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続2・4・3 ハンザ同盟、ニシンと毛織物で稼ぐ
(Sequel) 2.4.3 Hanseatic League, earning
with Herring and Woolen Fabrics

▼ハンザ同盟の海外商館の組織と統制▼
(A) ロンドンの商館
 ハンザ同盟にとって、イングランドがもっとも成功を収めた
交易先であったとされ、海外商館のうちロンドンの商館が最も
有名である。ドイツ人商人は、10世紀末からイングランド人と
平等に扱われ、他の外国人より有利な取り扱いを受けてい
た。
 そのなかでも、ケルン商人は978年ごろテムズ河畔にギル
ド・ホールという商館を持っていた。その東隣に、1281年連合
ハンザがスティール・ヤードと呼ばれる居留地を設ける。ロン
ドン商館は、自らの支所をイングランドやウェールズの各地
に配置していた。
 ケルン商館時代、その商人たちはリチャード1世(在位1189
-1199)から商館敷地の地代2シリング、納税免除という特権
を賦与されていた。その後、特権は縮小あるいは拡大する
が、エドワード3世(在位1327-1377)はフランスとの百年戦争
に入っており、多額の資金を必要としていた。その伝統的な
貸し手であったイタリアの銀行が破産すると、ハンザ商人の
援助を受けるようになる。ハンザ商人は巨額の援助を与え、
その代償として多くの交易特権を獲得する。
スチールヤードのケルン商人
ゲオルク・ギーツェの肖像
ハンス・ホルバイン、1533
ベルリン美術館蔵
 ロンドン商館には2人の商館長がいて、そのうち1人はおおむねロンドン市の高官が就任した。それは、ロンドンにおける特権を維持するために、ロンドン市の監督を進んで受け入れたからとみられる。ロンドン商館では、商人団の総会が最高機関として、商人に対して権限を振るったという。
 15世紀なると、商館長はじめ12人の役員が選出され、商人たちを厳しく統率した。特定の勢力に荷担しないよう、有給の専任書記が配置された。ロンドン商館では、ケルンやダンツィヒ(現グダニスク)の勢力が強く、リューベックやハンブルクは目立たなかった。
(B) ブリュージュの商館
 ブリュージュには商館としての特定の建造物や居留地はなく、ハンザ商人たちはそれぞれに借家や間借りしており、その取引も公営・私営の取引所で行なわれていた。フランドルは当時、先進地として生活水準は高く、また外交の舞台となっていたので、洗練された商人でなければ勤まらなかった。なお、15世紀半ばオステリンゲン広場(ハンザ広場)が提供され、ハンザ商館が建設される。
 ハンザ商人は、ここではザクセン、ヴュストファーレンおよびプロイセン、そしてゴトランドおよびリーフラントという、3つグループに分かれていた。ブリュージュ商館としての全体総会はあったが、これらグループごとの総会があり、財政も3つに分かれていた。また、毎年、それぞれのグループから2人、合計6人の長老が選出され、商館長の役割を果たした(15世紀後半から3人となる)。
 ブリュージュにいるハンザ商人は、フランドルとの交易の中心にして、北ヨーロッパの原料品と南ヨーロッパや東方の商品の交換・中継に携わった。彼らはここでもさまざまな特権を獲得することに成功する。
1572年印刷のブリュージュの俯瞰図
 例えば、1360年ハンザ商人はフランドルにおいて海外交易を営む権利のみならず、フランドルのなかでの小売権や、他の外国人との交易権も認められていた。ドイツとフランドルとの戦争が勃発した場合、ハンザ商人には事務整理のため120日間の退去猶予期間が認められ、またその地に留まる者にはその生命や財産が保障された。
 ハンザ商人は同郷人の債務や犯罪の連帯責任を免除された。また、フランドルに居留するハンザ商人の遺産はフランドル伯にではなく、相続者に帰属した。
(C) ベルゲンの商館
 ハンザ同盟は、スカンジナヴィア諸国ではノルウェーのベルゲンやショーネン、そしてヴィスビーを拠点していた。ベルゲンとショーネンには漁獲物の市場が置かれていた。ベルゲンの商館は、他の商館よりも遅く、14世紀半ばになって設立された。
 ベルゲンの商館は、ドイッチェ・ブリッゲン(ドイツ人の埠頭)と呼ばれる居留地にあり、木造建物群であった。商館は、最初6人、その後2人の長老に管理され、1450年以後は18人衆が交易の監督に当たった。その他に、常任の書記や船荷監督が配置されていた。
1580年頃のベルゲンの俯瞰図
世界遺産のブリッゲン
ベルゲン旧市街の倉庫群
19世紀初めまでは木地のままであったが、同世紀末にかけて次第にカラフルになった
 14-15世紀、ベルゲン商館に所属する商人数は、最盛期には2000人とも、3000人ともいわれる。当時の人口は1万人ほどとされたので、それにドイツ人が占める比率は異常に高かった。しかも、居留する商人や職人は独身者に限られ、名高い過酷な徒弟訓練が行なわれた。それがために暴力沙汰は日常茶飯事であった。
 ベルゲンの商館は他に比べ、リューベックの商人が優位を立っていた。1338-1528年のベルゲン商館の役員のほとんどがリューベック出身者であった。リューベックの商人のなかに、ベルゲン航海者団という集団があり、威勢は良かったが、リューベックでの地位は低く、参事会員を出せなかったという。漁獲物の交易は毛織物や羊毛の交易に比べ低く見られていたかにみえる。
 スカンジナヴィア諸国の住民は漁業によって生活していたが、その漁獲物の取引はハンザ商人の手中にあった。これらの国々の商人はハンザ商人の代理者か仲介人となって、最低の価格で漁獲物を提供した。また、漁師も冬期の自家用に必要な魚しか、塩漬けにすることができなかった。ハンザ商人は、彼らに穀物・ワイン・金属製品・織物等を供給し、彼らから魚のほか、船材・毛皮・木材などを手に入れていた。
 なお、イングランド人もベルゲンに進出して交易しようとするが、ハンザ商人によって駆逐され、商品と貨幣を略奪されるという被害に遭っていた。
(D) ノヴゴロドの商館
 ノヴゴロドの商館は、ロンドンにつぐ大商館であった。ハンザ商人は、それ以外にノヴゴロドより西にあるブスコフや、コブノ(現リトアニア、カウナス)を交易地としていたが、ノヴゴロドが常にハンザ同盟の根拠地であった。そこは、古くからイリメニ湖に臨むロシアの一大集散地であり、11世紀初頭すでに相当の繁栄を示していた。
 ノヴゴロドの商館は、自らが建設した商人教会にちなんだ聖ペータース・ホーフと呼ばれる居留地のなかにあった。商人教会は司教の管理や君主の保護を受けない、商人たちが所有・運営する礼拝所であり、現金や書類の保管、商品の貯蔵、会議の場所にもなった。ノヴゴロドの商館には1人の商館長がおり、詳細な規約が設けられていた。
 ハンザ商人は、ロシアの穀物・毛皮・蝋・蜂蜜・麻・用材などを購入し、西ヨーロッパの毛織物・麻織物・金属製品・ワイン・塩等を販売した。ノヴゴロドに居留するハンザ商人の商取引はますます発展し、当時「誰かよく神とノヴゴロドに抗し得ん」という諺から、その富強ぶりが察せられる。
 ハンザ商人の交易独占は、1472年皇帝イワン3世(在位1462-1505)がこの地を征服してから、次第に衰退しはじめ、さらにイワン4世(在位1533-84)が1570年3万人の市民を殺戮するとたちまち衰える。
▼自己輸送から他人輸送に移行、海運の先駆け▼
 古代から中世にかけての海上交易は商人船主を担い手としていた。そこでは交易と輸送の担い手は分離しておらず、商人が自らの商品を自らが所有する船を用いて輸送するという、自己輸送の形態をとっていた。近代における形態は、交易と輸送の担い手が分離し、商人は自らの商品を積荷として、別人の船主が所有する船に積み込んで輸送するという、他人輸送あるいは賃積み輸送となっている。
 ハンザ商人の海上交易においては、従来通り自己輸送をもってはじめられたが、次第に他人輸送に移行していったとみられる。しかし、それがいつ頃から、どの程度、移行したかについて定かではない。ハンザの海上交易が全面的に他人輸送に移行していったとはいえないが、商人以外に船主や船員の団体が作られ、船舶共有制が発達し、ハンザ商人の貨物のハンザ船主の船への積み込み政策がとられ、またハンザに海法が生まれていたことなどからみて、相当程度、移行していたことは明らかである。
 ニシンやタラの海上交易は、特定時期において短期間で買付け、そしてその輸送を成立させなければならなかったためか、12世紀といった早い時期から、ニシンやタラの出荷時には多数の商人や船主が集まって海運取引したという。そのとき、買付け商人は自己所有船だけではなく、他人である船主が所有する船にその輸送を委ねることがしばしばであり、ここからハンザにおける他人輸送が進んでいったとみられる。
 次に、他人輸送の担い手である船主、おおむね船主船長が、どのように形成されたかについても定かではない。航海術に優れた船員が、少額の海上交易で稼いで貯めた小金で小型船、あるいは大型船の一部を買い取ることで、船主になったとみられる。この後者から船舶共有制が発達した。ただ、そうして形成された船主船長も商人であることを決して止めなかったとみられる。
 一つの船を、多数の人々が共有し、また利用していた。1345年に海中に消えたある船は26人、1430年の別の船は39名の商人が賃借していた。また、1468年のある難船には62人の権利所有者を数えたという。
 ただ、商人が船を所有せず、運賃・用船料を支払って、他人の船を用船するようになると、船主船長も次第に交易から切り離され、商人の雇われ人のようになる。また、それとともに船舶共有の持ち分がなく、船主に雇われる船長も現れてくる。こうして交易と輸送が完全に分離すると、いままでになく船長に対する責任追及が強まる。
 ハンザ船の航海利益はかなり高率であった。1449年、リューベックの船は《湾の塩》を積むことで、船の価格に等しい利潤をえたという。それほどでなくても60-30パーセントの利潤をあげている例が多い。したがって、運賃が商品価格に占める比率が大きくなり、ダンツィヒからフランドルまでの小麦は1404年には48パーセント、それとは逆向きの木材は1404年に80パーセント、1428年には70パーセントにであったという。
 このような高額な運賃がなぜ支払われたか。これら2つの投資先は同等のリスクがあった。それは、資産家にとって船舶共有の持ち分投資についても、商品取引への投資と同じような程度の配当が、当然のように期待されたからである。
 ハンザの運送あるいは用船契約は、13世紀まではビールを飲みながら口頭で結ばれたが、14世紀からは文字で書かれた証書が用いられるようになった。その証書は割符証書の形式で、同文の片方を船主が 他の片方を商人が持つこととなった.。地中海では、12世紀には公証人が作成した証書に取って代わったが、ハンザでは16世紀まで割符証書が用いられ続けた。また、16世紀までイタリア式の複式簿記が知られることはなかった。
 1461年と1488年に作られた,最古といえる運送契約書がある。それは契約不履行となったためか、図らずも残されたものである。その契約はバルト海都市の商人がオランダの船主に、フランス西海岸の《湾の塩》の輸送を依頼したものであった。
 塩の輸送を依頼した商人はリーフラントの都市、それを輸送した船主はオランダのカンペンに居住していた。いずれもハンザ都市であるが、カンペンがハンザの《湾の塩》取引の中継地となり、バルト海の都市と濃密な交易関係が築かれ、すでにオランダ船がハンザの商人によって用船されていたことがわかる。なお、この契約による塩の運送費は販売価格の50パーセントになっていた。
 12世紀、ガスコーニュのワインを運ぶ船が集まるオレロン島で、海上交易の慣習法が生まれ、それらは「オレロン海法」として集成される。それが15世紀編纂のフランドルの「ダムの海法」や「ヴィスビー海法」の基礎になる。
▼資金を結合する会社と船舶共有制▼
 高橋理氏によれば、14世紀リューベックには会社登記制度があり、1311-60年に280の会社が登記されている。それらは3つの種別があったという。なお、ベルゲンとの交易では、それらの亜種があった。
 すでにみたように、ドイツ・ハンザの商人はイタリアの商人に比べ、1人当たりの交易規模が小さい。しかし、海上交易は局地的交易とは違って、それなりの大きさの資金が必要となる。そこで、それなりの海上交易を行なうためには、一定の規模まで資金を寄せ集めるしかなく、交易資金の貸し借りが行なわれていた。
 第1は真正会社(真正な関係のある人々の会社という意味か)である。ある例では、Aが40マルク銀を持ち、Aにおおむね複数のBが318マルク銀を提供して会社を設立し、Aに業務を執行させる。利益は、Aが3分の1、Bが3分の2、をとる。その場合、AとBは親族であることが多いが、他人である場合もある。これは、すべての出資者が業務執行者となる合名会社でもなく、また業務執行者も出資していることから次のゼンデーヴェとも異なる。
 第2はゼンデーヴェという会社である。これは出資と業務執行が完全に分離した形態で、AとBがゼンデーヴェを設立した場合、Bのみが出資、業務はAのみが執行し、一定の利益配当をBに与えるという仕組みである。これは、出資者と業務執行者とは分離している点で近代会社組織に近く、またイタリアで発達したコンメンダと同じとされる。ただ、損失を生じた場合、業務執行者は出資者に出資金を補償しなければならない。
 第3は特定の呼称のない会社である。それは全員が出資し、全員が業務執行して、出資高に応じて利益を分配する形態である。前2例に比べて数が少ない。出資と業務執行とが、完全に一致している点で、合名会社と共通している(以上、高橋前同、p.168-173)。
 古代から中世までの海上交易は交易と輸送とが分離しておらず、それらがおおむね同一人によって担われてきた。ハンザ時代になると、交易と輸送とはおおむね分離をとげ、輸送は海運として自立しつつあった。ただ、海上交易に利用される船の建造費は高く、1人の資力では容易に建造、あるいは所有したりすることはできなかった。そこで発達したのが船舶共有制である。それには海難に際して生じる巨大な損失を分散させるという効果もあった。
 この中世にひろく利用された船舶共有制は交易と海運とは分離しているものの、船の所有と経営、航海は分離しておらず、航海が危険をはらんでいたため、船長が単に航海の責任者ではなく、船主(経営の責任者)であることを前提にしていた。
 それは1隻の船を複数の出資者(おおむね10人以下)によって建造あるいは所有しようとするもので、出資高に応じて、出資者それぞれの船の所有分を分割する。これを持ち分と呼び、出資者それぞれの持ち分の大きさに応じて、航海から生ずる利益を分配する仕組みである。なお、船長には持ち分に応じた配当しかえられないが、彼はおおむね商人として交易を行うことでかなりの利益をえていた。
 14世紀末の例では、リューベック市民の船長が2分の1、ヴィスビーとシュチェチンの市民がそれぞれ4分の1の持ち分となっている。1433年の例では、船長Aが2分の1、Bが8分の1、Cが8分の1と16分の1、そしてその他5人がそれぞれ16分の1の持ち分となっている。この船舶共有制は、船主船長になりたいが資金が足りない場合、それを補ってくれる制度であった。また、それを利用して、小資産家がその小金を分散しながら、複数の船の持ち分所有者になることもできた。
 このように、船舶共有制は船長の出資高が他に比べ大きく、その船長は航海かつ海運経営の責任者となっていることが特徴となっている。船長だけがゼンデーヴェと同じように業務執行しているが、その船長に特段の利益配当があるわけではない。その点で持ち分は株式に近いものの、所有と経営が分離しているわけでない。そうしたことから、船長の資産と能力を信頼した上での、単なる資金の結合という性格が強い。
 こうして、ハンザの船のほとんどが一定の持ち分を所有する出資者たちの共有船となり、それが危険を共有しうる資産を持つ船主船長によって運航されるようになっていた。単独所有の例はドイツ騎士修道会だけにみられたという。しかし、持ち分所有者が非ハンザ人にも広がったため、15世紀以降、ハンザ同盟は非ハンザ人が持ち分所有者となることを禁じた。
 ハンザ都市は、船舶共有制を地中海と同じように発達させたが、銀行・保険業を発達させることはなかった。船舶共有制の広がりが海上保険の代替となっていたとみられる。ハンザ商人は、小型の取引を現金で行なうことを原則とし、信用取引を嫌った。それは、まずイタリア商人にくらべ安全・確実な交易を志向したことにあるが、信用取引によって非ハンザ勢力の侵入を恐れたからとされる。
▼ダンツィヒにおける船舶共有制と収支▼
 高村象平氏は、15世紀ダンツィヒにおける船舶共有制(組合)とその実態を詳しく取り上げている。持ち分所有者はダンツィヒ居住の商人が圧倒的に多く、しかもその多くが船長の経験者とする。その他、造船業者、艤装業者、都市貴族である。ダンツィヒ非居住者としては、プロイセン(ドイツ騎士修道会とその官吏を含む)やリーフラント、ヴェント地方の都市の市民であった。それ以外に、ダンツィヒの特徴として、イングランドやオランダなど非ハンザ人もいた。
 15世紀ダンツィヒの船舶共有は、船長が半ば以上を持つ準単独所有制、船長ともう一人による等分共有制、そして多数による真の共有制に区分される。ダンツィヒの船は他のハンザ都市に比べ大型であったので、真の共有制を発達させた。さらに、雇われ船長を生む出したが、その数は少なかったとする(同著『西欧中世都市の研究1 中世都市の諸相』、p.216-262、筑摩書房、1980)。
 共有船の船長は業務執行権をほぼ一任され、「外国港において積荷その他の処理を彼の自由裁断でおこなったばかりでなく、本国港においても船員の雇用、船舶の艤装、荷主との折衝等は、自由におこなった」。しかし、船長は絶対的なものではなく、その行為は共有船主に対して最善でなければならず、積荷に当たって共有船主の立会を求められ、また航海顛末報告の義務があった。
17世紀ダンツィヒの繁栄の様子
 トヴォイチェフ・ガーソン (1831-1901)画
1865
ポズナン国立博物館(ポーランド)蔵
 ハンザ都市においても、海上貸付(冒険貸借)は行われていた。ダンツィヒでは、共有船を抵当とした貸借が行われていた。その利子は、「船体の新旧、航海所要日数、戦時であるか平時であるか等によってさまざまであったが、場合によっては3割以上におよぶことさえもあった」という。
 共有船の船長は自己の持ち分だけでなく、船を丸ごと抵当とすることが多く、紛争が絶えなかった。また、荷主が船長と金銭貸借契約を結び、この債権をもって前払運賃とした。それによって、船長は船を艤装し、荷主は海上の危険を回避した。こうした投機的な貸借は禁じられたが守られなかった(以上、高村前同、p.238)。
 船舶共有組合あるいは共有船の収益は基本的に不明である。収入である運賃は、「15世紀初頭のダンチヒ―フランドル間の穀物または塩1ラストの正常運賃は銀量約200グラム内外にあたる。それは積込地の価格の平均1/2乃至2/3に該当する。他の種類の貨物、例えば木材はこれよりも割合が大である。そして15世紀を通じていえば、その前半においてはハンザ対デンマークまたはオランダとの戦争の結果、運賃は上騰し、世紀初頭の2倍ぐらいになったが、後半においては一般に運賃は低下しており、場合によってはこの世紀の初頭よりも下落していた」。
 他方、支出となる船舶建造費用は、15世紀初頭から中ばまで1ラストにつき銀量300-350グラム、後半はこれよりも低下している。艤装費用は船員の賃金、賄費(船員1人1か月約銀40グラム弱)を主な内容とし、船舶修理費は1往復航海に新造費の約25パーセントとなっていた。なお、船主が自己貨物を運送する場合には、水先案内料、曳船料、関税等が加算された。なお、船の償却年数は2-3年であった。
 これらの数値がおおむね判明してはじめて船舶共有組合の収益、したがって個々の持ち分所有者の収入が明らかになる。しかし、その解明は望みえないが、15世紀ダンツィヒの共有船はダンツィヒ―フランドル間の1往復によって、約4割余の収益を挙げていたという試算がある。その試算を上向き、下向きに修正する要素が多いとされる(以上、高村前同、p.261-2)。
▼運賃輸送の実務、海上保険の代替▼
 共有船は、数人の荷主の貨物を混載して輸送することになる。その運送あるいは運賃契約は、共有船主の一人である船長と荷主とのあいだで締結される。例えば、ダンツィヒでは「毎年バルト海の結氷が融ける頃になると、アルツスホーフ[集会所]は麦酒を汲みかわしながら、運送契約を締結する商人や船長で活気を呈した」。
 「この契約締結は、はじめは単なる口約をもって足るとされていたが、海上交通が頻繁となり運送量が増加するにともなって、契約の確実が要求されるようになり、15世紀のダンチヒにおいては、前もって―例えば、アルツスホーフで船長と荷主との間に―結ばれた協定を、市会に出頭して市会書記の立会のもとに登記し、契約を確認するのが普通であった。しかし契約書は当事者間でとりかわされるまでにはいたっていなかった」。
 こうした単なる貨物の運賃輸送とともに、共有船船長は貨物の売買―例えば、燻製肉などの売却、湾の塩の購入―を委託されることもあった。船長は前払された代金と実際の買入価格との開きを利益とした。それは一つの投機となったため、ハンザの堅実な取引という原則と相いれなかった。1375年のスカネールのニシンの先買禁止にはじまって、さまざまに禁止令が発せられる。しかし、ニシンや塩や穀物の取引は利益が大きいため、頻繁に行われた(以上、高村前同、p.255)。
 運賃の支払に一定の制度はなかった。それぞれの契約によって、「出帆前に支払われることもあったし、帰航後に全額が支払われる場合もあり、一部を前払して残額を帰航後に支払う方法もあった。しかし大抵は後払であったようである」。また、運賃の支払は現金ばかりでなく、「積荷の一部分(大抵積荷の3分の1)をもって支払にあてられることもあった。荷主はこの運賃以外に、穀物の撹拌や冷化等の手数料を支払い、さらに水先案内料の半ば(他半は船長の負担)、場合によっては海損費用を負担するのであった」という(以上、高村前同、p.249)。なお、現代、運賃は前払いである。
 ハンザ都市にあっては、地中海と違って、海上保険の制度はなかった。海上の危険をどのようにして回避したかについては、「第1は、造船監督の励行、冬季航海の禁止、商船隊[船団]航海の強制、商船武装の強制等によるいわば船舶自体、航海自体の直接的保全の方法であり、第2は、運送契約の正当な履行、超過積載や海損等に関する責任負担、船長の救助義務等の規定による間接的航海保全の方法であった」とまとめられている。
 後者は、荷主、船主あるいは船長の誠実な責務の履行と、それを担保する慣習法の問題であった。船長の責務として、例えば目的港への直航義務があるが、それに違反すれば15世紀後半には死刑となった。また、難船の際、積み荷の救助義務を誠意を尽さないと投獄され、再犯の場合は烙印を押された。この特殊労務に対して、船員には荷主の共同負担による救助手当、船長には救助貨物の運賃の半額が支給された。
 過積載は、船主にとって運賃の増収として、荷主側にとっても約定以上の積込みとして、誘惑に駆られる。これに対して、荷造りについて詳細な規定を設けられ、過積載によって損害が生じた場合は、その全額を船長が負担とし、また損害が生じなくても、余分に積んだ分の運賃は罰金として徴収した。こうした措置にもかかわらず、過積載は行われた。
 航海中に船舶や積荷が損害を受けた場合、例えば暴風雨による損害や海賊に支払う贖金(つぐない金)のごときについて、荷主と船主がそれら損害を分担するという、共同海損の原理があった。また、それら海上の危険に対して、正当な義務履行がなされたか否かの挙証が行われ、それが負担の規準にもなっていた。投げ荷の場合、船長は経験ある数人の船員の同意のもとに、はじめて行いうるとされた。
 他方、船長は荷主に対して一定の権利を持っていた。例えば、船長は難船の際に救助した貨物に対する運賃請求権がある。荷主が、運送契約締結後、貨物を荷役場に運んでこない場合、あるいは一度積込んだ積荷を卸させた場合、契約運賃の半額を請求する権利があった。さらに、航海終了後も、荷主が運賃を支払わぬときは、全額支払われるまで積荷を差押えることができた(以上、高村前同、p.257-8)。
▼ハンザ商人の交易を支えたコッゲとクラヴェール▼
 ハンザの船は、15世紀には100トン超クラスの大型船としてコッゲ(英語でコグ)やホルク、80-120トンクラスの中型船としてクライヤー、バルゼ、20トンクラスの小型船としてシューテという種別があった。さらに、その半ばには、新船型の超大型船クラヴェールが付け加わる。なお、シューテはスコーネ半島のニシン積み取りに利用された。
 コッゲは、ヴァイキングのクノルを改良した平底船で、少なくとも10世紀以前から使用されていた。15世紀の大型船としては、長さ30メートル、幅9メートル、吃水線が深く、大きな船倉を備えていた。
 また、まっすぐ伸びた船首と船尾、1本マストと大きな四角帆、船尾の小さな船楼、船尾中央に舵を備えていた。コッゲは、地中海との交易も行い、ジェノヴァやヴェネツィアにも入港した。コッゲの船尾舵は14-15世紀になると、地中海の船にも取り入れられるようになる。
 1227年のリューベックの関税表によれば、船は10トン以下、10-24トン、25トン以上という区分になっていた。13世紀にあっては小型船が多数を占めていた。ハンザの大型船は、13-14世紀コッゲがほとんどであったが、その船型を改良して大型化する。ホルクという船は、その正体が不明のところがある。15世紀からは主な船型となり、平均200トンにまで大型化したとされる。なお、ホルクは1930年ユトレヒトで発見された8−9世紀の難破船が、その典型とされる。
 1380年処女航海に出て沈没したコッゲが、1962年ブレーメンを流れるヴェーザー川の河川工事の際に発見され、現在、ブレーメンの外港ブレーマーハーフエンの海運博物館に展示され、またヴェーザー川にローラント号として復元・公開されている。このコッゲはマストが1本、1枚の大きな布を帆に張っており、長さ23.3メートル、幅7.78人メートル、マストの高さ24メートル、荷を積み込む船底の深さ1.8メートルであった。なお、小型のコッゲは長さ5メートルほどである。
 1462年春、べーから塩を積んで入港したフランス船は、バルト海にある超大型船の2倍を超える巨大な3マストの帆船
コッゲを刻印したメダル
ベルリン国立博物館蔵
出所:樺山 紘一他編集
『クロニック世界全史 』、
p.355、 講談社、1994
コッゲの復元船
であった。この船は、15世紀から地中海で開発された、300トンクラスのクラヴェール(イベリアではカラベル)型であった。その船体は外板を鎧張りするのではなく、平張りしていく構造となっており、帆装は四角帆が2枚、三角帆が1枚であった。三角帆は操船を容易にしていた。
 この船型の変更は、15世紀後半にからバルト海から北海に向けの嵩高品が増大するなかで、1隻当たりの積載量を増大させ、またズント海峡の通航に耐える船が求められた結果であった。これに北ドイツのハンザ都市は立ち後れる。
 15世紀末、ハンザの遠洋航海船が1000隻6万トン(平均60トン)ほどあったが、そのうち2万トンがバルト海のなかの航路、2万トンがバルト海を母港としてズンド海峡を通過して、フランドルやイングランドあるいはそれ以南の航路、4000トンがノルウェーからアイスランドへの航路に就航し、そして残る1万6千トンが北海の港に属していたと推計されている。
リサ・フォン・リューベック 号
15世紀ハンザのカラベル復元船
2005年竣工
▼ハンザの造船業、さまざまな規制と監督▼
 ハンザの船はハンザ都市の造船所で建造された。バルト海沿岸は堅牢なオーク材の産地であり、その他、樹脂蝋やタールを供給した。スウェーデンは鉄を産し、ダンツィヒやシュトラールズンドには特別な錨鍛冶がいた。帆やロープの原料である大麻や亜麻はリーフラント産であった。
 ハンザの造船業はダンツィヒやシュチェチン、リーガにおいて盛んであった。シュトラールズンドには1397年13、1428年21の造船所があったという。そのなかでも、廉価な造船資材を持つダンツィヒが抜きんでていた。15世紀半ば、ハンザ同盟は後述するようにオランダの進出を阻止しようとして、非ハンザ人への船舶売却を禁止する。それを、ダンツィヒは一時受け入れたものの、その緩和を要請して1453年許容される。
 さらに、いま上でみたフランス船がはからずも海事紛争により、ダンツィヒのものとなる。ダンツィヒの造船所は、それを模倣して1475年ハンザの都市ではじめてクラヴェールを2隻建造する。これによって、ダンツィヒの造船所は
1234年シュトラールズンド
自治権証明書
1480-90年代造船都市として確固たる地位を築き、クラヴェールをイタリアにまで輸出するまでになる。その他のハンザ都市が没落するなか、ダンツィヒは造船業によって繁栄を続け、16世紀の商業革命を迎えたとされる。
 海上輸送の安全を確保するため、ハンザ船は都市が任命した監督のもとで建造された。1412年、ハンザ同盟はニシン100ラスト(1400樽)(1ラスト=2トン)を超えるトン数のある船、あるいは吃水線6リューベック・エル(12フィート)を超える船の建造を禁止した。新造船が規定に従って建造されていれば、船台を離れる前に検査官が都市の紋章を刻印した。
 この建造制限は、港への土砂の流入を防止する工法が未発達であったため、水深を考慮した措置であった。また、港で底荷を捨てることを厳禁したので、大型船にあっては満船では接岸できず、艀に瀬取りして、入港しなければならなかった。
 また、都市の参事会や在外商館の首席には、船が過積載しないよう監視する義務を課されていた。過積があると、船長にはそれにより生じた損害に対する賠償と、過積貨物の運賃に相当する罰金が課された。1447年には貨物の甲板積または船室積が厳禁される。
 1455年、リューベックでは4人の長老が積荷監督に指名され、船長と商人との紛争を未然に防ぎ、またその仲裁に当たっていたという。ブリュージュでは、1隻分の貨物を荷揚げするために、通常2-3週間を要したという。
 ハンザ船の航海術は地中海より遅れていた。一般に航海日数は相当かかった。それは速力よりも積載量に重きをおいていたためであった。信頼のほどは不明であるが、リューベックからの主要な交易港への航程は、順風満帆の直航で、ベルゲンまで3-4週間、ゴトランド経由レーヴァルまで6日、ダンツィヒまで4日、フランスの《湾》まで2-3週間、アイスランドが4週間となっている。
 12、13世紀ごろ、中国の宋代で実用化されたとされる羅針盤が、イスラーム圏を経由してイタリアに伝えられ、海図とともに地中海で用いられる。それらは、15、16世紀になって、北ヨーロッパでも用いられるようになる。燈台は、13世紀、地中海ではエーグ・モルトやマルセイユ、北ヨーロッパではトラーヴェ河口やエルベ河口に建設される。
▼船員の出自と雇用関係、船員の規律▼
 船員はおおむね船籍があるハンザ都市の住民であった。彼らの前身は農村から都市に流入した農民であった。その他、当然のように、他郷や異国の船員もいた。「1407年、シトラールズントに向ったダンツィヒのクライヤー船には、ゼーラント、カンペン、スエーデン、シテティーン等の生れの船員がいた。その他、イギリス人、フランス人等も、船員として乗組むことがあった」という。
 船長は航海毎に、ちょっとした縁故を頼りにして、船員を雇入れた。船員としての資格は、実際に航海に耐える能力をあるか否かであった。船酔のため勤務できない船員には賃金は支給されなかった。また、乗組員が能力がないと証明したときは、その船員は賃金の半額の罰金が課された(高村前同、p.243)。
 船員は、雇用契約にもよるが、本国の港に帰着しあるいは目的港に到着して、船荷の陸揚や積込が終ると、その契約は終了となる。「それ以前には、船長または舵手の許可なくして任意に上陸できぬことになっていた。ただし雇用期間内でも、なんらかの正当な理由によって―例えば妻帯するとか独立船主になるとか―上陸することを必要とする場合には、すでに支給された賃銀を返却して下船することができた」。
 「他方、船長は一度採用した以上は、正当な理由なくして、船員を雇用契約期限内に解雇することができなかった。これらをもって、船長と船員との間には、家父長制的保護と協力の関係があったとみることもできようが、しかしその他面において、海運取引が拡大するにともない、船長と船員との関係は次第に家父長制的色彩を失なう傾向にあったということができる」とする(以上、高村前同、p.249)。
 ハンザ船における船長と船員との関係は、「狭い船内の共同生活から自生した家父長制的関係」とともに、船長は「航海指揮権を有するとはいえ、天候や風の状態、あるいは航路変更を、船員および便乗商人と相談し、その承諾を得なければならなかったことのごときは、船長と船員との間にゲノッセンシャフト的[構成員が変わっても、同一性は失われない]関係が存在した」とされる。
 そのため、「船長は、船上または陸上における船員の行為について、責任を負った。ときによっては、船員の暴行を処罰せず、これを匿護することさえあった」し、また「船員が他船の船員と事をかまえたとき、船長は自船員の行為についての責任上から、投獄されることさえあった。しかし、この他面において、船長の船員に対する統制力が徐々に強力になっていった」(以上、高村前同、p.242)。
 船員の規律は時代が下り、船員が船長や船主に成り上がる機会がせばまり、船長や船主との近親関係が薄れ、また乗組員が増加してくると、厳しくなる。脱船は、13世紀末賃金の返還であったが、14世紀前半には多額の罰金を課すようになる。また、15世紀初めには3か月の投獄、1482年再犯の場合には鞭刑あるいは死刑となった。
 船員が不従順の場合、1378年賃金の不支給とハンザからの追放、1418年投獄、再犯の場合烙印刑となっていた。処罰は法廷において宣告されていたが、15世紀になると船長みずからがその程度に応じて処罰し、解雇できようになった。また、賃金増額の要求も不従順の1つされ、15世紀終りには船員の共同行為となる。
 1480年、ハンザ都市の船長たちがベルゲンに集り、船員たちが賃上げを要求して、勝手に勤務を放棄したり、目的港以外の港に入港するよう強要するので、船員規律の強化を要求している。これに対して、ダンツィヒ当局は帰航後に処罰することとし、賃金支払停止と投獄だけではなく、重罪とみなされるときは死刑と定めている。
▼船員の賃金、無賃輸送権、その年収▼
 船員の収入は賃金、無賃輸送権、雑収入であった。船員の賃金は1航海当りで決められ、出港時に3分の1、陸揚港到着時に3分の1、最後の3分の1は母港帰着時に支払われた。
 船長はじめ船員は賃金の支給を受けるほか、一定量の貨物を運賃なしで輸送することを許されていた。それが無賃輸送制である。高村象平氏によれば、それは「船員が船舶共有組合へ関与する形のものであり、いわゆる組合的関係の存在を示すものである」とする。
 その利益は、船員が運賃なしで携行する商品の売り買いの差から生ずる。船員に許される輸送の量は、通例1人につき1/3-1/2ラスト、船長や舵手には1ラストであった。「1ラストの穀物(または塩)のダンツィヒ―フランドル(または《湾》)間の運賃は、15世紀に大体銀200-300グラムであったから、場合によっては無料輸送の運賃額は1往復航海で1か年の賃銀と等しくなることさえあった」とされる。
 この無賃輸送権を他の船員に譲渡したり、またそれを行使しないで、船が稼いだ運賃額のなかから相当分を受け取ることもできた。雑収入としては、貨物の積卸作業の手当や、航海中積荷の穀物を撹拌して、風を通す作業の手当、底荷の積み込み手当があった。それら手当は荷主が直接、船員に支払った。
 ダンツィヒの共有船における賃金の年額(銀)は、1300年頃320グラム、1400年頃230-380グラム、1450年頃480グラム、1470年頃400-600グラムとなっている。なお、日雇労働者の賃銀(賄自前)は年270日労働として、14世紀前半702グラム、15世紀前半510グラム、15世紀後半467グラムである。この対比から、船員の収入は賃金に限ればかなり低額であったが、それ以外の収入によって日雇労働者と同程度かそれ以上になった(以上、高村前同、p.244-5)。
 乗船中、船員は食事が支給された。1530年の船内給食規則によると、肉食日には牛肉またはベーコンとえんどう豆および煮もの、他の日は塩魚・オートミール・そら豆・えんどう豆を給与することになっていた。その量については、特に定めていなかった。それは、ハンザ商人がしみったれた雇い主で、食糧の支給にもけちけちしたことの現われとされる。
 リューベックでは、1401年商人(船主)・船長・船員の友愛三者組合(Schiffergesellschaft)が結成される。しかし、それぞれの立場があらわになってくると、1480-90年代には商人(船主)および船長を除外した船員のみの組合が創られる。ダンツィヒでは、14世紀初頭に、三者組合が設立されている。町の集会所であるアルツスホーフには、14世紀の終り組合名の入った長腰掛が置かれていたが、それにかけられたのは一定の資産ある者に限られたとみられる(高村前同、p.250)。
 沖島博美氏によれば、船員協会はリューベックが1401年に設立されて最も古く、2番目に古いのが1488年に設立されたシュトラールズント。3三番目に古かったのがヴィスマールだ」とし、それ以外にフレンスブルク、シュターデ、オルデンブルク、ブレーメンにあったとする(同文・写真 一志敦子絵『北ドイツ=海の街の物語』、p.143、東京書籍、2001)。
 なお、リューベックには、現在もハンザ時代に商人が建てた商館とそれに併設したガングという賃貸長屋のほか、商人が商人や船員の未亡人のために建てたホーフという長屋が残っている。後者は現在も社会福祉事業施設として利用されている。
リューベックの船員協会
▼船員の職種や勤務体制▼
 乗組員数は、船の大さによって決まったが、平均して船舶の積載力5ラスト(10トン)につき1人が定説となっている。ただ、ズンド海峡を越えて西方に向かう船は大型船が多く、乗組員数もかなり多かった。それは航海距離が長かっただけでなく、砲手を乗り組ませる必要に迫られたからであった。
 1438年、オランダ船によって拿捕されたべー航路のプロイセンの商船隊は38隻、船員総数1015人、平均約27人であった。大型船は最大54人、最小30人、小型船は最大22人、最小8人であった。1449年、イギリス船によって拿捕された例では、14隻、600人、平均約43人であった(以上、高村前同、p.247)。
 船員の勤務体制は、航海中は2交代当直制であった。その勤務は、「操帆、操舵、看視、水深の測量、船貨の保全(例えば穀物の撹拌や冷化)、海難の際の積荷の救護があり、入港したときには貨物の積卸があった」。それ以外に戦闘行為もあった。
リューネブルクのクレーン
1332年建造
 15世紀、船が次第に大型船化してくると、勤務も複雑となり、乗組員に階層が生れる。船長の下に、高村象平氏の用語に従えば、まず舵手(Steuermann)[航海士に相当しよう]がいて、「船長の代理たり得る者であり、船長が航海中死亡した場合の後継者であった。大型船においては、主席舵手rechten sturman(eigentlicher Steuermann)のほかに、次席舵手rofsturman(Roof-Steuermann)を置くこともあった。つぎに、この下には水夫長(hovetbosman、Hauptbootsmann)があり、船大工(Zimmermann)がある。前者は最も経験ある船員がなり、後者にとっては船舶の修理ことに漏水箇所の修繕が大きな仕事であった」。
 「つぎに置かれるのが、船員(Matrose)と料理人(Koch)とであり、船員のうちschipman(Vollmatrose)と呼ばれるものは相当の航海経歴をもった高級船員[熟練水夫をいうべきである]、botsman、booszman(Leichtmatrose)と称されるものは経験のすくない下級船員乃至水夫である。最下の地位にあるのは、初心の船員Junge、Jungknecht(angehender Matrose)である」。
 「これらのほかに1487年の資料によると、会計係(porser、Zahlmeister)が乗組んでいる。彼がいかなる地位に置かれたかは不明であるが、おそらく舵手の下位かあるいは同格であったろう」。また、船長のほかに、初期においては共有船主あるいは他の荷主が同船していた。彼らが、「次第に貨物に随伴しないようになると、船舶書記(schryfeyn、Schiffsschreiber)が資料のなかに現われてくるようになる」(以上、高村前同、p.248)。
▼ハンザ同盟の海賊との相互依存とその排除▼
 11世紀、ヴァイキングの時代が終わると、スカンジナヴィアでは国造りが進められ、バルト海に進出してくる。それに反抗するかたちで、スラヴの海賊が台頭することになる。そして、12世紀ドイツ人の東方植民がはじめると、それを歓迎することのできないスラヴ人たちは海賊行為に生活の糧を見いだす。
 スラヴの海賊はゴトランド島に集まり、バルト海に乗り込んできて、ドイツ人の船を襲うようになる。また、彼らはハンザ都市と対立する、一部のドイツ騎士修道会と結びつく場合があった。これに対して、ハンザ商人は船団を組んで航行し、それに護衛船を同行させた。
 1361年、第1次デンマーク戦争がはじまると、ハンザ同盟は船乗りを募集する。それに、後日クラウス・シュテルテベッカー(がぶ飲み野郎)という名で呼ばれる、海賊となる男が応募してくる。彼の素性は不明である。1360-70年ころの生まれとされ、生地はヴィスマル、リューゲン島、あるいはブレーメン近郊のフェルデンとされる。戦後、失職すると、ゴトランド島の海賊に身を投じる。バルト海でハンザ船を襲い、略奪しては貧しい人に分け与えるという、義賊となったとされる。
 ハンザ同盟が第1次デンマーク戦争の相手方であったヴァルデマル4世の娘マグレーテ(在位1387-97)は、1397年スカンジナヴィア三国の王となり、カルマル連合と呼ばれる強力な国家連合を成立させる。それより前、1389年のデンマーク兼ノルウェーの女王になると、スウェーデンに襲いかかり、ストックホルムを包囲する。
 ストックホルムはハンザ都市であり、ほとんどの住民がドイツの商人であった。彼らは、マグレーテ女王に襲われると、リューベックに救援が求める。しかし、直ちには対応できないところから、リューベックは敵対しているゴトランド島の海賊に、救援物資の輸送を依頼する。そこで活躍したのがシュテルテベッカーたちであった。彼らの活躍はハンザ都市市民に賞賛され、ヴィタリアーナ海賊(食糧を届けるひと)と呼ばれることとなる。その賞賛は現在に続く。
 それはともかく、その後もシュテルテベッカーらはバルト海ばかりでなく、北海にまで出向いて海賊行為を働くようになり、跳梁を極める。それに対して、ハンザ都市も討伐に乗り出す。1394年には35隻の軍船と3000人の兵士が繰り出される。1395年になって海賊討伐の成果が上がりはじめる。マグレーテ女王は海賊討伐に熱心で、1398年ドイツ騎士修道会の協力をえて、ゴトランド島を攻撃する。それらに対抗できなくなった海賊たちはバルト海から北海に逃れる。
 北海のフリースラントは中世初期から海上交易人を輩出してきたが、ハンザの恩恵を受けていない地域となっており、その領主は海賊に友好的であった。彼らに走狗されて、
シュテルテベッカーの肖像
ハンザ都市の
海賊掃討協定書
ヴィスマール公文書館蔵
ハンザやその時期、勃興しはじめたオランダの船を襲うようになる。北海で活躍する海賊に手を焼いたハンブルクは、1400年から本格的な征討をはじめる。そのとき、いままで海賊と結託してきたフリースラントの領主は彼らを裏切るが、オランダはそれを利用しようとする。
 こうして一大海賊捕物劇が展開され、1401年海賊40人が殺され、シュテルテベッカーら70人が逮捕され、ハンブルクにおいて公開処刑される。シュテルテベッカーの船には宝が隠されていると探すが見つからない。最後に船大工がマストをナタで割ったところ、金の塊が発見されたという。海賊船やその基地から没収された財宝は戦費を償い、ハンブルク商人の損害補償に充てられた。なお、ヴィタリアーナ海賊は1432年に討伐されたことになっている。
 14世紀から15世紀におけるヴィタリアーナ海賊の立場は、「自分たちの本質的な敵とみなしている、まさにその都市の門閥の傭兵隊として戦闘に出かけていく」という、どっちつかずのものとなっていた。逆もまた真で、ハンザ同盟にあってもその総会において「味方として、多かれ少なかれ、公然と海賊を利用しなければならないような、軍事作戦をおこなう決定が採択され……[また]バルト海での海賊行為の根絶……を目指す決定もとられていた」のである(J.マホフスキー著、木村武雄訳『海賊の歴史』、p.51、河出新報社、1975)。
▼中世末期のヨーロッパ、低地地方の領主の交代▼
 神聖ローマ帝国では、1273年ルドルフ1世(在位1271-91)が皇帝に選ばれ、大空位が終わる。その後、諸家交代するが、ハプスブルク朝(1438-1740)が続くこととなる。
 ハプスブルク家は、主として婚姻政策によって次々に家領を広げ、13世紀にはオーストリア、15世紀にはマクシミリアン1世(在位1493-1519、ドイツ王:在位1486-1519)が低地地方、16世紀にはカール5世(在位1519-56、スペイン王としてはカルロス1世、在位1516-56)がスペインを支配下に置くようになる。
 1328年、カペー朝と替わったヴァロワ朝のフランスは、百年戦争(1339-1453)にはまりこむ。その戦争は、イングランド王エドワード3世(在位1327-77)がフランス王位を要求し、フランスに侵入したことにはじまる。そのねらいは、毛織物産地で遠隔地交易の中心であったフランドル、赤ワインの産地で天然の良港ボルドーをもつギュイエンヌ、そして穀物産地のガスコーニュという3つの領地を確保して、商品生産や流通の発展を取り込もうとする経済戦争であった。
 15世紀初め、フランス王家ヴァロワ家の弟の家系が支配するブルゴーニュ公国(本拠はフランスの中東部、中心都市はディジョン)は政治的な独立をもとめて、フランスの敵イングランドと同盟を結ぶ。それに対抗してヴァロワ家を支持したのはアルマニャック伯と王族のオルレアン公家であった。しかし彼らは弱体であった。そこで、ジャンヌ・ダルク(1412-31)が奮い立ち、軍勢を引きつれてイングランド軍を打ち破り、シャルル7世(在位1422-61)に戴冠式を挙行させる。
 このブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立によって、15世紀フランス国内の交易圏はイングランド・ブルゴーニュ圏とブリュージュ圏に分かれることとなる。
 フランドル伯領は神聖ローマ皇帝とフランス国王の属領ではあったが、11世紀にはその勢力を大きく拡大し、西ヨーロッパの政治に影響力を持つ領邦になる。12世紀後半には絶頂期を迎えるが、13世紀になるとフランスの干渉が強まって弱体化する。
 14世紀初め、フランドルはフランスの支配に服した後、1369年にブルゴーニュ公国のフィリップ豪胆公(在位1363-1404)がフランドル伯ルイの娘マルグリットと結婚すると、ブルゴーニュ公国に編入される。ここでフランドルの独立国としての歴史は終わりをつげ、さらに1477年からはハプスブルク家の支配下に入る。
 12-14世紀、オランダの地方もフランドルと同じように神聖ローマ帝国の領域にあったが、ホラント伯領、ユトレヒト司教領、ブラバント公領、ヘルデルラント公領などが形成され、また防衛力を持った交易都市が築かれてきた。15世紀前半、オランダ(ホラント、ユトレヒト、ノールトブラバント、ヘルデルラントなどの地域)は、フィリップ善良公(在位1419-67)の時代、結婚、戦争、政略の果て、ブルゴーニュ家の支配下に入ることとなる。
 15世紀後半には、オランダもフランドルと同じように、ハプスブルク家領に組み込まれてしまう。神聖ローマ皇帝カール5世の治世、低地地方はハプスブルク家領として統一され、そのもとで穏和な支配が行なわれたとされる。しかし、その息子のフェリペ2世(在位1556-98)がスペインとオランダを継承すると、新教徒を弾圧するなど圧政がはじまる。
▼北海からバルト海への直接交易がはじまる▼
 14世紀後半、ハンザ同盟は最盛期を迎える。それを過ぎると衰退していくが、それには内部的、外部的な要因があった。15世紀、イングランドやオランダなどが領邦国家として台頭し、それぞれの国々の商人たちが成長してきた。それにともなって、ハンザ商人の特権は奪われ、ハンザ同盟の不統一があらわとなってくる。
 15世紀、フランドルにおける交易の中心地は、ブリュージュに替わってアントウェルペンに移動する。それに抵抗しようとして、リューベックはブリュージュの商館をユトレヒトに移動しようとするが、ケルンやドイツ騎士修道会の反対にあい、またブルゴーニュ公に圧力が掛けられて、特権が縮小する。
 オランダを先頭にして、イングランド、デンマーク、ノルウェー、スコットランド、フランスといった国々の船はそれぞれの国の支援を受けて、北海から、ハンザ同盟が実力で入域を阻止してきたバルト海に、多数、入り込むようになる。それによって、ハンザ同盟の独占体制は脅かされ、その存在意義を揺るがされる。
 それに呼応するかのように、バルト海東岸の都市は、西岸のリューベックなどの中継に頼らず、オランダやイングランドと直接に交易しはじめ、それまで威勢を誇ってきたリューベックに替わってダンツィヒなどのプロイセン都市の勢力が増大し、それに伴いリューベックの中継地としての地位も後退する。
 それと同時に、北ドイツではドイツ騎士修道会が弱体化し、他方領邦君主が勢力を伸ばしてくる。それにより都市への圧迫が加わり、都市の自治権が奪われる。その結果、ハンザ都市の同盟からの脱退が相次ぐようになり、ハンザ同盟の結束力は弱まる。
 リューベックに所属する船は、1180年300隻、1275年1200隻であったが、1368年には1775隻(人口は16万人)まで増加する。しかし、西ヨーロッパとバルト海との直接交易がはじまると、1466年には1250隻にまで減少する。その後、1590年には2000隻まで増加するが、1665年には1300隻まで減少する。その推移はリューベックの盛衰を示すものである。
 15世紀末、ズント海峡通過船792隻のうち、オランダの船が51パーセント、ハンザ都市の船が40パーセントになっていた。また、ダンツィヒ港を出帆、ズント海峡を通過した隻数は、1560年にはダンツィヒなどハンザ都市の船218隻に対してオランダの船が420隻になった。その80年後の1620年には、ハンザ都市の船はわずか44隻にまで減少し、オランダの船は892隻と圧倒的な数になっていた。
 リューベックのバルト海・北海における交易覇権は、15世紀末には大きく損なわれていた。しかし、リューベックがその頃から急速に衰退したわけではなく、バルト海を基盤とした交易をそれなりに維持していたのである。なお、リューベックの交易活動について、不完全な史料によりながらも、数理的な実態を詳細に分析したものとして、末尾に掲げた【補遺】 リューベックのバルト海交易─14世紀から17世紀まで─ がある。
 16世紀、大航海時代になると、ヨーロッパの海上交易圏の中心軸はバルト海・地中海から大西洋・北海に移る。その世紀の終わりには、ハンザ同盟は実質上ほとんど活動を停止してしまう。そして、17世紀の三十年戦争は北ドイツを疲弊させる。1630年、リューベックとハンブルク、ブレーメンの3市はハンザ都市からハンザの代表として振る舞うことを委任され、強力な同盟条約を結ぶ。
 しかし、すでにハンザ同盟は事実上解体しており、それら栄光に満ちた「自由ハンザ都市」の3市がまさに「ハンザの名において」振る舞っていたに過ぎなかった。1669年、最後のハンザ総会が開かれるが、それに参加したのは、リューベックのほかハンブルク、ブレーメン、ブラウンシュヴァイクなどわずか8都市と、ケルンであった。
▼15世紀、イングランドの毛織物交易をめぐる抗争▼
 ハンザ商人排斥の動きはイングランドにおいても進行する。イングランドでは毛織物工業が成長し、毛織物が羊毛に替わって基幹商品となる。14世紀半ばから、イングランドの商人は新興の交易人として毛織物をひっさげ、国家との結びつきを強めながら、遠隔地交易に進出する。
 1392年、イングランドの船がダンツィヒから、大量の穀物を積み出していた。彼らは、毛織物のさらなる販路あるいは残された販路をプロイセンに置き、それらの都市に直接に出向いて輸出し、穀物・材木を輸入しようとする。それは、バルト海交易を独占してイングランド産の毛織物輸出を一手に支配してきた、ハンザ商人にとって深刻な脅威となった。
 このイングランド商人の進出に対して、プロイセン都市は自らの商人がイングランドで特権を享受しているにもかかわらず、中世都市政策を堅持してイングランドの商人の交易を制限する。これに対して、イングランドは中世の原理ではない「相互主義」の近世の原理を打ち出す。1377年、イングランド議会はイングランドの商人がハンザ側から不当な扱いを受けたとしてハンサの特権を取消し、相互主義を認めない限り特権を復活させないという方針を決定する。
 これにハンザ同盟は譲歩するほかなくなり、1388年のマリーエンブルク条約でプロイセンにおけるイングランドの商人の自由行動を古くからの権利として認め、また1437年のロンドン条約でイングランドとハンザは自由な交易権を交互に承認しあうこととなる。さらに、もう1つのイングランドの要求であったハンザ都市における商人団体の結成権について、1428年ドイツ騎士修道会が認めてしまう。
 15世紀になると、イングランドの商人が攻勢に出たため、ハンザ商人は守勢に立たされる。イングランドからは、私掠船が王権から陰に陽に支援を受けて、北海で活躍するようになる。それに対して、ハンザも私掠船を出動させる。また、ハンザ都市は非ハンザ商人を利用して、交易の拡大を図ろうとする。15世紀後半、ケルンはハンザ同盟を裏切り、イングランドに接近する。
 1473年、ハンザ同盟とイングランドの抗争はブルゴーニュ公の調停により休戦となり、翌年ユトレヒト条約が調印される。ユトレヒト条約は、ハンザの特権の完全に承認し、ロンドン商館、ボストン商館、リン商館の永久保有が認められ、またイングランドは賠償を支払うこととなった。しかし、この条約はイングランドの長年の主張である相互主義を、再び確認することとなる。
 この1474年ユトレヒト条約は見かけではハンザの勝利となっているが、イングランドの側にはケルンをはじめオランダがついており、すでに北海におけるハンザ同盟の覇権は終わりを告げものになっていた。ユトレヒト条約後、イングランドの毛織物の輸出量は著しく増大する。ハンザ商人は、その増大する毛織物を最大限に取り込み、抗争中に落ち込んでいた積み取りシェアを回復させ、25パーセントにまで引き上げる。しかし、イングランドが維持してきた50数パーセントという積み取りシェアを突き崩すことはできなかった。
▼オランダの台頭、ヴェント都市との抗争▼
 ズント海峡の夏・冬を通した常時通航を開拓したのは、ハンザの航海者ではなく、オランダの航海者であった。彼らは危険をものともせず、ズント海峡を突破していった。すでに、1272年北オランダが飢饉に陥った際、その地方の船がバルト海まで航海して、穀物を積み取って帰っていた。
 オランダは、ヴェント都市がズント海峡を閉鎖すると、それを強行突破するようになる。ハンザ都市とオランダはお互いに私掠船を繰り出し、宣戦布告なき海戦を展開する。それにより、そのあいだの対立は深まっていく。この戦間期、1428年フィリップ善良公がオランダ摂政となってオランダは統一すると、そのもとで経済は活況をみせるようになり、遠隔地交易人の優越的立場が確立する。
 オランダはフランドルに立ち遅れてはいたが、14世紀半ばから毛織物産業やビール産業を発達させ、それを広く輸出するまでになる。1355年には、オランダ伯がニシン漁場のあるスコーネ半島に代官を派遣している。1367年デンマークに対抗するケルン同盟が結成されるが、オランダの都市はそれに加盟して、講和後にはハンザ都市とニシン漁場に関する同一の特権を取得する。
 こうして、オランダ人は14世紀後半にはズント海峡を通り、バルト海の奥深くまで進出して、東方と直接交易するようになる。それはバルト海との交易を基盤とし、ホルスタイン地峡を北海への交易路としてきた、リューベックをはじめとしたヴァント都市の商人を脅すこととなった。
 また、オランダはバルト海において取得したスキルをもとにして、14世紀末から北海におけるニシン漁業を開発する。1420年代にはバルト海のニシンと販売競争できるまでになり、スコーネ半島の漁獲量が減少するとますます発展する。16世紀には北海のニシンがなんとバルト海沿岸にまで輸出されるようになる。
 彼らのニシンとの関わりは、ハンザ商人のように買取り交易だけではなく、漁労から加工、そして交易を一貫した事業として行ない、優位な立場を築いていた。
 カルマル連合を成立させたマグレーテに指名されて、初代連合君主となったエーリク7世(デンマーク国王在位1396-1439)はデンマークを押し上げ、イングランドやオランダの商人を優遇し、ハンザとあらわに敵対するようになる。1422年には、かの有名なズント海峡通航税をかけるようになる。その成り行きとして、第2次デンマーク戦争が1422年、26-35年、38-41年が起きる。それに参戦したのはいまやヴェントの都市だけでになっていた。
 それでもリューベックは勝利して、1435年のヴォルデンボル条約が結ばれ、ハンザ特権が改めて承認され、ズント通航税免除の特典がヴェント都市に与えられ、そしてズント海峡を威圧するヘルシングボリ城がリューベックの保有となる。これを機会に、リューベックはハンザ船がズント海峡を11月から2月22日まで通航することを禁止し、ハンブルクとの陸路を利用することを強制する。
 オランダは、イングランドから羊毛や毛織物を輸入し、イングランドへはビール、穀物、海産物、野菜、果実、工業製品、塩、スペイン産の鉄など、様々な商品を中継輸出していた。オランダ人は国家の支援を受けずに、実に多種多様な交易品を持ち込むことで、ハンザ都市にまでも食い込む。また、スカンジナヴィア、フランス、さらにイベリア、そして地中海に入り込む。
スンド海峡(エーレスンド海峡)
ヘルシングボリ城跡
ヘルシングボリは左図の上右側
 オランダのバルト海への進出はハンザ都市に内部分裂を呼び起こす。ドイツ騎士修道会は、穀物の売行きがよくなり、ダンツィヒの穀物相場に左右されなくなるので、オランダの進出を歓迎した。他方、ダンツィヒは遠隔地交易人の勢力が強く、交易を独占し続けようとして、オランダ人商人の活動に制約を加えた。しかし、リーフラントの中小都市はオランダ人商人に依存して交易を拡大しようとする。
 リューベックやハンブルクは、ズント海峡の通航を伝統的に回避してきたが、それがオランダ船によって打ち破られてしまうと、それに対抗してまでして、それを通航しようとするハンザの船は直ちには現れなかった。15世紀、ハンザはイングランド人に対してユトレヒト条約で勝利を収めたものの、オランダ人に対しては数々のオランダ人排斥措置にもかかわらず敗北したのである。
▼ハンザ同盟末期における様々な防衛的な規制▼
 オランダ商人が、バルト海に来て港頭において穀物を買付けて帰るかぎりでは、何も問題はなかった。しかし、オランダ商人が穀物の生産者から直接に買付けるようになると、ハンザ商人との対立は決定的となった。彼らは、クリップハーヘンと呼ばれたもぐりの港に入り込んで、穀物を積み取った。1416年以降、入港禁止令が繰り返し出されるようになる。
 1417年のハンザ総会は非ハンザ商人に対して、ハンザ都市以外の訪問を禁じ、そこでの小売取引を禁じ、また滞在期間を制限するとともに、冬季滞在を禁じた。また、穀物はハンザの港からズント海峡あるいは地峡経由で輸出されるべきとした。それらは非ハンザ商人の交易が無視できなくなったもとで、その活動をハンザの秩序のなかに閉じこめるようとするものであった。
 1425年にはハンザの使節団はブリュージュの商館と協議した上で、オランダ商人の積荷を乗せたオランダ船が、バルト海のリーフラントで荷揚げすることを禁止した。そして、1447年にはハンザの商人が外国人の所有する船に、商品を積むことを厳禁した。
 また、ハンザ同盟は船舶の建造や売買などについても規制を行なう。1434年、ハンザ同盟の参事会は外国人のために船舶を建造すること、また新造後1年以内の船舶を売却することを禁止した。さらに、1441年にはすべての船を外国人に船舶を売却することを禁止し、また外国人にハンザの船を用船に出すことも禁止した。そして、ハンザ同盟の管轄下にあっても、いかなる外国人も船舶を建造、所有したり、さらに船長になることを禁止した(フェイル前同、p.93)。
 デンマークは1435年条約を尊重せず、オランダやイングランドの商人を厚遇し続け、再びシュレースヴィッヒに進出して、リューベックやハンブルクに脅威を与える。1441年、デンマークはオランダ人を支持して、ヴェント都市に圧力を加えて、コペンハーゲン協定を結ばせる。それにより、ヴェント都市はオランダ人商人に自由通商を認めざるをえなくなる。こうしてオランダのバルト海への本格的な進出が保障されることとなった。
 1442年のハンザ総会は体勢を立て直そうとして、ハンザ都市で取引される毛織物はブリュージュで購入されたもののみに限ると決議する。また、1447年のハンザ総会は一部のオランダ産毛織物を粗悪品として指定して取引禁止とし、同時にハンザ都市向けの商品はハンザ船によってのみ輸送されると決議する。バンザ版「航海条令」であった。
 これらの規制は15世紀になってから行なわれた。すでに、オランダ船が毛織物を積んでリーフラント地方まで直航し、ロシアの毛皮やリーフラントの穀物も積み取るようになっていた。したがって、これら排外的な海運政策はハンザの海運を発達させる積極的な政策ではなく、強力な競争者に対抗するための防衛的な政策であった。
 15世紀後半、ハンザ同盟が様々な妨害を加えたことによって、オランダ船のダンツィヒへの入港数は大幅に増減する。しかし、オランダ人の交易活動の勢いはとどまることがなかった。ズント海峡を、1497年790隻、1503年1226隻が通過しているが、そのうちオランダ船はいずれも70パーセントに及んでいた。それにプロイセンなどの都市が続くが、ヴェントなどの都市の船はごくわずかであった。16世紀に入ると、イングランドやスコットランド、フランスの船も海峡を争って通過するようになる。
 高橋理氏は、「ハンザ対オランダの抗争は、中世的海洋観念を打破しようとする戦いという様相をも帯びていた。興味深いことに、ハンザ対イギリスの対立を決着させた既出ユトレヒト条約の文面に、『公海』という言葉が用いられている……[それを盛り込んだのは]オランダ代表の誰かではなかったかと、筆者には思われてならない」という(高橋前同、p.236)。
▼ハンザ同盟に対する反発、交易圏の縮小▼
 ノルウェーでは、15世紀になるとハンザの商人や職人たちの経済支配が憎悪の的となり、ノルウェー人の保護とハンザの特権が制約されるようになる。1455年、ハンザ商人はハンザ排斥の急先鋒であったベルゲンの代官に暴力で立ち向かい、司教まで殺してしまう。
 15世紀、ポーランドが台頭し、バルト海への進出を目指して、ドイツ騎士修道会と交戦状態となる。それにドイツ騎士修道会は次々と敗れ、1466年第2次トルン和約によって、西プロイセン、ダンツィヒ、マリーエンブルクを割譲することなる。プロイセンの都市にとって、ドイツ騎士修道会は煩わしい君主かつ交易の競争相手であったが、それが敗北しても状況に変化はなかった。
ハンス・メムリンク:最後の審判、1466-73
グダニスク国立博物館 (ポーランド)蔵
この作品はメディチ銀行ブリュージュ支店長が注文、フィレンツェのバディア・フィエソラーナ教
会に飾られる予定だった。イタリアに向けて船出したが、船長パウル・ベネキーが率いるグダ
ニスクの私掠船に略奪され、グダニスクへ渡ったものである。

ダンツィヒ(グダニスク)やリーガなど大都市は自由をえたものの、中小都市の多くは没落してしまった。それにより、プロイセンの都市はハンザ都市としての連帯感が薄れ、直接交易に利益を見いだすようになると、ハンザ商人よりもオランダやイングランドの商人が歓迎されるようになる。
 ハンザの衰退を最もはっきり示したのが外地商館の没落であった。ロシアは、200年にわたるモンゴル支配が終わって、モスクワ大公国が台頭する。1478年、モスクワ大公は自由都市ノヴゴロドを屈伏させる。15世紀、ハンザ都市の分裂を反映して、ノヴゴロド商館はすでにリーフラントの都市がその実権を握っており、モスクワ大公イヴァン3世(在位1462-1505)の弾圧に総力を挙げて抵抗することができなくなっていた。
 モスクワ大公はロシア人処罰を不当として、1494年ノヴゴロド商館に居留していたすべてのドイツ人を捕え、財産を没収する。ドイツ皇帝が調停に乗り出して、ドイツ人商人は3年後解放されるが、商館の再開は1514年になってからであった。それはもはやハンザ商人の力による成果ではなかった。ロシアでも交易都市が生まれ、ノヴゴロドの地位も低下してしまう。
 ブリュージュ商館は、ブリュージュが交易・港湾都市としての機能が低下していくにともなって、ハンザ商人たちもアントワープに移動していった。1530年代にはブリュージュ商館は消滅したとされる。彼らは1568年アントワープに壮麗な館を取得したが、その栄華はすでになくなっていた。また、ベルゲンでは、ハンザ商人は圧倒的な地位を占めていたが、ハンザ同盟の衰退とともに、彼らの凋落は免れられなかった。ベルゲンの商館そのものは、ハンザが過去のものとなった、17世紀以後も存続した。
 ハンザはユトレヒト条約によって勝利を占めたが、その後はイングランドの商人は絶対王政を利用して反撃に出てくる。当時、有力になりつつあったマーチャント・アドヴェンチャラーズという特権商人団体は、1486年ハンザに関する苦情を国王に請願する。それはハンザ交易圏におけるイギリス商人の交易権やイングランドにおけるハンザ商人の低関税といった特権などについて、その非を述べ立てた。
 その後、テューダー朝(1485-1603)のもとで、ハンザとイングランドの商人は紛争を繰り返すが、1520年ブリュージュ協定が結ばれる。それは、イングランドの商人のハンザ交易圏における完全な自由通商を認めたものであった。それにより、イングランドの商人はハンザ都市の後背地における交易活動が認められ、輸出商品の生産者との直接取引が可能となり、ハンザ商人は中継交易人としての地位を奪われることとなる。
 他方、ハンザ商人は伝統的な毛織物や蜜蝋、木材について従来通りの交易シェアを保っていたが、新製品のウーステッド(薄手毛織物)やフランスのワインの交易からは排除されていた。近世も16世紀後半になると、イングランドのハンザ圧迫は露骨になる。それに加え、ヨーロッパの交易権が大西洋に移ったとみて、1567年ハンブルクはマーチャント・アドヴェンチャラーズと協定を結ぶまでになる。
 1588年、スペインの無敵艦隊がイングランドに撃破される。翌1589年、イングランドはスペインを支援したとして、ハンザ船60隻を拿捕する。こうして対立は深刻となり、1598年ハンザ同盟のロンドン商館はエリザベス1世(在位1558-1603)の勅令により閉鎖される。
▼若干のまとめ▼
 北西ヨーロッパにおける12世紀から16世紀に至るハンザの時代は、どのような海上交易の時代であったのであろうか。それを一言でまとまれば、海上交易史上においてほぼ唯一といいほどの、大規模な生活必需品と嵩高品の交易として展開され、それが双方向での中継交易から双方向での直接交易へと移行し、それに応じてその担い手が単なる中継交易人から後背地に輸出産業を持つ交易人に移行していった時代といえる。
 ハンザ都市あるいはハンザ同盟の成功とその衰退の要因は相互に連関しあっている。
 ハンザ都市はバルト海・北海に広がっていたが、後背地に輸出産業を持たない都市から、それを持つ都市にまたがっていた。前者の典型はリューベックを首都とするヴェント都市であり、単なる中継都市であった。後者のそれは穀倉地をかかえるプロイセンや毛織物を産出する低地地方の都市であった。
 それら輸出産品を持つ地域はバルト海と北海に分かれていたが、ハンザ同盟の中核をなしたヴェント都市はその中間に位置しており、しかもその中ほどにはユトランド半島とズント海峡という航路の難所があった。ヴェント都市はそうした自然的障壁に、ハンザ同盟をテコにした社会的障壁を付け加えることで、バルト海・北海の中継交易を支配してきた。
 ハンザ都市は輸出産業の有無にかかわらず、交易先における交易特権を共有しあうことを唯一の結節点として、ハンザ同盟に参加していた。そのことにおいてハンザ同盟は長期に維持され、またバルト海・北海交易は発展した。しかし、ハンザ同盟は緩やかに結合体であるだけに、対立を呼び起こす事態が起きれば、その統一、維持は容易ではなかった。
 ヴェント都市を成功させてきた自然的障壁も、帆船の大型化や航海術の向上によって取り除かれると、中継商品を供給してきたプロイセンや低地地方の都市は直接かつ相互に交易するようになる。それによって、ヴェント都市がハンザ同盟を通じて築いてきた社会的障壁が守れなくなる。
 その結果、単なる中継都市の介在は不要になって、その衰退を余儀なくされる。それに伴って、それまでの中継商品を供給してきた都市が、一様に海上交易に乗り出したわけではない。そのなかにあって、穀物といった生活必需品を海外に依存し、新たな国際商品を産出していたオランダやイングランドの都市が、積極的に海上交易に乗り出してくることとなった。
 ここで強調すべきことは、ハンザ同盟末期、ヴェント都市にとって輸出産業の代替となっていたといえるニシンの漁場がバルト海から北海に移動し、他方、オランダやイングランドが自国の輸出産業を基盤として海上交易に参画するようになったことである。それは、古代からの買付け交易ではなく売り込み交易となっており、また受動的交易から能動的交易への移行として、近代交易の先駆けということができる。
 そして、ハンザの時代、大規模な生活必需品の双方中継交易が展開され、それを通じて交易と輸送が分離する。その具体的な現れとして、中世の海運経営の典型といえ船舶共有制が発達し、また商人船主による自己輸送から船主船長による他人輸送への移行が起きたことである。
 総じて、中世の自治都市を支えてきた遠隔地交易人がハンザ同盟という都市連合を組織して、交易地における特権を共有、維持することで隆盛を極めた。しかし、彼らの交易先であるオランダやイングランド、ポーランド、さらにはスウェーデンなどにおいて中央集権国家が築かれ、その国家に支持された商人たちが自国の輸出産品をかかえて進出してくると、海上交易の覇権は彼らに譲らざるをえなくなる。それは近世の幕開けである。
ハンザ時代をイメージとした掛け絵
制作年代:不明だが、20世紀とみられる
ハンザ時代の商船と積み荷
ハンザ時代の港の光景
ハンザ時代のブルージュ 
ハンザ都市カンペン(オランダ) 
ハンザ時代の港
注:左上の掛け絵は、Wikipediaの「ハンザ同盟」の項では、リューベックとハンブルクの同盟を象徴する掛け絵のような説明がなされているが、そうではないようである。


【補遺】 リューベックのバルト海交易─14世紀から17世紀まで─
▼ハンザ盛期・後期におけるハンブルグとの交易▼
 北澤毅著『北欧商業史の研究−世界経済の形成とハンザ商業』(知泉書房、2011)は、主としてハンザを牽引したリューベックという都市を積極的に取り上げ、その海陸にわたる交易を解明した好著である。
 ハンザの時期区分を、@前期(形成・発展期):リューベックが建設される12世紀から1360年代のデンマーク戦勝利まで、A盛期:その後から15世紀初頭まで、B後期(停滞・衰退期):15世紀中頃からハンザ組織が消滅する17世紀後半までとする。
 その分析史料として、1361年ハンザ総会において導入が決定され、1368-71年にはデンマーク戦争の貫徹、また1492-96年には海賊討伐のための艦隊編成費に充てるために、臨時に課せられたポンド税の台帳と、それらの編纂台帳を用いている。それらの台帳には、商品の種類や量、税額(価格)、船長名、用船者(商人)名、船舶の出港地や目的地が記載されていた。税率は、1492-96年商品価格の約3分の1パーセント、船舶価格の約6分の1パーセント、また1492-96年商品1マルク当たり1ペニヒ、船舶は不明であった。
 リューベックのバルト海交易は、終始、ハンブルグとの内陸交易の上に成り立ってきた。リューベックからハンブルグ向けの主要商品は、価額の多い順に、ハンザ盛期はバター、蜜蝋、ニシン(鰊)、銅、小間物であったが、ハンザ後期は蜜蝋、銅、スキムメーゼ(皮梱包品)、獣脂、皮へと変化する。他方、ハンブルグからリューベック向けの主要商品は、盛期は毛織物、小間物、樽、イングランド産毛織物、油であったが、後期は毛織物、油、薬種、ニシン、石鹸に変化する。
 リューベックとハンブルグとの間の内陸交易に、北海・バルト海交易における塩や穀物といった大量かつ大宗商品が登場しないことはもとよりであるが、ここにおいても盛期から後期にかけて、オランダやイングランドの参入、北海ニシンの盛行、そしてエーアソン海峡の利用によって、北海・バルト海交易は構造変化を遂げたことの影響が見て取れる。
 その場合であっても、リューベックはフランドル産の毛織物の輸出港たり続け、また輸入品がロシア産品の積出港であるリーフラント、現代でいえばバルト海三国の港(リガ、ペルナウ(パルヌ)、レーヴァル(タリン))からの商品がほとんどであったことは、ほぼ一貫していた。
▼リーフラントとの毛織物と蜜蝋の交易▼
 リューベックのバルト海交易は、1368/69年の輸入額は34万リューベック・マルクで、輸出額は21リューベック・マルク、その合計額の構成は西ヨーロッパ34、リーフラント17、プロイセン9、スウェーデン15、スコーネ15、メクレンブルグ/ポメルン(リューベック東方に広がるヴェント都市)8、その他2パーセントであった。なお、西ヨーロッパを除いた構成は27、14、23、23、12、1パーセントとなる。
 1492-96年間の輸出入額(ここでは西ヨーロッパが含まれていない)は同額の104万マルクで、合計額の構成はリーフラント以下、45(その31パーセントはレーヴァルである)、20、15、11、8、1パーセントとなった。
 ハンザ盛期から後期にかけて、リューベックのバルト海交易額はそれなりに増加している。しかし、北海・大西洋地域との海上交易を含めれば、さらなる増加であったであろう。そこで特記すべきは、リューベックの交易収支が入超から均衡に変化し、リューベックのリーフラントへの依存度が上昇していることや、輸出における毛織物、輸入における蜜蝋(キリスト教会の蝋燭に使用される)が突出していることである。
 1492-96年ポンド税台帳には、2,863人の商人が記録されている(ただし、申告取引が1回のみの商人1,469人を含む)。それらがどのような商域をカバ-していたかは不明である。主たる取引先であるリーフラントと交易していた商人はかなりの数になるが、そのうちレーヴァルとの取引額が10,000マルクを上回る商人が21人いる。それら21人の取引額は36万マルクを超えるが、それはリューベックのレーヴァルとの取引額の50パーセントを上回る。かなり少数のリューベック商人によって、主要な交易先であるレーヴァルとの取引、あるいは主要な商品である毛織物や蜜蝋の取引が仕切られていたことを知りうる。
 その上位3人のリーフラントとの取引をみると、ヴェルナー・ブクスフーデはリーフラント交易に特化しているとされ、典型的な商品(蜜蝋、毛皮、油脂、毛織物)を扱っていた。ペーター・ボシックは、1492-96年間の取引額は95,792マルクと抜きんでており、主な商域はリーフラントだけではなく、総額の50パーセントを占めるダンツィヒにあった。典型的な商品以外に亜麻・麻、灰を扱っていた。ハンス・ルーテも、リーフラント交易に特化した商人であるが、他の商人とは違ってニシンをはじめ、陸路経由でなく、エーアソン海峡を経由してくる商品、ベイの塩やワインを扱っていたとされる。
 リーフラント交易には、主要にして大量の商品が大型船によって集中的に積み込まれたという。ここにいう大型船は、1412年ハンザ総会が北方ヨーロッパの港に土砂が堆積したので、積載量を100ラスト(1ラスト=2トン)に制限するとしたが守られなかったことからして、リューベック商人たちはかなりの大型船を運航していたこととなる。
 そこで注目される記述が登場する。1493年、レーヴァルから帰港したトマス・モラーが船長の船には39,471マルクの蜜蝋や獣脂が積まれ、それは64件の申告に分かれていた。また、同年レーヴァルに入港したゲルト・フォーヘン・ドルプ船長の船には毛織物を中心に24,834マルクの商品が積まれ、それは99件の取引に分かれ、73人の商人が申告者であったという。船長は、不特定多数の商人からそれなりに量の貨物を摘み取っており、その逆もまた真であったようである。
▼1368/69年ポンド税台帳についての補足▼
 1368/69年ポンド税台帳について補足がある。リューベックの主な輸入商品は、毛織物が35.6パーセントを占め圧倒的で、ついで魚類が19.0パーセント、そしてバター、皮・毛皮、穀物が続く。他方、主な輸出商品は塩が29.8パーセント、毛織物が19.2パーセントと、大きな比率を占める。輸入のフランドル産の毛織物は、その約3分の1が再輸出されている。なお、15世紀後半、ダンツィヒの輸入毛織物は逐年増加する傾向にあり、そのうちリューベックの再輸出品が占める比率はおおくね80-90パーセント台を占めていたという。
 また、リューベックへの出入港記録によれば、入港数が858隻、出港数が911隻となっている。それらの出入港地は、ヴィスマールやシュトラールズンド、ロストクといったヴェント都市が30-40パーセントと断然多い。それらが近くの港であったため、同一船が累積した結果とみられる。それ以外では、デンマークのスコーネが単独で20数パーセント、またプロイセンのダンツィヒやシュチェチンが合わせて20数パーセントを占め、他を圧している。その他では、スウェーデン10パーセント弱である。(この項、高橋前同、p.125など)。
▼母なるスコーネとの塩とニシンの交易▼
 リューベックのバルト海交易において、シェアとしては10数パーセントと少ないが、スコーネとの交易はリューベックにとって死活の交易であった。リューベックはスコーネにリューネブルグの塩を持ち込み、スコーネからニシンを持ち帰ったが、それがその交易すべてであリ、そのことにおいてリューベックはハンザの盟主たりえた。
 そのもとでのかなり詳細な商人や船長の具体的な関与が示されている。1492-96年に記録された商人2,863人のうち、デンマーク(スコーネやベルゲンなどを含む)と交易していたのは911人にも及ぶ。さらに、そのうち、取引1回の商人が517人、2-10回以下が344人を占め、残る50人が1278回(1人25回)の取引を行っており、二極分化がみられる。スコーネとの塩やニシンの取引には零細な商人─デンマークの農民─が参入していたことが特徴的である。
 デンマーク交易の規模はリーフラント交易と比べると大きいとはいえず、10,000マルクを超えるのは2人でしかない。それが最大のジーモン・クスターの91件、10,315マルクであり、塩やニシンのほか、スウェーデンオ・スムントの鉄やホップを扱っている。また、それらを41人もの船長に輸送させており、多い船長でも7回である。この特定の船長を指名せずに、多くの船長に輸送委託している特徴は、ジーモン・クスターに次ぐ取引額のある2人の商人にも認められる。
 これら商人はデンマーク交易に特化しているとみられるが、ハンス・ボルフステーデはデンマークと54件、4,936マルクの取引を行っているが、それ以外にプロイセンやリーフラントと85件、9,410マルクという、大きな取引を行っている。また、ハンス・シミットは、リーフラントなどと69件、8,323マルクという取引を行っている。こうしたデンマークを多くある取引先の一つとする商人がかなりいるという。
 次に、1492-96年ポンド税台帳には、1,092人の船長が記録されている(ただし商人との重複は不明である)。そのうち、デンマーク交易に従事したのは519人と過半を占め、さらにデンマーク交易のみに従事しているのが303人もいるという。ニシンの漁期は夏から秋である。それに向けて小型船がニシン船とともに、狭い海域に群がっている姿が目に浮かぶ。
 デンマーク交易に従事した回数の多い上位10人の船長の合計回数は、1492-93年間に470回が記録されている。最多はペーター・アンダーセンで90回である。彼はリーフラント交易にも従事していたが、大方の船長はリューベックに近いバルト海南西部のデンマーク交易に従事していたとされる。
▼ハンザ崩壊後のデンマークとの内海交易▼
 いままで述べてきた時代から200年経ち、ヨーロッパ列強の非ヨーロッパ世界の分割が進み、そして1669年に最後のハンザ総会が開催された後の、リューベックの海上交易が17世紀の関税台帳から分析される。
 ここで扱われる交易統計には、北海・大西洋地域との交易を含まれる。まず、全体をみると、1680-82年間のリューベックの輸入額は832万マルク、1679-81年間の輸出額は423万マルクとなっており、リューベックは大いなる入超となっている。その入超は、リューベックの輸入額と輸出額がスウェーデンと171万マルクと58万マルク、沿バルト海地域と251万マルクと86万マルクとなっていることに基づいている。その入超をリューベックは他の地域との海上交易に加え、その多くを内陸交易で埋め合わせていたとみられる。
 それはさておき、17世紀後半のリューベックの海上交易において、@デンマーク、Aシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン(現在、デンマークと接する地域)、Bドイツ・ポーランド、Cスウェーデンというバルト海南西部の4つの地域が占める比率は、1680-82年間の輸入において入港船舶数で89パーセント、積載量で64パーセント、取引額で45パーセントであり、1679-81年間の輸出においてそれぞれ88パーセント、62パーセント、71パーセントとなっている。これに対して、北海・大西洋地域との比率は、3つの指標の順で、輸入は4パーセント、12パーセント、21パーセント、輸出は2パーセント、8パーセント、5パーセントとなっている。
 17世紀後半、リューベックは伝統的なリーフラント地域との交易(特に、輸出)の結びつきを著しく弱め、北海・大西洋地域とは輸入において結びつきを維持しているが、その主たる交易先をバルト海南西部の内海に特化させてしまっている。
▼バルト海南西部との小型船による交易▼
 バルト海南西部との輸送状況についてみると、輸入では3,241隻が32,479ラスト、輸出は2,134隻が23,018ラストの貨物を輸送したことになっている。その平均積載量は、10ラスト、11ラストとなる。バルト海南西部の内海では、かなり小型船が多数使用されたことになる。この小型船は、シューテ、エヴェア、ブラームといった型があり、その乗組員は2−3人であったとされる。なお、平均積載量は遠距離の場合、バルト海向け56ラスト、フランス向け75ラスト、ポルトガル向け128ラストという大きさであった。
 これら小型船が寄港した港の数は、デンマークが58港、シュレスヴィッヒ・ホルシュタインが21港という多さであった。いままで述べたことは、ロストクの交易にも当てはまるとされる。ロストクでは、デンマークとの交易船は1635年出港616隻、入港601隻であったが、それらのうちロストク船籍は349隻、258隻であった。デンマーク船がロストク船と同じような勢力になっている。また、それらの航海日数は、往復、ロストク・デンマーク間2-3週間、ロストク・スコーネ間8日-2週間が一般的であったという。
 リューベックのデンマーク交易に限って、その取引をみると、それが全体に占める比率は輸入では入港船数で58パーセント、取引額で8パーセント、また輸出ではそれぞれ57パーセント、32パーセントと非対称的である。リューベックからデンマークに向けて高価格の、逆は低価格の商品が輸送されていることを示す。
 具体的には、リューベックの輸入商品は大麦、燕麦などの穀物、牛や馬などの家畜、バター、ペーコン、牛や羊などの皮、毛皮、ニシンやタラ、ウナギなどの魚介類のほか、卵、果実、蜂蜜、チーズ、豆額、タマネギなどであり、他方、輸出商品は小間物、毛皮、毛織物や帆布、亜麻・麻、ホップ、鉄および鉄製品、銅、真鍮、植民地・南欧物産などであった。
 デンマークは リューベックに対して自国産である一次産品をほぼもっぱら輸出して、リューベックなどヴェント都市の市民を扶養していたが、それに対してリューベックはバルト海交易における伝統的な中継商品を輸出し続け、それに加え植民地商品を輸出するにとどまる。それでも、リューベックのデンマーク交易は、輸入額71万マルクに対して輸出額134万マルクと、大いなる出超となっている。
 最後に、非常に注目すべきことは、輸出入額が商人が扱った額と船長が扱った額に区分されて、集計されていることである。1680-82年間の輸入額は832万マルクのうち、商人扱い額88パーセント、船長扱い額12パーセント、また1679-81年間の輸出額は423万マルクのうち、それらは90パーセント、10パーセントとなっている。
 そのなかにあって、デンマークからの輸入は船長扱い額が商人扱い額とほぼ同じであるが、近間のシュレスヴィッヒ・ホルシュタイからンの輸入(大麦と小麦がほとんど)では船長扱い額が93パーセントにも及んでいる。大型船ではすでに商人と船主船長との分離は進んでいたが、小型船にあっては買い積船として、また農民船として活躍していたものとみられる。
▼まとめ▼
 リューベックの海上交易は、輸出入額で、1368/69年約36万リューベック・マルク(西ヨーロッパ分を除く)、1492-96年間104万マルク、そして1680-82年間(この場合、北海・大西洋地域との交易を含む)の輸入額832万マルク、1679-81年間の輸出額423万マルクと増加している。
 14世紀から17世紀にかけて、リューベックの海上交易は、その額からみて、物価の変動はさておクとはいえ、北海・バルト海交易の構造変化にかかわらず伸長している。しかし、その役割はハンザの衰退のもとでハンザの盟主ではなくなったものの、バルト海交易のドサ回りあるいは近回りとして活躍し続けたといえる。そもそもバルト海の面積は日本海の約半分である。
 その他、リューベックに出入りする船主はおおむね多種類の貨物を積み合わせており、それに対応して多数の商人たちから輸送を請け負っている。したがって、商人と船主、そして船主と船長との分離は相当に進んでおり、しかもそのあいだには自由な取引が行われている。しかし、小型船にあっては、まだ商人と船主、さらに船長との分離は不十分にみえる。
(2007/01/31記、02/09、2013/08/15、2017/02/25補記)

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