ホームページへ

目次に戻る

続 2・2・4 東アジア世界、宋代までの海上交易
(Sequel) 2.2.4 East Asian World, Maritime Trade up to Song Dynasty

▼宋・元代運船業の経営形態▼
 斯波義信氏は、運船業の経営形態について、「宋代では、交通用役の自己生産に止らず、その
商品生産化もある程度達成され、経営の形態も相応に分化発達しているのである。すなわち、船
舶所有者の自己経営と称しても、単純原初的な自船自売に止らず、使用人(雇船長)による間接経
営も行なわれ、同時に他人(荷主)の委託を受けて行なう貨物の売買や、運送契約に基づく貨客の
輸送=雇載、攬載が発達し、さらには運送手段を所有せぬ者が他人の船舶を占有貸借[ママ]して
行なう運送業、または船、人ぐるみの傭船等も行なわれ、これに伴って船舶の租賃、運送の契約、
傭船、集荷、販売等を仲介周旋する船問屋=船行等の慣行が新たに一般化してきた」と結論づけ
ている(斯波商業史、p.108)。
 これは近世に見る海運業の経営形態に何ら変わるところがない。多くのことが一口にまとめて
記述されすぎている。それを、船舶の「所有及び経営の観点から」といって、(1)船主自営、(2)賃
借、(3)傭船に整理するが、その説明は簡明ではない。それに逐一関わらないが、それらは(1)
は自己所有船でもって、貨物を輸送するという、経営形態である。(2)は他人の所有する船舶を
賃借・占有して、貨物を輸送するという、経営形態である。それに対して、(3)は一部または全部
を借りた船に、借りた人が貨物を積んで輸送させるという、輸送形態である。
 (1)において注目されているのは、まずその船主のありようである。船主の身分階層は、「商人
に限らず、皇族、文武官僚、僧道寺観、荘園所有者、有官無官の土豪、富農、一般農民、零細漁
民、水上生活者などの諸階層、諸身分に及んで」いたとする。そのうち、「皇族、官僚、寺観、茶塩商
人等には、彼等の所有船に対する官府の不時の徴傭=差借の免除、通航中の諸般の課税=商
税、力勝銭、頭子銭の免除を受げる政治的特権が与えられていた」(斯波商業史、p.109)。
 それに次ぐ有力な船主は富裕な商人たちである。その実例をいくつか挙げる。例えば、「……
建渓人で主舶大商の毛旭は屡々ジャワに貿易し、泉州の僧本称の兄は海賈となって三仏斉に貿
易し、泉州の海商劭保は慶暦中、私財を投じて人を集め、占城に航して海賊を捕え、福州の商人
林振は南蕃より香薬を購入して帰航したが、真珠の隠税を摘発され……」とある(斯波商業史、p.
110)。それ以外の多数を占める中小船主は田畑や妻子を売って船を持ったとする。
 この(1)船主自営の「交通用役を自己生産する船主の直接経営には、一方において投機的な
富商、海商や商人組合の経営があり、他方において中小資産階層の農民の兼業的経営や水上
生活者、農村離脱者の窮迫的な零細経営が広汎に存在した」とまとめられている(斯波商業史、
p.112)。(2)賃借、すなわち船舶の賃貸借はすでに唐代に始まり、耕地や店舗などとともに「賃船」
として、富豪の利殖対象となっていたとされる。
 運船業をめぐって、その「自然的、社会的危険の存在や市場関係の複雑な在り方」から、金銭
の貸し借りや資金を出し合っての経営形態が萌芽したという。まず、「泉州晉江県人林昭慶は郷
里の数人の仲間と共に海商組合を作り、財産を組合で共有管理しつつ、共に乗船して福建、広
南、山東方面に貿易航海した。また、かような永続的な合資企業に至らぬまでも、高麗、日本、海
南島、南海諸国に貿易する海商および船夫は、航海毎に当座的な合資組合を結成し(同伴、火
伴、夥伴)、同一船に乗込んで貿易し、利潤の分配を共同にし、航海中の刑罰や財産処分等の権
限を『綱首』ないし『主舶大賈』に一任した」という例があるという(斯波商業史、p.110-1)。綱首
は、船主船長あるいは船団長をさす。
 コンメンダ(持分出資)について『通制条格』巻18にある例から、富豪や大商人、富農が「業主」
「財主」「財東」と呼ばれる貸主(コンメンダトール)となって、海商や綱首に貨幣や商品を委託し
た。海商や綱首たちはが「行銭」「幹人」「経紀人」「経商」と呼ばれる借主(トラクタトール)である。
また、ある検案として示された、「海商甲乙丙丁4人が金、銀、塩袋、度諜等の資本を持ち寄って、
当座的な組合を作って『合本』し、主家[業主のこと]の貿易船に便乗して、沈香、胡椒、象牙等の
物資を購入して帰航した後、主家に返納した残りの上件の貨物を組合員4人の持分出資の比率
によって按分して配当した」という例を紹介し、この場合「4人の海商仲間で『合手組合』を作ると
共に、陸上の船主との間にも『出資』と『経営』のコンメンダ関係、つまり借主貸主双方が出資する
『ソキエタス・マリス』が成立している」とする(以上、斯波商業史、p.117-8)。
 この宋代に発生したみられる中国人のコンメンダ関係は、イスラーム教徒の商人が持ち込んだ
とされる。イスラーム教徒の商人が中国人の海上交易制度に影響か与えたと思われるが、その程
度のほどは不明である。
▼官府による民船の傭船、傭船に伴う実務▼
 (3)傭船は、まず「船も人ぐるみの被傭である」と説明され、「史料的には『和顧』と称する官府
の漕運組織への民船の被傭において頻出する」という。「宋初では、国家の漕運は官船官人によ
る用役[運送サービス]の自己生産、自給自足を第一主義としていたが、やがて民船との競合に
おいて、官船自運は船舶の利用において非能率的であることが自覚され、傭船方式(和顧)が広汎
に採用される」ようになったとされる。その史料はないとはいえ、民人による民船の被傭も、大い
に見られたことであろう。
 官府の和顧に当たって、官府と船主とのあいだで運送契約が取り結ばれる。それは、「一応船
行、牙人を仲介者として官、民と三者合議でとりきめる建前であったが、事実は運賃が官府の手で
独占的に低く押えられたり、水難や被害に対する賠償規定が厳重であったり、強制的に徴傭され
る等の理由で、一般運船業者や船舶所有者には規避[ママ]する傾向もあった。しかし、和顧では
定額の運賃収入以外の各種の特権、つまり定量の私貨運送の容認や、報酬としての官号の授与
等があり、独占的に企業が営めるため、土豪や流動資本を有する客商(有子本客人)らの間では
……和顧に魅力を感じて被傭に応ずる者が多くなった」という(以上、斯波商業史、p.115)。官府
の傭船における私貨搭載の許容率は、北宋末、南宋初には大幅に緩和されて1-2割となるが、
ただ海舶ついてはそれが大きく、4割にも及んだという。
 和顧船の運賃(傭船料)は「雇銭」とか「水脚」とか「脚価」と呼ばれ、一定の貨物の量または一
定の移動距離について基本料金が示され、それらを乗除して計算された。「運賃および傭船料は
率ね[おおむね]一時払いを避け、手附払として幾割か[ある客船では7割]を前渡しした上、貨客
の到着後に残額を支払い、万一起こり得る損失や事故に備える慣行があった」という。さらに、民
間にあっては「運船業者自体の社会的信用度が低く、積荷や船客の安全が屡々保証されず、運
賃に関する紛争や抜荷等の悪習が存在していた」ことを考慮して、「貨客輸送の契約関係を明文
化し、損失保証を規定した『雇船契』は、宋元時代にすでに一定の型式を整える程に発達し、この
祖型がほぼそのまま明清時代に受け継がれていった」とされる(以上、斯波商業史、p.123-4)。
 元代の書式の文言は、「(1)船戸某が船牙某の保証斡旋の下に顧客某の貨物を基地まで輸送
することを請負ったこと、(2)船戸、船牙、顧客三者合議の下に運賃を定め、前払幾貫、着荷後支
払うべき残額幾貫を明記し、(3)輸送の保証文言と損害賠償義務を明示し、(4)契約年月日と船
戸、船牙の署名捺印を以て完結している」(斯波商業史、p.125)。
 そうした雇船契約を結ぶに当たっては、「船行」「船牙」が保証人となっているが、それは「顧客
と運船業者とを周旋仲介する船行の存在を望ましいもの、不可闕[欠]のものとしたに相違ない。
運船業者にとって、充分に運送効率を挙げられるような集荷や顧客の確保や、また運送貨物の
販売は、船行に隷属し又は依存することによって解決し、荷主にとっては船行の介在によって運
輸の目的を達すると共に、輸送の保証も得られるからである」(斯波商業史、p.127)。
 官府に被傭される船の乗組員には、ある海舶の例では「船主に日給銭250、米2升5合、梢工に
日給銭150、米2升5合、招頭、碇手、水手に日給銭100、米2升5合」、そして犒設銭が支給され
る。船主には日給や食糧のほかに修船銭が支給されるが、艤装費は船主負担であった。内河船
であっても、「官府は傭船に対して、その工銭[賃金のこと]を一括して船梢や船戸に給するが、そ
の際2割ないし3割の金額を前金として先払いし、残額は運送の保証として留保して到着後に皆済
する慣行であった」という。さらに、「工銭は直軽雇主から船夫に手渡されるよりは、船梢を通じて
給されるようであるから、船夫の地位は極めて不安定であったに相違ない」とされる(以上、斯波
商業史、p.105-6)。ここでいう工銭や食費は、みかけの工賃算定基準額であって、支払賃金額で
はなかった。
▼海上交易を管理する市舶司と役得▼
 宋代、海上交易がますます盛んになるもとで、海上交易を管理する市舶司が置かれ、市舶条
例に基づいた管理された。その長官は宋初め市舶使といわれたが、11世紀に入ると提挙市舶と
呼ばれる、専任の長官となった。市舶使の起源は唐代にあり、714年広州にだけに市舶使とか押
蕃舶使という名で置かれた。また、次の元代においても市舶提挙使という名で、泉州、慶元、広
州の3港におかれ、明代にも広州、泉州、明州に引続き、配置された。
 北宋は、呉越国の博易務や回易務を、市舶司に組み替える。まず、南漢平定直後の971年広
州に市舶使を復活させ、989年杭州、990年明州に市舶司が置かれる。そして、それが温州、秀
州、密州、泉州に広がる。なお、泉州への市舶司設置は、北宋末期の1087年であった。
 五代、宋代における市舶司の職掌は、次のようなものであった。それは交易管理権限を一手に
掌握する内容となっているが、それらのうち専売品の買い上げと販売、関税の徴収、密輸の監
視、中国船への出航許可証の交付が重要であろう。これら管海業務は他のシルクロ−ド海港と
同じである。この市舶司は明朝中期の1551年まで続く。なお市舶司はカントン・システムともいわ
れた。
 1 入港貿易船と積荷の臨検と輸入税の徴収、税率はだいたい10分の1。
 2 専売品及び有利な貨物の収買、保管、出売など。
 3 貿易船の出港許可証の下付。
 4 舶載貨物の販売許可証の下付。
 5 銅銭流出の取締り。
 6 外国人および外国船の招来と送迎。
 7 官吏の不法行為の防止。
 8 漂着船と居留外人に関する規程。(長沢前出、p.111)
 宋代、その肥大化した官僚組織を維持するには、税収を上げるしかなかったが、その役割を市
舶司が担うこととなった。それについて斯波義信氏は次のように要約してくれている。
 「市舶の直接の収益は、関税(抽分・抽解)、これにつづく強制買上げ(博買・抽買・和買)、およ
び指定専売品の買取りと売り出しから生じ、都の権貨務が蓄えた舶来品を売りり出すときの収益
も加わる。以上の徴収のあと、入港船の商人はその港や内地で残りの商品を売れるが、これに
は移動ごとに入市税と通過税がかかる。
 北宋では、抽解のときに貨物を貴重品(細色)と嵩ばる安い品(租色)に分け、前者10%、後者7%
と定めた。南宋初40%を課して入津が減ったので、細色20%、租色13%、抽買を40-60%とした。入
津がまた減ると、高麗と日本船の抽解を、綱首(船商団の長)、雑事(事務長)5%、その他船商
7%、両国船以外では一律に10%、博買はやめるとした」という(斯波港市論、p.24)。
 南宋13世紀前半には、「抽分・和買によって、すでに舶載商品の15分の7が徴収され、客旅に
返還される舶貨は15分の8にすぎないから、全体の約5分の2が徴取されたことになる。そこで客
旅は法禁を犯し、抽買を免れる方策をとる」に至った(佐藤圭四郎著『イスラーム商業史の研
究』、p.346、同朋舎、1981)。
 また、市舶司の管理交易の眼目は、公憑と呼ばれる出港許可証あるいは査証の発給であっ
た。中国船が海外に渡航する際、日本や高麗向けの船は明州、南海向けの船は広州において、
公憑を受領することになっていた。それは、旅行者および従者の氏名および族籍、携帯する貨幣
および商品の品目や量などが、記載された文書であった。それによって、交易の規模や乗組員
の構成などを知ることができる。それを取得するには手数料が現物で徴収された。
 その例を示すと、泉州人綱首李充は、1105年6月明州の市舶司から公憑を発給され、同年8月
博多津志賀島に入っている。彼は「自己船1隻をもって、水手を請集し、日本国に往きて、廻貨
(自己の商品を販売し、日本から商品を買入れる)しようとし、明州市舶務で抽解、すなわち市舶
司が一定比率によって船貨の一部を抽取し、無償で現物徴収し、公憑の発給を受けた。この船
には、綱首李充、梢工林養、雑事荘梅、部領兵弟の4名の上級船員の下に、水手は3甲(甲は
組、班の意か)に分かれ、計66人、したがってこの船の全乗員は70名である。公憑には、これ以
下……積載物貨の他に、船に備える品物と商賈人が厳守すべき注意事項が掲げられている」
(亀井前同、p.129)。
 なお、榎本渉稿「宋代市舶司貿易にたずさわる人々」(『港町の世界史』3、青木書店、2006)は、
市舶司が管理する交易に伴う関係者の活動とそれをめぐる金銭関係について、詳細にまとめて
いる。
▼定住蕃商・蒲壽庚、提挙市舶に昇る▼
 市舶司を頂点とする役人が、それぞれの港において海上交易を取り仕切っていたが、彼らがど
のようにして役得をえているかについて、桑原隲蔵氏は次のようにまとめている。その機会は商
品が積み卸し、横持ちされるたびに発生した。それはまさに役人の天国である。
 「唐時代から、外國の商舶が支那沿海の埠頭へ入港すると、所定の下碇税と稱する關税を納
めるは勿論、別に皇室へ舶來の珍異を獻上する。これを進奉といふ。皇室獻上の進奉以外に、
地方の關係官吏にも相當の心附が行き屆く。即ち呈樣とて、蕃商[外国人商人]が新たに輸入す
る物貨の一部を、見本といふ名義の下に、地方官憲に送呈するのである。
 また禁制品や逋税を取締る爲に、官憲がその輸入物貨を檢閲する。之を閲貨とも閲實ともい
ふ。閲貨を經ねば一切物貨を販賣することが出來ぬ。檢閲後に―多分蕃商等の主催で―慰勞
の宴會が開かれる。この時にも臨閲の官吏に尠からざる贈遺がある。
 蕃商の滯留中に、支那の官憲は自然之と往來交際するが、かかる場合には蕃商から種々心
附があり、又時には蕃商の本國から附屆などもあつた。
 これらはむしろ公然の役徳と申すべきものである。甚しき者は蕃商輸入の物貨を無理に廉價に買ひ受け、之を販賣して私利を營む。蕃商の物貨を強請してその怨を買ひ、命を落した官吏さへあった」(出所:同稿「蒲壽庚の事蹟」1923、所収:同著、宮崎市定解説『蒲壽庚の事蹟』、p.213-4、平凡社東洋文庫509、1996)。
 唐末期に登場し、宋代に発達したとされる中国の海上交易人の出自や経営状況について、知識に乏しい。そのなかにあって、桑原隲藏氏は中国における西アジア人商人の居留地と居留民の活躍を書き残している。
 中国では、外国交易船は市舶あるい互市舶と呼ばれ、外国人商人は蕃商と呼ばれた。彼らは、中国での交易が終わればおおむね帰国するが、海港に定住あるいは永住するものも出てきた。彼らは蕃坊と呼ばれる居留地に居住した。彼らの交易と居留を取り締まるため、蕃長司という役所が設けられた。その長として蕃長が、居留民の実力者のなかから、中国によって任命された。
 「宋時代には、支那政府は概して蕃客の通商を奬勵した。自然在留蕃商を優遇して、たとひ彼等に多少の犯則非法の行爲があつても、大抵は不問に看過した」という。こうした
居留地管理は他のシルクロ−ド海港においてみられたものと同じであるが、中国にあっては彼ら
の出資によつて城普請を行ったり、警備艦を作つたりすることがあった。
 これら定住蕃商のなかにあって特記されるのが、13世紀後半宋元交代期、泉州で活躍した蒲
寿庚(ほじゅうこう)であった。彼は土生蕃商と呼ばれた、定住蕃商が中国で生んだ子であり、ア
ラブ人またはペルシア人でイスラーム教徒であった。
 「蒲壽庚の一家は、その父蒲開宗の時代に、廣州から泉州に移住したが、最初の間は左程豐
かな生活を營んだものと想像出來ぬ。所が蒲壽庚の時代に南海名物の海賊が、泉州を襲うて掠
奪をやったことがある。大膽なる蒲壽庚はその兄の蒲壽と協力し、支那官憲を助けて見事にこの
海賊を撃退した。これが彼の出世の端緒で、宋の朝廷に登庸されて、遂に泉州の提擧市舶とな
つた」。なお、海賊撃退の時期や提挙市舶の期間については、議論がある。
 彼は、「30年も長く提擧市舶の位置を占め、時に或は自分の手で海外通商を營んだかとも疑は
るる蒲壽庚の富有は設想するに難くない。……南宋の末には福建按撫沿海都制置使に昇進し
て、尚ほ提擧市舶をも兼ねた」。その後、宋が衰え、元軍が南下すると、「海上通商のことを管理
して、海事に關する智識も邃く、且つ自身に多數の海舶を自由にすることの出來る蒲壽庚が元に
降つて、その東南征伐に助力した」。この華南征討の協力によって、宋はその滅亡を早めた。元
はその功績を認め、彼を福建行省の中書左丞(正二品)に任命したという。
 蒲壽庚一族は富裕を極め、「元朝に忠勤を抽でて重用されたのみならず、彼の一族は元一代
を通じて福建地方に大なる勢力を振つた。同時に隨分世間から嫌忌された樣である」とされる
(以上、桑原前同)。これが居留民に与えられた役回りと限界であったといえる。
 この蒲壽庚の活躍にはどのような意味合いがあるのか。唐末の混乱期、西アジア人商人は中
国からおおむね撤退した。しかし、宋代になって、中国を起点とした海上交易が隆盛を極めるよ
うになる。そのもとで、すでに定住していた蕃商、そして中国船に便乗して来訪した蕃商に、再び
活躍の場が与えられた。彼らは中国の海上交易に食い入り、また中国も彼らに依存したことを示
そう。そのことは中国人商人が宋代末になっても、なお未発達であったことを示すかのようであ
る。
宋代、中国船の南海進出と交易情報▼
 唐代、Webページ【2・2・3 東南アジア交易圏の成立と海峡部の交易】でみたように、義浄(635-
 これら定住蕃商のなかにあって特記されるのが、13世紀後半宋元交代期、泉州で活躍した蒲
寿庚(ほじゅうこう)であった。彼は土生蕃商と呼ばれた、定住蕃商が中国で生んだ子であり、ア
ラブ人またはペルシア人でイスラーム教徒であった。
 「蒲壽庚の一家は、その父蒲開宗の時代に、廣州から泉州に移住したが、最初の間は左程豐
かな生活を營んだものと想像出來ぬ。所が蒲壽庚の時代に南海名物の海賊が、泉州を襲うて掠
奪をやったことがある。大膽なる蒲壽庚はその兄の蒲壽と協力し、支那官憲を助けて見事にこの
海賊を撃退した。これが彼の出世の端緒で、宋の朝廷に登庸されて、遂に泉州の提擧市舶とな
つた」。なお、海賊撃退の時期や提挙市舶の期間については、議論がある。
 彼は、「30年も長く提擧市舶の位置を占め、時に或は自分の手で海外通商を營んだかとも疑は
るる蒲壽庚の富有は設想するに難くない。……南宋の末には福建按撫沿海都制置使に昇進し
て、尚ほ提擧市舶をも兼ねた」。その後、宋が衰え、元軍が南下すると、「海上通商のことを管理
して、海事に關する智識も邃く、且つ自身に多數の海舶を自由にすることの出來る蒲壽庚が元に
降つて、その東南征伐に助力した」。この華南征討の協力によって、宋はその滅亡を早めた。元
はその功績を認め、彼を福建行省の中書左丞(正二品)に任命したという。
 蒲壽庚一族は富裕を極め、「元朝に忠勤を抽でて重用されたのみならず、彼の一族は元一代
を通じて福建地方に大なる勢力を振つた。同時に隨分世間から嫌忌された樣である」とされる
(以上、桑原前同)。これが居留民に与えられた役回りと限界であったといえる。
 この蒲壽庚の活躍にはどのような意味合いがあるのか。唐末の混乱期、西アジア人商人は中
国からおおむね撤退した。しかし、宋代になって、中国を起点とした海上交易が隆盛を極めるよ
うになる。そのもとで、すでに定住していた蕃商、そして中国船に便乗して来訪した蕃商に、再び
活躍の場が与えられた。彼らは中国の海上交易に食い入り、また中国も彼らに依存したことを示
そう。そのことは中国人商人が宋代末になっても、なお未発達であったことを示すかのようであ
713)をはじめとした入竺僧が南海航路を利用して往来し、記録を残している。宋代になると、中
国人商人の船が直接、南海交易に乗りだす。まずマラッカ海峡に入り、次いでインド南端を回り、
南インドに出向くようになると、南海交易をめぐる情報が、いままでになく中国人によって提供され
るようになる。そのなかでも、桂林の通判(地方官)であった周去非の『嶺外代答』(1178)や、泉
州の提挙市舶であった超汝道の『諸蕃志』(1225)などがあり、東南アジア諸国、インド、西南アジ
ア、アフリカ東岸の諸国の航路、各国の情勢、特産品などを詳しく伝えている。
 長沢和俊氏は、『嶺外代答』において注目されるのは大食国までの寄港地とその航程が示さ
れ、その往復に2年間かかるとされていること、また「宋代になると、初めて中国の文献にも広州
の船とか泉州の船とかが出てくる。そして、南インドのクイロンでアラビア船(おそらくダウ船)に乗
り換えて、イスラム諸国へ向っていることである。唐代には広東までアラビア船がやって来たが、
またマスーディの『黄金の牧場』では、マレー半島西岸のカラフ[ガタ]までアラビア船が来たという
記録があったが、11世紀になると、南インドのクイロンまで、中国船が進出していたことが分る」
点にあるとしている(長沢前同、p.114)。
 『諸蕃志』は『嶺外代答』などを参考にし、さらに自らの見聞を盛り込んだ、宋代の貴重な交易
史料とされる。それが取り上げている南海諸国は実に48か国に及び、倭国、新羅国、流求国も
含まれいる。それが宋代中国の海上交易相手国であったかにみえる。それら諸国の扱い商品は
詳細であるだけでなく、合理的に区分されている。なお、この『諸蕃志』については、すでに同じく
Webページ【2・2・3 東南アジア交易圏の成立と海峡部の交易】において取り上げている。
 一例を示せば、三仏斉国(スマトラ島パレンバン)の扱い商品は、(1)その地方の産物として、
東南アジア産の玳瑁、脳子、暫香、丁香、真珠などである。(2)西アジア特産は乳香、薔薇水、梔
子花、膃肭臍(おんないせい)、没薬、象牙、珊瑚樹、猫目石、琥珀などであり、それらは大食諸
番が産するもので、イスラーム商人が各地で買い集めたものが、ここに集まっているとしている。
 さらに重要なことは、イスラーム商人である蕃商は「金、銀、甕器(磁器)、絹、錦、綾、砂糖、
鉄、酒、米、乾良薑、大黄、樟脳等の物を用いて博易(商売)す」とある。それにつけて、長沢和
俊氏は「つまり、イスラム商人は東南アジアで香料を買うときに、中国で購入した磁器を貨幣の代
りに使ったようである。現在東南アジアやインドの各地から出土する陶磁は、いわば貨幣がわり
に使用したもので、それ故にまた中国の陶磁が、東南アジア、インド、西アジアの各地から出土し
ている」と解説する(長沢前同、p.120)。
 一般的な宋と周辺諸国との交易品の状況は、次の通りであろう。
宋と周辺諸国との交易品
宋朝の輸入:
  南海の香料、象牙、熱帯性植物、真珠、玳瑁、木綿、金
  日本の木材、硫黄、金、真珠、水銀、螺鈿
  北西諸族の真珠、毛皮、馬、羊、駱駝、銀、薬材
  西南諸族の馬、宝石
宋朝の輸出:
  南海へは、銅銭、銀、穀物、奢侈的織物、文具、磁器、木材、書籍
  日本へは、銅銭、奢侈的織物、香料、書画、文具、磁器
  北西諸族へは、茶、香料、熱帯性植物、果実、蔗糖、奢侈的織物、磁器、書籍、文具、薬材、銅銭、銀
  西南諸族へは、塩、書籍、奢侈的織物
出所:斯波義信著『宋代商業史の研究』、p.31、風間書房、1968。
▼宋代、シルクロ−ドからセラミックロ−ドへ▼
 中国産の交易品は、唐代後期、9-10世紀になって陶磁器が登場したことで、決定的な変化を
みせる。それは、主として浙江省の越州窯青磁、湖南省の長沙窯および河北省の荊州窯様式の
白磁(それ以外に広東地方の粗製青磁)であった。これら3種の陶磁器は初期交易陶磁器といわ
れる。それらは海のシルクロードを通じて、日本など東アジアはもとよりとして、東南アジア、イン
ド、スリランカ、西アジア、エジプト、そして地中海にまで広がった。
 それぞれの産地の陶磁器は、重くて壊れやすいため、最寄りの海港から積み出された。初期交易陶磁器のうち、明州から積み出された越州窯青磁が多数出土しているが、それは生産量の多さと水運の利便さに基づいていた。陶磁器が、どのように輸送されたかはそれほど明らかではないが、それが底荷として利用されるようになるにつれて、その積載量は多くなったとみられる。すでにみた1105年博多に入った泉州船(綱首李充)は椀4000、皿2000とみられている。また、1976年に発見された新安沖埋没船から引き揚げられた陶磁器は22000点であったが、積まれていた全量は3-5万点とみられている。
 かなり時代は下るが、福建省泉州から積み出される陶磁器について、マルコ・ポーロは次のように述べている。この地方には「大小さまざまな瓷器製の容器が製造されている。そのできばえのみごとさは想像を絶するものがある。これらの瓷器はこの町以外ではどこでも製造されない。したがって、ここの製品が全世界に頒布するのである。もっとも当地では、それが多量に焼造されるから値段も安い。廉価だといったら全くそのとおりで、ヴェニス貨幣1グロッソも出せは、おもいも及ばないほど美しい瓷器が
越州窯青磁双耳壺
東京国立博物館蔵
3個も入手できるほどである」(その後、原料と製法の説明が続く)(同著、愛宕松男注訳『東方見
聞録』2、p.115-6、平凡社東洋文庫183、1971)。
 宋代は、中国陶磁史において、もっとも偉大な時代である。個性的な窯業地が国内にさらに広
がり、すぐれた陶磁器が生み出されていった。そのなかでも、白磁は河北省の定窯と江西省の
景徳鎮窯で生産され、もっとも評価の高い焼き物となった。青磁では、河南省の汝窯、鈞窯、陝
西省の耀州窯、浙江省の竜泉窯などが、それぞれ特色ある製品を生みだした。
 他方、宋代、さらに元代における最大の輸入品は、香料薬品であった。朝貢交易による香料薬
品の輸入数量が示された資料が、山田憲太郎著『香料の道』(中公新書、1977)に示されてい
る。
 それらは、交趾(安南)、占城(南ベトナム)、閣婆(ジャワ)、渤泥(北ボルネオのブルネイ)、蒲
端(ビルマ)、三仏斉(スマトラのシェリヴィジャヤ)、天竺(インド)、注輦(インド、コロマンデルのチ
ェーラ)、大食(イスラム)から輸入されている。多数の品目のうち、乳香は頻度、数量ともにもっと
も多く、烏里香は頻度は少ないが多量である、それらに次いで檀香、胡椒が少なくない量となって
いる。それ以外に、沈香、黄熟・速暫香、桟香、竜脳、丁香が記載されいる。
 これらは朝貢交易品にすぎない。そこで、山田憲太郎氏は「南宋代には、香料薬品の輸入が北
宋代とくらべて格段の増加を示し、その多くは私的貿易であったと、私は考えたい」という。なお、
中国人にとって重要なの香料は沈香であって、西アジアのように乳香ではなかったという(以上、
山田前同、p.171-5)。▼日宋の私交が旺盛、日本船、銅銭を密貿易▼
 遣唐使の停止、唐の滅亡後も、日本と中国との交流は、新羅や渤海の商人との私交易として
続く。しかし、それらの国々も滅亡する。宋が、中国を再統一すると、宋の商人が頻繁に博多に
来航するようになる。従来通り、大宰府が宋の商船との交易を管理していたが、荘園領主の勢力
増大にともない、九州沿岸の荘園の港にも宋の商船がはいるようになり、私交易が盛んになる。
それは建前からすれば密貿易であった。
 この日宋交易のうまみを平家も見逃さなかった。平忠盛(1096-1153)は播磨守や備前守をして
いるとき、院宣(命令書)を偽造までして、宋船を自分の支配地に呼び込んでいる。また、その子
清盛(1118-81)は大輪田泊(神戸港の一部)を修築し、音戸ノ瀬戸を拓いて航行を容易にし、宋
の商船を大阪湾に引き入れることとした。それにともない、宋との交易を盛んになり、日本の商船
も宋に渡るようになる。13世紀後半に宋が元に滅ぼされるまで、日本と宋の間で商人による活発
な交易が展開された。
 この日宋交易で、「日本は金、硫黄(いおう)、刀剣、漆器(しっき)、漆などを輸出し、宋から織
物、書籍、経典、香料、陶器、銅銭などを輸入した。こうした両国の交流は、日本の社会・経済・
文化の諸方面に大きな影響をあたえた。とくに禅僧の交流にともなって禅宗が流布し、宋銭の大
量輸入によって日本の貨幣経済が進展した」という(「日宋交易」Microsoft EncartaEncyclopedia
 2001参照)。なお、宋元代、日本人僧は数百人が渡海したとされる。
 斯波義信氏によれば、南宋の明州に対する「日本からの輸入品は沙金、水銀、銅、硫黄、錦、
絹、麻布、刀剣、扇子、木材、高麗からは金銀器、銅器、人参、毛皮、紵布、花紋席がおもであ
った」。それ以外に、日本から羅木や周防の松杉が輸入され、建材となった。日本船は、明州か
らほぼもっぱら宋銭―この銅銭は日本で本格的な通貨となった―を積み取ったとする。この明州
にはかなりの数の倭人が住みついていたという。
 南宋の広東転連判官として東南海岸の密貿易を取り締っていた包恢は、1360年代日本から来
航する倭船(日本船か中国船は不明)について、「船高、船幅、船長が大きく、100名も乗せる倭船
が毎年40-50隻、板木や螺頭、硫黄を積んで明州に入り、もっぱら銅銭に替えて帰る。このバー
ター取引きの回貨の目玉である銅銭の輸出は禁制であり、市舶官の空検(臨検)を洋上で受け
て帰港すべきところ、あらかじめ船底にかくしたり、知り合いの船や小港に貯えて、臨検のあとで
集めた」と述べていた。それは後の倭寇の密輸パターンそっくりだという(以上、斯波港市論、p.16
-7)。
 日本から宋への輸出品のうち、木材と硫黄、米が注目されている。日本からの輸入品のうち、宋
の役人からみて国に益するのは、木材と硫黄だけとされていた。日本の木材は、松木、杉木、羅木
(檜が相当する)やそれら板材であり、宋の木材よりも価格が安かったとされる。木材のなかには、
宋に渡った日本人僧がたちが修行した寺の依頼を受け、輸出したものもあった。日本の硫黄は、
宋代、火薬が発明されるとその材料として、10世紀末から11世紀初頭にかけて中国の硫黄産出
が少ないこともあって、一挙に需要が高まった。なお、米は支払手段に当てられたという。
 それら品目は、その輸送量の多い少ない、また積み付けの善し悪しにもよるが、バラストになっ
た。
▼引き揚げ船―泉州船、新安船―の長さ30メートル▼
 1973年、中国泉州湾の後渚港で発見され、引き揚げられた埋没船の船体下部の残存部は長さ24メートル、幅9メートルであって(実長34メートル、実幅10メートル、排水量374トンという推定もある)、「船内は12枚の隔壁で仕切られ、外板は船底部分は2層、船側部分は3層に板を重ねて張ってある。船内からは、南方の産物である香料そのほかさまざまな品物が発見され、なかには竹を編んだアンペラ状のものもあるが、これが帆の断片か荷物の覆いに使っていたものかはわからない。発見された貨幣から13世紀終りごろに沈没したと考えられる」という(松木哲稿「沈船は語る」前出『アジアのなかの日本史3 海上の道』、p.212)。この北宋代の泉州船は南海から帰着して香料船(スパイス・シップ)のようである。
 また、1976年、韓国木浦近くの新安沖で発見され、引き揚げられた埋没船の船体下部の残存部は長さ22メートル、幅6.5メートルであって、泉州船より小振りとされ、「船内は7枚の隔壁があり外板は1層である。この船は貨物を満載した状態で沈没し、多量の陶磁器と鏡が……輪送用の箱に入ったままのものが引揚げられたほか、木簡も相当数発見された。木簡の記事などから、この船は1323年に中国の寧波を出帆したこと、積荷には京都東福寺および博多向けの貨物[が積まれ]……乗員のなかに日本人がいた」とされる(松木前同、p.213)。この元代の新安船は日本向けの陶磁器専用船(セラミック・シップ)である。
 いまの上でみた埋没船の様々な構造は、後年のマルコ・ポーロの『東方見聞録』にある元代の泉州船と一致するところが多い。ただ、松木哲氏によれば、彼が「中国船は毎年外板を重ねていく」としたのは、「外板の外側に取り付けた包板の張り換えを誤解したもの」であるという(松木前同、p.216)。この包板は、外板を船食虫の害から守ろうとするもので、新安船にも張れていた。しかし、松木哲氏の解釈とは異なって、マルコ・ポーロの文言は多層外板の一部が毎年張り換えられていたことを記録したのかもしれない。この点について。Webページ【「マルコ・ポーロの東方見聞録」を読む】の付記、参照のこと。
 その他、これら埋没船は鉄釘を使用しており、船体塗料に石灰を利用していた。また、新安船は船首部に清水槽を持ち、陶磁器のうち平らな器は藁に包んで重ねられ、通函の木箱に入れて運ばれていた。
 最後に、松木哲氏はこれら埋没船は15世紀初めの鄭和の船に比べれば小さいが、「1123年に宋から高麗に派達した使節の記録である高麗図経[『宣和奉使高麗図経』巻34のこと]には、通常の船を利用したと考えられる随行船の大きさ[10丈=約30メートル、幅2丈5
泉州船
泉州海上交通史博物館(中国)蔵
新安船の船底部分
国立海洋文化財研究所(韓国)蔵
新安船を復元した模型
国立海洋文化財研究所(韓国)蔵
尺=約7.5メートル]もこの程度であったし、時代は新しくなるが17世紀末に長崎に来航した……[平
戸の]唐船図巻の中国船も約30メートルの長さになっている。長さ30メートルの船は中世でも大きな船
ではなく、それ以上の大型船があったことは確かではあるが……実用的な貿易船としては……こ
の程度の大きさの船が使いやすかったのかもしれない」と結論づける(松木前同、p.220)。しか
し、これら埋没船のトン数についてはふれていないが、200トン程度とみらる。また帆装についても
ふれていない。
 宋代に登場した大型ジャンクは2本マストを持ち、いまみた『高麗図経』には竹で編んだ利篷(りほう)と麻布製の布風(布帆)とが、様々に使い分けられたとある。前者は折り畳んで部分使用できるため、主帆として使用され、後者はおおむね順風時に使用されたとみられる。それ以外に野狐風(やこはん)という小帆もあった。ここで示す布風や野狐風の「風」には、筆者の蔵書印(高帆)にみるように、本来「馬」へんが付く。
 宋代は、中国陶磁史において、もっとも偉大な時代である。個性的な窯業地が国内にさらに広
がり、すぐれた陶磁器が生み出されていった。そのなかでも、白磁は河北省の定窯と江西省の
景徳鎮窯で生産され、もっとも評価の高い焼き物となった。青磁では、河南省の汝窯、鈞窯、陝
西省の耀州窯、浙江省の竜泉窯などが、それぞれ特色ある製品を生みだした。
 他方、宋代、さらに元代における最大の輸入品は、香料薬品であった。朝貢交易による香料薬
品の輸入数量が示された資料が、山田憲太郎著『香料の道』(中公新書、1977)に示されてい
る。
 それらは、交趾(安南)、占城(南ベトナム)、閣婆(ジャワ)、渤泥(北ボルネオのブルネイ)、蒲
端(ビルマ)、三仏斉(スマトラのシェリヴィジャヤ)、天竺(インド)、注輦(インド、コロマンデルのチ
ェーラ)、大食(イスラム)から輸入されている。多数の品目のうち、乳香は頻度、数量ともにもっと
も多く、烏里香は頻度は少ないが多量である、それらに次いで檀香、胡椒が少なくない量となって
いる。それ以外に、沈香、黄熟・速暫香、桟香、竜脳、丁香が記載されいる。
 これらは朝貢交易品にすぎない。そこで、山田憲太郎氏は「南宋代には、香料薬品の輸入が北
宋代とくらべて格段の増加を示し、その多くは私的貿易であったと、私は考えたい」という。なお、
中国人にとって重要なの香料は沈香であって、西アジアのように乳香ではなかったという(以上、
山田前同、p.171-5)。
 なお、引き揚げ船―泉州船、新安船の積み荷や遺物については、井上たかひこ著『水中考古
学 クレオパトラ宮殿から元寇船、タイタニックまで』、中公新書、2015が参考になる。
▼日宋の私交が旺盛、日本船、銅銭を密貿易▼
 遣唐使の停止、唐の滅亡後も、日本と中国との交流は、新羅や渤海の商人との私交易として
続く。しかし、それらの国々も滅亡する。宋が、中国を再統一すると、宋の商人が頻繁に博多に
来航するようになる。従来通り、大宰府が宋の商船との交易を管理していたが、荘園領主の勢力
増大にともない、九州沿岸の荘園の港にも宋の商船がはいるようになり、私交易が盛んになる。
それは建前からすれば密貿易であった。
 この日宋交易のうまみを平家も見逃さなかった。平忠盛(1096-1153)は播磨守や備前守をして
いるとき、院宣(命令書)を偽造までして、宋船を自分の支配地に呼び込んでいる。また、その子
清盛(1118-81)は大輪田泊(神戸港の一部)を修築し、音戸ノ瀬戸を拓いて航行を容易にし、宋
の商船を大阪湾に引き入れることとした。それにともない、宋との交易を盛んになり、日本の商船
も宋に渡るようになる。13世紀後半に宋が元に滅ぼされるまで、日本と宋の間で商人による活発
な交易が展開された。
 この日宋交易で、「日本は金、硫黄(いおう)、刀剣、漆器(しっき)、漆などを輸出し、宋から織
物、書籍、経典、香料、陶器、銅銭などを輸入した。こうした両国の交流は、日本の社会・経済・
文化の諸方面に大きな影響をあたえた。とくに禅僧の交流にともなって禅宗が流布し、宋銭の大
量輸入によって日本の貨幣経済が進展した」という(「日宋交易」Microsoft EncartaEncyclopedia
 2001参照)。なお、宋元代、日本人僧は数百人が渡海したとされる。
 斯波義信氏によれば、南宋の明州に対する「日本からの輸入品は沙金、水銀、銅、硫黄、錦、
絹、麻布、刀剣、扇子、木材、高麗からは金銀器、銅器、人参、毛皮、紵布、花紋席がおもであ
った」。それ以外に、日本から羅木や周防の松杉が輸入され、建材となった。日本船は、明州か
らほぼもっぱら宋銭―この銅銭は日本で本格的な通貨となった―を積み取ったとする。この明州
にはかなりの数の倭人が住みついていたという。
 南宋の広東転連判官として東南海岸の密貿易を取り締っていた包恢は、1360年代日本から来
航する倭船(日本船か中国船は不明)について、「船高、船幅、船長が大きく、100名も乗せる倭船
が毎年40-50隻、板木や螺頭、硫黄を積んで明州に入り、もっぱら銅銭に替えて帰る。このバー
ター取引きの回貨の目玉である銅銭の輸出は禁制であり、市舶官の空検(臨検)を洋上で受け
て帰港すべきところ、あらかじめ船底にかくしたり、知り合
 それ以前の時代となる遣唐使船にも、この布風(布帆)が補助的に使用されていたとみられる
記事があり、遣唐使船は中国のジャンクに近い構造を持っていた。また、遣唐使船は季節風を
知らなかったようにみられてきたが、渤海船がそれを利用して、すでにみたように秋から冬に来
日し、春から夏に帰国していることからみて、その知識を知っていたにもかかわらず、それを無視
して出帆せざるえない、政治事情があったととみる向きがある(東野前同、p.84-94)。
 なお、松木哲氏は、中世の日本船について絵画資料から丸木部分をも残した準構造船はとも
かく、新安船のような完全な構造船は見受けられないが、後代の遣明船は構造船であったに違
いないという。
▼船舶の種別、乗組員の構成や名称▼
 斯波義信氏は宋・元代の運船業を総括している。まず、船舶の種別を航路から、海洋船(遠洋
航行船=海舶、浅海就航船、これらがいわゆるジャンクである)、内河船(江船、呉船、越船、淮
船、黄河船)に分け、その特徴を示す。宋・元代の海舶は乗組員が1000人とか、700人とか、4-
500人とかいった大型船がいたとされるが、その趨勢は船型の大型化のために船の幅や深さを
大きくする、波浪の衝撃を緩和するために吃水を深くする、そして船体や船具の堅牢性の向上に
あったという。中型船の海舶の典型として、海舶の基地であった福建・両淅で建造されたとされ
る、『宣和奉使高麗図経』巻34の客舟を挙げる。
 また、海舶の乗組員の構成や名称について、多くの文献から、次のように分類する(斯波商業
史、p.87-9)。そのまとめ方や説明については納得しがたいものがある。なお、17-18世紀、雇われ
船長には出海(しゅっかい)という言葉が、当てられるようになった。
「(1) 上級船夫:船長(船主、船戸、船頭、綱首・副綱首)」。
 彼によれば、「船長の任務は自己の責任において、或いは船主に雇傭されるか海商仲間から
選任されて、採貨、修船、艤装、梢水(梢工と水手)の雇傭を行ない、航海中は乗員、船舶、積荷の売
買処分についての一切の権限を委譲され、責任を負わされる」という(斯波商業史、p.87)。現代の
船長とはまったく異なることは明らかであるが、この前段の文言は誤解を招く。
 まず、彼が挙げる文献には、船長という用語はない。それに当たるものとして綱首が使われて
いる。綱首は、何はさておき船主自身、船主船長であるごとを確認すべきである。その上で、海
商仲間から選任された船主船長がある。これら船主船長としての綱首はおおむね商人である。
その場合、一船の長は商人船主船長となる。最後に、その対極にあるのが、船主に雇傭された
船長があるのである。この雇船長も雇用者である船主から、後段の「船長の任務」が委任されて
おり、現代の船長とはまったく異なる存在となっている。
 なお、『通制条格』巻18は商人船主船長が完全に分離した形態、すなわち「経営主=舶商、船舶
所有者=船主、経営代理者=綱首」も想定しているという(斯波商業史、p.113)。
「(2) 上級船夫:幹部船員(雑事、事頭、直庫)」。
 雑事(事頭)は会計責任者(財副)というより事務長(総管)であり、また直庫は武器庫の長であ
るという。これらは航海要員ではない。
「(3) 上級船夫:労働監督(三老、長年、大翁、頭目、首領、部領、使頭、火長、梢工、碇手)」。
 三老、長年、大翁は「老齢な推進労働の熟練者」のことであって、それ以外とは区別されるとい
う。火長(頭目、首領、部領、使頭)は「後世の『夥長』であり、水手=『夥計』の長である」と説明す
る。それに従えば、前者は熟練船員、後者は水夫長となる。梢工は舵の操作、碇手は錨の投抜
を扱う専門職船員であり、現代では操舵手が相当する。ここでは、職能が明らかに異なる船員
が、労働監督として括られている。なお、沿岸海舶では梢工は船長―それは単なる雇われ船長
―の立場にある。
「(4) 下級船夫:水夫(水手、火工、火人、火下、夫児、人夫、作伴)」。
 この水夫は言葉通りであるが、「前述の労働監督の指揮下に、揺櫓、掌嵩、掌帆、投抜錨等[調
理を含む]の推進労働や荷役、牽挽等の雑役に随時流動的に役使される」とされる。しかし、彼ら
は指揮系統としては、火長の監督下にあるとみられる。
 大型の海舶では極めて多数の水夫が乗り組んでいたとされているが、史料によれば、沿岸海
舶の梢工、水手の数は、船幅2丈4尺以上では2人、40人、2丈以上では1人、35人、1丈8尺以上1
人、25人の程度であった。こうした数が現実的な数であって、後述の運賃(傭船料)の算出基準
であったかも知れない(斯波商業史、p.89)。
 斯波義信氏は船夫の募集に関して、「運船の交通労働に必要な船夫は、一般的にいえば雇傭
を通じて集められた。しかし、この雇傭は個々の船夫が個別に応募するというよりはも、むしろ小
経営主たる船戸、船主ないし船長である梢工が自己の家族、面識、同郷、同業、同階層の縁故を
通じて、つまり一種の親方(把頭)による作業および労働の請負行為として、船夫を募集するのが
通例である」という(斯波商業史、p.97)。船夫募集の経路は最もらしい。しかし、ある船主が別の
船主から作業請負をして、そのために船夫を募集・雇傭しているわけではない。船主が何らかの
縁故を通じて、船夫を直接雇傭しているにすぎない。
 また、船夫の出身階層について、「家族的協業による小規模な運漕業は、ほぼ例外なく飢餓的
窮乏状態にある農民が、農業への復帰に郷愁をいだきながらも、やむなく長期の出稼労働に身
を投じ、それがしだいに世襲永久的な生業と化しつつあるものであった」(斯波商業史、p.100)。
温州の官府の徴傭船について、「梢工は田産を有する船戸から選抜し、水手は沿海の零細漁民
の間から徴傭している。恐らく民間の海船においても梢工、水手の出身は同様であろう」という(斯
波商業史、p.102)。船夫は、零細農漁民を給源として、まずそれらが内河船に供給され、その上
で船夫を一定の職業とした経験者が内河船より危険ながら実入りの良い、海洋船に移動してき
たと見られる。
▼若干のまとめ▼
 この節は東アジアの1000年以上の歴史を扱ってしまった。そうなってしまったのは中国人が海
上交易人としてなかなか登場しないからである。彼らが登場するのは、唐末の9世紀後半からで
ある。
 彼らが登場する基盤は7世紀成立の大唐帝国にある。唐は、すでにはじまっていた華南の経済
開発を刈り取るなどしてかってない規模での帝国となり、世界から商人を呼び込み、奢侈品の交
易需要を振りまいた。そのなかで、海のシルクロードが形成されて、南海交易の規模が増加し
た。そして、8世紀、中国文化が冊封・朝貢体制をてこにして、アジアの国々に受容され、東アジア
文化圏が形成される。
 そのなかで活躍したのが新羅や渤海の商人たちであった。彼らは唐代以前から、中国との交
易に携わってきたとみられるが、唐代になると日本との中継交易にも積極的に乗り出すようにな
った。その結果として、海のシルクロードは朝鮮、そして日本まで延伸し、そこに中国―朝鮮―日
本を結ぶ東アジア海上交易圏が形成されることとなった。それにより、朝鮮や日本といった国々
も、世界の海上交易に組み込まれるようになった。
 唐末の混乱のなかで、中国の南海交易をほぼ支配してきたといえるイスラーム教徒の西アジア
人商人はおおむね撤退する。その後を誰がどのように埋めたかについて、いまのところ先学の
指摘に接しないが、それをまず埋めたのはまず新羅や渤海の商人たちであった。彼らは少なくと
も東南アジアまで交易範囲を広げ、中国に対しても中継交易を行ったとみられる。次いで、それ
を埋めたのが、中国商人であった。それが中国人としての海上交易への本格的な進出となった。
 10世紀、唐の没落に加え渤海、新羅が滅亡、彼らが高麗商人として再生したとしても、すでに
はじまっていた中国商人との交代は促進したとみられる。それは中国―朝鮮―日本の交易はも
とよりとして、南海交易においても進んだとみられる。それら中国商人は一口に華南商人と呼ば
れているようであるが、北の江蘇省や浙江省の商人と、南の福建省や広東省の商人に分れてい
たであろう。
 宋は、北方民族に圧迫され、海上交易に依存せざるをえなくなる。それが積極的に奨励される
ことにより、中国をめぐる交易規模は著しく増大する。しかも、その海上交易は、それ以前に比
べ、明らかな構造変化をみせる。それは、東アジアにも拡大したアジア海上交易圏に、その最大
の交易需要者かつ供給者である中国の商人たちが、その交易の中心に座ったことにある。それ
ばかりでなく、彼らが絹製品ではなく、陶磁器という新しい贅沢品を、自らが仕立てた大型ジャン
ク船に積み込んで、海のシルクロードを西進したことにある。
 しかし、宋代にいたってもアジア海上交易圏は、その交易品に新たに底荷になりうる陶磁器を
加えたものの、従来通りそのほとんどが遠隔地間で交易される奢侈品や贅沢品であるという、古
代からの基本的性格は変わらなかった。したがってそれは中継交易人でもって成り立ちうる交易
であった。
 それにもかかわあらず、唐宋交代期、西アジア人商人に替わって、覇権国人である中国商人
がその担い手になったのは、宋代の特殊事情によるものであった。そのもとで、宋が世界最初の
海上帝国といわれるが、それは同時に中国最後の海上帝国でもあった。しかし、その後、中国は
明代の海禁政策にみるように、海上帝国たり続けることはなかった。それは中国が―古代エジプ
トにもまして―奢侈品にしろ、必需品にしろ、それらの国内調達が基本的に可能であったからで
ある。
 なお、この節で取り上げた期間において、日本はアジア海上交易圏あるいは海のシルクロード
は辺境に位置し、しかも単なる奢侈品のしかもその少量の需要国であるにとどまり、海上交易国
として登場することはなかった。いの船や小港に貯えて、臨検のあとで集めた」と述べていた。そ
れは後の倭寇の密輸パターンそっくりだという(以上、斯波港市論、p.16-7)。
 日本から宋への輸出品のうち、木材と硫黄、米が注目されている。日本からの輸入品のうち、宋
の役人からみて国に益するのは、木材と硫黄だけとされていた。日本の木材は、松木、杉木、羅木
(檜が相当する)やそれら板材であり、宋の木材よりも価格が安かったとされる。木材のなかには、
宋に渡った日本人僧がたちが修行した寺の依頼を受け、輸出したものもあった。日本の硫黄は、
宋代、火薬が発明されるとその材料として、10世紀末から11世紀初頭にかけて中国の硫黄産出
が少ないこともあって、一挙に需要が高まった。なお、米は支払手段に当てられたという。
 それら品目は、その輸送量の多い少ない、また積み付けの善し悪しにもよるが、バラストになっ
た。
(2005/04/20記、2005/06/16補記)

ホームページへ

目次に戻る
inserted by FC2 system