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Chapter 1 Maritime Trading Areas in Ancient Asia
 - Indian Ocean, Straits Part, China Sea -

2・1・1ギリシア・ローマ時代のエジプトの東方交易
2.1.1 Egyptian Eastern Trade during the Greek and Roman Eras

▼紅海からアフリカやインド洋へのアプローチ▼
 地中海世界を西とし、それ以外を東とする、いわゆる東西交易はすでに前二千年紀から、1つは東地中海―メソポタミア―インダス、2つはエジプト―紅海―アラビア・アフリカを軸として始まっていた。その交易に広がりを示す、いくつかの史実を指摘してきたが、再度取り上げる。
 古代イスラエル・ユダ複合王国の建設者ダビデの子である、ソロモン王(在位前961-22)がテュロス(現レバノンのスール)の王ヒラム(在位前996-36)と同盟を結び、食糧とひきかえに木材を受け取ったり、かれらが合同で船団を組んで、紅海交易に携わったことはWebページ【1・2・1 ビブロス、ウガリット―古代文明の十字路―】でみた通りである。
 それにとどまらず、エジプト、メソポタミア、アラビアへと隊商交易と海上交易を繰り広げ、「ソロモンの栄華」を築いたとされる。それに当たりシリア砂漠のオアシスに隊商都市パルミラを建設して、メソポタミアとの交易ルートを開いた。「また、アカバ湾のエジオン・ゲベルとエイラートに海港をひらき、アラビア、アフリカのベレニス(ベンガジ)、さらにインドまで3年がかりで往復し、黒檀、チーク材、ゴム、香料などの貿易を行ったといわれている」(長沢和俊著『海のシルクロード』、p.7-8、中公新書、1989)。
 そして、著名なシバの女王との贈答外交(交易)である。シバ(イエメン付近)の女王は「ソロモンの名声を聞き、難問をもってソロモンを試そう」と(『旧約聖書』)、多くの金、宝石、香料、象牙をラクダに積み、マリブからペトラ、ヘブロンを経て、3か月の後にエルサレムに着いた。20歳になったばかりの彼女は、ソロモンの気のきいた会話と豪華な宮殿、列座の家来たちに、すっかり感心してしまったという(『列王記』10章)。女王は、王からティルスやシドンの宝石や美しい布、各地の錫、鉛、真鍮、香料、イスラエルの蜜と油など望むものすべてを与えられて帰ったという。

ピエロ・デッラ・フランチェスカ;聖木を礼拝するシバの女王、
ソロモンとシバの女王の会見、1452-58、フレスコ画
サン・フランチェスコ聖堂(アレッツオ)
 アラビア南部にあるシバ王国は、すでに早くからアフリカとメソポタミア、シリア、エジプトなどと広汎な貿易に従事しており、特にアフリカ各地の金、銀、銅、真珠、香料、薬などを中継交易していた。それに割って入るかのように、ソロモンがアカバ湾に港を建設して、紅海貿易の支配に乗り出したため、かなりの脅威となった。そこで、ソロモンに税金を差し出して、海上交易権を維持しようとしたものとみわれる。ロマンチックな訪問にこと寄せれば、イスラエル王国とシバ王国の交易条約が結ばれたといえる。
 こうしうた紅海経由でのアフリカやインドへのアプローチを追認するかのように、ヘロドトス(前484-25頃)は前7世紀エジプトのネコ(在位前664-594)の命を受けたフェニキア人のアフリカ周航、そして前518-5年ペルシア王ダレイオス一世(在位前522-486)の命による小アジア人のインダス河探検航海について書き残す。この書き手は、アフリカを周航に疑問を持っているが、大方はそれらが実行されたと信じられつつある。
前7世紀、フェニキア人のアフリカ周航
 リビア[アフリカ]がアジアに接する地点を除いては、四方海に囲まれていることはリビアの地形から自ら明らかなことで、われわれの知る限りでは、このことを証明してみせたのはエジプト王ネコスがその最初の人であった。彼はナイル河からアラビア湾に通ずる運河の開鑿を中止した後、フェニキア人を搭乗させた船団を派遣したのであったが、帰路には「ヘラクレスの柱」を抜けて北の海[地中海]に出、エジプトに帰着するよう命じておいたのである。
 さて、フェニキア人たちは紅海から出発して、南の海[インド洋]を航海していった。そして、秋になれば、ちょうどその時航行していたリビアの地点に接岸して穀物の種子を蒔き、刈入れの時まで待機したのである。そして、穀物を採り入れると船を出すというふうにして2年を経、3年目に「ヘラクレスの柱」を迂回してエジプトに帰着したのであった。そして、彼らは―余人は知らず私には信じ難いことであるが―リビアを周航中、いつも太陽は右手にあった、と報告したのであった。
出所:ヘロドトス著、松平千秋訳『歴史』中、4:42、岩波文庫、1972
前518-5年、小アジア人のインダス河探検航海
 アジアについてはダレイオスによって、多くの発見がなされた。ダレイオスは、世界の河川中、他の一河を除いては、鰐(わに)の棲息する唯一の河であるインダス河が、どの地点で海に注ぐかを知りたいと思い、彼が真実の報告を期待できると考えた者たちを船で派遣したのであったが、一行の中で特に注目すべきはカリュアンダ[小アジアのカリア沿岸の町]の人スキュラクスであった。
 一行はバクテュイアの国の町カスバテュロス[現アフガニスタンのカーブル]を出発し、河を東に下って海に達し、海[アラビア海]を渡って西に進み30か月目に、私が先に述べたようにエジプト王がリビア[アフリカ]周航のためフェニキア人を出発させた地点[スエズ湾]に着いたのである。この一行が周航をなしとげた後、ダレイオスはインド人を征服し、この海路を利用したのであった。
出所:ヘロドトス著、松平千秋訳『歴史』中、4:44、岩波文庫、1972
注 「河を東に下って海に達し」とあるのは、ヘロドトスがインダス河の水路に無知であったことを示すと注釈される。
 ダレイオス大王は即位後の前519-8年にエジプトに進出して、ナイル―紅海間の水路も建設し、エジプトとペルシア湾、さらにインダス河口方面との交易を盛んにしようとした。その掘鑿に成功したため、エジプトよりペルシアへのアクセスが可能となったとされる(長沢前同、p.13)。
▼セレウコス朝の東方交易、海陸のシルクロード▼
 このように、紅海からアフリカやインド洋にアプローチする努力がみられたが、それらとの海路による持続的な東西交易を取り結ぶまでには至らなかった。その限界を打ち破ったのが、アレクサンドロス大王(在位前336-323)の東方遠征とヘレニズム世界の建設である。それによって、東西文明を結びつける新しい時代が切り開かれることとなった。
 それはギリシア文明の東漸などといわれるが、それ以上に東方産品の西漸であった。中国、中央アジア、インド、アラビアから地中海に向けての交易が拡大し、地中海世界の華美が促されていった。それは、それまで個々に築かれていた交易圏を結合させ、いままでの地中海規模を超えたユーラシア大陸規模の交易となった。
ヘレニズム世界図
 そのなかで東方に向けた巨大な交易地が誕生する。アレクサンドロスが前331年ナイル河口にアレクサンドリア、セレウコス一世(在位前304-280)が前300年西シリア、オロンテス河畔にアンティオキア(同時に、ティグリス河畔にセレウケイア)、そしてカッサンドロス(前358-297)が前315年マケドニアのテッサロニカを建設する。それらは単なる交易港ではなく、プトレマイオス朝(前304-前30)や、セレウコス朝(前312-前63年)、アンティゴノス朝(前306-168)の首都であった。これら新しい形の港の登場によって、地中海の交易地に新旧交代が起きる。
 セレウコス朝は後継武将の1人セレウコス一世が建てた王国であるが、その最大版図は、西は東地中海から、東はアフガニスタン、北は中央アジア、南はアラビア海に及び、ペルシア帝国をほぼ踏襲する広大な地域を領有した。それによって、いままで東地中海の沿岸に限定されていた交易も解き放たれ、ギリシア人あるいは西方の商人がそこに築かれた都市を足がかりに、ユーラシア大陸に分け入ることができるようになった。しかし、現実には、セレウコス朝の版図を超えて、交易しえたわけではない。
 セレウコス朝が支配した地域には、すでに古くから東西交易を結ぶ重要な交通路が開かれており、ペルシア帝国が築いてきた交易の便宜を受け継いだ。それによって、セレウコス朝は特段に遠隔地交易に依存する必要もなかったが、地中海向けの東方産品を取り込み大いに利益を上げた。これらのことはプトレマイオス朝についても同じである。
 東西交易路、すなわちシルクロードにはいろいろな解説があるが、ここでは柘植一雄氏の整理に従えば、次の通りである(同稿「ヘレニズム時代における東・南方貿易の発展」『古代史講座13』、p.75-6、学生社、1966)。
 中国から中央アジアを経由した後(海路を除く)、
(1) カスピ海の北岸を通って、黒海北岸のボスポロス王国に出るルートと、バクトラすなわち現在のバルクからオクソス河を下ってカスピ海に入り、キュロス川・ファシス川をつたって、黒海東岸に出るルート(オクサス=カスピ=ルート)の、いわゆる「北方ルート」。
(2) インドから陸路または海路バビロニアに来て、そこから小アジア・シリア・フェニキアの海岸に向かう、いわゆる「中央ルート」。
(3) インドから海路南アラビアに達し、紅海の海岸沿いに北上して、フェニキアの海港都市またはエジプトのアレクサンドリアに通ずる、いわゆる「南方ルート」。
 それらのうち、セレウコス朝にとって、「北方ルート」はその開発に無関心でなかったものの、それが支配した地域から離れていたため、幹線たりえなかった。そして、プトレマイオス朝の幹線となる、「南方ルート」また同じであった。それに対して、陸路の「中央ルート」は伝統的で著名な幹線である。その海路もまたすでに開かれており、「インダス河口のパタラ(現在のハイデラバード)あるいはインド西海岸グジャラットのバリュガザ(現在のナルバダ河畔のブローチ)からゲドロシアの海岸に沿ってペルシア湾に入り、その湾頭からティグリス河をさかのぼってセレウケイアに至るルート」である(柘植前同、p.78)。
 このように、セレウコス朝の東方交易は海陸の「中央ルート」を通じて行われていた。それに対して、後述するプトレマイオス朝は「南方ルート」に限られており、それとてその時代は未完成であった。この2つのヘレニズム王国は地中海への出口をを掣肘しようとして争うこととなる。
▼アレクサンドロスのみはてぬ夢、香料交易網▼
 セレウコス朝の海上交易路である海の「中央ルート」は、世界最古の海上交易圏であった前二千年紀のインダス・オリエント交易の時代に、すでに構築されていたといえる(Webページ【1・1・3インダス―海上交易圏の登場―】、参照)。
 その後の歴史は不明であるが、そこに登場するのがアレクサンドロス大王である。かれは、前326年インドからの撤退をはじめるが、その際、提督ネアルコス(前360?-300?)率いる艦隊は前325年パタラから出帆して、マクラーン海岸、そしてペルシア湾の東岸に沿って進み、前324年ティグリス・ユーフラテス川の河口に至った。この海路からの撤退は、後日における海上交易の見込みを立てようとした遠征であったとされる。
古代エリュトラー海の交易路
出所:秀村欣二稿「ローマ帝国とインド」『古代史講座13』、p.103、学生社、1966、原資料
はワーミングトンとみられる
注:航路は、プリニウスの『博物誌』のインドへの航路の発展段階に当たる

 後藤健氏によれば、海軍にほぼまったく関心のなかったアレクサンドロスが、「バビロンに帰還して……創設した新しい海軍は大規模なものだった。……分解可能な構造の艦船700隻をフェニキアやキュプロスで建造させ……たとする、信じがたいような記事も知られ」、「東征の完結とともに次の大事業、すなわち大アラビアの征服とアラビア半島の周航遠征の準備を目指したもの」だったという。しかし、前323年病死したため、アラビア征服は実現しなかったが、その前年に探検隊を3度派遣したという(同稿「アレクサンドロスの夢」『NHKスペシャル文明の道1』、p.207、日本放送出版協会、2003)。その際、多数の現地民を漕ぎ手に徴発したとされる。
 第1の探検隊は、ペルシア湾のテュロス(現バハレーン島)まで達したが、その先へはどうしても進むことができなかったという。第2の探検隊は、アラビア半島をいくらか回り込むところまでいったというが、果たしてどこまで達したかは定かでない。第3の探険隊の任務はアラビア半島周航であったが、ホルムズ海峡付近まで達していたとみられる。それでも最遠方である。第3の探険隊の指揮官は、半島の大きさが驚くべきものであって、インドにも引けをとらないと報告した。さらに、同時期、アラビア半島をスエズからも周航させてもいるが、その南岸の肉桂の産地ハドラマウト地方より東に進むことができなかった。
 そこで、後藤健氏は「アレクサンドロスの生前、アラビア半島周航を果たした者はいないことになる」とか、「せめてあと10年ほども生きていたら……インド洋の季節風を300年早く発見し……南アラビアから地中海世界、メソポタミアへ至る、少年時代から夢見た香料の大流通網を海上に確立し、さらに東へ海の道は開かれていたことだろう」というが(後藤前同、p.208)、アレクサンドロスの海軍のていたらくぶりからみて、かれの夢なぞ当初から実現しなかったといえる。それは、かれらがギリシア人ではなく、マケドニア人であったからである。ことほど左様に、セレウコス朝時代の東方交易の海路が、セレウコス朝の人々によって担われようもなかったといえる。
 すでに、それ以前からインド・ペルシア湾・アラビアの交易は、非ギリシア人によって持続的に行われていた。ペルシア湾には、前二千年紀ディムルンの首都であったテュロス島や、その出先であったクウエイト沖のファイラカ島には、ギリシア風の神殿群やテラコツタ工房を含む家屋群などの、ヘレニズム時代の遺跡があり、ギリシア風の陶器やコインが出土する。それらは、後藤健氏によれば、アラビア半島に地方的な王朝が生まれ、それが残した地方的な遺物という。それらとセレウコス朝との関わりは明らかでない。
 ペルシア湾西岸には、一大交易都市ゲッラ(あるいはゲラ、ゲルラ)があったと伝聞される。その位置は確定していないが、サウジアラビア東岸のジュバイル港やその内陸のタージユが比定されている。タージユにはヘレニズム時代の遺跡や遺物がある。さらに、ペルシア湾口にも、「セレウコス朝からパルティア時代に相当する遺跡として、シヤルジャ首長国のムレイハとウンム・ル・カイワイン首長国のエッ・ドール」があったという(後藤前同、p.218)。
 ヘレニズム時代の以前から、ペルシア湾にはヘレニズム文明を摂取しうる部族がおり、セレウコス朝の東方交易におけ海路に関与していたといえる。
▼ゲライ人、セレウコス王国とインドとの交易を中継▼
 セレウコス朝は、インドと直接、海上交易していたのではなく、そのあいだに中継交易者がいた。それがゲライ人であった。ストラボン(前64-後21)の『地誌』(英文テキスト全文)によれば、ゲッラにはバビロンからの亡命者であるカルデア人たちが住んでおり、彼らはアラビアでもっとも裕福な階層に属していたという(後藤前同、p.215)。しかし、自らをゲライ人とは呼ばない。かれらはカルタゴ人を彷彿とさせる。
 柘植一雄氏は、セレウコス朝はインドの商品を主としてゲライ人から入手したが、その「ゲライ人はそれをインドの商人から受取り、自分たちの商品とともにセレウケイアへ仲継していたのである。その際、ストラボンによると『ゲライ人は大部分陸路によってアラビアの商品と香料の貿易を行なう』とあるが、彼はまた『ゲライ人は彼らの船の積荷の大部分をバビロニアにもたらし、そこからエウフラテス河を船で遡って、あとは陸路それらをこの国の各地に運ぶ』[以上、『地誌』](16:3:3、c766)]というアリストプロスの報告をも伝えて」いるとする(柘植前同、p.79)。
 そして、「インド方面からこのペルシア湾への仲継地については、同湾の入口に位置するカルマニア沿岸のオルムズ(ホルムズ)湾が、その役をつとめていたものと思われる。この湾が、すでにアレクサンドロスの遠征以前から、この地方の海上交通の一中心をなしていたことは……ネアルコスが……ここで、スーサまでの水先案内人を得ている」と、その湾口に交易人たちが蝟集したと強調する(柘植前同)。
ストラボンの『地誌』
Isaac Casaubon編纂
1620年版
Cで始まるページ番号の
標準的なテキスト
 このように、ゲライ人はインドからはシナモン、アラビア乳香や没薬などを仕入れ、海陸のルートを利用して、セレウコス朝の各地に持ち込んでいた。ゲライ人が自分の船を仕立てて、インドまで出掛けて仕入れたのか。それとも、インド人が自分の船に使って持ち込んできたのか。いままで述べてきた脈絡や論説からみれば、前者とみるしかない。それは古代交易の基本的な性格(形態)が、遠隔地からの奢侈品の買い手交易と、その中継交易にあることからみて、自然なありようである(Webページ【1・4・1 古代の海上交易の形態】、参照)。インドやアラビアの商品を仕入れ、売り込みたいゲライ人の船が多かったとしても、インド人の船が来なかったわけではない。
 ゲライ人が取り込んだ商品は、主としてアラビア産の乳香と没薬、インド産のシンナモンとカシアという香料であった。その逆に、インドに持ち込んだ商品は明らかでない。インド産の香料を、主として陸路、西方に中継したのはゲライ人ばかりでなく、サバイ人、ミナイ人、ナバタイ人などがいた。そのなかでも、アラビア半島の交易ネットワークは、ナバタイ人によっておおむね仕切られていたとされる。ただ、かれらゲライ人を除くアラビア人がいずれ紅海沿岸の住民であったことは、この時代以降の交易史からみて重要であろう。
 ゲライ人などが扱う商品はおおむね、セレウコス朝の首都ティグリス河畔のセレウケイアに集められたが、紅海のアラビア海岸を海路、陸路をもって北上し、エジプトやフェニキア、シリアに持ち込まれた。この香料ルートは、プトレマイオス朝の勢力下にあり、その地中海への出口をめぐって、シリア・エジプト戦争が起きている。
 前250年頃、セレウコス朝に対してイランのアルサケス朝パルティア(安息)王国(前247一後226年)が自立、ギリシア人のバクトリア(大夏)王国(前255-139年)が独立する。それにより、セレウコス朝は陸路による東方交易に大きな打撃を受ける。それとともに、インド西岸のバリュガザやパタラからペルシア湾経由の海上ルートが、ますます重要なものとなる。
 しかし、前141年、パルティアがセレウケイアを占領すると、セレウコス朝はさらに西に逃れる。それに伴い、ゲライ人の中継交易は衰退を余儀なくされる。柘植一雄氏は、その結果「ゲラを経由し、ペルシア湾の西岸に沿ってセレウケイアへ航行するルートに代わって、東岸に沿うルートの利用度が増すに至った」し、そのころからホルムズ湾の発展がみられたという(柘植前同、p.81)。そうしたことよりも、パルティアがホルムズ海峡を抑え、ゲライ人の活動を制圧したのではなかろうか。
 当のパルティアはセレウコス朝との東西交易をしなくなったわけではない。村川堅太郎氏がいう「ギリシア人」(後述)やゲライ人の交易に取って代わり、その利益を横取りしただけであった。パルティアには、ミトリダテス二世(在位前124-87)の時、漢(前202年-後220年)の武帝(在位前156-87)が西域遠征に派遣した張騫(?-前114)の副使が到来し、中国との絹交易も開始され、セレウコス朝との交易はむしろ盛んになる。
 それはさておき、セレウコス朝の歴史の半ばで、それ自身の交易が早くも大幅に制約された意義は大きく、ヘレニズム世界の東方交易に大いなる転機となった。その後、セレウコス朝は衰退の一途をたどり、前64年ローマに制圧され、その属領となる。
 柘植一雄氏は、セレウコス朝の東方交易の意義について「アレクサンドロス死後の西アジアにおけるこの王国の成立によって、東西貿易の発展が大きく刺激されたことは事実であり、この王国を通じて西方世界が、ギリシア人やマケドニア人には人間が住み得る世界の最東端に位置すると考えられていた、インド方面と直接交渉を持つようになったことは、この時代の国際貿易に特に大きな意義を与えるものであった」と述べる(柘植前同、p.85)。
▼プトレマイオス朝、紅海交易路の確保への努力▼
 プトレマイオス朝は後継武将の1人プトレマイ
オス一世(在位前305-283)が建てた王国であ
る。その地中海における歴史についてはWeb
ページ【1・3・3 カルタゴ、アレクサンドリア―地
中海の棲み分け―】でふれたが、この王朝は
官僚支配の統制経済を推し進め、ヘレニズム
世界において最も富裕な国家となった。この王
朝も東方交易に取り組むが、もっぱら「南方ル
ート」を通じてであった。そのため南海交易と
呼ばれるが、現実には紅海交易にとどまる。
 アレクサンドロスは、アラビア半島を征服して
その両岸の交易路であるペルシア湾と紅海を
支配下に納めて、香料交易を完全に抱え込も
うとした。それはみはてぬ夢に終わったが、ア
ラビア半島においてはすでにそれ以前から、ア
ラビア産やインド産の香料をめぐる交易が発
達していた。プトレマイオス朝はそれをわがも
のにしようとして、その初期から紅海東岸にお
ける香料の北上ルートを抑えにかかる。前301
年イソプスの戦いといった後継者戦争の結
果、エルテロス河以南のフェニキア・パレスティ
ナ地方を支配下においたが、それは地中海の
出口の一部を抑えるにとどまった。
 アラビア半島における香料交易は、アラビア
人商人、なかでも北アラビアから南シリアの砂
漠地帯に活躍する、ナバタイ人商人によって
ほぼ独占されていた。その交易にプトレマイオ
ス朝が介入する。プトレマイオス二世(在位前
283-46)は、ナバタイ人に対して海上遠征を行
ない、アカバ湾にべレニケを建設する。また、ア
ラビア海岸に探険隊を派遣し、同海岸におけ
るギリシア人の港市アンペローネの建設を助
けたとされる。このアカバ湾には、ローマ時代
になっても、ミナイ人やゲライ人などの商人た
ちが香料を運んできたという。
 また、かれが行った最大の事業とされるもの
は、ナイル河と紅海を結ぶ運河の改修工事で
あった。この運河は、エジプト王ネコが着手、開
削し、ペルシア王ダレイオス一世(前522-486)
が完成したと伝えられているものである。それ
を整備するとともに、スエズ湾奧にアルシノエと
いう港を建設して、それをアレクサンドリアと結
びつけた。この努力について、柘植一雄氏は




プトレマイオス朝時代のナイル
前100年ごろのモザイク(全体と部分)
バルベリーニ宮(イタリア・パレストリーナ)蔵
それが「ナバタイ人に対してどのような効果を挙げたかは疑わしく、彼らに対する関係は、その後融和政策に変えられたものと思われる」としている(柘植前同、p.90)。
 さらに、紅海北部の危険が去らないため、かれはアルシノエに代って、紅海西岸にミュオス=ホルモス、ベレニケ(ベレニケを冠する交易地が多い)を建設する。「これらの港市からナイル河畔のコプトスを経てアレクサンドリアへ舟航するルートが開け、帝政ローマ時代における南海貿易の代表的な商品輪送路になった」とされる(以上、柘植前同、p.90)。
 かれやプトレマイオス三世(在位、前246-21)は紅海西岸(アフリカ東岸)のトロゴデュティケ地方における港湾開発に進める。それは主として戦闘用のアフリカ象を獲得することにあったが、紅海西岸における海上交易そのもの、さらにアフリカ内陸との交易を拡げ、また対岸のアラビア沿岸へのエジプトからの商人の進出を促そうとしたものであった。
▼プトレマイオス朝、紅海交易から抜け出せず▼
 こうしたプトレマイオス朝の努力は、それ自体、紅海交易に対する努力にとどまり、インド交易に直接、乗り出そうするものではなかった。
 『エリュトラー海案内記』(次節において詳述する)の第26節には、「此処は以前は都市(ポリス)で、エゥダイモーン[幸福な]と呼ばれたのは、まだインドからエジプトに来る者もなく、またエジプトから外洋の諸地方に敢えて渡航する者もなく、(各おのが)此処まで来るに過ぎなかった頃に、ちょうどアレクサンドゥレイアーが外部からの輸入品やエジプトの輸出品を受け入れるように、両方面からの商品を受け取っていたからである」とある(村川堅太郎訳注『エリュトラー海案内記』、中公文庫、1993)(以下、本文の引用は該当節番号とする)。
 エゥダイモーン・アラビアは現在のアデンである。そこは、アラビア産香料の集散地であったばかりでなく、インド産香料の主要な中継港でもあった。プトレマイオス朝の東方交易は、ほぼ一貫としてエゥダイモーン・アラビアを経由して行われたとみられる。
 村川堅太郎氏は、これを受けて、「インド人は自身の船をアラビア南岸まで送り、[それに対して]此処でアラビア人及び『ギリシア人』が荷を受け取って、紅海方面に送っていた。かような状態が永く支配的であった」とみている(村川前同、p.39)。また、柘植一雄氏も「南方ルートによる当時の東西貿易に関して、ヘレニズム時代においてもプトレマイオス朝の商人たちが東・南方へ進出し得た範囲はせいぜい南アラビアあたりまでであり、他方インド人の商業活動も紅海湾内にまでは及び得なかったことを示す資料としてはなはだ興味ある」という(柘植前同、p.88)。
 エゥダイモーン・アラビアにおいて、プトレマイオス朝やアラビア人の商人たちが仕入れた商品は、陸路については、紅海東岸(アラビア西岸)を北上し、レウケー=コメーを経てペトラに運ばれ、そこからアレクサンドリアや、ダマスカスを経て、アンティオキアに運ばれたことは明らかである。その海路については、「ギリシア人」やアラビア人の商人たちが自らの船を用いて、紅海の最奧に運ばれた。
 かれらが扱った主な商品は、インドから運ばれた象牙・真珠・鼈甲・香料・黒檀・染料・木綿・絹・薬品や、アラビア原産の乳香・没薬・珊瑚・真珠・金などであった。その逆に、エジプトやその他地中海からエゥダイモーン・アラビアなどの中継港へ、そしてそれらからインドに仕向けられた商品は何か。これまた明らかでない。
▼「南海貿易に関する金子貸付契約証書」▼
 セレウコス朝はもとより、プトレマイオス朝においても、交易実務に関する史料になぜか乏しいようである。また、ローマ時代の『エリュトラー海案内記』は交易人が書いたとされるが、海上交易の生々しい情景はなく、その実務も知ることができない。ここでは、『エリュトラー海案内記』との関わりは薄いが、多くの人びとと同様、海上貸付を取り上げる。なお、インドにおける西方の商人の活躍や居留については、次々節にゆずる。
 そこでよく持ち出されるのが、前2世紀後半に作成されたとされる「南海貿易に関する金子貸付契約証書」である。村川堅太郎氏は交易実務には疎いようである。『エリュトラー海案内記』の作者は、「一般には、他人からの資金貸付けを俟ってはじめて東方向け輸出品を購入し、その上で出航せる者が多かったようである」とする(村川前同、p.90)。その上で、ギリシア時代に普及していた海上貸付が、この時代の制度であるかのように紹介する。
 この海上貸付航海の目的地は、村川堅太郎氏によればアフリカのグアルダルフィ岬北岸の香料産地とされ、「南海貿易の萌芽期状態を裏書きする」という。それによれば、プトレマイオス朝の商人は紅海を越えて、香料交易を行っていたかにみえるが、その香料はなおアフリカ産であったようである。
デメトリオスに対するアルキッポスの金子貸付証書
 エウデモスの子年齢……顔面左側に創痕あるアルキッポスは、顔の中央に創痕ある年齢……の子なるデメトリオス、および禿頭面長にして前額に創痕あるヒツパルコスの子なるヒツパルコス、および第三世にして年齢……頤に……およびラケダイモン人年齢……10歳、額の中央に創痕あるリュシマコスの子なるス……コス、およびマッシリア人トレ……の子なるトロ……アイス、および骨骼逞しい面長にして左手創痕ある……(人名)、旅行仲間となり香料産地へゆくこの5人に向って、〔銀行家〕グナエウスの手を経て〔総額……の金子を〕本月より1年間貸付ける。
 もし彼らが香料産地より、この国への帰還指定時日を過ぎたる場合は、同様に……彼らがこの国に到着後〔50〕日以内に〔支払うべきものとする〕。もし彼らが所定の時日内に返却しない場合は、彼らは直ちに借用〔貸付〕金額と半額の罰金を加え、王令にて定められた通り、延滞期間の利子すなわち1ムナにつき月利2ドラクマの割(2歩)で支払わなければならない。
 (返還)支払いに対する保証人は、テッサロニケ人……宮廷出仕の武官にして年齢……7歳、中背、黄褐色皮膚、瘠形、丸顔……および……王の親近隊付武官、……第二階級年齢40歳右の……:創痕があるマッシリアの……ニオス・キントス、同部隊年齢40歳、端麗、皮膚蜜色……左、および航海に出た人びとのうちカルタゴ人アポロニオスの子デメトリオス年齢30歳、眉毛わずかに寄る、および主計官キント・キントス年齢40歳、……借主ならびに保証人および彼らに属する一切に対する処分権はアルキッポスにある……
出所:粟野頼之祐稿「南海貿易に関する金子貸付契約証書」平凡社『世界歴史事典』第24巻、西洋史科篇1、p.102、1955
 ある出資者が、同じギリシア人とみられる3人の他に、スパルタ人、マッシリア(現マルセーユ)人という、その航海に出向く少なくとも合計5人に金銭を貸し付ける。それに当たり、それぞれに5人に対応してテッサロニケ人のエジプト武官、イタリアのエレア(現ベリア)人のエジプト武官、別のマッシリア人、カルタゴ人、そして別のエジプトの武官の5人が、返済保証人とし立てられる。その他2人が仲介人となっている。「5人の商人が一緒に航海に出るわけで……5人で共同に船舶を所有していたらしい」とされる(村川前同、p.91)。
 村川堅太郎氏は、「地中海周辺各地の人々が南海貿易に直接間接に参与せることである。かかる傾向は『案内記』の時代、即ち地中海の周囲がローマの政権により統一され、南海貿易者がインドまでも自由に航行せる時代には一層著しくなったであろうと思われる」と敷衍する(村川前同、p.91-2)。
 こうした海上貸付は、すでにヘレニズム時代以前に大いに発達していたが、この契約の最大の特徴は当事者の出身地の多国籍性にある。それは、一面ではアレクサンドロス港における交易人の国際性を示すばかりでなく、他方では紅海交易における危険性や、海上貸付の保険としての性格が強まっていたことを示そう。
 なお、この当事者の出身地の多様性は、この時代の海上交易人の出自を示すとみられる。それが、ローマ時代になっても、それほど大きく変化しなかったのではなかろうか。
▼プトレマイオス朝末期、エリュトラー海官僚を配置▼
 前2世紀になると、プトレマイオス朝にも新たな動きが起きる。まず、第5次シリア・エジプト戦争(前201-195)によって、フェニキア・パレスティナ地方の領土を失う。プトレマイオス七世(在位前150-16年)は、前130年の碑文によれば、エジプト以南における「貴石輸送や航海やコプトス地方の山地を通じての香料商品輸送者等の保護監督」を配置する。また、プトレマイオス12世(在位前80-51)は、前62年や前51年の碑文によれば、「インド洋ならびにエリュトゥラー海の将軍」を指名したとあり、その指名はその後も続き、さらに「エリュトゥラー海の収税官」の役職も生まれる。
 それら官職の職務は交易路の確保、交易の管理と交易税の徴収である。柘植一雄氏は、「その任務も、おそらく紅海の海上警備、紅海貿易に従事する商人や商品輸送の保護監督に、責任を負うものであったと考えでよいであろう。およそこうした事実は、この頃になって紅海あるいはインド方面との海上貿易がプトレマイオス朝の対外貿易に、とくに大きな意義を持ち始めたことを示す何よりの証拠であり、また同王朝がその発展に真剣に努めるようになったことを示す」という(柘植前同、p.92)。しかし、これとて紅海限定の政策である。
 ここで、プトレマイオス7世の治世末、キュジコス人のエウドクソスがギリシア人として初めてエジプトからインドに航海したという、ストラボン(前63?-後24?)の『地誌』2:3:4、C.99が取り上げられる。それは「紅海に漂着して助けられたインド人の水夫がアレクサンドリアに連れて来られて、その案内でインドへの探険隊が編成された時、たまたまアレクサンドリアに滞在していたエウドクソスがそれに参加してインドへ航海し、その地で香料や宝石を積んでエジプトへ帰航した。そして、彼はプトレマイオス7世の死後、王妃クレオパトラ二世の要請でもう一度この航海を試み、成功した」というものである(柘植前同、p.92による)。
 村川堅太郎氏は、前2世紀の官職指名からみて「既にプトレマイオス朝の末期に紅海方面の貿易が相当の発展」をみたとするものの、エウドクソスのインド航海といった「1、2の例から、『ギリシア人』(エジプト方面のギリシア系の商人や航海者)がアラビア南岸及びインドと恒常的に交通していたと断定し得るであろうか」と、疑問を投げかける(村川前同、p.34)。
 それに対して、柘植一雄氏はエウドクソスの「インド航海が行なわれた[のが]前120年頃から前116年頃」であり、しかもかれ自身がインド洋の季節風を「発見」したとする説を紹介したうえで、その航海が「プトレマイオス朝エジプトをインドへ一歩近づけた……、この後バブ=エル=マンデブ海峡[紅海南端のバーバル・マンデブ海峡のこと]を越えて、直接インドに赴くエジプトの商船も少なくなかったと考えられる」、さらに後述のストラボンのインドへの出帆隻数の文言を引用して、「そこに同王朝の紅海・インド貿易における大きな前進を認めないわけにはいかない」とまでいう(柘植前同、p.93)。
 この柘植一雄氏の論説が、村川堅太郎氏を批判したものかどうかは定かではない。そのあいだの時期のずれは少なくないが、プトレマイオス朝末期になってその王朝が紅海交易に組織的に関与し、その商人がインド交易に挑戦していたことは争いがない。しかし、プトレマイオス朝の商人がインド交易を大規模かつ恒常的に行うようになったとするわけにはいかない。その傍証として、インドからセレウコス朝やプトレマイオス朝の貨幣が出土しないこと、またインド交易の多くがアラビア人商人の中継に負うていたことが上げられてきた。
 プトレマイオス朝の東方交易あるいは南海交易は紅海交易であっても、インド交易ではなかった。プトレマイオス朝は、その時代を通じて紅海交易を維持、確保するのが精一杯であったとみられる。それでも、その末期にかけてインド交易に乗り出す。それは、すでにみたように前2世紀初頭におけるプトレマイオス朝のフェニキア・パレスティナの消失、そしてその半ばにおけるパルティアのセレウコス朝首都の占領といった地政の変化により、いやがうえでも「南方ルート」の重要性が高まったからであろう。このプトレマイオス朝も、前30年ローマに滅ぼされ、その属州となる。
▼インド洋季節風の発見とインドへの航路の発展▼
 インド洋に吹く季節風を、いつ頃、誰が発見し、利用するようになったのか。この疑問に対して、次の史料が持ち出される。
 そのひとつは、その成立年代が後1世紀、現在では70-60年頃に狭められている『エリュトラー海案内記』の第57節である。それに村川堅太郎氏は「インド洋航海術の発達」という見出しを付ける。
『エリュトラー海案内記』第57節「インド洋航海術の発達」
[アラビア南岸の]「カネーとエゥダイモーン・アラビアーからの上述[の南北インドへ]の全廻航を、(昔の)人々は現在よりも小さい船で湾[ペルシア湾の湾口あるいはアラビア海の外縁]を廻りつつ航海していたが、始めて舵手のヒッパロスが商業地の位置と海の状態とを了解して、大海横断による航海を発見し、それ以来インド洋で局部的に、我々の辺でと同じ頃に大洋(オーケアノス)から吹く季節風である南西風は、《横断航海を最初に発見した人の名に因み》(ヒッパロスと)呼ばれるように思われる。それ以来、今日まで或る者は直ぐにカネーから、また或る者は[アフリカ東岸の]アローマタから出航し、[インド北部の]リミュリケーに向う者はかなりの間風に逆らい、[インド西岸の]バリュガザやスキュティアーに行く者は3日を越えず陸地にくっついて進み、それ以後は自分の航行に都合のよい(風を得て)、[岸辺遥かに]外海を通って前述の数々の湾を行き過ぎるのである。
 次いで、『エリュトラー海案内記』と同年代の後77年に完成したとされる、ローマ政治家プリニウス(後22/ 23-79)の『博物誌』(6:26:96-106、英文テキスト全文)にある、インドへの航海(航路)の4段階発展説である(村川前同、p.34-5)。
(1) アレクサンドロス大王の提督ネアルコスによるインダス河口からペルシア湾までの航海である。それは初期の沿岸航海の典型とされる。
(2) アラビア南岸のシガルス岬(イエメンのファルタク岬)からインダス河口のパタルに直航する航路。これはその方面でヒッパロスと呼ばれる季節風を利用する。
(3) その後、シガルス岬からインド西岸のジャイガラに向け航海する途が知られた。この航路は、前者より近路でかつ安全なため、永年利用されたと記されている[この場合も、ヒッパロスを利用した]。
(4) アラビア南岸のオセリス[モカ近郊]より、やはりヒッパロスの風を利用して、インド西南岸のムージリスに至る航路である。この航路は片道40日を要する。
 これらはいずれも季節風発見の年代を示さない。『エリュトラー海案内記』やプリニウスは、「ギリシア人」のヒッパロスがインド洋季節風を


プリニウス『博物誌』
1669年版
はじめて発見したというが、それを認めるものは誰もいない。それで、いつ誰が発見したかが問われることとなり、それらをめぐって諸説が生じている。その点は後述する。 『エリュトラー海案内記』第26節、第57節前段、そしてプリニウスのいう第1段階が、プトレマイオス朝末期までの「インド交易」の状態を示している。しかし、その航路がどのように開かれたかは示してはくれない。その設問に対して、2つの答えがありえよう。この第1段階のペルシア湾口をなぞる沿岸航路は、まずセレウコス朝東方交易の「中央コース」から分岐したアラビア南岸までのサブ・ルートとして、早い時期にから開発されていたのではないか。次いで、すでにみたパルティアによるペルシア湾交易の圧迫に伴い、その代替ルートとして開発されたのではないかということである。前者が自然な成り行きであろう。
 これが「南方コース」―さらにいえば、後代の海のシルクロードの西半分―の誕生といえる。
しかし、プトレマイオス朝がそれを直接、利用した形跡はない。
▼初期のエリュトラー海交易の担い手は誰か?▼
 この初期の「南方コース」すなわち第1段階の交易は、誰によって担われたのか。その担い手は、すでにみた村川堅太郎氏や柘植一雄氏の論説ばかりでなく、近年の蔀勇造氏(同稿「エリュトラー海案内記の世界」『市場の世界史』(地域の世界史9)、p.254、山川出版社、1999)においても、インド人ということになっている。はたしてそうだといえるのか。
 それをいまいちど、秀村欣二氏によって確認すると、「プトレマイオス朝を通じて、エジプト方面のギリシア系商人や航海者が直接インドに航行した確証はない」、また「紅海の口を扼するアラビア人が、主としてこの地域の仲介貿易の利益を牛耳ってしまった」とするのは問題ないが、村川堅太郎氏らと同じように「インド人の船がアラビア南岸の紅海入口まで来り、此処でアラビア人やギリシア人が荷を受け取って紅海と地中海方面に送っていた」とする(同稿「ローマ帝国とインド」『古代史講座13』、p.104、学生社、1966)。
 通説は、『エリュトラー海案内記』第26節の「インドからエジプトに来るものはなく……」といった文言に囚われている。それは「インド人は自身の船をアラビア南岸まで送り……」(村川前同、p.39)などと読み込める文言ではなく、ただ単にインドの方向からきたといっているにすぎない。さらに、通説はプリニウスの第4段階以降におけるインド諸王のローマへの遺使(後述)などから、それ以前においてもインド人の船が来訪していたはずだと推定するにすぎない。
 古代交易の基本的な性格(形態)が買い手交易にあることを、村川堅太郎氏もそれなりに認めている。すなわち、「地中海方面の人々をして万里の波涛を蹴って東方に出動させたものは、『輸出』よりも先ず東洋物貨の『輸入』であった」(村川前同、p.71)。それを徹底させるならば、インドそしてさらに東方の産品を求めてやまないのは、エンド・ユーザーのセレウコス朝やプトレマイオス朝の国王や貴族、富裕層である。しかし、かれらの商人たちがインドまで出向いて交易することができない、あるいはしないとすれば、最寄りの中継商人に依存するしかない。
 それを担いうる中継商人は、セレウコス朝の以前からインドから沿岸航路によってインド産品を取り込み、ペルシア湾奧までに持ち込んでいたゲライ人に代表されるペルシア湾岸の商人においてない。それに輸出側のインド人商人が若干、加わっていたとみられる。そして、その交易が発達するにつれて、その他アラビア人商人も参入するようになったに違いない。
 その時、すでに引用した通り、アラビア南岸からインドへ向かった「(昔の)人々は、現在よりも小さい船で湾を廻りつつ航海していた」のである(第57節)。こうして、アラビア人商人が手に入れたインド産品を、さらに輸入する側にいる西方の商人が中継品として受入れ、エジプトさらに地中海まで持ち帰るといった交易が長期間、続いたのである。
 そのもとで、インドから交易終着地であるエジプト最寄りの紅海沿岸に、直接かつ短期間に入ることのできる航路が模索され、そのなかでインド洋の季節風が発見、利用されるようになったとみられる。その時期は、いくどか画期として取り上げてきた、前141年のパルティアによるセレウコス朝首都セレウケイアの占領以後の、かなり早い時期であろう。その発見者は、アラビア人やインド人においてない。アフリカ人も知っていたことであろう。
 こうして、インド洋季節風を利用する横断航路が開発され、「南方コース」が第2段階以降に入ると、第1段階において中継港として栄えていたエゥダイモン・アラビアも衰退を余儀なくされる。さらに、「南方コース」の担い手の構成も、次第に変化したに違いない。
▼ギリシア人によるインド洋季節風の「発見」と利用▼
 さて、「ギリシア人」あるいはヒッパロスが、その風をいつ発見したのか。それについては諸説がある。
(1) 前100年代前後ないしはプトレマイオス朝末期
(2) ローマ・アウグストゥス帝の時代(在位前27-後14)
(3) クラウディウス帝の時代(在位後41-54)に分かれる(秀村前同、p.106)。
 これら諸説はそれぞれ、画期として興味深い。
 (1)はいま上でみたアラビア人やインド人が発見した時期に近い。柘植一雄氏が紹介した、エウドクソスが前120-116年頃のインド航海で発見したとする説は(1)に属している。それは発見ではなく、「ギリシア人」としてはじめて教えられたか、知ったかという意味であろう。
 近年、蔀勇造氏は、インド南東岸ポドゥーケーに比定されるアリカメードゥ遺跡が「遅くとも紀元前2世紀末には地中海世界との接触をもっていた」ことから、「プリニウスの説は学者の後知恵で、インド南西岸へのルートは季節風利用の最初の段階からすでに開けていた」と、その段階の意味を否定し、「ギリシア人」はそのはじめ「自らの船でインドに到達できる」ようになっていたという(同稿「エリュトラー海案内記の世界」『市場の世界史』(地域の世界史9)、p.256-7、山川出版社、1999)。この説も(1)に属する。
 秀村欣二氏は、「最初に西方の貨幣が大量にインドに流失したのはアウダストゥスの時で[あり]……プトレマイオス朝のそれはほとんど全く出土していない」、そしてそれを「アウダストゥスの『業績録』にはインドの諸王からローマへの使節が『屡々』やって来たことが記されており……少なくとも3回もしくは4回を数えて」いたと補強し、(2)を支持する(秀村前同、p.106-7)。この(2)の時期はプリニウスの第4段階に当たる。
 村川堅太郎氏は最も遅い(3)を支持し、プリニウスの示す第4段階はクラウディウス帝かネロ帝(在位後54-68)の頃であるとする。それに当たり、クラウディウス帝の時代、ある解放奴隷がアラビア海岸から台風のためにセイロン島まで漂流、それを助けたセイロンの王がローマに遣使したという伝聞や、後掲のストラボンの「紅海岸のミュオス・ホルモス港からか120隻の船がインドへ航海して」おり、クレオパトラ(7世、在位前51-30)の父(プトレマイオス12世)の悪政時代は「アラビア湾(紅海)を横断し海峡の外まで進出せる船は20隻の船もなかったが、今日では大型の船が……エジプトへ向けて最も高価な品々が送られる」という、プトレマイオス朝時代とは異なる交易となったとする文言を紹介する(以上、村川前同、p.36-8)。
 すでにみたアラビア人やインド人の発見時から、それほど遅くない時期に「ギリシア人」が「発見」したとすれば、(1)の前100年代前後ないしはプトレマイオス朝末期前100年前後となろう。そうだとしても、その時期から「ギリシア人」が季節風を利用したとはいいがたい。
 次に、「ギリシア人」が季節風をいつ頃から大規模かつ恒常的に利用するようになったのか。それは、プトレマイオス朝の貨幣は南インドにはなく、ローマ貨幣が南インドにおいて集中的に出土する状況からみて、プリニウスの第4段階である。その時期は大勢として後1世紀前半、ローマの帝政期以降になる。その状況を反映して、『エリュトラー海案内記』が執筆されたのであろう。
 プリニウスの段階の意味合いは何か。次節で詳述するように、前1世紀半ば以降、インドにおいて西方の旺盛な需要に最初に応じたのは、陸のシルクロードの「北方ルート」や「中央ルート」に接続していた北インドであった。それに刺激され、またその頃、いくつかの王国が誕生した南インドも、陸のシルクロードやその分岐路、そして東南アジアから様々な産品を取り込み、海路、西方に輸出するようになった。しかし、西インド、さらに南インドはインド洋に面しており、西方への航路はプリニウスの第1段階の沿岸航路をたどることはできず、否応なく季節風を利用するしかなかった。
 こうして、第1段階の航路に、第2、第3、第4の段階の航路が、順次から加わることになる。それは単なる追加ではない。それは沿岸伝いの航海ではなく、大洋横断の航海による海上交易として史上はじめて登場し、それに大きく飛躍したのである。それは「エリュトラー海の交易」と積極的に呼びうる。この交易はそのはじまりからインド洋季節風利用の横断航路となっていた。
 最後に、少しくどい引用となるが、柘植一雄氏はプトレマイオス朝の東方交易について、「インドの商人が南アラビアに商品をもたらし、それをアラビア人あるいはプトレマイオス朝の商人が受取って西方へ送るという形がなお支配的であったとしなければなるまい。とはいえ、プトレマイオス朝が300年にわたるエジプト支配を通じて……ここに紅海を中心としてギリシア人やアラビア人やインド人などのかなり密接な商業関係を生み、この方面における経済交流を大きく促進した。……帝政ローマ時代の南海貿易も、これなくしては東西貿易史上の輝かしい一頁を飾ることはできなかった」と結論づける(柘植前同、p.94)。
▼紅海交易からエリュトラー海交易への飛躍▼
 前31年、ローマの初代皇帝アウグストゥス(在位前27-後14年)は、ギリシア西岸のアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラの艦隊を破り、その勢いをかってエジプトに上陸する。かれらを自殺に追い込み、前30年エジプトをローマの属領とする。ローマは、プトレマイオス朝が長年にわたって営々と築いてきた、紅海交易をそっくり引き継ぐ。このローマ帝政のエジプトの征服と、「ローマの平和」(バクス・ローマナ)は、ローマ人に生活の安定と向上をもたらし、東方の奢侈品に対する需要を飛躍的に増加させたとされる。
 アウグストゥスは、紅海西岸のべレニーケーやミュオス・ホルモスの両港と、ナイル河畔のコプトスを結ぶキャラバン・ルートを再修復し、さらにアラビア南岸にエジプト総督アェリウス・ガウスのひきいる大規模な遠征軍を送る。この遠征はナバタイ族の裏切りにより失敗したとされるが、その後エゥダイモーン・アラビア(現アデン)を征服し、紅海にローマの艦隊─ガレー戦艦80隻、輸送艦130隻ともいう─が配置されたとされる。こうした政治的な拡張と、季節風の利用という技術的な成功のもとで、すでみたようにプトレマイオス朝が越えられなかった紅海交易という制約から解き放たれ、ローマ時代のエジプトの東方交易はインド洋交易あるいはエリュトラー海交易として飛躍することとなった。
 その繁栄状況を示す史料として取り上げられてきたのが、ストラボンの『地誌』と『エリュトラー海案内記』である。後者については次節において詳述する。
 「ガルス(エジプト総督アェリウス・ガウス)がエジプトの知事であった時、私は彼と一緒にシュエネやエチオピアの境まで行き、以前プトレマイオス家が支配していた時にはごく少数の船が航海に出て、インドの商品を運んでくるにすぎなかったのに、今はミュオス・ホルモスからインドへ120隻もの船が出て行くのを知った」(『地誌』2:c.118)。
 「クレオパトラの父アウレーテース王(プトレマイオス12世)の時でさえ、12,500タラントンの歳入があった。かの王のような悪政と怠惰をもってしても、この収入をあげた以上、今日の善政の時代に、しかもインド及びトロゴデュティケ地方との商業が、かくも発展した時代のエジプトの収入はいかばかりであろう。以前はアラビア湾(紅海)を横断し、海峡の外まで進出した船は20隻もなかったが、今日では大型の船がインドやエチオピアの岬まで送られ、そこからエジプトへむけてもっとも高価な品々が送られ、エジプトから再び他の地方に送り出されるが、それらは輸出・輸入の両税を課せられ、二重の税収入がある」(『地誌』2:c.798)。インドに向けて大型船が120隻も―それらがすべてエジプトの船であるとしなくても―出帆すようになったことは、一つの驚異である。相当の誇張が含まれよう。
 ローマ時代のエジプトの交易実務に関する史料は、プトレマイオス朝と同じように少ないようである。蔀勇造氏は、ローマ時代の後2世紀中頃の海上交易の資金調達について紹介するが、その理解に苦しんでいるかにみえる。それを再整理して紹介すれば、次のようになる。インドのムージリスで結ばれた契約書はなくなり、エジプトで結ばれた契約書だけが残されているようである。それらは、いずれも一方がエジプト、他方がムージリスに居住する2人のギリシア人商人(もしくはその代理人)のあいだで結ばれていた。
 まず、海上貸付契約がムージリスで結ばれ、「前者は商品を購入するのに要する資金を、後者から借り入れた。ムージリスを出航した船には、前者が自らの商品とともに乗り込んだのはもちろんであるが、後者もエジブト向けの商品を積み込んだ。そして、船がエジプトの港に到着して荷揚げがおこなわれたところで、問題の文書が作成された」。そのミュオス・ホルモスかべレニーケーかの港で、かれらのすべての積荷が売りさばければ、海上貸付契約は履行されることになったはずであったが、そうならなかったらしい。
 そこで改めてエジプトの港で、前者は後者の「陸揚げされたインドからの商品(ガンゲース産ナルドス、象牙、織物)を、ラクダのキャラバンでナイル河畔のコブトスまで運び、そこからさらに船でアレクサンドリアへ運び下ろしたあと、倉庫に搬入して25%の関税を支払うところまで責任をもって『代行』する」。そして、その付属文書としてか、前者の後者に対する借入金が「期日までに返済されなかった場合には、関税徴収後に彼自身[前者]の商品は債権者[後者](またはその代理人)によって没収される」という問題の、特約付の運送契約が結ばれることになったとみられる。
 蔀勇造氏は、「この契約書がムージリスでなくエジプトでつくられたのは、商品が船の難破で失われる危険性が大きいあいだは、担保としての価値はないし、輸送代行の約束もナンセンスということだったのではあるまいか。前者が輸送代行を全費用負担で請け負ったのは、借金の利息の意味があったのかもしれない」と、的はずれの解釈を余儀なくされている。ただ、「後者もしくはその代理人自身が、商品とともにアレクサンドリアまで行かなかったのは、おそらく港でインドへの帰り荷の手配をする必要があったからであろう」と推測していることはもっともらしい(以上、蔀前同、p.280)。
▼若干のまとめ▼
 ヘレニズム世界の東方交易が、海上交易史上に持つ意義はすで明らかになっているといえるが、いまいちどまとめてみる。ヘレニズム世界がユーラシア大陸に深く食い入ったことで、いままでにない国際関係が生じた。それに伴って、奢侈品の遠隔地交易がユーラシア大陸の各地に拡がっていった。その交易路として海陸わたるシルクロードが形成される。それまで個々に形成されていた交易圏が結合され、地中海といった狭い交易圏ではなく、ユーラシア大陸規模の交易圏となった。
 ヘレニズム時代末期となり、セレウコス朝がユーラシア大陸から後退すると、そのペルシア湾交易とプトレマイオス朝の紅海交易とが結びつくこととなる。ここに海のシルクロード―後代からみれば西半分ではあるが―が形成される。それによって、東西交易は陸路にある制約から逃れて、より直接的かつ短期間に行われるようになる。いまや、海上交易は地中海という狭い海域ではなく、大洋という際限のない海域における海上交易となったのである。
 海陸のシルクロード経由の交易が、ユーラシア大陸規模に拡がっていたはいえ、その交易規模はそれほど大きいものではなかったであろう。それでも、海上交易が発達するにつれて、その規模は相当程度増加したとみられる。しかし、海路の両端が陸路に接続しているので、その増加も制約されていたとしなければならない。それでも、紀元前から紀元後への変り目の時期に、海上交易の世界史は大きく転換した。
 セレウコス朝にしろプトレマイオス朝にしろ、その東方交易に関する論説はほぼもっぱら海上交易を取り上げる。それが史料の関係によるものかどうかは不明であるが、この時代において言葉の通りの遠隔地交易がはじめて登場し、それが海上交易に通じて行われるようになったことを示している。それにもかかわらず、その交易史上の意義については十二分に把握されているとはいいがたい。
 また、セレウコス朝の海上交易についてはゲライ人、プトレマイオス朝のそれはアラビア人が、中継交易の担い手であったことは、すべての論者が史料にしたがって認めている。しかし、海上交易の基幹航路―前者ではペルシャ湾から、後者では紅海出口から、インドへの航路―における担い手に関しては安直に史料に依存し、その史的検討が放棄されてきた。それは、一面では海上交易、そのなかでも海上輸送が史料として残りにくいことがあり、他面では古代交易の基本的な性格に関する無理解があるからである。
 最後に、この節の「中央コース」や「南方コース」という海のシルクロードの交易の担い手は、アラブ人であって「ギリシア人」ではない。それにもかかわらず、その表題は「ヘレニズム世界の東方交易」という矛盾したものとなっている。それは、史料にもとずく研究が持つ、長い歴史の「賜物」である。
 なお、ローマの東方交易に関わるまとめは次節で行うが、ここでもローマは後発の利益を享受していることが強調される。
(04/04/04記、04/05/06改訂)

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