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2・1・3 古代アジアにおける海上交易

▼インドとローマの海上交易の道―海のシルクロード―▼
 古代の陸のシルクロードは、オアシスの道と呼ばれる中国の長安や洛陽から天山山脈、パミール高原を経て、西アジアからヨーロッパにいたる道と、草原の道と呼ばれるモンゴル高原から黒海北方の広大な草原地帯を通ってヨーロッパに至る道があった。海のシルクロードは、中国の華南を発して、南シナ海、ベンガル湾そしてアラビア海を経由し、ペルシャ湾あるいは紅海を通って地中海世界にいたる道である。
 それらは、すでに形成されていた個別の海陸交易路が、中国・漢が中央アジア、ローマが紅海を制圧下においたことで連結され、開通したものであった。それにより、個別の隊商がユーラシア大陸を、あるいは個別の商船が南シナ海とベンガル湾、アラビア海を中継する、遠距離交易が可能となった。これらシルクロードは、さしあたって西方におけるローマ帝国と東方における漢帝国の成立によって開通したかにみえるが、決してそうではない。その中間地点に位置するインド亜大陸とそこでの交易の発展が不可欠であった。
 陸のシルクロードにおいて、「インドの商人たちは、カシュガル、ヤルカンド……トゥルフナンなどの遠隔の地に、通商基地と商人の居住地を建設したが、それらの地はすぐにインド商人ばかりでなく、仏教の伝道者たちによっても開発されることになった。ローマ帝国からの商人たちは、時折ゴビ砂漠に至るまでの進出を試みたが、インド商人たちはシナとローマ世界との奢侈品貿易における仲介者となる利を、直ちに理解した」。そのことは、海のシルクロードにおいても同じであったであろうが、交易圏としては広がりがあった。
 当初、「ローマとの貿易は、東南アジア貿易に対するインド人の関心をあおるのにも、幾分かの役割を果した。ビルマとアッサムを経由しての陸路も探求されたが、海路の方が便利であった。説話集のなかにある金の島(ジャワ、スマトラおよびバリ)での商人たちの冒険物語から明白なように、危険は非常に大きかった。しかし、ローマ人に香料を売って得られる莫大な利益が、その危険を埋め合わせた」。最初に東方にのり出したのは、インドの西海岸と南海岸の商人階層であった(以上、ターパル著、辛島昇他訳『インド史 1』、p.99-100、みすず書房、1970)。
▼古代インド王国の商業、仏教とともに栄える▼
 インダス文明の後、中央アジアに移住していた遊牧民のアーリヤ人が、前1500年頃南下し、ヒンドゥークシ山脈を越え、インドのパンジャブ地方に侵入してくる。かれらは生活基盤を牧畜から農耕を切り替える。そして、その一部が前1000年頃、肥沃なガンジス河流域に入り込んでくる。
 かれらの神々の讃歌を集めた『リグ・ヴェーダ』は、船や航海に言及している。それについて、ロミラ・ターパル氏は「ペルシア湾に沿った西アジアの海上活動の諸中心地が、[インダス文明の]ハラッパー人たちとの交易以来のインド貿易を、可能な限り維持していこうと試みたとも考えられる。しかし、この交易がインド沿岸部に限定されていたことは想像に難くなく、おそらくそれはアーリヤ人の経済に重大な衝撃を与えるほどのものではなかったであろう」という(ターパル前同、p.28)。
 前1500年から前600年という長期にわたるヴェーダ時代、世界最初の海上交易圏であったペルシア湾とのあいだで、インドの先住民は細々と航海を続けていた。しかし、インドが再び本格的に海上交易に乗り出すためには、極めて長い懐妊期間が必要であった。
 前600年頃になると、北インドに多くの都市が生まれ、十六大国もの王朝が成立する。そのもとで、亜大陸内の交易が活発となり、貨幣や文字の使用がはじまる。ゴータマ・シーダッダ(前566?-486?)が現れ、仏教が興る。また、同時期、ジャイナ教も生まれる。これら新宗教は、バラモン教(ヒンドゥ教に発展する)に対する異端宗教であった。それを支援したのは、都市の担い手となった王や商人たちであった。前600-320年は仏教興起時代とされる。なかでも、後述のアショーカ王(在位前268?-32?)は改心して、仏教の布教に励んだとされる。
 初期の仏典には、都市の生活や商人の活動に関する記事が多く含まれる。そのなかでも、ウグラ(郁伽)とプールナ(あるいはプンナ、富楼那)という、長年、海上交易に携わってきたことのある、優れた在家信者がいたとされる。彼らは釈迦から、直接、教えを受けたことになっている。ウグラは、古代インドの十六大国の1つであったヴァッジにある商業都市の商人で、ガンジス河を下って海上交易を行っていた。彼の持ち船が海没したが、それにかまけず布施を続けたという。また、プールナ(同名の釈迦十大弟子とは別人とされる)は、釈迦が足跡を残さなかったアラビア海に面する港湾都市シュールパーラカ(スッパーラカ、ムンバイ郊外)の商人であったが、すべてを捨てて釈迦のもとに走り、多数の在家信者と精舎をもたらしたという(渡辺照宏著『仏教 第2版』、p.137-142、岩波新書、1974、参照)。
アショカの王女サンガミッター尼
スリランカ到着
前3世紀末の出来事とされる
ケラニヤ寺院壁画(コロンボ、スリランカ)
 仏教説話ジャータカ(前2世紀ごろ編纂)にも海や船を素材にした話があり、その一つが463話「賢者スッパーラカ前世物語」である。いうまでもなく、ここにいうスッパーラカは釈迦、商人たちは弟子たちである。また、バルカッチャとスッパーラカはいずれも『エリュトラー海案内記』(村川堅太郎訳注『エリュトラー海案内記』、中公文庫、1993)に記載されているインド西岸グジャラート地方にあるバリュガザとスーッパラという港に当たる(Webページ【2・1・2 『エリュトラー海案内記』にみる海上交易】、参照)。この説話は、お宝を獲るには遠く波頭を越えねばならず、危険にさらされることは避けられない。それを獲たとしても、ほどほどに持ち帰ることが、まっとうな知恵であるとした教えといえる。なお、ジャータカは『イソップ物語』や『アラビアンナイト』に影響を与えたとされるが、そのなかでも後者の「シンドバットの7つの航海」は「賢者スッパーラカ前世物語」を翻案したといえる。
賢者スッパーラカ前世物語
 賢者スッパーラカは、バル王国にあるバルカッチャという港町で船長の子として生まれ、16歳までに船乗りの技能をつける。父親が亡くなると船長となって船を操り、彼の乗る船は災いにあうことがなかった。しかし、両眼を塩水で痛めて失ったので、船乗りの仕事はやめて、王のもとで品定めの仕事をすることとなった。彼は心眼を開いてかして、たぐい稀なる品定めいろいろするが、王は床屋への払いほどのわずかな金しかくれなかった。
 そこでバルカッチャ港に帰ると、商人たちが船を仕たてており、彼は目が見えないと断るが、船長になるよう頼まれる。船は、4か月のあいだなにものも見えぬ海原をさ迷ったあげく、刃の輪という海にいたった。その海はダイヤモンドの海であった。彼は、商人たちに言おうものなら、船を沈める恐れがあるので、彼らに告げずに選りぬきのダイヤモンドを積み取り、安い積荷を捨てさせた。次いで、炎の輪という海で金を、白く光るヨーグルトの輪という海で銀を、光る青色の草の輪という海でサファイヤを、葦の輪という海で竹の色をした瑠璃を、それぞれ積み込んだ。
 そして荒馬の口という海にいたった。そこは、船を飲み込むほどの大波が渦巻いており、そこから逃れられないところであった。船に乗り込んでいた700人は恐れおののくが、スッパーラカは沐浴した上で、水が満たされた鉢を持ち、舳先に立って、真実のことばによる誓いをなしたところ、船はあたかも神通力ある人がその力をふったがごとく、わずか1日でバルカッチャの港に帰り着いてしまった。さらに、船は陸地を跳びこして、船長の家の門口に止まった。彼は、商人たちに宝物を分かち与えたうえで、二度と海に出かけてはならないと告げた。
資料:中村元監修・補注、松田慎也訳『ジャータカ全集6』、p.135-141、春秋社、1989からの要約
 バラモン教は、ヴァルナ(宗教的身分)の差別によって、社会秩序を維持しようとする宗教である。そのもとで、商人は被支配階級の1つであるヴァイシャに属しており、支配階級のバラモン(司祭)やクシャトリア(王侯・武士)から低級な職業とみなされていた。それに対して、仏教は職業をヴァルナに固定することを批判し、商業による利潤を正当なものとして評価した。他方、仏教は商人から経済的援助を受けた。その教団の成員である比丘も隊商と行動をともにした。こうして、仏教は都市をつなぐ交易路に沿って広まっていった。
 山崎元一氏によれば、「都市の経済活動の中心に位置するのはガハパティ(家長)と称される上流市民であった。かれらの代表は金融業者や交易商人であり、ときには都市行政の一端を担わされている。商業はヴァイシャ・ヴァルナの職業とされているが、現実にはバラモン出身やクシャトリヤ出身の商人もいた」という(同著『世界の歴史3古代インドの文明と社会』、p.102、中央公論社、1997)。
 都市には同業者が集まる街区が設けられており、かれらはセーニ(シュレニー)と呼ばれるギルド的な団体を組織していた。「ギルドの成員は生活と仕事を共同で行ない、一般に非常に緊密な関係にあったので、彼らはサブ=カーストと考えられるようになった。ほとんどの場合、息子は父と同じ職業を継ぎ、こうして世襲の原則もまた固守されていた。この段階のギルドは、キリスト紀元後の初期数世紀になってみられたような、高度に発達した商業組織ではなかった」という(ターパル前同、p.55)。
 遠距離交易が扱うものの大部分は奢侈品であり、それ以外の一般に生産される商品は地方市場で取引された。「遠路を往来する交易商人が運んだ商品としては、上質の織物、金銀象牙細工、宝石、栴檀香(せんだんこう)などの高級特産品、鉄製品やもろもろの金属などがあった。また、ガンジス川中流域の都市文化を背景に造られ、考古学者が北方黒色磨研土器と呼ぶ硬(かた)焼きの最高級土器も、隊商によって注意深く運ばれ、各地の王侯や富豪に珍重された。さらに、西インド産の馬が馬商人によって、ガンジス川流域の諸国に運ばれて売られた」とされる(山崎前同、p.102)。
▼アレクサンドロスの侵攻、マウリヤ帝国の成立▼
 アレクサンドロス大王(在位前336-323)は、前327年から3年にわたって北西インドに侵入する。その侵略の目的は、勿論ペルシア帝国の最東端まで達することにあったが、それ以外にギリシア人の大洋の限界がどこにあるかという疑問に答えることがあった。また、当時のギリシア人の常識では、ペルシア帝国すなわちインダス河の東には文明はなかった。
 かれらがパンジャブ東端まで来てみると、その東方に文明があることをわかり、さらなる抵抗が予想された。そこで、ギリシア軍の将兵たちはアレクサンドロス大王の進軍命令を拒否する。かれらの本隊は陸路をたどるが、一隊がインダス河口からペルシア湾に沿って海路、西アジアに引き上げる。このかれの提督ネアルコスの海路からの撤退は、後日における海上交易の見込みを立てようとした遠征であったといわれる。
 この西方の東方侵略の意義について、ロミラ・ターパル氏は「しかし、この遠征は歴史的・政治的にインドに何ら痕跡を残さなかった。インドの古文献のどこを探しても、アレクサンダーに少しでも触れた記事は見当らない。ギリシア軍は来たときと同じような速さでインドを去ったらしい」。
 しかし、注目すべき結果は「彼に従ってやって来た多数のギリシア人が、インドの印象を記録したという事実にある」(ターパル前同、p.52)。そして、「インドに達したギリシア軍の移動は、西北インドからアフガニスタンとイランを経て、小アジアおよび東地中海沿岸の海港に至る幾筋もの交易路を開き、かつ補強した。これにより東西貿易が促進された。インドに住むギリシア人が、そこにおいて大きな役割を演じたことは疑いない」と強調する(ターパル前同、p.54)。なお、海上交易路については言及していない。
 アレクサンドロスの侵攻に対抗するなかで、前317年、アラビア海とベンガル湾という「両洋にまたがる土地」を支配する、マウリヤ帝国が生まれる。 マウリヤ帝国の王たちは、国境を接するセレコウス朝と抗争することもあったが、おおむね友好な関係を結んでいた。アショーカ王の碑文には、シリア、エジプト、マケドニアなどの王と使節を交換したと刻まれている。
 マウリヤ帝国創建者チャンドラグプタ(在位前317?-293?)の宰相であったカウティリアが書いた『アルタ・シャーストラ(実利論)』は、「陸路と水路の優劣を記した興味深い記述がある。海路は安価ではあるけれども、海賊の危険と、船を奪われた時の費用が、それを高価なものとする。沿岸航路は、外洋航路よりも明らかに安全であったし、それはまた交易のためにより多くの機会を提供する」とみていた(ターパル前同、p.98)。しかし、外洋航路の高利益の前には、海上の危険を恐れてはいられなくなる。
 マウリヤ帝国の著名な王がアショーカ王である。かれはインド亜大陸をほぼ統治するまでになる。ただ、カリンガ征服の惨劇を悔悟して、仏教に深く帰依し、し、中央集権の開発政治を執り行ったという。 当時、「銀行制度はなかったが、金貸し業は普通に見られた。借金に対する公認の利息率は年15パーセントであった。しかし、遠洋航海などを含む安全度の低い事業では、60パーセントという高利も認められていた」(ターパル前同、p.77)。
▼インド・ローマ交易最盛期のインド王国とその港▼
 アショーカ王が死ぬと、マウリヤ帝国は急速に衰退する。その後インドは分裂し、北部や南部に強国が次々に生まれる。さらに、前140年頃、遊牧民によってバクトリアを追われたギリシア人(タミル語でヤヴァナ、後にローマ帝国領から来る人々にも用いられる)、通称インド・ギリシア人が西北インドに侵入して来て、ギリシア人王国を築く。こうした王国はギリシア様式の貨幣を発行していた。ギリシア人王として著名なメナンドロス王(生没年未詳)の貨幣は、後1世後半の『エリュトラー海案内記』第47節によれば、インド半島西北部のパリュガサで通用していたという。また、後1世後半、キリスト教十二使徒の1人聖トマスがインド西北部から南部に布教したとされる。かれらの東方への影響はガンダーラ美術などとして開花する。なお、ササン朝ペルシアの迫害を受けたネストリス派教徒がインド西部に移住したともいわれる。
 さらに、中央アジアの民族移動の波のなかで、様々な民族がインドに南下してくる。前1世紀半ばから後1世紀にかけて、北インドにクシャーナ朝(45?-450?)、南インドにサータヴァーハナ朝(アーンドラ王国、前32?-後230?)が建てられるが、4世紀初めにはいずれも衰亡する。インドは、4世紀になってグプタ朝によって統一され、古典文化が栄える。
 この時期、マウリヤ帝国が築いた交易路を越えた交易活動がはじまる。それは、インドを中継地として、地中海、インド、東南アジア、中国を結びつける、海陸にわたる東西交易と南海交易―海陸のシルクロード交易―である。それによってインド・ローマ交易は最盛期となる。
 クシャーナ朝は月氏民族の一族が築いた王朝で、中央アジアからガンジス河中流域を統治していた。その領内には、中国・漢とローマの主要な交易路―陸のシルクロード―が通じており、その繁栄は東西交易によるものとされる。その国柄は『後漢書』に記録されている。他方、南インドのデカン高原に、前1世紀半ばサ
メナンドロス1世の肖像のある硬貨
古代インドの祝祭船?
正体不明
アジャンター石窟に描かれた船
正体不明
ータヴァーハナ朝が築かれるが、その出現は「北方と南方の交流をもたらし、亜大陸内部における通商は増大した。[インド]東西両海岸とローマとの貿易、特にその南インドへの集中は、南インド諸王国の孤立に終止符を打つことになった」とされる(ターパル前同、p.97)。
 前3世紀のアショーカ王碑には、半島部(南端部)にはいくつかの部族勢力が記録されていたが、前1世紀になるとタミル人よって、東部にチョーラ朝、最南端にパンディーヤ朝、そして西部にチェーラ朝が長期に並び立つようになる。そのなかでもチョーラ朝(なお、同朝には前3世紀-後3世紀までと、9世紀半ば-13世紀半ばまでの王統がある)が優位に立ち、東西両岸に港市を開く。かれらは海軍を作り、前2世紀セイロン島を攻撃、占領し、またローマの交易船を攻撃したことになっている(ターパル前同、p.96)。
 古代王国時代の主要な交易港はすでに前節で紹介しているが、まずクシャーナ朝のバルバリコンが西方に向かう港、さらにガンジス河デルタの港であるタマルク(タームラリプティ)がインドの東海岸、セイロン島、そして東南アジアへ向かう港として開かれる。そして、それに刺激されて、西海岸にサータヴァーハナ朝のパールカッチャ(パリュガサ)と、チェーラ朝のムージリス、そして東海岸にバッラヴァ朝のボドゥケー(アリカメドゥー)、チョーラ朝のカーヴェーリが開かれる。
 なお、後述の東南アジアとの交易において、東海岸のボドゥケーやカーヴェーリなどは遅れを取ったようであり、パッラヴァ朝の都カーンチープラム(黄支国)(外港はマーマッラプラム)やスリランカが大きく登場する。
▼インド洋交易の担い手、チョーラ朝の商人とヤヴァナ▼
 南インドのなかでも、チョーラ朝の人々の活躍が記録され、またその遺跡が発掘されている。「南インドの諸王国は大規模な海上貿易に豊かな経験をもち、その文学は港、ドック、燈台、税関、および港に通常関係するあらゆる建造物に言及している。概してインド人は、自分ちの商品を他国の船乗りに運んでもらうことを好んだのであるが、チョーラの人々はインド洋の漕運業に大きな役割を演じていた」。
 また、チョーラ人は『エリュトラー海案内記』第60節にも示されているように、「各種の船を建造し、そのなかには軽い沿岸航行用の船、丸木を何本も結び合わせて造った大型船、マラヤ[マレー半島]や東南アジア方面に遠洋航海するためのさらに大きな船、などが含まれていた。プリニウスによれば、インド最大の船は75トンであったというが、他の資料はもっと大きな数値をあげている。絵画や彫刻で描写された船には、それほど大きなものは見出されない。しかし、そこに表わされたものは沿岸航行用の船のみなのかもしれない。文献にはしばしば、300人、500人、あるいは700人もの客を乗せる船に関する記述がある。ブローチに到
古代インドの国
出所:『最新世界史図説タペスリー 七訂版』、
p.72、帝国書院、2009
着した船は、水先案内船に迎えられ、ドック内の個々の停泊位置に導かれた」という。
 インド洋季節風=モンスーン=ヒッパロスの風を利用して、海のシルクロードの西半分が開かれた。それによって、ヤヴァナ商人すなわち西方商人たちがインドに来訪するようになる。かれらは「サータヴァーハナ王国や南端部の諸王国の内部に貿易施設をもっていた。……初期のタミル文学は、ヤヴァナの船が荷を積んでカーヴェーリバティナムの町にやって来る様子を述べている。この町のヤヴァナ人居住区は、繁栄の極にあった。あるタミル王はヤヴァナ人の話術をつけていた」(以上、ターパル前同、p.105-6)。
 「王宮や豪商の煉瓦葺の邸宅は、町の内陸側の区域にあった。海岸側の区域には、職人・工人や貧しい人々が住んでおり、また倉庫や商人の事務所も置かれていた。外国人居留民は、海岸側住区内の独立した一角を占めていた」。そして、「当時までに、きわめて多数の外国人がインド亜大陸の港市や商業中心地に居住していたが、彼らの多くはすでに慣習や行動の上でインド化していた」(ターパル前同、p.110、113)。また、ヤヴァナはデカン高原の石窟僧院に寄進していた。
 「インドの主要な港では貿易商たちが、土着の王から居留地を与えられるなどの保護を受けて、安全に商取引をしていたという。インド・ローマ貿易を伝えるインド側の史料として注目されるのが、さきにみた古代タミル語のシャンガム文学である[その内容は、すぐ後に示す]。……また、東南部カーヴェーリパッティナムにはヤヴァナ人が集団で住み、かれらのなかに衛士や職人として雇われた者もいた」(山崎前同、p.230)。
 当時のタミル語の詩文(シャンガム文学)は、ムージリスの港について「ペリヤール川の流れに泡をたててヤヴァナの美しい船が金貨を積んで入港し、胡椒を積んでもどっていく。ムージリスの波止場は賑やかだった」。また、『シラパディガーラム』という長編叙事詩は、居留民ヤヴァナについて「広場のテラスの上にも港の倉庫の上にも、鹿の目のような小窓をもつ城壁の上にも、太陽は輝いている。プハール(カーヴェーリパッティナム)の町で目を引くのはヤヴァナ(ギリシア・ローマなどの外国人)の居所であり、彼らの繁栄は衰えを知らない。港へ行くと実に様々な国からの船乗りの姿が見られる……」という(辛島昇訳文、『NHK海のシルクロード3』、p.242、日本放送出版協会、1988)。
▼アリカメードゥ、西方向け交易センターの遺跡▼
 20世紀半ばにおけるアリカメードゥ遺跡の発掘は、古代インド洋の海上交易に関する画期的な成果をもたらしたとされる。このインド最南端部東岸にあるアリカメードゥ遺跡は、『エリュトラー海案内記』でポドゥケーと記されている町とみられている。
 その発掘は、「この町の行政の中心や神殿等は不明だが、煉瓦作りの建造物と出土した西方からの輸入陶器片により、商品倉庫の存在が確認され、堤防の東側の水槽、染色容器、その南部の珠玉や半宝石の出土から、この部分は手工業地区と推定された。北部からは4人の陶工の押文を含んだ約50個の赤釉アレッティウム式陶器が発見され、より広い地域から飲酒用アムフォーラが150個も出土した。西方から輸入された独特のルーレット皿や紀元1世紀のローマのガラス器(蛇腹式怨形)も少数発見さ
アリカメドゥ遺跡
れ、ローマのランプの破片も2個出土した。ただし、金銀貨幣はまだ発見されていない」といった状況にある(長澤和俊著『海のシルクロード』、p.50、中公新書、1989)。現在では、西方からの輸入品とみられていた遺物も、現地産品とされている。
 このアリカメードゥが「国際港として利用され始めたのは前1世紀末頃で、その終末は紀元200年直後といわれる」という説を、長澤和俊氏は紹介する(長澤前同、p.52)。それに対して、蔀勇造氏は「通説より古く前3世紀の半ばに、おそらくベンガル湾内の地域間貿易の拠点として建設された後、遅くとも前2世紀の末頃までには地中海世界との商業上の接触を持つようになり、その頃のアンフォラや回転文土器も出土する。後者は現地産であるが、回転文様をつける技法は前2世紀に西方より伝わったと考えられる」と、南インド考古学者の見解を紹介する(同稿「インド諸港と東西貿易」『世界歴史6』、p.146、岩波書店、1999)。
 アリカメードゥには、ローマ帝政期の初めに建設された西方からの商人(ヤヴァナ)の居留地があったと喧伝されてきた。そこは「元来、ベンガル湾貿易の拠点として、現地人によって建設された港市であったことが明らかである。回転文土器の分布を見ると、北はガンジスの河口から南はスリランカに至るまでの、ベンガル湾岸一帯の諸港が交易圏を構成していたようである。とはいえ、その後、ここに西方から渡航した交易者が多数住みつき、居留地を形成した」とする(蔀前同、p.147)。
 蔀勇造氏は、アリカメードゥをベンガル湾岸一帯の交易拠点というが、それが湾岸唯一というわけではない。それ以外に、すでにみた東海岸のタームラリプティや、後述の南ビルマの彈国もまた、そうである。アリカメードゥは最南端部西岸のムージリスとともに、すぐれて西方向けの交易拠点であった。また、そこが「現地人によって建設された」とする。西方からの商人(ヤヴァナ)ばかりでなく、ベンガル湾岸一帯をはじめ、さらに遠くマレー半島やインドシア半島などから来た「現地人」も居留地を築いたのであろうか。
 このアリカメードゥで出土する回転紋付き土器やビーズなどが、インド最南端部東岸ばかりでなく、マレー半島やジャワ、ベトナムなどでも発見されている。なお、アリカメードゥ以外の発掘状況は【辛島昇稿「古代・中世東南アジアにおける文化発展とインド洋ネットワーク」『岩波講座東南アジア史1』、p.312-16、岩波書店、2001】に詳しい。
▼スリランカ、新しい遠隔地交易のセンター▼
 前節でみたように、ローマ領エジプトによるエリュトラー海交易は前1-後1世紀を盛期とし、2世紀末には終焉を迎え、その後エリュトラー海交易はササン朝ペルシアの商人たちが活躍する場となった。それによって、その交易量がそれほど減少したとはみられていない。しかし、西方の遺物ばかりでなく、「インド産の遺物がアラビア南岸からは5世紀に、アフリカ東岸からはそれより早くに姿を消すのはどう解釈すればよいのか」と、蔀勇造氏は疑問を残す。その上で、「インドの対外貿易史上特筆すべき変化が4世紀に訪れる。それは、この世紀以降に鋳造されたローマの銅貨とその模造品が、大量にスリランカと南インドから出土する」からだという(蔀前同、p.151)。
 「スリランカは早くから南インドを中心とする貿易圏には含まれていたが、1-2世紀の頃は東西貿易のメイン・ルートからはずれていた。西方商人はマラバール海岸でスリランカの産物を購入できたので、直接現地へ赴くことはしなかったためである。……4世紀以降……インドにおける遠隔地貿易のセンターは、西北部の諸港からスリランカを中心とする南部へ移動した」。
 そして、それを「最も如実に書きとどめているのが、一般にコスマス・インディコプレウステスと呼ばれるギリシア人によって著された『キリスト教世界地誌』」であり、「6世紀の初めに、エチオピア船[アクスム王国の船か]に便乗して現地(タプロパネーと呼ばれている)を訪れたアレクサンドリア商人からの伝聞によっている。それによると、当時スリランカには東西の両方向から各地の産物を満載した商船が多数来航し、スリランカの商人はそれを反対方向に転売して中継の利を得るだけでなく、地元の産物を輸出するためにも各地の港に船を送っていた」という(以上、蔀前同、p.152)。
 こうした西方向け交易センターの移動は、3世紀以降における、一方では有力な王国であったクシャーナ朝やサータヴァーハナ朝の衰退、他方では後述の東南アジア交易の拡張に基づく、ベンガル湾交易圏の伸縮に対応していよう。なお、インドやスリランカにおいて、西方あるいはローマの遺物ばかりが注目されるが、アラビアやアフリカ、そしてペルシアの国々の遺物はどうなっているのか。かれらはインドやスリランカに居留することもなく、また遺物になるようなものを持ち込まなかったのであろうか。
▼漢の武帝、シルクロードを拓き、「四海を制す」▼
 古代中国は基本的には内陸国家と発達したため、海上交易への関心はそれほど大きいものではなく、そのことはその後の長い歴史においても同じである。それでも、早くから南方の海域について何がしかの知識を持っていた。例えば、春秋時代(前770-403)、『管子』巻23・撥度78には「海内の玉幣に7策あり」とされ、その一策として「江陽の珠」(江漢の珠、江漢とは揚子江と漢江をさす)が上げられている。
 長澤和俊氏のよれば、「古代中国では、すでに戦国時代(前404-221)から、南海の特産である象牙、犀角、玳瑁(たいまい。海亀の一種で、その甲が鼈甲である)、翡翠、真珠などを愛用し、これらは今日の広東・広西地方に住む粤(越)民族から購入していた。これを東南アジアから越に運んだのは、チャム族やクメール族であったと思われるが……どのように運ばれてくるかは分らなかった」という(長澤前同、p.53)。
 秦の始皇帝(在位前221-10)は中原を統一すると、前214年50万人の軍兵を差し向け、嶺南を攻略、越の番禺(ばんぐう)(現、広東省広州市)を占領、南海、桂林、象の嶺南3郡を置く。それは越に入ってくる犀角や象歯、翡翠、真珠といった南海の珍貨を、直接取り込もうとするものであった。これによって、古代中国の南海への最大の玄関口が確保されたのである。松田寿男氏は、そこから武漢に至る道を「真珠街道」と呼び、それがますます機能するようになったとする(同稿「東西絹貿易」『古代史講座13』、p.154、学生社、1966)。これ以後、「中国人は次第にこの地方に進出し、自ら南海産の物資を輸入し、この地方に来航する南海の船乗り・商人らと
接するようになった」(長澤前同、p.54)。
 この嶺南3郡は、秦が滅び、その支配が放棄されると、その知事であった趙佗(ちょうだ)によって南越国として独立し、中国南部やインドシナ東北部を支配する。前196年には漢(前漢前202-後8)を宗主国とするが、前183年には反抗を企てる。武帝(在位前141-87)は、前118年南越国を征服し、そこに7郡を置く。その支配は広東省、海南島ばかりでなく、ベトナムの北部や中部に及んだ。後者は一般に交州と呼ばれた。その後、前111年、嶺南9郡とする。
 この「武帝の南越遠征は、史料に明記はないが、おそらく南海貿易の利を得ようとしたものと思われる。これ以後、漢人は越人にかわって南海貿易に進出していく」とされる(長澤前同、p.54)。ベトナム中部に位置する日南郡は、広
嶺南3郡
州に取って代わって中国の玄関口となる。海のシルクロードの東端が、中国側から開かれたことを示そう。
 この嶺南郡について、 班固(はんこ、32- 92)著『漢書』巻28下・地理志には「海に接しており、犀(さい)、象、毒冒[玳瑁に同じ]、珠幾(しゆき)、銀、銅、果、布が多く集まる湊(みなと)である。中国から取引に赴く者は多く豊かになる。番禺はその第1の都会である」とある。この犀、象、玳瑁、果[物]、銀、銅は東南アジアの産品、珠幾は宝石、布は綿織物でインドの産品である(なお、『漢書』の和訳は『世界の歴史13
 東南アジアの伝統と発展』、中央公論社、1998による)。番禺すなわち広州は、それ以後現在に至るまで一貫して、中国の国際港と歴史舞台の名をほしいままにする。
 生田滋氏は、通説とは違って、前漢の時代の交易の性格について「紀元前3世紀の末から紀元前1世紀の末にかけて、少なくとも東南アジア大陸部の沿岸地帯で、沿岸航路を通じて各地の交易が頻繁に行われていた……その目的の1つは、番禺を通じて、中国産の精巧な青銅器、鉄器を入手するためであった」と強調する(同稿「インド文明の伝来と国家の形成」、前同、p.72、中央公論社、1998)。
 なお、武帝は前139年頃、張騫(?-前114)を西域遠征に派遣しているが、その副使がパルティアに到達している。陸のシルクロードが中国側からも開かれたことを示そう。ただ、かれは商人に対して容赦ない課税を行ったため、その多くが商人をきらって地主となり、政治基盤の自営農民を追い込んだとされる。
▼漢の朝廷の役人に管理された通商使節団▼
 海のシルクロードにおける「漢人と東南アジアの商賈・船人との直接接触が盛んになり、広東から北ベトナムにかけての諸港の交易活動も活発となり、ついには漢人も遠くインドにまで赴く人々が現われるようになった」(長澤前同、p.54)。それを示す最初の史料も『漢書』巻28下・地理志である。それは前段と後段に分かれるが、いずれも南インドの黄支国(こうし)が目的地となっている。なお、この史料の最初の注釈者は藤田豊八氏である。
 前段は、漢の武帝の時代、『魏志倭人伝』と同じように、まず中国から黄支国までの交易ルートが示される。「日南郡の障塞(しようさい)である徐聞(じょぶん)、合浦(ごうほ)(この2つは……現在の雷州(らいしゅう)半島にあった)から、船で行くこと5か月ばかりで、都元(とげん)国がある。また、船で行くこと4か月ばかりで、邑慮没(ゆうろばつ)国がある。また、船で行くこと20日ばかりで、ェ離(しんり)国がある。歩くこと10日ばかりで、夫甘都塵(ふかんとろ)国がある。夫甘都塵国から船で行くこと2か月ばかりで黄支国がある」とある。
 黄支国は南インドのパッラヴァ朝の都カーンチープラムとされ、現マドラスの近郊にあり、『エリュトラー海案内記』第60節がいうソーパトマである。
中国王朝の正史
二十四史
(漢書、後漢書を含む)
都元国はベトナム南部、邑慮没国はタイ湾東部、ェ離国はマレー半島東岸、夫甘都塵国はその西岸にある国とみられる。マレー半島を陸路横断後、ベンガル湾岸に沿って、黄支国に向かったとみられる。
 次に、「訳長がいて、黄門[番禺にいる交州刺史]に属している。彼は募集に応じた者とともに航海に出て、明珠[真珠]、璧流離[ガラス製品]、奇石、異物を購入するために、黄金と雑潤iざつそう)[様々な色の厚手の絹織物]を携えて行く。かれらが行く先々の国では皆食事を提供して、同行してくれる。蛮夷(ばんい)の商船が次々と転送して、送り届けてくれる。しかし[これらの蛮夷は]交易の利益を挙げるために、人[の荷物]を奪って、殺すことがある。また風波にあって苦しみ、溺死(できし)する者もいる。そうした目にあわなかった者は数年後に帰ってくる。[真珠の]大珠の周囲が2寸以上に達するものがある」とある。
 この一行は朝廷の役人に管理された通商使節団とみれる。かれらが訪問した国々は武帝の治世に朝貢してきたという。また、それぞれの訪問地で接待を受け、転船できたことは、紀元後インドの文化や交易が浸透する以前から、東南アジアには高度な交易ネットワーク築かれていたことを示す。それぞれの所要日数からみて、モンスーンを利用したとはみられていない。また、中国側が絹織物ばかりでなく黄金を携え、インド産品とともに、エジプト産品のガラス製品をも求めていることが注目される。
 なお、後段は前漢末期、王莽(おうもう、在位後8-23)が帝位を簒奪したとき、自らの威徳を輝かせようとして黄支国に賄賂を贈り、使節の派遣と生きた犀の献上を求めたというものである。使者は巳程不(していふ)国=スリランカ(セイロン島)からベンガル湾岸に沿って航海し、ここではマラッカ海峡に入り、マレー半島を迂回して、帰国したことになっている。
 長澤和俊氏は、当時の中国の「貿易形態はあくまで受身の形で、だいたいは南方の船舶の入港を待ってその貨物を買い、さらにこれを内地に転売して巨利を博するという状況だった。こうして南海貿易の実権を振っていたのは、昔からこの地方で活躍していたチャム人やクメール人であった」。「海のシルグロードによる南海貿易に関心を持つが、この時代はまだ中国人が自らの船で南方に進出したわけでなく、蛮夷(外国)の商船を乗り継いで行き、危険をおかして行くとしても、インド東岸の諸港やセイロン島(スリランカ)あたりまでであったことがわかる」とする(長澤前同、p.58、60)。なお、松田寿男氏も同様の趣旨を示していた(松田前同、p.166)。
▼後漢延熹9年、大秦王安敦から使節が来る!?▼
 王莽が築いた新という王朝後、再興された後漢(後25-220)の時代、中国における南方産品への需要が少なったとはみられないが、南方交易の記録は前漢より少なくなるという。それはニュース性がなくなったためか、交易ルートがすでに確立したことによるかは、もとより不明である。現実は、そのいずれでもあったであろう。
 131年、すでに後漢に内陸ルートで朝貢していた南ビルマにある彈(たん、せん)国が海路を使い、また同年インドネシアの(ジャワ島とスマトラ島のあいだの)スンダ海峡付近にあったとみられる葉調(ようちょう)国が、日南郡に朝貢して来る。さらに、彈国より南のベンガル湾東部にも、港市が開かれる。159、161年には内陸ルートを閉ざされたため、天竺国が海路を使って日南郡に朝貢して来る。そしてローマから使節が来る。
 范曄(はんよう、398-445)編『後漢書』巻116・西南夷伝・哀牢夷の条には、「永寧元年(120)、彈国王の雍由調は……朝賀し、楽及び幻人を献ず。……彈国は西南のかた大秦に通ず」とある。この彈国は、ミヤンマー北方のシャン族の国で、大秦国(ローマ)に通じており、献じられた幻人はローマ人だという。この幻人は中国雑戯の源流となったとされるが、「もっとも、当時奇術の本場はエジプトのアレキサンドリア地方であったといわれ[るので]、この幻人はローマ帝国の本国人でない」とされる(長澤前同、p.60-1)。
 これより半世紀後の、桓帝の延熹9年(166)に来たとされる大秦国の使節が有名である。大秦国の使節は、『後漢書』巻118・西域伝・大秦国の条に、「大秦国は……金銀を以て銭となし、銀銭10は金銭1に当る。安息[パルティア]・天竺と海中に交市し、利は10倍あり。その人は質直にして、市に二価なし。……その王は常に使を漢に通ぜんと欲するも、安息は漢の上\[絹織物]を以て之と交市せんと欲し、ことさらさえぎりて自ら達するを得ざらしむ。桓帝の延熹9年に至り、大秦王安敦(あんじゅん)は使を遣わして日南の徼外より、象牙・犀角・鼈甲を献ず。始めて乃ち一通せり。その表貢する所、並びに珍異なし。疑うらくは伝者過てるか」と書かれている。なお、「日南の徼外」とは中国に海路で接する国々をいう。
 これを文字通り受け取れば、ローマは中国に使者を送りたいが、パルティアが絹交易を守ろうと通さなかった。それでも、延熹9年になって使者を寄こしたことで、ローマと繋がった。しかし、献上地が解せないし、献上品も珍奇なものではない―すべて天竺産品―。誤って伝えた者がいたのではないかということになる。
 確かに、延熹9年前後のローマ皇帝はマルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位161-180)であり、安敦という当て字はもっともらしい。また、ローマは陸のシルクロードをめぐってパルティアは争っていたし、中国に直接アプローチしたがっていたであろう。しかし、それらは単に状況を示すにすぎず、献上地や献上品も怪しげである。それにもかかわらず、ローマの使節と見る向きが少なくない。
 長澤和俊氏は「洛陽に至る」という見出しを付け、「当時のローマから持って来るものは奴隷とかガラス器のようなものしかない。使者たちはローマから運んだものは東南アジアで売買し、象牙、犀角、べっこう等と交換して、その尤品[すぐれたもの]を献上したと考えられるので、この一行はやはり大秦国、つまりローマ帝国からの使節たちであったと考えられる」という(長澤前同、p.63)。
 秀村欣二氏は、前節でみたようにインド諸王のローマへの使節を文字通り受け取るものの、「後漢期の遺使は南海貿易に従事していたアレクサンドリアあたりの商人の僭称と一般と推定されているが、この僭称自体はローマ帝国の存在が看取されることとも併せ考えらよう」と曖昧である(同稿「ローマ帝国とインド」『古代史講座13』、p.114、学生社、1966)。
 深見純生氏は、『エリュトラー海案内記』の時代においては「地中海世界はいまだ東南アジアと直接往来せず、インドを介する間接的な接触だった」が、このローマ使節によって「2世紀……ローマと漢が海路、直接通じたのであり、いわゆる海のシルクロードの成立である。ただし、その朝貢品がローマらしからぬ、東南アジア的であった……のは不思議である。東南アジアの商人がローマ皇帝の使者と偽ったのかもしれない。それにしてもローマやペルシアの情報が東南アジアに伝わっていたことになる」という(同稿「マラッカ海峡交易世界の変遷」『岩波講座東南アジア史1』、p.259、岩波書店、2001)。
 生田滋氏もそれに近いが、「これはローマから直接派遣されたのではなく、アリカメードゥなどに滞在していたギリシア人あるいはローマ人の商人がローマ皇帝アントニヌスの使節と称して日南郡を訪れたものであろう」とみている。しかし、「3世紀に入ると……それまでコロマンデル海岸の貿易港に住みついていたギリシア人商人も姿を消す」としながら、『梁書』海南伝から「[大秦の]国の人びと[が]……往々にして扶南、日南、交阯(こうし)に来る場合がある」という文言を引用したり、また「226年……ローマ帝国の商人秦論(しんろん)が、当時呉(228-80)の支配していた交阯郡(北部ベトナムのロンビェン)にやってきた」ともいう(以上、生田前同、p.77-8)。
 前節でみたように、2世紀にはエジプトからのインド交易はすでに後退期に入っていたので、ローマ帝国が中国との交易路を積極的に開こうとしていたなぞとは考えられない。ローマ帝国にあっては、それなりに多様化した交易路からそれなりの東方産品が輸入されていれば、それでよしとする時代に入っていたとみられる。中国の嶺南郡やその他東南アジアに立ち現れた、西方の商人はおおむねインドに居留するヤヴァナ人であり、ローマ皇帝の名において献納したかもしれないが、それをかたって交易できれば一旗揚げられるともくろんで、来訪したとみられる。
▼古代東南アジアの歴史、海上交易とともに歩む▼
 古代東南アジアは海上交易圏の形成とともに胎動したかにみえる。それは、すでに述べたように前数世紀からの秦や漢の政治勢力の華南への伸張と、それを動機づけた中国市場における熱帯産品に対する絶えざる需要の拡大に促されたものであった。そして、中国、東南アジア、そしてインドの産品を求めてやまい、西方商人たちの登場であった。しかし、それはインド以東における交易、すなわち海陸にわたるシルクロードの交易の形成と成熟に依存したものでしかなかった。
 前数世紀から、ベンガル湾、マレー半島、タイ湾、そして南シナ海、それぞれにおいて交易ルートが張られ、そこに大小の港市が築かれる。「史料上からは断片的にしか確認できないが、通商の拡大に伴って、海上交易路にある沿岸の諸拠点には、集荷地としての小港市が形成されていた。交易品の取り扱い量がだんだんと増えると、小港市が商業活動の場として発展し、そこを中心に周辺地域が統合され、小国家が誕生してきた。これら小国家はやがてその規模を拡大し、有力国家となるに至る」という(山崎元一・石澤良昭稿「南アジア世界・東南アジア世界の形成と展開」『講座世界歴史6』、p.7、岩波書店、1999)。
 その代表といえる港市が、後1世紀頃、すでに述べた南ビルマのタトゥン(彈)や、タイ湾と南シナ海を結ぶ位置にある扶南、そして2世紀頃、南シナ海の中央に位置するチャンパ(林邑、りんゆう)である。なお、それらは、10世紀以降、ビルマ(緬)、アンコール・クメール(真臘)、チャム(占城)に変転する。
漢代の東南アジアネットワーク
出所:桜井由躬雄稿「南海交易ネットワークの成立」『岩波講座東南アジア史1』、p.115、岩
波書店、2001
注 ベンガル湾岸沿いの航路も描くべきであろう。
 これら港市や港市国家に、中国側がどのようにアプローチしたかはすでに述べた。他方、インド側からはどうであったか。
 それら港市と「インドとの交流に主要な役割を果たしたのは海路であり、その交流を担ったのは貿易を求めて往来した商人であった。また彼らにはバラモンや仏教僧も同行している。インドとの交流には、政治力や軍事力は伴わなかった。なお、海路の中でも南インドの諸港から東南アジアに直行する遠洋航路は、中国と西アジア・ヨーロッパとを結ぶ『海の道』の中央部東半を占めている。この航路においては、漢帝国とローマ帝国の栄えた西暦1-2世紀、唐・宋とイスラーム帝国が栄えた7-12世紀は言うにおよばず、全時代にわたって船舶の往来が絶えなかった」(山崎・石澤前同、p.9)。
 生田滋氏は、「来航したインド人商人がもっとも強く求めたのは金であった。これに対して、マレー半島の住民がもっとも強く求めたのは鉄器、あるいは鉄材で、このほか綿織物、ガラス器、その他の工芸品も魅力ある商品であった。マレー半島では砂金が産出するので、商人たちは金の見本を見せ、さらに持参したさまざまな商品を見せびらかして、住民に金をさがさせたのであろう。そうしたニュースはあっというまに各地に広がり、多くの人びとが各地から金を携えてインド人商人が来航する港にやってきたものと思われる」と描き上げる(生田前同、p.80)。
 扶南国は、クメール族がメコン川デルタ地帯(現在のベトナム南部からカンボジア東部)に建てた古代カンボジアの王国である。その建国は後1世紀とされる。この国は、インドから商人の船に乗って渡来してきた混填というバラモンが、クメール族の女酋柳葉(りゅうよう)と結婚することで開かれたという。その経緯は、康泰が帰国後、著わした『呉時外国伝』(『太平御覧』巻769・舟部2)に示されている。こうした伝説はカルタゴ建国を彷彿とさせる。
 「東南アジアとインドとの間には紀元前から交通が開け、紀元1-2世紀頃からは多くのインド移民が東南アジアに来住し、インド文化を伝えた。彼らの進出はインド商人の進出と相応じ、しだいに東南アジア各地に及んだ。[後代になって]彼らは学者や宗教家を伴い、学問・宗教のほか、政治組織も伝え、かれらの支配または指導のもとに、各地にインド式国家が誕生した」(長澤前同、p.68)。すなわち東南アジアの本格的な「インド化」の一環であり、その範囲はマレー半島、カンボジア、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、バリ、そして中央アジアにまで及んでいたという。
 すでにみたように、前2世はじめベトナムの北部や中部には中国の政治支配が及んでいたが、後1世紀になると中国支配に対する反抗が続く。一方では後漢の後退と、他方での交易の拡大のもとで、中部ベトナムの在地勢力が興起する。190年代、区連(くれん)は中国人官僚を追いやって、林邑を建国する。この林邑は「しだいに発展する南シナ海ルートの中継港として、また沈香など亜熱帯山地特産物の収集輸出基地として、東南アジア東部の中心として成長する。……林邑の成立によって、これまで未成熟だった中部ベトナム沿岸のネットワ-クが組織化された。以後、林邑は海の道の終点の位置を、漢の出先港市日南と争う」こととなる(桜井由躬雄稿「南海交易ネットワークの成立」『岩波講座東南アジア史1』、p.121、岩波書店、2001)。
 ホン川(紅河)デルタ地域(交州)にいた中国人官僚・士燮(ししょう)が自立する。それを後漢は承認する。しかし、かれの死後、呉はその地を再び直轄統治し、広州と交州に分割する。なお、士燮が呉に差し出した献物は、真珠、玳瑁、象牙、犀角など、いわばありふれたものであった。
 こうして、海のシルクロードを担う東南アジアの主要な交易国家が、中国の支配地である広州と交州、インドシナ半島をはさんで林邑と扶南、そしてベンガル湾に彈、と勢揃いしたことになる。
▼扶南国、インドと中国との海上交易の中継地▼
 中国は三国時代(220-280)に入る。その一国である呉は江南の建業(南京)に都を置き、浙江、福建、広東の沿海部と北ベトナムにかけての地域を領土とし、南方に向けて発展しようとする。呉の孫権(在位222-52)の時代、229年頃に交州刺史であった呂岱(りょたい)は朱応と康泰を、いまや東南アジアの交易センターとなっていた扶南国に遣使する。この派遣は南方に影響を及ぼすことで、蜀と魏に対抗しようとしたものであった。その派遣により、中国人の東南アジアに対する知識は飛躍的に増大したとされる。
 扶南国の王位を譲られた范(師)蔓(はんまん)は、3世紀はじめ「自ら扶南大王と名乗り、大船を作って海上遠征を行ない、屈都昆(くつとこん)、九稚(きゅうち)、典孫など10数国を従え、国土を広げること五、六千里、さらに金隣国を討とうとして果さずに没した。このうち、九稚はマレー半島西岸の拘利、投拘利で、プトレマイオスの『地理書』のタコーラTakglaにあたるとされ、典孫(典遜、頓遜)は半島頸部のテナセリムに比定されるが、屈都昆はマレー半島、スマトラ北部、メコン・デルタの諸説がある」(長澤前同、p.68)。なお、この一文は山本達郎稿「古代の南海交通と扶南の文化」『古代史講座13』、p.130、学生社、1966とほぼ同じである。
 扶南国は典孫(テナセリム)を、マレー半島の陸路横断後のベンガル湾への出口として利用した。この典孫は扶南に服属しており、インド系のかなり人々が住む国際都市で、毎日1万人(?)の人々が集って四海の珍貨を取引したとされる。これによって、扶南国は南シナ海、マレー半島、そしてベンガル湾に至る海域を制する、交易大国になったことになる。
 3世紀前半の扶南の王は、范蔓の姉の子・范旃(はんせん、在位225-43)であった。この王の治世に先の朱応と康泰が訪れているが、王は王族の蘇物という人物を北インドのクシャーナ朝に派遣する。『梁書』諸夷伝・中天竺国の条は、それを記事としている。長澤和俊氏によれば、「彼は1年余の航海でガンジス河口[タームラリプティ]につき、それから遡航7000里で中天竺の国に至った。恐らく一行は、[北インド]クシャン朝[クシャーナ朝]の都ペシャワールに達したものと思われる。天竺王は感心して、蘇物に国内を見物させ、陳・宋ら2人を派遣し、月氏馬4匹を范旃に献じた。蘇物は、この使節らと4年がかりで帰ってきた」というのである(長澤前同、p.70)。それにおまけが付いて、朱応・康春らはその陳や宋らと会い、天竺の風土や民俗を聞くことができたという。
 山本達郎氏によれば、扶南の歴史は「この国を中心とする盛んな海上交通と文化交流の姿が現れて来る」し、「扶南とインドとの交渉は、中国とは比較にならない頻繁なものであった」という(山本前同、p.133)。後漢、そして「三国分裂時代の呉と、隣接地帯の動揺のあったクシャーナ朝が、当時、共に大国であった扶南国と通じていた」のであって(山本前同、p.131)、その逆ではなかった。扶南の歴史は中国の史料によって再構成されているため、中国との海上交易が大きく描かれることになっていた。
 扶南の交易大国としての実態について、石澤良昭氏は「扶南国の立国の経済基盤は、主に海上交易であり、併せて自給自足的な内陸農耕であった。……東南アジア各地からたくさんの船が来航し、活発な取引が行われていた。それが扶南の繁栄を持続させていた」と、概説を繰り返すだけである(石澤前同、p.105)。それに対して、桜井由躬雄氏は「オケオから、この時期インドの遺物が多く発見されている。しかし、……蘇物の記録からみると、扶南人が直接ベンガル湾をわたって北インドに赴くことはまれであった。扶南は、東西交渉を主宰するというよりも、[南シナ海、タイ湾、ジャワ海区といった]東南アジア域内交易の中心と考えるべきだろう」と限定する(桜井前同、p.125)。しかし、いずれも扶南がどのような海上交易を行っていたかは、具体的には示してはくれない。
 当時の島嶼部の産地と産品は、諸簿国(ジャワ)をその中心として、諸簿国綿・綿布を、漲海洲湾(東ジャワ)白塩、北濾国(バンカ)錫、馬五洲(マルク諸島)丁香(グローブ)、大火洲(東インドネシア諸島)石綿、巨延洲(フィリピン諸島)イモ、シャコ貝、薄歎洲(ミナンカバウ)金、耽蘭洲(マレー半島)鉄となっている(桜井前同、p.127や、深見前同、p.260-1)。
▼南北朝時代における南海の活況とオケオ遺跡▼
 扶南が海上交易の中継港市国家としての繁栄ぶりは、外港とされるオケオ(オクエオ)遺跡に示される。20世紀半ばに発掘され、古代アジア史を知る上で重要な遺跡として、南インドのアメリカドゥーとともに有名である。そこは、ベトナムのメコン・デルタ、インドシナ半島最南端の西海岸ラチジャー近郊にある。その遺跡には水路が縦横に走り、扶南の後期の都があったアンコール・ボレイやタイ湾と結ばれていた。
 遺物は小型の装身具が多いとされるが、そのなかでも「精巧な細工の宝石・貨幣・沈み彫り・護符など……、ローマ皇帝アントニヌス・ピウスやマルクス・アウレリウス時代の金貨、青銅製仏像やヒンドゥー教神像、サンスクリット(梵語、ぼんご)刻文付きの錫(すず)小板や指輪、そして漢代の青銅製のきほう鏡など」が注目されている(石澤良昭稿「古代『海のシルクロード』」『世界の歴史13』、p.102)。特に、金製品の総量は実に2キログラムに及ぶ。なお、タイ南部(映画「007」で有名になった)パン・ガー海岸のクローントーム遺跡から、オケオ遺跡と同じような遺物が出土する。
オケオ出土の
マルクス・アウレリウス帝
肖像の金貨
ベトナム歴史博物館
オケオ文化展示室(ホーチミン市)蔵
それを詳しく紹介する辛島昇氏は交易都市とはみていない(辛島前同、p.316-7)。
 扶南が海上交易の中継港市国家としての繁栄ぶりは、外港とされるオケオ(オクエオ)遺跡に示される。20世紀半ばに発掘され、古代アジア史を知る上で重要な遺跡として、南インドのアメリカドゥーとともに有名である。そこは、ベトナムのメコン・デルタ、インドシナ半島最南端の西海岸ラチジャー近郊にある。その遺跡には水路が縦横に走り、扶南の後期の都があったアンコール・ボレイやタイ湾と結ばれていた。
 遺物は小型の装身具が多いとされるが、そのなかでも「精巧な細工の宝石・貨幣・沈み彫り・護符など……、ローマ皇帝アントニヌス・ピウスやマルクス・アウレリウス時代の金貨、青銅製仏像やヒンドゥー教神像、サンスクリット(梵語、ぼんご)刻文付きの錫(すず)小板や指輪、そして漢代の青銅製のきほう鏡など」が注目されている(石澤良昭稿「古代『海のシルクロード』」『世界の歴史13』、p.102)。特に、金製品の総量は実に2キログラムに及ぶ。なお、タイ南部(映画「007」で有名になった)パン・ガー海岸のクローントーム遺跡から、オケオ遺跡と同じような遺物が出土する。それを詳しく紹介する辛島昇氏は交易都市とはみていない(辛島前同、p.316-7)。
 インドの文書には東南アジアに黄金の島や土地、半島があると伝えられていた。その代表はマレー半島であり、『エリュトラー海案内記』第63節では「クリューセーの島」すなわち「黄金の島」、またプトレマイオス『地理書』7:2:25では「黄金の半島」とされている。そうした情報には時代のズレがあるだけでなく、ただ金への渇望を示しているだけかも知れない(黄金の国ジパングも、そうした流れであろう)。そこで重要なことは「遺物の総数からみると、中国系統のものが極めて少ないという事実」であるという(山本前同、p.138)。なお、荷札あるいは護符とみられる耳のある小板や、運河跡では船体の防水に使われる樹脂の塊が出土している。
 山本達郎氏は扶南人の出自を問い、かれらの活動範囲やオケオで発掘された人骨からみてインドネシア系とみなし、それを含む「オーストロネシア系(すなわちマラヨポリネシア系)の民族が、東は太平洋東部の諸島から西はインド洋西部のマダガスカルまで広大な海域に分布しているのは、古くから航海のための船を持っていたためと認められており、彼等はもとはアジア東南部の大陸から南下して東西に移住した……。扶南の海上活動は……外来文化、特に西方からの影響が加わって、これを発展させたものとみることが出来る」と述べる(山本前同、p.138)。
 中国の南北朝時代(220-589)に入ると、さらに様相が変わる。中国が南北に分裂し、南に版図が拡がった江南の諸王朝は、西域が閉ざされていたこともあって海上交易に力を入れ、いままでになく南方の奢侈品の買い付けに走るようになったとされる。特に、南朝梁の武帝(502-549)の時代は、きわめて活発な交易が繰り広げられたとされる。それによって南方産品の消費市場の中心は華南に移転した。
 南朝最初の王朝史である『宋書』夷蛮伝には、長澤和俊氏の和訳によれば、「もともと大秦や天竺などの国ははるかさいはての国で、前漢・後漢の時代、駄馬の……路は特に難儀だった。そこで商貨のあるところ、あるいは交州(ハノイ付近)を出て海に浮び、波を乗り越え、風に乗って遠くに至った。……そこでは山水の宝物があり、通犀とか美しい羽、真珠や火浣布(かかんぷ)といった種々の珍宝があり、みな歴代の君主が夢中になって欲したものである。そこで船舶は続々と海路に連なり、商人や使節はかわるがわる続いている」と書かれている(長澤前同、p.77)。
 扶南においては、再度にわたりインドから支配者を迎えたり、カンボジアの攻勢にさらされるなどして、インドばかりでなく、中国との友好関係の維持が不可欠になったとみられる。扶南の王は、503年には梁王朝から「安南将軍扶南王」に任命され、歴代王朝(晋に3世紀4回、4世紀1回、宋に5世紀3回、梁に6世紀9回)に使者を派遣している。
 こうして、桜井由躬雄氏によれば「東西交易の要としての扶南の全盛期は5-6世紀まで続いて」いくことになり、いまや「林邑と扶南は、朝貢を通じて、南朝の公的南海交易を主宰する」ことになったとされる(桜井前同、p.130)。これは極めて重要な指摘であり、それ以前が単なる中継交易地だったの比べ、画期的な転換である。そうしたにも指摘かかわらず、その実態は示されない。
 中国の南北分裂によって、交州は中原へのアクセスが絶たれ、また林邑の侵略を受けるなどして交易から脱落する。しかし、林邑は中国勢力と日南郡を争うものの、中国に朝貢することでその地位を維持する。それら以外、マレー半島では盤盤(ばんばん、バンドン湾)、狼牙脩(ろうかしゅう、パタニ)、マラッカ海峡では耶婆提(やばてい)、闍娑(じゃば)、干陀利国(かんだり、西ジャワ?)、ジャワ海では丹丹国(たんたん、スマトラ東南部?)、婆利国(ばり、バリ島)といった新興の国々も、4世紀以降、中国に争って朝貢するようになる。
 そのもとで、どの程度の海上交易が行われたかは不明であるが、先の『宋書』が表現するほどに繁栄を極めたとはいえそうにない。扶南は、6世紀に入ると、海上交易の減少などとともに崩壊の道を歩む。
▼崑崙船とは、崑崙国の大型船という意味か?▼
 中国と東南アジア、およびインドとを結んで活躍していた船が崑崙船だったとされる。この崑崙船は中国の史料に基づいており、極めて曖昧である。
 崑崙の船というが、その崑崙はどこか不明である。松田寿男氏は「崑崙国とは、特定の一国に対する称呼ではない。旧唐書(巻197、南蛮伝)林邑国伝に、『林邑より己南(の民)は、みな巻髪黒身である。(それらを)通号して崑崙となす』と説明されている如く、林邑すなわちチァンパ(占婆Champa)以南に住む、巻髪黒身の民の総称である。私見によれば、それは、カンボジア(Kamboja)、シァム(Siam)、すなわち今のタイ、マレイ半島など、シァム湾の波に洗われている諸地方に、ビルマ南部を加えた範囲を指したものらしい」(長澤前同、p.77)。要するに東南アジアのほぼ全域からきた船でしかない。
 先の康泰の著書『呉時外国伝』(『太平御覧』巻769・舟部2)には、扶南国の船が記録されている。「扶南国は木を伐って船(つくりは工)をつくる。〔木は〕長さは12尋[約23メートル、なお、1尋=8尺、1尺=0.23メートル(後漢時代、戸沼幸市著『人間尺度論』、彰国社、1978)]、広さは肘6尺[約3メートル、肘尺=0.5メートル]なり。頭尾は魚に似て、鉄鑷[毛抜き状の鉄板]を以て露装す。大なるは百人を載(の)す。人は長短の橈(かい)と高(さお、竹かんむり付き)各々1あり。頭より尾に至り、面に50人あり。或は42人、船の大小に随う。立てば則ち長橈を用い、坐れば短高を用う。水浅ければ乃ち高を用う。皆まさに上れば、声に応ずること一の如し」とある(長澤前同、p.69)。この船は帆装していないらしい。西方の船型としてはガレーあるいはロングシップである。
 崑崙船は前2世紀から13、4世紀にわたって活躍するが、小型船もあれば大型船もあったであろうし、帆船もあったであろう。神田喜一郎氏によれば、崑崙船の構造をよく示している史料が、慧琳(えりん)著『一切経音義』巻61(807年刊行)であるという。「海中の大船は舶という。広雅に舶は海舟なりと。水に入ること60尺、駈使して千余人を運載す。貨物を除く。亦崑崙船と曰う。この船を運動するは、骨論を水匠と為すこと多し。椰子皮を用いて索となし、葛覧糖を連縛して灌塞す。冷水入らず。釘鰈(鰈、正しくは金へん)を用いず。鉄熱の火生を恐れ、木杭をかさねて之を作る。板薄くして破るを恐る。長さ数里、前後3節なり。帆を張りて風を使う。また人力の能く動かすに非ざるなり」(長澤前同、p.78)。
 これによると、この崑崙船は追い込めば千人が乗れる大型の外洋船で、水面での長さ60尺(約15メートル)あり、椰子の皮でロープ(索)を作り、葛の繊維を繋いで詰め物にして、水漏れを防いだので、海水は入ってこない。鉄のくぎは火が出るの恐れがあるので、木のくいを使って船を作ったが、板が薄いので破れることを恐れた。船の長さ、数里は誇張であるが、船は船首、船中央、船尾に分れている。帆装して風を用いた。人力ではこの船は動かせないとある。なお、「骨論を水匠となすこと多し」とあるのは、乗組員が崑崙人であったことを示すという。なお、骨論あるいは骨崙は崑崙の異字である。
ボロブドゥルの祠檀の船
8-9世紀頃、筆者撮影
 長澤和俊氏は、「有名なジャワのボロブドゥルの祠檀に見える8-9世紀頃の南海貿易船の浮彫(レリーフ)は、崑崙船の唯一のスケッチといってよい」という(長澤前同、p.78)。レリーフの船にはアウトリガーが付いているが、それは装飾の愛嬌とみればもっともらしい。
 古代から現在に至るまで、東南アジアの海上交易において通路をなすとともに、障碍でもあった、マレー半島を横断してベンガル湾とタイ湾を結ぶルートは、古代中国の漢代にあっては主に4つあったとされる。南から北へ、(1)プーケット―チャイヤー、(2)クラ地峡(ラノン―チュンポン)、(3)テナセリム―ペッブリー、(4)タトゥン―三仏塔峠―チャオプラヤー・デルタであった。それら陸路は、南北朝時代に入って海路、マラッカ海峡を航行するようになっても、また現代になっても利用され続けている。
 1-3世紀頃、インドから東に向かった船はマレー半島まで来ると、プーケット辺りで貨物を下ろしたとみられる。その後は陸路、象の背に乗せて、その東岸のチャイヤー辺りでまで運ばれ、タイ湾を横切ってくる東方から来た船に積み替えられた。しかし、5世紀以後海上交易が陸上交易に比して発展すると、マラッカ海峡を下って、マレー半島を迂回する航路が主流となる。この2つのコースはすでに『漢書』においてみられた。法顕の旅は後者に属する。
▼苦難の多い航海、入竺僧法顕の求法旅行▼
 古代アジアにおける航海の実情を示す史料として、5世紀の初め、スリランカからスマトラを経て、中国に帰国した入竺僧『法顕伝』がある。法顕(ほっけん、337?-422?)は、399年、62歳の時、10数人の同志と共に長安を出発して、敦煌、ホータンを経て北インドに入り、409年インドのガンジス河を下り、ただ1人となってタームラリプティから商人の大船に乗り、スリランカに向った。そこで2年間、写経と研学に過し、411年秋いよいよ帰国の途についた。この航海は、後1世紀の聖パウロの海と同じような経過をたどる(Webページ【1・4・3古代の航海、航海術、そして船員】、参照)。
 長澤和俊氏は、法顕が最初に乗った船はインド人か崑崙人かの崑崙船、また帰国時の船はヒンズー教徒の多いインド人の崑崙船とみている。なお、法顕よりはるか後の7世紀、唐の義浄(635-713)がインドに向けて広東で乗船した船は、ペルシアの船であった。なお、ここに至っても中国のジャンクは登場しない。
法顕の海路
達磨大師の推測海路を含む

入竺僧法顕の求法旅行
(スリランカから海路帰国する
 (法顕はスリランカで)梵本を(集め)得たのち、すぐさま商人の大船に乗船した。(その船の乗員は)およそ200余人である。(大船の)後ろに一般の小船を繋留し、航海には危険が多いので大船の損壊に備えている。
 (はじめは)よい信風(季節風)にあったが、東に行くこと2日すると、たちまち大風にあった。船には漏れ水が入り、商人たちは小船に乗り移ろうとした。小船の上の人は、人が澤山やってくるのを恐れ、ただちにとも綱を断ち切った。
 商人は大いに恐れ、命はあとわずかしかないといい、船の浸水を恐れ、すぐさま値打のない財貨をとって水中に投げた。法顕もまた両口の水瓶と洗面器、ならびにその他のものを海中に投げ捨てた。ただし、商人が(大切な)経典や仏像を投げ捨てることを恐れた。このような大風に(脅かされること)13昼夜で、ある島のほとりに着いた。
 (そこで)引潮を待ち、船の水漏れの処をみて、すぐさまその箇所を修理し、そこで再び前進した。この海上には海賊が多く、会えば誰ひとり無事ではいられない。大海はあくまで縹渺とひろく、東西も分からない。ただ日月や星をみて進むのみである。……このようにして、90日ばかりで、ある国に到った。(その国は)耶婆堤という名であった。
 その国は外道、バラモンが盛んで、仏法は言うに足らない。この国にとどまること5か月、また他の商人に従って(船に乗った)。この大船上にも200人ばかり(の人が乗り)、50日分の食料を用意した。4月16日に(この国を)出発し、法顕は船上で安居[あんご、雨期の修行を]した。
 (船は)東北に進んで広州に赴いた。1月あまり日がたって夜鼓が2時(ふたとき)を告げたとき、大暴風雨(黒暴風雨)に出会った。商人・賈客はみなことごとく恐慄いた。法顕は、この時もまた一心に観世音と漢地の衆僧を念じた。威神の祐(たすけ)により夜明けを迎えることができた。
 朝になるともろもろのバラモンが話しあって、「……どうでも、この比丘[法顕のこと]を下ろし、海島の(浜)辺に置いて行かねばならない……」と言った。ところが、法顕を乗せた商人(檀越、だんおつ、信者)は、「……貴方がこの沙門を下すのなら、私は中国に着いたら、国王に向かって貴方の(行なった)ことを訴えます。……」と言った。そこで諸商人は躊躇して、あえてすぐさま(法顕を)下さなかった。
 ……水夫たちは相望みながら水路を見誤り、ついに70余日を経て、……海水をとって食事を作り、(残った)好い(真)水を分けたが、1人2升ずつしかなく、まもなく(水も)尽きようとしていた。(ここで)商人たちは話し合って、「いつも行く時は、ちょうど50日で広州に達するのだ。……大分違った処に来ているのではないか」と言った。
 すぐさま(船を)西北にむけて、海岸を求めること12昼夜、(ようやく)長広郡内の牢山[山東省青島]の南岸に至り、ただちによい水や野菜を得ることができた。ただただ険難(の海路を)航行して、毎日を憂懼のうちに過していたが、偶然この海岸に着き、(法顕は)藜霍[れいかく、あかざの異名]を見て、やはりここは漢の地であることを知った。
出所:長澤和俊著『海のシルクロード』、p.80-4、中公新書、1989(同訳注『法顕伝・宋雲行紀』(東洋文庫194)、p.148-52相当部分、平凡社、1971)
注:()は訳注者による補足。
 最初の船はベンガル湾横断中に遭難し、その後小船でもってたどり着いた島はスマトラ島の北にあるニコパル諸島であった。その後、90日もかかって行き着いた耶婆提国はスマトラかジャワ[後漢時代の葉調国]とされるが、「おそらく後に室利仏逝国と呼ばれたスマトラのパレンバン地方であろう」とする。このニコパル諸島とスマトラのあいだを90日もかかったのは疑問があるとし、「九、十日許り」と読むべきかも知れないという。そうではなく、スマトラ島西岸を進んだのではないかともみられている。
 深見純生氏は、まず『法顕伝』は「海洋東南アジアにおけるモンスーン航海の確立を示す最初の証拠」とし、スリランカへの「冬のモンスーンにより14昼夜で到着する順調なものであった」とする。そして、「モンスーン航海は島嶼世界に早ければ2-3世紀に、おそくとも4世紀には定着した」とみている(深見前同、p.263)。
▼若干のまとめ(1)▼
 日本のアジア史研究には、20世紀前半から東西交渉史、なかでも南海交渉史なる分野があり、多くの業績が蓄積されてきたとされる。その一端をかいま見てきたわけであるが、奇異に感じることが少なくない。近年の業績においても、港市や港市国家、また海上交易やその交易ネットワークなどが積極的に取り上げられている。確かに、東南アジアの港市や港市国家の形成に、海上交易が深く関わっているので、極めて当然といえる。
 それでありながら、最近の業績にあっても、あれこれの港市国家の興亡に終始しており、海上交易そのものの分析や解説についてはおおむね貧弱で、竜頭蛇尾の感を免れえない。それは史料を中国の文書―それも主として王朝史―に依存しているためである。それ以上を期待するのが無理なのであろう。
 それに伴い、古代アジアにおける海上交易の実態―交易の担い手、交易の規模、交易の実務、船や船員―についての情報に乏しく、古代アジアの海上交易の形態や性格について容易にまとめることができない。ここでは、主として地中海交易と対比することでえられる、わずかな知見を示すにとどめる。
 古代アジアにおける海上交易品とその産地、積出地、仕向地は、(1)中国から金、絹製品、高級工芸品、その他文物が、西向きに、東南アジアに積み出される、(2)東南アジアから犀角、象牙、玳瑁、香料が、東向きではインド産品とともに中国に、そして西向きではインドに積み出される、(3)インドから真珠、象牙、宝石、綿製品が、東向きでは(ほんのわずかの地中海産品とともに)東南アジアや中国に、そして西向きではさらに胡椒など香料を加えて、中国や東南アジアの産品とともに地中海に積み出される、(4)地中海諸国から金、ガラス製品などが、東向きにインドに積み出される、と要約されよう。
 これらをみて明らかなように、古代アジアにおける海上交易も地中海交易と同じように、中継交易による奢侈品の遠隔地交易という形態をとっている。地中海交易においては、この基本的形態を持ちながらも、小麦やワイン、オリーブ油といった大量かつ嵩高な生活必需品の中近距離交易も行われていた。それに対して、アジアの海上交易ではそうした生活必需品の交易はほとんど行われていないことになっており、奢侈品交易に異常に特化した海上交易となっている。しかも、その奢侈品―犀角、象牙、玳瑁、香料など―には特定の産地があるものもあるが、おおむね複数の産地を持っている。
 さらに、地中海交易においては、ギリシアやローマといった大量消費国である覇権国が奢侈品と必需品を、一極集中的あるいは一方向的に取り込む交易となっていた。それに対して、アジア交易においては、大小・先後発様々な国々が交易に参画するもとで、主として多種多様な奢侈品を多極的あるいは双方向(多方向)的に分け合う交易として展開されている。そのため中継交易も多段階的にもなっている。
 このように、東西の交易にはかなりの相違があり、古代アジア交易圏には多様性がある。しかし、そのあり方は超大国である中国の奢侈品需要や外国政策によって規定されている。中国の奢侈品需要は、時代が下るにつれて増大したとみられるが、その画期は秦・漢の時代と、南北分裂後の、三国・南北朝時代とのあいだにあった。南朝は、その地政から、いやが上でも南海との海上交易によって、国力と国威を高めるしかなかったからである。
 それに影響されて、扶南や林巴が交易大国として成長し、古代アジアの海上交易圏の重心はベンガル湾から東シナ海へ移動したとみられる。これら扶南や林巴は中継国として栄えたが、地中海の、例えばロドス島などとは違って、ユーラシア大陸の海岸線にあるが、海路だけでなく陸路でも中国にかなり容易にアクセスできる位置に立地していた。
▼若干のまとめ(2)▼
 古代インド人は、東南アジア各地に居留と移住を行い、文化を持ち込んだ。それは、「金の土地」のある東方に海路に広げ、東南アジアの産品を取り込もうとしたものであった。その動きはフェニキア人の交易植民と同じようであるが、交易植民地を建設したとは受け取られていないし、それによってインド自体の東南アジア交易が拡張したようにはみえない。
 逆に、それは東南アジアのインド文化の受容は一般に「インド化」と呼ばれる。それにはいくつかの段階があるが、その後期はともかく、初期においては、扶南を典型とするように、東南アジアの小港市が港市国家として離陸するために、インドから洗練された交易制度を導入することにあったとみられる。
 インドにしろ中国にしろ扶南にしろ、当初はその海上交易を他国や他国人に依存していた。しかし、自国をめぐる海上交易が成熟してくると、かれらもやおら、それに直接、乗り出すというパターンとなっている。そうしたことは、一方では陸路の交易がすでに存在し、それなりに実績があり、他方では一定の海上交易民がいて中短距離の交易が行われており、それらにあるいはそのいずれかに依存していたからであろう。古代アジアの海上交易は、古代地中海に比べて、それに関わる国々の商人がおしなべて参入していたとみられる。こうした交易の担い手の多岐性は、古代アジア交易の最大の需要国である中国の交易需要の特殊性(ギリシア・ローマと違って穀物輸入を必要としない)や中国人の参入の少なさあるいは弱さが、大きく影響していよう。
 古代中国は、その時代ごとに地続きの地に遠征するとともに、遠隔地に海路、使節を派遣している。それは版図拡大のためではなく、国威を誇示して、多数の国々から朝貢を促することにあったとみられる。それはとりもなおさず南方珍貨のマーケット・リサーチでもあった。この朝貢交易によって、中国は朝貢国から南方産品を居ながらにして持続的に入手することが可能となり、また朝貢国は中国から供与された先進文物や高級工芸品でもって民度を高めえたのである。
 最後に、古代アジアの海上交易の規模という、最も難関なテーマがある。古代アジアの海上交易は、古代地中海に比べて奢侈品の交易に特化し、生活必需品の交易を欠落させているので、その交易規模をそもそも最初から小さかったといえる。しかし、奢侈品交易に限ればどうであろうか。
 東西の中国とローマが、いずれも金を支払い手段としてアジアの珍貨を買い求めていることは、それら大国の需要の大きさを示めそう。そのあいだを取り結んだのが海陸のシルクロードであった。そのもとで、中国を含むアジアの珍貨がローマや地中海諸国に将来することがあっても、ローマや地中海諸国の産品が中国を含むアジアに将来することはほとんどなかった。奢侈品の積出量と仕向量はともに、シルクロードの東半分が西半分よりもはるかに大きかったとみられる。その結果、インドと東南アジアには、金が蓄積されることとなった。
 古代アジアの海上交易は、一言でいえば、多種多様な国々の商人を担い手としながら行われる、高価格かつ少量のしかも産地代替可能な奢侈品の双方向交易といえよう。そして、その海上交易圏あるはネットワークは、地中海交易圏に比べ数倍の広さを持ち、覇権国に完全には支配されていない多極的で、多種多様な交易国が参入(退出)して双方向(多方向)に交易しあう、可塑性のあるエリアとなっていたといえる。
(04/05/25記、16/02/05補記)

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