 それに対して、栗田伸子氏は、フェニキア人の交易網が水平的なネットワークであったのに対して、カルタゴの西方交易綱は「カルタゴを中心とする一極的かつ垂直的なネットワークが形成されていったように見える」とし、そこに「カルタゴ帝国」が形成されたとすることを否定しない。そして、カルタゴの「海上覇権」の頂点は前5世紀初頭であったという(同他著『興亡の世界史03 通商国家カルタゴ』、p.131、講談社、2009)。
▼地中海から大西洋へ、カルタゴの大航海時代?▼
 カルタゴの海上交易圏の拡張は、いまみた交易地(港市)を取り込みとしてはじまるが、2つの航海事業が喧伝されてきた。それは、前450年頃ヒミルコがポルトガルから北上して、イングランドの錫の産地コーンウォル(さらにアイルランドまで)に至った航海と、前425年頃ハンノがモロッコを経由した後、さらに南下して、セネガル(さらにカメルーンまで)に至った航海である。
 これらはいずれもカルタゴの国家事業として行われたとされる。特に史料が残っているハンノ航海は、後述するヒメラの海戦の敗戦によって、シチリア攻略が失敗した後に行われた。カルタゴは、この敗戦で地中海覇権取りをあきらめ、大西洋に新天地を求めるようになったとされる。
 ベルハルト・ヘルム氏は、ハンノの航海を詳しく紹介している(同著、関楠生訳『フェニキア人―古代海洋民族の謎―』、p.326-332、河出書房新社、1976)。その目的は、ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)の外に植民地を建設する、そしてアフリカの黄金を獲得することにあった。マゴ家の一員ともさ
ハンノの航海
れるハンノの航海は、4次にわたる大植民計画であった。
 第1回航海では、50人の漕ぎ手がいる60隻の大船に男女3万人(?!)を乗せ、6-7つの植民地を建設した。かれらは、最終的にはギニア湾まで行き着いたのではないかともされる。 それに対して、ウルス=ミエダン氏はすでに「フェニキアの植民者たちが定住していたが、[今回さらに]……モロッコ海岸にこのような踏査旅行を試みたのち、ハンノは7個所の要地に足を留めたが、これは、かれが遠征の同行者である新植民者らを定住させるため慎重に選んだ農業拠点、または都市拠点であった」とし、さらにそれ以南における金交易の拠点づくりであったとする(ミエダン前同、p.74)。
 このハンノ航海は、すでにみたネコ二世(在位前604-562)の命を受けて、フェニキア人がアフリカ大陸を時計回りで、紅海からジブラルタル海峡まで3年がかりで周航したのと、同時期でもある。西と東のフェニキア人がアフリカ大陸を周航していたことになる。これら航海の時代をフェニキアあるいはカルタゴの大航海時代などと呼ばれるが、それもロマンでであろう。ヘロドトスが書き残した有名な"沈黙交易"は、ハンノ航海からえた伝聞であろう。
 ハンノ航海より前の前6世紀頃のアフリカの土着民との交易について、偽スキュラクス(前4世紀前半)の『周航記』によれば、カルタゴ人は香油、宝玉、陶器(とくにアッティカ陶器)を運んできて、その代わりにいろいろな動物―ガゼル、ライオン、ヒョウ―の皮や象牙、そしてワイン(?!)を受け取ったとしている。カルタゴ人の沈黙交易
 カルタゴ人の話には次のようなこともある。「ヘラクレスの柱」以遠の地に、あるリビア人の住む国があり、カルタゴ人はこの国に着いて積荷をおろすと、これを波打際に並べて船に帰り、狼煙をあげる。土地の住民は煙を見ると海岸へきて、商品の代金として黄金を置き、そ調から商品の並べてある場所から遠くへさかる。するとカルタゴ人は下船してそれを調べ、黄金の額が商品の価値に釣合うと見れば、黄金を取って立ち去る。釣合わぬ時には、再び乗船して待機
 していると、住民が寄ってきて黄金を追加し、カルタゴ人が納得するまでこういうことを続ける。双方とも相手に不正なことは決して行なわず、カルタゴ人は黄金の額が商品の価値に等しくなるまでは、黄金に手を触れず、住民もカルタゴ人が黄金を取るまでは、商品に手をつけないという。
カルタゴ人の沈黙交易
 カルタゴ人の話には次のようなこともある。「ヘラクレスの柱」以遠の地に、
あるリビア人の住む国があり、カルタゴ人はこの国に着いて積荷をおろすと、
これを波打際に並べて船に帰り、狼煙をあげる。土地の住民は煙を見ると海
岸へきて、商品の代金として黄金を置き、そ調から商品の並べてある場所か
ら遠くへさかる。するとカルタゴ人は下船してそれを調べ、黄金の額が商品
の価値に釣合うと見れば、黄金を取って立ち去る。釣合わぬ時には、再び乗
船して待機 していると、住民が寄ってきて黄金を追加し、カルタゴ人が納得
するまでこういうことを続ける。双方とも相手に不正なことは決して行なわ
ず、カルタゴ人は黄金の額が商品の価値に等しくなるまでは、黄金に手を触
れず、住民もカルタゴ人が黄金を取るまでは、商品に手をつけないという。
出所:ヘロドトス著、松平千秋訳『歴史』中、4:196、p.110、岩波文庫、1972)

 ヒミルコの航海の関わりでいえば、ローマ時代の地理学者ストラボン(前63?-後24?)によって、前320年頃マッサリア出身のピュテアスがガリア海岸を北上し、コーンウォルに達してから、イギリスを時計回りで進み、オークニー諸島あるいはシェットランド諸島付近とみられる「凝結した海」に突入した後、帰国したと記している。このピュテアスの航海はアレクサンドロス大王から与えられた任務によって行われたともされる。また、その航海記には議論があるが、地中海から北の海へ向かった大胆な航海であった。その後が続かない。ピュテアスの航海についてはeBook【ロナルド・ホープ著『イギリス海運史』第1章】を参照されたい。
 フェニキア人が、ジブラルタル海峡を超えて、どこまで乗り出しかについては謎とされているが、アフリカ海岸はモガドル島までは行き着いていた、またカディスのフェニキア人漁師が北大西洋でマグロを追っていたという史料もあり、そしてストラボンはフェニキア人がマディラ諸島やカナリア諸島に足をのばしていたとする。
▼農業国、そして領域国家への変身▼
 ここで特筆すべきことは、貴族たちがカルタゴ南方に広がる肥沃の平野を奪取あるいは買収して、先住民を追い出したうえで、農耕民あるいは農耕奴隷として使用する、大規模な農業生産を行うようになったことである。この大土地経営あるいは大農業経営はチュニジア全域に及び、オリーブ、葡萄、果樹、ナツメヤシなどを栽培し、牧畜を行う。このカルタゴの拡張は、伝統的な交易地(港市)の枠組みを大きく打ち破るものであった。いまや、ギリシア的な植民都市をも越えて、領域国家となった。
 こうした農業国、そして領域国家への変身は、当時の地中海世界の変動に深い関わりがあったとみられる。前6世紀末から前5世紀にかけて、東地中海は新バビロニアそしてペルシアの支配の下に置かれ、フェニキアはすでに勢いがなくなり、西地中海ではギリシアの植民活動も成熟局面に入っていた。地中海世界は、東のペルシア、中央のギリシア、そして西のカルタゴに大きく引き裂かれていた。そのもとで、カルタゴの東地中海との交易は著しく制限され、西地中海に押し込められてしまったといえる。
 こうした閉塞状態を切り開くため、カルタゴはアフリカの内陸部に支配圏を拡大しようとしたのではないか。すでにみたハンノの移民航海も、その一環ではなかったか。後年、前228年頃建設されたカタルヘナ(カルタゴ・ノヴァ)を中心としたスペイン開発は、後でみる第2次ポエニ戦争の敗戦によって縮小した交易を補完することにあったとみられる。
 カルタゴが農業国に変身しても、海上交易を維持するためには植民ギリシア人、さらにローマ人との絶えざる抗争を続けざるをえなかった。この接触のなかでカルタゴ人はギリシア人から大農業経営を学んだとされる(ローマ人がさらにそれを学ぶ)。前405年には、シラクーサを除く全島を一応掌握したものの、それはつかの間の優位でしかなく、シチリアの西部に限られていた。
 カルタゴの海上交易圏が、リビアからモロッコを経てセネガル、シチリア、サルディニア、コルシカ、南スペイン、そしてコーンウォルに広がったことに目を奪われ、他方における大土地所有あるいは大農業経営を重視せず、カルタゴを単純に「海洋帝国」とか、「通商大国」とか呼ぶことが多い。それはカルタゴの興亡を誇張するための造語であろう。むしろ植民大国あるいは農商大国と呼ぶべきではないか。
 なお、ウルス=ミエダン氏においては、カルタゴの植民市あるいは交易地(港市)を帝国と呼ぶよりも、海上経済連合の方が妥当としている。
▼シチリアをめぐる紛争、ローマ人と交易条約▼
 カルタゴとエトルリアとの接触は、すでにみたように前6世紀末から前5世紀にかけて強まり、カルタゴは鉄や銅、逆にエトルリアは金、銀、錫を、それぞれ求めて交易するようになっていた。カルタゴは、西地中海における海上交易独占を維持するため、ギリシアの敵は味方だとばかりに、前6世紀から前3世紀にかけてローマと少なくとも3回(あるいは5回)にわたって海上交易条約を結んでいる。
 前509年の第1回条約は、ローマ人はカルタゴ以遠の海域には立ち入らない、ローマ人がカルタゴ、リビア、サルディニアで取引する場合役人の立ち会いを必要とする、そうした取引による代金決済はカルタゴが補償する、ローマ人はシチリアではカルタゴ人と同等の扱いを受ける、カルタゴ人はローマ支配の町では不正を働かない(特権はないという意味か)、カルタゴ人はローマ支配となっていないラテン人の町に立ち入らない、カルタゴ人はラティウム(イタリア中部)の地に砦を築かないといった内容を含んでいた(長谷川博隆著『カルタゴ人の世界』、講談社学術文庫、2000などを参照)。
 この条約は、カルタゴの支配圏におけるローマ人の交易権を一定の範囲で承認し(自由交易の観点からみれば、ローマ人の交易権の制限)、他方カルタゴはローマの支配圏を侵害しないことを保証したものとなっている。しかし、ローマの勢力が伸張し、カルタゴそして植民ギリシアとのあいだの力関係が拮抗してくると、カルタゴ・ローマ条約はカルタゴがローマとの衝突を避けるための条約となっていく。例えば、前279年のピュッロス条約ではお互いに防衛しあうが、そのいずれの場合であってもカルタゴが艦隊を提供するという取り決めとなる。
 前272年、ローマが南イタリアに残されていたギリシア植民地を攻略して、イタリア半島を掌中に収めると情勢は一変する。ローマは、それまでの友好関係などあっさりとほごにし、むき出しの領土拡張を露わにして、シチリア攻略に乗り出す。その野望は、西地中海において海上交易を独占してなお不死身のカルタゴをなきものにすることにあった。それがいわゆる3次にわたるポエニ戦争である。
 カルタゴは、これらの戦争にすべて敗北して、完膚までに打ちのめされる。カルタゴは、前814年の建国から前146年の滅亡までの、670年(実質は500年ぐらいであろう)という長い歴史の幕を閉じる。他方、前2世紀初めにマケドニアやシリアを服属させていたローマは、カルタゴに勝利することによって地中海世界の覇権をわがものにし、ローマ大帝国への歩みを強めることになった。
 ポエニ戦争は表面的には西地中海の覇権をめぐる戦争であった。栗田伸子氏は、ローマが第3次戦争を前にして出された、「海から80スタディオン(約14.2キロメートル)以上離れたところに移れ」という内容を含む最後通告について、それは地中海は「ローマに渡して、内陸で生きよ。そこで農業と静穏を楽しむがよい―このようにローマのコンスルは海上帝国一般への侮蔑を示しつつ、カルタゴの過去の栄光を貶め、海を捨てるよう命じ」たものだという(栗田他前同、p.378)。
 高田邦彦氏は、その意義ついて「周辺諸民族を力によって征服し支配する帝国主義」国家のローマ(エジプト、ヒッタイト、アッシリア、ペルシア、マケドニア、スパルタ)と、「周辺諸民族と交易によって共存共栄を図る商業」国家のカルタゴ(クレタ、フェニキア、アテナイ)との宿命的な対決であった。また、その第3次戦争はローマの弁明の余地もない、非人間的な規則違反であったとする。
 「古代地中海の伝統を破らず、ローマに対して不法な悪業を犯さ」なかったにもかかわらず、カルタゴが「160年にも及ぶ死闘の末、帝国主義国家の代表選手によって打ち倒されたことは……人類にとって一大不幸であった」と哀悼する(以上、ウルス=ミエダン著『カルタゴ』、訳者あとがき、p.127-9、白水社、1996)。
 ただ、ギリシアのポリスのなかで、帝国主義的であったのはすでにみたように、スパルタではなく、アテナイであった。教科書的イメージから、それを取り違えているのは、ローマの専門家ばかりではないであろう。なお、ギリシアにあって、コリントスはすでにみたように海上交易の先駆けしたポリスであったが、カルタゴが滅亡した同じ前146年に、これまたローマ軍によって壊滅させられている。ローマの破壊力に驚嘆せざるをえない。
▼弱い海軍、ガレーの漕ぎ手は奴隷に依存▼
 カルタゴは「海洋帝国」とか、「通商大国」とか呼ばれたからには、それなりに多くの商船やガレーがいたに違いない。しかし、その海事力を示す史料も少ない。
 ウルス=ミエダン氏は、何を根拠とするか不明のまま、船主や船員の財産である商船を、カルタゴは「何千隻も所有していた」という。また、平時における海軍の軍船はわずかであり、それは交易路の保持に当たっていた。戦時になると、ガレーを建造したが、同時に商船も徴発した。軍船の数は100-200隻であったとする(ミエダン前同、p.72-3)。
 カルタゴはローマの陸軍力に敗れたとされる。その通りであろうが、海軍力においても明らかに敗れており、フェニキアと同じように見かけ倒しであったというしかない。
 それを象徴するかのように、カルタゴの大航海時代とされる最中の、前480年にカルタゴ艦隊がシラクーサ艦隊にパレルモとチェファルの中間に位置するヒメラの海戦で敗れている。この敗戦は、サラミスの海戦でペルシア・フェニキア艦隊がギリシア艦隊に敗れた、奇しくも同じ年であった。この2つの海戦は、ペルシアとカルタゴが攻撃協定を結んで行われ、ともにギリシアに破れたものともされる。
 ヒメラの海戦では、マゴ家のハミルカムは、支配地からかき集めた30万人の大軍とともに、200隻余の軍船と3000隻の輸送船を率いて、シチリアに乗り込んだ。しかし、シラクーサの独裁者ゲロンに完膚無きまでにうちのされる。
 「海の女王」はいつも敗れていたわけではないが、かなりひ弱であった。カルタゴは、海上交易圏を維持、拡張しようとして、侵略的か防衛的かはともかく、フェニキアと違って様々な戦争にかかわらざるをえなかった。それが結果として命取りになった。
 シチリアをめぐる攻防のなかで、五段櫂船といった巨艦ガレーが建造されるようになり、ポエニ戦争はそれが主力艦となった。
 第1次ポエニ戦争(前265-241年)は、主として海戦であった。戦前の前260年に、ローマはカルタゴに倣って五段櫂船100隻、三段櫂船20隻を建造して海軍を創設し、軍船に攻城戦用の"鈎付き舷梯"(カラス)を装着して、カルタゴと対等に渡り合っている。前257年には、ローマはカルタゴとほぼ同じ数の350隻という大艦隊を編成して、チュニスに上陸している。


鈎付き舷梯(カラス)とその装備場所
出所:塩野七生著『ローマ人の物語Uハンニバル戦記』、p.225、新潮社、33、1993
 第2次戦争(前218-201年)は、ハンニバル(前247-183年/182)戦争として有名であるが、カルタゴのガレーは100隻ほどが参戦する。その敗戦で、カルタゴの軍船500隻(それには輸送商船が含まれよう)が焼却処分を受け、その後の軍船は三段櫂船10隻に制限され、さらにシチリア、サルディニア、南スペインから撤収させられる。この丸裸の状態で、第3次戦争(前149-146年)がはじまる。そのとき、急遽、大型のガレーを50隻も建造するが(家屋の梁を船材、また婦人の髪の毛を綱にする)、すでに勝敗は決していた。
 カルタゴの軍船、なかでもガレーの漕ぎ手は当初、カルタゴ人であったが、次第に奴隷に置き換えられる。例えば、前205年の海軍編成時に、5000人の奴隷が購入されている。また、商船にも工場、商店や農場と同じように、家内奴隷が働いていたという。さらに、陸軍においても傭兵が用いられたが、それは人口が少なかったからという説明が与えられてきた。
 前6世紀頃まではそうであったであろうが、それが増えても傭兵制を維持し続けた。前3世紀ごろ、カルタゴの人口は約40万人で最多であったとされ、カルタゴ人と奴隷、先住民、外国人とが、それぞれ半数であった。それ以外に、町の外にカルタゴ人が10万人いたという。少ないどころか、巨大な人口の集積というしかない。アテナイに次ぐギリシアの大都市であったシラクーサの人口は、前5-4世紀、30万人であった。
▼現代に遺る長方形の商港と円形の軍港▼
 カルタゴには商港と軍港とがあった。この遺跡は、第2次ポエニ戦争前後の前2世紀頃のものとされ、今でも確認することができる。それは海側を防壁で囲み、防波堤から水路(幅20メートル)に導かれて、まず長方形の商港(長さ500メートル、幅300メートル、砂岩積みの岸壁付き)が、そして水路を経て、円形の軍港(直径300メートル、仮設出口付き、220隻収容可能)が設けられていた。カルタゴの商港の開口部は、鎖で閉じられるようになっており、閉鎖型の港である。さらに、その奥に、軍港をおくという防御ぶりである。
 この軍港には220隻が係留できたという。戦時のガレーは100-200隻ぐらいであったとされるので、その全数を収容できる規模であった。その構内は商港から見えないようにされていた。この軍港は、文字通り、軍船の単純な係留施設とみられるが、それより大きく、商港とされるものは商船ばかりでなく、軍船の荷さばき、修理、そして係留施設でもあったとみられる。それら以外に、兵器庫や修理ドック、荷さばき場もあったという。
 なお、こうした内陸部に掘り割り型式(フェニキア語でコトン)の人工港(ドック)を築造するといった様式の港は、フェニキアや東地中海にはないとされる。そうした工法を考案したのは、カルタゴ人ということになるが、なかでもカルタゴの人工港は特に大きい。この商港の縦横の長さは、カルタゴがシチリアのモティアに建設したコトンよりも、10倍も大きい。モティアのそれは水路を持った、長さ51メートル、幅35メートル、深さ3メートルの、長方形の係留あるいは修理用のドックであった。
 この2つの古代カルタゴの港の解説としては、マリア=ジュリア・アマダジ=グッゾ著、石川勝二訳『カルタゴの歴史−地中海の覇権をめぐる戦い』、白水社、2009)に詳しい。
古代カルタゴの商港と軍港
(想像図)
古代カルタゴの商港と軍港跡
(航空写真)
▼ステロ・タイプの交易品目と原材料の供給▼
 最後に、カルタゴの海上交易であるが、それまた心許ない。勢いよく筆を進めている人びとも、すでに述べた交易地の展開や2つの航海事業を越えることができず、はたと立ち止まるかのようである。先に見た栗田伸子氏らによる、日本人として初めてカルタゴを本格的に扱った書物にしても同じであって、どうしてカルタゴが通商国家といえる内容は示されていない。
 ウルス=ミエダン氏は"商業"という一節を設けているが、内容はあってないようなものである。それでも、「ローマの方は……征服する必要に応ずるために、租税と高利貸」に頼ったが、「それに引きかえ、カルタゴは生産し販売し交換した。その[国内?]需要は輸出ほど大きくなかったので、収支決算はつねに黒字になる傾向があった。カルタゴは文明世界を顧客としており、その世界がかれらにとってもはや十分でないとなれば、アフリカやヒスパニアにおもむいて、新しい販路と新しい原料供給地とをみずから開拓した」。そして、「カルタゴ人は数多くの商取引において、仲介者の役目を果たしたようである。かれらはあらゆる港に姿を見せ、当時知られていた世界の果てまでも取引先を持っていた。カルタゴとその植民地の産物だけでは、古代の歴史家の誰しもが証言しているあの信じがたいほどの富を、十分に説明し尽くすことができない」と概括する(ミエダン前同、p.79-80)。
 カルタゴ産品の輸出品は、織物、金属器具、陶器、オリーブ油、葡萄酒などであった。これら輸出品は、カルタゴの特産品と呼べるものはなく、しかもフェニキア産のような銘柄品とはいえなかったようである。輸入品は、サルディニアの小麦、シチリアの葡萄酒、油、西モロッコの魚、内陸アフリカからの奴隷、象、ダチョウの羽や卵、毛皮、宝石、黄金、そして南スペインの銀やコーンウォルの錫であった。これらのほとんどが、再輸出されていたという。それら含め、カルタゴの輸出品はその交易圏の広がりを示しているが、東地中海世界における交易品とほとんど同じものであり、品目数はむしろ少なくなっている。
 なお、交易量はもとよりとして、それらの仕向地もほとんど不明である。カルタゴの小麦がギリシアの勢力圏に輸出されていた、またアフリカの仕向地は未開地が多く、それ向けの交易品は安価なもので足りたとされる。
 前千年紀になると、地中海世界における地域交流が深まり、そのほぼ同一の風土や気候のもとで、ほぼ似通った農工業生産が行われるようになった。その結果、海上交易品も、贅沢品のみならず、農産品や鉱産品においても、大同小異になっていたとみられる。また、その時期、海上交易圏は地中海全域にみかけ広がったとはいえ、大同小異な交易品しか取引されなくなってくれば、大国や小国の制海権に応じて海上交易圏はいくつかに分断され、そのあいだに交易障壁が築かれ、実質的には縮小したとみられる。カルタゴは、平時、ギリシアの支配圏や東地中海の国々と交易したであろうが、それ以前のように右肩上がりで伸張することはなかったであろう。
 カルタゴの海上交易は、加工交易中心のフェニキアとはかなり違った様相を呈しており、またカルタゴの海上交易は新しい交易を切り開くことはなかったといえる。長谷川博隆氏などは、先のウルス=ミエダン氏の概括を否定するかのように、カルタゴの海上交易は加工品より原料品を扱ったとし、それに従って中継交易の比重が大きかった。また、交易地においては武力を借りて市場支配を行ったとしている。そうしたことからかカルタゴ賛辞はヨーロッパ人の虚言ではないかとみなしている。
カルタコでの荷下ろし
3世紀、ローマ時代のモザイク
バルドー国立博物館(チュニジア)蔵
▼港市を超えて栄え、大国として滅亡▼
 カルタゴに対するギリシア・ローマ人の毀誉褒貶にいちいちつきあう必要はない。すでにみてきたことから一定の評価は与えうる。ふたたび同じ論者が登場する。ウルス=ミエダン氏はカルタゴ人を商人の功績のみでなく、「古代の最も優秀な船乗りであったかれらは、おそらく知性ある人びとであったろうが、同時代人にとっては不可解な存在であったため、誤解された」と弁護する(ミエダン前同、p.123)。
 それに対し、長谷川博隆氏から「カルタゴは、交易人としての自由進取の気風に乏しく、個性がないし、文化的な創造力に乏しい」とされる始末である(長谷川前同、p.29)。確かに、カルタゴ人は目立った遺跡や遺物を、後世にほとんど残さなかった。さらに、ローマ人からみると「カルタゴ人は各国語を操り、狡知に長けた物欲の徒であり、その一方、祭祀の際の幼児犠牲、人身御供の慣行などから、残忍な民族とされ」たという(長谷川前同、p.25)。
 さらに、「ローマの征服欲と対比的に、カルタゴ人の平和愛好心―商業の民は平和の重要さを知悉していた―を強調する」ことは、いかがなものかという(長谷川前同、p.25)。カルタゴが、伝統的なフェニキアの港市国家と同じように振る舞ったとは到底いえないし、好戦的で拡張的な国家でなかったとするわけにはいかない。ただ、それほど侵略的でなかったといえる。
 メートランド・A・エディー氏がいうように、ギリシア人やローマ人と対抗するためとはいえ、「伝統的なフェニキアの政策、すなわち交易活動にのみ執着し自分の都市の監理のみに専念する、という方針を捨て去った。そして後背地域を拡大し、土着民部族を征服し、傭兵軍隊と大艦隊を築き、西方フェニキアのすべての町を代表するようになった。西地中海を支配するための十分な国力をもち、侵略的な対外政策を推進した。戦争を開始し、仕かけられた戦争では果敢に防戦した。カルタゴは本国のテュロスとは全く別の国家に成長を遂げた」のである(同著、桑原則正訳『海のフェニキア人』、p.72、タイム・ライフ・ブックス、1977)。
 アレクサンドロスがテュロスを攻略したとき、テュロスの人びとはカルタゴが応援に来ると期待していたが、かれらは来なかった。ことほど左様に、カルタゴ(人)はカルタゴ(人)であって、フェニキア(人)の延長線では語りえない。それらは別物として扱うべきである。しかし、エディー氏はどのような「別の国家」だったのかは示してくれない。それを推察すれば、カルタゴという国はフェニキアの伝統に徹しきれない、ローマのようにもなれない、交易と農業、膨張と協調に二股かけた、農商国家であったのではなかろうか。 アメリカの2003年イラク侵略戦争は、ローマの政治家大カトー(前234-149)がいうように、そこにイチジクという"うまいもの"(正確に言えば、西ヨーロッパの交易圏)が転がっているからには、「カルタゴは滅ぼさねばならない」として行われように、はじまった。
セイレンと闘うオデュッセウス
海賊を罰するディオニューソス
3世紀、ローマ時代のモザイク
バルドー国立博物館(チュニジア)蔵
そのアメリカも、ローマの将軍小スキピオ(前185-129)がカルタゴの劫火をみながら、「ローマの運命もいつかはこうなるだろう」といったようになるだろう。
 カルタゴのその後であるが、その廃墟の上にローマ属州アフリカの植民市が建設される。特に、後2世紀になると大規模な改修工事が施され、その人口は20万人にふくれあがり、ローマとアレクサンドリアに次ぐ、ローマ帝国の第3の都市となる。そして、アレクサンドリアとともに、ローマの食糧補給の大半を引き受ける、アフリカ小麦の有数の積出港として栄える。
▼「ヘレニズム」時代の海上交易の広がり▼
 「ヘレニズム」時代は、アレクサンドロス大王(在位前336-323)の前4世紀半ばのペルシア征服から前1世紀後半のローマ支配の確立までの期間を指し、それに伴い地中海とオリエントでギリシアの文化が支配的となった時代である。それによって、地中海は単一の海上交易圏として再構築されたかにみえる。しかし、それはアレクサンドロス大王の死によってうたかたとして消える。
 W.W.ターン氏は、その後の「ヘレニズム」時代の海上交易について、一般論としてまず「前3世紀になると交易上の優位は明らかにギリシアからエジプト、ロドス、それにアジアの沿岸地域へと移っていった。……アテーナイの商業は、前2世紀後半の復活まで、確かに衰頽していた。しかしコリントスは、アジアとイタリアとの中継貿易によって、前2世紀にはおそらくエペソスと競合できたのである。……実際に大躍進の多くが新興諸国に波及していった」ことに注目する。
 そのなかにあって、中核交易都市が形成され、中継交易によって栄えたとする。「前170年に2パーセントの輸出入関税がロドスで、前401年のアテナイの20万ドラクメーに対して、100万ドラクメーを産み出したのである。しかし、世界の最も富裕な都市の大部分―セレウケイア[セレウキア・ピエリア]、アンティオケイア、ロドス、エペソス、キュージコス[マルマラ海]、コリントス、デーロス―が中継貿易によって養われていたというのは奇妙である。……しかし、アレクサンドレイアやテュロスは大規模な中継貿易も営んでいたのである。最大のヘレニズムの港であるアレクサンドレイアと、前88年以後イタリアの東方貿易の玄関港となった時のカムパーニアのプテオリ[現ポッツオリ]とを比較することは興味深い」(W.W.ターン著、角田有智子・中井義明訳『ヘレニズム文明』、p.225、思索社、1987(1952))。ただ、ターン氏が、それら都市が中継交易によって栄えたことを「奇妙」とするのは、不可思議である。
 さらに、「ヘレニズム」時代の交易品とその産地について、詳細な説明を行っている。それを一覧表として整理すれば下表のようになる。これをみても明らかなように、中継交易都市のうち、目立った自国産品を持つ都市はアレクサンドリアに限られている。それがアレクサンドリアをして最大のヘレニズムの港たらしめたのである。したがって、それ以外の都市は自然な成り行きとして中継交易によるしかなかったのである。それは「奇妙」でも何でもない。なお、この時代における大量交易品は穀物であり、香料が奢侈品として大きな地位を占めるようになった。
「ヘレニズム」時代の交易品とその産地
金属
金:スペイン、ヌビア、ベレニーケー、アラビア
銀:マケドニア、アッティカ、スペイン
銅:キュプロス
鉄:ポントス、アルメニア、中国
錫:コーンウォール、ブルターニュ(海路、陸路マッサリア経由)
水銀:カッパドキア、ラオディケイア、エペソス
穀物
エジプト、キュレナイカ、ケルソネーソス、ヌミディア、マシニッサ
ブドウ酒
北部シリア、イオーニアー、ラオディケイア
食料品
油:アテーナイ
蜜:アテーナイ、キュクラデース諸島
塩魚:ビュザンテイオン
チーズ:ビテュニア
果物と木の実:ポントス
なつめやし:バビロニア、ジェリコ
干しいちじく:アンティオケイア
干しブドウ:コース、ベイル−ト
干しすもも:ダマスコス
砂糖(医薬品):インド
織物
亜麻織物:アレクサンドレイア、ボルシッパ、コルキス
毛織物:アイオーリス、キュレナイカ、ミーレートス、シリア
カーテンや金糸織りの布:ペルガモン
じゅうたん:アイオーリス
素マント:キリキア、アレクサンドレイア
綿:アッシリア、インド
絹織物:中国、コース、フェニキア
日用品
紙(パピルス):アレクサンドレイア
羊皮紙:ペルガモン
ガラス:アレクサンドレイア、シドン
スポンジ:ギリシア
石材
瀝青:マケドニア、トロアス
アスファルト:エジプト、バビロニア
アスファルト分を含んだ土:ロドス、セレウケイア
大理石:パロス、アテーナイ、エウボイアー、タソス
蛇文石:エジプト、テーノス
緑大理石:ターユゲトス
赤大理石:ドキメイオン
雲母:カッパドキア
花崗岩:エジプト
材木
木材:マケドニア、キリキア
杉:レバノン
松:キュプロス
樫:バシャーン
珍木:ポントス、ソマリーランド
黒檀:インド
奢侈品
紫貝:フェニキア、ギリシア
染色:イオーニア、小アジア西部
象牙:インド、アフリカ
医薬品:ポントス
アメジスト:エジプト
トパーズ:アラビア湾
エメラルド:エチオピアのタルミス
真珠:インド、ペルシア湾
紅玉髄:サルディス、バビロニア
琥珀:バルト海(琥珀の道)
鼈甲:インド、トローゴデュテー海岸
金細工:アレクサンドレイア
奴隷
トラーケー、シリア、小アジア
香料
シナモン:アラビア、インド
肉桂、甘松香、甘松、プデリウム:インド
乳香、没薬:アラビア
ステユラクスやさまざまな樹脂:ピシディア、セルゲー
香料用の灯心草:ゲソネサレト湖
バルサム:イェリコ
軟膏、香水:アレクサンドレイア
出所:W.W.ターン著、角田有智子・中井義明訳『ヘレニズム文明』、p.226-231、思
索社、1987(1952)
注:地名、原文のママ
▼アレクサンドリア、世界最大の交易港▼
 前332年、テュロス攻略後、アレクサンドロス大王はエジプトを無血占領し、翌年アレクサンドリア港を建設する。マケドニア艦隊の司令官ヘゲロコスが、エーゲ海を平定して、アレクサンドリアに入る。これにより、東地中海の制海権は、マケドニアのものとなった。しかし、アレクサンドロス大王の早すぎた死によって、東地中海は再び分断されることとなった。
 エジプトのナイル・デルタに、アレクサンドリアという都市が築かれ、前305年にプトレマイオス朝が興る。この王国は同じマケドニア人のセレウコス朝シリアと争って、地中海アジアの覇権を掌中に収める。その領土は、パレスティナ、フェニキア、シリア西部から、アナトリア南西部、キプロス、エーゲ海の一部にも及んだ。この王国は、「ヘレニズム」世界のなかで最も繁栄した王国となっただけでなく、「ヘレニズム」世界における交易と学問の中心となった。それはローマの時代になっても同じであった。
 しかし、その画期的な貢献のわりには、このプトレマイオス朝エジプトの寿命は意外と短かった。前2世紀以降、プトレマイオス朝は弱体化し、ローマの干渉を受け、そのたびに領土は侵食されていく。それを維持しようとして、クレオパトラはカエサルやアントニウスを迎え入れるがすでに遅く、アクティウムの海戦でアウグストゥスに敗れ、前30年クレオパトラ七世(在位前69-30)が自殺し、古代エジプトは終焉する。それによって、地中海アジアの覇権はローマのものとなる。その後、約7世紀もの間、エジプトはローマ皇帝直属の属州として統治され、皇帝の蓄財に役立てられる。アレクサンドリアの人口は、プトレマイオス朝時代30万人、ローマ時代100万人であった。その半数はギリシア人であった。
 アレクサンドロスが専制君主「アジアの王」を目指したように、プトレマイオス朝もまた国家が産業、交易、そして金融を全面的に統制下においた。エジプトの主要な産物である小麦が年貢として納められると、アレクサンドリアにはある王の倉庫に集められ、貯蔵され、船積みされる。その船積量はローマ市民が必要とする穀物の3分の1にも及んだ。このエジプト小麦は安価だったため、イタリアの中小農民を没落に追い込んだ。織物は原料別に管理されていた。油用のゴマやハズ、亜麻仁、紅花などは、すべて買い上げられ、精製された上で、国内外に売られた。パピルス製造、製塩などに統制を加えていた。それらの一部は輸出された。
 アレクサンドリアは、従来通り、地中海から木材、金属、大理石、羊毛、紫染料、ブドウ酒、オリーブ油、またアフリカから金や象牙、珍木などを輸入していた。それに加え、「ヘレニズム」世界の広がりのなかで、シルクロードやインド洋、そして紅海を経由して、香料、香水、乳香、宝石、貴金属、黒檀といった東方の産物が持ち込まれるようになった。それらは香水や軟膏に加工されて、再輸出されるようになり、それによってエジプトの輸出品は品目が増え、しかも高価になった。それはエジプトにおける加工交易の始まりといえるものである。こうして、プトレマイオス朝の国王は、ファラオを同様、大工業家にして大交易人になっていった。
 エジプトの輸入税は輸入を抑制するよう設定されており、王の財政を大いに潤した。輸入香料は、王の決めた価格でまず買い取られ、その後25パーセントの輸入税をかけて売りさばかれた。特に羊毛やオリーブ油の輸入税は高率であった。
 東方産物の交易路は、海路:インド洋からアラビア半島南岸のアデンに入り、陸路:アラビア半島を北上し、ペトラ、パレスティナ、スエズを経て、アレクサンドリアに至った。この交易路を短縮し、また東アフリカとの交易(特に戦像の確保)を開発するため、ファラオやペルシアの時代に建設されたことのある、紅海からナイル河に至る運河が幾度か再開されもした。前2世紀初め、プトレマイオス朝がシリアやエーゲ海から後退すると、その反動として東アフリカ探検が進められ、ソマリーランドのガルダフィ岬(現アシール岬)、さらに香料岬と呼ばれた「南の角」(アルリカの角)一帯に到達していたとされる。
▼エジプトのクレオメネス、国際穀物市場を組織▼
 前332年、アレクサンドロス大王は征服したエジプトを、居留ギリシア人でナウクレーロス(商人船主)のクレオメネス(のちのプトレマイオス一世(在位前305-283))に統治させる。クレオメネスは、アレクサンドロスが死ぬまで地方総督として、エジプトに加えて、リビア、キュレネなどの財政に責任を負い、エジプトの艦隊や傭兵軍の設立、財政の再建、穀物市場の組織化、アレクサンドリアの建設などに携わった。このアレクサンドリアの産み親から、プトレマイオス二世(在位前283-46)がエジプトを引き継いだとき、国庫には8000タラントンという、仰天するほどの富が貯えられていたという。
 アレクサンドロス大王はギリシア世界における穀物交易の重要性を知り尽くしていた。かれはアテナイの地中海の海上覇権を粉砕した後で、腹心のクレオメネスに国内および輸出市場の組織化を委ねる。ポランニーによれば、「それは厳格な国家監視下に置かれた価格形成市場をもたらした。参加者は4つの主な種類に分けられる。第1のグループはエジプトに留まって穀物輸出の実際の任にあたった。第2のグループは船荷を積んで航海に出た。第3のグループはロドスに駐在したが、ここは取引の中心地として使われた。一方、第4のグループはギリシア各地の諸港に駐在し、委託財貨を扱ったり、ロドスの駐在員に価格の動きをつねに知らせたりした」。
 「こうして穀物はエジプトからロドスに船で運ばれ、ロドスには、このシンジケートから購入する全ギリシア都市での最新の価格情報がたえず届くようにされていた。それから穀物は、最新の報告で価格が最も高いとされる都市に向けてロドスから船輸送されるか、さもなくばロドスで売却された。このような条件のもとでは、ロドスでの価格はギリシア諸都市での平均価格を反映する傾向をもった。つまりロドス価格が『世界』市場
プトレマイオス1世の
コイン
裏面に稲妻を右手に持ち
4頭の象が引く二輪戦車に
乗ったアレクサンドロス
出所:『海のエジプト展』
朝日新聞社、2009
価格となり、各地の地方価格は運送費の総額分だけ異なる、という傾向を生み出した……手近な例でいえば、ピレウスに送られるはずの船荷は、シシリー穀物の護送船団がピレウスに到着してその地の価格を押し下げた場合には、ロドスで売却されたのである」(以上、E.ポランニー著、玉野井芳郎・中野忠訳『人間の経済2』、p.435、岩波書店、1980)。。
 クレオメネスは、アリストテレスから前330-20年における食糧危機に際して、エジプト産穀物を買い占め、ギリシア商人に高値で売り捌き、大きな利益を上げたと批判されている。また、上の交易組織に対して、すでに穀物管理交易を衰退させていたアテナイ人たちから、激しい反発を買うこととなり、「穀物交易の悪名高き強奪者」とか呼ばれた。その非難の一つとしてデモステネスに関わる弁論第56番『ディオーニソドーロス弾劾』(弁論年代前323-2年)がある。この弁論の詳細はWebページモステネス海上貸付弁論―試訳と簡単な解説―】を参照されたい。
 2人の外国人が同じく外国人のディオニュソドーロスとパルメニスコスに、船を抵当にしてエジプトヘの往復資金として3000ドラクマ(30ムナ)を貸付ける。借り手のディオニュソドーロスはアテナイに残り、パルメニスコスがエジプトに行き、穀物の買付ける。アテナイに、シチリアから大量の小麦が輸入され、その価格が下落する。この情報を、ディオニュソドーロスは中継地ロドスに人を派遣して知らせる。それを受けたパルメニスコスは、船荷をアテナイに持ち帰らず、ロドスで売払ってしまう。また、航行不能に陥ったといって船をアテナイに帰航させない。さらに、貸付金の返済は元金と復路ロドスまでの利子と主張する。
 これら借り手である外国人商人たちは、伝統的なアテナイの海上貸付の制約にとらわれず、各地の穀物価格を比較してその売り地を決め、そこに輸送するようになっている。それが、いま上にみたクレオメネスが編み出した交易組織と、分かちがたく結びついていることは明らかである。そのため、かれらはクレオメネスの手下であり、共謀者であると、クレオメネスともども非難を受けることになったのである。
 こうして、前4世紀の最後の四半期に、東地中海に一つの国際的な穀物市場が生まれることとなった。それは「ヘレニズム」世界が生んだ一つの奇跡といえるものであった。しかし、その寿命は短命であった。「ヘレニズム」世界を襲ったローマは、この「世界穀物市場に依存するよりもむしろ、わざわざこの市場を粉砕し、主要な穀作地域を直接の統制下に置いた」のである(ポランニー前同、p.363)。
▼世界の七不思議、ファロスの大灯台▼
 アレクサンドリアの港は、アレクサンドロス大王がテュロスにかわる港として建設し、プトレマイオス二世(在位前283-246)が完成させた港である。この港は大突堤の東側の大湾(メガス・リメーン)、その西側のエウノストス湾と人工のキボトス湾(南北の大通りが付けられている。この港を軍港とする向きがある)に分かれていた。前者は王室の艦隊が停泊し、後者は商港として利用されていたとみられる。
 港の入口にはファロスという島(ファロスはラテン語で灯台をいう)があり、本土から1225メートルの大突堤が築かれ、その東端には前283年落成式が行われた「世界の七不思議」の1つとされる大
灯台が建設されていた。この灯台は3層になっており、高さは120メートルもあった。それは、1303年の大地震で倒壊するまで、その役目を果たした。現在、そこにはマムルーク朝が1477/80年に建設したカイトベイ城塞がある。
古代アレクサンドリア港
出所:『最新世界史図説タペスリー 七訂版』、p.58、帝国書院、2009
ファロスの大灯台
(想像図)
 このように、アレクサンドリアは「ヘレニズム」時代から古代末期にかけて世界最大の交易港であり、そして国王自身が最強の海上交易人であることは明らかであるが、それらを含む海上交易の実態は明らかにしえない。海上交易が厳しい国家統制のもとにおかれていたので、エジプトには自国の海上交易人はほとんど育たなかったとみられる。それでも、プトレマイオス二世の高官が自分の船でオリーブ油を輸入していた。なお、王室は海軍の他、ナイル河の商船隊の一部を所有していたという、それ以外は不明である。エジプトは、そもそも船材が乏しい国柄なので、アレクサンドリアに所属する商船があったとすれ、それはフェニキア製であったとみられる。
 アレクサンドリアの海上交易は、従来通りフェニキア人、キプロス人、クレタ人、そして次に述べるエーゲ海の人びとによって担われたとみられる。その例として、前2世紀半ば、アルキッポスが"薬味を産する地"に航海する資金を、アレクサンドリアに住むグナエウスと呼ばれるギリシア系イタリア人銀行家を通じて、海上(冒険)貸付金として調達しているという記録があるという。それは、前章でみたギリシアの海上貸付に近いものであったであろう。
 なお、アレクサンドリアは名だたる自然科学者を輩出しており、地理学者としてはプトレマイオス朝の時代、ムセイオン(博物館)の館長を務め、地理学の嚆矢であり、地球の周囲の長さを測定したエラトステネス(前276頃-前196頃)を、ローマ時代、地理学的知識を集大成し、その後長く影響を残したプトレマイオス(100頃-170頃)がいる。
▼アンティオキア、開かれた交易都市▼
 アンティオキア(アンタキヤ)は、トルコ南東部の都市でシリアとの国境近くにある。アレクサンドロス大王の後継者であるセレウコス一世(在位前312-280)はセレウコス朝シリア王国を築くが、この王国の領土は古来の都市国家が栄えたところであった。かれは、それに加えて、東西交易の拠点を開発するため多くの都市を建設したが、その一環として前300年アンティオキアは外港といえるセレウキア・ピエリアや、海沿いのラオディケアとともに建設され、新しい首都となったところである。なお、この王国は前64年ローマに占領されると、ローマ帝国の属州シリアの主都となる。
 この町はオロンテス川沿いにあるが、地中海から船で乗り入れることができた。また、シリア北部の隊商交易ルートの交差点に位置していた。そのルートは、海路:インド洋からペルシア湾に入り、陸路:シルクロードの終着点となるティグリス河のギリシア都市セレウキアに合流して、アンティオキアまで至り、そしてキリキアを経て、エーゲ海のエフェソスまで及んだ。他方、シリア南部には、シリア砂漠を横断して、ダマスカスを経てフェニキアの港に至るルートがあった。それはプトレマイオス朝との争いの原因となったルートである。
 この町は、首都としてばかりでなく交易においても栄え、アレクサンドリアやローマに並ぶ、壮麗な建造物を持った大都市として発達した。この町は交易都市として、マケドニア人ばかりでなく、アテナイ人、クレタ人、キプロス人、アルゴス人、さらにユダヤ人、先住民などで構成されていた。前2世紀頃、その人口は50万人になったという。
▼ロドス島、エジプト小麦の中継交易港▼
 ロドス島は、エーゲ海南東端、トルコ南西沖に位置し、エジフトから黒海という南北のルートとシリアからギリシアを経てシチリアに至る南北のルートの交差点にある。太陽の神ヘリオスの島と呼ばれ、すでに前7世紀にはエジフトを含む東地中海アジアとの交易を行い、近隣諸島や小アジア沿岸、そしてナポリやシチリアのジェラに植民し、また金銀細工やオリエント様式の陶器を産出していた。ロドスはヘレニズム時代、重要な都市」となり、ストラボンはロドスに匹敵する都市はないとし、カルタゴ、アレクサンドリア、マッサリアと同列においた。
 前6世紀、僭主クレオブーロスが善政をしき、繁栄を誇る。アテネを盟主とするデロス同盟に加盟していたが、前412年アテネと断交する。前408年、ロドスという新しい町が建設され、急速に発達した。前4世紀、戦争にあけくれ、前332年にはアレクサンドロス大王の軍隊の進駐を許すが、かれが没すると蜂起し、マケドニア軍を追い出す。プトレマイオス朝が興ると、キプロスはプトレマイオス一世によって領有されるが、ロドスは前310年にそれと同盟を結ぶ。前304年、ロドスはアンティゴノス朝マケドニア初代王の息子デメトリオスの包囲にも屈ず、独立を守る。
 ロドスは、前308年あるいは前287年にそのリーダーとなってエーゲ海島嶼同盟を結成して、海上交易の自由を確保し、クレタ島の海賊の制圧に努める。この島嶼同盟はアレクサンドリアから統制を受けていたとされる。前3世紀末、マケドニア艦隊が衰微すると、エーゲ海の制海権を握るようになる。前220年、ギリシア植民市ビザンティオンがボスポロス海峡を通行する船舶に通行税を課したところ、ロドスは約50隻の艦隊を派遣し、それを停止させる。
 前190年、ギリシアに進出してきたセレウコス朝シリアのアンティオコス三世(在位前223-187)とのマグネシアの戦いで、ローマ艦隊を救い出したのが同盟していたロドス艦隊であった。しかし、前168年ピュドナの戦いで敗れたマケドニアに味方したギリシア北部のエペイロスを、ローマが征服した時、和平交渉を仲介しようとして不興を買い、ロドスは大陸領を没収され、地位を脅かされる。前166年、ローマがデロスを自由港として認めると、その力は急速に衰える。
 これらの戦いについて、ロドスの「商人と銀行家は平和を欲し……、市は2つのこと、力の均衡と公海の自由の味方をし、これらのために常に侵略者と戦おうとした」とする。
 前225年ロドスが地震に見舞われ、「商業危機のおそれがあった時、ヘレニズム世界は、ギリシア語を話すすべての王や多くの都市から金銭や現物で、ロドスに送られたありあまる支援によって、その商業上の一体性を誇示した」とされる(以上、ターン前同、p.158)。
 ロドスは、エジプトの北方向け、またシリアの西方向け交易品の中継交易港として栄えるが、その基盤はエジプトにあった。すなわち、「その収入の殆どをエジプトに航海する商人から得ていた都市であった。一般に、この都市はかの王国からの支持で支えられていた」とされる(ディオドロス・シクロス著『歴史叢書』第20巻81:4)。なかでもエジプトの小麦は決定的であった。
 すでにみたように、古代地中海において小麦を輸出に回せる地域は、エジプトのナイル河流域、
黒海沿岸、キュプロスや、シチリアに限られていた。古代地中海、冬期はおおむね航海不能であったが、ロドス・アレクサンドリア間の航路は航海可能であったとされる。そうした地理的条件を生かして、ロドスはエジプト小麦をアレクサンドリアから積み取り、ギリシア、そしてローマへの中継交易に従事していた。
 ロドスにおいては、海上交易業ばかりでなく、海上輸送業や造船業が発達し、さらに国際金融・両替センターにもなった。特に、前2世紀、ロドスは古典期のギリシア都市が衰退するなかで経済力を高める、前170年、2パーセントの輸出入関税は100万ドラクマに達した。こうして、ロドスにはいろいろな地域の海上交易人が来訪したとみられる。その結果、海上交易をめぐる種々の取引は複雑になり、それに規範を与える世界最古の海商法、すなわちロドス海商法が生まれた。なお、ロドスにも隣接して2つの港がある。
 このロドスを有名にしているのは、優れたギリシア彫刻を世に残したことにある。「世界の七不思議」の1つとされるヘリオスの巨像はともかく、リンドスという町のアクロポリスの入口には、ロドス島の彫刻家ピトクリトス作で台座とみられる、船の舳先が彫られている。かれはルーヴル博物館のガレーの舳先に降り立った「サモトラケのニケ」像(前190頃)の制作者でもある。
ロドス島にある船の
舳先の浮き彫り
前200頃
▼デロス島、奴隷交易で栄える▼
 デロス島はエーゲ海のほぼ中央にあり、アポロンの島と呼ばれ、ミケーネ時代から栄えていた。その島が、特に著名なのはアポロンの聖地(巡礼が来ていた)であるだけではなく、ペルシア戦争後の前478年にデロス同盟がここで結成されたことにある。それ以後、少しずつエーゲ海の主要な港として発展を遂げる。東地中海における穀物や奴隷の主要な市場となり、さらには油、ワイン、木材の貯蔵と中継交易の中心地となる。
 前166年、ローマは第3次マケドニア戦争の際、親ローマの態度をとったアテナイにデロスを返還し、自由港としての特権を認めた。アテナイ人が入植してきて島民を放逐し、土地を独占し、それを賃貸して莫大な利益を上げようになった。また、輸出入の関税が撤廃されたために、イタリア、ギリシア、シリア、エジプトの交易人や高利貸が居留するようになった。その繁栄はすでにみたアレクサンドリアやロドスを上回る勢いとなった。
 それに関して、ロドス使節は前165-4年ローマ元老院において、「わがポリスの最大の運り合せの悪さは、諸君がデロスを免税港としてしまって、わが民衆から、わが港についての権利および……適切な保護を受けていた自由を奪ったことであります。……以前は入港税が100万ドラクマも得られたのに、今は15万ドラクマしか得られないからであります」と苦情を述べたという。
 こうして、デロスはまずロドスの中継交易の需要を奪い、さらに前2世紀半ばコリントスが没落すると、その需要を取り込み、頂点にきわめる。町の人口は2万5000人を数えたという。小アジアの海賊の同盟者ポントス王ミトリダテスはローマに反抗する。かれは活躍するイタリア人商人に憎しみを抱き、かれらの皆殺しを図る。前88年、デロスはかれの部下に占領され、略奪を受ける。また、前69年には奴隷交易の相手でもあった海賊による収奪、交易路の変更があり、急速に衰退していく。そこにいたアレクサンドロスやシリアの商人はイタリアに移動したという。
 デロスの奴隷交易は、前2世紀後半に、最盛期を迎える。ギリシアそしてローマのプランテーションが奴隷を大量に必要とするようになると、デロスは海賊たちと呼応して、その供給を請け負うようになる。このデロスは、1日に1万名以上の奴隷を容易に取り扱うことができると誇っている。前2世紀から前1世紀は古典古代の奴隷制度の最盛期であったが、デロスはその交易の最大の担い手であった。デルフォイのアポロンは奴隷解放に心配りがあったが、デロスのアポロンはそれに冷淡であったと評された。なお、ギリシアにおいて最初に奴隷を売買したのはキオス島であった。
ストラボンが驚嘆するデロスの奴隷交易
 きわめて多くの者たち[キリキア人海賊]が奴隷の輸出という、この呪われた業務に殺到した。莫大な利益となったので。というのも彼らは簡単に捕えられたばかりか、大規模で豊かな市場がそれはど遠くないところにあったからである。それはデロス島で、ここでは1日に1万の奴隷を受け入れ、また送り出すことができた。かくしてこのことから格言すら生まれた。「商人よ、入港して積み荷を下ろしたまえ。すべて売り切れとなるから」。この原因は、[前146年]カルタゴとコリントスの破壊ののちローマ人が豊かとなり、多くの奴隷を使用したことにある。こうしたことが容易なることを知ると、海賊たちが群をなして栄えることになった。彼らは略奪ばかりか奴隷貿易にもたずさわったのである。キュプロスの王もエジプトの王もシリア人に敵対していたので、このこと[奴隷貿易]で彼らに協力していた。ロドス人も彼ら[シリア人]に友好的ではなく、それゆえ何の救援もしなかった。同じときに海賊たちは奴隷商人をよそおい、たえずその悪事[略奪と人さらい]を働いていたのである。
[StrabonXIV、5:2]
出所:古山正人他編訳『西洋古代史料集[第2版]』、東京大学出版会、2002
 当時、デロスなど交易港には、「冒険好きなギリシア人、陰謀家のシリア人、出不精なエジプト人、慎重なユダヤ人たちは、デロス、ロドス、アレクサンドリア、ローマの道に隣り合うことができた。だがロドスやアレクサンドリアの投機好きな貿易商と、手数料で満足するローマの仲立人はたがいに似ていなかった」という(ジョルジュ・ルフラン著、町田実、小野崎晶裕共訳『商業の歴史』、p.21、文庫クセジュ、1976)。
 デロスに居留する商人は、出身地別あるいは交易品別の組合や団体を持っており、神殿や商館、住宅、倉庫などを建設していた。それらに接するように、前125年以前に、聖なる港と商いの港
が造られた。それらはいずれも円形をなしており、エジプト産花崗岩の埠頭が設けられていた。そういたことから人工港ともされる。すでに述べたカルタゴ、ロドス、さらにアテナイの外港ピレウス、ローマの外港オスティアにおいても、おおむね円形の2つの港が接して造られていた。
 高見玄一郎氏は、港の作りについて、「デロスにおける商取引が神殿の祭りを中心として行われるとすれば、神殿のすぐ近くに港をつくる……[また、商]船に対する水や食料の供給、あるいは乗組員の宿泊施設など……一緒にまかなった方が合理的だ」とする。また、「これは自然の地形によるとも考えられるが、小型のたくさんの船を安全に碇泊させるには、円形がいちばん良い」とみるのが順当である(同著『港の世界史』、p.45、朝日新聞社、1989)。なお、入口の向きが違う2つの港は、風向きの違いに対応できるという説明もある。 なお、ロドスやデロスが用いた船舶やその数、形状については、いずれについても不明である。
古代のデロス港(見取り図)
出所:高見前同、p.45
▼若干のまとめ▼
 前12世紀から前8世紀、ギリシアにとっての「暗黒時代」、地中海は単一の海上交易圏となり、平和な海であった。その後、アッシリアやペルシアが台頭し、東地中海を制圧、オキシダント(西洋)を襲うようになると、地中海アジアは地中海交易圏から切り離され、その交易は縮小する。他方、西地中海においてカルタゴが高成長するが、その地域に進出しているギリシア植民市やローマとの軋轢が強まり、その交易圏は細分化される。前4世紀半ばの「ヘレニズム」世界の形成、前3世紀半ばからのローマの台頭によって、地中海交易圏はちりぢりに分断されることとなる。
 アレクサンドロス大王のペルシア遠征と、その上に築かれた「ヘレニズム」世界は、他でもなくオキシダント(西洋)の世界最初のオリエントあるいはアジア(東洋)支配に他ならなかった。その支配地域は、ペルシア帝国を基本的の超えるものではなく、ギリシアの一部を加えたものであった。しかし、そのペルシア遠征がおおむね交易路に沿って行われ、その範囲がいままでになく広大をきわめ、遠征後の統治を念頭おいて進められ、そしてその統治に当たり文化融合が意図された。
 その結果、香料、香水、乳香など、東方の奢侈品がオキシダント(西洋)に大量に流入するようになった。それは交易品目の増加になった。しかし、「ヘレニズム」時代に入っても、伝統的な交易品目に変化はなく、それらが従来通り地中海全域で交易され続ける。しかし、重要な変化があった。それは、穀物や油、ブドウ酒といった農産品、そしてその生産者である奴隷が主要な交易品目となり、それらの交易規模が著しく増大したことであった。
 この変化はオキシダント(西洋)の都市国家の社会経済構造の変化に対応している。有力都市国家の人口が増加したことに加え、一方では奴隷使用の大規模農業が主力になり、他方では農地のブドウ栽培地への転換が進行した。その結果、穀物需要に満たすことができなくなり、穀物の輸入に頼ることとなった。この退廃的な食糧確保を帝国規模で解決しようとして、ギリシアやローマは帝国建設に乗り出したのである。
 こうした増大した海上交易を、それぞれの都市国家の海上交易人が基本的には担わざるをえなかった。しかし、都市国家や強国のあいだで紛争が絶え間なく繰り広げられ、それによって海上交易圏が分断されているなかで、自らの海上交易路を維持しながら、海上交易を全面的に担うことはおよそ困難であった。そこで登場したのが、主要な海上交易路の中継点に位置し、中継交易の利益でもって都市を維持するしかない、ロドスやデロスといった島嶼都市であった。
 地中海全域において、すでに鉄器時代も末期となり、しかもいまみたように農業において退廃的な構造が定着し、社会の生産力に基本的な変化はなくなった。それに対応して、戦闘用ガレーが多段櫂船となった他は、船舶技術に目立った発達もみられない。ただ、海上交易の規模が増大し、フェニキア以上に海上交易あるいは中継交易の専業都市となったロドスやデロスなどの登場によって、海上交易が一つの産業として確立した。それにともなって、海上交易を規制する規範が必要になってきたことが、この時代の大きな特徴となったといえる。
 なお、「ヘレニズム」時代、アレクサンドリアが世界最大の海上交易港であったが、それに関してオリエント(東洋)産品の中継交易港となったことで注目されてきた。その場合、大量な穀物など多様な自国産品の輸出港であったことと、それが分かちがたく結びついていたことを見失ってはならないであろう。
(03/06/01記、10/03/05補記)

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