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2・4・4 中世イタリア、地中海交易の掉尾を飾る

2・4・4・3 15世紀ヴェネツィア、地中海覇権を再建
2.4.4.3 15th century Venice rebuilt Mediterranean Hegemony

▼1423年におけるヴェネツィアの船と船員の数▼
 1423年、ヴェネツィアのドージェのトマーゾ・モチェニゴ(在位1414-23)は、自国の船とその乗組員について、次のように書き残していた。「水上交通には、10-200アンフォラの小船が3000隻、その乗組員は17000人、[200アンフォラ以上の]丸型帆船が300隻、その乗組員は8000人。ガレー商船と軽ガレーが合わせて毎年45隻、その乗組員は11000人」である(斉藤前同、p.150)。
 斉藤寛海氏は、こうした史料などの分析から、15世紀前半、最盛期に入ったヴェネツィアの船腹構成の特徴を、次のようにまとめている(一部省略)。
 まず、ガレーは@軽ガレー25隻・2000ボッテ、Aガレー商船20隻・12000ボッテ、これらガレーの乗組員11000人、そして丸型帆船はB大型30-35隻・20000ボッテ、C中型265-270隻・80000ボッテ、大・中型の乗組員8000人、D小型3000隻・150000ボッテ・乗組員17000人、合計3340-50隻・264000ボッテ(158400トン)・36000人という構成となる。そして、1隻当たりの積載トン数と乗組員数は、軽ガレー80トン、ガレー商船360トン、各244人、大型帆船400トン、中型帆船180トン、各26-7人、小型帆船30トン・5人と分析されるとする。ガレーの乗組員の多さが注目される。
 「@ヴェネツィアの都市自体と、それを取り囲む潟との地理的な特性により、小船が無数にあったこと。海港ジェノヴァや河川に面したピサとは、地理的な条件がまったくちがっていた。Aヴェネツィアの丸型帆船には、ジェノヴァ船にみられる1500ボッテ以上の超大型船こそないが、大中小の各種がそろっていた。Bほかの海港都市に比べて、多くのガレー商船があった」(以上、斉藤前同、155-6による)。
 なお、ガレーは「ガレー商船25隻、戦争用ガレー船15隻、旅客輸送用(聖地への巡礼用、大使および公文書輸送用)ガレー船5隻」であり、また「戦時には、国営造船所の予備船を就航させることによって、ガレー船の数をほぼ2倍に(最大約100隻)することができた」という説明もある(マクニール前同、p.301)
 それはさておき、ヴェネツィアの長中距離用のガレー商船と丸型帆船をあわせると、315-25隻となる。それは、前節末尾でみたヨーロッパ都市別の保有隻数と、ほぼ同じである。中世最大の海洋都市であっても、外洋まで航海できる船はこの程度の数であった。また、ヴェネツィア船の総乗組員は3万6千人であるが、15世紀前半のヴェネツィアの人口が約10数万人とされているとき、異常な多さとなっている。
 中世イタリア都市の軍用ガレーの乗組員すなわち軽武
ヴェネツィアのガレー商船
1485年巡礼航海向けに艤装されている
装した漕ぎ手は奴隷ではなく、ヴェネツィアにあっては60ほどある教区の20-60歳までの男子のなかから、有給の兵役として選抜された庶民によって構成されていた。その数は、上の軽ガレー25隻でいえば、約6000人となる。しかし、16-17世紀トルコとの戦闘が激化して補充が困難になると、徴兵対象者は18-45歳となり、16世紀半ばには鑑札なしの健康な乞食や奴隷の使用がはじまる。
 それに対して、ヴェネツィアの商船の乗組員は単なる雇い人であったが、ヴェネツィア人だけでは不足した。ヴェネツィアが、992年ビザンツ帝国との条約にそって、アドリア海のスラブ海賊をあらかた退治すると、998年その東海岸のダルマツィアのほとんどの都市が、ヴェネツィアに保護を求めてくる。その見返りとして、彼らはヴェネツィアが船員を調達することを認めるようになる。
 ヴェネツィアは、その肥大化した海上勢力に不可欠な船員を、その影響下においたイストリア半島(木材や石材の産出地でもある)やダルマツィア海岸、ギリシアの島々から調達するようになる。そのなかでも、ラグーザ(は古代ローマからの呼び方で、現クロアチアで使われるドゥブロヴニクは12世紀後半からのスラヴ語による呼び名)は、ダルマツィア地方の船員供給地となったばかりでなく、多くの乗組員が乗下船するあるいは採用・解雇される主要な港となった。
 ヴェネツィアの商船は、ヴェネツィアを乗組員が不足したまま出港し、ラグーザでその不足分を補完して外洋航海に出た。その逆も行われた。ラグーザに入港した後、直ちに新しい航海に出たい場合、乗組員を全員交代させることもあった。さらに、ヴェネツィアはラグーザを食料の調達や兵器の保管にも利用した。
 なお、16世紀半ばには、ヴェネツィアは貧困層の増加に悩み、大型船に貧困民出身のキャビン・ボーイの配乗を義務づけもした。なお、ジェノヴァの船員需給は不明であるが、リグリア海岸やサルディニア島、コルシカ島などを、船員供給地としていたのではいないか。
 アドリア海東側のダルマツィア海岸は、世界で有数の多島海、深い入り江を持つ起伏に富んだ海岸である。ヴェネツィアの船はその海岸に寄港して、風待ちあるいは避難したばかりでなく、食糧や飲み水、さらに船員を補充していた。それに対して、アドリア海西側のイタリア海岸は起伏に乏しく、寄港地としての役割を果たしえなかった。
 ダルマツィアはスキアヴォーニと呼ばれていた。彼らは、15世紀初めにヴェネツィアのカステロ区に住みはじめ、現在もそう呼ばれているスキアヴォーニ海岸の近くにスクオーラ(同信組合)を結成する。現在のスクオーラ・ディ・サン・ジョルジョ・デリ・スキアヴォーニには、カルパッチョ(1455?-1525?)の「竜とたたかう聖ゲオルギウス」などの連作絵(1502-07)がある。
 ミシェル・モラ・デュ・ジュルダン著、深沢克己訳『ヨーロッパと海』(平凡社、1996)は、その内容はおおざっぱであるが、類書には珍しく船員タームを扱っている。
 それによれば、障害・老齢の船員や、死亡船員の孤児らのため施設が、ヴェネツィアでは1272年サン・マルティーノ保護院、1317年サン・タントーニオ救済院が設けられ、1385年にはミゼリコルディア救済院に追加され、1500年にはサン・ニコーロ・ディ・カスチッロ施療院が提供されたという(同著p.253)。現在、ダニエリなどのホテルがあるスキアヴォーニ海岸通りには、15世紀末建設されたとされる船員住宅(現庶民施設)があるが、それがどれに当たるかは不明である。
 こうした船員福祉施設は、16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパの主要な港に広がっていった。
▼14世紀前半のヴェネツィアの海上交易の形態▼
 ヴェネツィアは、海上交易についてムーダ(船団編成、この言葉はアラビア語の出帆日に由来する)と公定運賃という制度を持っていた。すでに、12世紀からヴェネツィア船は敵や海賊の攻撃に備えるために、アドリア海を南下してイオニア海に出るまで船団を組んで航行するようになっていた。
 ヴェネツィアは、1255年ムーダが創設、編成される。ヴェネツィアとジェノヴァとは、1258年の第1次戦争が起きると、それ以後120余年に及ぶ戦争状態に入る。1261年には再建されたビザンツ帝国とジェノヴァが同盟を結ぶと、ヴェネツィアの船はそれら船の攻撃にさらされることとなる。そのもとでムーダの編成と航行がは不可欠となる。ムーダには軍用ガレーの護衛が一時付けられたことがある。
 初期のムーダは、私有ガレーが普通5隻、時には10隻が参加したが、14世紀に入ると国有大型ガレーだけになり、その数も2-5隻となった。ムーダは行く先別に編成され、@旧ビザンツ帝国領のロマニーア・ムーダ、Aレヴァントへ行くシリア・ムーダ、Bアレクサンドリア・ムーダ、それにCフランドル・ムーダがあり、15世紀に入るとD北アフリカ(チュニス、トリポリなど)やE南フランス行きのムーダも仕立てられる。
 W.H.マクニール氏によれば、大型ガレーは1294年ごろから実験が行われ、1318年までに標準設計による建造がはじまる。国有の大型ガレーによるムーダは、「1330年代までに正規なものとなった。この形の航海は、時々中断されただけで、1530年代まで続いた」(マクニール前同、p.76)。
 ただ、国有大型ガレーの建造の契機は、ジェノヴァが1277年からブリュージュへの定期便のガレーを運航させ、レヴァントと北海諸港とのあいだの香辛料交易を独占していたが、それを打ち破ることにあった。「1314年に[ヴェネツィアの]都市政府は多額の補助金を出して、[翌年]フランドル航路を開拓し、フランドル・ムーダを設けたが、これが国有ガレー船方式への第一歩となったのである。14世紀の中葉にはすべてのムーダが国有ガレー船によって運航されるようになった」(清水世界前同、p.74)。
 14世紀前半、大型ガレーが開発されると、「そのほとんどすべてが、統一規格のもとに国家によって建造され、国家によって所有され、国家の特別規制のもとに船団航海をおこなうことになった。しかし、その航海についての経営は、国家が直接おこなうのではなく、私人(個人、商人団体)に委託することが制度として確立し……国家所有と私人経営のそれぞれの利点を結合する制度が案出され、ガレー商船の船団航海が実現した」という(斉藤前同、p.157)。なお、ヴェネツィア政府は国有ガレーだけの船団を直接運営する場合もあったとされる。
 14世紀前半のヴェネツィアの海上交易は、次の3つの形態でもって行われたと整理されている。@ 政府の任命する船団長の指揮のもとに、特定の船が船団を編成して航海するのみならず、目的地、寄港地、各地での停泊日数、積荷の種類、輸送経費、艤装(航海するのに必要な装備)など、航海の全面にわたって詳細かつ厳格な特別規制のもとにある航海。すなわち、ガレー商船がおこなうムーダの航海。A 特別規制のもとにあるのは前者と同様だが、規制の中心は特定の船が、特定の期間に、特定の港で、特定の商品を荷積みして、それをできるだけ早くヴェネツィアに輸送することにあり、そのほかの局面での規制は前者よりはるかに緩く、船団を編成する必要もない航海。大型の丸型帆船がおこなう綿ムーダの航海は、その代表例の1つである。B ヴェネツィアの一般海上法規にしたがうこと以外は、まったく自由におこなわれる航海。丸型帆船の多く、とりわけ中型船、小型船のほとんどはこの航海をおこなったと思われる(斉藤前同、p.156)。
 14世紀前半、大型ガレーが船団を組んで交易したことによって、ヴェネツィアは高価軽量商品を確実かつ定期的に輸出入することが可能になり、その取引で優位を確立することができたとされ、それがヴェネツィアの海上交易を特徴づけるものとなった。
1500年頃のヴェネツィア鳥瞰図
ヤコボ・デ・バルベーリ 1500 コッレール博物館蔵
▼ヴェネツィア国有民営のガレー船団の仕組み▼
 ヴェネツィアが、1380年のキオッジァの戦いでジェノヴァに辛勝すると、海上交通はいままでになく安全となる。それと同時に、ムーダの目的地が広がったことによって、輸送商品の多様化が進展しただけでなく、低価重量商品の量が増大する。
 それにしたがって、「船団(ムーダ)への大型の丸型帆船の参加が次第に増加し、ついには丸型帆船だけからなる船団も出現した」。さらに、「船団航海のもつ防衛機能よりも、商品を規則的に供給するという経済機能がはるかに重要だったので、ついには船団編成の義務がなくなる」ことになる(斉藤前同、p.159)。
 上記形態@のガレー商船のムーダは、国家によって厳しく管理された、国有民営の海上交易として運営されている。その管理方式とその経営の意義について、斉藤寛海氏は不分明な部分もあるが、次のようにまとめている。
 「ガレー商船は、多額の資金を必要とする高価軽量商品が積荷の主体となるのみならず、積荷の購入市場にいくにしろ販売市場にいくにしろ、一般に長距離を航海し、多額の航海経費を必要としたので、それを国家の所有のもとにおき、ヴェネツィア商人共有の輸送手段として共通の便宜と内部での利益機会の均等をはかり、また統制のとれた船団航海によって安全性と定期性を確保した。
 ガレー商船の船腹を使用する権利は、ヴェネツィアの貴族および名門市民に限られ、1隻ごとかつ1航海ごとに競売(incanto)にかけられて最高価格の入札者に提供された」。
 「落札者は、その船に自分の商品を優先的に積み込み、船腹の残余部分については運賃と引き換えに他人の商品を積み込んだが、運賃はどの相手に対しても平等でなければならず、また政府が規定した限度額以上の徴収は禁止された。落札者は、船の償却費、艤装費は落札費用として、また出入港税、国有倉庫の使用料金は航海に必要な付随経費として、それぞれを政府に支払い、さらにこの運賃収入を政府と折半した[意味不明]。積荷の確保、運賃収入の確保、乗組員の確保、乗組員の管理や給料支払など、航海の経営面は政府より一般に効率のよい私人に委託したのである」(以上、斉藤前同、p.157-8)。
 ムーダによる海上交易がヴェネツィアのそれを特徴づけるにしても、それに参加することにできる大型のガレーと帆船はすでにみた1423年の例では50-55隻32000ボッテを限度としており、中小型の帆船の約10分の1すぎない。したがって、ヴェネツィアの海上交易のうち、ムーダはわずかの量の高価軽量商品の輸送を担うにとどまった。それ以外の圧倒的な量の低価重量商品である穀
物、塩、葡萄酒、オリーブ油は、南フランスと同じように、ヴェネツィアの中小型の帆船がそれぞれ専門とする商品を、大量に積み付けて輸送していたとみられる。
 なお、ヴェネツィアは貴族、名門市民、庶民(平民)という身分階級に分かれていた。名門市民という身分はヴェネツィア独特のもので、職人などの手仕事を三代にわたって携わらなかった上層庶民の家系に与えられる呼称で、銀書(貴族は金書)に登録された人々であった。なお、市民権所有者という用語もある。
 名門市民は権力中枢から排除されたが、海上交易に参加する、また二級の官職に就任する権利があった。またかれらは上級船員として働いた。その数は貴族(14世紀後半約1300人)とほぼ同じであり、強制国債が割り当てられた。1581年のヴェネツィアの人口は、貴族4.5、名門市民5.3、庶民90.2パーセントという構成であった。
 ヴェネツィアの庶民は、外国人とともに一般船員として多数、働いた。しかし、船員たちは他の庶民とは違って、貴族や名門市民の職業である大商人や裁判官、公証人、法律家などと同じように同職組合(アルテ)を作ることが許されず、セナート(元老院)によって直接統制された。
ヴェネツィアの紳士と
その息子
ジュリオ・リチニオ(1527-1591)画
1552
ルーヴル美術館蔵
▼ムーダの都市政策としての意義と限界▼
 このヴェネツィアのムーダがもつ意義は様々であろう。W.H.マクニール氏は、「14世紀の10年代、20年代に確立した商船隊に対する公的規制と管理は、市場の一時的あるいは地方的独占による法外な利益を、個人や私会社がかき集めることをますます困難にした」(マクニール前同、p.76)。
 しかし、ムーダに入ったガレー商船には、香辛料など貴重な商品の交易とその輸送の独占権を付与され、さらにその独占組織に国有のガレー商船を提供されるという特権を与えられ、その利益をあらかじめ保証していたことは明らかである。それが採算割れすると、赤字補填金が補助されたとされた。
 また、「当局は、かならず、この事業に参加を希望するものすべてが平等の条件で利用できるような商船団を組織することによって、商業上のこの分野を商業共同体全体に開放するべく活動した」。「商人たちは、さまざまな人々と無数の会社やその他の事業団体を作って……1航海ごとに、あるいはより長い何年もの期間の後に、解消したり更新したりした。このように個別的で非専門的な種類の商業組織は、商船団の制度に良く適合していた」(マクニール前同、p.79)。
 この文言からみれば、ムーダはヴェネツィア人の誰彼にも平等に開かれた制度にみえるが、彼自身がいうように、「ヴェネツィア人だけが、ガレー船に商品を託す権利を持っていた。また、貴族だけが、ガレー船団の指揮権を入札することができた。ガレー商船に乗組む後部甲板の漕ぎ手や弓の射手たちも、かれらの胸算用に基づいて小規模の交易を行なう権利が認められていた。
 しかし、多くのヴェネツィア人たちは貧しかったり、あるいは遊興をこととしていたため、貿易に従事することができなかった。そして、海外に駐在する官吏は、法によって商業を行なうことが禁じられていた。たぶん、自分自身の利をはかって売買することを許すと、公権力を乱用するようになることを怖れたものであろう」(マクニール前同、p.80)。
 ガレー商船の後部甲板の弓の射手は、貴族の子弟に用意されたポストであった。「若い貴族は、しばしばガレー商船に後部甲板の射手として乗組むことで、そのキャリアを始めた。これは、ヴェネツィアが相手とすべき世界を知るためのてっとり早く、かつ名誉ある方法だった。このような男が自ら商業を営むようになり、10年あるいはそれ以上も外国に住んだ後に結婚のため帰国し、政治的キャリアを開始するというのはまれな事ではなかった」(マクニール前同、p.303)。その実例は、Webぺージ【補論:中世イタリアの商人群像 4】 に示されている。
 清水廣一郎氏は、こうしたW.H.マクニール氏の見解をふまえてとみられるが、ムーダの都市政策としての意義について、次のようにまとめている。「都市政府は、このムーダ制度と主要商品の運賃公定制度によって、海外貿易を実に効果的に管理していたのであった。その結果、海外貿易のリズムは安定し、持続的な商品の入手が可能となっただけでなく、少数の者が独占的な利潤を上げることを不可能とし、さらに関税収入という形で貿易の利益を国家財政に吸収し、市民[庶民を含むか?]の間に再分配することができた。これが商人貴族の共同体としてのヴェネツィアの政治的安定に大きく寄与したのである。ムーダ制度は、ヴェネツィアの国家制度そのものにきわめて適合的だった」といえるという(清水世界前同、p.75)。
 この後段の解説が当をえていよう。ヴェネツィアは潟に立地する都市として、ジェノヴァのように市政が特定の有力家門のアルベルゴ(擬制家族集団)によって壟断されることを、ぜがひでも回避せざるをえなかった。しかし、ヴェネツィアにあってもそれを支配するのは商人貴族であるので、その利益を可及的に擁護しなければならない。そこで編み出されたのが、少量ながら利益幅の大きい香辛料とその交易を商人貴族の共同管理のもとにおいて、商人貴族の利得を保証しかつ平準化するという制度が、ムーダであったといえる。
 しかし、この「商船団は、このような商業組織を16世紀まで―メディチとフッガーの時代まで―保存することになった。その時にいたって、ヴェネツィアの企業組織は、ますます時代おくれの様相を呈し始めるのである」(マクニール前同、p.79)。
▼ヴェネツィアのムーダの仕向地とその扱い商品▼
 14世紀末から15世紀初頭におけるヴェネツィアのムーダの仕向地とその扱い商品状況をみると、アレクサンドリア・ムーダは「エジプトからの輸入品はこしょうが大部分を占めており、その他には若干のしょうがが認められるだけである。それに対して、エジプトへの輸出品は毛織物、ビロード、ガラス器、紙などの手工業製品と、絹や水銀などの金属であった」。
 シリア・ムーダの「輸入品は、こしょうをはじめとする多種多様な香料、ロードス島の砂糖、キプロスの織物などであり、エジプトの場合のように一品目に集中していない。ヴェネツィアからの輸出品は織物、ガラス器、ドイツ産の錫であった。
 ガレー船貿易は広範な地中海貿易のごく一部を占めているにすぎないので、ガレー船の場合だけを取り上げて貿易収支を論ずることはできないが、一般にアレクサンドリアとの貿易はヴェネツィアの出超、シリア貿易は入超であったといわれている。実際に、ヴェネツィアのガレー船は大量の金貨を積んでベイルートへ向かったと推定されている」。
 「つぎのロマニーア・ムーダの場合には、また性格が異なっている。このムーダを構成していたのは、普通2隻のガレー商船であるが、特定の目的地へ直行せず、多くの港に寄港してそれぞれの地方的特産物を集荷するという沿岸貿易の方式をとっていた。ギリシアでは
ヴェネツィアのドゥカット金貨
サン・マルコが両面に刻まれ、
ドージェ・ミケーレステノ (1400-1413)が跪く
コンスタンティノープル、ネグロポンテ(現エウボイア)、モドン、コルフ、黒海地方ではカッファ、タナ、トレビゾンドへ寄港し、皮革、毛皮、ろう、絹、コチニール染料、および若干のこしょうをもたらしたのである」。
 「要約すれば、ガレー商船がヴェネツィアにもたらした商品は、エジプトからこしょう、シリアから各種の香料と砂糖、高級織物、ギリシアからは皮革、金属、絹、蝋ということになる。このようにして、ヴェネツィアに集められた東方物産は、陸路、海路を通じてヨーロッパ各地へ売りさばかれたが、その活動の一端をになっていたのがフランドル・ムーダであった」。
 「その目的地は、イギリスではサウサンプトン、テームズ川河口の諸港、フランドルではブリュージュ、場合によってはアントワープであった。輸出商品は香料、砂糖、木綿、ぶどう酒など東方物産全般にわたり、それにヴェネツィア産の絹織物や紙など手工業製品が加えられた。これらのガレー商船は、帰りにはもっぱらイングランドの羊毛、フランドルの毛織物を運んだが、さらに途中のスペイン諸港から絹、砂糖、ぶどう酒、まぐろ、コチニール染料、水銀などをもたらした」(以上、清水世界前同、p.76-7)。
 ここで注意すべきは、こうしたムーダの仕向地とその扱い商品はガレーが独占していたわけでなく、ガレーは高価軽量商品を、帆船は低価重量商品を主として取り扱っていたにとどまる。そうしたなかにあって奴隷をガレーに積むことを禁じられていた。
 当時、奴隷とされたタタール人やロシア人、コーカサス人は黒海の海港都市に集められ、帆船に乗せられてエジプトやシリア、さらに北アフリカに送り込まれた。1420年代、カッファからエジプトに毎年2000人の奴隷が送られていた。レヴァントには奴隷ばかりでなく、イタリア産や黒海産の木材も運び込まれた。ヴェネツィアからでなく、黒海から東地中海に直接に向かう航路や、積替地のエーゲ海から東地中海に向かう航路は、ヴェネツィア人の交易にとって重要な航路となっていた。
 ヴェネツィアの商業活動は、ムーダが確立していくにしたがって一定のリズムが与えられ、その中心であるリアルト市場は冬と夏の「大市の季節」に限らず、四季を通じて市場として賑わうようになったという。
 「普通の帆船のムーダは年に2回組まれていた。つまり1年に2往復するのである。帆船が商品を積んでヴェネツィアに帰港するのは、3、4月と9、10月である。一方、ガレー船の船団は年に1回の航海を行う。7月末から8月にヴェネツィアを出港し、往復それぞれ1カ月、目的地での停泊に1カ月を要し、10月から11月に帰港した。ただし、14世紀のフランドル・ムーダは3月に出帆、年内に帰着したが、15世紀中葉になると、7月15日に出帆し、翌年5月末に帰港した」といわれている(清水世界前同、p.75)。
▼後進交易都市フィレンツェのガレー商船▼
 内陸都市のフィレンツェは交易都市として後発であった。その発展はもっぱら13世紀に入ってからであり、特に13世紀後半にシエナの金融業者が没落して、それに代わって教皇庁財務の代理人になってからであった。また、フランドルやイングランドにおける商業・金融活動のほかに、やがてフランドル産の未仕上げ毛織物やイングランド産の羊毛の輸入を基盤にして、イタリアを代表する毛織物工業が発展する。
 フィレンツェは、羊毛や毛織物のみならず、さまざまな商品について海外市場と密接に結合していたが、内陸工業都市と大型国際金融を志向した。そのため一大海上勢力にはなることはなく、ジェノヴァやヴェネツィア、アンコーナといった海港都市の海運を利用していた。しかし、フィレンツェは1406年に宿敵ピサを征服し、さらに1421年に良港リヴォルノをジェノヴァから20万ドウカートで購入すると、地中海の海上交易に積極的に進出するようになる。
 1422年春には、早くもフィレンツェのガレーがアレクサンドリア、そしてバルセロナ、1425年にはブリュージュに姿を現している。1428年には、バルセロナの遠隔地交易の4分の1がフィレンツェ向けとなっていた。その後、約半世紀にわたって、フィレンツェのガレーは地中海やフランドル航路で活躍する。なお、フィレンツェはリヴォルノを、ピサのさらなる外港として位置づけて大規模に改造し、1606年にはナヴィチェッリ(小舟)運河を建設して、ピサと連結している。
 フィレンツェは、商用ガレーの運営にあたって、ヴェネツィアをモデルとする。ガレーは都市国家の
17世紀リヴォルノの平面図
所有であり、それぞれの商船隊の運営権は入札によって市民に与えられた。その活動は、フィレンツェの毛織物・絹織物工業と密接な関係があった。彼らは、ヴェネツィアのように高価な香料や奢侈品をレヴァントから持ち帰り、それを再輸出したりはしなかった。後進国のフィレンツェが香辛料交易に参加することは無理であった。
 「フィレンツェのガレー商船がレヴァントへ運んだものはもっぱら毛織物であり、輸入したのは絹や各種の染料であった。また、ナポリ、サレルノ、シチリアの諸港にもひんぱんに寄港し、毛織物を荷降ろしした。一方、フランドル航路では、フィレンツェは独自の輸出商品をほとんど持っていなかった。若干の高級毛織物や綿織物はわずかな例外であって、ガレー商船の活動の重点はイングランド産羊毛の大量輸入にあったらしい。
 ガレー商船がリヴォルノを出港するときは、あまり多くの商品を積み込んでおらず、プロヴァンスやカタロニアでアーモンド、干しぶどう、米、ろう、絹、コチニール染料、サフランなどの商品を積み込んで、オランダの[ブリュージュの外港]スロイスかミッデルブルグで荷降ろしする。さらに、サウサンプトンで羊毛を積んで帰国するというのが、普通のパターンであった。また、帰途のカタロニア、プロヴァンス、北アフリカから皮革、羊毛、染料、木綿、まぐろなどを輸入した。たとえば、トスカーナ一円で盛んであった皮革工業は、すでに15世紀からスペインや北アフリカの皮革を原料としていたのである」(清水世界前同、p.79-80)。
 要するに、フィレンツェにおけるガレー商船の活動は、ヴェネツィアとは違って輸送コストの高いガレーには適していない毛織物などの商品を扱い、またジェノヴァのようにガレー商船を放棄して、大型帆船で明礬などの価格が低い嵩高な商品の大量輸送に専念するわけでもなかった。フィレンツェのガレー商船は中途半端なもので、採算がとれなくなり、わずか半世紀で幕を閉じる。
 なお、フィレンツェの商人の海上交易の実態は、Webぺージ【補論:中世イタリアの商人群像1、2】において若干紹介してある。
▼大型ガレー商船の意義とその衰退▼
 大型ガレー商船のもつ意味合いについて、清水廣一郎氏は「何といってもその活動の中心は香料の輸送に置かれていた。コストの高いガレー商船は、莫大な利益をあげ得る香料の独占によってのみ維持されたのであった。つまり、ガレー商船は、地中海貿易におけるもっとも伝統的・保守的な部分を代表していたともいえるであろう。したがって、香料の独占が失われたとき、ガレー商船もその存在の基盤を欠くことになる」とする(清水世界前同、p.82)。
 1498年のバスコ・ダ・ガマ(1469?-1524)のインド洋航路の開拓によって、インド商人、アラブ商人、イタリア商人の中継による香辛料の交易独占は崩れ、大量の香辛料が地中海を経由することなく、インドからポルトガル人、後にはオランダ人によって直接、ヨーロッパへもたらされることになった。
 ジェノヴァ打倒後のヴェネツィアが、15世紀末地中海ルートの香辛料交易量は年平均350万ポンドであり、そのうち250万ポンドはアレクサンドリア経由、またその半分は胡椒だった。これがヨーロッパの需要をほぼ応えうる量であったという。新航路発見の影響を受けて100万ポンドに急落し、インドからアフリカ南端経由で直接リスボンへ運ばれた量は230万ポンドに達した。
 その落ち込みも、ポルトガル人の失敗により、1520年頃には復活して、1570年まで従前のレベルが保たれていた。ヴェネツィアの地中海ルートの香辛料交易は、1530年過ぎまでは低迷をつづけるがなくなることはなかった。しかし、従前の独占構造はすでに崩壊しており、それをほぼ同量の香辛料がポルトガル船によって輸送されるようになると、ヴェネツィアの大型ガレー商船による交易にとって決定的な打撃となる。
 ヴェネツィアの国有ガレー商船による香料交易は、1514年セナート(元老院)が採択した法律によって大きく転換し、その衰退がはじまる。その法律は、すべての船に香料輸送への参入を認め、租税については現地商館維持税のみを課税するにとどめ、またガレー商船の機会損失に対する補填金の支払を免除するとした。こうした交易統制の緩和は、後述のトルコとヨーロッパ勢力の侵攻のなかで、ヴェネツィアの貴族は戦費負担が重く、ムーダを編成する力量がなくなるが、香料交易を死活としている交易都市にとって、それを何としてでも継続するしかないという、窮迫した状況のなかで編み出された政策であった。
 ヴェネツィアは香料交易を自由化したものの、伝統的な国有ガレー商船による交易独占を放棄したわけではなかった。この自由化は1524年まで続けられたが、それ以後従来の形式によるガレー商船の入札が行われていた。しかし、その衰退は不可逆的で、フランドル・ムーダは1533年に廃止され、シリア・ムーダは1535年、またアレクサンドリア・ムーダはに1536年までは何とか入札を続けられたが、その後は間欠的になり、1569年をもって最終的に消滅する。このなかで、ヴェネツィアの香料交易交易はあまたの商人が帆船を使った自由な交易に委ねられることとなり、また地中海香料交易そのものもやがてはイギリス船やオランダ船が壟断されることとなる。
 斉藤寛海氏は、国有ガレー商船の衰退について丸型帆船との競争の結果、「16世紀になると、両者の運命は逆転する。ガレー商船が急速に衰退する一方で、丸型帆船は政府の保護によって競争力をいちじるしく回復した。というのは、造船、軍事技術の革新により、丸型帆船の操縦性がガレー商船に接近し、多くの火砲を高い舷側に配置することで丸型帆船の防衛力がガレー商船を追い越したので、航海経費の高いガレー商船の存在理由が弱まった」ことを強調する(斉藤前同、p.150)。
 他方、軍用ガレーはその命を、商用ガレーにくらべれば長らえるが、「三角帆と四角帆の双方を備え、経済的であると同時に操縦性において優れている、カラック型帆船の出現と火砲の発達がガレー船に大きな打撃を与えた……ガレー船は、強固な外壁と高い舷側を持つ帆船からの一勢[一斉]射撃に対抗する術を持っていなかった……ガレー船を動員し、海岸の防衛拠点をめぐる攻防戦を行うことは、もはや時代遅れであった」(清水世界前同、p.83-4)。
 近世、西ヨーロッパ諸国は、地中海諸国のように伝統的なガレーによる接近戦という戦法に制約されず、最初からは多数の火砲を搭載した大型帆船を遊弋させて海域を支配し、それを通じて支配地を防御する作戦を採用することとなる。地中海において、古代から引き継がれてきたガレーも、古代からの伝統的な香辛料交易とともに、その保守的な役割を終える。
▼ヴェネツィア、「大陸国家」へ、そしてトルコの圧力▼
 ヴェネツィアは、1378-81年のキオッジアの戦いをしのいだことでジェノヴァの脅威から解放され、15世紀絶頂期に入り、内陸の周辺地域に領土を獲得し、ヨーロッパで最強の海軍力をもつイタリア最大の領域国家となる。
 1402年、初代のミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(在位1378-1402)が死ぬと、その領土であった本土の都市の多く―ヴェローナ、ヴィチェンツァ、パドヴァ―がヴェネツィアの庇護下に入ってくる。
 1423年、ヴェネツィアはフランチェスコ・フォスカリ(在位1423-1457)をドージェに選出する。「このとき以来、サン・マルコを守護聖人に戴く共和国は、あい変らず強大な海洋国家であり続けはするが、同時に大陸国家としての新しい使命に目覚める」ようになる。その後、ヴェネツィアはほとんどすべての戦争に参加して、「1433年にはペルガモとブレシアを、1441年にはラヴェンナを、そして1454年のローディの和議ではアッダ河沿いの領土と飛び地クレーマを併合する」(プロカッチ前同、p.116)。
 これにより、ヴェネツィアはその都市固有の難問である潟への土砂の堆積をはじめ、アルプスの山地を獲得による船材の確保、そして穀物の海外依存からの脱却という課題を解決した。そして、ヴェネツィア貴族に土地への投資という新しい道を用意した。それは「陸との結婚」であり、海の共和国の堕落のはじまりであった。
アジア北西部に発祥する。彼らは、ビザンツ帝国を圧迫することによって領域を拡大するようになるが、地中海への進出はそれほど急激でも破滅的でもなかった。
 バヤズィトII世治世(1481-1512)のトルコの船
イスタンブール大学図書館蔵
オスマン・トルコの領土拡大
 ヴェネツィアは、ダルマツィアの沿岸や島々を一時的に失いはするが、外交と武力を駆使してその支配権を奪回する。さらに、ギリシアやエウボイア島に新たな前哨基地を獲得する。しかし、1416年ダーダネルス海峡のガリポリの海戦において、ヴェネツィアははじめてトルコと衝突する。ここで、ヴェネツィアはトルコ艦隊を撃破したものの、トルコの圧力は強まるいっぽうであり、15世紀後半、警備船を配置せざるえなくなった。南イタリアのレジーナに2隻、アドリア海の出口のコルフ島に6隻、東地中海に向かう最初のギリシアの港となるザンテ島に1隻、東地中海交易の要であるクレタ島に4隻、そして東地中海最奥のキプロス島に4隻配置していた。
 1453年には、コンスタンティノープルの陥落、ビザンツ帝国は滅びる。これによって、黒海沿岸において繁栄してきた、イタリアの交易地や植民地は一瞬のうちに失われる。1460-61年にはモレア(ペロポネソス半島)やトレビゾンド(黒海の現トラブソン)がトルコ人の手中に帰す。その後、1463-79年トルコとの長期にわたる戦争を強いられ、エーゲ海、ギリシア本土から後退を余儀なくされる。1479年、ヴェネツィアはトルコと平和条約を結び、毎年1万ドゥカートの貢納を支払って、トルコの支配地域での交易を続けることとする。
 1480年、トルコ軍がイタリア南部のオトラントに上陸したとき、ヴェネツィア艦隊は完全中立を守ってもいる。ヴェネツィアには、すでにトルコを掣肘できる力はもはやなくなっており、地中海を支配しているのはトルコ艦隊となっていた。トルコ軍は、ダルマツィアを侵し、アドリア海の奥深く進攻してくる。1503年には、ヴェネツィアはアルバニアとギリシアの多くの拠点を放棄して、トルコと和を講じなければならなかった。
 1489年には、ヴェネツィアはジェノヴァからキプロス島を奪い取り、戦略的拠点としただけでなく、穀物の供給源とした。それは16世紀初めの絶望的な飢饉を救うことになる。しかし、1570年からトルコとの戦争がはじまると、ヴェネツィアは自力では防ぎきれないとして、ローマ教皇に神聖同盟を呼びかける。それが発進しなかったため、1571年悲劇的な抵抗をしたものの破れ、キプロス島はトルコに奪取されてしまう。それでも、同年ヨーロッパ勢力の連合艦隊がようやく発進して、レパントの海戦に勝利して仇を討つことができたが、キプロスが戻ることはなかった。なお、塩野七生著『レパントの海戦』(新潮文庫、1987)は、ヴェネツィアのトルコとの1570-73年キプロス戦争を扱った歴史小説である。 ヴェネツィアの旧ビザンツ帝国領における植民地は、クレタ島のようにはじめからサン・マルコ領として直接統治されていたわけではなく、ヴェネツィアの有力な貴族であるサヌディ家、ギシ家、ダンドロ家、バーロツィ家などに与えられていた。それら植民地はビザンツ帝国の奪回にさらされるが、その多くを持ちこたえる。さらに、オスマン・トルコの脅威に対して、ヴェネツィアは植民地を保護領とすることで耐えようとするが、15-16世紀次々に浸食されてしまう。ただ、東地中海の要衝であるクレタ島が奪われるのは1669年になってからであった。
▼16世紀、フランスとイギリスの東地中海への参入▼
15世紀、レバントで交易する
ヨーロッパの商人
16世紀、イスタンブール・
ジェラパシャ地区での取引
現存のアルカディウスの円柱がある

 15世紀半ばのオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの最盛期は終わりを迎え、その世紀末にはヨーロッパ諸国に包囲されることとなる。1494年、フランス国王シャルル8世(在位1483-98年)の大軍が南下してくる。それに、ローマ教皇などイタリア半島の政治勢力が連合して対抗、シャルルは敗北する。このとき、ヴェネツィアは漁夫の利をえようとして、反感を買うことになる。あるフランス大使は、ヴェネツィアを「人間の血をひさぐ者、キリスト教信仰の裏切り者、世界をトルコと山分けする者」と非難したという。
 1508年カンブレー同盟が結成される。これにより、ヴェネツィアは神聖ローマ帝国、教皇、フランス、スペインイングランド、ハンガリー、スイス、イタリアといった、すべてのヨーロッパ勢力を敵にまわして戦うことになる。1509年、ヴェネツィア軍はミラノの東南30キロメートルのアニャデッロで、フランス軍の前に戦死6000人を出して敗北、その3週間後パドヴァは放棄され、敗残兵はなだれを打ってヴェネツィアに撤退する。こうしてトレヴィーゾを除く、すべての本土領を失うこととなる。 ニッコロ・ディ・ベルナルド・マキアベリ(1469-1527)がいうように、このときも、「もしこの国が海にとり囲まれていなかったとしたら、すんでのことで最後の日を迎えていたところであった」。これを境としてヴェネツィアは海洋国家としての地位さえ回復することができなくなる。
 ヴェネツィアは何はともあれ、16世紀末まで繁栄するが、最盛期の15世紀にくらべれば心許ないものであった。ヴェネツィアの15世紀までの最上の顧客であったフランスとイギリスが地中海交易に参入して、ヴェネツィアから市場を奪うようになったからである。
 オスマン・トルコの勢いはとどまるところがなかった。1538年9月、スレイマン1世治下のオスマン帝国のカプダン・パシャ(大提督)バルバロス・ハイレッディン(1465-1546)が率いる艦隊は、スペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇の連合艦隊を、イオニア海のプレヴェザ沖で打ち破る。このプレヴェザ海戦には、スペインにスカウトされた前出のジェノヴァ人アンドレア・ドーリア提督に率いられた、連合艦隊は300隻の艦船、2500門の大砲、総兵力6万人を擁していた。オスマン帝国は、艦船120隻、大砲160門、総兵力2万人を上回る兵力を動員していた。プレヴェザ海戦は塩野前同書(p.267-74)に経過がある。
プレヴェザ海戦
バルバロス・ハイレッディン
 この勝利に気をよくしたオスマン帝国艦隊は、フランスのフランソワ1世(在位1515-47)との同盟関係を誇示するため、マルセイユやトゥーロンなどの港に寄港する。これを境にして、オスマン帝国はクレタ、マルタ両島を除く、地中海の制海権を獲得する。ただ、1571年のレパントの海戦で敗れはしたものの、18世紀末まで地中海での覇権を保ち続ける。
 フランスとイギリスは、地中海交易に参入するに当たって、トルコと通商協定を結ぶ。トルコは、フランスとイギリスを顧客にして、中継交易からより多くの利益を取り込もうとする。
 1536年フランソワ1世とスレイマン1世(在位1520-66)は協定を結ぶ。それにより、フランス商人はヴェネツィア商人と同じようにトルコ帝国の市場に自由に出入し、代理人の駐在や倉庫・商館の設置の利権を確保し、重要な市場に領事をおく権利をえる。1569年の協定では、ヴェネツィア船でなくても、フランスの旗を掲げていれば、トルコ域内の交易を認めるとした。フランスは1560年代までに地中海交易を確立する。
 イギリスの東地中海との交易は、ヴェネツィア人をはじめラグーザ人、ジェノヴァ人、プロヴァンス人を通じて行われていた。1570-73年のキプロス戦争、1576年のスペイン兵によるアントウェルペン略奪によって、北ヨーロッパと地中海、なかでもアドリア海との交易が途絶える。この事態を打開し、さらに東方産品を直接入手しようとして、イギリス船が地中海交易に乗り込んでくる。
 1580年、イギリス人はトルコ諸港での通商の自由を獲得する。そして、東地中海からイギリス向けの交易を独占しようとして、またその交易からヴェネツィア商人を排除しようとして、1581年トルコ会社、1583年ヴェネツィア会社が設立される(それらは1592年には合併してレヴァント会社となる)。
 16世紀後半におけるフランスやイギリス、さらにオランダの東地中海交易への参入によって、ヴェネツィアの香辛料を中心とした500年にも及ぶ奢侈品交易の独占的な地位は失われる。いまや、ヴェネツィアに残された市場は、ドイツと北イタリアだけとなる。それらに、ヴェネツィアは東地中海で買い入れた胡椒ばかりでなく、絹、綿、藍、ソーダを中継交易する。逆に、特産品である上質の絹生地や毛織物、鏡、ガラス細工の装身具、精糖、石鹸を、ベルガモ織やサロ産紙といったイタリア産品、ドイツ産包丁などとともに、東地中海なかでもオスマン・トルコの宮廷に供給して、その地位を維持することに努める。
▼ラグーザとアンコーナ、アドリア海に進出▼
 16世紀末に向けてのヴェネツィアの海上交易の後退は、海上交易量や交易圏が縮小したにとどまらない。確かに、1558-59年のヴェネツィア商船隊は全体で1万8000トン、そのうち240トン以上の丸型帆船はガレー商船の代替船となったことから、世紀初めの2倍にあたる40隻になっていた。しかし、地中海交易をめぐる内外の環境は、大きく変化していた。ヴェネツィアは、ヨーロッパで最有力の海上勢力を誇ってきたものの、海運・造船の両面での実力はなくなり、それらが外国勢力によって置き換えられるようになる。
アンコーナの港
地図のギャラリー
 ヴァチカン美術館蔵
ラグーザの眺望
1896
アントン・ペルコ(1833-1905)画
 ヴェネツィアが、東地中海における制海権を失うと、海賊行為が多発するようになる。特にそれが激しいエーゲ海を回避するために、1509年ダルマツィアのスパラート(スパラト)とイスタンブール(コンスタンティノープルではない)を結ぶ陸路が開かれる。また、1588年にはスペイン原毛を輸入する際は、リヴォルノ港に陸揚げした後、アペニン山脈を越えて、ポー川を下るルートを利用するようになる。
 それに加えて、ヴェネツィアの海運・造船には、いままでにはない競争相手があらわれる。まず、アドリア海をはさんで向き合っているラグーザとアンコーナの進出の影響が大きかった(これら都市については、斉藤前同、p.172-6、参照)。
 ラグーザは、13、14世紀ヴェネツィアの東地中海交易の中継地であったが、1358年ヴェネツィアの支配を脱して共和国として自立、その後1806年までハンガリーやオスマン帝国の勢力下におかれたものの独立を保つ(なお、ラグーザ以外のダルマツィアは、1409年ヴェネツィアがハンガリー王国から買い取る)。その間、ラグーザはヴェネツィアから課せられていた航行の制限から自由となり、さらにセルビアやボスニアの銀、銅、鉛、鉄の鉱山の開発に参画して、それら鉱産物を輸出、それらにイタリア産品を中継する交易港となる。
 15世紀後半、トルコに貢納金を支払うことで保護をうけ、海上交易を内陸交易とともに拡大させる。それら交易はヴェネツィアとトルコの関係が悪化するたびに拡大する。ラグーザの船は、東地中海はもちろん、西地中海、北海にも進出し、新大陸にまで航海した。その船腹はヴェネツィアのそれに追いつき、おそらく追い越したとされ、1540年には3万トンにもなった。
 アンコーナは、13-14世紀にかけ後背地の輸出入港として発展して、15世紀には東地中海各地に進出するが、その海上輸送は多数の船を持とうとはせず、ラグーザの船に依存した。アンコーナとラグーザは、ヴェネツィアに対抗するという共通の利害を持っていた。1520年代、アンコーナは多数の商人が参集する国際都市になる。そして、1532年、ラグーザはローマ教皇国の支配下にはいったこともあって、イタリアにおける最大の交易取引地となった。
 16世紀半ばまでに、アンコーナはリヨン、リヴォルノ、フィレンツェ、アンコーナ、ラグーザ、そこからは海陸経由(陸路はエグナティナ街道)で、イスタンブールに至る交易路と、アントウェルペンからいくつかの経路でもって南下する交易路の交差点となった。1551年の関税記録によれば、3か月と10日間で、大小319隻の船が入港したという。
 しかし、ヴェネツィアに取って代わろうとしたラグーザとアンコーナも、1580年代を境にしてイギリスやフランス、オランダの地中海進出にともない、ヴェネツィアとともに衰退に向かう。
 「16世紀の最後の25年間には、西方に向かう航路では、ヴェネツィア船籍の船は次第に稀になっていった。そして外国船籍(プロヴァンス、イギリス、ハンザ、オランダ)の船がとって代ることになった。1580-89年の10年間にヴェネツィアの大西洋沿岸諸港との交易では、外国船籍の数はきわめて少なかった。ところが、次の10年間には就航中の90隻のうち、わずか12隻がヴェネツィア船籍にすぎない」。こうしたヴェネツィアによる外国船の利用は、西方ばかりでなく東方に向かう航海においても行われるようになる(永井三明著『ヴェネツィアの歴史 共和国の残照』、p.57、刀水書房、2004)。
▼海上勢力としてのヴェネツィアの終焉▼
 ヴェネツィアは、伝統的に自国の船は、イストリア半島や内陸部から船材を輸入するものの、自国の造船所において建造することを国是としてきた。17世紀、船材不足が逼迫の度を加えたため、船そのものを外国から購入することを認め、さらに大型の外国船の購入に補助金を出すようになる。それにともなって、当然のように、ヴェネツィアの造船業は壊滅してしまう。ただ軍用ガレーを主として建造する国営造船所がなくなることはなかった。
 天然資源の枯渇は、ヴェネツィアばかりでなく地中海全域に及んでいたが、北西ヨーロッパの諸国は豊かな船材の供給地を抱えていた。彼らは200トンまでの船を多く建造した。それに対して、ヴェネツィアは400トンを超える大型船に固執し、1602年外国船購入の方針がたてられた時も、ある程度以上のトン数の船舶に限った。
 また、16世紀の「北西ヨーロッパ諸国の船員は、天文学を利用した航海術を完成し、その大洋航海術を地中海航行にも採用した。しかし、地中海では18世紀に入っても天文学航法は見られなかった」。北西ヨーロッパの船は軽快、迅速、かつ確実であった(永井前同、p.60)。
 ヴェネツィアは、1573年従来の政策を転換して、自国商人の貨物を外国船に積むことを認めるようになる。しかし、1602年になると航海条例(アット・ディ・ナヴィガツィオーネ)という非常手段に出る。それは、「外国船がヴェネツィアに向けて航行してくるように、さまざまの優遇措置を与えている現行法を取り消すものであった。つまり、ヴェネツィア領民が所有しかつ乗り組んでいる船は、ヴェネツィア港での商品の積載について、外国船より優遇されることとなった。さらに、ヴェネツィア向けの積荷はヴェネツィア人の船舶か、その荷が積みこまれた国家の船で運ばれねばならぬことになった」。
 それは、「外国商船隊の発展に脅された不振のヴェネツィア海運業界の救済をねらったものだった。また、戦時にすぐさま海軍に変えられる商船隊を平素から確保しておきたい願望に沿ったものだった。ところがこの政策のねらいはみごとに外れて、ヴェネツィアの繁栄にむしろ貢献していた外国船の往来を逆に締め出す結果となってしまう。イギリス、オランダの船舶は、ヴェネツィア寄港を避けて外国船の入港を優遇するティレニア海側のリヴォルノに向かうことになった」のである(以上、永井前同、p.60-1)。なお、1593年リヴォルノは自由港となる。現在、リヴォルノには海軍士官学校がある。
 17世紀に入ると、オランダのアジア進出によって地中海の香辛料交易は壊滅、残された顧客であったドイツにおいて1618-48年に30年戦争が起き、さらに東地中海の最後の砦であったクレタ島が喪失したことによって、海上勢力としてのヴェネツィアは終焉を迎えることとなる。他方、17世紀、北西ヨーロッパにおいてフランス・スペイン・イギリスに広大な領域国家が築かれると、ヨーロッパにおける海上交易の中心軸は地中海から大西洋に移動し、地中海の海上交易も北西ヨーロッパ諸国の掌中に陥ることとなる。
 なお、1634年のレヴァント交易占有率を、オスマン・トルコの関税収入からみると、イギリス40、フランス27、ヴェネツィア26、オランダ7パーセントという状況となっていた。
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