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Conclusion ; Ancient Maritime Trade Theory

1・4・1 古代の海上交易の形態―ポランニー批判を通じて―
1.4.1 Forms of Ancient Maritime Trade

▼贈与交易、管理交易、市場交易▼
 経済人類学者カール・ポランニー(1886-1964)は、古代交易について積極的な説明を与えたとされてきた。かれによれば、社会における財貨の統合形態を「互酬、再分配、交換」としたうえで、「交易とはその場所では入手できない品物を獲得する方法である」と定義する。それは「必然的にその共同体にとって対外的な関係をつくりだす。そうした獲得の前交易的な形態は、狩猟であり、遠征であり、侵略である。そこでは財の移動は一方向的である。……しかし、交易とは平和で二方向的な活動であり、……[この]二方向性の原理にもとづいて、3つの主要な交易の型……贈与交易、管理交易または条約交易、そして市場交易」があるという(同著、玉野井芳郎・栗本慎一郎訳『人間の経済 T』、p.89、p.159、p.179-80、岩波書店,、1980)。
 贈与交易は、「互酬の関係において結び」ついた「通常、儀礼的なものであり、……[支配者]間の政治的行為などを含んでいる」などという。「互酬」(こんな訳語には困惑する。素直に互恵とすべきであろう)や二方向(普通の訳語は双方向であろう)という規定からすれば、狩猟や遠征、侵略と同じように、貢納は含まれないことになる。これでは、古代から近世に至るまで重要な財貨の獲得手段であった貢納が、まったく無視されることになる。また、かれは狩猟や遠征、侵略を前交易形態というが、それらによる財貨の略奪は現代に至っても、なお交易と併存して行われている。何はともあれ、それらは貢納とともに、古代における重要な財貨の獲得手段であったというべきである。
 さて、贈与交易ははたして互酬的で、二方向的で、平和
な活動であろうか。それは、見返りの財貨があるかのような体裁を取っているが、一方向的な活動の擬制にすぎないであろう(それらは結果として二方向になろう)。そうした政治的外皮を取り去った貢納は、一方向の財貨の獲得ではあるが、支配者間の政治的行為そのものである。贈与交易はおおむね奢侈品が取り交わされようが、貢納には奢侈品だけではなく、農産品など必需品が含まれており、その量は決して小さくはなく、その輸送は継続的である。これら必需品の獲得としての穀物交易や貢納交易は、特にギリシアやローマにあっては、それら住民の死活を制するものとなっていた。
 次に、管理交易にいたっては、さらに曖昧である。それは「条約を基礎にする交易」であり、「政府または政府に管理された方途によって組織されて」いるという。その例として、ギリシアやヘレニズム期エジプトの穀物交易が取り上げられる。その交易も、贈与交易と同じように支配者が取り仕切る交易であるが、いままでになく組織・管理された交易、しかも必需品の交易だということに特徴がある。それは支配あるいは統合するための交易であるため、管理交易とされるのであろう。
 管理交易と財貨の統合形態を関わらせて、その「組織は輸入された財の分配と同時に輸出財の徴集も行なわねばならない―この両側面は国内経済の再分配分野に入る」などという(以上、前同、p.181)。いま問われているのは国際経済の次元である。その関わりで管理交易の例を上げるとすれば、いま上げたローマ帝国の穀物貢納交易であろう。ポランニーの無理は、管理交易と再分配を対応させ、また交易を「二方向性の原理」によって縛ったことにある。
 なお、市場交易について、この場合「交換は当事者[広く、供給者と需要者]を相互に結びつける統合の形態となる。これこそは、……比較的近代的な交易の形態である。……ここで交易可能な財―商品―の範囲は実際上、無限である。組織は、需要・供給・価格メカニズムに沿って生まれ出る」という(前同、p.182)。
 ギリシア・ローマ経済の市場的性格をめぐって論争があり、ポランニーはそれに参画して古代古典期は「古代『資本主義』の最盛期」であり、「人間の経済にたいする貢献を要約するなら、彼らがふたつのタイプの経済―市場および交換型と計画[ここでは管理とは訳されていない]および再分配型―を、ほとんど独力で空前の最高形態にまで発展させた」という(同著、玉野井芳郎・中野忠訳『人間の経済2』、p.481-2、岩波書店)。要するに、ギリシア・ローマ経済には市場的萌芽が限りなく見られたとする。
▼王の交易―贈与、貢納、調達―商人の交易▼
 このようにポランニーの概念は操作的で便宜的である。その批判の上に立ち、すでにみた所論から、エジプト・オリエントからギリシア・ローマに至る古代交易の歴史的形態についてまとめてみる。
 原初的な財貨の移動あるいは交換について、いま少し検討する。交易は、共同体間の境界や隙間において、共同体間が余剰生産物を交換しあい、それぞれが欠乏あるいは不足する財貨を獲得する方法として行われる。それが円滑に行われうる条件は、まずはA共同体において必要とするB財貨が欠乏あるいは不足し、B共同体においてその財貨にさしあたって余剰があり、そしてA共同体においてもB共同体が必要とするA財貨に、さしあたって余剰があるということである。この交易に回わされる余剰生産物は共同体全体の占有物であり、この交易を誰が行なおうと共同体の交易として共同体成員の共同利益のために行われる。こうして交換される余剰生産物はいずれも必需品である。
商人の交易
王の交易
贈与交易  
貢納交易  
調達交易┬


代理交易
委託交易
直轄交易
同上
管理交易
同上
大商人交易
小商人交易
管理交易

古代交易の類型

 しかし、生産力が発達して、さらに様々な生産物に余剰が生じてくると、首長や王、神殿などが余剰生産物の一部あるいは全部を占有するようになる。その結果、共同体の交易は次第に首長や王が取り仕切る交易となる。それは、共同体全体の必需品ばかりでなく、首長や王が必要とする奢侈品の調達が目指される。それが、みかけ共同体の交易の形をとるとしても、次第に首長や王の交易として、私的利益がすぐれて追求されるようになる。それであっても、首長や王は共同体成員の共同利益を図る交易を放棄することはできない。
 交易は、いまみたように、いくつかの共同体において財貨の需要と供給が対称的になっていることが、必要である。しかし、現実はそう簡単なことではなく、おおむねは非対称的であろうし、対称性の連鎖はとぎれよう。そのため交易は正常に行われず混乱が生じ、それをめぐって諸共同体の対立が起きる。さらに、共同体間において国力に違いが生じてくる。そうしたもとで、共同体のあいだでは、交易を含む様々な対外関係が築かれ、そのなかで財貨の暴力的あるいは平和的な獲得、また財貨の一方向あるいは双方向の獲得が行われる。すなわち、狩猟や遠征、侵略による略奪、贈与交易、貢納交易、そして「市場交易」がない交ぜに行われることになる。
 現実の交易は諸共同体の対外経済関係にしたがって行われ、様々な交易組織・制度が構築されるが、古代交易の基本的な形態は「王の交易」あるいは王の支配・管理する交易である。その構成は贈与交易や貢納交易ばかりでなく、それら以外の一般的な調達交易も含まれる。それらによって、首長や王が必要とする財貨を中心にしながらも、共同体成員も必要とする財貨も調達される。
 「王の交易」の対極にあるのが「商人の交易」である。それは古代交易の副次的な形態といえる。「商人の交易」は、首長や王が主要な余剰生産物を占有しているもとでは、まずは「王の交易」との関わりでしか発生しえない。「王の交易」は王自身ではなく、宮廷交易や官僚交易として行われる。さらに、「王の交易」が商人を代理人にした御用交易としても行われる。その御用商人は当初、王族や官僚の関係者であった。こうした御用交易に付随して、またその延長として「王の交易」とは無縁なあるいは別個の「商人の交易」が行われるようになる。
 こうした「商人の交易」にあっても、「王の交易」あるいは王の交易支配から自由ではありえない。それこそ管理交易といえる。これらの「王の交易」やその延長とは無縁なところでも、「商人の交易」が発生しよう。原初的な交易は共同体間の境界における交易として始まるが、それらの多くが王の管理を受けることになったとしても、「王の交易」やその交易人との関わりのない、共同体成員間の小交易や「小商人の交易」として続くことなる。
 歴史上の交易は市場交易か非市場交易かである。古代においては非市場交易が支配的であり、その基本的な形態が王の交易、副次的な形態が商人の交易である。王の支配・管理が直接的な交易(直轄交易)としての贈与交易と貢納交易(その担い手からいえば宮廷あるいは官僚交易)、そしてそれが間接的な交易(代理交易あるいは委託交易)としての調達交易とがある。この間接的な交易と商人の交易は王の管理のもとにおかれる。それらを交易品としては、贈与交易と一部の貢納交易は奢侈品を、大部分の貢納交易とすべての調達交易は必需品を交易する。そして、王の交易は前者を、商人の交易は後者を取り扱うといえる。
▼タムカルム、居留外国人、来訪外国人▼
 ポランニーは、「歴史上のおどろくばかり多様な交易の形態や組織」は、「(1)人員、(2)財、(3)運搬、(4)二方向性」という制度的特徴から分析できるという。そのうち「人員」以外はあまりいただけない。この「人員」はしばしば参考に供される。
 「交易者の動機が自己の社会的身分によるもの、つまり原則として義務や公共への奉仕の要素によるものである場合(身分動機)と、売買取引から生まれる利得のために行なわれる場合(利潤動機)とふたつある。身分動機にもとづく交易者の典型的な(けっして唯一ではないが)代表例は仲買人(ファクター)であり、利潤動機のそれは商人(メルカトール)である」(前同1、p.164-5)。
 すでにみたように、王の交易はそのために「実際上、数百、時には数千の交易者を彼らのための代理人や『王の商人』として雇わねばならない」。かれらが「軍隊の将軍であり、市長であり、国の高官に属する者たち」である場合はもとより、単なる商人であっても「王の商人」として振る舞う。古代の交易が「王の交易」として支配・管理されている時、その御用は―それが見かけであっても―「身分動機」でしかあずかれないからである。そうすることが自前の交易に役立つからである。その報酬として、私的な儲けに比べればわずかかもしれないが、「主人や君主からの財宝の贈物や収入のある土地」を受け取ることになる(前同1、p.164)。それこそ王をもしのぐ資産家への道である。ポランニー自身も認めているように、単なる商人には2つの動機がない交ぜになっていたし、常に2足の草鞋をはいていたのである。
 ポランニーはいう。商人は身分として「古代には上流または下層階級のどちらか」に属しており、後者の「低い身分の人びとは軽蔑されるべき利得のための動機に憂き身をやつし……とても自分の品格を守ることはできない」。ギリシアという「王の交易」がないもとでの例として、「カペーロイ―地方の食物小売商―という下層階級の商人と、ナウクレロイという居留外人クラスの、これも下層に当たる船長型交易者」を上げる(前同1、p.165、p.167)。
 一般論として、「古代の典型的な交易者は、タムカルム、居留外人、そしてそれ以外の外国人である」という。タムカルムは、「メソポタミアの領域をシュメールの時代からイスラエルの勃興にいたるまで、三千年以上にわたって支配した」。かれらはファクター型商人に属し、王などから任命され、世襲的である。かれらは「隊商や船隊[による]財の運搬任務、商交渉のすべて、情報収集、外交、売買準備、価格交渉、遠隔地交易……仲介人、競売人、保管物の管理人、公式の決済・貸付け・前払いの代理人、役人として」振る舞うという(前同1、p.169)。なお、このタムカルムはハンムラビなどの法規に登場する用語である。
 そして、居留外国人は「史上最初に現われたのはアテネ」だという。かれらは、古代の主要な交易地においてそれ以前から活躍しており、明らかな誤認であろう。さらに、「そこから古き西ヨーロッパの市民型商人が発生」したともいう。それはともかく、かれらは「ある共同体に住む外国人である」。
 そして、かれが典型とする「主として港に居たアテネの居留外人は……普通は交易に従事し、財の売買で利を得て生活の資を得ようとし……船長や交易者であること以外に、居留外人はまた『銀行家』として……鋳貨を鑑定したり、両替したりする、卑しい仕事をしていた」。また、「土地や家を持つことは禁じられていたし、抵当権も持てなかった。……[そのため]彼らはたとえば馬を飼えず、酒宴を主催できず、邸宅も建てられなかった。わずかの例外的に金持だった居留外人も、何の楽しみもない生活を送っていたのであった」という(以上、前同1、p.170)。後段はポランニーの勝手な思い込みであろう。
 最後の外国人、われわれがいう来訪外国人は異人(ストレンジャー)であり、「けっして当該共同体に『所属』せず、外人居住者[居留外国人のことであろう]という中間的な身分も甘受しなかった」という。かれらは受動的な態度で交易に関わる共同体の担い手になったという(前同1、p.171)。しかし、その主要な活躍の場はむしろ交易の中心地であった。
▼交易人の原型―王の交易の買付人―▼
 ポランニーは、典型的な交易人としてタムカルム、居留外国人、そして来訪外国人をただ並び立てるだけで、それら形成や種差については明らかにしない。
 そこでいま再び、原初的な財貨の移動あるいは交換について、いま少し検討する。すでにみたように、交易は共同体のあいだで余剰生産物を交換しあい、財貨を獲得する方法として行われる。その場合、A共同体がある財貨を獲得とするには、B共同体に出向いて調達するか、逆にB共同体が持ち込んで来るかである。買い付けに出向くか、売り込みを待つかである。現実に交易に駆り立てられているのは、必要とする財貨がより欠乏あるいは不足する共同体の側である。その逆、相手側の欲しいものが不明なまま、何らかの財貨を持ち込むといったことは、ありえない。したがって交易はまずもって欲しいものを買い付ける側から始まる。それは現在に至っても同じである(近世以降のヨーロッパのアジア・アフリカとの交易を見ればよい)。
 ポランニーは、交易は双方向的というが、それを主導する方向は買い付ける側にある。財貨の買い付けが、交易の基本的な取引形態である。商人は、買い付けた財貨を持ち帰って売り捌くことになることから、買付販売人と呼びうる(これは安く買って高く売る、本来的な商人の原型である)。それにつけても、沈黙交易がもっともらしく取り上げられるが、それは未知の土地で何らかの交易が成り立つかを見極めるために行われるものである。また、それがある財貨を持ち込む側から始まっているかにみえるが、そこに出向いたことじたいがすでに交易に駆り立てられてきたのである。なお、買付交易も沈黙交易も、見返りとして持ち込む財貨が、相手側に受け入れられなければ、交易は成り立たない。
 そうした共同体間の交易が有効に続けられるようになれば、必要とする財貨は二共同体間における交換の連鎖、すなわち多共同体間における交換として調達されるようになる。さらに、それぞれの財貨の生産地や消費地の所在、その間の交易路といった情報が、次第に交易人に知られるようになる。それに伴って、一定の共同体間の境界あるいは隙間が、主要な財貨の集散地あるいは交易地(港)に発展する。さらに、調達できる財貨は多種多様になり、また近隣地だけでなく遠隔地からも調達できるようになる。こうして近隣地交易が完成する。
 共同体間において国力に違いが生じてくると、暴力的あるいは平和的な外交措置が取られる。それによって、いままでの牧歌的な交易は終わりを告げ、事実上略奪まがいの「王の交易」がまかり通るようになる。「王の商人」が支配あるいは同盟する様々な共同体に派遣され、その深部まで立ち入るようになる。そこで、王が必要とする奢侈品や、自らの共同体で不足する必需品をますます調達できるようになり、近隣地交易は順次接合して遠隔地交易となる。
 こういた「王の商人」の典型は、古代オリエントにおいて広範囲に見られ、その担い手が長期間続いたタムカルムと呼ばれる御用商人であった。このタムカルムについて、ポランニーは多様な役割があったとしているが、その主たる性格はいま上で述べた王の交易の買付人である(ファクターは仲買人と訳されているが、ここでは買付人とする)。したがって、このタムカルムこそ、商人あるいは交易人の原型といえる。この買付販売人は、買い付け地においては、外国人として立ち現れる。すなわち、かれらは自分たちの縄張りにやってきて、自分たちの産物を買い付けて行く「よそ者」である。
 こうして、交易が一定の発達をみせると、それぞれの共同体において必要とする財貨や余剰となっている財貨の品目や量が次第に明らかになる。それに伴って、買付人は伝統的な枠から出て、売込人として積極的に振る舞うようにもなる。その売り込みも一定の見込みをもって行えるようになる。そうしたもとでは、自国人商人は「王の商人」ではなく、普通の商人で足りるようになる。さらに、必要な財貨を持ち込んでくる商人や、余剰の産品を買い取る商人も自国人でなくてもよくなり、外国産品の輸出国、自国産品の輸入国、それらの中継国の商人、あるいはそれら以外の第三国の外国人商人(後述する商業民族)であってもよいことになる。
▼覇権国交易の主たる担い手は外国人▼
 ポランニーは、タムカルム、居留外国人、来訪外国人を並べ立てるだけで、その国の交易における主たる担い手に、なぜ居留外国人や来訪外国人がなるのか、逆に自国人は交易人にならないのかという、きわめて重要な論点に関心がないようである。その全面的な分析はそう簡単ではないので、別の機会にならざるをえないが、その素描は一応描きえよう。
 古代のエジプト、オリエント、ギリシア、ローマは、それぞれ何らかの輸出品を持っていなかったわけではないが、その主たる交易の側面は覇権国として、支配する国々などから様々な奢侈品や必需品を取り込む、巨大な輸入国であった。このことは、支配する国々などにおいて、略奪、貢納あるいは買い付けの対象となる産品の調査が、すでに終わっていることを意味する。いまや所定の産品を持ち出せばよいだけとなっているといえる。それに当たって、覇権国の商人がわざわざ出向いていかなくても、それら産出国や中継国の商人が覇権国が必要していると分かっている産品を輸出すれば足りることになる。
 古代において、覇権国が遠征する地域は未知の地域ではなく、すでに商人が進出している地域であったとされており、また遠征にはそれによる略奪物を買い付ける従軍商人が同行していた。
 エジプト、オリエント、ギリシア、ローマは、世界の奢侈品や必需品を飲み込む巨大の消費都市である。それに向けて、様々な地域の外国人商人が参入してきたと見られるが、その主な商人はいま上に見た被支配地域や友好国の、しかも交易路に沿った国々の外国人であった。それら外国人は覇権国の首都やその外港に来訪して、交易のため一時滞在するだけでなく、長期に居住するものも現われる。これが居留外国人である。かれらは、まずは居留国が必要とする母国の産品を輸入することを、主たる業務とする。それは本来ならば居留国民が担うはずの買付の代行人、あるいはあらかじめ販路をもってする母国への買付人といえる。なお、ポランニーは、来訪外国人を「第3の型」というが、それは第2の型であり、居留外国人はその変形にすぎない。
 また、すでにみたように居留外国人が「史上最初に現われたのはアテネ」ではさらさらないが、かれらの出自が他のポリスからの「追放者や政治亡命者、流人、逃亡犯罪者、逃亡奴隷、馘首された傭兵などの一群である」などと狭くとらえる(前同1、p.170)。他のポリス人が多いのは、かれ自身も認めているように「小国家間の定期的な戦争」の結果という特殊ギリシア的な事情によるものであって(前同2、p.344)、それ以外に多くの国々の外国人も居留していた。また、こうしたアテナイの居留外国人に関する説明は、かれらを交易離散共同体(トレード・ディアスポラ)と誤解されかねない。かれらは、基本的には経済的動機のもとづく居留者であって、ただ特殊ギリシア的な政治的被抑圧者すぎない。
 ポランニーは、「交易を行なう共同体すべてに、専門的な交易者がいたわけではなかった」として、専門的交易人は「アルカイックな社会においてはじめて」現われ、その典型は「フェニキア人やロドス人、西ヴァイキングであり、これらはみな海路の交易を行なった」という。しかし、それ以外に多くの人々を加えることができる。また、この専門的交易者の説明語として「大衆的交易者(トレイディング・ピープル)」という訳語が与えられているが、普通は商業民族あるいは交易民族であろう(以上、前同1、p.172)。
 交易を、いま少し砕いていえば、共同体の異なる「よそ者」同士が、お互いの縄張りの「はざま」(狭間)でする、もののやりとりである。したがって、その「よそ者」が第三の「よそ者」であっても、またその「はざま」が別の「はざま」になっても、交易は成り立とう。したがって、その共同体に専門的な交易人がいようがいまいが、第三者が共同体間の交易に参入してくるし、第三の土地が交易地(港)となりえた。それに伴い交易はむしろ円滑に行われるようになり、交易需要が喚起されることとなった。この交易民族を媒介とした中継交易は、当該共同体間の友好・対立関係に無関係になりえたので、むしろ歓迎された。
 こうして、その国の交易は自国人商人ばかりなく、居留外国人、来訪外国人、交易民族の国際交易人といった外国人商人を通じて行われることになるが、現実の古代国家においてかれらがどの程度、主たる担い手になったかどうかは、それぞれの政治経済事情によって決まろう。古代国家が、外国人に主として委ねたとしても、覇権国にあっては交易を支配体制の一環に組み入れ、管理している。いま、それが混乱すれば(現実には起こりえないが)、「王の交易」に切り替えればよかったのである。
 ギリシア人の有力な市民にあっては自分を交易者と考えることはほとんどなく、「居留外人を貿易商人の身分に引き上げる」のは、そうすることによって「海軍力を強化し[海軍が乗組員を居留外国人の船から補充する]、その結果国家にたいする居留外人の支配を強化する」ことになるとされる(前同2、p.347)。また、アテナイの収入を増加させる方法として、クセノフォン(前430?-355?)の「外国人の定住を奨励するための積極的措置をとること」、それに加えて「多数の外国人商人を引き寄せること」であるとし、「それに応じて私たちの輸出入、販売、地代、関税の増大につながっていくだろう」という言説があるという(前同2、p.350)。
 ギリシア・ローマにあたっては、地中海の覇権国として、その首都は巨大な消費都市であり、それに向けて大量の産品が持ち込まれた。かれらが支配する地中海においては、その開けた交易路を利用する交易体制がすでに確立していたので、ギリシア・ローマ人はその便宜を最大限利用すればよかった。また、特にギリシア・ローマ人は「よそ者」である外国人商人が参入している交易業を差別的に扱い、自らはそれを生業とすることをおおむね放棄した。一般市民も「パンとサーカス」に買収されて、進取精神を失ってしまった。そうしたもとで、ギリシア・ローマ人は支配民族一員として、危険の大きい交易業に積極的に参加せず、外国人商人にそれを委ねたといえる。
▼交易地(港)、交易民族、そして中継交易▼
 すでに述べたことをなぞることになるが、交易は共同体間の境界あるいは隙間において行われる。それが一時的であれば、その都度、取引の場所が変わるということがありえよう。しかし、同じような産品が、断続的であっても、顔なじみ人々のあいだで取引されるようになれば、それはおのずと一定の場所が行われるようになる。
 こうした共同体間における取引は、さらに多共同体間における取引として結合していく。その結果、財貨の生産地や消費地、そしていくつかの共同体のあいだに、一定の交易路が築かれることとなる。さらに、それら交易路の結節点に、主要な財貨の集散地あるいは交易地(港)が形成される。こうして多種多様な財貨が近隣地だけでなく、遠隔地からも調達できるようになる。すなわち、交易のリンクとノード、すなわち交易圏(交易ネットワーク)の形成である。
 こうした交易の発達からではなく、ポランニーは交易港(port of trade)という概念を掲げ、近代以前の危険に満ちた「原始的共同体間の交易は、……[どのような]交易であろうと、治安の維持されていない地域での財貨の遠距離輸送にともなう安全保証、という問題に対処しなければならない」ため、それが形成されたとする。確かに、交易地(港)の盛衰は領主や国家の保護や庇護によって左右される。しかし、それはおおむね事後的なことである。その土地が交易地(港)となるかどうかの必要条件は交易路の結節点に位置するかどうかであり、土地の治安や交易の安全はその十分条件にすぎない。
 交易港は「紀元前2000年紀以降の北シリア沿岸、紀元前1000年紀の小アジアや黒海地方の若干のギリシア都市国家」、そしてその後も世界各地でみられ、「交易港は多くの場合中立的装置であって……海に面して低い壁で囲まれたエンポリウムや、政治的に中立な沿岸都市から派生してきたものだった」としている(以上、前同2、p.491)。まさにフェニキアあるいは「ポエニの風景」である。
 交易場所が、共同体の一方あるいは双方にないということもありうる。しかし、一方の共同体あるいは第三の共同体に、交易地(港)が設けられれば足りうる。交易港は内陸にあってもよいが、アクセスしやすいのは内陸地よりは河川港、それよりも開かれた海港である。さらに、交易品が遠隔地から持ち込まれるとか、またそれが重量物であるとかの場合、海路が大いに利用された。事実、古代交易は海上交易として語られる。さらに、交易地(港)が当該共同体間の友好・対立関係に無関係な、あるいは政治的な中立あるいは自立を保ちうる地域にあれば、さらに望ましい。こうして、第三国人による交易とともに、最も望ましい第三の土地として、海上交易港を持つ国が選好される。
 ポランニーは―かれも地理的な環境を論じはするが―こうした脈略に立たないため、交易地(港)を専門的交易人や商業民族とは無関係に論じることになっている。商業民族あるいは交易民族は、当然の成り行きとして、財貨の集散地あるいは交易地(港)となりうる第三の土地において形成される。しかし、すべての交易地(港)に商業民族が形成されるわけではない。その違いは政治的な中立あるいは自立を保ちうる程度よりは、その地域の地理的な便宜や後背地の状況、それに伴う住民の海外進出意欲の違いによる。それはともかく、かれらはいずれも、地理的な便宜を最大限に利用した、中継交易人として活躍する。さらに、かれらは外国の交易地(港)に商館を建設、居留して、居留外国人となる。
 ポランニーは、交易港の種別について、「独立の小国家の機関として機能するか(ウガリト、アルミナ、シドン、テュロス)、それとも後背地の帝国の所有になるかに応じて区別されうる。さらに交易港の中立性は、後背地の帝国の協定によっても(ウガリトとアルミナ)、海外交易を行なう諸勢力間の同意によっても、あるいは交易港自身の海軍力への依存によっても(テュロス)守られえた」という(前同2、p.502-3)。ここでは中継港としての交易港が選ばれ、またその政治的地位により区分されているが、そうでないだろう。
 いま、交易港を交易的な観点から定義すれば、それが持つ地理的な便宜から、多くの国々から様々な財貨を取り込み、それらを再び様々な国々に送り出すという役割を果たし、その役割が政治的に保証されている地域といえる。そこでの核心はそれなりに大規模な中継交易をしているかどうかである。この定義に立てば、すでに上げられた例とともに、フェニキアの本土都市や一部の植民市、カルタゴ、アテナイ、コリントス、アレクサンドリア、アンティオキア、デロスなどを上げうる。そのうち、商業民族あるいは交易民族を輩出したのは、フェニキアの都市、キプロス、クレタ、ロドス、地中海以外ではディムルンなどである。かれらは、海上交易人あるいは国際交易人の名をほしいままにした。
 カール・マルクスもまた、「古代の商業諸民族は、[2つの世界の中間に住む]エピクロスの神々のように、またはむしろ……ユダヤ人のように、世界の空隙に実存する。最初の自立した、大規模に発展した商業諸都市および商業諸民族の商業は、純粋な中継商業として、生産的諸民族の未開状態を土台にしており、彼らはこの生産的諸民族のあいだで媒介者の役割を演じた」、そしてそれが演じる中継交易について「商人資本の自立的な発展は……中継商業(中継貿易)の歴史においてもつともよく現われており、したがってこの場合には、おもな利得は、自国の諸生産物の輸出によってではなく、商業的および一般に経済的に未発展な諸共同体の諸生産物の交換を媒介することによって、そして両方の生産国を搾取することによって、得られる」と要約している(資本論翻訳委員会訳『資本論』第3巻20章、新書版9、p.557、p.554、新日本出版社、1987)。
 ポランニーが、交易港に関して強調したかったことは、次の点にある。「この典型的な機構こそが、原初的な国家にともなう諸状況のもとで、交易の安全保証を確保できる制度」となった。そのため、「(政治的な)管理のほうが、競争という『経済的』手続より優勢だった」。しかし、「競争は取引の一方法としては避けられる一方で、交易港の住民は仲介や会計のための組織を提供した」。そして、「このように交易港は国際市場の成立する以前の海外交易のひとつの普遍的制度であった」し、それを「歴史的にみれば交易港は市場制度に代わる機能を果たしていた、といえるかもしれない」ということにあった(以上、前同2、p.491-2)。
▼交易ディアスポラ、異文化間交易の仲介者▼
 Webページ【まえがき―序論に代えて―】で述べたように、海上交易は国内交易と近隣国交易、遠隔国交易に分かれるが、ここでは海上交易圏(海上交易ネットワーク)を築いて行われる後2者を対象にしている。したがって、こうした海上交易は海を越えた異国間の交易であり、一口で言えば海外交易ということであった。それをフイリップ・D・カーティン氏は異文化間交易(cross-culture trade)として捉え直す。そして、それらを媒介する交易集団として、交易ディアスポラ(trade diaspora)を析出する。しかし、その概念は未整理で、曖昧である。また、ディアスポラとは「まき散らす」ことを意味するギリシア語だというが、その訳語の離散共同体は、原共同体を失ったユダヤ人の離散が念頭に浮かぶため、訳者の逡巡通り、不適切であろう(同著、田村愛理他訳『異文化間交易の世界史』、p.31、NTT出版、2002)。
 この交易ディアスポラとして多数の集団が取り上げられているが、当面する領域に限って明示されている集団は、最古の史料のある古代におけるアナトリアに進出したアッシリア人、地中海全域に進出したフェニキア人やギリシア人、中世のハンザ同盟、さらに近世のポルトガルのインド交易政府、オランダやイングランドの東インド会社などである。これら近世の事例は武装交易ディアスポラとされる。
 こうした会社組織が交易ディアスポラであるなら、多国籍企業も含まれてよいはずである。その一方で、中世のイタリア都市国家や、近現代の華僑や印僑は総体としては、それに含まれない。それはさておき、交易ディアスポラは外国に定住して交易する居留外国人の集団である、ということであり、それ以上の概念ではない。
 交易ディアスポラの定義らしい文言として、外国に「定住した異
邦人商人は、そこで語学、習慣、生活スタイルの習得に励み、やがて異文化間の仲介者となり、……出身共同体の人々との間の交易の促進につとめるようになる。……1つの居留地をつくった交易民は、徐々に多くの都市にその交易居留地を拡大し、……[それら]を網羅する交易ネットワーク、すなわち交易離散共同体が形成されるようになる」、が上げられる(前同、p.30-1)。いま、簡単な定義にすれば、異文化の外国に置かれた居留地に散らばって定住して、交易ネットワークを形成し、その外国と主として出身国とのあいだの、さらにその他の国々のとのあいだの交易を仲介する、出身国を帰属共同体とした交易集団となろう。
 交易ディアスポラが成り立つ条件として、「異文化間の仲介者」となることが含まれるとは思えない。それが成り立つための必要条件は、居留地の国家や権力から、居留外国人は海外交易と居留地の建設について承認をえなければならず、それに応じて一定額の貢物や税金を納めなければならない。そして、その十分条件は、居留商人が個人またその集団として異文化に習熟し、取引を仲介するだけでなく、宿舎の提供、商品の保管、輸送手段の提供、信用の取り付け、取引の保証、両替、資金の貸し付けや取り立て、交易書類の認証、保管、送付など様々な便宜を提供することである。
 古代において、交易ディアスポラの必要性とその意義は、きわめて大きかったといえる。それは、古代交易における未発達と、それに伴う様々な非対称性があるからである。特に、覇権国は大消費国として様々な国々から様々な財貨を取り込んでいた。交易がより未発達な場合、覇権国は積極的に海外に居留商人を送り出し、海外に居留地を建設し、交易ディアスポラの母国となった。それがある程度発達すると、覇権国は自国人商人よりも外国人商人に依存するようになり、様々な国々の交易ディアスポラの受入国となり、それに便宜を与えた。
 さらに、交易の非対称性に乗じて、交易民族のクレタ人やフェニキア人、一部のギリシア人などは「交易専業」ディアスポラとして台頭し、活躍するところとなった。古代の交易ディアスポラも、それぞれの居留地において少数民族(マイノリティ)であり、おおむね「よそ者」として隔離された地区に居留させられた。しかし、キプロス、ロドス、デロスなどといった自立的な交易地(港)においては、様々な国々の交易ディアスポラが雑居し、全体として「多数民族(メジャー)」となっていた。
▼交易ディアスポラの消滅、近代商業の形成▼
 カーティン氏の交易ディアスポラ論について学ぶ点とともに批判すべき点も多いが、後者の最たるものがかれ自身が最初にして最大という生活史である。それは「農耕とともに発生し産業革命の開始により幕を閉じる」とし、それを敷衍して「共同体間の文化的差異のために生じた仲介の必要性が交易離散共同体を生むものの、何十年あるいは何世紀にもわたる仲介活動それ自体が異文化間の差異を縮小し、それにともなって異文化共同体間を媒介する必要性自体が低減する」と繰り返す(前同、p.31、p.32)。
 ここでは、交易の観点がすっぽりと抜け落ちているばかりか、「文化」にこと寄せれば何ごとでも説明できるといった文言になっている。まず、交易ディアスポラがなぜ発生するかについて説明しない。文明の差異ならともかく、文化間差異はそう簡単にを縮小するものでないだろう。いずれであっても、その差異を縮小させる基本的な要因は外在的な交易ではなく、内在的な生産様式の変化(なかでも産業革命)である。
 そして、交易ディアスポラは「交易における支配的制度」(次の引用文参照)ではさらにないし、また文化間差異はわざわざ交易ディアスポラに媒介されなくても、通常の交易によって縮小する。様々な国々における経済的発展に伴う交易の発達によって、様々な国々における交易の非対称性が縮小する。それにつれ、交易ディアスポラの必要性は低減し、そして消滅するといえる。
 歴史上における個々の交易ディアスポラの生成と消滅についても、たとえば古代における典型的な交易ディアスポラであるフェニキアの歴史を見ればわかるように、文化間差異の有無やその縮小といった簡単な論理では説明できないほど複雑である。また、ヘレニズム世界やローマ帝国の登場(カーティン氏にあってはギリシア以降)は地中海世界の文化間差異を縮小させたが、それにもかかわらずポランニーのいう交易港やわれわれのいう交易民族、そして交易ディアスポラはむしろ発達したといえる。
 カーティン氏は大いなる錯覚をもって、交易ディアスポラを引き立てる。それに加え、その歴史的な終末について、前の文言を翻すかのように「1740年ごろから1860年ごろにかけての世界商業の西洋化は、こうした個々の共同体[意味不明、非市場的共同体のことか]についての傾向とはまったく次元の異なる新しい出来事であった。それは、単に西洋の既存の交易離散共同体から実質的な役割を奪っただけではなく、長い歴史のなかで交易離散共同体が異文化間交易における支配的制度であった長い一時代の終幕を告げるものであった」という(前同、p.311)。
 それでは、世界商業の西洋化とは何か。それは近代商業のことであるが、その一撃で終幕を告げたのか。その過程はどのようなものか。そして、それらの経済的意味は何か。かれはそれらに積極的に答えようとしていない。
 それに対する回答は、カーティン氏にとって無縁なカール・マルクスに求めよう。「諸国民−商人資本が両面的に搾取し、それらの未発展が商人資本の実存基盤であった諸国民−の経済的発展が進むのと同じ割合で、この中継商業の独占、それにともなってこの商業そのものが衰退していく。中継商業の場合には、これは特殊な商業部門の衰退として現われるだけでなく、純然たる商業諸国民の優越の衰退としても、またこの中継商業を土台にする彼らの商業的富一般の衰退としても現われる。これこそ、資本主義的生産の発展として商業資本の産業資本への従属が現われる一つの特殊な形態にすぎない」(前同『資本論』第3巻20章、新書版9、p.554)。
 山影進氏は苦しい解題に終始する。「交易離散共同体は、われわれの目に入る実体としての個々の共同体(地域社会、○○街)の集合を指すのではなく、各地に散らばるそのような共同体を結節点とする大きな全体的まとまりを指す概念である。この点を誤解のないように強調しておこう。概念としての交易離散共同体とそれに該当するとして取り上げられた事例との間にも違和感を生じさせるズレがある」とし、その例として東インド会社を上げる(前同、p.15)。
 しかし、交易ディアスポラは「大きな全体的まとまり」といってみても、その実体はカーティン氏が示しているように居留地であり、商館であり、そこで行われる取引であり、それらが取り結ばれた交易ネットワークである。
 要するに、交易ディアスポラというもっともらしい用語に呪縛されてしまっている。
▼交易品目、近隣地交易、遠隔地交易▼
 古代交易は奢侈品交易であるとされてきた。それはエジプト、オリエント、そしてギリシア、ローマといった覇権国の交易が奢侈品の輸入に特化していたことを示したものである。それは、覇権国には必要あるいは不足する様々な資源や工芸品を取り込む必要があり、同時にそれを可能とする政治経済的な基盤があったからである。それに見合う輸出はどうなっていたのか。それらの国々が覇権国であったので、輸出入が物量的あるいは「価格的」に見合っているかどうかは、最初から問題とならなかった。そのため、覇権国の輸出について、注目されることが少ない。
 しかしそれでも覇権国は何らかの農産品や工芸品を輸出してきた。エジプトやオリエントは農業大国であったので穀物、またギリシアやローマは都市への人口集中という状況から見て農業小国であったが、ブドウ酒やオリーブ油といった農産品を輸出していた。それと同時に、それら国々は先進工芸国として、華麗な工芸品を周辺国に輸出していたことも確かである。そうだとしても、覇権国は輸入大国であっても、輸出大国であるとはみなしえない。 したがって、古代の主要な交易品は主として輸入品について語ることになる。それらは、すでにみたように多品目となっており、具体的にはWebページ【1・3・3 カルタゴ、アレクサンドリア―地中海の棲み分け―】の「ヘレニズム時代の交易品とその産地」やWebページ【1・3・4 ローマ―単一支配の海上交易圏―】の「ローマ帝政期の輸入交易品」において示してある。前者は品目の多く、詳細であるので、それを参考にして分析する。
 まず、品目数が多い産品は奢侈品、次いで食料品、そして石材である。それが少ないのは日用品である。いま、それらを本来的な奢侈品と必需品という大分類でもって整理すれば、奢侈品は金属、穀物、ブドウ酒、食料品、織物、日用品、石材、材木、奢侈品、奴隷、香料という大項目のほぼすべての産品に及んでいる。しかし、必需品は穀物のみといってよく、せいぜい食料品、織物、石材といった産品のほんの一部の品目にとどまる。
 このように古代交易が奢侈品交易であったことは明らかである。エジプトやオリエントの時代から、ギリシアやローマの時代になるにつれて、奢侈品交易だけではなく、穀物を中心とした必需品交易が登場し、それが次第に増大していった。この穀物交易が、それら帝国統治の不可欠な手段となっていたことにおいて、奢侈品交易と並立する地位をえるようになった。このことはギリシアやローマにおいて決定的となった。穀物は大量・嵩高であったので、その輸送は海上輸送に依存するしかなくなった。そのことにおいてはじめて海上交易が積極的に語りうることとなったのである。この必需品交易の登場は海上交易の世界史の本格的なはじまりでもある。
 それぞれの交易品がどれくらいの量であったかなどは、現在でも容易に知りえないし、まして古代ではなおさら無理である。それでも、容積や重量が大きな品目は穀物、ブドウ酒、オリーブ油(古代地中海の三大必需品)、石材、材木であった。そのうち石材や材木は公共建築、正しくは威信建築用材として、支配者からその買付と輸送が重視された。それに対して、奢侈品はさしたる容積も重量もないが、支配者にとっては日常の必需品であったので、その持続的な調達と、新奇な品目の調達が目指された。
 古代交易は主として地中海交易として展開された。その地中海は横長に拡がり、その面積も小さくない。いま、交易品の生産地を地中海周辺国とそれ以外の国々とに分けると、地中海周辺国を主たる生産地とする品目は、金属、穀物、ブドウ酒、織物、日用品、石材、材木、奴隷である。それに対して、地中海以外の国々を主たる生産地とする品目は、金属、日用品、奢侈品、香料である。すなわち、ほとんど必需品と一部の奢侈品が地中海周辺国、他方ほとんどの奢侈品は地中海以外の国々を生産地として調達されている。特に後者は、アレクサンドリアを中継交易港として調達されている。
 古代交易は奢侈品の遠隔地交易とされてきた。それは一面である。古代交易は、特にギリシア・ローマ時代にあっては、いま見たように地中海産の穀物・酒・油や石材・材木の近隣地交易と、中国・インド・アラビア産奢侈品の遠隔地交易という二重構造になっていた。なお、奴隷は捕虜が主たる供給源であるので近隣地交易に属するが、その一部は遠隔地交易であったであろう。
 遠隔地交易というとき、それは同一の交易人による通し交易あるいは一貫交易ではなく、様々な交易人による継立交易あるいは積替交易になっていたことを見落としてはならない。この継立交易は陸路だけでなく海路を含むものであり、すぐれて中継交易として行われた。したがって、奢侈品の遠隔地交易はおおむね中継交易のリンクとして、陸路や海路を使った継立交易となっていた。それに対して、穀物・酒・油や石材・材木の近隣地交易は、陸路あるいは海路だけの通し交易であったといえる。
 なお、ポランニーは、「財」について、遠方から財を決めるのは「その緊急の必要性であり、獲得、運搬の難易度である」、「アルカイックな交易事業は、入手され運搬されるべき財の種類に応じて異なっている」、「非市場的条件のもとでは、輸出入もまた別個の管理体制のもとで運営される傾向がある」とか(前同1、p.173-4)、また「輸送」についても同様であり、「バビロニアも、エジプトも、中国も、陸路に沿って生まれはしなかった。彼らの輸送路は主として河川沿いだった」とかいう文言が少し目につく程度である(前同1、p.177)。
 それでありながら、極めて重要なことを、何気なく述べている。アテナイ人の贅沢を嫌うクセノフォンの「贅沢品の交易は海洋支配に随伴する利益のひとつだ」という言葉を受けて、「奢侈品交易は要するに、基本物資の管理された交易の、興味深くはあるが重要とはいえぬ副産物でしかなかった。こうした関係はローマ帝国の最初の2世紀間も存在した。帝国アンノナ[穀物供給]制度によって組織された貨物船では、私的取引のために特別の積荷場所を利用することが許されていたのである」という(前同2、p.404)。
 ギリシアやローマにおいて、穀物交易はそれ以前に比べ、明らかに国家の体制を左右しかねない一つの事業となっていた。そのことは、支配者にとって穀物交易は奢侈品交易のつけたりでは、もはやなくなっていた。他方、海上交易者にとっては、奢侈品交易はいまや穀物交易のつけたりとして行える、営業品目になりつつあったかもしれない。これは古代交易の一つの大きな転換であり、次の時代の交易のあり方を指し示しているといえなくはない。
▼世界最初の海上交易圏=地中海交易圏▼
 古代エジプトは、長い歴史にもかかわらず、ヘレニズム時代までは自国の交易港を核とした海上交易圏を築くことはなかった。その交易はほぼもっぱら王の交易として行われ、略奪まがいの交易か、フェニキア人商人に依存する交易かであった。その交易範囲は東地中海や紅海、アフリカの一部にとどまり、その交易頻度もさして多くなく、また輸入交易品もほとんどが奢侈品であった。
 古代オリエントにおいては、その支配領域の広さから、特に陸上交易に広がりをみせ、王の交易に加え商人の交易が見られた。海上交易としては、自国の交易港を核とし、インダス交易に接続したペルシア湾交易という海上交易圏を築いていた。しかし、その主な担い手は自国人商人よりはディムルン人など外国人商人であった。ここにおいても奢侈品が主であった。そのうち、ペルシア湾交易は持続的な海上交易圏ではあったが、近隣国交易を大きく超えるものではなかった。
 古代オリエントとインダスとの交易はまさに2つの古代文明の遠隔国交易として、そこに世界最初の海上交易圏が形成されたかにみえる。しかし、その交易はインダスからの一方向的な性格が強く、しかも断続的でぜい弱な交易であり、インダス文明とともに終焉する。そのため、世界最初の海上交易圏が本格的に形成したとはいいがたく、ペルシア湾交易の延長であったと見られる。
 前2000年紀半ば、東地中海の交易が活発になり、ビブロス、ウガリット、キプロス、クレタといった交易都市が活躍するようになる。それは、エジプトとオリエントを巻き込んだ、いままでにない大きな海上交易となった。その交易国、交易地(港)、交易品目、航路網はペルシア湾交易をはるかに上まわるものであった。しかし、その交易領域はペルシア湾交易を超えるものではなく、世界最初の海上交易圏が形成されたとはいいがたい。
 前2000年紀末、東地中海は「海の民」の来襲、専制国家の衰退のもとで混乱期となる。そこで登場してきたのがフェニキア海港都市群である。かれらは、東地中海ばかりでなく、地中海全域に航路網を張り巡らし、交易植民都市を築いていった。その結果、交易領域はすでに文明化したエジプトとオリエントに加え、ヨーロッパにも拡がり、それに関わる交易国や交易地(港)、交易品目は飛躍的に増加していった。そして、この交易は持続的、安定的なものとなった。ここに世界最初の海上交易圏として、地中海交易圏が形成されることとなった。
 前1000年紀末より、地中海世界は従来のアジア専制国家に代わって、ギリシアの諸ポリス、ヘレニズム王国、そしてローマ帝国が順次、覇権国として登場する。その度ごとに、地中海交易圏は分断、分割、再統合を余儀なくされるが、最終的にはローマ帝国が強固な単一の海上交易圏として再編成する。これら覇権国のもとで、地中海交易圏は成熟段階に入り、現在にほぼ近い地理的な状況が生み出されていった。それは海上交易圏の完成といえるものであった。
 それら時代の交易も、従来通り、奢侈品の遠距離交易からはみ出ることはなかったが、穀物、ブドウ酒、オリーブ油という三大必需品の近距離交易が行われるようになる。この必需品交易は海上交易を新しい段階に引き上げるものとなった。それによって、海上交易はますます商人の交易となり、交易品も「市場価格」でもって取引されるようになり、その交易量も大量になり、かつ定型的に交易されるようになった。しかし、海上交易の担い手は相変わらず交易国の住民ではなく、居留・来訪外国人そして国際交易人であった。
 古代地中海交易圏の特徴は、その創成期はともかく、また部分的にはともかく、覇権国が主要交易品の輸出国でもまして海運国にもなることはなく、ほぼもっぱらそれらの輸入国―それらの一大消費国―という地位にとどまった。そのなかで、国際交易人あるいは交易民族がまさに海上交易国として、中継交易の役割を果たした。その海上交易は、覇権国を中心とした支配層が必要とする多種少量の奢侈品の遠距離交易だけでなく、それ以前にも増して小種大量の必需品の近距離交易が加わった。そして、主たる担い手は交易品を需要する覇権国の住民だけでなく、すぐれてフェニキア海港都市などの交易民族であったことである。
(03/11/30記、08/11/13補正

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