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Chapter 4 North and South European Trading Areas
 - Two Different Trading Areas -

2・4・1 ビザンツ、西ヨーロッパの血肉となる
2.4.1 Byzantine, making Western European Blood and Meat

▼ユスティニアヌス1世、ローマ帝国を再建▼
 世界の歴史のある大都市のなかで、コンスタンティノープル(現イスタンブール)の他に、歴史の深みを感じさせる、偉大にして華麗な都市を見つけることはできそうにない。
 「ビザンティン帝国の魅力は華やかな都市生活や高度な文化にもある。文明の十字路に位置したコンスタンティノープルは、世界の各地から人と富が集まる憧れの都であった。
 この町へ攻め上ってきた異国の兵士たちは、壮麗な宮殿や教会をはるかに望み、期待と憧れに体の震えを禁じえなかったであろう。彼らは、莫大な金銀財宝のあふれる都というイメージを抱いて、この町をめざしたのであるが、実際、コンスタンティノープルは当時の世界でももっとも豊かな都市であった。
 世界の商品がここに集まり、またここで作られる宝石を散りばめた黄金の細工品や美しい絹織物は、途方もない値打ちをもっていたのである」と述べられる(ミシェル・カプラン著、井上浩一監修、田辺希久子他訳『黄金のビザンティン帝国』(知の発見双書28)、監修者まえがき、p.3、創元杜、1993)。この文言は、ビザンツ交易の歴史を、あますところなく指し示したかにみえる。
 ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝(在位303-37)は、330年ビザンティオン(ラテン語ではビザンティウム)というギリシアのメガラの植民市に遷都する。その町はコンスタンティノープルと改名される。395年ローマ帝国は東西に分裂し、5世紀西ローマ帝国はゲルマン民族によって滅ぼされる。それに対して、東ローマ帝国はその後1000年にわたって存続しつづける。
 しかし、それは興亡の歴史の繰り返しであった。その時代区分は、初期:遷都から7世紀初めのイスラーム教徒の伸張まで、中期:610年のヘラクレイオス即位から1204年の第4回十字軍のコンスタンティノープル占領まで、後期:それから1453年のオスマン・トルコの侵攻による滅亡まである。
ユスティニアヌス1世時代の征服地
 コンスタンティノープル遷都から200年後、ユスティニアヌス1世(在位527-65)はローマ帝国がかつて領有していた、西半分の国土をほぼ復活する。ここに、ローマ帝国が一時期再建されたことや東ローマ帝国がキリスト教国となったことなどから、後世、東ローマ帝国をビザンティオンあるいはコンスタンティノープルを首都としていたことをふまえ、ビザンツ帝国と呼ぶこととなった。
 ユスティニアヌス1世が海外遠征をはじめたとき、北アフリカはヴァルダル王国、イタリアは東ゴート王国、イベリア半島は西ゴート王国といった、ゲルマン人の国々となっていた。それら国々を、彼は主として海上遠征によって攻略し、534-565年のあいだに北アフリカ、イタリア、シチリア、サルデーニア、それにイベリア半島の一部を取り返す。
 429年ヴァルダル族は北アフリカに侵入して、地中海西部と中央部に面した海洋国家を建設していたが、ローマ人との対立やベルベル族の反抗によって力が弱まっていた。その王ゲリメール(在位530-3)は、サルデーニア島の反乱を制圧するため、5000人のヴァルダル族と30隻の軍船を派遣した。その隙をねらって、ユスティニアヌスは人びとの反対を押し切り、大遠征隊を派遣する。
 「彼に協力した東ゴート王国から、シチリア島で食料と馬とを入手し、無抵抗のうちにアフリカに上陸した。その軍勢は15000人の正規兵・1000人の蛮族兵・[司令官]ペリサリウスのブケラーリー[合法私兵]約数千人・500隻の船(3万人の水夫)・92の小戦闘艦(兵員2000人)であった」。
 「ペリサリウスは2度の戦闘でヴアンダル族を打ち砕き、533年9月3日に海と陸からカルタゴに迫り、翌々日カルタゴ入城を果たし、534年3月13日にゲリメールを捕らえ、アフリカにおけるヴァルダル族支配に終止符を打った」という(以上、尚樹啓太郎著『ビザンツ帝国史』、p.181、東海大学出版会、1999。なお、尚樹啓太郎氏の訳語は他者と異なる)。
 これに自信を持ったユスティニアヌス1世はシチリアから南イタリアに入る。東ゴート王国はそれに20年も抵抗するが、555年にはイタリア半島は完全に支配される。そして、彼は6世紀末西ゴート王国のイベリア半島に押し入る。
▼初期ビザンツ帝国の海上交易▼
 あまたのビザンツ人にとって、海上交易は冬のエーゲ海が航行不能となり、帆船の難破が多くて危険を伴い、また貸付金の利息が高かったので、儲けになる家業ではなかった。しかし、遠隔地との海上交易人はそうではなかった。尚樹啓太郎氏によれば、意味の取りにくい文言を含むが、次のような状況であったという。
 「大小の商人も都市の重要な構成員であった。遠隔地貿易が行われた都市では、商人はすべて船乗りであるが[船に便乗したか?!]、船舶の所有者は別であった[乗船しなかったか?!]。船主は組合に属し、近衛長官とアンノーナ税長官の統制を受けた。これは世襲で、船舶所有を経済的に保証する土地所有に基づいて、[国家の徴用に耐える]船舶の建造・装備・維持の義務があった。
 商品を海路によって売買する商人は、船舶所有者から船を借りて、国家の決めた輸送費を払った。しかし、大商人は自らも船を持ち、乗務員を雇い、しかも同職組合には属さなかった。国家は、このような商人の船も国のために賃借する権利を持っ[てい]た。
 遠隔地貿易に従事する商人は多額の貨幣を持ち、商人の上層に属し、かなり広い土地を所有していたために、都市参事会員になることもあった」(尚樹前同、p.248)。
 彼ら商人が扱った交易品は、ワイン・油・塩魚・奴隷・東方の香辛料・織物・衣服・壷・貴金属などであった。ビザンツ帝国には、それなりの輸出産業があった。コンスタンティノープルは絹織物や手の込んだ工芸品、「バルカン半島のトラキアは農産品、マケドニアは鉄・刺繍・ベーコン・チーズ、ギリシアはラコニアの大理石、小アジア西部はワイン・油・米・紫衣・スペルト小麦(家畜の飼料)、その他の小アジア沿岸部は農産品、内陸部は織物や動物の皮を生産していた。
 シリアではティロスとラオディキアが商港として栄え、パレスティナではアスカロン・ガヅァがシリア・エジプトにぶどうを輸出し、スキソポリス・ラオディキア・ヴィヴロス・ティロス・ベイルートは織物で有名で、ヴォストラはササン朝ペルシアやアラビアとの貿易を行った。エジプトは肥沃で油以外のものは何でも生産し、アレクサンドリアは繁栄した港であった」(尚樹前同、p.213)。
 ビザンツ帝国にかかわる交易路は、基本的には古代ローマ帝国によって拓かれたものであったが、特に黒海以遠に広がりを見せていた。黒海南岸のトレビゾンドはイランへの、黒海北岸のケルソンはロシアへの、テサロニキはバルカン半島への港であると同時に、広大な後背地の海への出口であった。それら交易路は、はかり知れない利益をもたらしたが、敵対する勢力もこれらの道を通って、ビザンツ帝国に押し入ってきた。
 ただ、東方交易路はササン朝ペルシアに握られていたので、「ユスティニアヌス1世は東方貿易をペルシアに頼らないで、紅海経由で行う通商路を確立しようと努力した。紅海に道を開くアカバ湾のエラ(現アカバ)は帝国の領土だったから、ここからパレスティナ・シリアを経て地中海に出る道を考えた。もう1つは現在のスエズに近いクルスマ[クルズム]からアレクサンドリアを経て地中海につないだ。
 エラとクルスマ両港への貿易船支配のため、アカバ湾口の小島イオタヴァには税関があり、ここの関税収入は帝国経済にとって貴重なものであった。帝国は、ユステイヌス1世の時代に紅海に60隻の商船を持ち、クルスマ・エラ・イオタヴァ・ファルサン群島・ベロニケなどに配船されていたことが知られている」(尚樹前同、p.217-8)。
▼東ローマ帝国に迫るイスラーム教徒たち▼
 東ローマ帝国の領土は6世紀半ば最大となり、バルカン半島、シリア、ヨルダン、イスラエル、レバノン、キプロス、トルコ、エジプト、さらにリビアの東半分に及ぶこととなる。こうして、6世紀半ば以降100年にわたって、地中海は再びローマの海となる。コンスタンティノープルが地中海交易の中心となり、それに近い東地中海・黒海交易圏が繁栄し、西地中海交易圏も復活する。アフリカ穀物の主たる仕向地はローマからコンスタンティノープルになる。
 6世紀後半、ササン朝ペルシアとの戦いが再開される。それは東西交易をめぐる争いであり、紅海・インド洋でも展開されていた。また、トルコ系のアヴァール人がバルカン半島、ランゴバルド人がイタリアに侵入してきて、東ローマ帝国の領土は再び縮小しはじめる。さらに、スラブ人が南下してくる。
 ヘラクレイオス(在位610-641)は、ペルシアにたびたび敗れるものの再起して、628年ペルシア首都クテシフォンに迫り、長くつづいた戦争に勝利し、シリア、パレスティナ、エジプトを取り返す。それもつかの間、アラビア半島にイスラーム教によって興起したアラブ人が、長い戦いで疲弊した東ローマ帝国とペルシアに襲いかかってくる。
 アラブ軍は、634-642年東ローマ帝国のパレスティナ、シリア、メソポタミア、エジプト(642年アレクサンドリア陥落、図書館焼失)を、次々と陥れる。それでも、東ローマ海軍は地中海の制海権を維持していたので、シリアやエジプトの海域ではアラブ軍に抵抗を続ける。
 シリアはアラブの地中海における拠点となっていた。そのシリア総督であり、ウマイア朝初代カリフとなるムアーウィア(在位661-80)は海上からの攻撃や掠奪に対抗しようとして、648年イエメン系、オマーン系、シリア系のアラブ人やコプト派キリスト教徒のエジプト人(おおむねギリシア人)の船員や船大工の助けを借りて、海軍を建設する。提督や艦長、海兵はアラブ人であったが、船員や漕ぎ手はシリア系のアラブ人やギリシア人であった。
 彼のアラブ艦隊は、翌年キプロスへの初遠征が成功すると、地中海への進出を本格化させる。その目標をまず小アジアにおき、毎年のように襲撃する。
 ヘラクレイオスの孫のコンスタンス2世(在位641-68)は、655年みずから500隻の艦隊を率いて、小アジア南西のリュキア沖(フィニケ沖)に進出、アラブ艦隊と直接対決する。ここで東ローマ海軍は惨敗する。彼は水兵と服を交換して戦場を逃れる。この戦いをアラブ側では「帆柱の戦い」と呼ぶ。その後、彼は地中海の中央にあるシチリア島に遷都して、地中海世界の支配者の地位を守ろうとするが、暗殺される。
 ウマイア朝のアラブ艦隊は、672年ロードス島を占拠し、翌年にはマルマラ海に面したキュジコス半島を前線基地にして、674-78年(さらに、717-18年)数次にわたって、コンスタンティノープルを包囲する。それにビザンツ帝国はかろうじて耐える。そのとき、ビザンツ艦隊が使用したのが秘密兵器「ギリシアの火」であった。それは7世紀半ば、シリア系ギリシア人が発明した火器(生石灰・松脂・精製油・硫黄などを混合した液体)で、筒から発射されると火を噴きながら飛び、アラブの艦船に降りかかったという。

ギリシアの火
マドリード、国立図書館蔵
 それに続けて、アラブ艦隊は697年北アフリカのカルタゴを占領、711年西ゴート王国を滅ぼし、翌年西北インドにまで進出する。それによって、ウマイア朝はインドから東地中海、アフリカ北岸、イベリア半島までを支配するようになる。それも750年には滅び、イベリア半島に逃れたアブド・アッラフマーン1世(在位756-88)が、756年コルドバを首都とする後ウマイア朝(756-1031)を興す。
▼イスラーム、地中海の制海権を掌握▼
 ビザンツ帝国が地中海の制海権を維持してきた時代は終わる。いまやアラブ人が地中海世界の支配者となり、地中海はローマの海からイスラームの海となる。
 それにより、ビザンツ帝国の制海権は地中海北岸の東側の小アジアとエーゲ海、クレタ島、タリア南部とシチリア島、サルデーニア島だけとなる。それ以外は、ヨーロッパとして認識されることになるゲルマン諸国が地中海の西側、そしてイスラーム諸国が地中海東岸と南岸のシリア・エジプト、南岸の北アフリカ、そしてイベリア半島を勢力圏とするようになる。
 こうした勢力が鼎立する時代は、15世紀のオスマン・トルコによるビザンツ帝国の征服と、ポルトガル・スペインのレコンキスタ完了まで続くことになり、ビザンツ帝国は勢力圏の拡大と縮小の繰り返しを、その歴史とすることとなる。
 古代から地中海を縦横に張り巡らされ、コンスタンティノープルを中心としてきた交易ネットワークも変化する。その顕著な現れとして、エジプトの穀物が来なくなり、618年ヘラクレイオスの時代に首都市民への穀物配給が廃止される。また、ユスティニアヌス時代のペストはシリアから小アジアを経たが、746-47年のペスト(14世紀の黒死病前で最大)はシリア・エジプトから北アフリカを西へ進み、シチリア島に渡って南ギリシアを経て、コンスタンティノープルへ伝わったという。
 ここに、ビザンツ帝国は暗黒時代を迎えたとされるが、8世紀になるとその勢力を盛り返す。750年、イスラーム世界はウマイア朝からアッバース朝に交代し、その中心がシリアのダマスクスからバグダードに移動する。それによってイスラーム勢力のビザンツ帝国への圧力が弱まった。
 その後、ビザンツ帝国は浮沈するものの、一定の勢力を保ち続ける。それは、首都のコンスタンティノープルが全方位の交易中心地であり、また首都じしんが強固な要塞都市となっており、それに優秀な海軍が配置しえたからであった。
 しかし、地中海は新しい時代に入りつつあった。751年イタリア支配の拠点であった、ラヴェンナがランゴバルト人の手に落る。また、826年クレタ島がアッバース朝に奪われ、長年維持してきた東地中海の制海権さえもなくなる。その結果、9世紀には、ビザンツ帝国の勢力圏はギリシア、小アジア、南イタリアに縮小し、彼らが支配する海はエーゲ海・黒海周辺だけとなる。
 西方においては、アルプスの北にあるフランク王国はすでに大きな勢力となっていたが、751年ピピン3世(在位751-68)のクーデターが成功して、カロリング王朝が成立する。その息子カール(カール大帝、在位768-814)は、800年ローマ教皇から西ローマ皇帝(在位800-14年)の冠を受ける。これはビザンツ帝国が中心となっていたキリスト教世界の分裂と、ビザンツ帝国に対するヨーロッパ世界の誕生を告げるものであった。
 こうして、ローマ帝国が支配していた地中海世界は、明らかにその東北部は東方教会のビザンツ世界、西北部はキリスト教のヨーロッパ世界、そして南部はイスラーム教の世界の三極構造となる。ここで、ビザンツ帝国は地中海支配を諦め、バルカン半島のスラブ人に対して遠征を繰り返し、その領土を拡張しようとする。
▼海軍の費用を負担するテマと資金調達▼
 ビザンツ皇帝は「神の代理人」、ビザンツ帝国は「劇場国家」とか「官僚制国家」と呼ばれ、華々しい儀礼と祝典によって飾られていたが、軍備を怠ることはなかった。
 ビザンツ帝国では、7世紀からアラブ軍の侵攻に対応して、それまでの総督統治の属州に替えて地方行政単位としてテマ(軍管区)が設けられるようになり、9世紀には軍事権と行政権を合わせもつ長官(ストラテーゴス=将軍)が統治する体制となった。このテマは後述の兵士土地保有制と一体となっていた。このテマは10世紀初め31区あった。
 ビザンツ帝国の海軍に割当てられた最初のテマのカラヴィシアは、7世紀半ば、小アジアの南西海岸に置かれた。それは、「レオン3世(在位717-41)時代、711年から732年のあいだに、ミレトスからリキア、そしてイサヴリアに至る小アジア南岸とその近隣の島々を含むキヴィレオテ=セマ[テマに同じ]と、キクラデス諸島のエーゲ海=セマ、そしてアドラミティオン・スミルナ・エフェソス・サモス島・コス島を含むサモス=セマに細分化された」という(尚樹前同、p.364-5)。
 9世紀初めには、ビザンツ帝国の首都あるいは皇帝艦隊を統括する、ドロンガリオス=トゥ=プロイム(艦隊司令官)が設けられる。ビザンツの主力艦は、6世紀以降開発、改良してきたとされる「ドロモン」と呼ばれる、漕帆併用のガレーであった。なお、海軍造船所はガラタのあるペラ地区にあった。
 尚樹啓太郎氏は、9-10世紀のビザンツ帝国の海軍について「ドルンガリオス=トン=プロイモンによって指揮される皇帝艦隊と、海上のセマから召集されて、その地方のセマ長官に指揮される艦隊とがあった。しかし、ドルンガリオス=トン=プロイモンは、9世紀から10世紀の
ドロモンと呼ばれる漕帆併用のガレー
その後の地中海ガーの原型となる
20年代まではセマ長官よりも低い地位にあり、10世紀半ばになって[宮廷護衛騎兵隊]スホラリオス隊のドメスティコス[軍司令官]に次ぐ地位となった。これは帝国海軍の重要性が高まったことによる変化であった」(尚樹前同、p.459)。
 なお、ロマノス1世レカペノス(在位920-44)は、アルメニア人農民の子として生まれ、ドルンガリオス=トン=プロイモンまで登り、クーデターを起こして皇帝をとなっている。
 9世紀半ば、外征のない時代、歳出の3分の2が軍事費であったが、12万人の将兵に45パーセント、そして皇帝艦隊の将校や漕ぎ手(人数不明)に20パーセントが支出されていた。
 また、「9世紀前半にエーゲ海・アドリア海沿岸におけるビザンツ海軍の最重要基地として、[バルカン半島の]セサロニキとディラヒオンに、その後背地を含めた特別なセマが成立している。これらのセマはギリシア・エーゲ海・アドリア海の支配を強化した」(尚樹前同、p.400)。なお、11世紀後半海軍のテマは廃止され、1085年以後は皇帝艦隊だけとなり、連合艦隊司令長官の官職が設けられる。海軍のテマの廃止は、陸軍と同様、海軍の弱体化を招いたことであろう。
 7-8世紀に編纂されたとされる「ロードス海洋法」という海事法は、「海運業が行われていた地域の責任と貢献の規則化・特別に罰っせられるべき罪・船員の利益配分と船上の規則などを決めて、商船隊を守ろう」としていた(尚樹前同、p.643)。
 ニケフォロス1世(在位802-11)はきちんとした課税台帳を作り、厳密な徴税を実施した。それが「10大悪政」と呼ばれることとなった。第3悪政・税額改定、第4悪政・免税の取り消し、第5悪政・教会・修道院・慈善施設への課税、第8悪政・相続税の徴収などのほかに、平和の回復とともに発展した交易に対する第9、10悪政が注目される。
 「第9悪政は、小アジアの沿岸に住む船主で農業をしたこともない者に、土地を強制的に割り当て課税したというもの、第10悪政は、コンスタンティノープルの有力船主にむりやり金を貸し付けて、年利率16.7パーセントの利息を取ったというものである。いずれも何を目的としたものか、学界でも意見が分かれている」。なお、コンスタンティノープルの造船業者にも、強制融資が行われている。
 その目的について、井上浩一氏は「小アジア沿岸の船主への土地の割り当てについては、彼らに土地を与えてテマの海軍に入れた軍事政策という説と、海上交易を営む者に安定した収入源を与えた経済政策という説がある。軍事政策説をとるにしても、海軍の強化が間接的には商業の発展を促進したことは確かであろう。
 首都の有力船主への貸し付けも商業振興政策とみなすべきである。当時の海上交通の危険性を考えると、その年利率16.7パーセントはけっして高利ではない。強制的に貸し付けられた商人たちは迷惑したであろうが、利息を支払うためにその商売を拡大しなければならず、結果として商業の発展に貢献したものと思われる」と述べる(井上浩一・栗生沢猛夫著『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』、p.77、79、中央公論社、1998)。
 それに対して、尚樹啓太郎氏にあっては「10世紀の史料は、船員もまた生計の助けとなる財産を所有していたことを示している。これは、まずニキフォロス1世[ニケフォロス1世に同じ]がキヴィレオテ=セマの水夫たちに適用した方法で、彼らに耕作されていない地区から、小土地を一定の値段で購入させている。
 これはビザンツ海軍にとってきわめて
重要なことで、おそらく上記の農民の場
合[小土地所有者は兵役義務を負ってい
たが、水夫たちに土地を持たせることで、
兵役義務に替えて海軍兵士の装備費用
を負担させようとしたの]と同じ意味を持
ってと思われる」とする(尚樹前同、p.398
-9)。
 なお、現代イスタンブールでは2004年
より、地下鉄工事の際発見されたイェニ
カプ遺跡の発掘により、8-9世紀の保存
状態が良い沈没船が多数発見されい
る。
イェニカプ発掘の沈没船
▼ビザンツ帝国の最盛期、マケドニア朝▼
 867年、ビザンツ帝国にマケドニア朝が創設され、1081年まで続く。ニケフォロス2世(在位963-69)は、皇帝になる前から重装騎兵軍団を駆って遠征していた。961年にはクレタ島を奪回する。それによって、東地中海は再びビザンツの海となる。翌年には、シリアのアレッポを占領する。キプロス島は、イスラームとの共同統治となっていたが、965年にビザンツの単独領となる。969年には、遂にハムダーン朝の首都アンティオキアを落とす。
 バシレイオス2世(在位976-1025)は、1014年、681年バルカン半島に独立国家となっていたブルガリアのサムイル王(在位997-1014)の軍を粉砕する。彼の時代、ギリシア人やマケドニア人、トラキア人、スラブ人びとに奪われていた地方を回復し、イスラームからは北メソポタミア、北シリア、北シリア沿岸部をふくむ地方を奪還する。この時代がビザンツ帝国の最盛期とされる。
 バシレイオス2世は、内外の敵で最も危険なブルガリアのサムイルを打倒するに当たって、クロアティア・ディオクレア・ヴェネツィアと同盟する。992年、ヴェネツィアと条約を結び、ビザンツ帝国に支払う高い関税をヴェネツィアに有利になるように改める。それにともない、ヴェネツィアはアドリア海における警備と輸送の任務を引き受けることとなった。なお、ヴェネツィアは812年のアーヘン条約でビザンツ領となっていたが、9世紀になると海軍力を強化し、スパサリオスという中位の爵位を与えられたドージェが統治する、事実上の独立国となっていた。
 彼の時代の領土は、「東はアルメニア・シリアから西は南イタリアまで、北はドナウ川から南は地中海の島々まで、大きく広がっていた。いずれの国境にも帝国を脅かすような敵は見当たらなかった。遠いロシアも、キリスト教化されてビザンツ世界に加わって……ビザンツは世界帝国の面影をもつようになった」という(井上前同、p.121)。
 こうして10世紀末から11世紀末にかけて、東地中海の制海権はイスラーム教徒からキリスト教徒に移った。バシレイオス2世が死んだ年が、ビザンツ帝国の頂点であった。その死後、無能な皇帝が続き、ビザンツ帝国は虚栄と反乱の時代となり、財政は破綻する。ただ、11世紀後半には、ヴェネツィアの海軍がビザンツの海軍を上回るようになっていた。
 1055年、中央アジアにいたセルジューク朝トルコがバグダードに入って、イスラーム世界を牽引しはじめる。ビザンツ帝国の東方領土を侵略したのち、小アジアに侵入してくる。1071年マンジケルト(現マラーズギルド)の戦いで、ビザンツ帝国軍は味方の裏切りで惨敗して、小アジアのビザンツ領土の大半を失ってしまう。1081年、トルコ軍は小アジアの全域を制圧して、コンスタンティノープルに迫ってくる。
 同時に、西からは、ノルマン人が南イタリアのビザンツ領に侵入しはじめ、1071年には最後の拠点バーリが奪われる。そして、1080年代になるとノルマン人の首領ロベール・ギスカール(1015?-85)がアドリア海を渡ってバルカン半島に入り、コンスタンティノープルを目指すようになる。その息子ボエモン(1050?-1109)は、第1回十字軍で活躍してアンティオキア公として認めれるが、父と同じ野望を隠そうとしない。ノルマン・シチリア王国は隙をみせれば、襲いかかってくる敵であった。
▼天敵のヴェネツィアと十字軍を引き込む▼
 東西から敵が迫るなか、反乱が起きる。そのなかでアレクシオス1世(在位1081-1118)が即位する。彼は貨幣改革を実施し、赤字国債を整理し、巧みな外交を展開して、帝国を維持しようとする。西からのノルマン人に対しては脅威を共有するヴェネツィアに援軍を求め、1082年黄金印璽文書を与える。
 それにより、ヴェネツィアは艦隊の提供を引き受ける代わりに、ドージェには謝礼金と上から5つ目の爵位プロトセヴァストスが与えられ、コンスタンティノープルの金角湾の西側沿いに、3つの波止場と倉庫(マヌエル1世時代に1つ追加される)、聖アキンデュノス教会を含む居留区を手に入れるとともに、アドリア海やエーゲ海、小アジアにある主要な32の交易都市において、関税を払うことなく取り引きできるという特権を獲得することとなった。
ヴェネツィアに交易を許可した都市
根津由喜夫稿「ビザンツ貴族と皇帝政権」、史林、 71(3)、p.31
 ビザンツ帝国は、外国人の交易をコンスタンティノープルに限って行わせ、彼らの滞在期間は3か月以内とし、輸出入とも10パーセントという高い関税を支払うことを義務づけていた。そうした規制にヴェネツィア人もその例外ではなかった。この原則を、アレクシオス1世が放棄したのは軍事援助をうるためだけでなく、高関税に悩まされることなく、穀物を自由に売却したがっている、貴族たち―彼らはすぐに反乱に訴えた―の要望を認めたものであった。その結果、交易の関心はコンスタンティノープルからヴェネツィアに向かうようになる。
 その特権の付与は、それまでビザンツという国に膨大な恩恵をもたらしてきた、東西の中継交易による利益を放棄したことを意味した。ヨハネス2世(在位1118-43)は即位すると、すぐに父の与えた特権を回収しようとするが、ヴェネツィアは武力に訴えて翻意させる。他方、ヴェネツィア人とってはその交易が内国人待遇以上となり、地中海世界の交易を支配する出発点となる。彼らは、12世紀半ばにはコンスタンティノープルに1万人、ビザンツ帝国内に2万人が活動していたという。
 ビザンツ帝国を宗主国と仰ぐアマルフィ人は早くも10世紀から、ヴェネツィア人はいまみた1082年にコンスタンティノープルに進出していた。十字軍を契機として、ピサ人が1111年になってアレクシオス1世から波止場がついた居留地を認められ、関税は4パーセントに減免されるという特権を獲得する。また、ジェノヴァ人の進出はそれよりはるかに遅れ、ピサ人とほぼ同じ条件で居留地が成立するのは、1170年すなわちヴェネツィア人追放の前年になってからであった。金角湾沿いに並ぶイタリア人の居留地は、商業取引所、商品保管庫、一時滞在者の宿泊施設の機能を兼ねた一大交易センターとなった。
 第1回十字軍の従軍作家は、11世紀末のコンスタンティノープルについて、次のように書き留めていたという。「この都の市民たちは、彼らに必要なものを、活発な海上輸送によって、間断なく、ふんだんに供給されている。キプロス、ロードス、ミュティレーネー(レスボス)、コリントス、それに非常に多くの島々が、この都に奉仕している。アカイアとブルガリアとグラエキア(ギリシア)の全土は、この都に生活物資を送る労をとり、まさしく彼らの最良の品々を送ってよこす。さらには、ロマニア(ビザソツ領)のアジア側とヨーロッパ側の諸都市、それにアフリカの諸都市は、絶えず貢物をコンスタンティノープルに捧げている」(根津由喜夫著『ビザンツ 幻影の世界帝国』、p.85-6、講談社,1999)。
 1182年、コンスタンティノープルだけで、イタリア人居留者は6万人に及んだという。従来、コンスタンティノープルの人口は60-100万人とされてきたが、20世紀後半の研究によれば20-40万人、40万人を越えることがなかったとされる。それにしたがえば、イタリア人居留者6万人は驚異的な数となる。
 中期ビザンツ帝国時代、輸出禁止品が指定されていた。「第1は縫ってない織物や生糸と共に儀式用衣服で、これらは絶えず宮廷の祝祭の催しに必要なもので、高官に配付したり、特筆すべき外国人に贈物としたからである。第2は国内の産業に必要な原料品である。第3には首都の主な食料の1つであった塩漬けの魚である。第4は貨幣蓄積を枯渇させないための金である。貨幣の流出を防ぐためには、物々交換の貿易も行われた。例えば、ブルガリアの蜂密や亜麻のような品には、現金ではなくて品物で払うことを、輸入業者に義務づけていた」(尚樹前同、p.643)。
▼イタリア人を追放したり、招き入れたり▼
 セルジュク・トルコ人に対しては、1054年ギリシア正教会とローマ教会がお互いに破門しあって分裂していたにもかかわらず、ビザンツ帝国はローマ教皇を通して西ヨーロッパに援軍を求め、夷狄同士を戦わせて漁夫の利をえようとする。また、時の教皇ウルバヌス2世(在位1185-87)も聖地奪回と東方教会の吸収という、年来の計画を実行に移そうとする。
 第1回十字軍(1096-99)が派遣される。1098年アンティオキアを陥落し、1099年エルサレムを奪回する。それによって、ビザンツ帝国も小アジアの若干の土地を回復するという恩恵をえたものの、十字軍を引き入れたことは帝国の没落を早める結果になる。イタリアのいくつかの都市の商人がビザンツ領土での交易特権を獲得し、交易と富を支配するようになってしまう。12世紀、ビザンツは見せかけの繁栄を味わうが、その政治力も軍事力も衰え、転換期に入る。
 アレクシオス1世の孫マヌエル1世(在位1143-80)は領土拡張を目指し、シリアやイタリア東海岸に遠征を行い、さらにイタリア半島を支配しようとする。これに対して、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサ(在位1152-90)が中心となって、西ヨーロッパ諸勢力が反ビザンツ大同盟を結成する。年来の同盟者であったヴェネツィアも敵になる。それはイタリア半島が支配されれば、地中海への出口を塞がれるからであった。
 1156年、ビザンツ軍は南イタリアのブリンディジにおいて、シチリア王グリエルモ1世(在位1120-66)に完敗する。イタリア征服の夢はすぐさま終わりを告げ、ヴェネツィアとの関係も悪化する。1171年、マヌエル1世はヴェネツィアに断交を宣言して、国内にいるすべてのヴェネツィア人を逮捕し、その財産を没収、居留区も撤去する。そして、ヴェネツィアの反撃も撃退する。
 「この措置は、貴族の利害を配慮し、イタリア商人を優遇してきたアレクシオス1世以来の政策からの転換のようにみえるが、必ずしもそうではない。というのは、ヴェネツィア人追放に先立って、ジェノヴァ、ピサとそれぞれ通商条約を結んでいるからである。マヌエルといえども、イタリア商業都市との経済関係は否定できなかった。せいぜいのところ、複数の都市を操って、少しでも有利な条件を引き出そうとしたのである」(井上前同、p.166)。
 それから10年後の1182年、アンドロニコス1世(在位1183-85)はイタリア人への特権付与によって打撃を受けていたコンスタンティノープルの市民をそそのかして、そのときはピサ人やジェノヴァ人などの西ヨーロッパ人を虐殺・追放させ、皇帝となる。しかし、イタリア人商人なくしてビザンツ経済は運営できないようになっていたため、マヌエル1世が追放したヴェネツィア人を呼び戻すはめになる。
 ローマ帝国の時代、コンスタンティノープル半島には、ボスポラス岬から金角湾にかけてプロスポリオン港とネオリオン港(19世紀に埋め立てられる)があった。ビザンツ帝国の時代には、マルマラ海側に漁港のコントスカリオン(現クムカプ)港と、最大規模のテオドシウス(エレウテリウス)港が建設された。12世紀末、第4回十字軍来寇前のコンスタンティノープルには、プロスポリオン港とネオリオン港を利用する形でジェノヴァ人、ピサ人、アマルフィ人、そしてヴェネツィア人の居留地が並び、さらに対岸のガラタにはジェノヴァ人の居留地があった。
ビザンツ帝国時代のコンスタンティノープル
マルマラ海側に、左からテオドシウス(エレウテリウス)港、一つおいて、コントスカリオン(現クムカプ)港、
金角湾口からプロスポリオン港とネオリオン港、対岸がガラタ地区
 セルジューク朝のスルタンは、フリードリヒ1世(在位1156-90)にそそのかされてビザンツ領を侵蝕しはじめていた。マヌエル1世は、1176年みずから軍隊を率いて、ミュリオケファロンにおいてトルコ軍とまみえるが、それまで数々の戦果を挙げてきたマヌエル1世も惨敗を喫する。彼が死ぬと、その遠征によって疲弊したビザンツ帝国は滅亡の道を歩むこととなる。
 それにとどめを刺したのが、ビザンツ経済に深く食い込み、交易帝国を築いてきたヴェネツィアと、それに走狗された第4回十字軍(1202-04)であった。マヌエル1世の時代、ガレー500隻、輸送船1000隻以上の海軍力を保持していたが、その治世末期にはガレーを150隻をかき集められるかどうかまでに落ちぶれ、第4回十字軍来寇時には老朽船20-30隻ほどあるだけになっていた。
▼第4回十字軍、ビザンツ帝国を分け取る▼
 ヴェネツィアは、ビザンツ帝国「の保護・特権のもとで安全・有利に交易できたが、今やこの国は我が国の交易にとって有害な存在となりつつある―この判断の行き着くところが第4回十字軍のコンスタンティノープル征服であった」という(井上前同、p.166)。
 ヴェネツィアは、十字軍将兵の海上輸送について、4500人の騎士と彼らの馬、9000人の騎士の従者、2万人の歩兵、そして彼らの道具や食料の輸送を、銀貨9万4000マルクで引き受ける。それと同時に、ヴェネツィアは50隻のガレー船を派遣し、十字軍が占領した領土の2分の1を受け取るという、対等な参加者として加わる。しかし、十字軍はいま上でみたような陣容を派遣することができず、そのためヴェネツィアに借りが生じ、その言いなりとなる。
 1202年、第4回十字軍は聖地へ向かわずに、ヴェネツィアに反抗するアドリア海のキリスト教徒の町ザラ(現クロアチアのザダル)を攻略し、ついで1204年コンスタンティノープルを襲って略奪の限りを尽くす。「教皇インノケンティウス3世[在位1198-1216]は警告を発し、破門さえ申し渡した。ところが、ヴェネツィアは謝罪はおろか弁解すらしようとはしなかった。コンスタンティノープルは破門と引き換えにでも[して]手に入れ」、世界システムの中核の地位を確立しようとしたのである(井上前同、p.176)。
コンスタンティノープルを包囲する第4回十字軍
 フランドル伯ボードゥワン1世(1172-1206?)のラテン帝国を手始めにして、第4回十字軍に参加した諸侯はそれぞれに割当てられた地域に征服国家を創設する。 ここでビザンツ帝国は歴史の舞台から一旦姿を消すことになる。
 それは12世紀、西ヨーロッパが東ヨーロッパに対して優位に立ったことを証明する事柄であった。
 1204年のコンスタンティノープル攻略後、東地中海世界を主導したのはヴェネツィアであった。ヴェネツィアは旧ビザンツ帝国を分割する際、コンスタンティノープルの8分の3のほか、デュラキウム(現アルバニアのドゥラス)、イオニア諸島、エーゲ海諸島の大部分、エウボイア島、ロードス島、クレタ島、ベロポネソス半島の数多くの地点、ヘレスポントス海峡、トラキアといった交易港と島々を手に入れる。ヴェネツィアは十字軍運動を利用して、地中海に植民・交易帝国を確立したのである。
 これについて、フィリップ・D・カーティン氏は「この勝利に乗じて、初期の海上交易離散共同体から、軍事拠点をいくつも確保した本格的な交易拠点帝国になることだった。講和によってヴェネツィアは従来からの商業的特権を再確認させるとともに、コンスタンティノープルの(市街自体には関心を示さず)ドックと造船業のある地区を獲得し、さらにヴェネツィア人の交易を保護・振興するための戦略拠点をいくつも得た」と述べる(同著、田村愛理他訳『異文化間交易の世界史』、p.168、NTT出版、2002)。
▼1453年、西ヨーロッパの支援もなく、滅亡▼
 旧ビザンツ勢は首都を逃れ、エピロス、トレビゾンド、なかでも小アジアのニカイア(現イズニク)に亡命政権を建てる。ニカイア政権の皇帝ミカエル8世(在位1259-82)は活躍して、1261年にラテン人からコンスタンティノープルを奪回して、ビザンツ帝国を再興する。そして、同年、ヴェネツィアに対抗するため、同年ジェノヴァと軍事同盟を結ぶ。
 その際、結ばれたニュンファイオン条約において、ジェノヴァは最大50隻の艦船を提供する代わりに、ビザンツはジェノヴァ人に対して主要な港に居留区を与え、黒海の港への自由な出入を許し、首都奪回後はそこにも居留区を与えることとした。それにより、ジェノヴァはヴェネツィアが長年閉めてきた地位を獲得して、東方交易の基盤を築く。それ以後、ヴェネツィアとジェノヴァという2つのイタリア交易都市国家は、東地中海と黒海における海上交易権をめぐって相争うようになる。
 ヨハネス6世(在位1347-54)の時代なると、みずから艦隊を建造するなどして、ジェノヴァに対抗しようとする。ヴォスポロス海峡の関税の10分の9はジェノヴァのものになっていた。「彼は多くの輸入品についてコンスタンティノープルの関税料金を下げた。そのため到来する商船はジェノヴァ[人の居留地]のガラタスを避け、次第にビザンツ側に着くようになった。ジェノヴァは大打撃を受けたので、1349年に武力でビザンツ海軍を破り、ジェノヴァの束縛を脱しようとしたヨアニス6世[ヨハネス6世]の計画を失敗に終わらせる」(尚樹前同、p.838)。
 「13世紀の東地中海世界は政治的に分裂し、小国家が乱立していたが、経済的にはヴェネツィアを中心とするイタリア商人によって結ばれていた。『イタリア世界システム』とでも呼ぶべきこの体制は、15世紀のオスマン・トルコ帝国による新たな政治的統一まで続く」こととなる(井上前同、p.184)。
 フランス王ルイ9世の弟アンジュー伯シャルル・ダンジュー(伯位1246-85、シチリア王1266-85、ナポリ王1260-85)は、シチリアからエルサレムまで、東地中海全域に広がる大帝国を建設しようとする。その遠征がミカエル8世によって阻止されると、教皇を仲介者としてヴェネツィアと同盟を結び、フランスの騎士とヴェネツィアの海軍という十字軍を編成し、コンスタンティノープルを襲う態勢を整える。
 1282年3月、シャルルの大艦隊がシチリア島のメッシナに集結し、出撃が迫っていたとき、「シチリアの晩鐘事件」が起きる。この暴動はシャルルの圧政に対する不満が爆発したものであったが、その黒幕はミカエル8世であった。そこへ、ミカエル8世から贈られた多額の資金によって建造されたアラゴン王ペドロ3世(在位1276-85)の艦隊が到着し、シャルルの軍を撃破する。ペドロは新しいシチリア王(在位1282-85)として迎えられる。
 シャルルのビザンツ攻略十字軍が自滅したことで、かれの地中海帝国の夢は水の泡となる。それは同時に、「シャルルの敗北は地中海における十字軍の時代―騎士の時代といってもよい―の終わりを意味していた。これまで十字軍と手を携えてきたイタリア商人が、これからは単独で地中海に雄飛する」ことになる(井上前同、p.194)。
 14世紀初め、ビザンツ帝国はブルガリア人、セルビア人、ノルマン人に領土を削り取られ、地中海交易権はヴェネツィアとジェノヴァに握られる。そして、新興のオスマン・トルコ帝国に小アジアに続けて、バルカン半島を奪われる。1453年、遂にメフメト2世(在位1444-46、1451-81)がコンスタンティノープルを征服、1000年の歴史を誇ったビザンツ帝国は西ヨーロッパからの援軍がえられないなか死闘の末、滅亡する。ここにもう一つの「古代ローマ」が終焉する。
▼若干のまとめ▼
 日本では、ビザンツの歴史についてそもそも関心が薄い上に、その交易の歴史にいたってはまことに冷淡である。そのため多くのことを知りえなかった。それは当然であるかにみえる。ビザンツ帝国は、自国民による交易を積極的に発展あるいは維持しようとするとはせず、むしろそれを簡単に放棄してしまったからである。
 ビザンツ交易の歴史の時期区分は、冒頭にみた区分のうち中期が2つに分割され、4区分となる。T期は、4世紀の遷都から7世紀初めまでであり、ビザンツ帝国が古代ローマ時代の制海権を回復した後、イスラーム教徒の伸張によって地中海がローマの海からイスラームの海になる。U期は、その7世紀初めから10世紀末までであり、ビザンツ帝国が制海権を回復しようとして、アラブ・イスラームなど新興勢力と一進一退の争いを続けるが、次第に浸食される。
 V期は、992年のヴェネツィアの交易特権の付与から、1204年第4回十字軍のコンスタンティノープルの占領までであり、ビザンツ帝国は交易権を犠牲して国益を守ろうとする。その不利益に反発して、1171・1182年にはイタリア人を追放・虐殺するなどして交易権を回復しようと試みるが、イタリアをはじめとした西ヨーロッパ諸国に逆襲され、屠られる。W期は、それから1454年のオスマン・トルコの侵攻による滅亡まであり、「ビザンツ帝国」は制海権だけでなく交易権までも消失し、その交易はイタリアをはじめ西ヨーロッパ諸国によって完全に握られる。
 したがって、ビザンツ交易の歴史のうち、前半までは自国民による交易を語りえようが、後半にいたってはイタリア人の交易を語るに過ぎなくなる。そうだとしても、ビザンツ帝国をめぐる交易は、その国の興亡にかかわらず、隆盛を極めたことは明らかである。7世紀以降、地中海世界は北岸のビザンツ世界、南岸のイスラームの世界に引き裂かれるが、そのあいだの交易は一時的にはともかく、それが途絶えることはなかった。イスラームの世界ではむしろ融合的な交易圏が築かれたとされる。
 1060年頃のコンスタンティノープルでは、イタリア人はもとよりとして「バビロン、セナール、メディア、ペルシア、エジプト、カナアン、ロシア、ハンガリー、スペイン、そして約2千人に上るユダヤ教徒」といった人びとの共同体があり、またアレクサンドリアでは「イエメン、イラク、シリア、コンスタンティノープルからの商人共同体に加えて、トルコ人、フランク人」がいたとされる(カーティン前同、p.186)。
 地中海の北岸と南岸のあいだの交易は同じ慣習のもとで行われた。それぞれがヘレニズム時代からの商慣習を受け継いでいたからである。それに異質な関係を持ち込んだのが、十字軍と一体となって参入してきたイタリア交易都市のキリスト教徒の交易人たちであった。
 それは「商業活動と政治・軍事権威との関係をめぐるキリスト教徒のやり方にあった。すなわち、平和的交換に依存する人々と実力に訴えて金儲けしようとする人々との関係、要するに交易と略奪との関係である。ヴェネツィア、ジェノヴァをはじめとするイタリア諸港市は武力行使に重きをおく交易離散共同体を組織していた」。それに対して、イスラーム教徒にあっては、基本的には「北方ヨーロッパと同様、政治の領域と経済の領域は互いに自律的なものとされていた」とされる。
 「ヴェネツィアは当初ビザンツ帝国の属州として海上活動の経歴を開始した。その後、ビザンツの同盟国としてシーレーンを守り、他国の船を襲ったりした。ヴェネツィアが最初にしたことは荷物を運搬することと同時に保護料を徴収することだった……1082-1204年、ビザンツ帝国……の財政的優遇措置のおかげで、ヴェネツィア海運業は主たる競争相手よりも20パーセントも高い収入を得ることができた。
 1100年ごろ、ヴェネツィア海運業はアドリア海、イオニア海の比較的穏やかな海域から東地中海の競争の激しい海域へ進出した。たちまちヴェネツィアは、ヨーロッパの十字軍をめぐる政治に関与するようになった。すなわち、軍隊や補給品を輸送したり、レヴァントにできた新しいキリスト教国から商業上の譲歩を引き出すために、海軍力で脅迫したりしたのである」(以上、カーティン前同、p.170-1)。
 このヴェネツィアをはじめとするイタリア人たちの、地中海において交易拠点を暴力的に切り開き、それを独占するというやり方は広く西ヨーロッパ諸国にも受け継がれ、「大航海時代」の海外進出のあり方となる。
(2006/08/20記、2010/06/30補記)

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