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2・4・4 中世イタリア、地中海交易の掉尾を飾る

2・4・4・2 ジェノヴァ、先発ヴェネツィアを追い越す
2.4.4.2 Genoa overtakes starting country Venice

▼アマルフィを追うピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィア▼
中世イタリアの交易都市の活動期
上から、 アマルフィ、アンコーナ、ガエタ、ジェノヴァ、ピサ、ラグーサ、そしてヴェネツィア
 中世イタリアの交易都市のアマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、そしてヴェネツィアは「四大海洋(海運)都市」とか「4つの海の共和国」とか呼ばれる。それら都市の紋章が現代のイタリア商船旗に織り込まれている。なお、アマルフィの盛衰については前節で取り上げている。
 北イタリアのピサやジェノヴァというイタリア王国系都市は、南イタリアのビザンツ系都市にくらべれば、その発展は遅かった。それはビザンツ帝国と直接の関係を持つのが遅れ、またトゥーロン近郊のラ=ガルド=フレネ(現フラッシネート)まで進出していたイスラーム勢力の脅威にさらされていたからであった。
 ピサ(外港は河口のポルト・ピサーノ)は、四大海洋都市のうちで唯一河港である。ピサは海から、古代4-5キロメートル、現在6-7キロメートルのところにある。
 前3世紀、ローマの植民地となったことで都市が築かれ、、その帝国末期まで海軍基地であった。9世紀以降、イスラームの侵略でサルディニアから逃れた富裕な人々の移住により発達、海上勢力として発展する。ピサは、ランゴバルト王国やフランク王国の領土の一部となっていたが、1070年ごろ独立したコムーネ(自治都市)になった。
 ピサとジェノヴァは同盟を組んで、850-1034年イスラーム教徒に占領されていたコルシカから、8-11世紀イスラーム教徒のたび重なる襲撃をうけていたサルデーニャから、イスラーム教徒を追い出している。また、ピサはノルマンと同盟を組んで、1062年にはパレルモ海域でイスラームの艦隊を撃滅している。
イタリア商船旗
左下から反時計回りで、
アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、そしてヴェネツィア
 また、ピサとジェノヴァは、アフリカでは、
1034年にアルジェリアのボナ(現アンナバ)、
アマルフィと連合艦隊を組んで、1087年にチ
ュニジアのマフディーヤ、そのついでバレア
レス群島を強襲して、勝利を収める。マフデ
ィーヤ遠征は十字軍の予行演習となったと
される。さらに、ピサは1063年以後、ノルマン
と組んで、カラブリアやシチリアを征服する。
 第1回十字軍には、大司教ダゴベルトに率
いられたガレー120隻が参加する。ダゴベル
トはエルサレム総主教となり、ピサ人は他の
海洋都市と同じように、レバント地方に交易
基地や植民地を建設していった。12世紀、
コンスタンティノープルには1000人ものピサ
人が居留していたという。
 しかし、12世紀になるとノルマンに対抗、ナ
ポリの支援を受け、すでにみたように46隻
のガレーを集めて、その支配下にあるアマ
ルフィを1135、37年と二度にわたって攻撃す
るようになる。これらの遠征によって、ピサは
アマルフィが持っていたティレニア海で築い
ていた地位を奪い、西地中海の制海権を確
保する。
15世紀のポルト・ピサーノ
ピサの斜塔のレリーフ
 ピサは12世紀後半から13世紀前半までが最盛期とされる。その勢いを示すかのように、イスラーム軍に大勝したパレルモ沖海戦を記念して、1063年ドゥオモ(大聖堂)を着工し、その後1153年洗礼堂、1173年斜塔の造営をはじめる。前者は1118年に完成するが、後2者は14世紀までかかる。
 13世紀に入ると、ピサは海ではジェノヴァ、陸では河川航行権をねらうフィレンツェとの対立が激化して、たび重なる戦争を起こすようになる。それは、ティレニア海にある海洋都市の覇権争いであった。ピサは、1241年ジリオ島の海戦でジェノヴァに勝利するが、1284年沖のメロリア海戦では敗れて、ガレー40隻を失うなど、壊滅的打撃を受ける。それにより、コルシカやサルデーニャの支配権を失い、急速に弱体化していく。14世紀、陸上での戦いには何度か勝利するものの、遂に1406年フィレンツェに降伏し、その支配下に入れられてしまう。
 ジェノヴァは、ローマ帝国時代、商港として栄えていたが、衰微をともにする。ジェノヴァは、イタリアの幹線交通路であるフランチジェナ街道からはずれており、642年のランゴバルド族の占領によって疲弊する。その後、ジェノヴァはカロリング朝のフランク王国の統治下におかれるが、ピサの庇護のもとに立ち上がる。958年、フランク王国から独立したイタリア王国から自治権が認められ、1099年一種の誓約団体が生まれ、それが発展してコムーネとなる。
▼ヴェネツィア、ビザンツから特権をえて抜き出る▼
 ヴェネツィアは、5世紀ゴート族やフン族に追われて、ヴェネツィア湾上の小島に移り住んだことにはじまる。535年、ビザンツ帝国はゴート族からイタリアを取り返そうとして遠征軍を送り、ヴェネツィアとラヴェンナを領土とする。これにより、ヴェネツィアはビザンツ海軍の補給・修理基地となり、海上交易の手がかりをつかむ。
 697年にはドージェを選んで共和国としての歴史をはじめる。しかし、812年ビザンツ帝国とフランス王国とが結んだアーヘン条約によって、再びビザンツ領となる。828年、ヴェネツィアの商人がアレクサンドリアから聖マルコの遺骸を盗み出してくる(これ以後、ヴェネツィアは海外からいろいろな戦利品を持ち帰る)。それを新しい守護聖人として、832年サン・マルコ寺院を献堂する。それはビザンツ帝国からの離脱の表明であった。なお、現在の寺院は1094年の完成である。
 840年、ビザンツ帝国とフランク王国とが結んだ条約により、ヴェネツィアはそれら帝国との交易が認められる。それまで、ヴェネツィアはポー河などを利用して、その限られた産物である塩や魚をロンバルディア地方に運んで、穀物のほか、家屋の土台となる木材や石材を手に入れる、河川交易も行ってきた。9世紀後半、海軍力を強化するとアドリア海の外まで進出して、地中海交易に乗り出すようになる。また、836年にはイスラームの侵略を、900年にはマジャールの侵略を撃退している。
 ビザンツ帝国は、バシレイオス2世(在位976-1025)の時代が最盛期とされるものの、新興ブルガリアの王サムイル(在位977-1014)を打倒するに当たって、992年ヴェネツィアと条約を結び、自由な交易とアマルフィ人やバリ人より軽い関税とを引き替えに、アドリア海における警備と輸送の任務を引き受けさせる。
 998年、ヴェネツィアがアドリア海のスラブ海賊をあらかた退治すると、ダルマツィアのほとんどの都市がヴェネツィアに保護を求めてくる。それにより、アドリア海から出帆する船は、その前にすべてヴェネツィアの港に寄港して積荷を降し、積荷の販売を強要される(いわば先買権を行使される)こととなる。こうして、ヴェネツィアは「アドリア海の女王」、アドリア海は「ヴェネツィアの湾」となる。
 それを記念して、ドージェのピエトロ・オルセルロ2世(在位991-1009)は、紀元一千年、その後毎年続けられることとなる、「海との結婚式」を執り行う。
 ビザンツ帝国のアレクシオス1世(在位1081-1118)は、ノルマン人のロベール・ギスカール(1015?-85)が南イタリアに侵入しはじめると、その脅威を共有す
ヴェネツィアのキリスト昇天祭における
御座船ブチェンタウロの帰還
ドージェ御座船は「海との結婚式」に用いられる
カナレット、1729、個人蔵
るヴェネツィアに援軍を求め、その引き換えに1082年金印勅書を与える。それにより、ヴェネツィア人はコンスタンチノープルをはじめ、アドリア海やエーゲ海、小アジアにある主要な32の交易都市において、内国人待遇以上の交易特権を獲得する。ヴェネツィアは先行していた交易都市を尻目に、地中海世界の交易を支配しはじめる。
 W.H.マクニール氏は、このヴェネツィアの交易特権の獲得とその後に注目して、「ヴェネツィア人は、エジプト経由でインドや南の海から運ばれる香料やその他の奢侈品を……ヨーロッパの富裕階級に販売することができた。かれらは、また、ヨーロッパの材木、金属、その他の下級品の荷を集め……エジブトに手近かな市場を見いだし……香料の支払いにあてられた。このようにして、1082年の金印勅書に続く3、40年間、[さらに]この後400年以上にもわたって続くことになる」交易パターンが築かれたとする(同著、清水廣一郎訳『ヴェネツィア―東西ヨーロッパのかなめ 1081-1797―』、p.11、岩波現代選書、1979)。
▼「モンゴルの平和」とステップ・黒海ルートの隆盛▼
 1204年の第4回十字軍のコンスタンティノープル攻略後、ヴェネツィアは旧ビザンツ帝国から、戦利品と占領地の8分の3のほか、デュラキウム(現アルバニアのドゥラス)、イオニア諸島、エーゲ海諸島の大部分、エウボイア島、ロードス島、クレタ島、ベロポネソス半島の数多くの地点、ヘレスポントス海峡、トラキア地方といった島々や交易港を手に入れる。それによって地中海にヴェネツィアの植民・交易帝国が確立する。
 「《ロマニーア》(トラキア、マケドニア地方)全般にわたる総領事のような役目を帯びているコンスタンティノープル駐在のヴェニス市長[領事]は、事実上帝国の第2番目の枢要人物であった。この期間[1204-61年]を通じて、ヴェニス人の市場は他の競争相手に対して決定的優位を確保していた。その理由は、相変らずジェノア人やピサ人が非常に高額な輸入税を支払っているにもかかわらず、ヴェニス人は関税免除の特権を得ていた点にあった」という(ルネ・グルッセ著、橋口倫介訳『十字軍』、p.115、白水社、1954)。
 このコンスタンティノープル攻略の交易上の意義は、アジアの香辛料の中継路として、従来からの紅海・エジプトルートとペルシア湾・シリアルートに、ステップ・黒海ルートが付け加わったことにあった。それまで、ビザンツ帝国はボスポラス海峡を通過する船を監視、その通過の前にコンスタンティノープルにおいて積荷を降ろさせ、その販売を強要していた。
 13世紀初頭、チンギス・ハーン(1167?-1227)がモンゴル帝国を建国すると、元、中央アジア、インドにまたがる、長大なキャラバン交易ルートが生まれる。それにともない、黒海周辺に「モンゴルの平和」が実現する。他方、レヴァント地方はモンゴルとマムルーク朝との対立地帯となり、さらにローマ教皇がマムルーク朝と対決姿勢をとったため、ヨーロッパの国々の交易ルートはレヴァントから黒海に移動する。その動きは商人に高い地位と特権を与えて、交易を奨励するモンゴルの政策と一致した。
 この黒海交易の最盛期は13世紀末から14世紀初めにかけてであり、14世紀半ば「モンゴルの平和」が崩れ、オスマン・トルコがバルカンに進出してくると、アジアからの交易ルートの出口はレヴァントに再び移動する。それでも、1332-45年におけるヴェネツィアのガレー商船団の投資額はレヴァント向けの10分の4に対して、黒海・ロマニーア向けは10分の6となっていた。
 ヴェネツィア人たちは、黒海交易ルートに刺激されて、陸路、東方に向かう。その代表がマルコ・ポーロ(1254?-1324)たちとされるが、彼らより前から1294年北京への最初のカトリック使節に加わった大商人ピエトロ・ルカ・ロンゴ、ペルシアのイル・ハン国に宝石やクリスタルをもたらしたピエトロ・ヴィアドロやシモーネ・アヴィソトゥラート、インドに赴いたまま帰国しなかったジョヴァンニ・ロレダンがいる。
▼ジェノヴァ、ヴェネツィアの覇権をくつがえす▼
 第4回十字軍によってえたヴェネツィアの覇権は長続きしない。旧ビザンツ勢力は首都を逃れ、小アジアのニカイア(現イズニク)に亡命政権を興していた。ニカイア政権の皇帝ミカエル8世(在位1259-82)が活躍して、1261年にラテン人からコンスタンティノープルを奪回、ビザンツ帝国を再建する。それに当たって、彼はヴェネツィアに対抗できる勢力と合従連衡する必要があった。
 ジェノヴァにあっては、ヴェネツィアに圧迫されて、レヴァント交易に重点をおかざるをえなくなっていたが、1250年十字軍がマムルーク(奴隷)軍団に敗れ、また同年マムルーク朝(1250-1517)が樹立したこともあって、方向転換を余儀なくされていた。
 1261年、ニカイア政権とジェノヴァがヴェネツィアに対する軍事同盟を結ぶと、そのあいだで戦争がはじまる。それにジェノヴァが勝つと、ニカイア政権はニュンファイオン条約において、その報償としてジェノヴァに主要な港に居留区を与え、黒海の港への自由な出入を許し、首都奪回後はペラ(現ガラタ)にも居留区を与える。ただ、ニカイア政権はコンスタンティノープルからヴェネツィア人を追い出すが、1268年にはその復帰を認める。
 それはともかく、ここで地中海における「従来の国際関係は逆転し、ジェノア人が優位を占めるようになった。1261年から1453年のビザンツ帝国滅亡まで、ジェノア人は従来ヴェニス人がラテン帝国で受けていた最恵国通商権を、復活したビザンティン帝国から受けることになった」(グルッセ前同、p.116)。それにより、ジェノヴァの海上交易は東地中海や黒海から、西地中海・大西洋・北海にまで、大きく広がることとなった。
 このジェノヴァのヴェネツィアに対する逆転劇は、彼らがニカイア政権に食い入ったからだけではなかった。ジェノヴァは海上勢力としてヴェネツィアを凌駕する必要があった。それに当たって、ジェノヴァ人は海賊行為に打って出る。それに恐れをなしたヴェネツィアは、後述のムーダという商船団を編成して攻撃を避けようするが、それさえ餌食になる場合もあった。
ガラタ塔の描かれた古い絵地図
  マトラクチュナスフ、細密画、1536-37
イスタンブール大学図書館蔵
 中世イタリアの交易都市のなかで、ジェノヴァの船がもっとも激しく海賊行為に及んだが、ヴェネツィア、ピサ、アマルフィも例外ではなかった。海賊行為による略奪品は乗組員に分配されたので、彼らはその誘惑に駆られた。次の例は、商船団が護衛艦隊から引き離されて無防備となり、ジェノヴァの海賊に襲われた例である。
 「1264年、大胆なジェノヴァ人の中でもとくに大胆不敵で有名であったグリッロという名のジェノヴァ提督は、提督というよりも海賊の親玉と呼ぶほうがふさわしい男であった。その男の率いるジェノヴァ艦隊が、シリア、パレスティナへ向うヴェネツィア商船団がアドリア海を南下中、という情報をキャッチした。
 グリッロは、南イタリアの港々をめぐりながら、自分の艦隊はパレスティナのアッコンへ向って航行中という偽情報をばら撒く。そうしておきながら、実際はマルタ島へ行き、そこで好機到来を待った。
 ヴェネツィア艦隊は、これに乗ってしまう。アッコンを奪われでもしたら、商船団の運ぶ荷の大部分を売りさばき、オリエント特産物を買う重要な市場を失うことになる。そうなれば、一船団の警護に専念しているどころの話ではなくなる。それで、ヴェネツィア艦隊は商船団の警護を放棄して、ジェノヴァ人の到着前にアッコンに着こうと、急ぎ東地中海へ向った。
 それを知ったグリッロは、マルタを発ち、一路北上する。そして、アドリア海の出口、ドゥラッツオの沖で、護衛艦隊なしで南下中のヴェネツィア商船団に出会った。
 的にされたヴェネツィア商船団は、500トン級の大型帆船ロッカフォルテ号を中心に、100トン級の小帆船20隻ほどで編成されていた。どの船も、商品を満載している。水平線に突然姿をあらわしたジェノヴァ艦隊に、ヴェネツィア商船団は防戦に立つことに決めた。ドゥラッツォの港に逃げこむには、もはや時間的に無理と判断したからであった。
 まず、海上に停泊した全船は、重くて値の低い品を残して、各小帆船に積んである高価で軽量の商品を、ロッカフォルテ号に積みなおした。ロッカフォルテ号は、その城塞という名のとおり、船は海面から高く、頑丈な2つの船橋があって、防戦に適していたからである。ヴェネツィアは、防戦をこの船に集中することにし、各小帆船には船をあやつるに必要不可決な乗組員だけ残して、その他の人員をロッカフォルテ号に集めたのであった。
 実際、ロッカフォルテ号は、ジェノヴァ艦隊の激しい攻撃によく耐えた。小帆船が次々とジェノヴァ側に捕獲され、引かれていく中で、防戦しながら敵中を突破し、ドゥラッツォの港に逃げこむのに成功したからである。しかし、防戦の戦法に誤りはなかったにしても、この事故で、ヴェネツィアはシリア、パレスティナ定期航路で商うその年の商品の、大きな部分を失った」のである(塩野前同、p.289-90)。
▼海賊ザッカリーア、フォカイア明礬鉱山を開発▼
 ジェノヴァのもっとも重要な海外進出は黒海進出と大西洋航路の開拓であった。
 1266年から1289年まで、南ロシアの蒙古人君主からクリミア半島のカッファ(現テオドジア近傍)に商館をえている。そこから、彼らは北国の毛皮、ウクライナの小麦、アゾフ海の塩魚、東アジアの絹布、香料などの他、キプチャックの奴隷までも積み出していた。14世紀には、クリミア半島のソルダイア(現スーダック)や黒海北東海岸のクーバン海岸にも、商館が建設された。これらジェノヴァの植民地は、1475年オスマン・トルコがカッファを占領するまで、存続した。
 ジェノヴァは、コンスタンティノープルの交易を独占したばかりでなく、ビザンツ帝国から1275年イオニア海岸のフォカイア、1304年キオス島、1355年レスボス島を獲得している。フォカイアは明礬(染色の触媒剤)の産地であった。その沖に浮かぶキオスは、その積出港、そしてマスティック樹脂(食前酒ウーゾの香料)の栽培地であった。
 十字軍時代後の1270-90年代、ジェノヴァやアラゴン、バスクの海上勢力は、イスラーム勢力からジブラルタル海峡の制海権を奪取し、その維持に努める。1277年、ジェノヴァの商人ニコロ・スピノラは、商用ガレーをブリュージュに入港させる。そして、翌年別のジェノヴァ人がイングランドに着く。それらの航海により、1297年から地中海から北海にいたる大西洋航路がはじまる。この大西洋回り航路の開拓によって、ヨーロッパの交易は大きく塗り替えられることとなり、地中海交易圏と北西ヨーロッパ交易圏とが融合しはじめる。
 こうした時代の申し子として活躍したのが、ジェノヴァ人ベネデット・ザッカリーア(1248-1307)であった。彼は当時のジェノヴァ人を代表する商人にして海賊、傭兵艦隊長、そして起業家であった。彼の紹介が塩野前同書(p.274-7)にある。
 ザッカリーア、1284年のメロリア海戦では持ち船12隻を率いて参加、活躍する。また、1291年、ジブラルタル海峡の制海権を奪回しようとした、モロッコ海軍を壊滅させた。そして、その年彼の船団がフォカイアの明礬を積んで、ブリュージュに向かったという。彼は、カスティーリア王から優遇され、またフランスのフィリップ4世(美男王、在位1285-1314)からも信頼され、王の艦隊の指揮を委ねられ、提督の称号を与えられた。1292年、美男王は彼を通じて、ジェノヴァでガレーを30隻建造したとされる。
 さらに、ザッカリーア一家はビザンツ帝国からフォカイアを獲得すると、直ちに明礬鉱山の開発に着手する。その後、ザッカリーア一家は三代にわたって、キオスの支配者となる。
 キオス島の統治はフォカイアを含め、1346年からジェノヴァ政府に委ねられ、さらにマオーナ・ディ・キオという植民団体に譲渡される。その植民団体は、個人に植民権を分割・貸与するという、ジェノヴァの独特の植民形態に基づくものであった。それは土地支配だけでなく、海上交易を組織し、裁判権を行使する、いわば現地政府であった。その団体は、明礬の生産、販売、輸送に当る。それは後年のオランダやイギリスの東インド会社の先取りであった。
 1372年、キプロス王国の主要な港であったファマグスタにおいて、ヴェネツィアとジェノヴァの居留民の争いが起る。それに勝利したジェノヴァ人は国王をも捕え、ファマグスタを譲渡させる。それ以後、キプロス島の交易権を独占するようになる。しかし、1426年によってマムルーク朝軍によって荒掠される。
 他方、西地中海方面においては、カタロニア人ついでフィレンツェ人から挑戦を受けるが、ジェノヴァはスペイン市場を独占していた。セビーリヤには大きなジェノヴァ人街があった。さらに北アフリカのさまざまな町や市場に進出する。
 イタリア商人は、13世紀頃よりポルトガルで活動していたが、ジェノヴァ人は14世紀初めには王室から数々の特権を獲得しており、15世紀に入ると現地人の反発が顕著になったとされる。ジェノヴァ商人は、13世紀からレヴァントの砂糖を西ヨーロッパへ輸出し、またシチリアや、キプロス、ポルトガル南部のアルガルヴェでの砂糖生産に精通していた。1471年には、ジェノヴァのロメッリーニ家(後述)の構成員がマディラ諸島に定住し、土地を購入し、砂糖生産を始める。それより前の1312年には、ジェノヴァ人ランツァロット・マロチェッロがカナリア群島を再発見して、上陸している。
 最後に、アルプス以北の交易については、ジェノヴァは近隣の都市ミラノを通じて大いにその分け前にありついていた。バルセロナやマルセイユなどは、彼らのライバルというよりもむしろ柔順なパートナーに近かった。ジェノヴァに着いたオリエント商品はとりわけこのマルセイユに送られ、そこからローヌ川を通じてフランス全土に輸送された。マルセイユやエーグ・モルトから帰帆するジェノヴァ商船は、プロヴァンス地方の穀物やイエールの塩を運ぶ。それらは市内で消費される以外は再輸出にも回された。
▼ジェノヴァ、海上覇権を獲得、争いは続く▼
1493年頃のジェノヴァ
 木版画
所載:ニュルンベルク・クロニクル
1481年のジェノヴァ
クリストフォロ・グロッソ
1481制作、1597複製
 ジェノヴァは、1270年代地中海進出を目指すシチリア王を制圧して、シチリア島における交易特権を維持する。また、1284年メロリア海戦でピサに勝利して、ピサからコルシカ島やサルデーニャ島の支配権や交易特権を獲得する。ここで中世イタリアの海洋都市はヴェネツィアとジェノヴァは絞られ、その覇権争いは激化する。
 1294年、ジェノヴァとヴェネツィアとの第2次戦争として、クルツォーラ(現コルチュラ)の海戦が起きる。ジェノヴァのガレー80隻はヴェネツィアのガレー90隻と対峙するが、それを完膚なくまでに撃破する。このとき、マルコ・ポーロが捕虜となる。さらに、1350-55年にはジェノヴァとヴェネツィアとの第3次戦争が起きるが、このときもジェノヴァの勝利となる。ヴェネツィアはカッファを除く黒海諸港の放棄をみとめなければならなかった。
 こうして、イタリアの交易都市のなかでジェノヴァの優位は明らかとなり、13世紀後半最盛期を迎える。他方、ヴェネツィア人がラテン帝国の主人公であるという幻想は終わりを告げ、アレクサンドリアの市場で満足しなければならなくなる。しかし、ジェノヴァはヴェネツィアを決定的に打ち砕くことも、またヴェネツィアに対して圧倒的優位に立つこともできなかった。彼らは、その時々にお互いに和平を求めざるをえなかったが、14世紀前半は休戦状態となる。それはジェノヴァの内紛によるところが大きかった。
 アレクサンドリアには、1173年からヴェネツィア人の商館が置かれており、1238年にはさらに追加された。それらに遅れて、ジェノヴァの商館は15世紀初めになって、2つ置かれたという。また、ヴェネツィア人のアレクサンドリア向けのガレー船団(後述のムーダ)の艦隊護送は1345年から、ベイルート向けは1374年からはじまった。それらは毎年1回(ときは2回)であった。
 14世紀、ジェノヴァは、国際的には優位に立っていたが、国内的には劣位を免れなかった。ジェノヴァには、その歴史を通じてヴェネツィアのように市民の結束を促すような都市運営がなく、貴族階級は「たえず互いに対立する《朋党》(アルベルゴ)(まさに、この14世紀の過程で形成された名家どうしの寄り合い団体)や一族郎党を抱えた門閥の寄せ集めにすぎず、そのおのおのが都市の政治に可能なかぎり大きな影響力を行使しようと争っていた」のである。
 「敵対する派閥が勝利したり、民衆の反乱の危機に直面するたびに、時の支配者たちは躊躇することなく都市を近くの大国の保護下に委ねた。14世紀のジェノヴァの歴史は、まさにたえざる反乱と派閥争いと外国軍の介入の繰り返しであった」。大国への依存は国外からポデスタ(代官あるいは執政長官)を招くかたちで行われた。
 「1339年に民衆派が優勢になって、初代ドージェとしてシモン・ポッカネグラ[?-1363、在位1339-44、56-63、彼を扱ったヴェルディ作曲の歌劇がある]が推挙されると、有力貴族のボスたちはためらうことなく、都市をミラノの君主ジョヴァンニ・ヴィスコンティ大司教(在位1349-54)の庇護下に委ねた。この君主が死ぬと、ジェノヴァはふたたび凄惨な内部抗争を繰り返し、やがて1396年にはフランスの属国となる」。その後、再びヴィスコンティ家、またもとのフランスの庇護下に入るというように、「ジェノヴァの政治はあい変らず少数の門閥の独占物であり続けた」(以上、プロカッチ前同、p.119)。
 こうした内政の混乱に加え、サルデーニャの喪失、内戦の激化、アラゴンやヴェネツィアとの抗争、さらにはペストによる襲来といった混乱が、次々と起きる。そして、最後に1378-81年、ヴェネツィアがダーダネルス海峡のテネドス島を手に入れたことから、ヴェネツィア湾南端の町の名をとったキオッジアの戦いが起きる。このジェノヴァとヴェネツィアとの第4次戦争の顛末は、塩野前同書(p.303-31)に詳しい。
 ヴェネツィアは敵に包囲される。ジェノヴァはオーストリア、ハンガリー、ナポリ、それに近隣のパドヴァ、アクィレイアなどを糾合して、ヴェネツィアに襲いかかる。アドリア海では、ヴェネツィア艦隊の司令長官ヴェットール・ピサーニ(1324-80)が14隻のガレーを率いて奮戦、22隻を率いる相手の司令長官を戦死させるが、戦況不利として、ヴェネツィアに逃げ帰る。
 ジェノヴァの新司令長官アンプロージョ・ドーリアが率いる39隻のガレー大艦隊が援軍として到着、パドヴァ軍と呼応してヴェネツィアを海陸から封鎖、キオッジアを占拠する。ハンガリア軍も迫ってくる。そこで、ヴェネツィアは国家の総力を挙げて立ち上がる。
 いったん投獄されていたピサーニに再び総指揮が委ねられ、ガレーが50隻ほど急遽建造され、派遣艦隊が帰国したこともあって、ジェノヴァ艦隊を逆封鎖する。ジェノヴァ艦隊は補給を断たれて孤立し、その上疫病が拡がったため、降伏する。
 このキオッジアの戦いで、ヴェネツィア人は貴族、名門市民、庶民(平民)という身分(後述)の別なく参加し、死を賭して闘い、滅亡の危機を脱した。それはヴェネツィア史上のひとつのクライマックスであったとされる。ヴェネツィアは、ジェノヴァと4度戦って、最後に勝利する。
ヴェットール・ピサーニ
 1381年、ヴェネツィアとジェノヴァなどはトリノ講和条約が結び、二大海洋強国の120余年に及んだ戦争は終息する。この条約で、ヴェネツィアはテネドス島やアドリア海の拠点をいくつか放棄し、ジェノヴァとヴェネツィアはそれぞれの黒海へのアクセスを妨害しない、またヴェネツィアはキプロス
とジェノヴァの間の航行も妨害しないことを約束する。
 ヴェネツィアは、この戦いによってジェノヴァが海上勢力としての地位を失ったことで、「四大海洋都市」のなかで最後の勝利者となる。ヴェネツィアの地中海における覇権は揺るぎなくなり、その後におけるヴェネツィアの繁栄への偉大な出発点となった。
▼ジェノヴァの東地中海からの撤退と新天地▼
 ジェノヴァは、キオッジアの戦いの敗北の打撃から回復できず、国内はとめどもなく紛糾に終始することになる。それ以後、ジェノヴァの海軍力は二度と復興することはなく、キオスやカッファの居留地は打撃を受けなかったとされるが、海外の領土は次々と失われる。
 それでも、14世紀後半のジェノヴァの海上交易は、1376年の関税簿の分析から、「サルデーニャとの関係の途絶、コルシカやエジプト以外の北アフリカの貿易相手としての地位の低さ、アフリカの金貿易を牛耳るイベリア半島の商人との取引の重要性、アレクサンドリアやフランドルやプロヴァンスとの取引量の多さ、かつてライヴァルであったピサがシチリア同様重要な貿易相手となっていること、ジェノヴァがイベリア半島の羊毛のフィレンツェへの輸出に携わっていること、ナポリも重要な貿易相手であること、ジェノヴァはムスリム諸国との商業の前線であるファマゴスタを支配しキプロス全体において優位にたっていたこと、ジェノヴァ国産品の占める割合の低さなどが指摘されている」という(以上、亀長洋子著『中世ジェノヴァ商人の「家」』、p.137-8、刀水書房、2001)。
 1453年、オスマン・トルコの攻撃によってコンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国が滅亡、それと同時にペラとフォケーアが征服されたことは、ジェノヴァの東地中海交易にとって決定的な打撃となった。ジェノヴァは東地中海交易を放棄したわけではないが、その残された主要な交易は母市を拠点とする西地中海や北西ヨーロッパとの交易に限られることとなった。
 ジェノヴァは、キオスを1566年まで保持するが、フォケーアを失ったことで北西ヨーロッパとの主力商品であった明礬を失う。しかし、幸運にも、1463年、教皇領のトルプア(ローマの北西約50キロメートル)で明礬鉱が発見される。ジェノヴァは、フィレンツェのメディチ家と争うが、海運を持っていたことで優位に立ち、やがて採掘権を手に入れる。ジェノヴァは、この明礬とロンバルディアの大青、さらにイベリア南部やマグリブの商品を輸出商品として、北西ヨーロッパとの交易を維持する。
 「14世紀の不況に端を発した長い沈滞期を経て、15世紀中葉にふたたび勃興し始めるヨーロッパは、かなりの点で以前と異なったヨーロッパであった。この新生ヨーロッパにあっては、教皇庁の超国家的権威は色褪せ、ヘンリー7世のイギリスやルイ11世のフランスなどに率いられた新しい民族国家が巨大な現実となった。
 このヨーロッパは、東の脇腹をトルコの脅威にさらされて、その重心を大西洋側に移し始めていた。リスボンやアントワープ、ロンドン、セビーリヤなどに運がめぐってきて、ヴェネツィアやジェノヴァ、その他のイタリア都市が……それまで保持し、その上に富を築き上げてきた、国際関係や経済の面での特権的な地位が下降し、しだいに価値のないものになったのである」(プロカッチ前同、p.166)。
 その後のコロンブスの時代、ジェノヴァ人たちは東地中海から撤退して交易の重点を決定的に西方へ移動し、とりわけイベリア半島に多数の人々が定着することとなる。そこで発展しつつあった大西洋交易に、それまでに蓄積した資本のみならず、海上交易や植民地経営など各種の技法を導入するようになる。それに応じて、ジェノヴァ商人の拠点であるセビーリャの地位が急上昇する。
 アンダルシア最大の商業都市セビーリヤは、ロンドンおよびブリュージュとならんで、海外におけるジェノヴァ人の最大の金融中心地の1つとなった。そして、新大陸「発見」後の1503年には、ヴェネツィア大使の報告によれば、「ジェノヴァの3分の1がスペインにあって、そこでは300以上ものジェノヴァの商会が取引をしていた」(斉藤寛海著『中世後期イタリアの商業と都市』、p.167、知泉書館、2002)。
 1528年、提督アンドレア・ドーリア(1468-1560)は奉公先をフランス王国から神聖ローマ帝国に乗り換え、私兵艦隊を提供することを条件に、自らが発案した強力なドージェ制を認めさせる。それにより、ジェノヴァ国内の争いはやっと終わり、ジェノヴァは造船業と銀行業の中心地として繁栄し続ける。その後も、フランスやピエモンテ(サボイア公国)など隣国から、干渉を受けるが独立を保つ。
 このアンドレア・ドーリアはジェノヴァ四大家門の一つの家長であり、しかも海上傭兵隊長として1526年教皇庁海軍の司令官となり、同年赤ひげことバルバロス(1483?-1546))と戦って勝利していた。1528年には、それを辞任して、スペイン海軍の総司令官になり、その後もバルバロッサと対決し、1535年のチュニス攻略に成功するが、1538年プレヴェサの海戦に敗戦する。なお、教皇庁海軍は1500年に創設され、まず12隻ほどのガレーを配備する。
アンドレア・ドーリア像
セバスティアーノ・デル・ピオンボ、1526
ドーリア・パンフィーリ美術館(ローマ)蔵
▼門閥政争に明け暮れるジェノヴァ人▼
 彼らの海上交易は、どのように担われたか。「ジェノヴァ商人は、おそらく14世紀の過程で、建造に多額の資本を要する大型、中型のコグ[北西ヨーロッパでいうコッゲ]を用いておこなう大規模な商業に活動を集中し、小型船による小規模な沿岸商業は、それが大規模な商業を補完するものであっても、サヴォーナなど近隣のほかの海港都市の商人の活動にゆだねた」とされる(斉藤前同、p.167)。
 こうした大規模な海上交易を営むジェノヴァの商人は、ヴェネツィアの商人と対照的な地位を占めていた。「14、15世紀のジェノヴァでは、旧都市貴族層と新興商人層の対立に、職人・小商人層が介入するという、3つ巴の対抗関係に決着がつかなかったので、権力構造が不安定となり、国家権力は弱体なままに推移した。
 封建領主や元来の都市貴族は、市内の特定地域に集住する親族を中核にしながら、近隣に居住する住民をも包摂するアルベルゴ(albergo、擬制家族集団)を形成……14世紀になると、民衆出身の有力な平民上層は、上記のアルベルゴに対抗して、近隣に居住する平民各層を包摂するアルベルゴを形成した。
 この過程で、アルベルゴは一般に地縁的な性格が強化されたのみならず、内部の保護・被保護関係が一層強化されたらしい……いずれにせよ、ジェノヴァではアルベルゴ同士が権力闘争を展開し、それを超越する強力な国家権力は形成されなかった……
 ジェノヴァでは、商業、船の建造と所有、植民地経営のいずれにおいても、主導権をもつのは国家ではなく、アルベルゴを中心とする私的な団体だった……ジェノヴァでは、国家規制のもとでの規則的な商業航海は発展せず、国家が自国市民に利益機会を恒常的に保証する制度はみられなかった……外国に定着したジェノヴァ商人は、現地の社会に同化して、現地の商人として活躍したが……母市に収斂する統一的なリズムは形成されなかった」(以上、斉藤前同、p.164-5)。
 亀長洋子著『中世ジェノヴァ商人の「家」』(刀水書房、2001)は、15世紀初めすなわち中世後期のジェノヴァのロメッリーニという家に注目し、彼らの1408-21年にかけての公証人登記簿(公証人の控えとされる文書)のなかの357通を分析して、個別の商業活動においてどのような「家」としての人的結合があるかを研究した大著である。そのめざましい成果のうち、ロメッリーニという家が商人貴族として上昇した歴史と、われわれの関心分野についての紹介、それに対する若干の批判はWebぺージ【補論:中世イタリアの商人群像 3】において示してある。
 それによれば、ロメッリーニ一家(あるいは一族、以下同じ)が関与した契約文書の約40パーセントは、当事者として直系子孫と配偶者が中心となって、30の他家を主たる契約相手として結ばれている。
パラッツォ・ポデスタ
ニコロシオ・ロメッリーニ宮のニンフの中庭
ジェノヴァ、ストラーダ・ヌオーヴァ(現ガリバルディ通り)
1559-65年建設
 その上位5位はヴィヴァルディ、スピノラ、ドーリア、グリマルディ、ジ・マリーニ家であり、そのうちスピーノラ、ドーリア、グリマルディ家はジェノヴァの四大家門(もう1つはフィエスキ家)である。
 ロメッリーニ一家は有力な家門として、お互いが結びつくことによって、ジェノヴァの海上交易を支配することになっている。ジェノヴァ人はヴェネツィア人に比べ個人主義的な傾向が強いとされるが、有力な家門は現実には相互依存することで、海上交易を成り立たせていたのである。それと同時に、それらと平行して、ロメッリーニ一家は中小の商人と結びつきにおいて、事業を展開していたことを知りうる。それはジェノヴァの海上交易への参加者の幅が広がっていたことを示している。
 ジェノヴァのヴェッキオ港に面してパラッツォ・サン・ジョルジョという建物がある。それは中世「海のパラッツォ」と呼ばれ、1260年市庁舎として建設されもので、1340年には税関となり、15-16世紀にはジェノヴァの財政や植民地を管理したり、ヨーロッパの支配者に資金を貸し出したりしたサン・ジョルジョ銀行があった。
パラッツォ・サン・ジョルジョ
13-14世紀
▼ジェノヴァ船の低価重量商品の積荷と航路▼
 斉藤寛海氏は、ジェノヴァ商人が取引する商品は多種多様ではあったが、ヴェネツィアのガレー船団が扱うようなシリアやエジプトからの高価軽量商品ではなく、繊維工業が用いる明礬をはじめ、綿、羊毛、染料などの低価重量商品の比率が高く、その輸送にはコグが適していたと、次のように詳しくみている。
 ジェノヴァを起点とした船は、キオス方面に向かうものの他に、主として2つの方面に向かった。
 「1つは、西地中海の各地に向かうものであった。その主要目的は、各地で生産、取引される食料、原料、そのほかの商品(イビサの塩、マグリブの珊瑚、ギニアからサハラを越えてくる金および象牙、など)の輸入であり、これには240トン前後のコグ船が多く使用された。ジェノヴァから輸出される商品の主体は、キオス方面に向かう場合と同様、各種の工業製品であった。
 もう1つは、北西欧、とりわけイギリスとフランドルに向かうものであり、これには一般に大型の丸型帆船が使用された。往路には、北西欧の繊維工業で大きな需要のあるロンバルディア産の大青(染料)と、西地中海の各地の商品(葡萄酒、果実、サフランなど)を積み、帰途にはイギリスではイタリア北部、中部の毛織物工業で使用する羊毛、イベリア南部やマグリブ向けの毛織物などを積み、さらにイベリア南部では現地の商品(葡萄酒、オリーヴ油、皮革、羊毛など)を積んで帰港した」。
 その主要な寄港地は、マリョルカ、バレンシア、マラガ、カディスであったが、河川の遡行を必要とする内陸のセビーリャは寄港地とならず、またリスボンも寄港地とはならなかったらしい。このうち、マリョルカはマグリブ商品の伝統的な集散地であり、マラガはムスリムの支配するグラナダ王国最大の商業港であった。ジェノヴァは、教皇の禁令にもかかわらず、グラナダ王国との取引をつづけ、その港(マラガ、アルメリア)をマグリブ方面、北海方面への航海の足場としても利用した」。
 「また、キオスを起点として西地中海方面にいくジェノヴァの丸型帆船には、繊維工業の各種原料を積荷の主体として母市に向かうものと、北西欧で大きな需要のある明礬を積荷の主体(量的のみならず価格でも)とし、さらに綿、香辛料なども積荷として、母市には寄港せず、フランドル、イギリスなど北西欧へ直航するものとがあった。
 直行する場合には、大型の丸型帆船、とりわけジェノヴァにしかない超大型の丸型帆船(700-1000トン)が使用されたが、この大きさだと多数の乗組員がいるので航海経費を節約するために、また船を収容できる港湾が限られるために、寄港地の数はきわめて限定された。寄港地では、直航船が積荷の一部を販売する一方で、現地などの産物を購入したので、商品を寄港地の周辺各地に配分したり、周辺各地から集積したりするのに必要な小型船や保管倉庫が多数存在した。
 この直航船は、マグリブとイベリア南部、とりわけカディスで、ロマニーアから輸送してきた積荷の一部を販売して、現地の商品、すなわちオリーブ油、葡萄酒、塩、砂糖、果実、皮革などを主体とする食料や原料を購入し、それを北西欧で販売した。帰路には、北西欧でイギリス毛織物などを購入して、その一部をイベリア南部とマグリブで販売し、そこで現地の商品を購入して、キオスに帰港したのである」(以上、斉藤前同、p.166-7)。
 具体的な輸送事例をみると、1445年のキオスからジェノヴァに向かった、ある「船の積荷の総価格は15万リラ強であった。そのうち香料は3万8千リラ、絹が4万リラ、綿2万2千リラ、染料が3万8千リラ(そのうち明礬は1万6千リラ)を占めている。香料の占める割合が比較的低いこと(全体の4分の1以下)、織物工業の原料がいちじるしく多いこと(絹、綿、染料を合わせると10万リラを越える)が注目される」。
 また、同年「キオスからフランドルへ航海した9隻の船の積荷の価格は、全体で32万5千リラ(1隻平均3万6千リラ強)であった。その中で明礬は、実に21万1千リラ以上を占めている。すなわち、全体の3分の2を占めている。その他は各種の高価な香料や染料であるから、量的には積荷のほとんどが明礬だったといっても良いだろう。9隻の船が運んだ明礬は、総計3300トンに達した」という(以上、清水廣一郎著『中世イタリアの都市と商人』、p.50-1、洋泉社、1989、以下、清水都市という)。
 このキオスからフランドルなどへ直航したのは大型の明礬専用船であり、20隻ほどが季節を問わず、カディスに補給のため寄港するだけの航海をしていた。
▼14世紀末地中海のヨーロッパ船の船腹構成▼
 Webページ【補論:中世イタリアの商人群像 2】において紹介したダティーニ(1335?-1410)は、フィレンツェ近郊のプラートの商人である。彼は40余年にわたって商人としての活躍を克明に記録した文書を残している。その文書には、1383-1411年地中海や北海で活躍していた、長距離航海用のラウンド・シップが2920隻も識別されているという。そのうち437隻について積載量が判明しており、都市別に集計されている(以下、斉藤前同、p.151-3による)。
 それら船の数が累計でないとして、ダティーニは毎年100隻もの船を見聞していたことになる。それは膨大な数といわねばならない。彼は当時利用できそうな船をあらかた承知していたかにみえる。そのうち、彼が利用した船の国籍や隻数を知りたいものである。また、積載量が判明している船は毎年15隻ほどになる。それが、彼が利用した船だったのではないのか思えるが、これとてわずかではない。
 それはともかく、437隻の国籍別構成はジェノヴァ船120隻、カタルーニャ(主としてバルセロナ)船129隻、ヴェネツィア船56隻、リグリーア船27隻、ビスケー船27隻、トスカーナ船26隻、プロヴァンス船15隻、シチリア船13隻、ペルピニャン船9隻、その他15隻となっている。
 上記のWebページにおいて示したように、ダティーニ文書に出てくる船長は、彼が海上勢力を持たなかった都市の商人であったこともあって、ほとんどヴェネツィア人かジェノヴァ人かであるが、時にカタルーニャ人が混じり、イングランド人も1人いる。中世イタリ
フラ・マウロの世界図
15世紀半ばの世界の船とされる図
1459
ヴェネツィア、マルチャーナ図書館蔵
アの商人は、14世紀末までに同じ都市の船舶をなお中心とするものの、他のイタリア海港都市、さらに多国籍の船を利用するようになっていたとみられる。
 また、437隻のうち、積載量400ボッテ以下が約45パーセントであり、特にカタルーニャ船は約54パーセントである。他方、901-2000ボッテの船は44隻であるが、そのうち32隻がジェノヴァ船であり、ヴェネツィア船は2隻にとどまる(1ボッテは0.5トンや0.6トン相当、ボッテについては下記参照)。
 ダティーニの主要な活動舞台は西地中海方面であり、逆にヴェネツィアの船は東地中海で活躍していた。そのためヴェネツィアの隻数がジェノヴァやカタルーニャの半分以下となっていたとされる。そうした制約もあるが、14世紀末における地中海のヨーロッパ船の船腹構成や、ジェノヴァの大型船志向、カタルーニャの小型船の多さを知りえて貴重である。
 また、ダティーニ文書の時代と重なる1394年から1408年にかけてベイルートに寄港した船のうち、その国籍を整理した分析によれば、ヴェネツィア船278隻、ジェノヴァ船262隻、カタルーニャ船224隻、その他103隻となっているという。シリアではヴェネツィア船がジェノヴァ船と対等の地位にあることが示されている。
 カタルーニャは14世紀アラゴン王国のもとで急成長して、ジェノヴァやヴェネツィアに次ぐ勢力となる。ジェノヴァは、15世紀半ば以降、西地中海や大西洋に重点をおくようになる。また、ヴェネツィアが東地中海で再び覇権を確立するのは15世紀後半である。したがって、べイルート港の状況はそれら3都市が東地中海でまだ激烈に競争していた時代のものとなる。
カタルーニヤのカレー乗組員の糧食
 カタルーニヤのカレー船乗組員たちにあてがわれた食事は単調なもので、硬いビスケット、塩漬け肉、チーズ、
豆、オイル、塩漬け肉、チーズ、ヒヨコマメ、ソラマメが主たる素材で、それにワインがついた。ただ、ニンニクや玉ね
ぎ、香辛料を合わせて用いれば、ビスケットに合理的に風味をつけるトッピングとなった。と同時に、ニンニく、玉ね
ぎは壊血病といった病を予防してくれるとも考えられていた。一方、ラテン語で「二度焼いたもの」を指すビスコクトゥ
ス(biscoctus)を語源とするビスケットは、保存が容易で滋養分も多かった。問題はつねに真水だった。とりわけ暑
い時期、オールの漕ぎfは一日あたり少なくとも8リットルを必要としたはずだ。船は5000リットル以上もの水を積むことが
できたが、酢で浄化しなければならなかった。こうした補給の問題を解決することが、まさに艦長が引き受けなけれ
ばならない役務のひとつだった。
出所:フィリップ・パーカー編著、蔵持不三也、嶋内博愛訳『世界の交易ルート大図鑑 陸・海路を渡った人・物・文化の歴史』、p.121、柊風舎、2015。
 カタルーニャは、東地中海ではヴェネツィアとジェノヴァ、西地中海ではジェノヴァとの競争に立たされてきた。15世紀、カタルーニャは市有のガレー船団を編成するが、失敗に終わる。また、交易の中心を西に移動させたジェノヴァに敗れ、その世紀半ばには衰退する。
 なお、船の積載量は規格化された葡萄酒樽を、いくつ積載できるかということで表示された。その場合には樽(ボッテ、botte)が積載量をあらわす単位(ボッテ)となった。しかし、樽の容量は地方によって異同があり、ジェノヴァでメーナ1樽は約0.5トン、ヴェネツィアのアンフォラ1樽は約0.6トンであった。したがって200アンフォラは約120トンということになる。
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