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1・3・4 ローマ―単一支配の海上交易圏―
1.3.4 Rome - A Single-dominated the Maritime Trading Area -

▼ローマ、エトルリアからの独立▼
 ローマは古代最後の国家、しかもそれらを総括する世界帝国として登場し、長期間、君臨する。しかし、それはヘレニズム世界を、濡れ手で粟のように、そっくり横取りあるいは横滑りしたものであった。それにローマは何を加えたのか。
 前8世紀、イタリア半島南部に、ギリシア人たちが次々と植民してくる。その中部では、それ以前からエトルリア(エトルスキ)人が固有の文化を築いていた。エトルリアの都市は前7世紀から前6世紀にかけてが最盛期であった。その最盛期、ローマはエトルリア人の王に支配されていた。しかし、ラテン人が力を蓄えると衝突も多くなり、またギリシア植民市との関係も悪化してくる。
 エトルリアの連合艦隊は、前540年または前535年のアラリアの海戦で、カルタゴと協同してギリシア植民市と戦う。前509年には、エトルリア人の王が追放され、ローマが独立する。前480年、ヒメラの海戦で、カルタゴ艦隊がシラクーサ艦隊に敗れると、同盟していたエトルリアの海軍力の後退の始まりとなる。その直後の前474年には、現ナポリ近郊のクマエ(キュメ)沖の海戦で、ギリシア植民市の連合艦隊に完敗して、イタリア南部への進出が阻止される。
 カルタゴとエトルリアのあとを襲ったのは、タレントゥムとシラクーサであった。前3世紀になると、エトルリアの都市はローマに次々と滅ぼされ、エトルリア人はローマ市民に組み込まれていく。
 ローマが独立すると貴族共和政が樹立され、市民権を持つ市民が戦士となるポリスとなる。かれらはギリシア人に劣らず好戦的であった。ローマの貴族(パトリキ)は、ギリシア人とは違って力が強く、平民(プレブス)と激しく対立し、民主政に向かわず、長期の身分闘争へと発展する。
 前367年のリキニウス法などによって、平民の元老院議員の承認、護民官の創設、コンスル(執政官)の平民への開放、平民会決議の認知などが行われる。こうした譲歩を貴族がしたのは、平民の戦争協力をえたいがためであった。そのあいだの対立は収まる。それによって、社会的地位を高めたのが富裕な平民であった。かれらは新貴族(ノビリス)と呼ばれた。
 ローマの貴族はギリシア人とは違って、きわめて好戦的で外征意欲に満ちていた。前390年にはケルト人の蹂躙を受けるが、前4世紀後半、近隣のラテン諸都市そしてサムニウム人に戦争を仕掛け、それを支配下に納める。そこで残された敵はイタリア南部のギリシア植民市だけとなった。
 そのマグナ・グラエキアのなかで栄華を誇っていた、タレントゥムが前272年降伏したことで、ローマはイタリア半島における覇権を確立する(その頃、ヘレニズム3王国が成立している)。ローマは外征ばかりでなく、植民市建設や軍事植民などを行った。なお、これらのローマの覇権確立は参政権をえた平民の重装歩兵の活躍によるものであった。
▼模倣の天才ローマ、「農民の海軍」建設▼
 エトルリア人は、ギリシア人やカルタゴ人と海上交易して、金・銀・青銅の工芸品やブッケロと呼ばれる黒い陶器などを輸出し、ギリシアからは陶器などを輸入していた。かれらはギリシア本土にまで出かけ、アッティカ人とも交易していたとされる。それ以外では、ローマ人を含むラテン人がシチリア人と、またアドリア海の人々がタレントゥムの人々と交易関係があった。
 共和期に入っても、ローマは海上交易に受動的であって、ギリシア人やカルタゴ人に著しい遅れを取り、その多くをかれらに依存していた。しかし、その利益のほどは知っており、ローマは独立と同じ年にカルタゴと海上交易条約を結び、同盟関係に入る。しかし、高橋秀氏によれば、「ローマ・カルタゴ通商条約の存在は、ローマの通商活動の存在を、なんら積極的に証明するものでない」。そして、「共和期初期のローマは海上通商が、不活発であった」とまでいう(同稿「ローマの商業」『古代史講座』9、p.229-30、学生社、1963)。
 また、テオドール・モムゼン氏は、船舶の建造や操船においてカルタゴの船員はギリシア人、さらに「ローマ人に決定的に優っており、ローマ人は同盟者のギリシア人の少数の船と、さらに少ない自分たちの船をもってしては、当時西地中海を無敵の力で支配していた艦隊を前にして、ただ公海上に姿を見せることすらできなかった」と断じている(同著、長谷川博隆隆訳『ローマの歴史』U、p.22、名古屋大学出版会、2005)。
 ローマは、イタリア半島においての覇権を確立すると、その立場を変貌させ、西地中海の覇者カルタゴの打倒を目指すようになる。
 ローマは、自らも細々と軍船を建造していたが、その多くは支配下に入った都市の軍船を引き入れことで、海軍力を維持してきた。しかし、第1次ポエニ戦争(前264-241)は、その多くが海戦であった。それに当たって、ローマは急遽、大規模の艦隊を編成せざるをえなくなる。前267年、4人の艦隊財務官を管区ごとに配置して、海岸の監視や艦隊の編成に当たらせる。
 ローマは、カルタゴの軍船を解体して建造法を学んだというが、マグナ・グラエキアのギリシア人を動員して建造した。それによって、前260年100隻、前256年には230隻ともいう数の、軍船を新造したとされる。その多くは五段櫂船だといわれ、新兵器が前節でみた"鈎付き舷梯"(カラス)であった。
 それら軍船はオスティア、ナポリ、レッジョ、メッシーナで建造された。指揮官はローマ人であったが、士官はイタリアにいるギリシア人、その他の乗組員はローマ市民も少しはいたが、おおむねイタリア半島で徴募された属州民や奴隷、さらには無頼のやからであった。かれらは「農民の海軍」と呼ばれた。このローマの艦隊編成や乗組員のリクルートに関する同盟国依存体質は、その後も変わらなかった。
 前256年のリカータ沖海戦では、ローマ軍が勝利したが、翌前255年のヘルマエウム沖海戦では、ローマ軍は330隻の大艦隊(カルタゴは350隻)を編成して、アフリカの地に乗り込んだものの敗れる。その3分の2の隻数が、シチリア南岸で嵐にあい沈没するという史上最大の大海難に見舞われ、残存兵6万人が溺死する。その時、乗組員は岸に近づくことに反対したが、ローマ人指揮官はその説得に耳を貸さなかったという。ローマ人は模倣と改良の天才であったが、やはり尊大であった。
▼カルタゴとコリントスを打倒し、世界帝国に▼
 ローマは、東方にそれほど関心を寄せていなかったが、第1次に続き、第2次ポエニ戦争(前218-201)に勝利すると、一転して前2世紀半ばまで3次にわたるマケドニア戦争を行い、ヘレニズム世界にその勢力を拡げる。後進ローマが、いままで憧憬と模倣の対象であった先進ギリシア世界を攻略しえたことで、ローマは地中海の覇者から空前絶後の大帝国への一歩を踏み出す。
 それを象徴したのが前146年に起きた2つの勝利であった。その年、カルタゴは深く恭順していたが、ローマはそれを認めずジェノサイド(民族抹殺)する。そして、もう一つの海上交易勢力のコリントスは、奴隷まで武装させて戦うが、ローマは徹底的に破壊する。なお、ローマはその後、世界征服を続けるが、ローマ軍は海陸を問わず、その大半はイタリア半島の同盟市(ソキイ)の軍であった。
 ローマの海外支配地は、前227年シチリア、前197年ヒスパニア、前146年マケドニア、アフリカ、前127年頃ギリシア、前129年アジアへと拡がる。それは、ヘレニズム世界をローマに隷属する属州として再編成したものであった。こうして、ローマは北アフリカ、ギリシア、そして小アジアにまたがる世界帝国となり、地中海は「われらの海」(マレ・ノストルム)となる。
古代ローマの最大版図
トラヤヌス帝(在位98-117)の時代

 共和政末期のローマは内乱の世紀(前133-27)と呼ばれ、その支配圏の広がりとともに、新たな内憂外患に見舞われることになる。長年にわたる軍役や戦争によって農地は荒廃し、中小農民は没落していった。その一方で、支配層は巨額の富をえて土地を買い占め、大土地経営を拡げていった。それはラティフィンディアと呼ばれる奴隷制大農場であり、主としてブドウやオリーブといった換金作物を栽培していた。
 前1世紀、ラティフィンディアには大量の捕虜奴隷や安価になった購入奴隷が各地から多数送り込まれて、最盛期を迎える。他方、没落した中小農民はラティフィンディアの小作人なるか、農村から追い立てられてローマになだれ込むかであった。かれらは有力門閥の傭兵あるいは「パンとサーカス」で徒食する無産平民となった。
 こうして貴族と平民の対立は再び強まり、グラックス兄弟(前162-133、暗殺、前153-121、自殺)の政治改革が試みられるが挫折する。そのあいだの対立を利用しながら、支配層は門閥派と民衆派に分かれて果てしない政治抗争を続ける。そうしたもとで、前107年マリウス(前157-86)はローマの兵制を皆兵としての市民軍団から、傭兵による職業集団に変更する。この傭兵は門閥の私兵となって、政治抗争の手足となる。この傭兵は属州にも拡がる。この改革が共和政から帝政への転換点となった。
 それに加え、征服戦争において大きな役割を果たしながら、差別的な扱いを受けてきた同盟都市はイタリア半島の政治地図を塗り替えようと、ローマに反抗に出る。この前91-88年の同盟市戦争の結果、同盟都市の市民もローマ市民権を獲得する。前88-63年にかけ小アジアのポントス王ミトリダテス六世(?-前63)との戦争が続き、その末期には前73-71年最大の奴隷反乱となったスパルタクス反乱などが起き、また海賊たちはミトリダテスのほか、スパルタクスやセルトリウスといった反乱首謀者とも連携しながら跳梁していた。
▼外国人と解放奴隷が担うローマの海上交易▼
 ローマ人が、海上交易に乗り出していたとは、とうていえない。ローマ人は最初から最後まで農民であった。ローマの海上交易は、その長い歴史を通じて、またアテナイのそれにもまして、ギリシア人、シリア人(フェニキア人)、アレクサンドリア人といった外国人に委ねられていた。それは、まずもって商人は根っからのローマ市民にふさわしい職業とはみなされていなかった。
 高貴な人々は、近隣の土地を購入あるいは公有地を占有して、大土地所有者になった。モムゼン氏は、共和期において、だれが商業を行なっていたかを問い、「ローマでは、土地所有者身分とは区別された、独立して存在する特別な高い商人身分の発展は見られなかった……自前で行なう海外交易は、したがって土地所有者だけが船舶を持ち、生産物のうちに輸出商品を持っていることを考えると、ますます彼らが掌握していたに違いなかった……大土地所有者たちは、常に投機家であるとともに資本家であった」とする(モムゼン前同T、p.188、2005)。
 そうした状況に対して、国政を担う元老院議員身分といった高貴な人々には、金儲けはふさわしくないとされた。第2次ポエニ戦争のさなかの前218年に、クラウディウス法(ガイウス・ユリウス・カエサル(前102/100-44)が再制定する)が制定され、元老院議員とその息子は公共事業の請負に加え、自家農産物を輸送するため以外に、アンフォラを300壺以上積める船(約15トン相当、概説書はこれを大型船と指摘している)を所有することを禁じた。
 しかし、そうした規制が実行される保障がないことは自明であって、高貴な人々はローマではなく、プテオリ(ナポリ近郊、現ポッツォーリ)やタレントゥム(南イタリア、現ターラント)といった海港都市において、しかも奉公人の名義でもって、海上交易を営んでいたことであろう。
 ローマは、すでに見たように、前166年デロスを自由港とし、前146年カルタゴとコリントスを破壊して、地中海交易に乗り出す。その後デロスは一大交易港となるが、そこにはすでにギリシア人などともに、イタリア人も進出していた。しかし、その多くは南イタリアのネアポリスやタレントゥム、シラクサイといったギリシア植民市の人々であり、ローマ人は少なかった。
繁栄するプテオリの港
スタビアイに残っていたフレスコ画、1世紀
ナポリ国立考古学博物館蔵
プテオリの復元図
出所:高見玄一郎著『港の世界史』、p.72
朝日新聞社、1989
 高橋秀氏は、次第にローマ人商人も増えたとし、「前88年ミトリダテスが進出してきたとき、デロスは王に従わず、その猛撃を受けて破壊されたことは、前1世紀にこの島にローマ人の勢力が浸透していたことを示す」とする(高橋前同、p.234)。しかし、デロスはWebページ【1・3・3 カルタゴ、アレクサンドリア―地中海の棲み分け―】で見たように再興されず、諸国の居留商人はイタリアに移転してきた。
 共和政末期のローマ人商人の出自について、高橋秀氏は「彼らの中には、旧来のローマ市民の家柄のものは少なく、ギリシア系またはギリシア・シリア系の家名をもつ人たちが多い。すなわち、奴隷から解放奴隷となり、ローマの商人となったものが多い。ヘレニズム世界から奴隷が大量になるのは前2世紀であり、彼らのうち解放されて実務に従事し、旧主人と利を分けるようなものが出てきた。イタリアの海港で活躍したのは、これらの人たちである。彼らはもともと通商航海民族の出であり、節倹、俊敏、忠実をもって自由を得、さらに商人、航海者として成功した。……[それ]に対し、属州アシアの成立以後は、ローマ人の活動がさかんになるが、その人びとは解放奴隷とその子孫がおおく、ローマ社会において高い地位を占めるものではなかった」としている(高橋前同、p.236)。
 ジャン・ルージュ氏は、ローマ人の海洋認識について、前130年頃にポリュビオス(前203?-120?、ローマに連行されたギリシアの歴史家)が書いた「今や世界の盟主となり、かつての日よりも100倍も強くなっているローマ人が、なぜ、今日、多くの船の乗員を都合できず、大艦隊を海に浮べることができなくなっているのかと、人びとはたぷん問うであろう」という文言(ポリュビオス著『歴史』1:64、城江良和訳、京都大学学術出版会、2004、2007、参照)を引用し、さらに「実際のところ、ローマ人は世界征服者となったときも、ある面ではその初期に近いままであった。経済問題についてはほとんど無知であり、海の安全の重要性を知ることはできなかった。他方……不断の努力を求める常備艦隊の建設に同意していない……ローマは海洋同盟国の小艦隊を使うという伝統的政策に帰ってゆく。しかし、ローマはその結果について高い代償を払うこととなる」と弾じている(同著、酒井傳六訳『古代の船と船員』、p.118、p.122、法政大学出版局、1982(1975))。
▼ローマの有力者、手を汚さず、金儲け▼
 こうした身分の低い商人が一人歩きしていたわけではなかった。すでに見たように、富裕な市民のなかから、元老院議員に対する規制に乗じて、かれらにできない経済活動に携わるものが出てくる。かれらは、共和政末期には、いまみた身分の低い商人たちを組織して、大がかりな交易を推進するようになる。また、ローマという土建国家の公共事業や属州の租税徴収を請け負うようになる。さらに金融にも乗り出す。かれらは騎士身分(エクイテス)となり、蓄財に励み、土地を購入して、元老院議員に次ぐ実力者となる。その地位を強化したのがガイウス・グラックスの改革であった。交易・金融業者はnegotiatores、また国家事業請負業者はpublicaniと呼ばれた。
 だが、かれら「帝国の征服過程で台頭した企業家は、自分の商業活動の実際の運営は何人かの奴隷に委ねることが多かった。それらは、カルタゴ人、シリア人、ユダヤ人などで、奴隷身分に落ちる前に、その出身地においてすでに事業に習熟していたものたちであった。かれらのうち最も恵まれた者たちは自由を買い取るか、あるいは主人によって解放された」(A.プレシ/O.フェルターク著、高橋清徳編訳『図説交易のヨーロッパ史』、p.146、東洋書林、2000)。また、貴族や元老院議員にあっても金儲けのチャンスを見逃さなかった。かれらは友人・仲間や解放奴隷など様々なダミーを使って、騎士身分に負けずに蓄財に勤しんだとされる(カエサルの蓄財をみよ)。
 かの政治家カトー(前234-149)は、騎士身分の企業家の声を代弁するかのように、臆面もなく、「人間の第一の義務は金を儲けることである」といったという。その場合、プルターク(46?-120?)がカトー伝のなかでいっているように、交易・金融業者たちは交易・金融の危険を承知していたので、臆病に立ち向かったようである。
 ローマの有力者が代理人を使って交易から利益をえていた様子を、「金貸しの中でも最も非難される海上貿易への貸金を次のような方法で行なった。金を借りたい者に多勢を仲間に呼び集めるように勧め、彼らが50人に達し船も同数だけ揃うと、自分は解放奴隷のクインティオを通じて1株だけ引き受けたが、クインティオは借り手と一緒に航海して商売をした。そこで貸金の全額が危険にさらされることはなく、一小部分の危険で利益は大きかった」と描いている(村川堅一郎編訳「カトー」『プルターク英雄伝』中、21、p.286、ちくま文庫、1987)。
 富裕市民を代表するキケロ(前106-43)は職業の貴賤を論じて、「商業も小規模ならば、俗悪と考えらるべきである。しかしもし大規模で、豊富で、世界各地から多量に輸入し、嘘偽りなく、多くの人に分配するならば、あまり非難するには及ばない。否、もしそれに従事する人が、自分の築き上げた財産に飽き足り、いわば満足し、今まで、頻々と海から港へ移ったごとく、港から田舎の地所に引っ込むならば、その職業は十分当然の尊敬に値するように思われる」と、騎士身分を擁護した(角南一郎訳『キケロ義務について』1(51)、p.82、現代思想社、1974)。
 何はともあれ支配者はお互いに尊敬しあうのである。博物学者プリニウス(前23/4-79年)が「ローマには貪慾のみが栄えている」と嘆くのは、もっともなことであった。
▼奴隷制大土地農業、捕虜奴隷で補充▼
 前2-1世紀は、古典古代の奴隷制の最盛期であった。かれらはラティフィンディアの農耕奴隷ばかりでなく、都市にも多数の家事奴隷(教師を含む)や工業奴隷、交易奴隷、そしてそれらの解放奴隷もいた。平民でも、小資産家であれば、1人や2人の奴隷を抱えていた。ローマ人の身分や社会的地位は、土地や奴隷などの資産の額によって決った。
 こうした発達した奴隷制社会は絶えざる奴隷の補充があって成り立つ社会である。その補充は主として捕虜奴隷であった。捕虜奴隷は、戦利品ばかりでなく、クレタやキリキアの海賊、奴隷狩り、奴隷商人が東地中海やギリシアの島々から拉致してきた。さらに、ローマの徴税請負人たちが属国において、奴隷狩りした購入奴隷が含まれていた。
 次いで、債務奴隷、捨て子であった(カルタゴの幼児供犠が非難されるが、ここでは捨て子あるいは嬰児遺棄である)。
 イタリアへの奴隷たちは、例えば前167年にギリシアのエペイロスから15万人、前147年ヒスパニアから1万人、前104年ゲルマン人のキンブリ族やテアウトニ族が14万人流入していた。そして、カエサルはガリア遠征で、100万人を連れ帰る。ローマは、世界帝国の版図を拡大するたびに、多数の捕虜奴隷を補充しえた。なお、カエサルのガリア遠征が英仏海峡を越えてイギリスの至ったことは、地中海の人々が慣れ親しんだ地中海から出て、北方との海上交易を切り開く最初の事業となった。
 前2-1世紀、イタリア半島の総人口400万人に対して奴隷は150万人だったとされる(前1世紀の人口750万人、うち奴隷は200-300万人という数値もある)。この奴隷150万人が20年でもって入れ替わるとすれば、毎年7.5万人を補充しなければならないことになる。
 なお、ローマ帝国全体では、奴隷は約20パーセントとされる。帝政期の奴隷の供給地は、後掲の表には示されていないが、伊藤栄氏によればブリタニア、北欧、イラン、インドが含まれるいうが、それは購入奴隷の例であろう。
 後2世紀の前半、ハドリアヌス帝の頃からローマの膨張力は衰えをみせはじめ、守勢に立たされるようになる。それにより奴隷の供給が減少しはじめる。その減少を購入奴隷や出生奴隷をもってしても補充しきれず、ラティフンディア経営は成り立たなくなる。それに伴い、大土地は小作人(コロヌス)よって耕作されるようになり、後3世紀次第にコロナトス制に移行する。さらに、末期ローマにおいてはゲルマン人が加わる。コロヌスは中世の農奴のように、自由民や元奴隷の小作人が大地主に隷属する制度であった。
▼食糧危機、覇権と海外依存の拡大▼
 古代ローマは、ギリシアと同じように、食糧危機を繰り返し、食糧の多くを海外に依存してきた。ただ、食糧危機は、ギリシアにあっては共和政末期にかけ、ローマにあって共和政期から帝政期初期にかけて発生している。ローマに食糧危機がない時代は、ギリシアと同じように、「対外的には帝国主義の成功と、本国での政治的安定とが結びついていた時期であった」(ピーター・ガーシジィ著、松本宣郎・阪本浩訳『古代ギリシア・ローマの飢饉と食糧供給』、p.28、白水社、1998(原著1988))。逆に、「ローマ人が他のイタリアの人々を犠牲にして、次々にその領土と資源を拡大していた時期よりも、彼らがまだ弱小であった初期の時代の方が食糧危機にはもろかった」のである(前同、p.218)。
 共和政期のローマにおける絶えざる外征とその勝利は、一方では国内農業を荒廃させ、食糧の海外依存を促し、他方では支配地を食糧供給地として組み入れることとなった。ローマの食糧供給地は国内からイタリア半島、そして海外へと拡がっていった。前241年、第1次ポエニ戦争でカルタゴに勝ってシチリアを属州にすると、ローマは自給自足する意欲がなくなり、食糧を海外に依存する度合いを強める。そして、前146年、第3次ポエニ戦争の勝利すると、ローマの海外食糧供給地はシチリア、サルディニア、そしてアフリカの3属州となる。こうして、ローマはギリシア人とは違って、国内農業を基本的に放棄し、食糧は海外にほぼ依存するようになる。生活の糧を失った貧民も生きていかなければならない。
 ローマの覇権が強固になり、中小農民の没落と大土地所有の形成が進む。そのなかで人口の爆発的に増加して、政治危機が避けられなくなる。ローマの人口は前270年18万人、前130年38万人となり、またその小麦消費量は年間1人当たり22-30モディウスとして、前3世紀400-550万モディウス、グラックス時代850-1150万モディウスであった(小麦1モディウス=8.7リットル、6.6キログラム、複数はモディイだが、ここでは単数のままを用いる)。
 それを解決しようとして、前123年ガイウス・センプロニウス・グラックス(前154-21、兄弟の弟)は農地法や穀物法を作る。後者の、毎月公定低価格で穀物を販売し、国営の穀物倉庫を建設するとした、穀物法は画期的であったとされる。それまで、富裕な支配層は投機の買いだめをするとともに、食糧危機には気前のよい振る舞い(恩恵施与)していたのである。
グラックス兄弟
左:ガイウス
富裕層の食糧恩恵施与
コンスタンティヌスの凱旋門の彫刻レリーフ 312
 食糧供給地の広がりは、その輸送船が海賊の餌食になる機会を増やし、食糧危機を巻き起こすまでになった。
 「前67年には穀物輸送船団が海賊の妨害を受けた。海賊はいまやイタリア近海をわが物顔に荒らし回るようになっていた……オスティア港が襲撃され、船が焼かれ……穀物輸入は完全に断たれ……ローマの住民は、その数の多さゆえに塗炭の苦しみ……。海賊と戦うための例外的な大権をポンペイウスに与えようとの提案がなされ、元老院の抵抗はあったが可決された。……ポンペイウスが任命されたその日のうちに、それまではきわめて高く、供給量も不足していた穀物の価格が急に低下した」という(ガーシジィ前同、p.260)。
▼地中海を跳梁跋扈するキリキアの海賊▼
 前2世紀半ば、ローマは、ロドスがマケドニアに与してきたことをと咎め、マケドニアとの交易を禁止するなどの懲罰にかける。そして、いま上でみにたように、デロスを自由港とすると、ロドスの海上交易は大きな打撃を受け、100万ドラクマもあった港湾税(関税)は短期間のうちに15万ドラクマに落ち込む。
 ロドスは、前節Webページ【1・3・3 カルタゴ、アレクサンドリア―地中海の棲み分け―】でみたように、海賊を抑止してきたが、その海軍力が弱まると海賊が跋扈(ばっこ)しはじめ、地中海におけるローマの軍事輸送や海上交易、なかでも食糧確保が困難となる。かのカエサルも、ロドスに遊学する途中、海賊に捕らえられる。かれの身代金はギリシア通貨で20タラントンという、20隻ほどの軍船建造費に相当する大金であった。カエサルは、その身代金では殺されると考え、50タラントンに値上げしたという。持って回った話である。
 この時代の海賊は、モムゼン氏によれば、「かれらはキリキア人と自称したが、実のところ、彼らの船には、あらゆる民族からの絶望した人や冒険家が集まっていた。クレタという募兵地から脱走した傭兵、イタリア、スペイン、アシアの破壊された集落の市民たち……要するにあらゆる国民の堕落した人々、打ち負かされたあらゆる党派の追い立てられた亡命者、悲運に泣いた、また大胆不敵な人のすべてである」という。
 かれらは、クレタ海域における「大胆な追い剥ぎではもはやなかった。……独自の連帯精神をもった海賊国家だった」。そして、ジブラルタル海峡から東地中海沿岸までを活動海域としていた。それでも、「自分のため、また漂う家のために必要とされた大陸の隠れ場として、マウレタニア、ダルマティア海岸、クレタ島、なかんずく突出部と隠れ場所の多い、その当時の海上交易の主要な道を扼していた」。
 「彼らはここで、海岸のいたるところに、信号所や根拠地を持ったばかりでなく、陸上さらに深く、道もない、山岳重畳たる[現トルコの地中海沿岸にある]リユキア、パンフュリア、キリキアの内陸部のきわめて辺鄙な隠れ場に、自分たちの手で自分たちの岩城を建て……女子供や財産を隠しておいた」。そして、「例えば、パンフュリアの重要な町シデなどは、その造船所で船を造ることを海賊に認めたり、捕らえられた自由人を自分たちの市場で売りに出すのを認め」てさえいたという。
 地中海の海賊を制圧する役割は、ローマがロドスに代わって自ら担わざるをえない。そこで、ローマがしたことは「ローマ帝国の連合艦隊を編成したり、海上警察を集中したりする代わりに、元老院は海上警察組織の統一的な最高指揮権を……完全に放棄し」、その役割を属州に委ねていた。そのため、属州が商船を徴発して武装したり、あるいは海岸警備隊を作ったりするために、税が取り立てられた(以上、モムゼン前同W、p.35-37、2007)。
 前1世紀になると、ローマ帝国は海賊の制圧を属州に委ねておくことができなくなる。海賊討伐は、後述のポンペイウスの活躍が有名であるが、それ以前にも幾度か行われていた。前74年にはマルクス・アントニウス・クレティクス(前115?-72/71)に討伐権が与えられる。かれは属州から財貨を収奪し、軽率な指揮によって、巨額な戦費は費消するだけで、クレタの海賊に敗れる。
▼ポンペイウス、海賊を3か月で討伐▼
 前68年から翌年にかけて、ローマは穀物不足に陥り、その輸入を海賊が妨げているとされた。ポンペイウス(前106-48)は前70年コンスルに選ばれ、前67年海賊討伐の最高指揮権が付与される。かれには重装歩兵15万人、5000騎兵の軍団および軍船500隻(新造船と同盟国船で構成されていた)が委ねられ、内陸部への追撃も承認され、そして多額の国家資金が投入されることとなった。
 ポンペイウスは地中海を13の海域に分け、西地中海から東地中海へと掃討範囲を拡げていった。まず海上戦で海賊船を攻撃し、次いで陸上戦で基地を破壊した。ポンペイウスは、地中海にパクス・ロマーナ(ローマの平和)を確立するのに、89日間しかかからなかった。かれが捕獲した海賊船は400隻、焼却処分にした海賊船は1300隻、海賊1万人を殺害、2万人を捕虜にしたとされる。
 ポンペイウスは勢いに任せて、前64年にはシリアを征服する。これによってセレウコス朝が滅亡する。そして、前63年にはミトリダテスを黒海北岸に追い込み、自害させる。なお、プトレマイオス朝は、前31年それぞれが合わせて500隻以上の艦隊を繰り出したアクティウムの海戦で、マルクス・アントニウス(前83?-30)とクレオパトラ(前69-30)がオクタウィアヌス(前63-後14)に敗れ、翌前30年かれらが自殺したことで滅亡する。ここにヘレニズム時代が終わる。
 ローマの海軍はポエニ戦争が終わると弱体化し、このアクティウム
ポンペイウス
(前106-48)
前50年代、ローマ付近出土
の海戦後になって常設の艦隊が初めて組織される。しかし、地中海の覇権が確立された後での、その役割は限定的なものとなる。
 ポンペイウスについて、本村凌二氏はかれの「個人的権威は絶大なものになった。その権威にものをいわせて、元老院の意向にはかることなく、東方への植民活動を実施する。ローマの東方領土は大規模に拡張され再編される。アルメニアの保護国化、シリア王国の属州化、ポントス王国の属州化、パレスティナの貢納国化などが次々と実現される。彼は巨人のごとき保護者であり、とりわけ東方にあってはヘレニズム専制君主のように崇められた」と総括している(同他著『世界の歴史5 ギリシアとローマ』、p.301、中央公論社、1997)。
 このポンペイウスこそ、ローマ帝国の建設者といえる。そのかれもカエサルと対立し、エジプトで殺されるが、当のカエサルもはかなく暗殺される。なお、ポンペイウスの遺児セクストゥスはローマ海軍を手放さず、シチリアを拠点にして穀物船に海賊を働いている。
 こうして、地中海はまさに単一の地中海交易圏が形成され、そのローマ世界という紐帯によって結ばれることとなる。それによってローマやイタリアと属州の交易はもとより、さらに周辺国との交易も活発に行なわれるようになった。この属州支配は、ローマに繁栄をもたらしたものの、ローマ末期には帝国分割の基盤となる。
 なお、当時の東地中海の海賊とポンペイウスの掃討については、同時代人が書き残した史料(古山正人他編訳『西洋古代史料集[第2版]』、p.131-、東京大学出版会、2002)があり、いま上でみた数値と異なるところもあるが、長文につき省略する。
▼パクス・ロマーナのもとでの食糧確保▼
 ローマは、その末期はともかく、交易について介入することはなかったが、穀物交易とその分配については無関心ではいられなかった。それを容易にするため、海賊を退治したとはいえ、それで食糧供給が安定するわけではなかった。前58年から56年にかけて、食糧の不足と激しい価格変動が起きる。前58年、グロティウス法によりローマ貧民に対して、食糧の公定低価格販売に代えて、食糧の無料支給が始まる。無料受給者数は32万人にも及んだとみられている。その支給量は成人男子市民1人当たり1か月5モディウスとされる。これでは家族を養えず、当然稼ぎ仕事をしなければならない。
 それはともかく、32万人の年間無料支給量は1920万モディウス(15万トン)となる。その原資の3分の2はすでみた3属州の10分の1税が当てられたという。その税は穀物として、前66年シチリアから300万モディウス、アフリカから800万モディウスが取り立てられた。シチリアはそれ以外に、税以上の量の穀物をローマにもたらしていた。なお、カエサルは植民市を建設して「遊民」8万人を移送し、また無料受給者を32万人から15万人に縮小させている。
 前57年、ポンペイウスが穀物委員に指名される。かれの「最初の課題は、さしあたり当時進行中だった穀物不足を防ぐために、緊急用穀物備蓄を確保することであった」が、食糧供給改善のための長期的戦略としては「第1にポンペイウスは、小船主を一定期間ローマへの食糧供給(アンノーナ)に奉仕するように仕向けるために、ローマ市民権を提供した。これは軍事的というより経済的奉仕のゆえに行なわれたものとしては、記録に残る最初の市民権付与の事例である……第2にポンペイウスは、15名の副官を任命したがその中にキケロとその兄弟も入っており……すべてローマとプテオリの裕福な実業家や商人たちと良好な関係をもつ、影響力のある人々」であった。そのうえで「富裕な船主たちに圧力をかけ、彼らと彼らの被保護民を穀物輸入業務に直接関与させるようにつとめた」という(ガーシジィ前同、p.281-2)。ローマの支配者たちは、政敵を含め、お互いに利権をしっかりと分け合っていたのである。
 前27年、オクタウィアヌス(前63-後14)はアウグストゥスの称号をえて、初代ローマ皇帝となる。これ以降、ローマは帝政期に入る。ローマ世界の平和と秩序が確立したことで、特に属州の農業生産や手工業が活発になる。ローマ帝国経済は全体として成長し、その繁栄は絶頂に達した。ローマ世界ではローマの貨幣が通貨の基準となる。日常の小取引には銀貨が使われた。こうして、ローマには巨額の税収や大量で安価な食糧、多数の安価な奴隷などが持ち込まれてくる。それによってローマ社会は変貌を遂げる。
 帝政期、ローマ帝国は多数の都市を建設し、各地に軍隊を配置する。その面積は900万平方キロメートル、総人口5000-6000万人、ローマ人(市民権者)700万人、常備軍30万人であった。なお、海軍は地中海が平和な海となっても沿岸警備を行っていた。しかし、海賊がいなくなり、その重要性は低下していった。この時期のローマ海軍の基地であったポッツオーリ湾のミセーノ岬に、アエスタラピウス号という病院船を配置していたという。
 特に、ローマの人口は100-120万人にもなったとされる。人口調査が行われたというが、その対象は市民に限られていたため、全人口の構成は明らかでない。その構成は、およそ食糧無料受給者含む貧民とその家族40-50万人、奴隷40万人、富裕市民20-30万人であった。この圧倒的な多数が非農耕生産人口という不健全な構成は、共和制時代から引き継がれたものであった。この古代最多の人口を抱える大消費都市ローマに、安定した価格で食糧を供給することは、執政者の重要な任務であった。
 アウグストゥス帝の治世の前22年大凶作となる。かれは、前43-36年の飢饉と暴動の再現をおそれて、10万人とも30万人ともいわれる人々に、自費で食糧を配給したとされる。後6-7年の食糧不足に当たっては、医師と教師を除くすべての外国人と剣闘士、まだ売却されてない奴隷のローマ市からの一時的追放、皇帝と高官たちの従者の大量解雇、先任元老院議員の食糧管理官任命、それによる穀物とパンの供給の監督、式典費用の削減、穀物支給量の倍増などの緊急対策をとる。
 また、かれは主たる食糧供給地だったシチリアの供給力が低下してきたので、エジプトから食糧を確保するため努力している。ローマとアレクサンドリアの航路を開設し、その時アレクサンドリアの船主にその航路で働くようにと勧誘したとされる。船乗りたちは、かれを恩恵施与者と呼んだという。
▼食糧輸入の交易人に特典付与▼
 ローマを世界征服に駆り立てたものは、ローマ社会の宿痾(しゅくあ)といえる貴族と平民の対立であった。共和期、世界征服によって、平民たちにも土地や戦利品のおこぼれにあずからせ、それを買収して、その矛先を反らせることができた。帝政期に入る頃から、それに代わるものとして積極的に提供されたのが、ローマ社会の特徴とされる「パンとサーカス」であった。「パン」はいまみた食糧供給である。「パンとサーカス(見せ物)」は、30万人を収容するチルコ・マッシモや5万人を収容するコロッセオなどで行われた。それらの催事日数は年135日までふくらんだという。
 これらの恩恵施与慣行によって、支配者たちは歓声を受け、栄誉を高め、市民たちはその思し召しに甘んじた。それはローマ市民の堕落などと解説されるが、それは支配者が貧困市民の暴発を未然に食い止めるための、浪費と欺瞞の装置であった。ピーター・ガーシジィ氏は、食糧無料受給市民を「特権市民」といってやまないが、その意味は貴族や騎士に支配されている貧民も、属州抑圧の「おこぼれ」をあずかる支配民族の1人だといいたいのであろう。




穀物計量官集会所の床面
2世紀、オスティア出土のモザイク
小麦を積む Isis Giminiana号という船
3世紀、オスティア出土のフレスコ画、ヴァチカン美術館蔵
 古代ローマの支配者は、ギリシアとは違って食糧輸入に積極的に関与してきたが、その輸入量は桁違いに大きい。それにもかかわらず、ギリシアと同じように国有商船隊はなかったので、穀物輸送に携わる船主や商人の協力は必要不可欠であった。かれらと接触して契約書を取り交わし、かれらを監督するだけでなく、それに協力してくれる人々を増やし、引き留める必要があった。かれら船主や商人がローマ人ばかりでなく、食糧輸入元の同盟市人や属州人、その他外国人たちが多かったからである。
 ポンペイウスやアウグストゥス帝は、すでにみたように食糧供給システムについて格段の努力を払っているが、その後の皇帝もそれに従っている。クラウディウス帝(在位41-54)は食糧輸入を促す措置をいろいろと講じている。例えば、冬期の輸送船を確保しようとして、少なくとも小麦1万モディウス・67トンを積み込む能力のある船を所有している者が、その船を6年間、ローマへの穀物輸送に提供すれば、ローマ市民の場合独身者や子供のいない既婚男性が不利益になる法律の適用を免除するとか、ラテン権しかない者にローマ市民権が付与するなどというものであった。なお、これ以下の積トンの輸送船は、オスティアへの入港を制限されていた。
 ハドリアヌス帝(在位117-138)の治世、富裕市民に課されていた公的な強制奉仕義務からの免除特権が、食糧供給に奉仕する船主に認められるようになった。その特権は、食糧供給奉仕に大部分の資産を投資する者だけに与えられた。かれに続くアントニヌス朝時代には、その資格は5万モディウス、約350トンの積載を超える船を所有しているか、あるいは1万モディウス級の船を数隻(多分5隻)所有しているかとなり、その特権を受けるための資格が厳しくなっている。また、船を建造しても実際には就役させない「幽霊」船主を処罰することにしている。
 ピーター・ガーシジィ氏は、「アウグストゥスは大きな影響力をもった商人たちと密接に協力した」いと考えていたし、商人あるいは船主たちにも「ローマは魅力的な市場だった。消費者の需要は巨大であり、物価は高かった……アウグストゥスは財政的に心配のない卓越した顧客であった」からである。しかし、かれら商人あるいは船主は特典をえたとしても、「契約によってのみ国家に奉仕することを義務づけられた、自由契約者のままであった」。
 「結局、元首政期の穀物取引は個々の私人によって営まれ続けたのである。特権と有利な条件と引き替えに、取引を勧誘された、卓越した献身的な私的人材である。政府はこのような穀物取引への監督を強めていった。政府はまた、国家への奉仕を遂行する契約を結んでくれる船主の数が増えるように努力し、彼らの活動を監督し、彼らが組合(コレギア)を組織するよう奨励したのである。しかし、ローマヘの穀物輸送が公的な強制奉仕義務へと変質するのはまだ先の話である」としている(以上、ガーシジィ前同、p.306)。
 ローマへの穀物輸送は、毎年春、収穫後一挙にはじまるが、その量が大規模化するにつれて、輸送船団を組んで行われるようになったとみられる。アウグストゥス帝からネロ帝の治世にかけて穀物輸送は最盛期を迎え、それぞれの地方からローマヘの穀物を輸送する単一の船団を意味する「アフリカ船隊」や「アレクサンドリア船隊」が生まれたという。
奴隷商人の墓
奴隷商人の記録はほとんど残っていない。
この墓碑は故人がmango(奴隷商人)と
称されている稀な例とされる。
1世紀前半。ケルン、ローマ・ゲルマン博物館蔵
出所:本村凌二他著『世界の歴史5 ギリシアとローマ』、
p.373、中央公論社、1997
荷役する奴隷
オスティア港でオリーブの壺を積み替えている
オスティア出土のモザイクの模写
▼ローマ帝政期の輸入交易品▼
 古代ローマにおける海上交易品はまずもって小麦、オリーブ油、ブドウ酒など食糧品であった。それらはローマ帝国の全域で交易された。次いで、まさに土建国家にふさわしく、建設材料や道路補修材であった。そして、奴隷や競技用の野生動物であった。
 帝政期のローマに輸入された交易品を、一覧表として示せば、下表のようになる。それに対して、ローマは何かを輸出したのか。ローマに産業がなかったわけではない。それでもローマの外港オスティアは帰り荷のない港とされた。古代のあまたの首都と同様に、ローマの交易収支はひどい入超であった。その帳尻はどう合わされていたのか。
 古代ローマの交易路 180
ローマ帝政期の輸入交易品
エジプト
小麦、なつめ椰子の実、豆類、パピルス(製紙原料)、斑岩、花崗岩および建築用石材、ソーダ、明礬(染色用および製革用)、亜麻、リンネル、衣料、ガラス製品
エチオピア産の金および鉄、アフリカ奥地産の象牙、シナイ産の銅、アラビヤ産の宝石および香料、印度物産の再輸出
シリア
道路建設用の石灰石および玄武岩、木材、果実(生鮮果実および乾燥果実)、葡萄酒、絹およびリンネル製品、染料および染色衣類、ガラス製品
小アジア
オリーブ油、葡萄酒、松露類、魚、薬草、乾燥果実、蝋、樹脂、亜麻、硫化鉛、砒素、赤鉛、雲母、大埋石、砥石、山羊の毛で作つた衣服、テント
ギリシア
オリーブ油、葡萄酒、蜂蜜、大理石、石材、陶器
アフリカ
小麦、果実、オリーブ、油、松露類、胡瓜、魚、漬物、黒檀、柑橘樹、大理石、雲母、皮、毛皮、野生動物(競技用)、奴隷
ヌミディア
大理石、野生動物
モレタニア
黒檀および柑橘樹、紫色染料、羊毛製品、競技用の巨大野獣およひ野生動物、ランプ、カナリア群島産の猟犬
スペイン
金、銀、鉛、鉄、銅、魚、漬物およびソース、油、蜂蜜、葡萄酒、果実、亜麻、エスパルト草、羊毛、衣料、網
ガリア(海路)
小麦、油、葡萄酒、鉄、羊毛製品、陶器、ガラス製品
イギリス
錫、鉛、獣皮および羊毛、牡蠣、鷲鳥、猟犬
インド
香料、薬味、胡椒、薬品、宝石、真珠、象牙、絹、綿、モスリン、皮革、チーク材
中国
絹および絹製品
出所:C・アーネスト・フェイル、佐々木誠治訳『世界海運業小史』、p.37、日本海運集会所、1957
 伊藤栄氏は、「ローマの工業も主として贅沢品の工業であり、当時多数の彫工・染色工・刺繍工・金銀細工匠等が活動していた。首都ローマの書籍業は特に注目すべきものがあった。ガラスや紙の製造もまた盛んであったが、これは主に外国人の行なうところであった。これらの工業は、奴隷を使用して生産するものが多く、一般に20、30名の奴隷、なかには製陶業のごときは200名」も使役する工場もあったという。
 「これらの製造品の一部は、もちろんローマから属州あるいは外国に輸出された。しかしその量は少なく、輸入の方が数量、価格ともに輸出をはるかに凌駕した。しからば、輸出のきわめて少ないローマが、過大の輸入品にいかにして支払ったかが、問題となる。ローマはその属州各地から種々な方法で収取する貨幣[主として、税収入]によって、即金をもって支払ったのである。すなわち、ローマは各属州から収取した貨幣を購買力として、再び属州に放出する関係にあったのであり、この線に沿って各地域には種々な特産物産業が成長していった」とする(以上、同著『商業史』、p.35-6、東洋経済新報社、1971)。
 そこで注目すべきは、地中海を内海として世界帝国が築かれことで、いままでなく旅客輸送が顕著に増加した。それについて、アーネスト・フェイル氏は「遠隔の領土へ赴任またはそこから帰任するローマの官吏および士官、軍隊への徴募者および満期除隊者、新市場が有望なりや否やの調査に自ら出向いてゆく商人および資本家、皇帝宛の嘆願書を携行してくる代表団、皇帝に上訴した聖パウロのごとき国事犯は、ローマ帝国の船舶所有者にとってきわめて有利な副業の対象となつた」としている(同著、佐々木誠治訳『世界海運業小史』、p.39、日本海運集会所、1957)。そして、移民も一般化したし、富裕市民の旅行も盛んになり、特にギリシアの聖地に人気があり、エジプトまで足をのばしたという。
 ローマ帝国の首都が食糧を自給できず、それを輸入に依存し、また格別の特産物を持たないまま、怠惰な消費を続けていたが、属州においては独自の発展を遂げ、栄華の時期を迎える。ハドリアヌス帝(76-138)は通算12年間にわたる属州視察旅行している。
 伊藤栄氏は、属州の特産物産業について「北ガリア地方には鉄器・ガラス器・陶器・織物など、イスパニアには諸種の鉱産物、小アジアの都市には織物、北アフリカの属州には敷物・オリーブ油・ぶどう酒などの供給を、次第に増大していった。こうして帝国内各都市の支配者層は、著しく貨幣経済にまきこまれていくのであるが、またこうした地方諸都市の購買力を起点として、さらに相互の間に商業交易が展開されていった」という(伊藤前同、p.36)。
 属州独自の発展とされるが、その実体はオリーブやブドウが広域的に栽培され、伝統的な産地に取って代わり、同時に輸入品の代替産業が育成されてきたという状況を示しており、しかもそれに伴ってそれぞれの地域の経済的な自立と、ローマからの離脱を促すこととなった。
▼聖パウロが乗った船、捨て身の投げ荷▼
 古代ローマの船は、全体として、ギリシアを踏襲している。その大きさには、それなりの変化があったかにみえる。ケヴィン・グリーン氏によれば、大型船がなかったわけではないが、大方の船は全長15-37メートル、積載量100-150トンである。穀物輸送船は、数としては少ないが、300-500トンであったという(同著、本村凌二監修、池口守・井上秀太郎訳『ローマ経済の考古学』、p.49、平凡社、1999)。
 それに対して、J.G.ランデルズ氏は「普通の小さめの商船は120-150トンの積載容量を持っており、……長さが約60フィート(18.3メートル)、船幅は約20-25フィート(6-6.7メートル)だったであろう。積載量が400-500トンの船は決してまれではなく……特別に注目して選ばれた船は、すべて優に1000トン以上であったことは、重要である」とまでいう(同著、久納孝彦監訳、宮城孝仁訳『古代のエンジニアリング』、p.244、地人書館、1995)。
 このように異常に大きな船があったとされる。ローマのサン・ピエトロ広場には、長さ25メートル、重さ323トンのオベリスクと、重さ174トンの基壇が建っている。それは、前40年暴君とされるカリグラ帝(在位37-41)の命により輸送された。それは甲板上に置かざるをえなかったので、バランスをとるためレンズ豆13万モディウス(900トン弱)を底荷として、船倉に積んだとされる(プリニウス『博物誌』16:201)。そのまま受け取れば、その船の積載トン数は約1400トンにもなる。この巨大船はオスティア港灯台の台座として沈められたともいう。もっともらしい話である。
 また、2世紀に書かれた属州シリア・サモサタ出身のルキアノス(120?-180?)の「対話 船または願い事」には、その見聞として「イシス」という船の航海が書かれている。この船はアレクサンドリアからローマへの穀物輸送船で、長さ53メートル、幅13メートル、高さ13メートルであり、その積トンは1200トン、その船のもうけは年に12アッティカ・タラントン(古代ギリシアでは、1タラントンは三段櫂船の建造費に相当)にあるとと語られておる(内田次信訳『ルキアノス選集』、p.61-88、国文社、1999)。
 艤装も、大三角帆(いわゆるラテンスル)以外には大きな変化はなく、相変わらず中央に大きなマストに四角い帆、船首と船尾に小さなマストと帆、そして船尾の横から1本または2本の櫂を降ろす型式であった。そのスピードは好条件で平均5ノット(8-9キロメートル)であった。
 旅客は穀物輸送船に便乗したとされる。その真偽や程度のほどは不明であるが、旅客船も建造され、それが郵便船としても利用されたという。「異邦人のための宣教者」と呼ばれた聖パウロ(3?-62?)は、主として海路をたどり3度にわたって旧ヘレニズム世界を伝道し、最後に裁判を受けるためパレスティナの町カエサレアから乗船し、ローマへの旅を向かっている。そして、数人の他の囚人とともにイタリア行きのアレクサンドリアの船に転船している。その船は穀物輸送船であり、船主も乗船していた。その乗船者は276人とかなり多いが、様々な旅客がいたということであろう。
 なお、聖パウロがそうなると警告したにもかかわらず、「良き港」(クレタ島最南端カリ・リメネス)を出帆する「ユーラクロン」という暴風に遭い、穀物などを投げ荷して助かったということになっている(その詳細は、Webページ【1・4・3 古代の航海、航海術、そして船員】を参照のこと)。
 カリグラ帝は、船に特に関心を持っていたわけではないが、40年頃にローマ近郊のネミ湖に約1100トンともいう、巨大な饗宴船を浮かべていたという。「1931年、湖水の水面を3メートルも下げる大工事によって、長さ7メートル、幅24メートルもある船が湖底から出現した。モザイクで装飾された宴会ホール、床下暖房のある浴室、さまざまな植物を植えた庭園など贅をつくした船は、湖岸の格納庫に収容されたが、第2次世界大戦のとき空襲にあい、いまは残骸がのこるだけである」という(青柳正規著『皇帝たちの都ローマ』、p.209、1992、中公新書)。 なお、アーネスト・フェイル氏も豪華な屋形船についてふれている。その著書の発行が1933年となっているので、その記述はカリグラ帝の饗宴船の発掘ニュースを聞き知ってのことであろう。
▼穀物やワインの輸送に必要な船の数▼
ワイン樽の川輸送
2世紀以後
アヴィニョン・カルヴェ博物館(フランス)蔵
テヴェレ川での樽の陸揚げ
113
 トラヤヌスの記念柱(ローマ)
 すでにみたように、ローマの輸入交易品は多様多岐にわたり、輸入元もまた地中海全域に広がっている。その主な貨物集散地は東から西へ、アンティオキア、カエサレア、アレクサンドリア、カルタゴ、マルセイユ、アルル、ナルポンヌ、カルタヘナ、タラゴーナ、カディスであった。それらの港は、ローマに向け、またそれぞれを結んで、海路で結ばれていた。
 アレクサンドリアからの穀物輸送船はオスティアまたはプテオリに直航したが、大方は伝統的な小アジア海岸沿いの航路をたどった。イングランドからの交易品は、ワイト島からドーバー海峡を横断してブローニュに入り、ローヌ川を使ってマルセイユまで下った後、ローマへの海路をたどっていた。北ヨーロッパからの交易品(琥珀、毛皮、鉄、奴隷など)は、アルプス経由で陸路、ローマに入った。
 地中海の海上交易はおおむね、海が穏やかな4月から10月まで行われ、11月から3月までは停止された。それぞれの航路に要する航海日数には様々な数値があるが、穀物輸送航路であるアレクサンドリアからオスティアまで、直航ルートは25日、沿岸ルートはその2倍、その復路は18-19日であった。同じ穀物輸送航路でも、カルタゴからオスティアまでは、3-5日と短い。その他、オスティアからスペインのタラスコ(タラゴナ)まで4日、カディスまで7-10日、カルタゴからカディスまで7日要したとされる。これらの日数は、あくまでも最速での片道航海日数の記録であって、艤装、積荷、滞船などの期間は含まれない。
 ローマの大量交易品は穀物やワインであったが、それらの実際の交易量をはじめ、それらを輸送した船舶の大きさや隻数に関する情報に乏しい。そこでいくつかの仮定を設けて、必要となる船の数を推定してみる。
 帝政期、すでにみたように、ローマの年間小麦消費量は3000万モディウス、20万トンとなるが、そのすべてを輸入に依存し、アレクサンドリアとアフリカから同量の輸入であったとする。いま、アレクサンドリア航路の船の積トンを平均200トンとして、その航海は上記のルキアノスが年1回と示唆し、また後述のように年1.5回程度しかできないとしているので、それに従って10万トンを輸送するに必要となる隻数は333隻となる。また、アフリカ航路の船の積トンを平均100トンとして年6回航海するとして、必要となる隻数は167隻となる。小麦輸送船は、合わせて500隻となる。
 ワインやオリーブ油は運搬用のアンフォラに入れて、大量に輸入されていた。ワインが入れられるアンフォラの容量は24-30リットル入りのものが多かったという(単位としてのアンフォラの容量は26リットルとなっている)。いま、30リットルが入るアンフォラの風袋としての重さを20キログラムとすると、このワイン入りアンフォラの重さは合わせて50キログラムとなる。この推定はアンフォラの輸送に関わる文献で用いられているものと、同じである。
 ローマ人は、ワインを浴びるように飲んだとされるが、「都ローマの住民のひとり当たりの消費量は、男性住民が1日0.8から1リットル、女性は約半分と見積もられている」という(カール=ヴィヘルム・ヴェーバー著、小竹澄栄訳『古代ローマ生活事典』、p.558、みすず書房、2011)。
 ローマ住民の半数の50万人が、毎日0.75リットル飲んでいたとすると、その年間消費量は13.7万キロリットルとなるが、その半分が海路で輸入されていたとする。その6.9万キロリットルのワインを運ぶには、30リットル入りのアンフォラが約2280壺、重さにして11.4万トンとなる。いま、アンフォラ輸送船1隻の積トンを平均100トンとすると、大量輸入元であったスペインを念頭において、年4回航海の場合285隻、年5回航海の場合228隻が必要となる。
 すでにみたように、ローマの輸入交易品は多様多岐にわたり、輸入元もまた地中海全域に広がっており、また当時、100トン、200トンといった船は大型船に属している。したがって、ローマに仕向けられる船の数は、大小取り混ぜて1000隻は下らなかったとみられる。それらの船籍構成はもとより不明であるが、ローマ人の所有になる船がほとんどなかったと確かであろう。
 なお、ローマでは、運搬用のアンフォラが破損すると、地下鉄ピラミデド駅近くに捨てられ、積み上げられてモンテ・テスタッチョ(陶片山)となっている。
 なお、青柳正規氏は2010年1月講書始の儀において、「ローマ帝国の物流システム」と題して進講している。そこでも、われわれと同じように想定が行われているが、その推定と結果は似て非なるものとなっている。その最たるものは、150トンの穀物輸送船が年に3回も、アレクサンドリアを往復できるとしている点である。
▼アレクサンドリアからの穀物輸送▼
 J.G.ランデルズ氏は、アレクサンドリアからの穀物輸送を、次のように推定している。「アレクサンドリアからオスティアへ年2回完全に往復するのは、不可能であった。もし、およそ半数の船団がオスティアで冬を越した彼らは帆走シーズン真っ先(4月初旬)に出航、5月初旬までには(空荷か、あるいは軽い貨物を積んで)アレクサンドリアへ着く(7月中旬なると、6週間ほど北西風が吹くので停止されたともいう)。そこで荷を積み、初夏に吹く南風を利用して、オスティアに向けて65-70日間航海し、7月末前に到着したであろう。もしすばやく荷揚げをすると……8月下旬に再び港を離れ、シーズンが終わるまでにアレクサンドリアへ到着できた。そこで冬を越した船団は、できるだけ早い機会をとらえて出航し、荷を満積して6月初旬ごろにはオスティアに着いたであろう。もし寄港業務をす早く終えれば、彼らはその月末までに出港でき、7月下旬までにはアレクサンドリアへ着き、再び荷物を積むことができる」(ランデルズ前同、p.247)。
 先のイシス号の航海はどうであったのか。軽風のなかを、アレクサンドリアを出帆、北西の風のため、進路は北北東に取った。7日後、キプロス西端アネムウティ岬を見る。これまでに約250マイル走ったことになり、その速度は約1.75ノットであった。現在のトルコ南岸にあるアネムウ(アナムル近郊)に向け航海していたが、強い西風が起こつたので、斜め方向に流され、結局最後にはシドンに着いた。依然として荒れた天候のなかを、キプロス東端アンドレアス岬を回って北方へ行き、そしてキプロスとトルコの間を西方へ航海し、シドンを離れてから10日後に「燕群島」(Webページ【1・2・2 キプロス、クレタ―地中海世界への橋脚―】でみた難破船が発掘されたゲリドンヤ岬地方)に到着した。
 今度は、好運に巡り合い、明かり(おそらく灯台か警戒標識)を見て、陸に近づきつつあることを知る。カルケシオンが起きた(セント・エルモの火を見た)ので、直進し続けたり、右舷方向に曲がったりしないで、神のお告げのまま、左舷方向(海へ出よ)に曲がることとした。その結果、[ここのところはよくわからないが]、通常のコースからはるかに離れてしまったので、船長はローマへの旅をあきらめて、代わりにアテナイへ行くことにした。それはおそらく積荷の品質が低下し始めたか
アレクサンドリアのコイン
180-92
エジプトから穀物を運ぶ船
大英博物館蔵
アフリカ産袋入り穀物
『軍民高位者目録』の挿絵、390
出典: J.M.ロバーツ著、東真理子訳
『図説世界の歴史3 古代ローマとキリ
スト教』、創元社(大阪)、2003
らであった。そのときでさえ、船は北西季節風に向かってタツク(斜め)帆走しながら、エーゲ海を上がり、エジプトを出航してから70日後にピレウスに到着した。この船はクレタ島の南、ギリシア南端マレア岬を通過し、オスティアに着くはずであつた(以上、ランデルズ前同、p.239-40よる)。
 なお、ローマとアレクサンドリアを結ぶ郵便船(タベッラリア)や、アドリア海のブリンディジ(アッピア街道の終点)とアルバニアのドゥラス(イタリア名、ドラッツォ、ビザンティウムに至るエグナティア街道の始点)を結ぶ定期船が就航していたとされる。
▼マドラグ・ド・ジャン湾の沈没船▼
 水中考古学の成果によれば、1992年1月までに地中海において発見された、1500年以前建造の沈没船は1189隻である。そのうち、時代を決めることができる1147隻の分布は、「前2世紀154隻、前1世紀183隻、1世紀180隻、2世紀158隻であり、前3世紀64隻、3世紀86隻と比べても紀元前2世紀から紀元後2世紀が圧倒的に多い」。
 「商業の量が多ければ多いほど多くの航海があり、航海が多ければ多いほど沈没船が多かったはずである。東地中海では紀元前の最後の2世紀に多くの船が海賊に沈められたこと、航海術の発達により船は沈没船の発見が難しい外洋を進むようになったことなどを考慮すれば、紀元後1・2世紀のローマ帝国の最盛期には15世紀に至るまでで、最大規模の地中海商業が存在した」と結論づけられているという(以上、市川雅俊稿「ローマの商業」伊藤貞夫、本村凌二編『西洋古代史研究入門』、p.178、東京大学出版会、1997)。
 いま上でみた沈没船は、そのすべてが詳しく調査されているわけでなく、当時の典型的な商船の大きさを知ることは難しいようであるが、後1世紀から3世紀に年代を決定できる船の規模は200トンから450トンであった。ローマ人が、この規模の船を広く使っていたとすれば、その建造費と積荷の購入費には莫大な資金が必要となる。
 それらのなかで、南フランスのマドラグ・ド・ジャン湾で発掘され、詳細な調査研究が行われたローマ時代の沈没船が有名である。前60-50年頃の沈没船で、全長40メートル、290-390積トンという大型船であった。主な積荷はアンフォラ(約6000個積載可能)と1635個の食器であり、最後の積出港はイタリア・ワインの産地でローマとナポリの中間に位置するテッラチーナであったとみられている。
 この船はきわめて良好に保存されており、ギリシア・ローマの標準的な最初に外郭を張る「外郭建造法」(しかも、後世に発達する南ヨーロッパ式の板張り法による。北ヨーロッパでは鎧張り法となる)によるものであり、大航海時代に本
古代ローマの商船
マドラグ・ド・ジャン湾発掘船の復元模型
出所:『NHKスペシャル 文明の道B
 海と陸のシルクロード』、p.31、NHK出版、2003
格的に普及する、最初に骨格を立てる「骨格建造法」の要素も幾分含まれているという(下記の第4工程)。なお、船体に鉛板が張られていたとあるが、この時代の工夫かどうかは不明である。

マドラグ・ド・ジャン湾発掘のローマ沈没船の建造工程
1 重い竜骨が置かれ、船体を構成する最初の3枚の厚板がそれら2つ面に取り付けられた。板は端の部分で、ほぞとほぞ穴によりぴったりと接合された。
2 船体下部の骨組みを造るために、幅の広い肋材(竜骨の左右両側へと伸びていく)が竜骨に沿って間隔をおいて置かれた。この肋材は、厚い竜骨を貫いて下から打ち付けられた垂直な金属製の長い大釘の上に固定された。
3 第2工程で固定した肋材の間に、さらに一本ずつの肋材が置かれた。これは竜骨の両側について行われたが、竜骨には固定されなかった。
4 第2、第3工程で竜骨に取り付けられた下部骨格の外側に、船体下部の外板が取り付けられた。これは、第1工程で最下部の厚板を端のところで接合したのと同じ技術によるものだった。さらに、木釘が外側から打ち付けられた。
5 船体上部が、骨格からは独立して造られた。木釘は船体内部から打ち付けられた。
6 船体の最上部まで届く内部肋材が、内側にさらに取り付けられた。それらは下部の肋材とは結合されなかった。
7 船体外部に薄板を用いた第2層の外板が取り付けられ、さらに鉛で覆われた。また内部の肋材を覆うために、内側にも一層の厚板が取り付けられた。
 マストとその支えを差し込むために入念にしつらえた穴のある巨大な木材があり、それを船体最下部の骨組みに慎重に取り付けているのが見出されている。しかし、甲板や船楼に関する証拠は何も残っていない。
 この船の建造に使用された木材を調べた結果、これらの肋材やマストを支える檣座は、船体外郭の厚板を接合する木の札(さね)と同様、オーク材で作られていることが明らかになった。しかしその厚板を固定する木釘は、さまざまな種類の木を用いて作られている。竜骨および第1層目の厚板はニレで作られているが、外側の層の方はモミで作られた。
出所:ケヴィン・グリーン著、本村凌二監修、池口守・井上秀太郎訳『ローマ経済の考古学』、p.54-5、平凡社、1999
▼船主組合の統制、船主業世襲の強制▼
 ローマ帝国は、2世紀の五賢帝の時代(96-180年)に最盛期を迎えたとされるが、それが終わる頃から衰微の兆しが現れる。それはまずもって食糧の海外依存度の高まりであった。それは隆盛のあかしにみえるが、ローマの農業が危機的状況になっており、貧富の差がいままでになく拡大し、生産と消費が制約されつつあった。
 ローマ帝国も帝政期末期なると、その巨大な統治機構を維持しまた公共事業を継続するための財政経費が増大し、ローマ市民の負担は重くなっていった。その一方で、属州においては、大土地所有制が発達して現地有力者が形成され、独自な産業も発達して、生産と消費を拡充する。そのなかで、海上交易の中心地はいままでなく多極化するようになる。その一つの現れが、属州出身の皇帝や元老院議員の登場である。そして、212年属州出身のカラカラ帝が、ローマ帝国内の自由民にローマ市民権を与える。
 ローマ時代の商業・交易における一つの特徴は、同職組合(コレギア)が結成されていたことである。「これら同職組合は、重い金銭負担と引き替えに、国家の保護が与えれれた。それらはコレギウムを形成し、自分たちの保護者(ローマの貴顕、皇帝自身など)を選ぶことができた。かれらは宴会の席上、あるいは宗教的儀式において、この保護者に名誉を供するのだが、それと引き替えに、かれらコレギウムのメンバーは……保護者の気前のよい施しや、国家の最上級の者への取りなしを求めた」という(A.プレシ/O.フェルターク前同、p.158)。けなげなことである。
 ローマの同職組合は共和政末期頃から現れ、政治闘争に一定の役割を果たすようになったという。その「組合への加入は自由であり……私的な性格をもち、国家や都市機構の構成要素となることはなかった。ただし政府は、国家や公共の便宜に関係する業種の組合(たとえば船主や穀物商人の組合)に対しては、さまざまな特権(たとえば市民権付与や都市への義務の免除)を与えることによって、加入を奨励した。組合の機能について、ローマの組合は中世のギルドのような製品の規制や競争の排除を行ったわけではなく、むしろ共同の宗教的祭儀、宴会、葬儀の挙行などの活動に力を注いだ」とされる(坂口明稿「組合」伊藤貞夫、本村凌二編『西洋古代史研究入門』、p.182-3、東京大学出版会、1997)。
 それらの同職組合なかでも、ローマのアキレス腱であった食糧輸入とその供給にかかわる同職組合には特別の関心が払われていたようである。すでにみたように、そのシステムを維持するため、専門の特別公職が配置されてきた。それに加え、帝政期中頃になると、国家は食糧の輸入や輸送を担う船主業、そして食糧供給に関わるパン商、ブドウ酒商、油商、豚肉商などの同職組合を監督・統制するようになる。そして、古代末期には、ローマの同職組合は納税と国家奉仕について連帯責任をとらされるようになり、4世紀初めには船主業とパン商についてはその職業の世襲が強制され、未相続財産は組合資産となり、資本移動まで制約されるようになった。さらに、食糧に加えオリーブ油の輸入が、公的な強制奉仕義務となった。それにともないさらなる特典が付加されたであろう。
 ケヴィン・グリーン氏は、ローマはギリシアとは違って、事実上「この種の海上輸送は国家が運営していた」とみる。「だが、実際には民間の請負業者が執り行っている。彼らはこうした業務を、オスティアの船主たちの事務所が示すように、自分たちの仕事と一緒に組み合わせてしまうことができた。だが文字史料から察すると、国家の所有する穀物と油の海上輸送は、2世紀の間には利益よりもむしろ負担になったようである」と述べている(グリーン前同、p.91)。末期ローマの商人や船主にとって、食糧輸入は奉仕ではなくなり、単なる強制義務となっていたのである。
 それはともかく、トラヤヌス帝(在位98-117)は、有能な政治家かつ将軍であり、ダキアとパルティアとの戦いで国境をダキア、メソポタミア、アッシリアにまで拡げ、ローマ帝国を最大版図とする。しかし、巨大な帝国の一元管理は困難となる。ディオクレティアヌス帝(在位284〜305)はローマ帝国を管区に分割する。それによって、従来属州と区別されていたローマやイタリア同盟都市は、その特権的地位を失う。また、かれは激しいインフレーションを抑制するため、食糧品70種、賃金40種、衣服・建築の材料100種、そして海上運賃40種(航路)の最高価格を定めたという。しかし、それらが実行されたという様子はない。
 395年、ローマ帝国は東西に分裂する。西ローマにおいては皇帝権が弱体化すると、ゲルマン人傭兵出身の将校が実権を握るようになり、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって滅亡させられる。東ローマはゲルマン人の侵入を受けながらも、ビザンティン帝国として持続する。
▼港湾施設や穀物倉庫の建設、整備▼
 ローマが支配していた時代の主なイタリアの
海港都市は、ティレニア海にあるオスティア、プ
テオリ、ポンペイ、パエストゥム(ポセイドニア)、そ
して南部にあるタレントゥム(ターラント)などの
ギリシア都市であった。
 オスティアはローマに近いというだけで、船の
停泊には向いていなかったが、穀物の荷揚げ
港として利用された。それに対して、プテオリは
良港であって、東方産品などの奢侈品が将来
した。近郊には貴族の別荘が集まり、奢侈品市
場が形成されていた。プテオリは、共和政期か
らローマの外港となっており、輸入食糧も陸揚
げされていた。そこからローマに陸送される
か、小舟でテヴェレ川の河口まで運ばれ、さら
にはしけに積んでローマに輸送されるかした。
プテオリはローマには約200キロメートルと遠かっ
たが、帝政期に入っても使わざるをえなかっ
た。
 共和期のローマは、港湾施設の改善には積
極的であったとはみられていない。しかし、帝
政期にはいると、放置できなくなる。それは穀
物輸入を円滑に行うことが、国家にとっても商
人にとっても、共通の利害関係となっていたか
らである。
 帝政期、アウグストウス帝はプテオリの波止
場を拡張してアウェルヌス湖までのばし、さら
に新港ポルトウス・ユリウスを追加した。プテオ
リの港には、灯台付きの石造りの防波堤(407
ヤード)があり、華麗な船着き場がしつらえられ
ていた。その他、穀物倉庫が設けられ、各地
の商人や船主の事務所や代理店が置かれて
いた。なお、その防波堤の下部構造にはコンク
リート工法が用いられており、プテオリはローマ
ン・コンクリートの発祥地とされる。その時代プ
テオリは、14万トンの小麦が陸揚げされたとい
う。
 ローマの本来の外港は建国以来、テヴェレ
川の左岸にある、河の入り口を意味するオス
オスティカ・アンティカの鳥瞰図
オスティア港の復元図
a:クラウディウス港と呼ばれる外港
b:トラヤヌス帝によって完成された内港
c:ドックヤード(造船所)があった
d:テヴェレ川に通じる運河と倉庫群
h:トラヤヌス堤防
i:灯台のあったところ
出所:高見玄一郎著『港の世界史』、p.74
朝日新聞社、1989
ティアであった。ローマの第4代の王アンクス・マルキウス(前641-616)が建設したとされ、その後軍港として栄えたが、次第にローマが消費する穀物などを輸入し、貯蔵する商港となっていった。しかし、河口港のため、最大級の商船が安心して接岸し、荷揚げすることができなかった。それを改善しようとして、カエサルやアウグストゥス帝も努力するが着工に至らなかった。
 クラウディウス帝(在位41-54)は、アウグストゥス帝がやり残した事業に乗り出し、42年にテヴェレ川の右岸に新港建設を手掛けたとされる。このポルトウスの工事の本格的な完成は、64年ネロ帝の時代になってからであった。それにより、少なくとも200隻以上の船が停泊できるようになった。とはいえ、62年には嵐により何と200隻の船が沈没したという。
 A.プレシ/O.フェルターク氏は、いとも簡単に「ローマの巨大な《エンポリウム》であるオスティアは、年平均で12,000隻の船を受け入れ、取り扱い貨物は年間約80万トンに達した」などという(A.プレシ/O.フェルターク前同、p.63)。大量の取り扱い貨物を保管・貯蔵するために、従来のオスティアに加え、新港には大型、小型の倉庫(ホレア)が多数、建設され、需給調整が図られてきた。オスティアでは、2-3世紀13の倉庫があり、なかでも1世紀建造というホルテンシウスの穀物倉庫が有名である。
 大型船が直接オスティアへ向かい、比較的安全に穀物を荷揚げできるようにしたのは、トラヤヌス帝(在位98-117)であった。かれは、110年クラウディウス帝が造成した外港の奧に、さらに小さな内港を造成し、それらの港とテヴェレ川とをつなぐ運河を建設している。
 高見玄一郎氏によれば、内港は六角形(一辺358メートル)の直線埠頭を持っており、その周囲には穀物倉庫、ドックヤードとともに、税関、その他の国の機関、護衛の兵士の宿舎、商人や船主、船頭の住居、浴場や劇場などがあった。そして、その港は灯台を持つ円弧状の防波堤によって防御されていた。
 また、ローマ時代の港湾の進歩について、コンクリート工法による防波堤や埠頭や、オスティアのような直線埠頭を持つ新しい様式の港の出現を上げ、その核心は「ギリシア様式の円形港湾が、ローマ様式の、内側に直線埠頭を持つ港に発達した」ことに求め、その中間項が「北アフリカのリビアに残っているレプチィス・マグナの遺跡[であり]……その右半分は古いギリシア式の円形の港で、左半分に三つの角をもった直線埠頭がつくられている」とする(同著『港の世界史』、p.55、p.58、朝日新聞社、1989)。
 こうした港湾施設の建設、整備とともに、大量の輸入食糧に依存し、その輸入が冬期には困難になるとから、食糧備蓄倉庫は不可欠であった。それは、すでにみたように、プテオリやオスティアの港に設けられていたが、ローマに市内にも必要であった。アウグストゥス帝の協力者であるアグリッパは数々の都市基盤を整備しているが、その1つとして前20年頃、フォロ・ロマーノやテヴェレ川沿岸、市北部に倉庫を建設している。クラウディウス帝も同じように大規模な倉庫を建設している。
 新港としてのオスティア港は、現在フィウミチーノ空港の下に埋もれているが、六角形の内港は「トライアヌス帝の湖」と呼ばれ、いまも残っている。従来からのオスティアは1938年から組織だって発掘されるようになり、古代の遺跡としてその街並みを見ることができる。
 オスティア・アンティカと呼ばれる遺跡の中央には劇場があり、舞台の背後には、同業組合(コルポラツィオーニ)の大広場と通称されている、107×78メートルの列柱回廊がある。その三辺が61もの小部屋(4メートル四方)に仕切られ、事務所となっていた。
 その事務所の前廊の床面には2世紀頃のモザイクが多数残され、組合名(collegia、corpora)や海上交易人(navicularii)や仲立人(negotiantes)といった業種、交易先と示す銘文、そして船や灯台、魚、イルカ、猛獣などが描かれていた。それらから、交易品は主として穀物であり、その他に木材、亜麻、ロープ、革、毛皮など、また交易先はエジプト、カルタゴ、チュニジア、モーリタニアといったアフリカ各地、サルディニアなどであったことがわかる。海上交易人の多くはギリシア人などの外国人であった。詳細は OSTIA TOPOGRAPHICAL DICTIONARY を参照されたい。
交易人や交易先、不明
灯台と2隻の船、ドルフィン
オスティアの穀物倉庫
145-50
木材交易人のモザイク
灯台と2隻の船
サルディニア交易人のモザイク
船の両脇に穀物計量器
カルタゴ交易人のモザイク
2隻の船と魚
オスティアの同業組合(コルポラツィオーニ)の
大広場にある事務所のモザイク
▼近代に通じる船舶の所有者、運航者の登場▼
 大量の食糧輸入が行われ、多数の輸送船が就航するに伴って、交易と輸送、そして船舶の所有と運航のあり方も複雑となった。しかし、その基本的形態はすでにみてきたような商人船主であった。かれらは、自分の船に自分の商品を載せて交易していた。すなわち、船舶および商品の所有者であったが、それがいままでになく分離しはじめ、船舶所有者はもっぱら運賃を取って、商品所有者の貨物、さらには旅客を載せるようになる。こうした船舶所有者はすぐ下で述べる船舶運航者でもあるので、船舶所有者兼運航者ということになる。
 さらに、船舶および商品の所有者は、次第に商人あるいは船長として乗船せず、航海は船長、業務は管理人に委ねるものが現れる。この業務管理人は、運送契約を結んで運賃を受け取り、また船舶の修繕や船用品の調達に携わる。それでも、貨物や旅客がないあるいは少ない場合、船舶所有者の計算において商品の売買、すなわち海上交易を行った。
 船舶所有者のなかには船舶の運航にはまったく関与せず、自己の船舶を船舶運航や海上交易に長けた人々に、一定期間あるいは長期間、賃貸する者、すなわち単なる船舶所有者が現れる。この地主のような船主から借りた者は用船者(傭船者)とも呼ばれ、その船の所有者であるかのように、その船を自由に使用する。そうした振る舞いをするものを船舶運航者という。この船舶運航者にとって、それによってえた運賃と船主に支払う用船料の差が、利益となる。こうした船舶運航者も船主とも呼ばれ、誠に紛らわしい。
 船舶運航者が他人の貨物を輸送する場合、運送契約が結ばれる。その文書は、紛らわしいことに、用船契約書(Charter-Party)と呼ばれる。236年に作成された用船契約書は、下記のような内容になっている。

ローマ時代の用船契約書
 まず冒頭に,船長および商人の氏名が記され、次いで当該船長が本船の所有者たること、および、本船の貨物積載力の明細が記されている。
 商人は、本船の全船腹[貨物スペース]を当該特定航海に限って傭船し、船腹運賃として銀貨100ドラクマを支払う。ただし、そのうち40ドラクマは傭船契約締結と同時に支払い、残額は貨物の引渡と同時に支払うことに同意する。
 船主は、至当な艤装と適切な乗組員とを提供し、2日以内に貨物の積込を完了し、それを完全に且つ海水による汚損なしに引渡すべき義務を有する。荷揚港における荷卸が4日以内に完了しないときは、船主は1日につき16ドラクマの滞船料を申受けるものとする。
出所:C・アーネスト・フェイル、佐々木誠治訳『世界海運業小史』、p.47、日本海運集会所、1957

 アーネスト・フェイル氏は、この「傭船契約書は、―今日のわれわれをして言わしむれば―船主の免責条項を入念に網羅している定期船の船荷証券に比較すれば、やや、簡潔に失するものであるが、明晰にして実務的な証書であり、契約上の主要事項を洩れなくふくんでいる。これによってわれわれは、海運業―利益追求の手段として船舶を運航することを業務となし、単に自分自身の貨物を運送することを目的としない海運業が、すでに[ローマ時代から]きわめて近代的なやりかたでいとなまれていたことを知り得る」とする(フェイル前同、p.47)。
 ローマ人船舶所有者のなかには奴隷もいた。乗組員の多くは一定の賃金を支払われる船員であった。ローマ人は、海上交易の慣習あるいは法律をギリシア人から学んでいる。ロドス法を受け継いだが、そのなかでも投げ荷の慣習あるいは法律を発展させた。ローマ法は模倣を超えた、ローマ独自の業績ともされる。
▼ローマの道、軍事輸送と公用郵送▼
 「すべての道はローマに通ず」。ローマ人がローマ世界にすばらしい道路を建設しことは周知である。国家が建設した公道あるいは軍道は372路線、85,000キロメートルであり、アメリカの幹線道路の延長に匹敵する。伊藤栄氏は、商業がこの「道路によって、著しく促進されたことは言うまでもない。これらの道路がいかにすぐれたものであったかは、当時の商業が主に陸路によって行なわれたこと、さらに中世においてさえローマの道路が最も重要な道路として尊重されたことからも、窺うことができる」という(伊藤前同、p.36)。
 確かに、一般論として、道路の発達は交易港へのアクセスを改善したであろう。ローマ帝国の北に位置する、特に平坦部の多いブリタニアやガリアにおいては、「地方への往来は、道路、河川、あるいはその両方を組み合わせることにより可能であった。……荷車や駄獣が、網のように広く張りめぐらされた公道、私道を往来した。これらの輸送手段は、多くの場合中世のものよりも質的に優っていたし、少なくとも劣ることはなかった」とされる(ケヴィン・グリーン著、本村凌二監修、池口守・井上秀太郎訳『ローマ経済の考古学』、p.90、平凡社、1999)。
 さらに、アウグストクス帝時代、宿駅制が設けられる。しかし、それをも含め道路は所期の目的通り、「皇帝が広大な領内の出来事を直ちに知り、いざと言う場合に軍隊を容易に派遣しうるため」のものであった(伊藤前同)。ライン川とマース川をつなぐ「コルブロの溝」と呼ばれる運河が建設されている。
 ケヴィン・グリーン氏は、ローマ帝国の輸送の歴史について、次のように結論づける。「帝国の輸送システムは1、2世紀頃、最も効率良く機能した。その後は帝国の内外ともに不安定となり、財政面の不安定や政治的制約と相まって、遠隔地交易が困難になった。地中海で発見されるローマ時代の難破船は1世紀のものが最も多く、3世紀から5世紀のものになると激減している。だが、4世紀のローマヘの穀物供給に関する文字史料は依然として、交通・輸送が中央集権国家においていかに洗練された形態をとるかを示している」(グリーン前同、p.91)。
 なお、海陸の輸送コストは海上:河川:陸上=1:5:28の比較であったとされ、それは18世紀まで続く。
▼若干のまとめ▼
 ヨーロッパを巡れば古代ローマの遺跡が溢れている。それがある地を、誰もが文明の源(みなもと)と認めざるをないし、その地の人々もそう思っている。いまなお、偉大で、壮大で、驚異の文明を作り上げたローマ人について、ある日本人作家が10有余年にわたって、毎年、大著をものにしたくなるのは、宜(むべ)なしとはしない。しかし、そこにあるのは勝者や強者の歴史である。それ以上でも以下でもない。この読後感と同じように、ローマの海上交易について寂寥感にとらわれる。それは交易史料の乏しさにあるのかも知れない。
 ローマは、その巨大な領土を1つのポリスとしてまとめた。それに伴って、地中海世界に1つの経済、1つの行政、1つの法律、1つの文明が築かれたことになる。その一環として、ヘレニズム世界の解体によって分断されていた地中海を、単一の海上交易圏として再編成した。そればかりでなく、ローマ帝国の膨張とともに、海上交易圏の規模もいままでなく拡大した。そして、「パクス・ロマーナ」(ローマの平和)のもとで、海上交易の密度も高まり、海上交易量を増大した。海上交易品についても、いままで以上に東方産品、そして新規に北西ヨーロッパ産品が持ち込まれた。こうした書き方はあまりに一般的であろう。
 ローマが地中海を単一の海上交易圏として再編成したとするが、それはまずもってカルタゴから西地中海、そしてヘレニズム世界から東地中海の交易圏を横取りしたものであった。ローマが独自に開拓した交易圏はほとんどなく、せいぜいブリタニア(陸上交易圏ではガリア)くらいのものである。ローマはそれらを1つの支配圏に組織し、その結果として、それらが単一の海上交易圏になったにすぎない。それに組み入れられ、ローマ世界と交易するなかで、ナルボンヌ、アルル、ミラノ、トリノ、テッサロニカといった、いくつかの新しい有力な交易都市が生まれる。
 それに応じて、ローマ世界における海上交易品についても決定的な変化はなく、ヘレニズム時代のそれらを引き継いだものであり、ブリタニアやガリア、北欧から、若干、新規の交易品が到来したにとどまる。海上交易品のなかで、すでに大量貨物となっていた穀物、オリーブ油、ブドウ酒、そして奴隷がさらに増加したことで、ローマ時代の海上交易量はヘレニズム時代に比べかなり増加したとみられる。しかし、その末期になると、属州経済の成長により自生的な交易圏が築かれる。それによって海上交易が分散し、海上交易量は全体として頭打ちとなる。そして、個別の交易圏のあいだで、その伸びに開きが起きたとみられる。
 ローマが、地中海世界を支配したことから、海洋国家あるいは海軍国、海運国であったかのようにみえるが、そうではなく、あくまでも陸上帝国であった。ローマが、海軍力を必要としなかったわけではないが、それをギリシア都市のように直接的に保持せず、ほぼ全面的といってよいほど同盟都市に依存していたことである。
 また、海上交易にあたっても、交易人、船舶、船員をほぼ全面的といってよいほど輸入元の非ローマ人に依存していた。ただ、ローマはギリシアに比べ、食糧を大幅に海外に依存していたので、それら非ローマ人の海運要素をローマの便宜のために取り込むことに国家が懸命となったことが、大きな特徴となっている。さらに、ローマはギリシア同様かそれよりも工業の未発達であり、厖大かつ多額の輸入品の見返りとなる輸出品がなかった。さらに、ギリシアのように、中継交易都市でもなかった。したがって、ローマは海運国ではなく、皇帝を最大の荷主とする単なる受荷主国あるいは大消費都市にすぎなかった。ローマは、海上交易の歴史にほとんど何も加えなかったといえる。ただ、いままでになく大規模に海上交易を組織したとはいえる。
 古代ローマは世界支配に新しい形を示したとされる。それ以前は先進国が後発国を支配して覇権国となったが、ローマになってそれが逆転し、後発国が先進国を支配することで覇権国となるという形があることを示したといわれる。それとてヘレニズム世界が先駆けであったといえなくはない。このローマも、その将軍小スキピオ(前185-129)がカルタゴの劫火をみながら、「ローマの運命もいつかはこうなるだろう」といったようになる。それは、ローマ帝国の住むすべての自由民が首都ローマ人と同じように市民権を持つこととなり、また属州の支配者たちがローマの貴族や騎士と同じように振る舞い、その領地を自前のポリスとして運営するようになると、ローマ帝国は分裂するしかなくなる。それを「蛮族」に一撃されて瓦解する。
 ローマ帝国の没落の内的な原因は、ジョルジュ・ルフランに従えば、その「1つは、経済生活がクロディウス帝以来の決定的な国家統制の進行によって麻痺してしまったことである。安全のために帝国が責任をもった大衆に対する補給と、国家が予算上の都合で増やした奢侈品の独占に動きがとれなくなって、個人商業は紀元3世紀以降しだいに消滅していった。これに反し、もう一つの原因は貨幣流出入の不均衡からくる害悪である。ローマ貴族政治は数世紀以来オリエントから求めていた奢侈品なしにはすまなかった。こうした輸入品に対抗して相手方に供給すべき産業が、1世紀以後軍団と蛮族からの2つの保護によって帝国の郊外に移され、イタリアからガリア、スペイン、さらにはアフリカへ移動した。そこから数世紀にわたって貨幣の流出が増大した」からであった(同著、町田実、小野崎晶裕共訳『商業の歴史』、p.25、文庫クセジュ、1976)。
(03/10/03記、10/03/20、12/04/20、14/11/25補記)

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