▼黄河文明と長江文明、馬の文化と船の文化▼ アジアにおいて、東南アジアはともかく、海上交易が社会経済基盤として占める地位は、近代に至るまでヨーロッパに比べ低いものがあった。それが特に顕著な地域が東アジアであった。その傾向は近代まで継続する。それはその地域の極めて長期にわたって覇権国であった中国の態様にある。 中国文明は、四大文明の1つとして、他の文明と同じように、黄河という河川域に発祥する。その黄河流域には、古代国家として夏、殷、周に始まり、春秋戦国の時代を経て、中華帝国として秦・漢が成立してきた。そのため、中国の歴史が黄河流域の歴史として記述され、それ以外の地域はそこに強力な政権が樹立された場合はともかく、おおむね軽視されてきた。それは当然の成り行きでもあるが、中華帝国としての秦・漢がもたらした差別的な地方観に基づくものであった。 中国には、北部の黄河の以外に南部に長江(揚子江)があり、その長江文明は黄河文明に先駆ける歴史があったとして、近年注目されている。この2つの文明地域は「南船北馬」と表現されてきた。そうした言い方は、前139年成立の『准南子』斉俗篇の「(北方ノ)胡人ハ馬ニ便ニシテ、(南方ノ)越人ハ舟ニ便ナリ」にはじまる。福永光司氏は、それを「馬の文化と船の文化」あるいは「乗る文化と乗せる文化」といった言葉に読み替える(同著『馬の文化と船の文化』、人文書院、1996)。 長江は中国最大流域(全長6300キロメートル)を持っており、それが便なる「南船」は基本的に川船であり、またそれを操るのは川人である。宋の時代となって、「南船」が海船となり、海人に操られることとなる。長江河口は東シナ海が広がっている。中国では、古来、長江の下流域とそれ以南、すなわち華南において海上交易が成立した。それは華北の黄河流域の政権からみれば、辺境における生業にすぎなかったであろう。 長江以北に海上交易が無かったわけではない。斯波義信氏は、中国の宋代にはじまる海域区分は、「北は渤海湾から長江河口、杭州湾口にかけての海域を北洋、就航路は沙船、漕船業仲間を北号(北幇)、そして舟山列島から広東にいたる海域を南洋、就航船は大型戎克船(ジャンク)、漕船業仲間を南号(南幇)」になるとし、「日中の海事交渉は唐では北号圏、宋以後ではおもには南号圏のなかで動いた」という。そして、古代の北洋を「往来した海民は朝鮮半島の人たち、渤海の人たち、女真の海民([12世紀の海賊]刀伊などを含む)、遼東や山東の漢民、日本沿岸の舟乗りである」という(同稿「港市論」『アジアのなかの日本史3 海上の道』、p.3、9、東京大学出版会、1992)。 なお、一般に、北洋は浅海であり、ジャンクには座礁の危険がつきまとった。他方、南洋は大型ジャンクに適した良港に恵まれていたが、背後に山脈があり、内陸部や長江の先進地とのアクセスに欠けるものがあった。 ▼卑弥呼、帯方郡に魏への遺使を送る▼ 古代中国において、長江流域に初めて名を残したのは、江蘇省蘇州に都とした呉と、浙江省紹興に都を定めた越である。それらはシナ海に面した国々であり、春秋時代(前770-403)、長江の下流域やそれ以南の地域(江南)を支配していた。この時期に、呉越は黄河流域の諸侯にも優るとも劣らない勢力を示し、海上交易に取り組んだことになっている。その実態は定かではない。 前3世紀、秦は、黄河文明がいわば辺境の長江文明を取り込んで、1つの支配領域とする中華帝国を築く。ここに、現代につながる中国となり、はじめて世界に知られることとなったことの意義は非常に大きい。秦は様々な外征を行っており、日本との関わりでは始皇帝(在位前221-10)の徐福派遣が知られる。 その後、漢(前漢、前202-後8)が成立するが、秦とは違って言葉通りの帝国体制を築く。漢は、周辺の政治勢力に朝貢させ、それに爵位を授けて藩国とし、漢帝国に服属させる国際的なレベルの冊封体制を確立した。この冊封体制のもとで、南シナ海や東シナ海において、朝貢交易をてこにした海上交易が発展し、中国と東南アジア、インド洋、そして地中海は、海陸のシルクロードによって結ばれることとなった。ただ、海上交易は従前にも増して、国家の管理のもとに置かれる。 しかし、中国は220年後漢が滅亡すると魏晋南北朝時代に入り、589年隋が成立するまで分裂状態となる。その間、江南の開発が進み、荘園経営とともに手工業、商業も著しく発展する。そのもとで、南シナ海に面していた呉、東晋、宋、斉、梁、陳などの海上交易は、漢時代とは違って多面的に発展したとみられるが、史料に乏しい。 この時代に入ってようやく、東アジアといっても最果ての日本や朝鮮が、世界歴史舞台に登場する。前108年、前漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼして、朝鮮北部に漢四郡を設置する。そのうち楽浪郡が中国の東の窓口となる。その楽浪郡に、弥生時代の日本が使節を送ったとされる。その末期の57年には倭の奴(な)国の使者が後漢の洛陽を訪れる。それに対して、光武帝(在位25-57)は、『後漢書』東夷伝によれば、金印(漢委奴國王印)を与えたとされる。また、107年にも後漢に遺使し、生口160人を持ち込んでいる。その後、朝鮮の楽浪郡は遼東の公孫氏の支配するところとなり、その南方が3世紀初頭分離して帯方郡となる。
三国時代、華北を支配した魏(220-265)は楽浪・帯方郡を公孫氏から、いわば回収する。その直後の239年と、その後数次にわたり、邪馬台国の女王卑弥呼は帯方郡経由で魏への遺使を送る。邪馬台国は、『魏志』倭人伝よれば、遺使を送ってくる30か国の1つであった。高句麗と対立している魏は、「親魏倭王」という称号の入った金印を与えて服属させただけでなく、「黄色の中国軍旗」や檄文を授けて、卑弥呼の「倭国大乱」平定を支援している。
邪馬台国の貢納品と回賜品は次の通りである。邪馬台国は些少なものを差し出し、豪華絢爛なものを賜っている。これが未発達な小服属国の朝貢交易の実態であった。なお、その後5世紀になって、倭の五王が南朝の冊封を受ける。
▼中国の植民遠征、大運河造修、長安の繁栄▼
こうした朝貢交易ではなく、植民遠征に関する史料もある。それらも中国のもので、徐福の船団は前3世紀中国の山東半島の娘邪地区を出港して東に向った。その乗客は『史記』准南衡山列伝の記述によれば「童男女3000人」とある。また、230年、呉の孫権(在位222-52)の命を受けて、将軍衛温・諸葛直の船団は「海に浮かび、夷州および亶州を求めて」出航した。その兵団は『三国志』呉書には「甲士万人」とある。それら船団が日本に上陸したかどうかは確認できない。それが確認できるものは、後者の船団に後れること53年、わが国の応神天皇の14年―呉国の滅亡(280)後3年―、秦の始皇帝の末裔と自称する弓月王(融通王)に率いられて、日本国に帰化した「127県の秦民」である。 これら海上遠征に使われた船の数や大きさは不明ながら、その遠征規模はかなり大きい。この海上遠征に関連づけて、福永光司氏は『古事記』や『日本書紀』がつたえる「神武東征軍と類似点を多く持つ」とする。その船団が「武装船団であったこと、また、かなりの戦闘能力を持つ多くの人員を擁し、したがって船の数も少なくなかった」として、その「船と人の数量も、上記秦始皇帝の末裔を自称する弓月王の率いた帰化人集団の規模と同列に考えてよいと思いますが、この東征船団の造船技術ないし海原の航行、敵との戦闘の技術なども、すべて古代中国の船の文化に学んだであろうことが必然的に推測されます」という(福永前同、p.50-1)。 これは、日本の統治者が中国の武装植民者から軍事技術を伝授され、それを用いて海路から支配領域を拡大させたことを連想させる。
618年、高祖(李淵)(在位618-626)が、長安を都にして唐を建てる。その領土は漢を凌ぐ大きさとなり、西方のイスラーム帝国と拮抗する大帝国となった。なかでも、唐は7世紀後半、ベトナム中部フエ地方に安南都護府を置いてベトナムの北半分を支配し、南海航路を手中に収める。それにより「安南」がベトナムとして知られるようになる。8世紀中ごろ、阿倍仲麻呂(中国名は朝衡、698-770)は、安史の乱後、鎮南都護や安南節度使として、ベトナムに赴任している。 この唐の時代(618-907)に、「華北の畑作地帯ではコムギの栽培が広まり、江南では米の生産が増加した。また、チャ、サトウキビ、綿花などの栽培が普及し、地方の都市や農村でも商業が盛んになった。さらに、東西貿易がさかえ、陸上からはイラン系の商人がラクダの隊商をくんでオアシス都市を往来し、海上からはアラブのイスラーム商人の商船[それは中国で索縄船と呼ばれたダウである]がインド洋をへて、620年頃広州など華南沿海の港市に来航した。それは預言者ムハンマドが亡くなる12年前であった。 隋の煬帝は、当然のこととして東南アジアに関心を向け、605年林邑(ベトナム南部)に兵を向け、607年には赤土国に使節を出しており、また同年、流求国(台湾か、琉球か不明)に朝貢を勧めている。そして、611年以降、高句麗と3回にわたる戦いをはじめる。高句麗との戦いや大運河の造修によって、国民と国土は疲弊し、隋は大運河を利用することもなく、滅亡する。 618年、高祖(李淵)(在位618-626)が、長安を都にして唐を建てる。その領土は漢を凌ぐ大きさとなり、西方のイスラーム帝国と拮抗する大帝国となった。なかでも、唐は7世紀後半、ベトナム中部フエ地方に安南都護府を置いてベトナムの北半分を支配し、南海航路を手中に収める。それにより「安南」がベトナムとして知られるようになる。8世紀中ごろ、阿倍仲麻呂(中国名は朝衡、698-770)は、安史の乱後、鎮南都護や安南節度使として、ベトナムに赴任している。 この唐の時代(618-907)に、「華北の畑作地帯ではコムギの栽培が広まり、江南では米の生産が増加した。また、チャ、サトウキビ、綿花などの栽培が普及し、地方の都市や農村でも商業が盛んになった。さらに、東西貿易がさかえ、陸上からはイラン系の商人がラクダの隊商をくんでオアシス都市を往来し、海上からはアラブのイスラーム商人の商船[それは中国で索縄船と呼ばれたダウである]がインド洋をへて、620年頃広州など華南沿海の港市に来航した。それは預言者ムハンマドが亡くなる12年前であった。 都の長安は人口100万をこえ、イスラム帝国のアッバース朝の都バグダッドとならぶ国際都市として繁栄した」(「中国」、Microsoft Encarta Encyclopedia 2001参照)。 ▼遣隋使、遣唐使による朝貢交易、そして遭難▼ 隋や唐が建国されると、東アジアの国々はほぼ直ちに遣使を送って冊封され、留学生を送り込む。倭は、607年以後、遣隋使を4-6回ほど派遣する(逆の隋使1回)。その派遣航路は北路であり、朝鮮半島西部沿岸を北上し、遼東半島の北からポー海(渤海)を横断したと考えられている。それに続けて、遣唐使が630年から894年にかけて20回企画され、16回派遣される。そのうち入京を果たしたのは、わずか9回にとどまる(逆の唐使8回)。 遣唐使の船団は「四(よつ)の船」ともいわれる4隻で構成され、大使、副使、判官、録事を正式な遣唐使節団とし、乗組員として知乗船事(船団長)、船師(船長)、船匠、柁師(操舵長)、柁抄(操舵手)、水手長、水手、その他に史生(書記)、訳語、医師、音声(楽士)、留学生らが同乗した。その乗客数は、最盛期の717年557人、732年594人、752年約500人という多さであった。しかし、これら日本の遣使の規模は、朝鮮諸国に比べれば、かなり小さかった。 遣唐使船は決して小さな船ではない。しかし、その構造や建造については基本的に不明であるが、後述することからみて、それらが日本建造だとしても新羅船や唐船の模倣船であったであろ
日本と唐との関係は使節の往来だけではなく、民間人の私交易をかなりの程度行われた。752年、遣唐使は新羅との接触を避け、南路を使って、はじめて華南の明州に入っているが、それを前後する「8世紀の半ばから、明州仕立ての中国民間商船が肥前の値嘉島を経て博多に入津する事例が増え、このころ755-63年の安史の乱を目撃し、ついに838年に最後の遣唐使を送った日本には、商号商人の中国戎克[ジャンク]が記録の上でもつづく70年間に30回も、さかんに訪れるようになった」(斯波港市論、p.15)。
▼唐末、東アジア海上交易圏の成立▼ 唐は、いままでになく江南の発展を基盤にして繁栄したとみられ、その文明様式は胡風あるいは西域風、すなわちササン朝ペルシア様式に染まったとされる。それは陸路ではトルコ人やソクド人、海路では西アジアや東南アジアの船―中国船は未だ登場しない―が持ち込んだものであった。その都の長安は国際都市となり、様々な国々の交易人ばかりでなく、アジア各地の朝貢使節、日本や新羅、渤海の学僧などがあふれた。 特に、南中国の広州・泉州・杭州、長江沿岸の揚州・洪州・荊州といった海港には、西アジアの海上交易人が多数、居留していた。769年広州に入港した西アジアの船舶は、なんと4000隻の及んだという数字がある。 淡海三船の『唐大和上東征伝』よれば、748年鑑真和上(688-763、唐代の僧、日本律宗の開祖)が最後の失敗となった5回目の渡日をはかって、楊州を出航する。その船も嵐にみまわれて海南島に押し流され、750年にやっと広州に辿りつく。そこで見た港の光景は次のようであったという。「バラモン(婆羅門)寺3所あり。ならびに梵僧居住す。池には青蓮華あり、華薬根茎ならびに芬馥奇異なり。江中、婆羅門、波斯、崑崙等の舶あり。その数を知らず。並びに香薬・珍宝を載す。積載するもの山の如し。舶の深さは、6、7丈なり。師子国、大石国、骨唐国、自蛮、赤蛮等の往来し、居住するもの種類きわめて多し」。しかしそこには中国船の名はまったく出てこない。 また、8世紀前半、新羅僧・慧超(704-87)は往路、海路によってインドに向かったが、かれは当時の波斯(ペルシア)商人の活躍ぶりを、次のように報告している。「〔波斯国の〕土地人性は交易を愛す。常に西海に舶を汎べて南海に入る。師子国に向いて諸宝物を取るが、それはかれの国が宝物を出すといわれる所以である。また、崑崙国に向いて金を取る。また、漢の地に汎舶して、直ちに広州に至り、綾綿糸綿の類を取る」という(以上、長沢和俊著『海のシルクロ−ド史』、p.88-9、中公新書、1989)。 節度使(藩鎮)は、募兵制によって集められた辺境防備兵の指揮官であったが、次第に勢力を蓄えるようになる。かれらの1人である安禄山(705-57)が史思明(?-761)とともに(いずれもソクド系武将)、755-763年安史の乱を起こす。その後、節度使は内地の要衝にも配置される。かれらは民政や財政の権利をも握るようになる。そして、交易をも独占し、私財を蓄えて、地方軍閥となっていく。安史の乱によって国土は荒廃し、周辺諸国も自立化を強め、唐は急速に衰退していく。そして、875-884年には農民の反乱が全国に拡大して黄巣の乱となり、この混乱のなかで907年唐は節度使の朱全忠(五代後梁の太祖、在位907-12)によって滅ぼされる。 唐末、節度使たちが官商として取引するようになると、唐の朝貢体制は崩れていく。イスラーム教徒などの居留民が、信じがたい数字であるが、安史の乱では数千人、また黄巣の乱では12万人も惨殺される。それ以後、イスラーム交易民の多くが中国から撤退していったとされる。それに取って替わって、まず進出したのが新羅商人や渤海商人たちであった。 そのなかでも、「新羅の海運王」などと呼ばれる張保皐や、『智証大師伝』で「大唐商客」・「日本国商人」・「渤海国商主」と称している李延孝・李英覚(日本ではかれらは唐商人と受け取られている)が、その名を残している。かれらは江南の海港において、従来、朝貢交易の仲介人として働き、またそれに付帯して私交易も行っていたが、次第に中国の海上交易の担い手になっていったとみられる。 これら新羅商人や渤海商人たちは、イスラーム交易民が江南の海港から後退するなかで、それに替わって東南アジア、そしてインドに進出する。その場合、かれらはおおむね中国人商人と見られたきらいがある。その実体は不明である。ただ、日本と新羅や渤海の関係はすぐ後でみるように、日本はそれら商人の国際的な活躍によって、中国のみならず東南アジアやインドの物産をいままでになく容易に入手できるようになった。 その結果、中国を起点とする海上交易は南海交易だけではなくなり、日本や朝鮮などとの東シナ海交易が加わり、それらが結合されることとなった。それは東アジア海上交易圏の形成を意味しよう。これによって海のシルクロードは、東アジアの最果てまで延伸されることとなった。 ▼日本の朝鮮との親交と侵攻、新羅との往来▼ 前1世紀後半、中国東北部に勃興した高句麗は勢いがあり、313年には楽浪・帯方郡を吸収し、その領域を朝鮮半島に広げる。それ以後、4世紀後半から7世紀にかけて、朝鮮は高句麗、新羅、百済の三国時代となる。日本はそれら朝鮮諸国と使者を交換する。この頃、日本はようやく古墳時代に入って、大和などに有力政権が築かれ、多くの東アジア人が渡来するなどして、いままでなく国力が大幅に伸張する。その途端に、日本の政権は朝鮮三国の抗争に関与して侵攻するようになる。なお、日本の新羅や渤海との交易については、Webページ【補論・日本の新羅や渤海との交易の形態】を参照されたい。 隋や唐が成立すると、それらの朝鮮への関与がはじまる。新羅は唐と連合して、660年に百済、668年に高句麗を滅ぼして半島を統一し、676年統一新羅となる。これに対して、645年に成立した大化改新政府は高句麗・百済と連合し、新羅・唐軍を迎撃しようとした。そのなかで全羅北道と南道の境を流れる白村江(錦江)の戦いが特記される。663年、1000隻2万7000人の水軍を前・中・後の3軍に編成して、新羅軍を南側から突こうとして、白村江を遡るため河口に向う(『三国史記』)。そこには、唐の水軍170隻が新羅の要請で待機していたため(『日本書紀』)、400隻以上が焼失して敗れる(『旧唐書』)。これら大和国の軍勢の大きさと唐国のその小ささは解せない。 これら朝鮮諸国と使者を交換することで、日本は中国から先進文化を取り入れて発達していた百済(さらに任那)との関わりを深めた。かれらから仏教、文芸、農業、土木を学んでことで、飛鳥文化が形作られた。日本が支援した百済が滅びると多数の百済人、さらに高句麗人が渡来するようになり、日本は「後百済国」と呼ばれる状態となった。 新羅は、7世紀以前、日本に朝貢する形をとっていたが、統一後、政権が安定すると対等の立場をとるようになる。しかし、交易の利を求めて妥協し、日本との通交関係を保ち続け、統一前後の224年間に日本の遣新羅使は37回、逆の新羅使は83回という多さであった。その数は様々な国への使節をはるかに上回るものであった。 しかし、日本と新羅との関係は常に友好的であったわけではない。新羅は8世紀半ばに入ると飢饉や内紛が発生する。その新羅流民が大量に北九州に流入するようになる。また、東アジアの交易民としてさらに活躍するようになる。その結果として、新羅民の居留地が北九州にできる。これに対して、日本の律令国家は鴻臚館によって交易管理を行うとともに、新羅流入民の阻止や新羅海賊への警備を行うようになる。799年から外交関係は途絶えるが、民間交易は続けられ、北九州の有力者の蜜貿易も無くならない。その間、後述の渤海との交易はさらに盛んとなる。 さらに、9世紀に入って唐の支配力が低下して、地方勢力が交易にたずさわるようになると、新羅商人たちの活躍の場が広がり、唐商人も参入してくるようになる。新羅商人たちは、中国の山東半島や江蘇省に新羅坊という居留地を置き、そこを拠点にして新羅、唐、日本、そして東南アジアを結ぶアジアの海上交易を展開する。その点で、新羅商人は東アジア海域において史上初めて登場した、中継交易人といえる。その史実は不明である。 この局面で活躍したのが、日本では張宝高(後述)として知られる人物である。かれは、824年来日して蜜貿易の担い手でもあった居留新羅人を配下に納める。828年には新羅から全羅南道莞島に置かれた清海鎭の大使に任命される。この張宝高の組織力を利用して交易することが望ましいとしてか、日本の律令国家は831年国家先買とその後の民間交易の許可を、いま再び制度化する。 しかし、かれが846年暗殺されると、交易秩序は混乱する。日本の律令国家は消極的になり、その翌年には新羅人の渡来を禁止する。しかし、それは新羅人の交易を禁じたわけではなかった。869年、新羅海賊の豊前貢綿船襲撃が起きると、その翌年には居留新羅人の陸奥への強制移住が行われる。太宰府は海賊の驚異ばかりでなく、九州の官人や郡司層が新羅と結託することを恐れていた。882年遣新羅使も終わりを告げる。その後も、新羅海賊の対馬・壱岐、筑前を襲撃は度重なる。 894年には遣唐使も廃止されることになり、中国や朝鮮との外交関係は停止することとなるが、それらとの交易は渤海や中国の商人たちが新羅商人たちに替わって、いままでと同じように活発に行われるようになる。 ▼海上交易王=張保皐、渤海商人の便宜▼ 海上交易王ともいえる新羅人張宝高(790?-846?)は、新羅では弓福、唐では張保皐(ちょうほこう)として知られる。かれは身分の低い「海島人」であったが、中国の江蘇省徐州にわたって、節度使の配下になり、将校となる。また、居留新羅人を取りまとめ、勢力を築く。 円仁(794-864、慈覚大師)は、『入唐求法巡礼行記』に記録しているように、唐に入るのを拒まれるが、密入国する。そのとき、張保皐が山東半島に建てた赤山法華院に身を寄せている。かれは、筑前大守から預かった張保皐宛の書状を、唐入国の際、失ったことを詫びたという。この円仁は、847年に唐から追放され、新羅坊の金珍の船で日本に帰着している。なお、円仁の足跡については、Webページ【『入唐求法巡礼行記』を読む】を参照されたい。
それは、日本では前筑前守文室宮田麻呂事件といい、宮田麻呂が唐物を入手しようとして、張保皐にその代価としてあしぎぬ(粗製の絹布、その正字は「施」のへんが「糸」へんである、以下同じ)を先渡ししていたが、かれが死んだことで、843年その代物として日本に逃れてきた手下から持ち物を奪っていたという事件である。日本の交易秩序はあってないようものとなっていた(坂上康俊『日本の歴史05 律令国家の転換と「日本」』、p.122-4、中央公論社、2001参照)。
この東アジアにおける豪腕な交易人の死をなぞるかのように、新羅の衰退とともに、8世紀から9世紀にかけて東アジア海上交易圏の形成の担い手となっていた新羅商人たちも、後退を余儀なくされたとみられる。ただ、その勢力の大きさがために、いま上でみたように海賊としてなお活躍し続ける。この張保皐たち以外で、著名な新羅人は前述の慧超(704-87)という僧侶である。かれは、海路インドに向かい、その全域をめぐってから、ペルシア、中央アジア、そして帰途、唐へと大旅行をして、『往五天竺国伝』を著わした。 698年、渤海が高句麗に取って代わって、中国東北部から沿海州、朝鮮北部の地域に成立し、926年まで続く。渤海は日本に727年使節を送ってくるが、それ以後、渤海が遼(916-1125)に滅ぼされる直前の、922年まで渤海使は34回、また810年まで遣渤海使は13回を数える。渤海使の規模はおおむね100人ほどであった。
渤海は国力がつくと、8世紀末から9世紀初頭にかけて、日本へ獣皮、人参、蜂蜜といった特産品、さらに工芸品・珍宝・陶宝器などを持ち込むようになった。日本からは織物のほか、黄金、水銀、漆器などが持ち出された。さらに、渤海は、日本の遣唐使の往来に協力しており、漢詩文など唐文化の橋渡しとなり、歌舞、打毯など独特文化を伝えてきた(鬼頭明成稿「日本海交易と渤海」『東アジア世界と日本』、青木書店、2004参照)。
日本と渤海との交易は公交易と私交易が混在しており、時には密貿易も行われた。使節の公的な献上品、答礼品のほかに使節団員の個人的な文物の交換もあり、872年には市中での売買も許可されるようになった。 ▼鴻臚館交易、朝鮮産や朝鮮経由の宝物▼ 律令国家にあっては、中国や朝鮮から交易船が博多津に入港すると、かれらを7世紀末から11世紀まであった鴻臚館にいわば収容した。かれらには宿舎と食糧が支給されたが、交易が終わると退去させられた。また、交易はその施設に限って認められ、それ以外の場所で独自な交易は行えなかった。その交易は、後述する中国の制度と同じように、718年完成という養老令の関市令により、まず中央・地方官庁による関税の徴収(中国では抽解という)が行われ、そして低価格での積載品の買い上げ(和買あるいは博買という)が行われた。その後で、中央貴族や九州・中国の地方豪族、博多商人との交易が認められた。 しかし、11世紀後半以降、宋代となると、中央政府の力が及ばなくなって鴻臚館がなくなると、宋商人は博多津に居留して交易を行うようになった。それはいま上でみた国家による全面的な管理交易からの大きな転換であった。宋商人の居留規模はかなりのものとなった。例えば、1151年には太宰府の目代たちが居留地に略奪を仕掛け、1600余の宋家から資材を運び去ったという(『石清水文書』5)。 『延喜式』賜蕃客例条には、唐への朝貢品リストが載っている。それによれば、定例品として「銀[500両ほど]、水織あしぎぬ、美濃あしぎぬ、細あしぎぬ、黄あしぎぬ、細屯綿(ほそきのみのわた)」、そして別送品として「綵帛(さいはく)、畳綿(たたみわた)、屯綿、紵布(ちょふ)、望陀布(まぐだのぬの)、木綿(ゆう)、出火水精(しゅっかすいしょう)、瑪瑙(めのう)、出火鉄、海石榴油(つばきあぶら)、甘葛汁(あまずらのしる)、金漆(こしあぶら)」とある。 それらは、卑弥呼が500年前に魏に持ち込んだものに比べれば、種別も多くなり色合いもよくなったが、その多くは雑多な繊維製品である。これについて、東野治之氏は「特別に手間をかけて作られた加工品ではなく、一次産品か単純加工品だったことを示す。これが日本の朝貢品の基本的な性格である。しかしだからといって、日本の朝貢品の評判が低かったわけではない」という(同著『遣唐使船』、p.122、朝日選書、1999)。 この時代、日本は唐の冊封体制に入らず、みずからは小帝国を装ってみるものの、なお日本には貧弱な産品しかなく、それでありながら先進文明・文化を取り込もうとして遣唐使を送り続けたのが、日本の中国との朝貢の基本的な性格となっていた。また、それは二重のハイガイシュギ、すなわち拝外主義と排外主義という、日本外交の基本的な性格でもあった。 東大寺の正倉院はシルクロードの終着駅とされる。そこに保存されているた宝物は、東大寺の大仏に奉納された聖武天皇の遺愛の品々や、人々の病を救済するために奉納された薬物、大仏開眼会に使用された東大寺の什宝などである。その種類は、仏具、武器武具、薬、文書典籍、文房具、楽器楽具、遊戯具、宮中儀式の品、調度品、服飾品、飲食器、工具など多種多様であり、動物の毛皮や角、鳥や玉虫の羽、貝殻や真珠、木や金属、玉石、ガラスなどのさまざまな素材を、当時の最高水準の技法をつかって作り上げられた品々であった。 なかでも、「鳥毛立女屏風」、「螺鈿(らでん)紫檀五弦琵琶」、「木画紫檀棊局」、「紅牙撥鏤(ばちる)尺」、「銀壺」、「銀薫炉」、「漆胡瓶」、「三彩磁鉢」、「白瑠璃碗」などが有名である。象牙、犀角、玳瑁(たいまい)などのインドおよび東南アジア産の素材や、狩猟文、葡萄(ぶどう)唐草文などの西アジアに起源をもつ意匠から、中国唐時代における東西文化交流のありさまをしめす国際性豊かな宝物として、高く評価されている(以上、「正倉院宝物」、MicrosoftEncartaEncyclopedia 2001参照)。 鬼頭明成氏は、正倉院宝物の多くは遣唐使たちが長安から持ち帰った回賜品―それは上にみた西域の産品―であるとみられているが、新羅あるいは渤海において買い求めたものも少なくないとして、次のように述べている。 新羅の産品として舟形をした墨のほか、上記の「鳥毛立女屏風」の下張りである「買新羅物解」という文書には、「佐波利[銅・錫・鉛の合金]の食器類や人参、蜂蜜、松の実、毛乾など新羅製の物産とあしぎぬ・絹・糸・綿など、遣唐使がもたらした物産とが記され、交易品とされていたことをうかがわせる。交易品としては香料・顔料・染料などが、いったん新羅に輸入されたのち、日本に渡ったものが多い。香料には、東アフリカ産の薫陸香、モルッカ諸島の丁香、顔料ではインド産の藤黄や烟子、染料の蘇芳などが含まれ、新羅が世界的規模で中継貿易に携わっていたことを物語っている」。 これに対して、「渤海の場合、毛皮や蜂蜜、人参など朝貢品としての特産物が中心であったが、貴族への贈り物として玳瑁の盃などが含まれ、唐や南海の物産を中継して、日本に持ち込んでいたようすがうかがわれる。新羅との国交が断絶した9世紀以降、渤海の果たす交易上の役割はますます重要になってきた」という(同稿「正倉院からみた世界」前出『東アジア世界と日本』、p.25)。 ▼南宋、中国最初の海洋国家となる▼ 唐が滅亡すると五代十国時代になるが、長江下流には南唐や呉、沿海部には呉越、ビン(門構えに、虫が入る)、南漢などといったミニ海洋国家に分裂する。それら国王は節度使出身者がほとんどであり、きそって国力の充実にはげみ、新興の商人が台頭して人や物の往来が活発となる。そのなかでも、呉越・ビン国は海上交易で栄えたとされる。また、呉越国は山東以南の港に博易務や回易務といった交易所を設け、中原の王朝や日本、高麗向けに青磁を作って輸出した。それがその後における華南商人の日本進出の先駆けとなったとされる。 宋(北宋、960-1127)が建国され、979年には中国を統一する。それより早く、朝鮮半島では918年新羅に替わって高麗が勃興し、インドシナ半島では雲南に937年大理が建国され、また939年ベトナムが独立して大越が興こる。北宋は、中央集権的な文官支配システムを完成させ、その後の中国統治の原型となった。そのもとにあっても社会規制は大幅に緩和され、経済発展は目覚ましいものがあった。 宋の文治主義は官僚の増加や行政の複雑化をもたらし、また軍事力の弱体は周辺民族からの圧迫をいっそうまねいたという。12世紀初めツングース系の女真族が台頭し、金(1115-1234)が建国すると華北を圧迫するようになり、北宋は滅亡に至る。1127年、江南に逃れた宋の皇族が、長江流域にあって水陸交通の要衝に位置する臨安(現、杭州)に都をおいて、南宋(1127-1279)を建てることとなる。この南宋は金と和議を結んで、淮河を境界とさだめ、金に臣下の礼をとるという、いわば半従属国に落ち込んでしまった。 宋にとって、東北地方は遼、そして金に支配され、また西北地方したがって陸のシルクロードは西夏に押さえられたため、その勢力をますます南に広げることを余儀なくされる。その経済は華北を失ったことで一時停滞するが、すでに江南や南東海岸においては人口が爆発し、それをまかなえるだけの経済開発が進んでいた。そのもとで、海上交易品となる生糸・絹、陶磁器、銅鉄器、什器、漆器、書籍は、内陸部に依存することなく、十分に供給されるようになっていた。そして、宋代の支配者や商人たちは華美となり、いままでになく海外から贅沢品を需要するようになった。 宋代の最大の変化は、唐代に比べ、商業の発達であったとされるが、その一環として海上交易も商人が自由に行えるようになり、中国をめぐる海上交易は急成長を遂げることとなった。 これについて、伊原弘氏は「宋代は船の時代だった。内陸部の河川を多くの船が往来し、海へもでていった。宋船は中国の内と外を自由に走りまわった。その足跡が東アジア全域に及び、かってのローマ人が地中海を内海と化したのに似て、大陸にそった海は中国人たちのものと化したのだった。日本海から中国沿海岸まで、そして東南アジアにいたるルートは、とくに、南宋の経済は海に拠ったから、その活動の場はいっそう拡大し、史上最初の海上帝国と呼び、当時を最初の大航海時代と呼ぶものすらいる」という(伊原弘・梅村坦著『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』、p.200、中央公論社、1997)。しかし、どのような海上帝国であるかは、それほど明らかではない。 宋代における華南の商工業の発展に裏付けられて、唐代に形成された東アジア海上交易圏に、中国人交易人がようやく本格的に登場することとなった。それは単なる参入ではなく、後述するように、絹製品だけでなく陶磁器という新しい贅沢品を、大型ジャンク船に積み込んでの参入であった。これはアジア海上交易に画期をもたらしたといえる。
宋代、商工業に対する統制がいままでになく緩くなったため、商人は自由な雰囲気のもとで、行・作とよばれる組合を組織、経済は活況を呈し、開封や臨安は人口100万をこえる大都市となった。海上交易にあっても、管理交易のもとでありながらも、私交易が自由に行えるようになり、それがいままでになく盛んになった。それは中世中国における商業革命といえよう。 宋代における商工業の発展は技術革新に裏付けられていた。そのなかでも、製紙・火薬・羅針盤―これらは近世ヨーロッパの世界制覇の手段となる―は中国の三大発明としては有名であるが、それに以外にも多くの発明と発見が行われた。その1つが大型ジャンクの建造であろう。それは、荒波を乗り切ってゆけるV字型の船底と、隔璧で区切られた船倉をもった海洋船であった。 南海交易とともに、江南の運河を利用した内陸水運をも盛んになり、遠隔地に輸送する大量の貨物を積んだ河船が往来して、沿海部と内陸部の相互依存が強まった。南宋の首都臨安の人口は北宋の開封をはるかに越え、124万人に達した。城内には店舗が櫛比し、河辺には多くの倉庫が立ち並ぶようになり、商業は急速に発展していった。これにともなって銅銭の年間鋳造量も多くなり、唐のピ−クの32万貫から、北宋時代すでに180万貫に達した。なお、北宋の首都開封の賑わいのほどは、著名な張択端(1085?-1145)作の「清明上河図」(1110年頃)に示されている。 なお、山形欣哉氏は、「清明上河図」に描かれた港頭の風物について、克明な絵解きを行ってくれている(同著『歴史の海を走る―中国造船技術の航跡』、農山漁村文化協会、2004)。 宋代になると、その交易相手国は後述するように50か国にも達した。広州(広東)は、古代から東南アジアやアラビア向けに活発な交易活動を行ってきた海港であったが、北宋時代には中国の海上交易額の実に90パーセントをも占めるまでになる。南宋時代になると、広州に替わって、泉州が栄えるようになる。それに対して朝鮮や日本向けの交易起点は明州にあった。8世紀半ば、日本と新羅とのあいだが険悪となると、遣唐使は南路をたどるようになり、742年はじめて明州を訪れる。また、明州の船大工が9世紀半ば、日本の松浦に来たという。 亀井明徳氏によれば、唐・新羅商人の日本への来航記録は唐代819年の24件、北宋代46件残されている。これら「来航商人の発港地をみるとき、明州発港の頻度が他のいずれの港よりも圧倒的に多い。……この港に集積する文物[わけても陶磁器]がわが国、すなわち博多津に直線的に入ってきた……呉越の地とわが国との結びつきがさらに強固であったことがわかる」という(同稿「唐代陶磁貿易の展開と商人」前出『アジアのなかの日本史3 海上の道』、p.119、東京大学出版会、1992)。 宋代の船舶運送業は、淅江、福建、江南、湖南北に集中している。それらの都市の特徴について、斯波義信氏は「まず両淅では、江南デルタおよび流域諸州の造船はたしかに技術的に進歩し、また運船業者[船舶運送業者のこと、以下同じ]の専業化も進んでいたに相違ないが、造船資材の産業立地からすれば、むしろ明州、温州が好条件を備え、造船規模でもすぐれていた。温州は処州産の良質の杉材や漆、桐油・柏油の集荷地、搬出港であり……明州には福建舶載の生鉄の加工業があり、また温明州とも淅江有数の外港であるため、広南・福建や日本の海洋船による船材の輸入も可能であった」と述べている(同著『宋代商業史の研究』、p.31、風間書房、1968)。 仁宗の治世(1022-63)、温州、明州、台州の三州には、船幅1丈(3メートル)以上の船が3,833隻、1丈以下の船が15,454隻、合計19,287隻が登記されていたという(斯波商業史、p.74)。これら船舶の平均乗組員数を10人としても、それに要する船夫数は実に20万人にもなり、労働力人口(?)に占める比率は10数パーセントに及ぶとする(斯波商業史、p.103)。
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