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2・4・4 中世イタリア、地中海交易の掉尾を飾る

2・4・4・4 共同出資による交易、共有船による輸送
2.4.4.4 Trade by Joint Investment, Transportation by Shared Ship

▼周年操業の航海業、ルネサンス型交易が興る▼
 W.H.マクニール氏は、「(いし弓による)防衛力の向上と1280-1330年の時期に地中海に現われた航海法および船の設計における改良があいともなって、輸送費は切り下げられ、海上生活の条件はさまざまな形で変化した。たとえば、船が1年中活動し始めたことによって、これまでと違って、航海[業]はフル・タイムの職業[すなわち、冬季も航海する周年操業の事業]となった」ことを強調する。
 「それまで地中海全域にわたるイタリアの商業勢力を支えていた市民兼船乗り兼兵士兼商人兼何でも屋が、消滅し始めた。その結果、社会的分化が生じ、ジェノヴァやヴェネツィアのような都市は、深刻な政治的処理を必要とする問題―船員プロレタリアートをいかに扱うか―に直面することになった」という(以上、マクニール前同、p.65)。
 イタリアの交易都市において、海上交易から海運業が分離、独立することが顕著になった。船舶所有者はその事業に際して、「それぞれの商品、それぞれの航路によって異なった運賃を定め、可能なかぎり多くの時間、船腹を一杯にするように計算した。これは、1つの航路における運賃をいちじるしく切り下げる効果をもった。船舶所有者にとって、空荷で帰るよりは何等かの荷を積む方がつねに有利だったからである」(マクニール前同、p.298)
 また、「1280年から1330年までの間に、主として北イタリアの都市に住む資本家と企業家の指導のもとに、一連の重要な発明によって輸送費が大幅に切り下げられた。この結果、一般消費財の取引きがこれまでに例のない量に達することになった。地理的障壁は破壊された。地域的な連関は拡大し、同時に時間的に短縮した」。さらに、「これまで相互に独立して存在していたヨーロッパの諸地域が結合され、共通の消費物資に関するかぎり、単一できわめて広大な、海で結ばれている市場となった」(以上、マクニール前同、p.63)。
 そして、W.H.マクニール氏は「量はかさばるが価格の低い重要商品―羊毛、塩、穀物、明礬、綿、木材―の大規模な交易」を「ルネサンス」型貿易と名付けて、「コグ型船とそれに伴なう航海術の進歩によって、長距離輸送が実際上低廉となると、ヨーロッパ全住民のうち従来よりもはるかに多くの者にとって、特産物生産の利点というものが(後に、アダム・スミスが説得的に分析したように)、明らかとなった」とまとめる(マクニール前同、p.69)。
 斉藤寛海氏は、低価重量商品の輸送料金が相対的に低下し、また輸送料金が従価的な体系に移行するにともなって、地中海の海上交易において低価重量商品が恒常的に輸送されるようになったと、次のように総括している。
 「高価軽量で多少とも奢侈品的な性格をもつ商品は……地中海の各地で生産されるものと、その外部で生産されて地中海に輸送されてくるものとがあり、後者の占める割合が小さくなかった。後者の産地と商品は次のようである。インドなどの胡椒、レヴァントやイベリアなどの臙脂[えんじ](高級染料)、ペルシア湾の真珠、アフリカの象牙、黒海の後背地の高級毛皮、北欧の琥珀、マグリブなどの珊瑚、ペルシア北部の生糸、フランドルなどの毛織物」であった。
 これら高価軽量商品は、「いずれもその産地は限定されていたが、各地の有力者の間には多少とも恒常的な需要があり、商品価格に対して輸送料金の負担が軽かったので、十字軍時代やそれ以前の時代にも、遠隔商業の対象として取り引きされていた。このような商品の輸送手段としては、航海経費は高くついても、安全性の高いガレー商船が適していた」。
 他方、低価重量で多少とも日常的な性格をもつ商品には、中下級の繊維製品、およびその原料(羊毛、綿、麻)、皮革、中下級の染料、明礬、硫黄、タール、密陀僧(ガラスの原料)、各種の鉱石、金属(非貴金属)製品、石鹸、塩、小麦、米、葡萄酒、オリーブ油、果実、蜂蜜、チーズ、魚などがあった」。
 「そのほとんどは、地中海、黒海、さらに(とりわけ15世紀中葉以降は)大西洋の各地で生産される食料、原料、日用製品であり、輸送手段としては航海経費の安くてすむ丸型帆船が適しており、商品の量や輸送距離などに応じてその種類が選択された。この種類の商品こそ、13世紀末以降、取引が飛躍的に発展したものである」(以上、斉藤前同、p.141)。
▼海上交易の共同出資、共有船による海上輸送▼
 中世イタリア交易都市において、海上交易量の増大、そのなかでも生活必需品と原材料の取引の増大は、海上交易と海上輸送に多様な需要を喚起した。そのもとで、それら事業に参加する人々や資金が増大すると、多様な事業形態が発生し、それをめぐる実務は複雑となった。
 海上交易の古典的な形態は、商品と船舶を所有する商人船主(船長)が、自ら船を動かして港に寄港しながら、商品を売り買いするという形態であった。中世盛期、海上交易が定住商業として行いうるようになると、商品と船舶とは同一人ばかりでなく、別人によって所有され、また経営されるようになる。海上交易と海上輸送は別の事業として切り離され、その担い手は商人と船主(船長)とに分化するようになる。さらに、海上輸送も定住事業となると、船主が
契約する商人
船長を兼ねるとは限らなくなり、船長を雇うことで、船は運航されるようになる。
 こうした基本的な形態の展開ばかりでなく、ある交易に用いられる商品あるいは船舶は、同一人物によって所有される場合ばかりでなく、それらが複数の人々が参加するかたちで所有されるようになる。その経営は、参加した人々の誰かに委任され、あるいは第三者に委託したりすることが起きるようになる。そして、商人は商品の海上輸送を船主(船長)に委託することとなる。
 そうしたなかで、海上交易は共同出資あるいは組合、また海上輸送は船舶共有制という所有形式のもとで事業が行われるようになる。そして、商人は船主(船長)に運賃・用船料を支払い、船主(船長)は商人に海上輸送あるいは貨物スペースを提供するという、現代にみる荷主と運送人の関係が生まれることとなる。なお、中世にあっては共同出資あるいは組合の形式が広範に展開されるが、伝統的な形式がなくなったわけでない。
 C・アーネスト・フェイル氏は、海上交易の古典的な形態から中世的な形態への過渡期の共同出資あるいは組合の例を取り上げている。以下の例における船舶は、文面をみる限り、共有制にはなっていない。また、商人の船舶共有との関係も不明である。
 11世紀ころのアマルフィ海法には、「船舶所有者・商人・船員の三者が相集まって1つの組合を結成する。これら持分所有者は、自分たちのメンバー中の1人を管理者(パトローヌス patormus)に選んで当該冒険企業[冒険交易事業という意味、以下同じ]の全般的指揮に任ぜしめ、他の持分所有者はおそらく船員として或いは自己の商品を携行して海に出る商人として働いた。
 計算上、船舶所有者は当該船舶の船型または船価に応じて冒険企業の一定持分をあたえられ、商人は自らの投じた資金または商品の額に応じて持分を割当てられ、最後に船員は自分の提供した労役に対して一個の持分をあたえられた」
 その船の「貨物の取引から得られた利潤のすべては、組合外の人々から得られた臨時の貨物運賃ならびに旅客運賃とともに、組合の共同勘定に入れられた。全航海が完了したときは、計算書について裁判所の検査を受けたのち、それぞれの持分数に応じて純益が船舶所有者・商人・船員の間に配分された」(同著、佐々木誠治訳『世界海運業小史』、p.57-8、日本海運集会所、1957)。
 アマルフィ海法では、この共同事業に関わる契約はコロンナ契約と呼ばれていたが、その詳細はWebページ【補論・アマルフィ海法―過渡期の海法―】の通りである。その特徴は、海上交易と海上輸送とが分離しておらず、船舶所有者・商人・船員が共同出資するという事業となっている。その場合、船舶所有者・商人の船舶や商品ばかりでなく、船員が提供する労務もまた事業の持ち分として評価されている。
 1272年のラグーサ海法には、特殊な事業形態が示されている。「一定数の商人が、各自、船長および乗組員[正しくは、船主船長および船員、以下同じ]に対して、貿易取引に使用さるべき一定額の貨幣もしくは一定量の商品を委託する。[それ以外に]船主や船員はいずれも自分の計算で、こうした投資をなすことができる。
 冒険事業の対象となった商品(もしくは、当該船舶に委託された貨幣をもって購入された商品)に対する運賃は計算にのせられ、当該船舶のあげた利潤(臨時的に得られた貨物運賃・旅客運賃をふくむ)は、委託商品の取引から得られた利潤とともに共同の基金に算入される。そして、航海が全部完了したとき、船舶および船員がこの共同基金の半分を受け取り、残り半分は冒険商人がそれぞれの投資額に応じて配分を受けた」(フェイル前同、p.58)。
 この共同事業の特徴は、複数の商人は乗船しないものの、海上交易と海上輸送はなお、ない交ぜになっており、船主船長や乗組員が商品の交易を受託することで、それによってえた利益を商人と分配しあっている。その場合、運賃が経費として積み上げられ、売上高から控除されていることである。
▼12世紀末、ソキエタスからコンメンダへ移行▼
 中世イタリア交易都市の研究において、こうした過渡的な共同事業ではなく、海上交易と海上輸送とが分離したことを前提として、海上交易についてはソキエタスとコンメンダという共同出資、そして船舶については共有制が、中世の共同事業の典型として言及されてきた。なお、伝統的な海上貸借(海上貸付、冒険貸借も同じ)については、ほとんど言及されない。それは共同出資に移行するか、個々の出資者への資金提供に埋没したかにみえる。
 共同出資にはソキエタスとコンメンダ(後者は、ヴェネツィアではコレガンツァと呼ばれた)とがあるが、その違いは実際に船に乗って海上交易を行う人物、すなわち業務の執行者(以下の例では行為者)が海上交易資金を出資しているか、していないかにある。ソキエタスにあっては、投資家が行為者となる場合もあった。それ以外のソキエタスとコンメンダにおいては船長や共同代理人が行為者を引受けた。
 盛期ジェノヴァのソキエタスとコンメンダの出資比率と利益配分率は、以下の通りであった。いずれの場合も損失時のマイナス配分は資本比率に従う(亀長前同、p.24)。

ソキエタス
コンメンダ
投資家 行為者 投資家 行為者
資本比率 3分の2 3分の1
1
0
利益配分
2分の1 2分の1 4分の3 4分の1

 これら共同出資の形態は、ジェノヴァにおいては、12世紀最後の4半世紀、ソキエタスからコンメンダへ移行したとされる。この移行について、亀長洋子氏は「12世紀中葉には海外投資事業は主導的な商人の『家』に独占され、彼らの間で堅固な共同会社が形成されていたが、12世紀最後の4半世紀になるとこうした独占状態が崩壊し、事業参加者の多様性が見られる」ようになったからだとしている(亀長前同、p.19)。
 しかし、コンメンダの数は中世後期になると減少したとされ、15世紀初めのロメッリーニ一家のその数は21文書にとどまる。しかも、息子達もしくは孫達同士が共同で投資を行っているケースが多く、彼らの結合の強さが窺われる。他方、コンメンダの行為者は直系からかなり離れたところに位置する、他系統の人物がしばしば現れるという。
 そこで、「これらコンメンダは、『家』内の資産家と『家』内の他系統の資産家の子息の間で結ばれた提携となっている。この契約形態においては、『家』構成員という枠組みが持つ信用性がこの時代にも有効であったとも考えられ、兄弟達の共同投資を軸に『家』内の他系統の有力者の子息を行為者に用い、兄弟間の強固な結合と前時代の名残である『家』のゆるやかな結合の併存という構図が明らかになった」とする(亀長前同、p.181-3)。
 15世紀初めのロメッリーニ一家のコンメンダの数の少なさを、そのまま受け取っていえば、ジェノヴァの有力な家門はすでにみたように様々な商業契約においては相互に依存しあっているが、こと事業の根幹に関わるコンメンダについて個人主義的であって、他家との結合はみられないということになる。また、後述の商品売買請負に比べても、その一家の結合は強い。
 それに対して、ジャン・ファヴィエ氏によれば、ヴェネツィアのコレガンツァは「14世紀以降、かれらの個人企業指向―経済活動の組織に対する共和国政府の恒常的な介入によってさらに増長された―、ならびにあらゆる実業の集中化に対する不信感というものをよく証明している。各人はその資本を分散し、できるだけ多くのパートナーと契約を結ぶ」ことになった。「こうしてヴュネーツィアは星雲のごとき無数の契約取引の場となる。そこでは港に残る商人が、自分の融資した旅行
の数を数えている。あるいはロンドンないしアレクサンドリアに到達する商人が、自分の船倉に抱え込んでいるまったく別の事業に関し、それと同じ数だけの出資者を数えている」(同著、内田日出海訳『金と香辛料―中世における実業家の誕生』、p.237、春秋社、1997)。
 具体的な例をみると、1276年に死んだヴェネツィアのドージェ=ラニエリ・ゼン(在位1253-68)の遺産は、不動産10000リーレ、現金3388リーレ、貴金属3868リーレ、種々の債券2264リーレ、国債6500リーレ、コレガンツァ22935リーレ、合計46496リーレであった。その中身が何かの問題は残るが、コレガンツァの件数は132件、その平均額174リーレであり、その額は遺産の約50パーセントにも及んでいる。なお、1リラは240グロッソ銀貨、10ドゥカートに相当した(塩野前同、p.167)。
ユダヤ人貸金業者
1270年頃のフランスの挿絵
▼船主船長や同乗する商人に商品売買の委託▼
 中世イタリア交易都市にあっては、すでにみた1272年のラグーサ海法の例のように、定住商人が寄港地に支店や代理人を配置していない場合、自らの商品を積むことになる船に同乗する商人や(船主)船長に、商品の売買を委託することとなる。その商品売買委託は定型の形式を持った文書を用いて契約されていたとされる。それは海上交易への参加者に広がりが起きていたことを示そう。
 その文面は、「初めに商品売買を請け負う側が、商品売買を委託する側から商品を受け取ることを承認する。このさい、商品の内容については、具体的には述べられることはなく、’tantum quantitatem suarum rerum et mercium’【貨物や商品の数量】などと書かれるのみである。次いで、請け負った側は4ケ月後、6ケ月後、時には11ケ月後など、数ケ月後定められた金額を支払うことを約束する。
 その記述に続けて書かれるのが、航海に関する内容である。商品の積載地、着荷地に加え、時には寄港地も記載される。それぞれの地点において、誰(もしくはその代理人)を通して積載、荷下ろしがなされるかが記載されることもある。彼らは代理人の中でも、高い地位にある人物と考えられる。
 ここには利用する船の船長の名もしばしば記載される。そののち、目的地に到着し荷が下ろされた後、この契約文書が廃棄されること、危険が発生したときの対処が定型の書式によってなされ、文書の本文が終了する」となっている(亀長前同、p.174)。
 ロメッリーニ一家の商品売買請負契約の数は35文書と少ない。そのうち、ロメッリーニ「家」の人物が同時に登場する文書は、わずか1文書にすぎない。それ以外に、彼らと委託請負関係を結んでいるのは、他家である。ここでは、「家」が優先される関係ではなく、この事業はジェノヴァ人達の間で特定の継続した顧客をもちつつ進展したとされる(亀長前同、p.175)。
 これら文書に載っている積載地や寄港地、着荷地にいる人物達の多くは、ジェノヴァ人もしくはジェノヴァ系の姓を持つ人々であった。そのなかでも、タリーゴ家の人物が17回も登場している。このタリーゴ家は有力家門でない。
 商品売買請負において、ロメッリーニ一家は「家」全体として強い人的結合を示してないが、特定の他家や姻族と継続的な関係を結び、また積載地などでは特定の地域を広域的に担当する、他家人物や姻族のジェノヴァ人を用い、時には彼らと共に双方の兄弟ぐるみで事業を行っていたとみられている(亀長前同、p.180-1による)。したがって、この商品売買請負においては、コンメンダとは違って個人主義的な特徴が認められず、それが開かれた業務になっているかにみえる。▼ジェノヴァの船舶共有制と、船長の継続指名▼
 C・アーネスト・フェイル氏は、中世イタリアにおける船舶の所有について、その船をある個人が単独で全部所有する例はほとんどなくなり、船主業は「主として組合形式で営まれ、大多数の船舶は持分制の下に所有された。この場合、組合員のうちの或る者が管理船主となり、他の組合員の全部または一部が船員となってしばしば乗船した。15世紀頃までは、船舶は大抵24個の持分に分たれていた。もちろん、1人の組合員が持分の2乃至それ以上をもつことは可能であった」という(フェイル前同、p.58-9)。
 船の持分所有者の出自は解明されていないが、まずはその船に貨物を積む商人であったであろうし、ついで様々な海上や陸上交易に参画してきた商人や船主であろう。その点ではなお海上交易と海上輸送とは完全に分離したとはいいがたい。それ以外では貴族、その他資産家であろう。そして、名義上は24分の1が1単位となっているが、それがさらに6分割されていたとされるので、小金を貯めている市民も小口持分所有者になりえたことであろう。
 すでにみたロメッリーニ家の史料には、船舶共有制の具体例が示される。ジェノヴァには、ガレー船はほとんどなく帆船が商船の中心であって、その保有や建造は有力な家門など私的な集団に委ねられていたとされてきた。なお、中世後期のジェノヴァでは、大型船の保有権は24に等分され、個々の持ち分はカラット(複数形carati)という単位で表されたという。
 ロメッリーニ一家の公証人文書において、持ち分のわかる文書は17文書にとどまる。また、24の持ち分保有者のすべてが判明する文書はみられない。そのなかで、ロメッリーニ一家だけで共有している例はないが、彼らが同じ船の持ち分保有者として現れる例は多く、一家が中心となって船を保有されている文書となっている。彼ら以外の持ち分保有者は、その全員がジェノヴァの有力な家の出身者であり、その持ち分は約半分前後である(以上、亀長前同、p.189-196による)。
 筆者が、亀長洋子氏が掲げる表を再集計したところ、ロメッリーニ一家のある人物の1人当たり持ち分数が5、6、10カラット、さらに彼ら一家が同じ船に保有する総持ち分数が5、6、7、9カラットとなっている例がみられる。それらのことは、ロメッリーニ一家が17文書うち7文書において、主要なあるいは筆頭の持ち分保有者となっていることを示す。したがって、ジェノヴァの船舶共有制はコンメンダのように一家の枠組みは貫かれてはおらず、一家の人々と有力な家の出身者とのゆるやかな結合となっている。
 亀長洋子氏によれば、ジェノヴァの公証人文書では、船舶はその船名ではなく、その時点における船長の名によって特定されるのが一般的である。それは、船長は船を指揮する役職であって、船の保有者を意味するのではなく、同じ船でも航海ごとに変わりうるからであるという。
 ロメッリーニ一家が契約当事者として現れている文書のなかに散見される船長名は延べ71回である。そのなかに、ロメッリーニ家出身の船長は3人にとどまり、一家の結合を感じさせない。したがって、船長は他家の者となるが、有力な「家」出身者の比率は低い。これは、船長という職の地位の低さを示す。また、他家出身の船長との継続的関係については、概して1回限りのつきあいの船長が多いが、複数の時期にわたり船長を務めている人物もいるという。
 そこで注目に値するのはナトーノ家の船長である。その家はリヴィエラ海岸にあるサヴォーナにあり、その3人の船長の誰かがロメッリーニ一家に関わりのある船の船長を務めている。ロメッリーニ一家は船長職を「家」の職業としているナトーノ家を重用しており、ナトーノ家以外には特定の船長を継続的に利用することは少ないという(以上、亀長前同、p.197-200による)。
 筆者が、亀長洋子氏が掲げる表を再集計したところ、船長名は実数50人、延べ71回となり、そのうち同一人が複数回指名されている船長を取り出すと、5回が1人、4回が1人、3回が4人、2回が6人である。それらの合計は12人33回である。したがって、1回限りの船長は38人にとどまる。なお、ナトーノ家の船長は延べ11回と多い。このように、かなり多くの船長が継続指名されており、利用する船のほぼ半数に及んでいる。
 この時代、船長が伝統的に船の部分保有者である場合が多かった。それにもかかわらず、亀長洋子氏は船長がどの程度船の部分保有者となっていたかを確認しないまま、船長はその船の保有者ではなく、航海ごとに変わりうるとしている。
 それと同時に、船は船長の名によって特定されるという。これは、当時の帆船による輸送が船長の技量に大きく依存するとき、もっともな「なぞらえ」である。しかし、そのことをもって船長がその船の保有者でないとか、それを受けて船長の地位が低いことを示したことにはならない。むしろ、逆に、船長がその船の保有者であることが海上輸送の担保となっており、その一体性において船が船長の名によって特定されていたといえる。
 当時、一部の船長が単なる専門職として船の保有者に雇われるようになっていたが、なお多くの船長は伝統的に船の部分保有者である場合が多かった。それと同時に、ナトーノ家にみるように自立した船主業も生まれていた。そうした船主業を家業とする船主船長や、船の部分保有者である船長が、ロメッリーニ一家によって継続指名されたといえる。
 最後に、こうした分析から総じて、15世紀初めという中世後期という時点で、ジェノヴァの有力家門であるロメッリーニ一家は海上輸送に当たって、@ロメッリーニ一家の持ち分保有船、Aナトーノ家の船など常時指名している継続用船、そしてBその都度、利用することを決める随時用船という、船腹の確保と費用の負担の観点からみて合理的な構成でもって、船を利用したかのようにみえる。
▼運賃・用船料の決まり方、共同海損という新原則▼
 商人船主にあっては、自らの船に自らの貨物をまずもって積むこととなるが、満載できずに余積(空荷)のスペースが生じたり、ときには自らの貨物がまったくない場合、自らの船の全部または一部を他の商人の利用に委ねようとする。その場合、他の商人(現代でいえば荷主)が運賃あるいは用船料を商人船主(現代でいえば単なる船主)に支払い、商人船主は他の商人に海運サービスを提供するという、現代にみるような海上輸送の形態が起きることとなる。
 すなわち、荷主は船主に、自らの貨物が小口であれば個別の運賃を支払って、またそれが大口であれば用船料(傭船料も同じ)を支払って、船艙の一部あるいはその全部を用船し、貨物を積み込み、海上輸送を委託することとなる。それらはいずれも運賃積輸送であるが、船舶の利用の仕方が違うため、その対価の用語が異なる。後者は用船料と呼ばれるが、その意味合いは貨物スペースに対する運賃といえる。なお、用船者はその用船したスペースを転売して、運賃あるいは用船料を受け取ることができた。
 中世盛期、海上交易と海上輸送との担い手が分離してくると、現代にみるような海上輸送の形態が広がることとなる。商人船主の場合、運送費は内部振替価格として全体の経費のなかに
15世紀、嵐にまかれる
商人の船
埋もれるが、運賃あるいは用船料は商人と船主にとって市場競争のターゲットであり、それらの水準はそれぞれの利益を左右する価格となった。
 中世地中海にあっては、運賃、さらに用船料はどのように決められていたか。C・アーネスト・フェイル氏によれば、「当時は公正な運賃を定めることが甚だむつかしかったが、これは中世の船舶積量の定めかたが不確かであったことに基因した」。船舶の積載能力は常に重量単位で表わされたが、同一重量の貨物であっても、貨物が異なると積付に必要となる容積はそれぞれ異なった。
 「こうした困難に対処するために、2つの方法が採用された。荷がさに比べて価格の高い商品にはしばしばその価格の何パーセントとして運賃が課されたが、その他の商品には入念な等価換算表が作製された」という。
 「船舶の積載能力は当該船舶所属の母港から輸出される主要商品のトン数(または、これに相当する中世の地方的な単位)をもって計量され、これにもとづいてトン当り運賃が定められた。主要輸出品以外の商品は、それが占める場所の概算面積にもとづいて相当の運賃が定められた」。
 「例えば、チュニスの港ジェルバ(島)では皮革の単位カンタロ〔cantaro〕を基準として、運賃が計算された。そこで、同港の他の輸出品たる明礬は、同じ重量の皮革に比べて、半分の船艙スペースを占めるにすぎないため、明礬については2カンタリア〔cantaria〕が計算運賃上1カンタロとして計算される。これに反して、皮革よりも軽量の砂糖の場合には、その1カンタロの船艙スペースに対して2カンタリア分の運賃を支払うという具合であった。
 この種の等価換算表は、貿易慣習の手引として、また計算の手数を省くために、しばしば地方の法律のなかにも包含記入された。けれども、船主および傭船者は特別の約定によって、これを無視しても差支えなかった」と述べている(以上、フェイル前同、p.71-2)。
 このように、運賃はその船が就航する港において積み下される主要な貨物(それは、いまや生活必需品や原材料などの嵩高あるいは重量のある貨物)を満載するとき、船主にとって採算のとれる水準を基準として決められた。したがって、その船の用船料は主要な貨物を満載した場合の総額運賃を基準として決められている。後述のように、中世地中海の海上運賃の決まり方は重量体系から従価体系に変化したとされるが、そうではなく早い時期から、高価格軽量商品は従価体系、それ以外の商品はいまみた論理で決まる重量体系でもって、運賃が決められていた。
 大口貨物を輸送する場合、船腹を全部または一部を用船する商人(用船者)と船主とのあいだで、ほぼ必ず用船契約書が取り交わされた。また、一人の商人が用船者となる場合もあったが、商人の共同出資体あるいは組合も用船者となった。そればかりでなく、船を傭い入れ、それに貨物を積込むことを目的として結成された組合が、用船者になる場合もあった。
 中世地中海における用船のもっとも一般的な形態は、往復での航海用船〔voyage or trip chartering〕であった。それは、「商人たちが、自分の商品を携行して、これを外国の港で売り、その売上代金をもって返り荷を購入する仕方を、最も普通に採っていたからである」。それ以外に、「期間傭船〔time chartering〕もまたかなり一般化していた。これら形式においては、1隻の全船腹[全船艙]を必要としない商人であっても、あたかも現今の定期船によって行なわれるように、特定量の商品を積みこむに要するだけのスペースを入手することが可能であった」(フェイル前同、p.59)。
 具体的な事例は後掲するが、当時の用船契約書には滞船料・空積運賃・船主免責条項などの規定が設られるようになった。そのなかでも、船主責任は「一般的に言って、船主は怠慢(まいはだの充填不充分にもとずく漏損のごとき)によって生じた被害に対してはすべてその責を負うとされたが、不可抗力(暴風雨のごとき)にもとづく災害に対しては責を免れた。こうした規定は、なお部分的かつ不確定的な嫌いがあったけれども、明らかにビザンチン時代に生まれた」であった。
 さらに、中世の法律・慣習となる新しい原則が生まれる。それは船舶および貨物の全損ではなく、それらの分損、そのなかでも船主負担となる単独海損では処理しえない、非常海損あるいは大海損と呼ばれる海上危険(沈没、座礁、火災、衝突)、投荷、海賊、拿捕、抑留などにともなう損害とその費用負担に関してであった。
 「ローマ法のもとでは、冒険企業に関与した当事者全体の分担拠出金によって償なわるべき唯一の海上損害は、共同の安全のために自由意思によってなされた犠牲―投荷のごとき―にのみ限られていた。しかるに、共同海損という新原則によれば、何人の過失または怠慢にも帰せしめられ得ない船舶または貨物の損失は、当該冒険企業に有する各自の財産の額に応じて、船舶所有者および貨物所有者が拠出する分担金によって償なわるべきものとされた」のである(以上、フェイル前同、p.70)。
 共同海損という新原則の採用は、船舶と貨物の所有者が分離しているもとで、海上損害における船主の責任が免れる海上損害の範囲が縮小され、他方で船主免責とならない海上損害について船舶と貨物の所有者とが損害費用を共同で分担することとなった。
▼海上貸借から海上保険への転換▼
 14世紀、イタリアにおいて育まれた海上保険は、周知のように、広く「保険」として発展する。海上保険は古代からの海上貸借を換骨奪胎したものとされてきた。海上貸借は、11-12世紀までなお盛んであったが、それ以後、次第に衰退する。しかし、海上貸借が海上保険に、どのように転換したか、その転換と共同出資組合や船舶共有制とが、どのように連関したのか、などについてはつまびらかにされていない。
 諸田實氏は、「海上貸付は、保険者と被保険者の間の保険料支払と保険金還付の関係を萌芽的に含んでいた。初期には、貸主は船が遭難した場合に危険(損失)を負担して(出資金の払戻しを請求しない)、航海が成功した場合には危険負担に対する保険料を含む高い利子を[出資金とともに]受けとっていた。[後者の]事故(=損害)のない場合に保険金が支払われたわけである。ここから出発して、やがて、出航前に供与される貸付から切り離されて、航海の終了後に、しかも事故(=損害)が生じた場合に限って保険金を支払うようになったとき、おそらく14世紀後半に海上貸付の殻を脱して保険の観念が確立したのであろう」と説明する(石坂昭雄他著『商業史』、p.63、有斐閣双書、1980)。
 この説明は、保険学の解説をなぞって、海上貸借においては出資金が念頭にあるが、海上保険においてはそれが失念され、前者では保険金相当額が前貸しされ、保険料相当額が後払いされるが、後者では順序が逆転して、保険料が前払いされ、保険金が後払いになるといっているにすぎない。そこには商業史的視点が脱落している。
 中世イタリアにおいて海上保険が誕生するには、交易都市によって、リスク回避と負担の仕方に違いがあったようである。まず、ヴェネツィアにあっては「四方八方に、国有船舶を護衛するための武装船団を組織していたので、金融上の保険の技術を考える者など誰一人いない。それよりも、商人が目前の危難についての認識の度合に従って、費用のかかる国家の輸送船団をとるか、それともさほど高くはないが安全度の落ちる民間の船をとるか」という選択の問題であった。
 それに対して、ジェノヴァやフィレンツェにあっては「近代的な保険というものが誕生するのは、まさに個人主義と投機とが結合され」、「商業および銀行業のあらゆる手順を次々に学んでいく試行錯誤の過程で……事実上の保険というものがつくりあげられていく」。その場合でも、ジェノヴァとフィレンツェとでは道筋が異なる。
 海上貸借は、ハイリスク・ハイリターンの融資であるとともに、ハイリスクも貸し手がもっはら負担するという、特殊な金銭(消費)貸借であった。1230年頃、ローマ教皇グレゴリウス9世(在位1227-41)の暴利(徴利)禁止令が発布されたことによって、海上貸借が直ちに姿を消したわけではないが、その効果が次第に浸透して衰退する。
 それに代わって、ジェノヴァ人では形式上の売買あるいは消費貸借という契約形態に、その姿を変えたとされる。その例として、既出のベネデット・ザッカリーアが1298年に行った明礬の売買例が持ち出される(ファヴィエ前同、p.383-4)。その形態は今日の保険とほとんど異ならないとされる。その説明は長くなるが次の通りである。
 「この契約形態では、売り手(海上貸借の借り手……商人)が買い手(海上貸借の貸し手……金銭を貸し付ける者)に、形式上一定の財貨を売却したことにする。そして、航海が成功すれば契約は解除するが、航海が失敗した場合には解除しない。解除がなされなければ、この売買契約は有効に存在するから、買い手は代金を支払わなければならないわけで、この代金が実質的には保険金と同じことになる」。
 そして、今日の保険者といえる売買の買い手は「何の報酬もなく、このような取引を行ったかのようであるが、実際には手数料といった名目で一定金額の金銭の授受が契約に際して行われたとされており、この金銭が保険料に相当している」(以上、近見正彦他著『新・保険学』、p.18-9、有斐閣アルマ、2006)。
▼近代保険に限りなく近いフィレンツェ式保険▼
 フィレンツェでは商業金融とは根本的に区別されたやり方で解決する。それは、「まったくもって近代的な保険、掛金式の保険である……すでに1320年から、商人または銀行家がその事業に着手する前に……[上でみた売買価格の]差額に相当する掛金を払い込む[事業が行われていたことが]が確認されている。掛金、それは自分に代わってリスクを引き受ける人への報酬にほかならない。そこには借用の意味はまったくない。純然たる安全装置なのである」というものであった。
 それはフィレンツェ式保険と呼ばれ、保険金に対する掛金は小型船を用いた小規模の取引は高く、戦時であるか平和時であるか、冬か夏か、また市況によって大きく違った。1460年のある船の例では、それが1年間の掛金であったため、36パーセントと大きかった。しかし、おおむねは西地中海の1回の横断の場合3-4パーセント、ジェノヴァからマルセイユまでは5パーセント、イングランドまでが5-7パーセント、そしてフランドル地方までが10パーセントであった(以上、ファヴィエ前同、p.385-7)。
 これらの説明では、海上貸借が持っていた融資やハイリターンという機能が、どうなったのかについてはふれていない。海上貸借から海上保険への転換は、こうした契約や保険の論理だけではなく、海上貸借の貸し手と借り手のそれぞれと、それら相互の立場や環境に変化があったからである。
 海上交易は遍歴商業としての商人船主によって担われてきたが、13-14世紀造船・航海術の革新、14世紀の南北ヨーロッパ交易圏の結合を経由して、いまやそれも定住商業となり、海上交易は商人が、海上輸送は船主が、それぞれが担うようになる。それらに対応して、海上交易について共同出資組合、海上輸送について船舶共有制という、別々の投資と事業の仕組みが生まれることとなった。
 従来の海上貸借に比べれば、融資先が共同出資組合と船舶共有制に分かれたこと、そしてそれら事業への参入が容易になったことで、1人あるいは1件当たりの融資額はかなり少額になった。この個別出資金の少額・分散化は、出資者にとってより一層の危険分散となった。しかも、海上交易や海上輸送が安全、確実になるにつれて、それらからえられる利益もこれまた確実になるが、その額と率は低下していった。
 その結果、共同出資組合と船舶共有制のもとで、投資家は貨物や船舶の部分所有者へと移行した。それにより、彼らは海上貸借のようなハイリターンは望めなくなったが、ハイリスクはいまだ避けられなかった。そこで、貨物や船舶の部分所有者となった投資家は、出資額に応じた報償(保険料)を出すことによって危険負担を引き受け、海上損害が起きた場合その損害を補填してくれる(保険金を出してくれる)事業を求めるようになった。それが海上保険という事業である。
 ジェノヴァでは、仮装の消費貸借という変則的な契約形態での保険が行われていたが、1369年ドージェ=ガブリエレ・アドルノ(1320?-83)が条例をもって、それが保険としての有効性を認めるにいたる。ただ、最も古い真正の保険はピサに残る1379年4月13日付け海上保険証券とされる。フィレンツェでは1380年代、ジェノヴァでは1390年代に真正の保険が行われ、マルセーユやバルセロナ(14世紀末10件の文書)、北西ヨーロッパに伝播する(近見前同、p.20)。それより早い実例は後述される。
▼羊毛・毛織物交易における輸送経費▼
 斉藤寛海氏は、同著『中世後期イタリアの商業と都市』(p.39-69、知泉書館、2002)において、中世、輸送経費の高さが原料や食料といった低価格商品の流通を阻害したとする、ヴェルナー・ゾンバルト(1863-1941)らの見解には史料の誤読があり、輸送経費が水増しされていると批判する。その批判のために用いた史料には、個別の海上や陸上の運賃などが示されている。
(1) ダ・ウッツァーノ『商務実務』によれば、15世紀前半、コッツオルド産の羊毛24ポッカ(荷、1ポッカ=210ロンドン・ポンド、1ポント=454グラム゙)が1050-1066フィオリーノ(フィレンツェ金貨)で買い付けられ、ロンドンにおいてピサ経由のフィレンツェ向けに船積みされる。ロンドンからフィレンツェまでの海上輸送経費(陸路を含む)は、1ポッカ当たり16.361フィオリーノ(計算ミスがあり、正確には17.912フィオリーノ)、総額392.664フィオリーノであると分析している。したがって、それは1ポッカの羊毛価格の37.1に相当する。
 この海上輸送経費の構成は、ロンドンからピサまでの海上運賃15.3パーセント、海上保険料(通常は船荷価格の12-15パーセントであるとされていながら、何と)36.5パーセント、ピサの港湾諸費6.8パーセント、ピサからフィレンツェまでの陸上輸送費9.9パーセント、税金31.6パーセントとなっている。海上運賃は、1ポッカ当たり海上保険料の5.966フィオリーノの2分の1以下の、2.5フィオリーノとなっている。
(2) ベンチヴェンニ商社ヴェネツィア支店の1336-39年の元帳のなかに、8件の輸送経費の記録があり、そのうち3件が海上輸送である。ブリュージュからヴェネツィアまで、羊
1332-48年のフィオリーノ 金貨
毛280ポッカを輸送経費は約150リブラ(ヴェネツィア銀貨、この1リブラは0.863フィオリーノに相当)で、羊毛価格の26.4に相当した。そのうち、用船・荷車経費は約143リブラであり、海上保険料はただの約4リブラにとどまった。その1ポッカ当たり用船・荷車経費は約0.51リブラである。
 他の2例は、マリョルカからヴェネツィアまでのマリョルカ産羊毛の海上輸送であり(ブリュージュ発に比べ、約2分の1の距離)、それらの輸送経費は羊毛価格に対して16.4、14.4に相当している。そのうち、用船・荷車経費、海上保険料は7.9、3.5、そして6.4、3.0の組み合わせとなっている。また、1ポッカ当たりの用船・荷車経費は0.11リブラ、0.05リブラである。
 これら3つの海上輸送にともなう用船・荷車経費は、いずれも、次にみる陸上輸送による荷車経費よりかなり低率である。
 残る5件は、ブリュージュからミラノまでのイギリス産羊毛の陸上輸送の事例であるが、それらの1ポッカ当たりの荷車経費は0.71リブラ、0.75リブラ、0.69リブラ、0.70リブラ、0.70リブラとなっており、また1ポッカ当たりの羊毛価格に対する輸送経費は、羊毛価格が低価の場合の39.2をのぞき、中高価の場合24.2-26.8に相当する範囲におさまっている。
(3) フィレンツェのデル・ベーネ商社の1318-21年の元帳には、フランス産毛織物がパリ―アヴィニヨン―ニース―海路―ピサ―フィレンツェといった経路で、バルディ商社などによって輸送された記録が残されている。海上運賃を含むすべての輸送経費は、毛織物価格に対してその価格に反比例して11.7-20.3となっている。また、保険は輸送量の多い場合にかけられ、羊毛価格に対して4.7、8.1となっている。
 斉藤寛海氏の目的はゾンバルトらの見解を反駁することにある。したがって、海上運賃や海上保険料の水準、それと陸上運賃との対比などには、当然のように関心がない。
 陸上運賃は信頼のおける水準にあるが、それにくらべ海上運賃は輸送距離の違いをはじめ、船舶や貨物の需給、季節や政情によって大きく変動するとしても、そのばらつきは激しすぎる。また、海上保険料が海上運賃を上回るとは考えられない。それは、(1)におけるその極端な高さはさておき、商品価格に対して3-5パーセントが一般的となっていたとみられる。
 それはともかく、この論文から、14世紀前半における羊毛や毛織物の海上輸送とその価格の状況を、それなりに示してくれている。当面する商品価格に占める海上輸送経費(さしあたって、海上運賃と海上保険料)は20-30パーセントの範囲に収まっていたかのようにみえる。この水準は、中世、海上輸送が相当程度に発達していたことの証拠といえよう。 また、羊毛や毛織物の価格が低いほど、海上輸送が志向されたことも明らかであろう。
 しかし、輸送経費の高さが原料や食料といった低価格商品の流通を阻害したどうかについて、商品価格をはるかに上回るような高額な輸送経費はありえないことを論証しえたとしても、当時、低価格とはいえない商品であって、運賃負担力が十分にあるとみられる羊毛や毛織物の輸送経費の分析だけをもって、所期の目的を論証しえたとはいえるかどうかは疑問である。
▼輸送料金における従価体系の成立?!▼
 斉藤寛海氏は、14世紀前半、大型船が出現したことに続いて、海上輸送料金の水準とその体系が変化したとする。
 「13世紀末まで、輸送料金は一般に高かったのみならず、弾力性に乏しかった。すなわち、商品価格と輸送料金との関係についていえば、商品価格の大小とは関係なく、換言すれば高価軽量商品であるか低価重量商品であるかには関係なく、同一重量あたりの輸送料金には大差がなかった」という(斉藤前同、p.137)。
 この説明はかなり断定的であるが、海外研究者が作成した14世紀前半と14世紀末-15世紀初め(それらを前期、後期とする)における地中海から北海への個別商品の輸送費の表から、次のことが確認できるとする(一部省略)。ここにいう輸送費は、販売価格に占めることとなった費用ではなく、運賃・用船料である。
@同一商品の輸送料金は、一般に、前期に比べて後期には絶対的に低下した。
A前期……同一重量の商品の輸送料金をみれば、高価商品の輸送料金と低価商品の輸送料金とでは格差があるが、この格差は後期と比べればまだはるかに小さい。
B後期をみると……底荷に近い輸送料金の商品が多くなり、底荷とそれ以外の商品との境界が必ずしも判然としない。他方……高価軽量商品には輸送料金のきわめて高いものがあり、輸送料金は商品ごとの格差が前期に比べて拡大した。
Cしたがって、低価重量商品の輸送料金は、前期には商品価格に対してその負担が重かったが、後期にはその負担がはるかに軽くなった。
D結局、14世紀の過程で、輸送料金は絶対的に低下したのみならず、低価重量商品の輸送料金が相対的に低下し……商品の重量により比例する料金体系から、商品の価格により比例する料金体系に、換言すれば「より従量的な体系」から「より従価的な体系」に移行した(斉藤前同、p.138-9)。
 そして、そうした従価的な輸送料金体系が成立した根拠について、次のような海外研究者の説明を紹介する。
 中世盛期、定住商業が発展するにしたがい、商人は「1隻の船腹の大部分ないし全部を……雇用するになる。このような方法で商品を輸送させると、運賃をはじめとする輸送経費は1つ1つの商品にではなく、多様な商品よりなる積荷全体にかかることになる」。
 その上で、商人は「積荷全体のもたらす利潤が最大になるように工夫して、商人はそれぞれの商品に輸送経費の負担を配分する。その結果、輸送経費は個々の商品の重量に比例するものから次第に乖離し、以前に比べると、相対的に個々の商品の価格に比例するものになる」とする。さらに、「この体系が普及すると、海運業者の側でもそれを採用するにいたる」とされる(以上、斉藤前同、p.139-40)。
 ここでは、まず商人が船主に支払ったのは船腹の大部分ないしは全部に対する用船料であるが、その用船料がどのような水準(額)となっていたかが、見落とされている。さらに、どういった低価重量商品が積まれるかはともかくとして、用船料を単純に商品価格に比例して振り分けることで、運賃が決められている。さらに、用船者が自己完結的に決めた運賃体系を、海運業者(それはさしあたって船主)が取り入れる、といった荒唐無稽な説明の受け売りとなっている。
 古代から中世まで、海上交易は主として商人船主によって担われ、船腹の全部ないし大部分を所有・運営しており、そのもとでどのように運賃や用船料が決定されてきたかは、すでにみた通りである。中世盛期になって、はじめて商人が船腹の大部分ないしは全部を用船するようになったわけでも、そのことから運賃が一様に従価体系になったわけでもない。また、用船者である商人の事情だけで、運賃や用船料が決定されるわけでもない。
 確かに、14世紀後半から、低価重量商品の輸送需要が高まり、それをめぐる海運取引の競争が起きるなかで、低価重量商品の運賃や用船料についても従来からの重量体系を前提としながら、それぞれの運賃負担力に応じた従価体系になったであろう。
▼1263年に作製されたある用船契約書▼
 ポルト・ピサーノ(ピサの外港)とブジー(現アルジェリアのベジャイア)との海上輸送に当たって、1263年に作製された1つの用船契約書は、13世紀の地中海における荷主(用船者)と船主との関係、そして港での荷役のありよう、またその費用の負担、種々の遵守事項など、非常にきめ細かく示してくれている。
 それは、3人の船主(この3人はさらに多数の仲間の代理人であったとされる)と、自らのためとそれ以外の商人のために、本船を用船することとなった4人の用船者とのあいだに取り結ばれたものである。それぞれの用船者が積み込む貨物は運賃建てで清算されている。なお、余積の場合の扱いは不明であるが、用船料を支払っているかのようである。

1263年に作製されたある用船契約書
 船主は、本船が良好な状態にあり、かつ、指定どおりの索具および艤装をなし、36名の有能な海員(船長ならびに書記もしくは貨物上乗人をふくむ)[日本の船員法で、海員とは船長を除く乗組員をさすが、この訳文では船員と海員との区別は特にない]と6名の召使いとを、本船に配乗せしめることを約定する。なお、船長および船員は適当に武装しているものとする。
 船主は貨物をピサから本船まで運びこむために、自己の費用負担において艀を用意する。契約の日から10日以内に貨物を船積みして、ポルト・ピサーノを出港するものとする。出港に先立ち、船主は自己の組合員・船長・船員および荷役業者をして、契約事項のすべてを遵守すべき誓約をなさしめるものとする。
 貨物は慣行どおりの運賃でもって運送さるべきものとする。傭船者およびその組合仲間と彼等の個人的動産の運送に対しては運賃を課さざるものとする。
 ブジーに到着のうえは、船主は貨物の陸揚げを行ない、これを書類に署名した商人に引渡すものとする。
 船主は、ブジー到着後10日以内に復航貨物の積込を開始し、かつ、1ケ月以内に指定数量の船積を完了するものとする。各商人毎に積込むべき数量は予め約定される。復航貨物の本船への搬入についての費用は商人の負担とするが、船主はこれを適切に搬入積付するものとする。
 契約当事者双方により選出された検量人は、船主の費用負担において貨物の検量にあたるものとし、かつ、その重量は書記によって本船備付の帳簿に記入さるべきものとする。
 第3甲板および船尾楼は、商人および彼等の個人的動産の使用に解放さるべきものとする。
 復航貨物に対する運賃は、カンタリウム[contarium〕あたり所定の賃率にしたがって定められる。羊毛または羊皮が積付に際して一定量以上に圧縮される場合には、その割合だけ運賃の減額を行なうものとする。ポルト・ピサーノにおいて正式に引渡される商品以外、運賃は請求されない。
 なお、ポルト・ピサーノにおける復航貨物の引渡は、船主の費用負担においてなさるべきものとする。船主は、陸揚げ完了のときまで船長および船員の4分の3を、本船内にとどまらせ勤務に就かせるものとする。
 航海はポルト・ピサーノとブジーとの間を、往復航とも、直航するものとする。船主は、傭船者およびその組合仲間のほか[からは]、何人からも貨物の運送を引受けざるものとする。ただし、傭船者およびその組合仲間が本船を満船にするに足る量の貨物を積み込まざるときは、この限りでない。
 船主は、往航または復航途中に生じた索具の喪失または損傷について、補償の請求をなさざるものとする。なお、船員が行方不明になりたる場合には、船主は本人をとり戻すよう努むること。ただし、この場合海損は成立しないものとする。
 運賃はポルト・ピサーノにおける復航貨物の引渡後8日以内に、通貨または金・銀をもって支払われるものとする。もし、貨物が運賃の支払以前に現実に引渡される場合には、[傭船者およびその組合仲間は船主に]銀行業者の保証状を必要とする[差し入れるものとする]。
 船主は、暴風雨または不可抗力によって妨げられる場合のほか、契約事項の全部を遵守することを誓約する。もし、怠慢によって損害を生じたる場合には、船主は損害額の2倍の制裁金を試せられる。傭船者の側に契約の不履行がある場合には、生じたる損害額の2倍に相当する額に、さらに運賃を加算したる額を支払うものとする
出所:フェイル著、佐々木誠治訳『世界海運業小史』、p.72-3、日本海運集会所、1957。

▼食糧危機のもとでの穀物輸送船の用船▼
 中世の地中海交易は、古代から引き継がれてきた奢侈品交易にとどまることなく、大量の原料や食糧を交易した。そのなかでも、後背地からの食糧供給だけでは不足となる、大規模に都市化した交易都市においては、その交易の一環として大量の食糧を輸入して、多数の市民を扶養しなければならなかった。
 特に、ヴェネツィアにあっては、穀物確保は国家の使命であった。輸入先は、はじめはアドリア海やイオニア海地方であったが、次第にエーゲ海北部や黒海地方に広がっていった。16世紀後半までに、海外依存が内陸依存を上回っていた。そのためもあって、しばしば食糧危機に見舞われる。
 ヴェネツィアは、1540年はじめ深刻な食糧危機におかれる。しかし、1538年プレヴェザ海戦直後のため、オスマン・トルコは敵国ヴェネツィアへの輸出を禁止していた。しかし友好関係にあるラグーザやフィレンツェには許可していた。
 そのようなとき、ヴェネツィアがどのような方法で穀物を確保したか、その際商人がどのような交易活動を行ったかについて、斉藤寛海氏が紹介している。ヴェネツィアは奥の手を使って穀物で入手しようとする。その1つの方法はフィレンツェ商人から購入することであった。その場合、ヴェネツィアへの販売を隠蔽した、密輸とならざるをえない。もう1つの方法は、小麦を満載しているラグーザ船を自国艦隊が拿捕して、積荷を没収すること、国家自らが公然と海賊になることであった。
1667年ラグーザの鳥瞰図
 1530・40年代、ヴェネツィアに居留して交易に従事していたフィレンツェ商人リオーニは、同じフィレンツェの大商人ダ・ソマイア一族の代理人でもあった。その一族は、イスタンブール駐在フランス大使の仲介で、スルタンからギリシア小麦の輸出許可を獲得する。そこで、彼らは一儲けしようと密輸計画を立てるが、以下のような顛末となる。
 リオーニは、ヴェネツィアをはじめアンコーナ、リヴォルノ、ラグーザ、マルセイユ、ナポリ、メッシーナといった各地の用船事情を調べ、小麦を積む船は容易に見つかりそうにないと、イスタンブールに駐在するダ・ソマイア一族の社員に書簡を送っている。
 それでも、リオーニはヴェネツィア船を2隻、それを含めダ・ソマイア一族は6隻の用船に成功する。そのヴェネツィアの2隻は、当時最大級の720トンと240トンという大型船であった。ヴェネツィア人船主ベルナルディは小麦用船が払底していること、トルコ艦隊と遭遇すれば拿捕されることから、高額の用船料金を要求していた。リオーニは、ラグーザ船に偽装するなど、あれこれと説得して、次のような用船契約書が取り交わされる。
 「用船料金は、積荷の小麦100スタイオ[6トン]あたり、基本料金が50ドゥカート、ダ・ソマイア側が海上保険掛金を負担しないかわりに支払う特別料金が5ドゥカート、計55ドゥカート。用船料金の支払いは、帰港後ただちに、積載してきた小麦を販売しておこなう。現地で船腹いっぱいに小麦を積み込めず、一部を空荷にしたまま帰港した場合、空荷の分に対しても用船料金を支払う。現地での停泊期間は30日以内」とされていた(斉藤前同、p.240)。
 さらに、ヴェネツィア船の「船長はラグーザ人、そのほかの乗組員の大部分はダルマツィア人、積荷監視人(1人)はフィレンツェ人からなり、乗組員のなかでは船長についで舵手と書記が重要な地位をしめていた」が、これら乗組員に対して次のような特約が付けられていた。小麦の価格は、ギリシアからの到着が早いか遅いかによって、大きく左右された。「リオーニは、4月末までに帰港すれば、大船の船長には50ドゥカート、ほかの主要な乗組員には合計300から400ドゥカートを、その職階に応じてあたえる約束をした」(斉藤前同、p.241)。
 そして、「この2隻が輸入する小麦の勘定における持分比率は、リオーニとベルナルディが合意して、ダ・ソマイア一族とベルナルディがそれぞれ10と1/2カラットずつ、リオーニが3カラットをもつことになっていた。しかし、この小麦の売却にかんするヴェネツィア当局との取り決めが最後の土壇場で否決されると、ベルナルディはこの合意を取り消し、あらためてダ・ソマイア一族とベルナルディが12カラットずつもつことにした」とされる(斉藤前同、p.242)。
 リオーニは、ヴェネツィア当局と小麦の先物取引について3か月間交渉し続けるが、なかなか成立しない。それにかかわらず船主ベルナルディの船は出帆する。そこへ、「ヴェネツィアのガレー艦隊が、合計で約3万5千スタイオ[2100トン]の小麦を積んだ4隻のラグーザ船をラグーザ沖で拿捕した、というニュースが飛び込んできた」。なお、没収した小麦の代金は支払われたという。
 これより、当面の食糧危機は解消され、リオーニの交渉も頓挫してしまう。しかし、船は帰港してくる。リオーニは用船料の支払いのため、自らの小麦を下がった市価で売らざるをえなくなる。
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